小樽商大、帯広畜産大、北見工大そして北海道教育大学?

小樽商大、帯広畜産大、北見工大が、経営統合し一つの大学法人になるという。しかも、他の北海道の単科大学のさらなる参加を歓迎するという。もちろん、北海道教育大学もその一つとして、統合された大学法人も考えているのであろう。もし、四つ目の大学として、北海道教育大学が参加すれば、経済系学部、畜産系学部、工学系学部、教育系学部そして現在はまだ学科である国際地域系学部の5学部を擁する北海道第二の大学が誕生するはずである。しかし、なぜか教育大学は、この新大学法人に参加しないようである。
  このような経営に関する事柄は、末端の教授には知らないうちに、進行している。おそらく、統合する三大学の教授も実感はないであろうし、またその議論過程に参加したのは、少数の上層部だけであろう。
  そして、本部は帯広に置くという。しかし、北海道の中心は、名実とも札幌市である。もし、北海道教育大学がこの統合に参加すれば、その本部は北海道教育大学の敷地におかれるはずである。この大学は、札幌市北区に広大な敷地を有している。なぜ、統合過程に参加しなかったのかは、末端教授にはわからない。
  しかし、文部科学省はこの統合を後押ししているのであろう。理由があるはずである。巨大な潮流が存在しているはずである。それくらいのことは、予見できる。偏狭な時代認識そして偏狭な過去へのこだわりが、巨大な損失を生むことは、歴史的事実である。第二次世界大戦に参加した日本は、どのような戦争目的を設定していたのか、不明である。イギリス本土やアメリカ本土をその植民地にしようとしていたことは、ありえないし、中国ですら、占領できなかった。なのに、満州で流した血を無駄にできるかという、偏狭なこだわりが、永久戦争への道を開いた。そして、敗戦を迎えた。


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討論 君主制

近代は平等を原理にしている。しかし、この原理から逸脱した君主制、あるいは王政、帝政は、残存している。この意味を考察する。討論参加者は、7月1日日曜日24時までに、コメント欄にその主張を張り付ける。


コメントは、7月2日以降に公開されます。それまでは、表示されません。安心して、コメントを張り付けてください。

締め切りました。

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討論 路面電車

路面電車ルネサンス、とりわけ宇都宮市の事例を考察する。
討論参加者は、7月1日日曜日24時までに、コメント欄にその主張を張り付ける。

コメントは、7月2日以降に公開されます。それまでは、表示されません。安心して、コメントを張り付けてください。

締め切りました。

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複雑怪奇なPC配線と人生ーー複雑な配線の単純化と生きる意味

 職場のPC周りの配線を整理した。新しい機械を導入すたびに、USB配線と電源延長コードが、既存の配線の上に設置された。配線が複雑怪奇になっていた。その整理をしていて、気が付いたことがある。

 無用な延長コードを多用して、配線を複雑にしていた。配線は、2種類しかない。電源配線と、USBによるPC結合配線の2種類しかない。今まで、PC結合配線を必要とする機械、たとえば印刷機やスキャナー等を数か所に分割していた。2本の電源延長コードと、3本のUSB延長コードがあった。整理する過程において、これらが除去された。分量的には、延長距離は約半分になった。

 まず、USB配線だけを整理した。複雑になった事柄は、分割されねばならない。単純化されることによって、人間に認識しやすくなるからだ。この世の複雑な事柄は、単純化される。デカルトから学習した法則である。

 複数の機械を同じ本棚の同じ段に設置することによって、PC結合配線が1本になった。次に、機械電源コードだけを整理した。複数の機械電源も1か所に纏めた。電源延長コードも1本になった。USB配線コードも1本になった。

 また、複数の電源とUSB配線の分岐点を本棚の最下段に集約した。そこは、グチャグチャである。絶望的なほど、グチャグチャである。どうしようもない。しかし、そのすぐ上に、本棚の板を設置した。外からは、このグチャグチャが見えなくなった。あたかも配線がないかのようである。また、配線を下段にたらす際、本棚と壁の間を通すようにした。本棚上段に本を配架することによって、この配線もみえなくなった。
 
 今まで、本棚は壁に隙間なく接合すべきということに拘っていた。この拘りをなくすることによって、配線を本棚の後ろに配架することができた。もちろん、最上段だけは壁に接合されている。安全を確保するためである。

 また、巨大な電話機があった。FAX装置を維持するためである。しかし、この機能を10年来使用していない。この機械を除去した。また、この電話機には、留守電機能がついていた。メール以外で留守電に入った情報は、ろくなものがなかった。この機能も除去することによって、快適な精神状態を維持できる。電話機は、電源を必要としない災害用電話機だけを残した。電話配線1本だけですみ、電源配線を除去した。

 人生は、簡単なことかもしれない。つまらない拘りと全体を考えない状況によって、困難に陥っていた。自分で、自分の状況を複雑怪奇にしていた。自分の困難な状況を、自分でつくっていたのかもしれない。

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残像ではなく、残鳴――ストレスの原因

残像ではなく、残鳴――ストレスの原因

  残像という言葉は、頻繁に聞かれる。実際の視覚情報が、眼に焼き付いていることを指している。眼で実際に見た光景が、いつまでも残っていることを意味している。たとえば、野球解説者が次のように使用する。内角球を胸元に投げれば、その残像は眼に焼き付いている。だから、外角球の軌道に対する意識が混濁すると。
  しかし、感覚情報は視覚情報だけではない。聴覚情報もある。耳から入った情報が、数時間、ひどいときには数日、もっと深刻な場合には数週間継続することもある。恐怖の声が聴覚に残っている。ここでは、さしあたりそれを残鳴と呼んでみよう。学術用語でイヤーワームというそうである。右の側頭葉の機能に問題があるようである。しかし、その過程は十分に把握されていないし、その治療薬もない。
  ある安価なホテルに宿泊した朝のことである。まだ、布団のなかでまどろんでいるときであった。男女が罵り合っていた声が、ベニヤ板のように薄いコンクリートで仕切られた隣の部屋から、聞こえてきた。この男女は、私の遠い親族であった。「ぶち、殺すぞ」、「死ね」、「最低」という殴り合いの声が、聞こえてきた。
まだ、早朝である。私の聴覚は鋭敏である。その声で目が覚めた。ただ、まだ布団から起きる時刻でなかった。眼をまだつぶったままであった。したがって、耳だけが鋭敏になり、その音を記憶していた。数分あるいは数十分その声を聴いていた。私がしていたことは、その声を聞くことだけであった。まさに、その行為に集中していた。
それは、聴覚情報だけではなかった。その男女の喧嘩を仲裁すべきどうか、考えていた。仲裁する場合には、こちらにも被害がくることは、想定されていた。彼らはいわゆる体育会系であり、大声で殴り合う大柄な夫婦である。パンチが気弱な大学教授を直撃する場合はよくある。
  また、彼らは社会的には成功者である。若いころ、世話になった。その記憶も残存している。どうしようかと考えていた。しかし、眠気に勝てず、そのまままた就寝した。しかし、そのときの音が今でも耳に記憶されている。(個人情報を少し加工している)。

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追記 2017年8月15日 追悼 真崎不二彦(2015年1月逝去) 

20170815

 彼が逝去して、はや2年半年が経過した。この間、函館市は衰退に向けて走り出している。本日のニュースでも、イカ業者のために1億円を拠出するそうである。個別業者へ運転資金を供与しても、どうにもならない。来年も、輸入イカの価格が高騰すれば、まだ補助金をだすにちがいない。場当たり行政の典型である。衰退する町は、衰退する理由がある。地方自治体の行政機構の劣化もその原因の一つである。
  また、路面電車の延伸もまだ夢物語の段階にある。公共交通を整備することもほとんど実施されていない。冬の歩行者の歩行を困難にする政策、アーケードを駅前から撤去しただけである。明治の先人のほうが、先見の明があった。また、昭和20年代までは、優秀な若者が、函館の市役所に入所していたのであろう。平成になって、優秀な若者は、札幌市役所で働くことを夢見ている。

  彼によって与えられた宿題は、まだ終わっていない。泥沼から這い出すことである。泥沼の居心地がよいのかもしれない。問題である。早く、宿題を済ませたいが、なかなかうまくいかない。個人の努力ではどうにもならない。
さらに、彼には計り知れない義理を負っている。この恩義に報いることは、もはやできない。彼は黄泉の国へと旅立ってしまったからだ。このような義理を返すことができない人が、増えている。彼らの多くが、すでに後期高齢者に属していた。日本人の平均寿命を超えていた。その順番を大きく変えることはできない。故真崎氏だけでない。多くの知人が帰らぬ人になった。人生の節目、節目で世話になった人は多い。その義理をどのように果たすべきか思案している。

 彼が存命であるころ、新聞に投稿していた。
  

20150518 追悼 真崎不二彦 函館護国神社宮司――函館における批判精神とイギリス製高級煙草、ロスマンズ・ロイヤルの消滅

  真崎不二彦 函館護国神社宮司が2015年1月8日他界した。函館の名家に属する宗教人が、この世を去った。故人は、昭和7年3月15日に函館市において生まれた。父、宗次も同神社宮司であり、同職を世襲した。日本の宗教界において、明治以降世襲は一般的である。
 彼は、函館に生まれて以降、21歳で北海道学芸大学(現:北海道教育大学)を卒業するまでこの地で育つ。その後、函館を離れ、昭和33年に二松學舍大学を卒業する。29歳まで、学業に専念する。当時としては、異例である。大学進学率が20%であった時代に、二つの大学を卒業している。大学そして大学院に進学することは、後期近代において稀ではない。しかし、戦後の混乱期に、大正教養主義の理想像に従った青年時代をおくった。彼は20代をほぼ無職として過ごしていた。高等遊民としての資質を育んでいた。文化的素養があった。その間、教職、神職に関する資格を取得しているが、それは彼の余技に属していたのかもしれない。遺影は、神職としての厳かな礼装ではなく、ダンディに上着をはおり、紫煙をたなびかせる姿であった。
 昭和34年に靖国神社に奉職し、37年に同職を退職し、同年に函館護国神社禰宜となる。言わば、同神社のNr. 2 の地位を取得する。しかし、昭和42年以降、東京都において教職を取得する。以後、18年間東京都において、神職としてではなく、教員として過ごす。通常、神職と教職を兼職する場合、地元の学校における教職を選択するのが通常である。なぜ、彼は5年ほど、禰宜として函館に在住しながら、その後居住地を函館ではなく、東京を選択した。その理由は何か。彼のダンディズムの源泉はそこにあろう。東京都の教員として、20年近く生活する。住居は下町であった。不破哲三元共産党委員長の住居も近く、一緒に下町の祭に参加した。共産党の元委員長の御息女も彼の教え子であった。彼の疾風怒濤の時代である。
  この間、能楽堂に日参し、能楽評論に深い造詣を示す。それは『泥舟』等に結実している。しかし、昭和59年に父に代わり、函館護国神社宮司に就任する。すでに、50歳を超えていた。彼は、50歳を超えるまで、東京において教員生活に18年従事している。その間、禰宜として神官職を継続しているが、その生活のほとんどを東京の下町で過ごしている。函館に帰郷するのは、例大祭、正月等の行事のときだけであった。
 帰郷後、函館の政治、社会を批評する記事をいくつかの新聞に寄稿している。北海道新聞の函館版夕刊「みなみ風」の常連であった。また、季刊『日刊政経情報』にほぼ毎号寄稿している。この雑誌には、函館の政界、官界、財界の著名人が寄稿している。国会議員、市長等の政界著名人を除けば、ほぼ函館の実質的な社会的指導者が寄稿している。彼は、宗教界を代表するかたちで、ほぼ毎号寄稿している。この雑誌の寄稿者以外にも、寄稿すべき人間は多かった。財界人のなかでも、エッセイを不得手するものも多かったと思われる。彼の文化的素養からすれば、原稿用紙数枚のエッセイはいとも簡単であった。
  ただ、この機関誌における多くの論稿は、函館の一面をまさに賛美するか、挨拶文の領域をでていない。日常用語をもちいれば、「ヨイショ」論稿が多い。地方都市の実質上の支配層に属する人は、その都市を批判しない。あるいは、その根源的欠陥を明白にしない。
  東京での20年以上の文化的生活に基づき、彼は半島としての函館を批判していった。そのなかでも、函館の経済人に対する批判は、函館の支配層の癇に障るものもあった。「函館の経済人はケチ」、「植民都市としての函館」、「高利貸しとしての函館支配層」という概念は、函館の本質を表現している。しかし、そのことに触れるのは、ほぼタブーであった。現に、昭和10年代、20年代に上野以北で最も繁栄した町が、函館であった。仙台も札幌も眼中に入らなった。しかし、平成に入り、その繁栄は旧市街の一角、所謂西部地区を除けば、ほとんど嘘のようである。なぜ、函館がこのように衰退したのか。彼には、すべて見えていたのであろう。
  駅前商店街は歯抜け状態であり、工藤現市長は商店街のアーケードを撤去する方針だそうである。駅前商店街の衰退はより加速される。アーケードがあることによって、雪の降る冬場でも、市民が商店街を歩くことができる。それがなくなれば、冬に商店街に足を運ぶことはないであろう。自滅する街、函館の本質を明白にしている。
また、彼の母校は北海道教育大学函館校である。この分校は、かつて新函館大学構想を推進した。札幌本校の許可などとっていない。当時の分校主事を筆頭に、函館選出の国会議員、阿部文男を仲介にして、独自に文部省と折衝した。他の札幌、旭川等の分校の迷惑など顧みないこのような態度は、唯我独尊と言われても仕方がない。今でも、札幌から函館に赴任してきた役人を、奥地から来たと揶揄する土地柄である。函館一番、函館さえ良ければそれでよいという風潮が渡島半島にはある。もちろん、このような態度が許されたのは、昭和20年代まである。阿部代議士が逮捕され、この構想は頓挫した。それ以前に、文部省も相手にしていなかった。彼は、この構想を心底馬鹿にしていた。
しかし、10数年前の記憶は、当時の村山学長以下の役員の脳裏から消えていなかった。北海道教育大学函館校は、平成18年度の全学改革において、教養新課程を集約した人間地域科学課程を創設した。5つの分校のうち、どれか一つの分校がそれを引き受けねばならなかった。その代償として小学校教員養成を放棄させられた。20数年前の独立運動を知る人間からすれば、函館の自業自得である。
  そして、平成24年、函館校が国際地域学部を創設する際にも、小学校教員養成機能にこだわり、自ら学部化を阻止した。信じられない自滅行為である。文部科学省は、学部化の進展か、小学校教員養成機能の残存か、という二者選択肢を提示した。もちろん、札幌本部は前者を選択した。しかし、主に小学校教員から構成される函館分校の0B会、夕陽会は後者を選択し、学部化阻止に動いた。当時の副学長以下執行部はこの動きを下支えした。この動きも心底、小馬鹿にしていた。東京に叛旗を翻す力は、植民都市にはないと。
 彼は、母校の教員養成機能の現状自体に批判的であった。その札幌統合を主張していた。夕陽会の役員もしていたにもかかわらず、そのような主張をしていた。さぞ、OB会でも煙たがられたと想像している。
 また、北海道教育大学の教授も小馬鹿にしていた。所詮、東京では通用しないボンクラ学者の集まりであると。その一員である私にも、面と向かってそのように放言していた。早く、東京に帰れ。ネズミでさえ、沈みゆく船から逃げ出す。頭の良い人間のいる場所ではないと、と会うごとに説教された。頭の痛い事柄である。
 煙草は、ロスマンズ・ロイヤルを愛飲していた。この煙草の国内販売が廃止されたとき、彼は100カートンほどを購入して自宅で保存していた。空調設備と空気清浄機付の小部屋で保存されていた。彼が死亡したときも、まだダンボールには数十カートンが残存していたはずである。
 その煙草の行方は知らない。その煙草を喫する人もいない。函館からこのイギリス製高級たばこを愛飲し、支配層のなかで函館を批判的に考察する人間がいなくなった。函館の自滅がより促進されるであろう。函館の批判精神は、ロスマンズ・ロイヤルと共にはるか彼方に消え去った。

 ただ、私の切なる、そして叶わなった夢は、彼が函館の自滅過程をより検証する機会を持つことであった。その小さな夢も高級煙草の紫煙とともに消え去った。

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近代の理念の破壊――少数者としての喫煙者への抑圧

  近代は様々な美しい理念を形成してきた。自由、平等、連帯という近代社会の基本的理念を形成してきた。さらに、後期近代にはその美しい理念に加えて、美しすぎる理念を産出した。共生、少数者の権利の擁護等の理念を屋上架屋してきた。たとえば、同性愛者の婚姻を憲法上に認めるというまさに、少数者保護は極限までに進行してきた。
 しかし、そこには選別が働いている。喫煙者という少数者は、初期近代では多数者であった。少なくも、1950~60年代までは、非喫煙者は受動喫煙を蒙ってきた。しかし、かつての少数者は、いまでは多数者になった。とりわけ過去の喫煙者は、多数者であるために、今では非喫煙者を抑圧する。どの時代でも、彼らは多数者であり続ける。
   ここで、少数者の権利つまり喫煙の権利は、保護されない。少数者は保護されない。理念上の共生は、強制に通じる。まさに、反対物に転化している。後期近代の美しい理念を唱える多数者は、現実社会において少数者を弾圧する。すべての屋内から紫煙を追放しようとする馬鹿もいる。多数者である彼らは、少数者の自由を抑圧することによって、近代の理念そして後期近代の美しすぎる理念を破壊していることに気が付かない。

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巨大組織における個人――大学という組織における素人行政

 渦潮のなかで泳いでいる場合、その潮流に抗することは困難である。しかし、人間はこの潮流が何処からきて何処に流れようとしているのか、認識できない。潮流の流れに身を任せているつもりでも、それに抗している場合もある。逆の場合もある。
 大学行政という場にいると、自分の位置づけは曖昧である。どの部署に属しているかぐらいはわかるが、この部署が大学全体の構造のなかでどのように位置付けられているのかが不明である。昨年までの予算が数万円だったにもかかわらず、今春には数百万円がつく場合もある。数百万円の予算のために企画書を作成しなければならない。今まで月に数千円の事業しかしていなかった組織が、突如として月に数十万円の予算を執行しなければならない。
 国家行政であれば、金銭の単位が億単位になる。内閣府特命担当大臣(地方創生担当)が突如として2014年に出現した。大臣がいるということは、担当官僚が既存官僚組織から出向してくる。若いときからその官庁に所属している官僚はいないからだ。地方創生という名目で予算がつく。当然、予算を執行しなければならない。
 しかし、その能力があるのであろうか。国家行政であれば、出向元の官僚組織で学習した知識に基づいて予算書を作成できる。地方創生という名目をつけて予算案を作成できる。しかし、今まで研究しかしていない教授は、月に数十万円の予算を消化できるのであろうか。文系の教員であれば、見たこともない金額である。全集あるいは古書等の高額図書を購入したり、海外出張をこなしたりすれば、その程度の予算を執行することもある。しかし、大学行政においてそのようなことはできない。あくまでも、教育組織の充実という名目で予算を執行しなければならない。
 どの方向に向かっているのかは、判断停止するしかないのであろうか。大学という巨大組織の存在形式の本質など、末端教授には理解できない。そう、考えないことにしよう。多くの大学教授、そして官僚もそのようにかんがえているのであろう。その結果、地方創生という名目で高速道路を新設し、地方を破壊する。JR北海道の経営危機の本質は、高速道路の拡大にある。無料あるいは無料に近い値段で道路をりようすれば、鉄道での移動は高額にならざるをえない。国土交通省の道路局、北海道開発局の官僚は、そのようなことは考えていない。道路予算を執行するだけである。思想という巨大な意識を考察してきた教授にそれができればよいのであろうが、できるとは思われない。
 ただ、多くの官僚そして教授が判断停止しているという現実を考慮することによって、精神衛生上は良いであろう。

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商慣習と銭儲け――正月三が日における百貨店の初売り――追記 伊勢丹三越HDの決定ーー再追記 日本の伝統

本文 20150102
追記 20150907
再追記 20160116
再再追記 20170104

再再追記

本ブログが社会的潮流に竿さすことは少ない。たいていの場合、社会の主潮流と逆の方向を向いている。多くの反体制派のブログと同様である。しかし、日本の伝統的習慣に基づく本記事だけは別格である。三越伊勢丹が、初売りを1月4日に実施するそうである。もちろん、本ブログの影響をうけているか否かは、当事者に聞いて見るしかないであろうが。率直に言って、嬉しい。少なくとも、2015年正月の時点での主張が、認められたことになる。もっとも、この老舗以外の新興百貨店の初売りは、1月2日である。もっと酷い場合は、百貨店であろうと、1月1日に開店している。百貨店は少し高級なものを販売するというイメージがある。そのイメージを自ら破壊している。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170103-00000011-asahi-bus_all


商慣習と銭儲け――正月三が日における百貨店の初売り――追記 伊勢丹三越HDの決定ーー再追記 日本の伝統


 お正月という歳神様を迎えるために、正月三が日は家族でゆっくり過ごすという慣習がかつてあった。せいぜい、近所の親類を訪問するくらいであった。この時期に日本人は、仕事、商売、銭勘定から離れ、身を世俗的欲望から解放しなければならない。三が日には金銭に触れないという慣習も存在した。
 また、肉体的欲望から離れ、神を迎えねばならなかった。初詣も、三が日に行われる。端的に言えば、1年の計を立てるのが、この時期であった。神と対話しながら、瞑想にふける時期でもあった。外国から見れば、この慣習は日本の宗教的行事とみなされている。少なくとも、家族と団欒のときでもある。

 それは、欧州におけるクリスマスに似ている。家族と過ごす休日である。この慣習には、キリスト教徒だけではなく、イスラム教徒も従っている。町全体が静寂性を維持している。クリスマスに営業している百貨店などは、皆無である。馬鹿騒ぎをしている若者も皆無である。
 この時期、会社の同僚や学生時代の友人と宴会、つまり馬鹿騒ぎをするということは、本当に馬鹿げたことである。同窓会ともなれば、遠方で開催されることも多い。地方高校、地方中学校の卒業生の半数以上は、故郷を離れ、東京、大阪等に居住している。逆に、大都市に集中している大学、大学院の卒業生も、同じ都市に居住していることは稀である。家族と離れ、最低でも1泊2日、あるいは2泊3日の旅に出なければならない。三が日に仕事でないにもかかわらず、飛行機に乗る必要があろうか。

 もちろん、三が日にも労働しなければならない人は、稀ではない。社会的に必要とされる労働者も多い。交通機関労働者、警察官、自衛隊員、消防隊員、郵便局員等数え切れない労働者が、働いている。しかし、労働から解放されても、問題のない職種に従事している労働者が、ここで問題にされている。大多数の労働者の生活形式が、問われている。事実上、官公労労働者、つまり市役所、県庁、国家機関における大半の労働者は、この慣習を享受している。年末の12月29日を御用納めと称して、1週間ほどこれらの機関は閉鎖されている。三が日に住民票を取る必要は、全くないからである。

 日本人の精神を知る多くの個人商店主にとって三が日に営業することは、馬鹿げたことであった。御屠蘇気分という言葉があり、酒好きの人は昼間から飲んでもよいという御めでたい日であった。 しかし、1990年代になって、大手スーパー、ダイエーが元旦営業を開始した。経営が危ういからそのようなことをするのだという陰口が聞かれた。その後、他社の大手スーパーがダイエーに追随した。そのころ、老舗百貨店の多くは三が日は休業していたはずである。少なくとも、初売りは3日、4日であった。正月三が日に、銭儲けに勤しむ習慣が、広まった。
 しかし、2015年1月2日現在、ほとんどすべての百貨店はこの日が初売りである。老舗と言われる伊勢丹新宿店、三越銀座店、日本橋高島屋ですら、本日初売りを敢行している。西武池袋店は大手スーパーと同様に1月1日に開店している。デパートの名が泣いているのであろう。本稿によって提起された観点からすれば、西武百貨店は、コンビニエンスストアと変わらない。まさに、下流社会の潮流に、老舗デパートも飲み込まれたしまった。
 正月三が日という商慣習を破壊した大手スーパー、それにほぼ追随している老舗デパート。彼らには、正月三が日くらいゆっくりしたいという日本の慣習は顧慮の対象外であろう。抜け駆けして儲けようとしたダイエー中内社長に追随した。もっとも、ダイエーは倒産してしまった。天罰がくだったのかもしれない。この商慣習は、日本全体の宗教意識に根づいているからである。大規模小売店は歳神様をお迎えするよりも、銭儲けを優先した。そして、日本の宗教的慣習を破壊することに寄与した。

 もし、日本の老舗デパートが1月4日に初売りを敢行すれば、それは話題となるであろう。多くのスーパーマーケットそして百貨店が1月1日、2日において初売りを実施しているなかで、少なくとも三が日は買い物をしないという富裕層にむけて絶好の宣伝となろう。まさに、自己を老舗百貨店として差別化できるであろう。富裕層は三が日に買い物をする必要がない。食料等は年末に買っておけばよいからである。三が日に、慌てて衣類を購入することもない。
 歳末商戦で疲労している労働者の英気を養うことにもつながる。 明日は1月3日である。初売りをする老舗デパートはあるのであろうか。

追記

 『日本経済新聞』(2015年9月7日)によれば、三越伊勢丹HDは2016年から1月3日に初売りをするそうである。少しは、改善されたようである。もっとも、この会社の決定が本ブログによって影響されたかどうかは、定かではない。
http://www.nikkei.com/article/DGXLASDZ07IC7_X00C15A9TI5000/ [Datum: 07.09..2015]

再追記

 三越伊勢丹は、2017年から初売りを1月4日にするという。本記事の主張は、世間で無視されるか、あるいは反発をかってきた。しかし、日本を代表する百貨店が本記事に追随することになった。喜ばしいかぎりである。本記事では、日本の慣習として初売りを4日にすべきであると主張してきた。もちろん、この現代企業は、宗教規範に従うということではなく、むしろ労働者の休日を確保するという主張に基づいている。しかし、単なる休日の増加であれば、正月に拘る必要はない。2月でも、3月でも3連休をすればよいことである。正月三が日という伝統的風習を復権するということに、意義がある。
 ネットでは、このような主張はどのように評価されているのであろうか。しばし、ネット右翼が批判の対象になっている。三越伊勢丹の決定における日本の伝統を守るという意義は、右翼からも称賛されるべきえあろう。

「『三越伊勢丹』17年から初売り1月4日 労働環境を改善」『毎日新聞』2016年 1月16日 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160116-00000006-mai-bus_all

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1868-1968 テロリズムとしての近代革命

1868-1968
――テロリズムの勝利としての1868年明治維新、そして1968年以後のテロリズムの敗北

鳥羽伏見の戦いが始まる1868年は、正確に言えば慶応4年である。年号が示しているように、未だ幕藩体制の内にある。のちにこの年は明治元年と改称されるが、勝利した革命派による歴史の書き換えである。
当時の社会の規範そして法規範もまた、幕府によって規定されていた。この法規範と社会規範に対して、テロを行使した武装勢力が薩長である。彼らはこの法規範に対して、まさにテロリズムによって対峙した。もちろん、この武装闘争は維新すなわち革命と名付けられる。まさに、正統化される。しかし、実体は武力による政府転覆とほぼ同義である。
1968年の前後、近代における最後の武装闘争が世界的に実施された。東京だけではなく、ニューヨーク、フランクフルト、そしてパリでも青年運動が広範囲に起こった。その運動は社会的に支持されていた。この運動のなかから、武装闘争を実施する集団が分離した。しかし、彼らに社会的承認が与えられることはなかった。日本の赤軍派、ドイツの赤い旅団等が有名である。彼らの武装闘争は、テロリズムとして社会的に葬られた。

この論点に関して討論会を実施する。7月26日24時までに、1000字以上1500字(字数はPCの字数計算ソフトに依存する)のコメントを貼り付ける。その際、4文字の熟語を個人名称とする。実名、大学名、職場名、講義名称等を書かないことが必要である。個人が特定される場合、そのコメントは削除される。

参照「後期近代と暴力革命」
http://izl.moe-nifty.com/tamura/2006/04/post_9fe9.html

近代における暴力の社会的承認
http://izl.moe-nifty.com/tamura/2006/04/post_77b2.html

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