闇の夜に鳴かぬ烏の声聞けば――中村天風試論
1. 中村天風の哲学の魅力
1.1 中村天風の哲学の継続性
筆者が中村天風の哲学に出会った契機は、偶然の産物である。20世紀最大の哲学者の一人、マルクヴァルト(Odo Marquard 1928-2015年)が哲学に出会った契機も偶然であった「私(=マルクヴァルト)はどのようにして哲学に到達したのか。偶然である。哲学が私に衝突した。昆虫がコーラ瓶に衝突したことと同様に、私は哲学に衝突した」。[1] マルクヴァルトと同様に、偶然ではあれ、筆者にとって中村天風の哲学は宇宙の真理に到達しているように考えられた。もちろん、彼の哲学すべてが永遠の真理を有してしているはずはない。しかし、その一端に彼は確実に触れているのであろう。
中村天風(1876~1968年)の哲学が日露戦争前後から形成されていたことを考えると、ほぼ100年の歴史を有している。哲学を専門にしている大学教授は、日本のこの1世紀において、数千人、数万人以上いたからもしれない。彼らによって出版された哲学書あるいは哲学に関する研究書は、数万冊に至るかもしれない。しかし、現在でも読書界において確固たる地位を保っている書物は、非常に数少ない。しかも、その影響を受けた人々は、哲学者だけに限定されていない。
この1世紀に渡る時間のなかで、中村天風(1876~1968年)の哲学が東郷平八郎元帥等の著名人に対して影響を与えた。[2] 日本人だけが、彼の哲学に対する信奉者でもなかった。著名な外国人、例えばロックフェラー3世も彼の思想に触れる機会を持った。[3] 偶然であれ、多くの人間が、彼の人格そしてその思想に触れ、より安楽な生を送ったであろう。
1.2 専門知と素人知の区別
なぜ、彼の哲学がほぼ1世紀近く、その命脈を保ってきたのであろうか。その根拠の一つは、彼が専門知と素人知を区別したことにある。彼の人間論や宇宙論が、例えばハイデガーの哲学よりも優れていたからではない。専門知が素人知に加工されず、その存在形式が保持されているかぎり、彼の哲学書の大半は、国会図書館の書庫の奥にたまった埃にまみれていたであろう。彼は専門知の限界を明確に理解していた。「私の知れる限りをとことん説明いたしません。・・・この集まりがね、・・・基礎医学の知識ばかり持った人の集まりだというと、また説明はもっとずっと立体的に深くなっていくんですが、そういう説明になると、今度はあなた方が皆目わからなくなっちまいます」。[4] 中村天風の啓蒙対象そして講演対象は、専門知を理解しない素人である大衆である。専門家に対する説明と大衆に対する説明は、ここでは明白に区別されており、彼の思想は大衆によって支持されてきた。
1.3 理解の容易性
例えば、ある日本人が、ハイデガーによって提起された本来的自己を理解しようとしてみよう。ドイツ哲学史において刻印された哲学を理解するために、大衆はその難解な書物を購入しなければならない。彼の哲学書をドイツ語で読解するためには、ドイツ語の初等文法から学習しなければならない。ドイツ語の文法構造を完全に習得したとしても、彼の叙述形式はドイツの知識人ですら理解しがたい難解な構造を持っている。彼の全集を読むだけで数十年の年月がかかるであろう。途方もない時間がこの作業の前提として横たわっている。数十年後には、この日本人の生命すら風前の灯になっているであろう。
本来的自己に到達する方法は、ハイデガーの著作総体において見出し難い。本来的自己は、哲学史においてほぼ確定しているが、個人がそれに至る方法論は、未だ発展途上にあるように思われる。対照的に、中村天風はその方法を日常的に実践可能な方法によって提示している。「いわゆる先哲識者はと称せられる人々は、種々の言葉をもって、理論の演繹方法を入念にしているが、肝心のそれを現実化する方法手段という一番大切なことに少しも論及していない」。[5] 彼は理論を提示したのちに、その実践方法を体系づけている。
1.4 思想と実践
対照的に、中村天風の哲学は、多くの人の病気、煩悶、貧乏等の悩みを解消した。その実用的価値から、彼の哲学が現在でも影響を与え続けている。彼の哲学が人口に膾炙した根拠の一つは、日常的生活において実行可能な提言であることにある。中村天風は、それに至る一つの途として、日常生活において積極的言葉を使用するという誰でも実行できそうな提言をしている。「言語というものには、頗る強烈な暗示力が固有されている。従って特に積極的人生の建設に志す者は、夢にも消極的の言語を、戯れにも口にしてはならないのである」。[6] もちろん、厳密に考えれば、この命題を実行に移すことはかなり困難である。哲学的背景を持っているこの言葉を聞くことによって、多くの人が肩の荷を少し下ろし、煩悶から解放された。積極的言葉をより使用し、かつ快濶に、はっきりと発音することが肝要であろう。これだけでも、肩凝りの症状が軽くなった人は数多いであろう。
あるいは、他人の悪口を言わない、できる限り他人の良い点を褒める、ということも実行できそうである。他人の悪口は、自分の心の清浄性を冒し、自分自身を貶めることにつながるであろう。宇宙霊から与えられた自己の生命、そして自己の心を汚すことにつながる。宇宙霊から活力を得ることは、できない。自分の心の汚濁は、疾病の素であろう。雑念や妄想を自己の心から追放すれば、このような心境になれる。その方法は次のようになっている。「雑念、妄想を除くのは、・・・無念無想になりゃいいんです。・・・いっさいの感覚を超越して・・・いっさいの感情、情念を心になかに入れないで、純真な気持ちになることが無念無想なんです」。[7] この心境に至るための道筋は、彼によって示されている。
しかも、中村天風の思想はこのような事柄に限定されない広大な背景を持っている。彼の思想は、巷に溢れている自己啓発に関する書物、あるいは軽薄短小なビジネス本と区別されるべき射程を持っている。多くの彼の信奉者と同様に、彼の哲学を纏めてみよう。しかし、彼の哲学書に関する解釈書は数多いが、その宇宙論から根源的に解釈した書物は数少ない。本稿がその一助に寄与すれば幸いであろう。
- 人間的自然と宇宙
2.1 闇の夜に鳴かぬ烏の声
「闇の夜に鳴かぬ烏の声聞けば、生まれぬ先の親ぞ恋しき」という有名な詩歌は、一休宗純(1394~1481年)によって作成された、とみなされている。この解釈は古来より多々あるであろう。中村天風もまた、この和歌を講演、訓話等で引用していた。[8] 本節では以下のように解釈したい。私という一回かぎりの生を現生に送り出したもの、闇の奥にあるものが存在しており、その声が聞こえるはずだ。私もたまに、聞こえるような気もするが、どうであろう。少なくとも、その声を聞こうとしている。
鳴かぬ烏の声とは何か。私という人格を送り出し根源的なものとは何か。私に何を託そうとしているのか。宇宙が進化するか、否かはわからないが、何かをするためにここにいることは、間違いないであろう。私がここに存在している究極の根拠が問われている。その根源的なものに関して考察してみよう。人間あるいは人類の歴史に関して、どのような寄与ができるのであろうか。
2.2 宇宙観とプランク定数h
この問題に解答するために、中村天風の宇宙観に言及してみよう。彼の世界観によれば、「人間は宇宙の進化と向上に順応するために生まれてきた」。[9] そして、「この宇宙の創造を司る造物主と称する宇宙霊」こそが、人間を創造した。[10] しかし、この宇宙は進化するのであろうか。「宇宙の本来が進化と向上にある」。[11] 宇宙は進化し、向上する、と断言している。宇宙が進化する根拠に関して中村天風は曖昧である。宇宙が根源的で絶対的であれば、進化も向上もする必要はないからである。現象界に送り出された人間は、宇宙に寄与することは何もない。
しかし、次のように考えることによって、中村天風はこの難問に回答を与えている。中村は、宇宙霊を日々変化している生命体とみなしている。「宇宙霊は、休むことなく働いている。創造に瞬時の休みもなくいそしんでいる活動体である。だからこそ、この宇宙はつねに更新し、常に進化し、向上しつつあるのである」。[12] 中村天風によれば、生命体つまり有機体として宇宙霊こそが、宇宙エネルギー総体である。この中村天風によって把握され、命名された宇宙霊が、自然的人間の環境世界を包んでいる。[13] 「宇宙霊なるものこそは、万物の一切をよりよく作り更える」[14] 宇宙霊は、現象界を改善する方向へと変化させる。人間がその用意をした場合、「造物主(宇宙霊)の無限の力が自然に自己の生命の中へ、無条件に同化力を増加してくる」。[15] 現象界において人間は、この宇宙の本質を無限に受容できる。
この思想は次のように要約される。「宇宙の最初は、ただ宇宙霊のみであった」。[16] ここまでは、私にも理解できる。しかし、なぜ宇宙霊は絶対的ではなく、進化あるいは変動するのか。この点が理解困難であった。
2.3 プランク定数h
しかし、中村天風は宇宙霊を固定的に考察するのではなく、エネルギーと周波数の関係つまり超極微粒子のブランク定数hとみなしている。「万物能造の宇宙エネルギーは、この空間と俗に人々から呼称せられているものの中に、遍満している『絶対に人類の発明した顕微鏡は、分光器では、何としても分別感覚することの不可能な・・・見えざる光であるところの超極微粒子』だと論定している。しこうして、この『超極微粒子』を、今から半世紀以前にドイツのプランク博士が、これをプランク常数Hと名付けた。このプランク常数Hなるものこそ、ヨガ哲学者のいう宇宙霊なのである」。[17] プランク(Planck, Max 1858~1947年)によって発見されたプランク定数hは作用量子(Wirkungsquantum)であり、つねに活動している。これは、この光子のエネルギーと周波数の関係であり、固定的なものではなく、常に流動している。共鳴子の振動は、その振幅と位相を変化交替させる。
中村天風によれば、鳴かぬ烏の声あるいは生まれぬ先の親は、ブランク定数hである。「なにもかもすべて、あにあえて、人間ばかりじゃない。現象界に形を現わしている物質はみな、その根源は見えないElementary particle (素粒子) だ」。[18] 現象界において個別的肉体が生成する以前に、その根源は形成されていた。すべての肉体と精神は、この超極素粒子に還元される。
但し、この流動性は、以下のような作用量子に関する中村天風の独自の解釈に基づいている。「宇宙現象の根源をなすところの『気』というものは、(+)の『気』と(-)の『気』の二種類に分別される。そして、プラス=+の『気』は、建設能造の働きを行い、マイナス=-の『気』は、消滅崩壊の働きを行って、生々化々の現実化のため、常に新陳代謝の妙智を具顕しているのである」。[19] この中村天風の言説がプランク定数hにおけるどのような要素と関連しているのか、不明である。
通常の宗教学によれば、宇宙霊とは唯一絶対神であり、固定的に思惟されている。例えば、ユダヤ教あるいはキリスト教における唯一絶対神が、流動的であるはずがない。この常識に囚われていた私は、宇宙霊を固定的に考察していた。
2.4 宇宙の進歩
もちろん、宇宙が進歩しているかどうかに関して異論はある。宇宙には進歩という概念がないという宇宙観もまた、真理である。もちろん、宇宙が固定的ではなく、流動的であるという断定に異論はない。しかし、その流動性に進歩があるか、否かに関してはわからない。
数千年における人間の歴史という尺度において、果たして宇宙には進歩がないかもしれない。「循環=繰り返しには『進歩』がない。・・・田舎(農業)は、この大自然の『永遠の循環』『進歩なき繰り返し』と共にあるべきものである」。[20] 進化あるいは進歩は自然において存在しない。中島正はこのような東洋的宇宙観に基づき、その思想を形成している。中村天風の宇宙観は、中島正の宇宙観から区別されている。しかし、どちらの宇宙観が正当であるかは、時間的尺度の差異に基づき決定される。中村天風は数億年単位で、中島正は数千年単位で宇宙を考察している。また、前者は惑星を含めた宇宙総体に基づき宇宙を考察していることと対照的に、後者は地球総体に基づき宇宙を考察している。
3. 道具としての肉体と精神
3.1 人間の本質
中村天風の宇宙観によれば、生命体を含む物質の根源は素粒子である。したがって、自己の本質は、肉体でもなければ、精神でもない。「自己それ自身と自分のpossess (所有物)とはちがうはずだもの。体や心は自分ではない。自分というこの気体である真我の本質が、現象界にある生命活動をするために必要とする道具なんですよ」。[21] 心すら、自己の本質とは別物である。肉体至上主義だけではなく、精神至上主義もまた否定されている。「自分というものは・・・肉体や心をつくって、さらにそれを使って命を活動させようとする生命の根本中枢である霊魂という気体だ」[22] 人間はこの気体を認識する必要がある。
確かに、精神はかなり状況依存的である。特に、感情は不確かである。肉体も少しの変動で、逆転する。便秘になっただけで、かなり憂鬱になる。
気体である真我の本質が、自己の精神と肉体を統御する。「人の生命は宇宙の創造を司る宇宙霊(=神仏)と一体である。そして人の心は、その宇宙霊の力を、自己の生命のなかへ思うがままに受け入れ能う働きをもつ」。[23] 宇宙の本質としての気体と個人が一体になることによって、精神と肉体の欲求すらも統御できる。真我は心でも、精神でもない。
真我の認識は、精神と肉体を超越している。したがって、肉体にも心にもとらわれていない場合に初めて、真我に到達できる。何にも捕われておらず、眼前の事柄に没頭しているとき、真我に到達できているのかもしれない。心と身体を超越して、課題に取り組んでいるときに初めて、真我に到達できる。
しかし、多くの知識人は、精神と肉体の虜になっている。自己の本質ではない精神と肉体の欲求を制御できない。真我が現れなくなっている。精神も肉体も真我の声を聴くことができない。個別的個人としての私の存在意義を理解できなくなっている。しかし、真我はどのようにして認識されるのか、未だ不明である。
また、精神と肉体以外に真我が存在するとすれば、死後、つまり自己の肉体と精神が破壊された後、真我はどのようになるかも、不明である。中村天風は死後の世界に関して、ほとんど論述していないように思われる。
「珈琲時間」1 【他者の存在と闇の夜に鳴かぬ烏の声を聞くために】
3.2 宇宙霊と自然的人間
自己の本質が真我であるという認識に基づくかぎり、これ以後は一瀉千里である。[24] 「わが生命は宇宙霊の生命と通じている。宇宙霊の生命は無限である」。[25] 宇宙霊と人間の精神が同一化される状況へと自己の精神を方向づけるだけである。「人間は、恒に宇宙原則に即応して、この世の中の進化と向上とを現実化するという、厳粛な使命をもってこの世に生まれて来た」。[26] 宇宙の進化と感応する人間的精神の目的が、明瞭に述べられている。「闇の夜に鳴かぬ烏の声」は、一度だけではなく、日々聞いている、あるいは聞こえているのかもしれない。宇宙霊は日々、変化している、あるいは向上している。万物の根源である宇宙霊が変化している以上、それを受容している人間もまた変化している。人間は、その変化を受容できる。「人の心は、その宇宙霊の力を、自己の生命のなかへ思うがままに受け入れ能う働きをもつ」。[27] なぜ、人間はその能力をもっているか。その解答は、宇宙霊が人間を創造したからだ。しかし、このような結論は、循環論法に陥っている。
3.3 自然的人間の潜勢力
ここからは、心を積極的にするための方法論の実践だけである。例えば、怒り、怖れ、悲嘆ではなく、感謝と歓喜の感情に満ちた生活をおくることが重要である。「宇宙の神霊は、人間の感謝と歓喜という感情で、その通路を開かれる」。[28] 宇宙霊と自然的人間の精神が合体することによって、積極的感情が満ちる。自然的人間の運命も積極化する。このような消極的感情は、自然的人間の心にはない。
このような積極的感情が生成する根拠は、人間には生命力が備わっていることにある。「人間の生命の内奥深くに、潜勢力という微妙にして優秀な特殊な力が何人にも実在している」。[29] 人間的自然の内に、宇宙霊の積極性を受容する力が備わっている。宇宙進化と同様に、人間も進化することが前提にされている。以下では、この進化へと至る具体的方法を列挙してみよう。この具体的実行例は、多くの信奉者が日々配慮しているのであろう事柄に属している。
3.4 自然的人間の目的
自然的人間は、目的を持って存在している。そして、生まれる前から、何らの目的を持っている。闇の夜の鳴かぬ烏の声によって規定されている。「自分がある目的をもって生まれてきた」。[30] 造物主つまり宇宙霊によってこの世に出現した。理想を持つことが、重要である。生まれぬ先の存在者の目的、つまり理想をつねに明確にしなければならない。「常に気高い標準をもって、しかも人生理想を変更しないで心に描いている人は、・・・その理想を現実になしえる資格を自分でつくっている・・・宇宙霊の力がそれへドンドン注ぎこまれんだから」。[31] その理想は、つねに自己の精神において保持されねばならない。どのような環境世界に生きようとも、明るく、朗らかに、生き生きとして生きることによって、宇宙霊からのヴリル=活力を心身に取り入れることができる。この理想は、心が清浄である場合にだけ、実現される。「心の世界には人を憎んだり、やたらにくだらないことを怖れたり、つまらないことを怒ったり、悲しんだり、妬んだりするというような消極的なるものはひとつもない」。[32]
「やたらにくだらないことを・・・つまらないこと」に鈍感であること、私の表現方法によれば鈍牛になるべきであろう。鈍牛という愛称で知られた大平正芳元総理は、戦後最高の保守思想家であった。本質だけを追求したようにも思える。
情報は他者から自己に伝達される。生きているかぎり、電話もかかってくれば、メールを受信しなければならない。いちいち、返信するから心労も増えてくる。どうしようもないことは、どうしようもない。相手にしない。相手は、頓珍漢な要求を自己に課してくる。その頓珍漢な要求に対応しようとするから、事態はさらに複雑怪奇になり、頓珍漢は数十倍に増加するしかない。これを避けるためには、清々しい心境に至るしかない。清々しい心境、ひらがなで表現してみよう。すがすがしい。この心境こそが、中村天風がめざした心境のように思える。この心境に至るには、どのようにすべきであろうか。会社で同僚と論争になれば、相手に任せ、疾病になれば医者に任せ、そして宇宙に任せる。自己の肉体すら、宇宙に任せるしかない。人間的意識から独立して、自律神経は自己の役割を遂行する。真我は肉体の機能を自律神経に任せるしかない。人間の喜怒哀楽の感情は、もはや宇宙の法則の前には無力であろう。
もとより、相手を無視すれば社会的評価、会社内での立場も悪くなるであろう。しかし、死刑になることもなければ、解雇処分になることもない。いつものように対処すればよいだけであろう。
本来の人間の心には存在しないにもかかわらず、消極的心境に我々は陥る。どのようにすれば、その状態から逃れることができるのであろうか。そのような状態に陥っていることに気が付いている場合、「その思い方、考え方を打ち切りさえすれば、もう悪魔はそのまま姿をひそめる」。[33] まさに、禅宗の名言、「念を継がない」ことが重要である。悪魔を退散させるためには、どのようにすべきであろうか。中村天風は明瞭に示している。「俺はこの世の中で一番気高い人間だ、俺はいちばんこの世の中で心のきれいな人間だ、・・・それをしょっちゅう思い続けていくんだ」。[34] 先ほどの「鈍」という概念を用いれば、あらゆる情報、要求に鈍感になろうとも、これだけは鈍になれない情報、要求がある。この要求に対応することが、自己の本来的欲求になる。一筋の光が見えてくる。その光こそが、一休禅師が感じた「生まれぬ先の親」であろう。
心が汚れている場合には、それを拭うことが肝要である。人間は、怒り、悲しみ、妬み等、様々な消極的感情に捕らわれる。しかし、怒り、悲しみ、妬み等に拘泥すべきではない。「腹のたつことがあろうと、悲しいことがあろうと、瞬間に心から外してしまえばいいんだ。心を積極的にすることを心がけて、自分の心を汚さないようにするには、気がついたらすぐそれを拭いてしまえばいいじゃないか」。[35] 一時の感情に拘泥しない。打ち切る、念を継がない。しかし、凡人は自己の脳裏に最悪の事態を想定する。その心像に対して恐怖する。この心像も、過去の恐怖を針小棒大に考えているにすぎないことから生じている。「私は必要のないことは雲烟過眼(物事に執着しないこと)、太刀風三寸身をかわす。必要のないものはすーっとかわしちまえさえすればいい」。[36] 何度も消極的事象に対応する必要はない。いちいち反応しない。例えば、自ら感情を刺激する消極的メールが来れば、それに返信しない。返信するのではなく、ごみ箱に入れ、削除する。後生大事に馬鹿げたメールに反応するから、問題を引き起こす。数週間経過すれば、馬鹿げたメールを送信したものも、忘れているからだ。
しかし、なぜ、怒り、悲しみ、妬み等の消極的感情に捕らわれてしまうのであろるか。消極的感情が生じる根拠は、他者に対する過剰な感情移入にある。怒り、悲しみ、妬みの対象は、私の環境世界に存在している他者である。遠い世界に住む名前も知らない人々や過去の人間に対して、眠れぬほど煩悶することはない。例えば、私の知人は、地下鉄等の公共交通において大声で携帯電話によって話している人間に殺意を覚えたそうである。実際に口論になり、かなり不愉快な記憶が今でも、消えないそうである。この怒りは正当であろうか。しかし、自分が乗車していない別の車輛において、同様な行為があったとしても、彼の感情が不安的になることはない。また、キリスト教徒に対して残忍な殺人行為をしたローマ帝国のネロ皇帝や、比叡山焼き討ちを命令した武将、織田信長の行為に対して、煩悶することはないであろう。彼らの名前を日本史や世界史の教科書を通じて知っているだけであり、その人間を直接的感覚によって知覚していない。大声で話しをすることと、僧侶を虐殺すること、どちらが人間の歴史にとって重大であるか、それは自明な事柄に属している。
視野に入った人間、職場の同僚あるいは家族等が、怒りの対象である。夫婦喧嘩などは、その典型である。なぜ、自らを取り巻く環境世界の人間に対して、怒り、悲しみ、妬むのであろうか。過剰の思い入れ、自ら主張に対する異見が、気に入らないからである。その背後には、対象になった人間こそ、自らにとって重要であるという過剰な感情移入がある。彼も、そして彼女も通りすがりの人間である。「列車がフルスピードは走っているときに、外の風景を気にしてはいないじゃないか」。[37] 他者は、「外の風景」にしかすぎない。流れゆく光景の一つでしかない。私の肉体も、そして私の精神も流れゆく風景として外から眺望できるとき、幸福になれるであろう。
この心境を中村天風は以下のように要約している。「急行列車の中で、窓に映るいろんな風景を、フーッ、フーッと雲烟過眼する気持ちが、とらわれのない、執着解脱の心境なのである。・・・不即不離、いらないことは、耳から入ってこようと、眼にふれようと、あるいは感覚に感じようと、つかず、はなれずでなければならない」。[38] 雲烟過眼の心境にあるかぎり、環境世界と不即不離の関係に入ることができる。この心境は、禅宗の生き方にもつながる。道元は、その修行の一つである転座の心の在り方を説いた『典座教訓』を「大心」という概念によって終えている。「大心とは、其の心を大山にし、其の心を大海にして、偏無く党無き心なり」。[39] 典座の心境にとって重要な事は、些細なことによって自己の精神を混乱させないことである。その対象の現象形式である重さ、軽さに拘泥することなく、自然の風景を見ても、その現象形式である春秋の区別に心惹かれることなく、自然の風景の本質を忘却することはない。事柄の本質を理解し、その現象形式が人間の心に介入することを防ぐ。
さらに、自己の宇宙霊から与えられた使命に殉じることは、徹頭徹尾、自己本位に生きることにつながる。自己つまり真我の意志に従うことである。「意志とは、真我そのものが絶対純正のもので、その純正なるものの属性であるから、これまた絶対純正なものである」。[40] 真我の命令である意志が、精神的領域つまり心において生じたものを客観的に思量することが重要であろう。自己の心に生じた事柄が冷静に第三者の視点から考察されるべきであろう。「一切精神領域に発生するものは、心がそれを感じるのあると、丁度第三者の動静を看るようにすべての心的作用や心理現象を思量するという意識観念を習慣づけるのである」。[41] 自らの心に生じた雑念を真我の視点から考察することによって、意志の力が発現される。真我の使命を認識すれば、精神に高揚感が生じる。世俗的表現を用いれば、身体が熱くなる。もちろん、微熱があるわけでない。丹田が熱せられるような高揚感を受ける。
もちろん、真我の使命とおりに生きているのではない。日々、真我の使命と矛盾しなくても、日々、様々な事象と格闘しなければならない。例えば、確定申告の書類を作成することは、真我の使命とどのような関係にあるか不明である。
しかし、本源的使命は、他者の言動、他者の振舞を真我の立場から見る。他者からどのように言われようと、他者からどのような評価を下されようと、自分には無関係である。「『わずらわされる』というのは、心が『物』かまたは『人』かに『役』せられる状態のことで、天風哲学のほうからいうと、自己の心が相対事象(それが物であれまた人であれ)に奪われた状態・・・詳しくいうならばその主位を乗っ取られたときのことをいうのである。・・・・自己の人生というものは、あくまでも自分のものであり、決して他人のものではない。しかし、心が物や人に対して主位にあり能わずして、これに役せられ、わずらわされたのでは、勢い大切な『心』が物や人に主座を奪われ、やむなく従座につかねばならぬこととなる」。[42] 例えば、食事という行為の最中には、食事に集中する。それ以外の煩瑣なことに気を奪われない。主座は食事であり、それ以外のことは従座にすぎない。環境世界にある他者あるいは物は、自己と本質的関係を結ばない。宇宙霊によって与えられた自己の使命にとって、環境世界の他者、自己以外の物体は、流れる風景の一コマに過ぎなくなる。
宇宙霊と自己を統一可能であれば、天上天下唯我独尊の境地に至る。現代社会では、たんに自惚れと誤用されているが、自己の使命に目覚めるとき、唯我独尊が、自己の身体と同一化するであろう。
自らの使命を自覚することは、何も特別な使命を考察することを意味するのではない。むしろ、自己が為している日常的行為、料理、掃除、勉学、仕事等に没頭することにある。もし、没頭できたとき、精神は清々しさを感じることができる。没頭しているとき、他者の批判、否他者の存在すらどうでもよいことに思える。「楽しい」ではなく、「清々しい」と思えるとき、幸せでしょう。後者の場合、精神あるいは身体の底から、何かが出ているのかもしれません。
自然人が行うすべて行為を、気を込めて行う。他のことをしながら行為することを慎む。例えば、煙草を喫するという行為を私は、気を込めて行おうと思う。いままで、勉強しながら、あるいは音楽を聴きながら喫煙してきた。煙草それ自体を味わっていなかった。近年、喫煙所で煙草を喫することが強制されている。しかし、喫煙所では、煙草一本、一本を愛しむようにして喫するようになった。机の側で喫するときでも、煙草を味わってみたいと思う。
同時に、他者の言動、他者の態度ではなく、自らの言動、態度に批判的考察を加えることも重要であろう。他者を批判するなど、時間の浪費にすぎない。「真に自己省察なるものが、人生向上へのもっとも高貴なことであると自覚している者は、・・・他人のことに干渉する批判という無用を行わずに、常に自己を自己自身厳格に批判して、ひたむきに自己の是正に努力することを、自己の人生に対する責務の一つだと思量すべしであろう」。[43] 他者との関係ではなく、自己の現在を省みて、その正当な途を思量しなければならない。
4.人生建設のために必要な生命力
4.1 6種の生命力
生命力は、以下の6つに分類されている。体力、胆力、精力、能力、判断力、断行力の6つに分類されている。[44] この生命力は6つに分類されているが、それぞれ相関している。人間の生命の内奥には、崇高な使命を現実化するための潜勢力が備わっている。ここでは、2番目の胆力について言及してみよう。胆力は一般的な人間の生命力においてほとんど言及されない。胆力は後期近代の知識人にはほとんど顧慮されていない生命力の一側面である。単純化して言えば、右顧左眄しないことである。中村天風の思想の独自性として注目される。
周知のように、彼は武道とりわけ剣道において当時の一級の使い手であった。日露戦争直前の満州において、清龍刀の達人を殺したことが知られている。当時の軍事探偵としての使命を全うした。真剣で殺人を殺すという行為には、潜在的には自分が殺されることも含まれている。
4.2 周章狼狽
単なる思い付きで行動しないことである。思い付きは慌てるときに生じる。「慌てるというのは、またの名を周章狼狽というが、これは心がその刹那放心状態に陥って、行動と精神とが全然一致しない状態をいうのである」。[45] 通常、行動と精神はほぼ一致しない。通常、行為には前もってその選択肢が考察されている。ある状況における選択肢は、前もって用意されている。段取りという言葉によって表象される行為は、すでに考察済であったはずである。にもかからわらず、人間は周章狼狽する。人間は周章狼狽しようとしなくても、収まるところに収まる。すべては、よくなる。
問題は、現在の状況を引き起した過去の原因を探求することではなく、現時点での自己の環境世界を考察することである。環境世界の資源を活用することによってしか、窮地から脱出する方法はないであろう。窮地から脱出する方法は、必ず存在している。冷静沈着に環境世界を見回せば、火中ですら、活路つまり「逃げ道」はある。窮地から脱出する方法は、必ず存在している。「宇宙の絶対的な実在の世界から、この現象世界を観ずれば、真実『困ったこと』などありえないのです。・・・『すべてはよくなる』のです」。[46] 「困ったこと」は、この世では生じない。少々の困難に出会っても、周章狼狽しないことによって、困ったことは眼前から去ってゆくはずである。「私はもはや何事も怖れまい。それはこの世界並びに人生は、いつも完全ということの以外に、不完全というもののないよう宇宙真理が出来ているからである」。[47] 宇宙真理からすれば、「困ったこと」など存在するわけはない。否、人間がこの真理を獲得することによって、困難は解決される。
さらに言えば、最終的に、人間はすべて涅槃寂静の世界にゆく。結論は前もって決定されている。刑務所の絞首台から行こうが、家族見守られてられ行こうが、最終的には素粒子の世界に帰還するしかない。そのような心境になれば、問題ないであろう。生き急ごうが、生き急ぐまいが、すべての目的地は同一である。中村天風試論から外れているような気もするが、目的は同一である。アニメ「一休さん」の歌詞のように、「気にしない」ことが、重要であろう。
「珈琲時間」2 【胆力は、環境世界の変化を看過する力である】
4.3 一つのことへの集中――柳生但馬守(柳生宗矩)と沢庵禅師(沢庵宗彭)の問答
人間は一つのことしかできない。「柳生但馬守が未だ修行中のおり、沢庵禅師に次のような質問をしたことがある。『一本の剣は扱いやすし、されど、数本ともなればいかになすべきや?』と。禅師答えて曰く、『・・・数本もやはり一本一本扱うべし』」。[48] 中村天風から学んだ生き方に関する方法論は幾つかあるが、この方法論は私を魅了した。瞬間、瞬間に人間ができることは、一個でしかない。そのときどきの課題に集中するしかない。現在の課題、一本の剣に集中し、それ以外の剣に注意を向けないこと、これが中村天風の真意であろう。
現在の課題を考える際に、どうでもよい煩瑣なこと、つまり現在の課題とは無関係な事柄、例えば金銭的事情、世間体そして利害関係等が参入してくる。これを除去し、現在の課題に集中することが、重要であろう。往々にして、俗人は現在の課題が何なのか、忘却している。それを明白にしてそれに集中することによって、次の課題が見えて意識化される。(「6.4 自分のことを自分でする」参照)
この一節は、中村天風論を理解するために、重要であるので、沢庵和尚の原文を参照してみよう。中村天風論を考察するうえで、困難な点は、彼が大衆的な啓蒙運動を重視していることによって、自己の言説の典拠をほとんど示していない点にある。[49] ただ、この柳生宗矩と沢庵宗彭の対話は、日本語の文献から引用していることが明白であるので、ここで、原文を示しておこう。「十人の敵が一太刀ずつ、こちらに浴びせかけてきたとしても、一太刀を受け流して、跡に心を止めず、次々に跡を捨て、跡を拾うならば、十人すべてに働きを欠かぬことになる。十人に十度心が働いても、どの一人にも心を止めなければ、次々に応じても、働きは欠けますまい。もし、一人の前に心が止まるならば、その一人の太刀は、受け流すことはできても、二人目の時は、こちらの働きが欠ける」。[50] この沢庵宗彭の原文は、中村天風の議論と同旨とあるとしても、さらに注釈を必要としているのであろう。すなわち、一つの行為に心を留めず、次々に生じる事柄に心を働かせることが重要であろう。この心境は、単に武道の心得だけにとどまらず、人生の事柄一般に妥当するであろう。沢庵宗彭のこの言説は、ある点に心が留まれば、次の事柄に心が働かなくなる。ここで暗喩されている不動智は、一つの事柄に心を留めることではない。むしろ、逆である。留まらないことが、不動智である。
「珈琲時間」3 【現在の限定性を確認するための方法】
5. 理想的人間像への精進
5.1 価値ある人生
人生は一回限りである。人間が現世において生きていることが、奇跡のようである。したがって、人間の本質は尊い。「価値ある人生を活きるには、先ず自分の本質の尊さを正しく自覚することが必要である」。[51] 何か使命あるいは意義を持って現世において生まれてきた。価値高い生き方が万人に可能である。その価値高い生を可能にするためには、「霊性満足」を指向するしかない。この目標をかかげるかぎり、失望や煩悶もないはずである。「『霊性満足』の生活目標なるものは小我的欲求の満足を目標とするものではなく、・・・自己の存在が人の世のためになるということを目標とする生活であるからである」[52] 自己の存在理由が、人間の環境世界に寄与する。
しかし、人の世にとって私の存在がどのように寄与するのか。あるいは、別の言葉によれば、世界における私の役割を自覚することは、簡単ではない。しかし、私の生が存在すること、出発点はそれ以外にはない。
5.2 自分の心の更新
心は日々、更新されねばならない。「日々更新の宇宙真理に順応するためには、先ず自己の心を日々更新せしめざるべからず」。[53] 宇宙の目的が進化と向上あるか、否かは、現在の私には判断できない。しかし、宇宙の形態が変化していることは、異論がないであろう。その変化に私つまり私の心も変化する。宇宙霊に自己の本質があるかぎり、私の心もその変化に対応しなければならない。
5.3 積極的言葉の使用
中村天風の偉大さは、この理想的人間像の形成への道筋を示していることにある。彼の死後、半世紀が経過しても、彼の思想が参照される理由もまた、この点にあろう。この実践的方法論をここで再録してみよう。自然的人間が生きる道標にとして、中村天風の哲学は価値がある。
誰でも、無意識に使用している口癖がある。それを対象化する。使用している言語、とりわけ無意識に使用している言葉を意識化することが、中村天風の思想を理解するために必要である。「言語は自己感化に直接的な力を持っている」。[54] 言語活動が自己の心を影響づけるからだ。自己によって発話された言語が、自己の心境を影響づける。積極性を指向しない口癖は、彼の哲学が意識化されていない証拠である。厳に慎むべきであろう。
それは、山岸巳代蔵の主張にもある。「いつでも快適な状態、これが真の人間の姿だ」。[55] ここでも消極的ではなく、積極的な人生が真の人生であるとされている。「大変なことが起きたようなことでも、大変なこととは思わない」。[56] 積極的なこと、やるべきことが見つかれば、大変なことも大変でなくなる。現前の課題が追求されるべきであろう。
5.4 諸事万事気を込めて行う
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5.5. 他者との関係、その一、三勿
他者に対して、機能的関係に限定して交際すれば、煩悶が生じることはない。君子の交わりは、淡きこと、水の如し。この関係を他者とのどのような場面でも、貫徹できれば問題ないであろう。しかし、私は他者に対して、怒る。悲しむ。怖れる。「最後に必要な注意は、三勿の実行ということである。三勿とは何を意味するかというと、(1)、勿怒、(2)、勿悲、(3)、勿怖の三つの事柄である」。[57] 私は他者に対して、このような消極的感情に支配されている。過剰に他者に期待することによって、そのような感情が芽生える。煩悶すれば、生命維持のための活力が大幅に減少する。にもかかわらず、消極的感情に支配されている。中村天風を咀嚼していないからであろう。
人間は、激しい暴風雨に出会うこともある。その暴風雨に出会っているときには、環境世界を見据えることはできない。暴風雨が去り、冷静になると対処法があったことに気づく。後の祭りである。問題は、暴風雨に出会っているときに、冷静になれないことである。冷静になるには、どのようにすべきであろうか。どのようにして、消極的感情を制御するのであろうか。
中村天風自身は、この三勿と同時に、三行を挙げている。三行とは、正直、親切、愉快である。「三勿三行を厳格に実行して、自己の尊厳を冒瀆する消極感情の清算を現実にすべし」。[58] 彼の思想において、三勿三行と六つの概念が統一的に把握されている。しかし、彼と同程度の心境に達していない初心者からすれば、三勿を回避するために、三行を目標とすべきではないのであろうか。通常の人間は、三勿でなく、怒り、怖れ、悲しむ。しかし、より、三行を指向することによって、三勿の心境に到達できるように思われる。三勿三行は分離し、とりわけ後者の愉快――但し、単なる陽気な心境ではないーーの状態にいたれば、怒り、怖れ、悲しみから解放されるような心境に至るであろう。
怒り、怖れ、悲しみという感情は、通常、自己の行為を起点としている。自己の何らかの必然性に基づき、他者あるいは環境世界に働きかけた結果、生じる。例えば、他者に親切にした行為、他者に贈り物をした行為、これらは何らかの内的必然性に基づいた行為である。しかし、その反応は、想定した結果とは異なる。自己の行為は、行為を実施した時点で終了している。他者の反応に対する感情は、無意味である。むしろ、内的必然性の妥当性を問わねばならない。
「珈琲時間」4 【煩悶の対象として他者】
5.6 他者との関係、その二、清濁を併せ呑む
他者の悪い側面、すなわち自己にとって悪い側面が気になることがある。しかし、他者、より一般化して言えば、他の物を含めた環境世界全般には消極的側面がある。その側面のみを強調すれば、まさにこの対象を憎むことになり、まさに、自らが怒り、そして悲しみ、煩悶する。それによって、他者、他物そして環境世界一般を憎悪する。もちろん、その部分は憎むべき対象であるとしても、それ以外の側面もある。この心境が高じると、環境世界それ自体を憎悪するしかない。「清濁をあわせ呑まない心でこの混沌たる人生に活きると、自分の活きる人生世界が極めて狭いものになる。そして、その上に、ことごとに不調和を感じる場合が多くなって、しょせんは人生を知らず識らずの間に、不幸福なものにしてしまう」。[59] ある人間、ある物そしてある環境世界の一側面、それがよしんば消極的、否定的であろうとも、それを憎悪してはならない。それ以外の側面があるからだ。「彼には、・・・与しがたき習癖があるとか等々の理由をつけて批判排斥して、せっかく結ばれた因縁を無にするというのは、むしろ極言すれば、天意を冒瀆する者というべきである。天意を冒瀆する者には、また当然の報償が来る、天意の報償は絶対にしていささかの仮借もない」。[60] 他者の悪癖を憎悪してはならない。自分のためである。天意の冒瀆の結果は、自己に還ってくる。
さらに、他者を批判するということは、自己の現状に対する批判が蔑ろになっていることに由来する。「自己批判を厳正にしないと、どうしても他人の批判にのみ、その注意がいたずらに注がれることになりがちになるものである」。[61] 自己の現状に対する注意が向いておらず、現状の方向性が曖昧になっているときに、他者の批判という安易な方向に向かう。他者を批判している自分は、安穏として無傷のままである。進化も積極性も欠けている。
「珈琲時間」5【函館市という憂鬱と矜持】
「珈琲時間」6 【地底国教授の憂鬱と矜持】
6. 理想的人間への具体的方策
6.1 助けを求めない。
まず、運命の主人公になるためには、悲鳴を上げないことが重要である。「悲鳴を上げないことを第一に自分に約束しなさい」。[62] 悲鳴を上げたとこで、誰も助けてくれない。多くの人は口癖として、助けを求める言葉を発している。例えば、「助けて、皆」あるいは「助けて、神様」という言葉を発している。しかし、そもそも皆あるいは神とは誰であろうか。この言葉を聞いている人は、自分でしかない。自分の人生を自分で決定するしかない。
共同体、例えば『じゃりン子チエ』において描かれているような下町共同体が、このような言語を発する自然的人間の脳裏にある。この無意識に設定した前提は、間違っている。後期近代における社会において、他人は誰も自分の現状に関心がない。この漫画における竹本テツは、つねに両親、子供、地域社会の人々から慕われている。表題とは異なり、この漫画の主人公は竹本テツであろう。彼は、博徒、警官、両親、地域共同体の人と関係している。彼は、下町共同体の住民にとって迷惑な存在である。粗暴で、暴力的そして無教養である。彼らはこの主人公を迷惑な存在と認識しているにもかからず、両者は、終生関係づけられている。この下町共同体の主人公ですらある。この漫画の最終頁に登場人物の集合写真があるが、竹本テツがその中心に位置している。[63]
近代人は、竹本テツことテッチャンにはなれない。他者に助けを求める人は、そこから過剰な期待を他者、例えば地域社会の人々、あるいは会社の同僚に期待していた。彼らは、限定された時間、限定された空間そして限定された目的においてする人と関係しているにすぎない。家族ですら、その限定性から逃れられない。この条件下でしか、他者と私は関係を構築できない。この関係を超えた別の関係を突然築くことはできない。
もっとも、これ以上書くと、消極的思考に陥る。いずれにしろ、助けを求めず、自分のことを自分でする。助けを求めるような口癖をやめよう。心に隙ができよう。自分の関係のないことには、関与しない。宇宙から与えられた自分の使命を、つねに再認識してゆく。自然的人間はつねにこれを忘れがちである。
「珈琲時間」7 【中村天風の哲学の実践例として中途失明者の潔さ】
6.2 不満なし
自然的人間は、自らの現状に不満を持っているが、中村天風は自らの運命を悲嘆することを戒めている。「不平不満を言わないようにしろ」。[64] 宇宙霊がこのような現状に自然的人間を置いている。それは、自らが播いた種でもある。不平不満を言ったから、現状が変革されるわけではない。また、心が汚れる。現状においてできるかぎりの精力を使用することが重要である。さらに、この心境に至れば、現時点での状況配置をより冷静に考察することができる。
目的を定めず、現状においてできるかぎりのことをする。「心に従いながら、がむしゃらにファイトを燃やして行く」。[65] 自己の現状に不満を言うのではなく、現状においてできるかぎりのことをする。現前の課題を心から信じているかぎり、それに邁進するしかない。「結局、当たって砕けろです」。[66] 現存する課題だけに集中する。
6.3 とらわれからの脱皮あるいは取越苦労の排除
多くの自然的人間は、こだわり、心配、取り越し苦労に、とらわれている。そこに拘るかぎり、心配事は永遠に尽きない。中村天風はそこから脱却するためには、別の思考様式を考察している。現存する心配事に意識を集中するかぎり、そこからの脱却はできない。むしろ、現在の課題、現前の課題に集中することを提起している。「自ら顧みて、今あなたたちの心にとらわれがあるとしたら、そのとらわれから抜けださなきゃだめだよ。とらわれから抜け出すのは難しくないんだ。・・・心を打ちこんで何事かをする習慣をつけると、今までとらわれていたはずのものが、向うから出ていってしまう」。[67] とらわれていることから、抜け出ようとすると、よりそのとらわれに執着してしまう。むしろ、現在の課題に集中することが、そのとらわれから脱出することができる。「澄み切った気持ちでもって、気を打ち込んでやると、その結果はというのか、実際ありがたいんだ」。[68] 無意注意ではなく、有意注意力を旺盛にすることが、澄み切った心境をもたらす。
有限な自然人が過去の状況、未来の状況を考慮しても、無意味である。時間は現在においてしか存在していない。「過去、・現在・未来といいって見たところで、それは畢竟、相対的考察に因由する想定(Einbildung)でしかないからであります。即ち、厳格に所論すれば、そのすべての一切は、現在の連続しかない。・・・人間の心というものは、油断をすると、現在からいつしか離れて、役にもたたぬ否、役にたたぬどころか、その結果が自己を或いは病難に、或は運命難という人生不幸に陥らすべく余儀なくされる様な、あらずもがなの方面へと執着せしめ易いという傾向性をもって居るものなのです。要するに、後悔するとか、煩悶するとか、または徒らに精神生命の力を消耗摩滅するに等しい『取越苦労』をするなどというのは、この心の因有する傾向性に適当な制約を与えることを知らぬ人が、その貴重な人生に物好きに味わせて居る愚にもつかない喜劇的の悲劇でしかないのであります。・・・『心は顕在を要す、過ぎたるは遂う可からず、来らざるは邀うべからず』というアノ言句の中の顕在というのは、要するに途上の消息を喝破せし言葉なのであります。・・・ふたたび来らぬものを けゆの日は ただ ほがらかに 活きてぞたのし」。[69] 人間にとって、過去もなければ、未来もない。現在しか存在しないという至言が、中村天風によって表出されている。
にもかかわらず、多くの人は取り越し苦労に苛まれている。なぜ、心のエネルギーを消耗することを理解していても、この陥穽に陥らざるをえないのであろうか。「まだ現実に現れていない自己の想像や推定で、生命確保に必須なエネルギーを消耗するというのは、痴愚以上のものである。何のことはない自分で自分の心のスクリーンにお化けの絵を描いて、自分で驚いたり怖れたりしているのだから、実に噴飯至極といういうべきである」。[70] 自己の脳裏に描いた幻に恐れおののいているにすぎない。「私はいつも、取越苦労をする人のことを闇の夜道に提灯を高く頭上に掲げて、百歩二百歩の先きの方を、何かありはしないかと気にしてあるくのと同じだといっている。・・・心もまたこれと同様で、みだりに、未だ来たらざる将来のみに振り向けて、肝心の現在を疎かにしたのでは、到底、心そのものの働きさえ完全に行われぬことになる」。[71] 現在の課題に集中することが、取越苦労を回避する必須条件になる。
6.4 自分のことを自分でする
中村天風は、夜具の上げ下ろしを自分でしている。自分のことを自分でする。その習慣化した作業工程、例えば夜具の上げ下ろしの過程において、本日の課題を再認識してゆく。この意義は大きい。「これは感謝の表現としても、寝具はどんな身分のでも自身たたむというように実行されたい」。[72] 寝具をたたむことは、自己統御の原初的行為である。就寝中においてあらゆる動物は、自己統御力を回復する。寝具は、この神聖な時を演出した。人間はそれに感謝すべきである。
しかし、感謝という言葉は、通常のように、「ありがとうございます」と唱えるこことは違うように思われる。当然の行為として、何も考えない、つまり平常心であり、この心境でもって為す行為であろう。中村天風もおそらく読解したであろう柳生宗矩から引用してみよう。「何もなす事なき常の心にて、よろづをする時、よろづの事、難なくするするとゆく也。道とて何にしても、一筋是ぞとて胸にをかば、道にあらず。胸に何事もなき人が道者也」。[73] まさに、寝具の上げ下ろしをしているということに、拘泥してはならない。もし、これを文字で表現するならば、当然つまり自然として、何も考えないことにある。もし、それを意義づけようとすると、他者の不作為を批判することになる。
睡眠に入れたこと、睡眠時間中に生きる力を回復したこと、そして目覚めたこと、これらは自己の意識によって遂行されたのではない。これらの行為は、人間の無意識の行為、つまり自律神経の作用によって実行された。
[1] Marquard, Odo: Einwilligung in das Zufällige. In: ders. Endlichkeitsphilosophisches. Stuttgart: Reclam 2013, S. 19.
[2] 中村天風『君に成功を贈る』日本経営者合理化協会出版局、2010年、89頁参照。
[3] 中村天風『幸福なる人生』PHP研究所、2011年、118頁:中村天風『運命を拓く』講談社、1998年、253頁参照。
[4] 中村天風『心を磨く』PHP研究所、2018年、197頁。
[5] 中村天風『真人生の探究』天風会、1994年、94頁。
[6] 中村天風『真人生の探究』天風会、1994年、144頁。
[7] 中村天風『盛大な人生』日本経営合理化協会出版局、2009年、372-373頁。
[8] 中村天風『心を磨く』PHP研究所、2018年、61-64頁、340頁参照。森本暢『実録 中村天風先生 人生を語る』南雲堂フェニックス、2004年、201頁参照。
[9] 中村天風『運命を拓く』講談社、1998年、87頁。
[10] 中村天風『運命を拓く』講談社、1998年、87頁。
[11] 中村天風『真理のひびき』講談社、2006年、93頁。
[12] 中村天風『運命を拓く』講談社、1998年、83頁。
[13] 中村天風『運命を拓く』講談社、1998年、67頁参照。
[14] 中村天風『運命を拓く』講談社、1998年、90頁。
[15] 中村天風『運命を拓く』講談社、1998年、137頁。
[16] 中村天風『運命を拓く』講談社、1998年、80頁。
[17] 中村天風『叡智のひびき』講談社、1995年、71頁。
[18] 中村天風『心を磨く』PHP研究所、2018年、340頁。
[19] 中村天風『真人生の探究』天風会、1994年、171頁。
[20] 中島正『都市を滅ぼせ 人類を救う最後の選択』舞字社、1994年、49頁。
[21] 中村天風『心を磨く』PHP研究所、2018年、47頁。
[22] [22] 中村天風『心を磨く』PHP研究所、2018年、71頁。
[23] 中村天風『運命を拓く』講談社、1998年、199頁。
[24] 中村天風は、『叡智のひびき』においてプランク定数hに実在するエネルギー源泉としてヴリル(Vril)という概念を用いている。この概念がプランクの作用量子論におけるどの概念に該当するのかは、不明である。別の論稿においてこの概念は宇宙ではなく、その現象界における人間的自然の活力として考察されている。中村天風『叡智のひびき』講談社、72頁; 中村天風『真人生の探究』天風会、1994年、195頁参照。
[25] 中村天風『運命を拓く』講談社、1998年、146頁。
[26] 中村天風『真人生の探究』天風会、1994年、42頁。
[27] 中村天風『運命を拓く』講談社、1998年、199頁。
[28] 中村天風『運命を拓く』講談社、1998年、172頁。
[29] 中村天風『真人生の探究』天風会、1994年、15頁。
[30] 中村天風『盛大な人生』日本経営合理化協会出版局、2009年、119頁。
[31] 中村天風『盛大な人生』日本経営合理化協会出版局、2009年、118頁。
[32] 中村天風『盛大な人生』日本経営合理化協会出版局、2009年、130頁。
[33] 中村天風『盛大な人生』日本経営合理化協会出版局、2009年、130頁。
[34] 中村天風『盛大な人生』日本経営合理化協会出版局、2009年、157頁。
[35] 中村天風『運命を拓く』講談社、1998年、158頁。
[36] 中村天風『心を磨く』PHP研究所、2018年、139頁。
[37] 中村天風『運命を拓く』講談社、1998年、158頁。
[38] 中村天風『運命を拓く』講談社、1998年、228頁。
[39] 道元『典座教訓』中村璋八他編『典座教訓、赴粥飯法』講談社、2009年、133頁。
[40] 中村天風『研心抄』天風会、2017年、84頁。
[41] 中村天風『研心抄』天風会、2017年、86頁。
[42] 中村天風『叡智のひびき』講談社、1995年、251-252頁。
[43] 中村天風『叡智のひびき』講談社、1995年、89頁。
[44] 中村天風『真人生の探究』天風会、1994年、45頁参照。
[45] 中村天風『真理のひびき』講談社、2006年、191頁。
[46] 沢井淳弘「天風式『自己暗示』のしかた」清水克衛他『実践 中村天風 困ったことは起こらない!』プロセスコンサルティング、2012年、38頁。
[47] 中村天風『運命を拓く』講談社、1998年、262頁参照。
[48] 中村天風『真理のひびき』講談社、2006年、194頁。
[49] 本稿、「1.2 専門知と素人知の区別」、参照。
[50] 沢庵宗彭『不動智神妙録』(市川白弦訳『不動智神妙録・太阿記』講談社、1982年、59頁)。
[51] 中村天風『真理のひびき』講談社、2006年、22頁。
[52] 中村天風『真理のひびき』講談社、2006年、32頁。
[53] 中村天風『真理のひびき』講談社、2006年、92頁。
[54] 中村天風『幸福なる人生』PHP研究所、2011年、140頁。
[55] 山岸巳代蔵「無数の愛人と共に/愉快の幾千万倍の気持ち」山岸巳代蔵全集刊行委員会編『山岸巳代蔵全集』第2巻、2004年、302頁。
[56] 山岸巳代蔵「本当の人間 当然の人生」山岸巳代蔵全集刊行委員会編『山岸巳代蔵全集』第2巻、2004年、304頁。
[57] 中村天風『真人生の探究』天風会、1994年、151頁。
[58] 中村天風『叡智のひびき』講談社、1995年、257頁。
[59] 中村天風『叡智のひびき』講談社、1995年、138-139頁。
[60] 中村天風『叡智のひびき』講談社、1995年、141頁。
[61] 中村天風『叡智のひびき』講談社、1995年、151頁。
[62] 中村天風『幸福なる人生』PHP研究所、2011年、140頁。
[63] はるき悦巳『じゃりン子チエ』第47巻、双葉社、2004年、300-301頁参照。
[64] 中村天風『幸福なる人生』PHP研究所、2011年、141頁。
[65] 中村天風『幸福なる人生』PHP研究所、2011年、156頁。
[66] 中村天風『幸福なる人生』PHP研究所、2011年、169頁。
[67] 中村天風『幸福なる人生』PHP研究所、2011年、237頁。
[68] 中村天風『幸福なる人生』PHP研究所、2011年、239頁。
[69] 中村天風『哲人哲語』天風会、2019年、162-167頁。
[70] 中村天風『真人生の探究』天風会、1994年、162-163頁。
[71] 中村天風『真人生の探究』天風会、1994年、166頁。
[72] 中村天風『真人生の探究』天風会、1994年、237頁。
[73] 柳生宗矩(渡辺一郎校注『兵法家伝書』)岩波書店、1985年、56頁。