取り越し苦労――そのときどきの課題への集中

取り越し苦労――そのときどきの課題への集中

 

 取り越し苦労の約8割が、実際には起こらないと言われる。しかも、その残りの大半も、起きても、大したことはない。昨日の夜もかなり気になり、眠れなかった。しかし、朝一で確認すると、問題は消え去っていた。

 問題は、何故かつまらぬことに気が向かうかである。その時の最重要課題は、眠ることにあった。それに集中できなかったことが、敗因である。つまらないことに気が向いたことが、問題ではない。そのときどきの課題に集中しなかったことが、敗因の一つである。

中村天風の宇宙霊の源基的形態――大天地(宇宙)と小天地(人間)の同一性

 中村天風の思想において宇宙霊に関する事柄は、理解が容易ではない。彼の宇宙霊に関する思想を以下のように考えると納得がゆくかもしれない。すなわち、人間もまた宇宙の諸構成要素と同一である。人間は、大自然すなわち天地を凝縮した存在である。安藤昌益の思想を参考にしてみよう。「人ハ自然ノ全体ナリ」。[1] 大宇宙の諸構成要素を具備した存在者である。大きさこそ異なっているが、宇宙と人間が同一として表象されている。

 

[1] 『安藤昌益全集』第3巻、農山漁村文化協会、1,987年、97頁。

 

古希を目前にして

 古希が視野に入ってきて、思念することが多くなった。その表象の一端は、20267月そして8月のブログ記事に表現されている。考えても詮無き事柄であるが、思念せざるをえない。それが、古希という伝統に由来する言葉が、田村伊知朗に課した任務かもしれない。

 しかし、古希を目前にして、あまりうれしくない。一休禅師の名詩に倣えば、誕生日、冥途の旅の一里塚、めでたくもあり、めでたくもなし。

 さらに、路面電車ルネサンスに関する研究が終了した。積極精神を指向するためには、新たな研究対象を探索しなければならない。私の脳裏に浮かんでいる対象は、中島正研究である。そのためには、彼と思想的親近性を有している安藤昌益の直耕と不耕貪食を精微化しなければならない。それが、現今の第一課題である。この課題を遂行することが、積極精神を維持することになろう。

田村伊知朗とは何か。それを考えないないこと。

 私、田村伊知朗とは何か、一言で言えば、何か。それを今、考えている。書籍も出版した。20269月には、路面電車ルネサンスに関する二冊目の書籍も上梓される。都合、5冊目の研究書が公表される。それだけに、70年の歳月は、収斂するのであろうか。

 否、この間、そして現在でも心臓は正常に機能し、各器官に新鮮な血液を行き渡らしている。それだけでも、私の自律神経は凄い。しかも、昼夜を問わずだ。ビールを飲めば、その鼓動は早くなる。だが、それも正常だ。アルコールを分解するために、通常よりも多くの新鮮な血液を必要としている。

 いずれの事象もそれなくして、田村伊知朗はありえなかったし、ありえないであろう。したがって、田村伊知朗が今ここに存在することに感謝すべきである。つまり、それに関して何も考えないことが、感謝につながる。現在の課題、例えば、排便と排尿に集中しよう。それ以外のことは、看過しよう。それが、中村天風から学んだ最大の功績である。

神仏への祈り

 人事を尽くして天命を待つという言葉がある。しかし、如何に人事を尽くしても、錯誤を避けることはできない。大過なきを祈るしかない。人間的理性は、限界を持っている。限定性のなかで、大枠での正しさしか配慮できない。完全な事象を創造することはできない。神仏の前で、大事に至ることなきを祈念するしかない。まさに、大いなる不思議な力に跪くしかない。古稀を目前にした率直な感想である。

過去の決断に対する後悔?

 過去のある行為、例えば、あれか、これか、という選択を後悔することがある。実際の選択肢は、これであったが、あれを選択していれば、現在の自分の現状が著しく変わっていたであろうと。しかし、当時の選択肢が別のものであったとしても、現在の自分は変化しない。その行為は、現在の自分からすれば、その全体から考察すれば、染みのようなものでしかない。過去の小さな行為は、現在の長い時間スパンとそれ以外の様々な構成要素からすれば、ほとんど影響しない。当時の選択肢が別のものであったとしても、現在の自分が変化するわけではない。それは、膨大な海に降った水滴でしかない。現在の海の実体は、その選択肢を消去している。

『ドイツ路面電車ルネサンスの深層――再統一後のハレとベルリン』(論創社、2026年)の刊行

 

 『ドイツ路面電車ルネサンスの深層――再統一後のハレとベルリン』(論創社、2026年)が、9月に上梓される。装丁も含め、その入稿作業が完了した。いまや、路面電車ルネサンスに関する仕事も完了した。今後、何をすべきか、しばらく考える。その前に、肉体と精神を正常化しなければならない。

 今回は前回と異なり、誤植も含めて校正をかなり実施した。最終的に、第五校まで実施した。約半年、論創社に原稿を渡す前から換算すれば、半年以上、校正ばかりしていた。それも、肉体と精神の病弊と関連していた。ただ、現在では、大過なきを祈念するしかない。

 加えて、本書が路面電車ルネサンスに関する論稿の最後というのもあった。おそらく、70歳が迫っている老人にとって、最後の学術研究という気負いと諦念もあった。研究史的欠落を埋めることが、学術書の使命である。その最後の使命を果たさねばならないという精神的緊張も、私の肉体にとって辛いものであった。

 また、本書が東ベルリンそして東ドイツへの挽歌という意味合いもあり、私の精神にとってかなり辛いものであった。もちろん、東ベルリンそして東ドイツが復活することはない。それは、歴史的事象であり、現在では歴史つまり物語にすぎない。それでも、私には私の青春時代と重なり、若き日々、そして健全な肉体への憧れを意味していた。現在、社会主義というだけで嘲笑の対象になることは、承知している。しかし、それが、現存していたことに変わりがない。晩年の廣松渉が、1989年から1990年にかけて東ドイツそしてソヴィエト連邦に示した思想的態度は、かなり批判されていた。それは、彼の錯乱と噂されていた。しかし、本書執筆中に、彼の錯乱的な精神的態度を理解できるようになった。

 そもそも、社会主義が人類史において錯乱というべき物語にすぎない。18世紀から前世紀末まで存在していた逸脱にすぎない。もはや、近代そして後期近代がこの物語を受容することはない。近代はそれだけ成熟している。

 最後に、この二つの都市は、最近の20年間、毎年のように訪れていた町である。人間関係だけではなく、昼飯、夕食を取っていた馴染の店も、脳裏から消えることはない。しかし、この都市を訪れることもできない。ドイツで収集すべき資料も、思いつかない。長旅に堪えるだけの肉体も、もはや有していない。その落胆も、辛いものである。

人間という生物における日光浴の重要性

 

 都市住民という存在形式が自然的存在から疎遠である。都市住民の生活様式は、まさに工業養鶏において管理された鶏と同様な生活様式と類似している。彼らは、朝露を伴った野菜をそのまま摂取できないし、谷川の清冽な水で喉を潤すこともない。その代わりに、スーパーマーケットで萎びた野菜を購入し、水道水を飲むしか術はない。そして、自然から遊離したそのた生活様式によって、健康上の問題を多く抱えている。

 さらに、決定的であることは、日光を浴びることが少ないことである。世界の長寿者の多くは、戸外の農作業に従事することによって、日光を充分に浴びている。コンクリートの建物のなかで事務仕事に従事している労働者は、夜だけではなく、昼間ですら日光を浴びる時間が少ない。おそらく、頭脳労働の効率も、低下しているはずである。このごろ、日光の重要性を痛感している。

過去における様々な悪徳と、神仏によるその浄化

 人間は、過去において様々な悪徳をなしている。しかし、現在において、多くの神仏、例えば、廬舎那仏様、阿弥陀如来様、天照大御神等が、それを浄化してくれる。それゆえ、我々は現存している現前の課題に集中できる。その浄化には、小さな人間は感謝するしかない。中村天風の言葉を借りれば、宇宙霊、そして私の言葉によれば、大いなる不思議な力に感謝するしかない。

自分に勝つ、あるいは自分に負けるとは何か

自分に勝つ、あるいは自分に負けるとは何か

 

 この言葉には、自己の中に二つの意識あるいは意志があることが、伏在している。潜在意識では、ある事柄を遂行しようとしても、それを阻む意志が、顕在意識において存在している。そのどちらを優先すべきか、自己自身が自覚していない。ある時点で、ある局面で、潜在意識ではなく、顕在意識が優先される。

 しかし、本来的自己は同一である。したがって、自分に勝つためには、顕在意識を潜在意識の意思によって統御しなければならない。

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