オンライン講義始末記――地底国教授の悲哀と自負

オンライン講義始末記――地底国教授の悲哀と自負

(この暫定稿を未定稿のまま、『田村伊知朗 政治学研究室』に掲載する。今後、修正する予定である)。

 

0、前書

インターネットが普及してほぼ30年になる。この仮想空間において興味深い造語が生まれた。宮廷大(旧帝大)、地帝国(地方旧帝国大学)そして地底国(地方底辺国立大学)なる造語である。宮廷大のなかでも、地方にある旧帝国大学と本州に位置する旧帝国大学は区別されている。また、同じ発音でも、地帝国(地方旧帝国大学)と地底国は区別されている。とくに、後者の教授は、前者の大学出身者が多い。たとえば、北海道を例にとれば、北大以外の地方単科大学の教授は、北大出身者によってほぼ占められている。もちろん、地帝国たる北大教授は、北大あるいは宮廷大出身者にほぼ限定されている。

 この位階制的構造において、まさに底辺に位置している教授が地底国教授である。この教授が2020年前期においてオンライン講義をどのように取り組んだかが記録されている。地底国教授であることを詠嘆しているのではない。その意義を確認する作業を展開するためである。

宮廷大法学部教授が国家公務員総合職を養成するとすれば、地底国単科大学教授は、地方公務員養成を主眼としている。しかも、都道府県職員ではない。市町村職員である。後者は数百万人ほど存在している。膨大な数である。彼らが、地域の政策を領導している。日本人の常識を形成している。彼らに対する教育の一環を担っている。

 

1、3月下旬における前期の講義形態予測

 3月下旬において、41日開講は困難であるという認識を大学は持っていた。この認識は正しい。5月の連休明けに講義を開始することが決定された。この場合でも、オンライン講義ではなく、通常の教室での講義、つまりオフライン講義(以下、オフライン講義)が想定されていた。オフライン講義に備え、マスクの購入が勧告された。しかし、コンビニエンスストア、ドラッグストアーだけでなく、インターネット上でも、マスクはほとんど購入することが不可能であった。フェースシールドを購入した。ドクター中松のマスクを購入したのも、このころであった。もっとも、525日現在でも、中松マスクは到着していない。アベノマスクも同様である。

 しかし、4月下旬には、連休明けの講義がオンラインで実施されることになった。ただでさえ、書類的整合性が求められる地底国である。漢字の誤謬だけではなく、罫線の太さまで文書修正を教授に要求する事務職員の倫理からすれば、過重な負担が負荷されたことは間違いない。

 しかし、東京六大学は、前期講義をすべてオンライン講義形式に実施することを決定していた。大学内において、独自の仮想空間を構築できる教授が多数存在していた。また、教員数が乏しい大学でも、このようなシステム構築を外注すればよいだけの話である。対照的に、地底国では、オンライン講義に対する拒否意識が強かった。従来の講義形式に愛着があったという保守意識でしかない。

 コロナヴィールス-19( Coronavirus SARS-CoV-2)に対する対策が緩いとされるスウェーデンですら、大学の春学期の講義はオンライン形式で実施することが、早々に決定されていた。東京六大学がオンライン講義を早々に導入した背景には、オンライン講義がオフライン講義よりも優れているという認識があったはずである。

 

2、オンライン講義への紆余曲折

 

3、オンライン講義の積極面

 You tubeに動画をアップし、講義を実施することにした。その利点をここで挙げねばならない。You tubeに動画を上げるためには、その2日前までに、講義を仕上げねばならない。動画配信なので、すべての講義言説をレジュメ形式ではなく、文章にした。もちろん、口語と書き言葉は異なる。しかし、講義内容をすべて文章化した。もし、動画を視聴できない環境にあった場合でも、休講にすることはできないからだ。政治思想史第3回は、8,000字ほどの原稿ができた。ちなみに、第3回講義は、ルターの宗教改革の意義を近代の原理との関連で考察した。原稿用紙換算で20枚ほどの講義内容である。オフライン講義では、約2回で実施した講義が、1回で終了した。

 オフライン講義で講義内容とは関係のない事柄にも注意を払わねばならない。「飯を食べるな」、「帽子を脱げ」といった講義内容とは異なる事柄に対しても、注意喚起しなければならない。このような無駄な時間が一切ない。淡々と講義するしかない。

 また、動画は限定公開であれ、インターネット上で視聴される。下手な冗談は記録される恐れもある。一切の冗談を自粛した。冗談は講義への関心を喚起するために、時折これまで意図的に発せられていた。このような学生に対するサービスは、一切廃止した。冗談は、その内容が面白ければ面白いほど、社会的な一般常識とは異なる水準で発せられる。不快に思う視聴者が当然いるからである。近代の基本的理念、平等という理念を揶揄すれば、しかも学生に理解可能なコンテキストで揶揄すれば、人権侵害とみなされる恐れもある。平等という理念に対する異議申し立てを、学問的に許容できる言語で説明するしかない。

 また、講義草稿を準備する過程で、自分の講義を録音する。発音の明瞭性も含めて自分の言語が記録される。これまでの30年間、自分の講義を聞いたことはなかった。かなり、言語明瞭、意味不明な言説――この形容は竹下登総理に対して付せられた――が、多数あった。今でもあるかもしれない。

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時間と共同性を共有するための紫煙――絞首刑前の三人による喫煙

時間と共同性を共有するための紫煙――絞首刑前の三人による喫煙

https://www.youtube.com/watch?v=X6p7eDaX7n8  [Datum: 19.05.2020]

 

 この映画は、ドイツ第三帝国において有名なレジスタント運動、白バラ運動の一側面を描いている。政治的に言えば、この運動は第三帝国の残忍性をプロパガンダするビラを撒いただけである。しかし、このビラはのちに連合国飛行機から、ミュンヘンに撒かれ、戦争終結にかなり影響を与えた、この運動そしてこの映画、原作に関してすでに多くの論者が描いており、筆者が屋上屋を架すこともないであろう。但し、この映画で表現された煙草に関しては、このレジスタント運動に対する敬意を表するために、少し言及してみよう。

その主人公、ミュンヘン大学生のショールが絞首刑される直前に、ある看守から煙草とマッチをこっそりもらい、一服するシーンがある。もちろん、彼女は絞首刑の前に喫煙できるとは考えていなかった。看守に「ありがとう」と短く感謝し、一服する。そして、このレジスタント運動において時間を共有した兄とその友人に、その煙草を渡す。三人がまさに、人生最後の煙草を共有しながら、生命の最後の時間を共有する。彼らは、共同性を確認するために、一本の煙草を喫する。

 ちなみに、絞首刑になる前に、調書を取る大学教授から一本の煙草を提供された。しかも、この教授から減刑の誘いを受けていた。もし、補助的役割しか果たしていなければ、減刑すると。そのように調書を書き換えることも可能であると。しかし、彼女はこの誘いを拒否していた。そして、彼から提供された煙草を彼ととも喫することを拒否した。たばこを飲むか、という問いに対して、「Gelegentlich しばし」と答え、煙草入れから提供された煙草に手を出すことをしなかった。まさに、彼女は、この審問官と喫煙時間を共有することを拒否した。

 対照的に、兄とその友人と一本の煙草を共有するとき、人生を共有していた。一本の煙草とともに、彼女は幸福であった。そして、一本の煙草とともに、短い生涯を終えた。断頭台と共に、紫煙も消えていった。しかし、彼女は、二人の人間と人生を共有し、煙草を共有した。このような美しい紫煙を未だかって見たこともないし、このように美味い煙草を喫することもないであろう。

 最後に、現在、禁煙運動がドイツだけではなく、本邦においても盛んである。第三帝国の主導者、ヒットラーも禁煙主義であった。禁煙運動はヒットラーの思想に追随し、ショールが共有した共同性を拒否しようとしている。もはや、他者と共同するという高揚感は、後期近代において消去されてしまったかもしれない。

 

追記

 人民法廷長官であったフライスラー(Roland Freisler)をアンドレ・ヘンニッケ(André Hennicke)が演じている。彼は、『ヒトラー 最期の12日間』ではモーンケを演じて、ベルリン攻防戦を指揮していた。ヒットラーに忠実なドイツ人を描かせれば、彼ほどの適任はないであろう。

 

 

 

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いしいひさいち近代論(1)「クニ」あるいは故郷意識の変遷――村落、藩、県、国家そして県への逆流――コロナヴィールス-19の感染に関する県民意識の復活

 

 

2020年0516

田村伊知朗

 

 

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 マンガ(2)

いしいひさいち近代論(1)――「クニ」あるいは故郷意識の変遷――村落、藩、県、国家そして県への逆流――コロナヴィールス-19の感染に関する県民意識の復活

 

2020年0516

田村伊知朗

 クニという言葉は、故郷を表している。江戸時代であれば、村落を表現していた。、どれほど拡大しようとも、明治維新前まで故郷という概念は、所属する藩という領域を越えることはなかった。大多数の小作農民にとって、隣の藩へと越境することは、御法度であったし、その必要もなかった。

 近代革命が始まろうとした江戸時代末期において、藩を超えた日本という意識が、近代革命を担った日本人、とりわけ下級武士階層において生じた。藩という領域を越えた日本というクニが意識され始めた。明治維新後、300余の藩は47都道府県に再編され、現在まで継続している。県民という意識は少なくとも、明治、大正、昭和初期まで継続した。薩長土肥という藩意識に基づく共同性は、その後も解体したわけではなかった。日本の宰相も、岸信介、佐藤栄作までその本籍は、山口県であった。軍隊が解体する1945年まで、長州閥、薩摩閥という故郷意識は日本陸軍において残存していた。

 しかし、近代革命はほぼ100年経過して、県民という意識はほぼ解体した。自分のクニを県と規定する世代が減少した。明治生まれ、大正生まれの世代が鬼籍に入り始め、近代革命の目標であった国民国家は実体としてだけではなく、個人の意識においても完成された。とりわけ、元号が昭和から平成に代わり、前世紀後半から後期近代が始まった。国際化が進展し、国境を越えた移動が一般化した。自分のクニと言えば、日本という世代が増大した。日本において居住する労働者の国籍が外国であることも、稀ではなくなった。まさに、御宅のクニは、カンボジアであった。マンガ(2

 さらに、ある論者によれば、自己の共同性を都道府県単位の地域的共同性として規定するよりも、内的意識によって規定する傾向が強化された。クニという概念が消滅した人々も増加した。ユダヤ人が居住している地域によって形成された共同性よりも、ユダヤ人という人間的意識によって形成された共同性によって自己を規定するように。

 いしいひさいちのこのマンガ(1)は、1988年に出版された。県民意識が残存していた最後の世代が、このマンガにおいて表現されている。しかし、それ以後、県民意識はほぼ解体されてしまったと思われていた。高校野球の県代表を応援するということも、昭和が去り、平成になってほぼその熱狂が日本全体を覆うこともなくなったかにみえた。まさに、令和の時代に入り、昭和は遠くなりにけり、という意識が出現したかの外観を呈していた。

 ところが、20203月、コロナヴィールス-19( Coronavirus SARS-CoV-2)による感染が、日本人の生活を一変させた。この感染症は、全国一律に拡大したのではなかった。地理的差異が顕著であった。東京都や大阪府のように巨大人口を擁する都道府県が、感染数を拡大した。また、2020516日現在、北海道も緊急事態宣言の重点地域の一つであった。もっとも、北海道は人口の少ない地方自治体と思われているが、その人口は500万人を擁している。四国の人口総数は、4県合わせても370万にすぎない。感染者数もその総数では多いように思われるが、総人口が多いので当然であろう。

 問題は、このような都道府県別の感染者数が公表されたことにより、県民意識が復活したことにある。いしいひさいちのマンガに描かれているような都道府県別の故郷意識が復活したことにある。徳島県では、徳島ナンバー以外の自家用車に対して、検問紛いの行為が平然と実施されている。内閣総理大臣よりも、都道府県知事が「おらが町」の感染者を減少させてくれるという意識が、国民の意識を規定するようになった。

 まさに、日本というクニ意識すら、希薄になった国際化時代において、100年以上前の県民意識が復活した。徳島県民意識に代表される故郷に感染者を入れない、さらに県外者を入れない。小さな故郷を清浄に保ちたい。何か別の思惑が日本だけではなく、西欧も含めた世界に蔓延しているのかもしれない。

 

 

 

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社会科学とマンガの架橋(1)――いしいひさいち官僚制論(1)

いしいひさいちの官僚制論

いしいひさいち官僚制(1)(2) (3)は、これまでの「いしいひさいちから学ぶ政治学」等のうち、その官僚制に関する記事を集大成した原稿である。漫画を入れずに、原稿用紙約70枚の分量がある。通常の論文1~2本分である。(3)は、官僚制論と対比される政治家論である。

本稿は、

田村伊知朗「社会科学とマンガの架橋()――いしいひさいち官僚制論」『人文論究(北海道教育大学函館人文学会)』第89号、2020年、9-28頁、 

として公表された。本文中の数字は、『人文論究』の頁数を表現している。

 一つの区切りがついたという感じである。論文としてではなく、書評という範疇であるが、それもまた結構である。書評としてはよくできた部類に入ると自画自賛している。少なくとも、ドイツ語の本を一冊書評するよりも、膨大な時間を消費した。いしいひさいちのマンガを見直していると、この官僚制論には論点として出ていない新しい視点も再構成できた。いしいひさいち農村論だけではなく、いしいひさいち官僚制論第2部も構想している。

 なお、(1)と(2)そして(3)に分割した理由は、このサイトにおいて写真等は10枚までという制限が、niftyによって設定されているからだ。連続して読解していただければ幸いである。

 ここから、印刷部分が始まる。

 

はじめに

 

いしいひさいちが、日本を代表する漫画家であり、第一級の知識人であることはほぼ異論がないであろう。彼は、1970年代から約半世紀間、ほぼ毎日、数編の4コマ漫画を世に送り出してきた。それだけではない。より本質的に言えば、彼が偉大であることの根拠は、現代日本あるいは後期近代の事象を4コマ漫画という世界において抽出していることにある。現代社会の一側面が、わずか1頁の4コマにおいて切り取られている。

このような栄光は、社会科学に従事している研究者にとって羨望の的である。おそらく、彼は、一瞬の閃きにおいて現代社会を抽出する。研究者の多くは、1年をかけて1本の論文を執筆する。いしいひさいちと同じ結論を述べるために、数年を要する場合もある。日々、外国語文献と格闘し、論文の準備をしなければならない。それだけの労力を払ったとしても、いしいひさいちほどの読者を獲得することはない。良くて、同じ領域の研究者数人から賞賛を受けるだけである。多くの場合、学会誌の数頁を埋めるだけで終わるであろう。いずれにしろ、研究論文が社会的影響力を行使することは、ほぼ無いであろう。

 ここで、数万あるいはそれ以上存在するかもしれない四コママンガから、数編のマンガが選択されている。そのどれもが、官僚制の本質の一側面を表現している。もちろん、彼のマンガは官僚制の一部分しか表象していないという批判が出てくるであろう。しかも、その一側面をデフォルメしているにすぎないという批判である。しかし、どのような高名な古典とみなされる官僚制論、たとえばヴェーバーの官僚制論であれ、その一面性から逃れることはできないであろう。[1] より一般化して言えば、どのような事象であれ、研究者によって把握されたかぎり、その特殊性を廃棄することはできない。この点は、別稿においてすでに考察している。[2] 

 さらに、官僚制に関するいしいひさいちの洞察は、本稿で取り上げた数編のマンガに収斂しているわけではない。彼の著作活動はより多面的な視野を持っている。官僚制に対する彼の考察を筆者の視点が矮小化していることは否定できない。忸怩たる思いにかられながらも、筆者がこの批判を甘受しなければならないであろう。

[1] Vgl. Max Weber: Wirtschaft und Gesellschaft. Tübingen 1922 (Besonders 1. Teil, Kap. III).

[2] 田村伊知朗「初期近代における世界把握の不可能性に関する政治思想史的考察――初期カール・シュミット(Karl Schmidt 1819-1864)の政治思想を中心にして」『北海道教育大学紀要(人文科学・社会科学編)』第五五巻第二号、二〇〇五年、七三―八〇頁参照。

 

9頁

 

1節 官僚制総論

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いしいひさいち『いしいひさいち選集』第37巻、双葉社、2003年、100頁。

 

 この漫画における面白さは、落城寸前になっても、官僚的な目的合理性が追求されていることにある。自己に与えられた領域、つまり有職故実に関する事柄が議論されている。落城になれば、そのような合理性はその基盤が崩壊するにもかかわらず、有職故実に固執している。落城という現実の前にほとんど無意味であるにもかかわらず、使者の接待方法に関する議論が重臣間において熱心に議論されている。

 この漫画によって揶揄されている第一の事柄は、前例主義である。前例主義とは、前例のないことをしない、という官僚に特有な意識である。前例を否定することは、前任者の瑕疵をあげつらうことになる。前任者の欠陥を是正することは、その顔に泥を塗ることにつながる。その前任者は現在の上司であることが多い。上司の意向に反して仕事をすることが嫌われる。有職故実に関する認識が不必要であるわけでない。彼らにその仕事が割り振られた以上、その仕事を貫徹しなければならない。しかし、前例をとりまいていた過去の環境世界は、もはや変化してしまっている。現時点での環境世界は、過去の環境世界と隔絶している場合も多いであろう。前例が妥当するか否か、現時点での環境世界において再検討されねばならない。にもかかわらず、前例に固執することは、愚かなことであろう。

  この漫画によって揶揄されている第二の事柄は、先送り主義である。先送り主義とは、決定を先送りすることであり、キャリア官僚とみなされる高級公務員に特有な病気である。彼らは、34年の間隔で多くの部署を渡り歩く。したがって、その任期の間にできる前例によって規定された日常業務にしか従事しない。重要な問題を次の任にあたる後輩に委ねる。その後輩もまた、次々に次の任期のキャリア官僚に大きな問題を委ねる。

 大きな問題とは、その解決のためにかなりのエネルギーを必要とする課題である。たとえば、組織内の問題であっても、多くの他の部署との折衝を要する仕事である。そのような大事な仕事よりも、より処理しやすい日常的な仕事に没頭する。しかし、いつの日かその仕事の期限がやってくる。その時には、手遅れになっている。ここでは有職故実に拘ることによって、落城における政治的決定という問題は先送りされている。

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 この漫画によって揶揄されている第三の事柄は、官僚組織における出世の現実態である。官僚組織は位階制組織である。権能が上昇すればするほど、その権能担当者の数は減少する。ここでは、重臣がその位階制の上位者である。問題は、このような重臣が決定権を保持していることにある。有職故実に精通した官僚が、この位階制の上位者になった。この問題こそが問われねばならない。彼らは、戦闘の場において業績を積んだわけではないはずだ。有職故実に精通することによって、位階制の階段を駆け上った。このような人間が組織の上部において席を占めていることこそが、本漫画における最大の問題点である。彼らは政治的危機に対応できないし、政治家のような世界全体像を持たない。全体的視点を放棄した近視眼的人間しか、位階制的秩序を上昇できない。

現代の官僚組織においても同様である。誤植のない文章が書ける人間、退屈な会議が好きな人間が重宝される。誤植の指摘を生き甲斐にしている人間が局長、課長等の要職に就く。漢字を読み間違えたら、減点の対象である。つまらない人間が上に立つほど、組織にとって不幸はない。現代社会における有職故実は、規則であり、前例であり、横並びの知識である。この観点からすれば、現代社会の役人と、落城寸前の御前会議における役人の間には、差異はない。

枝葉末節な事柄が、会議において熱心に議論される。重要な問題は議論されない。むしろ、漢字の変換ミスには過剰に反応する。本当の馬鹿は、自分が書いた文章を逐一読み上げる。日本語で書かれた文章をなぜ読み上げる必要があるのか。時間を浪費し、批判的議論を封じるためである。彼の読み上げ作業が終了した後、会議参加者の多くは、その文章を批判する気力を喪失している。

このような馬鹿が多く存在する会社あるいは組織は、つぶれてよいのであろうか。ただ、このような会議に参加する構成員もすべてが馬鹿ではない。良識ある構成員は落城を阻止するために、獅子奮迅の活躍をしなければならないのであろうか。そして他の馬鹿構成員あるいは上司から次のように言われるに違いない。勝手にやって、でも会議では承認されていないと。

 組織においてその組織の維持、管理が自己目的化する。なんのための組織であるかが忘却され、管理に強い人間が出世してゆく。営利企業であっても、利益を上げる営業畑の人間ではなく、総務畑の人間が出世してゆく。同僚と仲良く喧嘩せず、という人間が頭角を現す。警察機構においても、犯人を捕まえることに執着する刑事ではなく、法律と規則に通じた人間が出世してゆく。何時までも犯人逮捕のために靴底を減らしている現場の刑事よりも、昇任試験に長けた法学部出身者が上司になる。現場の人間よりも、試験勉強に苦痛を感じない人間が、組織において重宝される。現代社会における有職故実に相当する法律、条令、事務次官通達に精通した官僚が、出世街道を驀進する。

この事例として、2011325日に開催された第19回原子力安全委員会が、いしいひさいちのこの4コマ漫画にまさに適合している。[1] 2011325日と言えば、314日における東京電力福島第一原子力発電所の第3号機の水素爆発を受けて、国家が危機的状況にあったときである。第2号機、第4号機も同様な危機的状況にあった。この東京電力福島第一原子力発電所の非常事態を受けて開催された原子力安全委員会は、たった42分程度で閉会している。しかも、PDFファイル12頁にわたる議事録の半分以上は、事務局によって作成された資料の読み上げに終わっている。その後の委員による議論の中心は、「『葉』になってございますけれども、これは平仮名の『は』でございます」、あるいは「平仮名の『に』を入れてください」(10頁)という文書の校正にある。

 

 

[1]「第19回原子力安全委員会議事録」10頁。In: http://www.nsc.go.jp/anzen/soki/soki2011/genan_so19.pdf. [Datum: 26.09.2011]

 

11頁 

日本的会議の特質は、どうでもよいことに反応し、大事なことを議論しない点にある。会議は、会議に参加する構成員にとって重要なことを討論する舞台である。しかし、往々にして、些細なことに過剰反応して多くの時間を費やす。もちろん、漢字の使用法、あるいは句読点の一字によって、法解釈そのものが180度変わることは承知している。しかし、変換ミスが明らかである場合でさえも、糾弾の対象になる。

 原子力安全委員会委員としての専門知識は要求されていない。基本的に委員長が事務局と相談のうえ、会議資料を作成する。その他の委員はその会議資料に基づいて議論する。彼らは、会議資料に掲載されていないことに関して知る由もない。ある事柄を会議資料に掲載するか否かは、委員長と事務局の専権事項である。

この傾向は、日本の官僚機構における会議の特色である。異議なし、と唱和するか、語句の間違いを指摘するだけである。朝鮮民主主義共和国においては、前者の選択肢しか存在しない。自称社会主義国家の会議において異議を申し立てることは、収容所送りの危険を甘受しなければならない。自称自由主義国家においては、誤字脱字の修正だけが許されている。アジアにおける二つの国家の差異は、五十歩百歩でしかない。

誤植の訂正であれば、村役場の庶務課長のほうが、より適切な指示を出せるであろう。このような議論しかできない専門委員は、村役場の庶務課長に転職したほうがよいであろう。もっとも、庶務課長ほどの文書校正能力を有しているとは思えず、庶務課主任に降格されるであろう。

このような繁文縟礼に通じた専門家しか、政府によって認定された専門委員になれない。専門知識よりも管理職的能力に通じた専門家のみが大学教授になり、そして政府の審議会委員に抜擢される。そこで求められる能力は、事務局と協調する能力と文書作成能力でしかない。

 専門委員には、事務局によって作成された資料を根源的に批判し、積極的な提言を求められているはずである。事務局によって提出された文書を規定しているパラダイムを指摘し、より現実的な選択肢を提起しなければならない。あるいは文書作成者によって意図的に看過されている事象を指摘しなければならない。にもかかわらず、ここでの議論は、専門知識を要求されない事務局職員以下の水準にある。

逆に言えば、このような専門家は、官僚機構にとって統御し易い人間である。自分たちを批判しない人間のみが、専門家として認知される。学術的専門家と官僚機構の癒着が生じる。

彼らはこれまでいつもこのような議論形式に慣れてきたはずである。このような議論しかできない。それゆえ、彼らは専門家として認知された。国家の危機に際しても、このようにしか議論できない。いしいひさいちが描いた落城という危機が、現代日本にもあった。しかし、官僚組織は、日本列島崩壊という危機的状況においても前例主義という旧態依然の対応しかできなかった。

 

12頁

 

2節 前例主義の展開

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いしいひさいち『いしいひさいち選集』第11巻、双葉社、1986年、132頁。

 

この漫画において、「ある建物が40年経過したから、危険である」という命題と、「ある建物が40年間安全であったから、今後も安全である」という命題が、併記されている。この二つの論理が交差することはない。しかし、後者の論理の破綻は明らかである。

過去40年間において、様々な部品が劣化し、機能不全に陥っているかもしれない。それに対して、40年間安全であったがゆえに、安全であるという命題が対置される。この命題は妥当性を持っているのであろうか。官僚は前例主義を規範化している。40年間、安全であれば、今後も安全であると。しかし、この40年間に主体は、明らかに老化している。客観的条件も変化している。にもかかわらず、前例主義を主張する官僚は、馬鹿でしかない。

このような命題は、常識的にはありえない。事実、いしいひさいちもまた、この命題に反論していない。しかし、この命題が根源的に錯誤していることは、明らかである。築40年のアパートがそろそろ限界に達していることは、常識的判断にしたがえば明らかである。にもかかわらず、アパートではなく原子力発電施設が40年間、安全であれば、今後も安全である、とある論者が主張している。

ちなみに、40年という数字は、原子力発電施設の耐用年数にあてはまる。偶然かもしれないが、四半世紀以後の東京電力株式会社福島第一原子力発電所の耐用年数を示している。いしいひさいちの漫画家としての評価は、天才と言うしかない。天才であるがゆえに、彼が当初意図していない結果を暗示している。

より一般化して言えば、前例にしたがうということは、環境世界の変化を考慮しない。過去の環境世界は、現在の環境世界と異なっている。この変化を考慮せずに、過去の経験知が絶対化される。

 

3節 先送り主義の展開

 

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いしいひさいち『問題外論』第11巻、チャンネルゼロ、1997年、45頁。

 

1節の官僚制総論の補論として、現代政治における先送り主義がここにおいて展開されている。橋本龍太郎総理と主要各省の事務次官の話し合いの場面にも出てくる。橋本龍太郎総理は、大臣に信頼を置いていない。大臣は政治家であり、専門知をもっていないからである。

彼は、事務次官に代表される高級官僚を信頼している。とりわけ、外務省、法務省、自治省という主要省庁の官僚を信頼している。官僚の専門知が、大臣の専門知よりも優れている、と彼はみなしている。

13頁 

 しかし、彼もまた専門知を持たない政治家にすぎない。その判断力が各省の大臣と同等であるということを見落としている。官僚の知は、官僚の独自の圏域において形成されてきた。先送り主義も彼らの習性である。政治家は専門知を持たないが、総体知あるいは世界観的知を持っているはずである。

 

4節 減点主義の展開

 

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いしいひさいち『いしいひさいち選集』第13巻、双葉社、1986年、118頁。

 

 第1節の官僚制総論の補論として、官僚個人に対する評価基準を問題にしてみよう。官僚の評価基準は、加点主義ではなく、減点主義である。国民にとってどれほど良い政策を実施したとしても、それは評価されない。むしろ、新しい仕事をすれば、周囲と無用な摩擦が生じる。同僚そして他の部局に新しい仕事と任務を与えるからだ。それでなくとも、高級官僚の予備軍は、必要以上の仕事をそもそも抱えている。それに加えて、ある官僚が新しい仕事を考案すれば、より仕事量が増大する。勤務時間が増えても、労働賃金が増えることはない。残業代金の上限は、年度計画において前もって規定されている。上限を超えた残業代金は支払われない。

 この新規の仕事が成功すれば、まだよい。失敗した場合には、それ見たことと嘲笑される。できるかぎり、前例にしたがって、失敗がないことを心がける。

 しかし、自分が前例にしたがって仕事をしたとしても、災難は周囲から生じる。部下が不祥事を起こせば、その管理責任を取らされる。部下が物品を横流しすれば、管理責任を問われる。勤務時間内の不祥事であれば、直接的責任がなくとも、その失敗の全責任を取らされる。

 校長は、学校内の管理責任を最終的に負わねばならない。部下である教諭がいじめに対して適切な処置をしなかった。その結果、いじめを受けた生徒が自殺した。昨今、よく新聞の社会面に、いじめによる自殺が報道されている。

 校長個人はこの不祥事により、懲戒処分が予定されている。減給処分等が想定されるであろう。減給処分は月間給与が減少するだけではない。年金、退職金にも反映される。それだけではない。給与が良くて、仕事が楽な天下り先から排除される。特に、小学校教諭であれば、地元の大学教育学部卒業生である場合が多い。同窓会組織からも、懲戒処分対象者として、白眼視される。

14頁

5節 減点主義に関する一般的補論

 

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いしいひさいち『いしいひさいち選集』第22巻、双葉社、1997年、55頁。

 

  ここで、官僚機構の評価基準として減点主義をより普遍化してみよう。いしいひさいちのこの漫画は、闘将として有名であった中日ドラゴンズ監督の選手管理の方法を揶揄している。彼は鉄拳制裁つまり暴力によって選手管理を実施した。いわゆる熱血監督として有名であった。彼の鉄拳制裁の思想は、監督と選手における命令=被命令関係を前提にしている。もちろん、監督がこの位階制において上位の権能者である。

ここでは、暴力ではなく、減点主義つまり罰金制度によって選手を管理しようした。彼の管理政策に対抗するために、選手は積極的行為を断念している。失策を恐れて球を追うことをしない。多くの失策はファインプレーと紙一重である。通常であれば、ヒットになる打球を追うことによって、ファインプレーが生じることもあれば、失策になることもある。

たとえば、遊撃手の宇野選手は、遊撃手としての仕事をしない。宇野選手は仕事を回避することによって、その評価が高まるという矛盾した結果になる。少なくとも、罰金制度の対象者にならない。

 官僚機構もこの評価方法の弊害から免れていない。前例のない積極的仕事を企図すれば、成功することもあれば、失敗することもある。したがって、多くの官僚機構構成員は、前例主義にしたがって行為するであろう。前例を踏襲することによって、減点の対象になることはない。

 

6節 誤植の訂正――日本語の意味の転倒

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いしいひさいち『バイトくん』第5巻、双葉社、2006年、68頁。

 

 先ほど、誤植の訂正がほとんど無意味な仕事であるかのように論じてきた。しかし、変換ミス、あるいは句読点の位置が少しずれるだけで、日本語の意味が変わる場合もある。その事例として、いしいひさいちは次のような事例を挙げている。「わ~、すごいマンション」と「わ~すごい、マンション」という二つの用語の発音記号は同じである。両者とも「Wa, Sugoi, Mansion」であり、句読点の位置が異なるだけである。しかし、前者は、すごいマンションと普通のマンションの存在を前提にしている。「すごい」という形容詞が、比較級、最上級を持っている。

 

15頁

 対照的に、マンションの存在自体が素晴らしいことを、後者は描いている。この「すごい」という形容詞は、状態記述形容詞であり、すべてのマンションは素晴らし存在である。ここでは、比較級、最上級はありえない。すべてのマンションが素晴らしいという文が、すごいマンション

 このように、句読点の位置を変えるだけで、文意も変わる場合もある。しかし、それはまれである。現在の官僚機構における会議で指摘される誤植の修正によって、文意が変わる場合だけ、誤植は修正されるべきであろう。それ以外の誤植の修正は、専門的会議では無意味であろう

 

 

 

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社会科学とマンガの架橋(1)――いしいひさいち官僚制論(2)

承前

7節 書類至上主義

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いしいひさいち『眼前の敵』河出書房新社、2003年、22-23頁。

 

官僚制の位階的秩序を上昇すればするほど、下部機関から上がってきた書類に依拠して政治的決定を実施する。上位の決定権能者には、書類において形成された事象と現実態が同一であると映現している。その書類が間違っていれば、政治的判断を間違える。この漫画は、書類において再構成された現実態と、現実態そのものが乖離していることを指摘している。さらに、現実態と無関係に上部機関が、上部機関に都合の良い現実態を再構成している。現実の師団はすでに壊滅しているにもかわらず、地図の上における師団を動員することによって、敗色濃厚な戦局を打開しようする。

このように上部機関が振舞うことを、下部機関は知っている。官僚機構において、しばしば下部組織は上部組織に上げる書類を改竄する。第一に、この書類改竄の目的は、義務を持っている労働者が責任を逃れることにある。現実態とは異なる事実を記載することによって、下部組織は降格、解雇さらに刑事訴追等から逃れることができる。下部吏員の現在の地位と賃金は、安泰である。いかなる責任を取ることもない。

 第二に、現状維持という安泰感は、それ以上の安楽をもたらす。それは、書類至上主義と言われる病理と関連している。この用語は私の造語である。現実における危機を現実態においてではなく、書類の上で解消する。当然のことながら、現実態において危機は残存している。しかし、書類を作成する下部組織は、それによって自己満足に陥る。危機は去ったと。上部組織もそれについて気が付いている。気が付かない上部組織は馬鹿である。しかし、気が付いていて、それを黙過する上部組織は、なお馬鹿である。いずれにしろ、上部組織の暗黙の了解のもとで、下部組織は書類を改竄する。

16頁

 第三に、書類を改竄することは、現状維持を目的にしている。現状が過去と同一の状態にあるという虚偽の報告書を偽造する。この病理は、官僚化した組織に特有なものである。組織を活性化するような積極的姿勢は評価されない。むしろ、それは疎まれる。現状の危機を報告することによって、下部組織が新たな仕事を引き受けることになる。つまり、負担が増える。官僚化した組織においてこの言葉は、水戸の御老公の印籠に相当する。書類上が現状の危機を表現していれば、下部組織の仕事が今後増えることは明白である。それを回避するために、短絡的に書類を改竄する。書類的総合性があれば、仕事は増えないからである。現状が書類の上で過去と同一であれば、問題ないとされる。前例主義あるいは現状維持志向が、官僚組織の通弊である。

 この書類至上主義は、旧ソ連末期における書類上の食糧の確保と現実態における食糧危機に典型的に妥当していた。毎日のように、ゴルバチョフ・ソヴィエト連邦共和国共産党書記長のもとに資料が下部組織、各連邦共和国から上がってくる彼の手許にある資料によれば、ソヴィエト連邦共和国は十分すぎる食糧生産高を有していた。輸出も可能であった。第三世界の貧困国に食料援助をしていた。

しかし、モスクワの街の食料品店では、長蛇の列が食料を求めて形成されていた。食糧の緊急輸入が常態化していた。現実のソ連住民には、十分な食料が供給されていなかった。食糧危機が蔓延していた。ゴルバチョフ・ソ連共産党書記長は、書類を見る気力を喪失したはずである。書類上、ソ連は安泰であった。しかし、現実態において前世紀末にソヴィエト連邦共和国自体、そしてソヴィエト連邦共和国共産党が崩壊した。官僚集団あるいは官僚化した組織は、この病理に多かれ少なかれ侵されている。その危機を回避できる健全性が求められている。

 

8節 書類を読解する能力(その一)――官僚機構における権能の上昇と老化現象

 

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いしいひさいち『いしいひさいち選集』第5巻、双葉社、1991年、19頁。

 

 この漫画において、老参謀長が、すでに壊滅した師団をもう一度、机上の作戦の展開主体にしようとしている。官僚制における二つの問題点が露呈している。一方は、書類至上主義の問題である。この意味は前節において論じられている。他方は、官僚制における権能上位者の年齢の問題である。位階制の階梯を登るためには、一定の時間を必要としている。その頂点に君臨するときには、すでに老境に達している。日本の官僚機構においても定年間際になって初めて、事務次官の職位に到達する。

 一般に、自然人の肉体的能力は2030歳を頂点にしている。あとは下り坂である。精神的な活動能力は肉体的能力と比べて、その衰えは緩やかかもしれない。しかし、衰えは隠しようがない。

 

17頁

 位階制の頂点に立つ人間の判断能力に疑問符がつけられている。その頂点に立つ人間は、何も考えずに、50歳前後の課長によって決裁された書類に承認の印鑑だけを押せばよいのかもしれない。

 

9節 情報公開の本質

 

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いしいひさいち『問題外論』第2巻、チャンネルゼロ、1993年、129頁。

 

 官僚の行為は、ある本質的なものを隠蔽することにある。もちろん、すべての行為がそうであるとみなしているわけではない。しかし、ある行為の目的が、別の本質的行為から市民の眼をそらせることにある。

 ここでは、プルトニウム運搬船あかつき丸に関する情報公開が問題になっている。当時のマス・メディアそして市民が知りたかった情報は、あかつき丸の運行経路、プルトニウムの運搬量等であったはずである。しかし、当該官庁は、この運搬船の労働者の趣味嗜好に関する情報を公開した。官僚は、前者に関する情報を公開する企図を持っていなかった。むしろ、それを隠蔽しようとした。

 この運搬船の労働者の趣味嗜好も、運搬船あかつき丸に関する情報公開であると、官僚的思考はみなした。もちろん、広義では個人情報も情報公開の情報という範疇に属する。市民が欲している情報と、官僚が公開すべきであるとみなした情報の間には、巨大な径庭がある。

 いしいひさいちのこの漫画に似た事例は多数ある。飛翔体に関する情報公開にふれてみよう。近年では、北朝鮮からしばし飛翔体が日本の領空を侵犯している。ミサイルが飛来するという情報は、巨大な予算を浪費して発信されている。しかし、国民の健康を害する情報、つまり国民がある程度防御できる情報は、警報として出さない。ある都市において放射性物質の空間濃度が上昇しても、当日その情報が警報として公開されることはない。数日経過して市民に公開されても、市民はどうしようない。

ミサイルが飛来しています、という情報をいただいても、どうしようもない。竹槍で撃ち落とせと命令しているのであろうか。ミサイルに竹槍で勝利するぞ、というスローガンが、今後巷に溢れるのであろうか。

18頁

 私の家の納戸には竹槍すらない。野球のバットはあるが、私は直球とカーブしか打てない。ミサイルがフォークすれば、空振りである。そのような情報はどのような意味があるのであろうか。

 

10節 英語の濫用

 

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いしいひさいち『バイトくん』第4巻、双葉社、2005年、30頁。

 

 奇妙なカタカナ英語が氾濫している。いしいひさいちは、ここで塵紙交換をチリ紙スワッピングと言い換えることの奇妙さを揶揄している。ここで問題であることは、カタカナを使うことではない。むしろ、カタカナを使用することによって、事柄の本質を不可視なものにすることである。カタカナあるいは和製英語を使用することによって、たんなる塵紙交換が、主婦の潜在的願望と一致するかのごとき外観を呈している。

たとえば、数年前に狂牛病という家畜の病気が世界を席巻した。ある時、この名称はBSEと改称された。通常の日本人は、BSEを理解できない。事柄の本質を示すような日本語がかつてあった。あるいは、もっと分かりやすい翻訳語であれば、狂い死病あるいはヤコブ病であろう。

この病気は、牛だけのものではなく、人間にも係わってくるからである。死ぬのは、牛だけではなく、人間でもある。本当の恐怖は、牛肉を食した人間が、苦しみながら、死んでゆくことである。

しかし、この言い換えがおそらく行政機関から指導された時期は、アメリカ合衆国農務長官が、対日牛肉輸出再開を要求していた時期と奇妙に一致していた。それは、200511月である。そして、アメリカ合衆国の要求は、2005年末に実現された。アメリカ合衆国産の安価な牛肉を食べる日本人が、この狂い死病に罹患して、長期間苦しみながら死ぬ、という可能性は考慮されたのであろうか。年収300万円以下の下流日本人は、安価な牛肉を求めるからである。

おそらく、このアメリカ合衆国産牛肉輸入再開を決めた高級官僚、あるいは国会議員たちは、このような牛肉ではなく、和牛、あるいは神戸牛を食するのであろう。彼らの年収は少なくとも、1,200万円を超えている。期末手当と勤勉手当を含めて、月間100万円を消費活動にあてることができる。安価な牛肉ではなく、適正価格の国産牛肉を食することができる。間違っても、数百円の牛丼を朝、昼、晩、毎日食べ続けることは、ないであろう。このような牛肉を食べる必要がないからである。

通常のスーパーマーケットに行けば、但馬牛も、神戸牛も購入することができる。100グラム、数百円から数千円という値段で購入できる。高級官僚、財界人の年収からすれば、小遣いの範囲である。政治家御用達の赤坂の高級料亭で、100グラム200円のアメリカ合衆国産牛肉を提供することは、ほとんどありえない。もし、このような安価の牛肉を提供する高級料亭があれば面白い。それを看板に掲げる神楽坂や赤坂の料亭があれば、一度見てみたい。

このような翻訳による曖昧化は、事柄の本質を隠蔽するものであろう。カタカナ英語は、事柄の本質を明確化するためではなく、それを隠蔽するために使用されている。そして、このカタカナ英語のほとんどが、アメリカ合衆国由来であることは、偶然であろうか。この翻訳用語を定着させたのは、現在の官僚組織における課長、室長、あるいは課長補佐である。彼らの英語能力に欠陥があるとは思えない。むしろ、平均的日本人以上の英語能力を有していることは明らかであろう。なぜ、彼らがその正当な訳語ではなく、むしろ誤訳あるいは迷訳に近い翻訳語を選択したのであろうか。

 彼らは、30歳前後においてアメリカ合衆国に国費留学している。戦前の高級官僚がアメリカ合衆国だけではなく、ドイツ、イギリス、フランスに留学してきたことと対照的である。旧西独の首都ボン、あるいはフランスの首都パリへの留学は、語学上のハンディもありほとんど推奨されていなかった。少なく見積もっても、課長より上級の官僚の半数以上は、アメリカ合衆国への留学体験があるはずである。彼らは、20歳代後半、30歳代前半においてアメリカに留学する。もちろん、自費ではない。官費による留学である。

19頁

 彼らは私費留学生とは異なり、学生寮に住むことはない。日本流に表現すれば、3DKの部屋に6-7人で住むことはないはない。数人の寄宿生が一つのトイレをめぐって闘争することは、ありえない。

留学場所にもよるが、多くの場合、瀟洒な一戸建てがあてがわれる。夫婦ともども高級官僚であれば、プール付きの豪邸も可能である。アメリカでは、平均的な住居である。自家用車で数10分運転すれば、郊外において瀟洒な住居は数多くある。

しかし、彼らも公務員である。学位を取得して、数年後帰国すれば、ほとんど改築されていない古びた官舎に居住せざるをえない。公務員官舎に対する批判は近年盛んであるが、それは近隣の民間住宅との比較から生じるのであり、アメリカ、オーストラリアの住宅事情を勘案すれば、大差ない。林家彦六師匠の名言を借りれば、官舎もまた長屋(ナガヤ)でしかない。高級官僚も長屋(ナガヤ)の皆さんでしかない。長屋に居住せざるをえない高級官僚という概念は、矛盾に満ちている。官僚的世界において、アメリカ合衆国の生活様式そしてその政策は規範になっている。その規範にしたがって、日本を改良しようとする。

そこにおいて、彼らの政策意図を込めているのではなかろうか。もし、そうでなければ彼らは無能な役人になるであろう。なぜ、アメリカ合衆国の政策とその生活状態を日本に定着させねばならないのであろうか。彼らは、アメリカ合衆国の留学生活において、日本の官僚の生活水準以上の生活をしてきたことを考慮に入れねばならないであろう。たとえば、住環境という観点からも、アメリカ合衆国において日本人の平均的水準以上の生活をしてきたはずである。その水準を維持するために、現在の日本を変更しようとしているのであろう。この政策意図を明らかにし、それに代わる対案を市民が準備することが、今求められている。

 

20頁

 

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社会科学とマンガの架橋(1)――いしいひさいち官僚制論(3)――あるいは政治家論

(承前)

『人文論究』が縦書きのために、漢数字を用いている。なお、第11節以下は、本来、政治家論として公表する所存であったが、雑誌編集部との折衝の結果、一つの論文として公表することになった。

 

第一一節 政治家論() 官僚に対抗する政治家? 

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 このマンガは、日本沈没という国難に際して、政治家が自分の選挙区のことしか考えていないこと揶揄している。政治家という官僚組織を統括する主体が、日本全体の普遍的利益ではなく、特殊的利益しか考えていない。

 官僚は、特殊的利益を指向する観点から物事を考える。しかし、官僚が視野狭窄であることは、必ずしも欠陥ではない。与えられた職務に忠実であればあるほど、そのような結果をもたらす。国家公務員と話していると、彼らの隠語として社長という言葉が乱発される。多くの一般職国家公務員、とりわけ課長補佐、係長等は、課長を社長と呼ぶ。自らが属する課の利益を追求する。あるいは課に属する国民生活に対して忠誠を誓う。国家全体における省全体の在り方に関して、ほとんど関心がない。公務員組織は、株式会社とは異なり、社長という役職を持っていない。にもかかわらず、国家公務員組織に属していない人間に対して、課長はうちの社長と表現されている。

 

20頁

国家公務員組織における社長という隠語は、彼らにとって直属の上司が誰であるかを暗示している。彼らが忠誠を誓う主体は、課長である。彼らは省益すら追求しない。いわんや、国益の本質を考察する能力と意思はない。

官僚機構における国益という思想の欠如は、常識的には政治家によって補正される。政治家、本邦の組織形式を用いれば、大臣、副大臣、政務官等は、必ずしもその省庁の業務に関して精通していない。ほとんど素人同然である。全体的視野から、当該省庁の業務を概観することが求められている。

しかし、政治家が特殊的利益、つまり特定の業界利益、地域利益を追求すれば、国益という観点は看過される。政治家は、次の選挙における当選をつねに考えている。政治家は日本国家の普遍的利益ではなく、選挙区という地域の特殊的利益を追求する。

日本沈没という国難に際して、国務大臣を統括する内閣総理大臣も特殊的利益を追求すれば、日本は沈没する。いしいひさいちは、この意味を明確にした。このマンガの置かれている状況が、日本沈没という地殻変動であることは、示唆的である。経済的地平でもなければ、文化的地平でもない。まさに、日本列島が消滅する段階でも、政治家が特殊的利益を追求している。政治家における目的合理性が議員的身分の保障であるとするならば、選挙区に対する利益誘導が合理的なものとなる。あるいは党官僚組織の一員としての個別政党的な利益が優先される。政治家によって設定された合理性もまた、官僚的目的合理性と結合つまり癒着するであろう。

問題は、彼によって提起された地平の彼方にある。誰が国益を追求するのであろうか。多くの官僚は省益すら追求しない。課益がその主要な関心事である。国益を普遍的地平で考察する哲人政治家が求められる。しかし、哲人政治家はどこからリクルートされるのであろうか。古色蒼然たる哲学部の卒業生からであろうか。日本には、そもそも哲学部という学部はない。せいぜい、文学部哲学科が細々とその命脈を保っているにすぎない。教養課程から専門課程への進学振り分けが、文学部において常態化している。文学部の花形学科は、現代社会のニーズに対応している社会学科、マス・メディア学科、英語学科等である。哲学科は、それらから振り落とされた学生の進学先であり、教養課程における成績の宜しくない学生の振り分け進学先として有名である。

西洋哲学科はまだよい。英語、ドイツ語等の外書講読によって、語学的能力が格段に向上する。東洋哲学科あるいはインド哲学科等は、大学院進学を除けばかなり就職に不利である。古代サンスクリット語を習得したとしても、この言語を使用する機会が現代社会において少ないからである。

さらに、哲学科学生の多くは哲学史には精通していても、哲学者ではない。特定の著名な哲学者の思考様式を学んだとしても、全哲学史におけるその位置づけは不明なままである。

哲学的思考様式は、官僚機構によって追求される課益、省益には対抗できないであろう。それを超えた地平が求められている。

 

21頁

 

第一二節 政治家論() 劣化した政治家

 

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金正日・朝鮮労働党総書記は父から地盤、看板、鞄を継承した政治家である。その権力と権威の源泉は、金日成・将軍の子供であったという事実に還元される。今世紀初頭の朝鮮半島北部の支配者、金正恩の権力の源泉は、金正日の子供であり、金日成の孫であることにすぎない。彼個人の政治的判断能力、能力はほとんど顧慮されていない。

翻って、本邦においても世襲政治家が跋扈している。安倍晋三・内閣総理大臣、麻生太郎・内閣副総理大臣以下、自民党の政治家の大半は、父親あるいは配偶者の父親から権力基盤を継承した。彼らが最初の選挙に出馬するときには、父親あるいは義父の威光を十全に利用した。その意味で、朝鮮民主主義人民共和国の独裁者、金正恩と、日本の有力政治家は類似している。昨今では、朝鮮民主主義人民共和国と日本の外交関係がかなり険悪化しており、日本はこの国家を経済制裁の対象にしている。しかし、両国において政治的決定を最終的に実施する主体は、世襲政治家であるという点において共通している。両者とも国民の生活習慣を実感することは、ないであろう。

政治的指導者の精神構造もまた、共通している。彼らに哲人政治家的な資質を求めることは、滑稽でしかないであろう。彼らが被支配者の生活様式に配慮するという幻想は、誰も保持していないであろう。

 

第一三節 政治家論() 胆力なき政治家

 

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ここで、小国の戦国大名が、破竹の勢いで侵攻してくる織田信長の軍勢にどのように対処すべきかが問題になっている。しかし、この戦国大名はなんらの政治的決断をしようともしない。たんに、泣き寝入りするという選択肢を選んだにすぎない。

 政治的決断をするためには、主体の能力を考慮しながら状況を的確に判断しなければならない。しかし、この政治的指導者はその決断から逃げているにすぎない。決断をするための胆力に欠けている。政治家はどのような状況であれ、決断を下さねばならない。

 

13頁

 

第一四節 政治家論() 政治家と国民の同一性

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このマンガでは、農林族に属する政治家の議論過程が描かれている。農林族議員の見識の無さ、つまり農林行政の場当たり性が、自嘲気味に描かれている。次回の選挙で議員自身の落選の危機が、この会議において議論された。しかし、有権者である農民もまた、場当たり的であることが、指摘されている。議員だけではなく、国民もまた、将来に対する見識なき存在である。おそらく、この農林族議員が再選されるであろうことが、予見されている。

 事実、この半世紀間における農政は、自民党か旧民主党の政治家によって決定された。農業経営の大規模化が、ほぼ共通して承認されてきた。家族経営による有畜小規模農業は、ほぼ駆逐されてしまった。自然卵養鶏を営む小規模農家が、細々と生存しているにすぎない。都市に食料を供給するという選択肢は、多くの農民によって支持されてきた。農家は都市の不耕貪食の民に食料を供給する。問題は農業生産物の対価の多寡でしかない。農民が金銭を媒介にして、農産物を都市に供給するというパラダイムは、問題にすらされていない。

 このような傾向を農民自身が選択した。その結果、農業自体が衰退した。政治家の農業観を支えている基盤は、農民の農業意識でしかない。両者の価値観には、ほとんど区別はないであろう。

 

第一五節 政治家論() 官僚に統御された政治家

 

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このマンガでは、前世紀後半に成立した第一次村山内閣が、第一三次村山内閣として今世紀まで継続している。村山首相は死に体ですらなく、すでに、生物学上でも死亡している。しかし、この内閣は継続している。

 

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 官僚によって提出された書類に署名捺印することだけが、宰相の仕事になる。官僚機構によって統御された政治家は、誰でもよいことになる。元社会党委員長であれ、自民党の重鎮であれ、誰が首相になろうとも大差はないであろう。自称、社会主義者であれ、資本主義者であれ、官僚機構という膨大な組織から自由になれない。

 

第一六節 官僚制における民主主義?

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このマンガの面白さは、軍隊に多数決原理が導入されていることにある。この原理の導入は、現実的には想定不可能である。将校と兵隊の数は、通常、兵隊の数が多い。もし、軍隊という命令組織に多数決原理を導入すれば、軍隊という組織が崩壊するであろう。多くの兵隊は、徴兵された存在であり、戦意は将校に比べて低いからである。もし、多数決原理が導入されれば、戦争そのものが否定されるであろう。民主主義という原理は、命令組織には導入されない。官僚組織は位階制的組織である。この官僚組織のうちで、もっとも厳格な組織は軍隊である。上官の命令を否定し、前線から逃亡しようとすれば、前線の背後に控える督戦隊から銃弾を受ける。

軍隊に民主主義が導入されれば、前線で生命を賭けて戦うのは、将校のみになるであろう。このマンガは、その架空の設定を採用している。しかし、この試みはもろくも失敗する。味方の軍隊に民主主義を導入すれば、敵の軍隊にも、民主主義が導入されるであろう。敵の上官は味方の上官を狙撃しようとしない。不条理な怒りに震える敵の上官は、相手方の軍隊の将校ではなく、兵隊を狙撃しようとする。

一般化して言えば、あるものの本質とは異なる要素を当該概念に導入することによって、当該概念が明瞭になる。いしいひさいちは、当該概念、ここでは軍隊の本質を把握しいている。その本質とは正反対の理念を導入することによって、その概念を明瞭にしている。

なお、命令組織は軍隊に限定されていない。名目的にはすべての官僚組織に妥当する。また、官僚組織に比肩する強度を誇る営利企業の組織にもあてはまるであろう。そこにおいて、民主主義の原理、多数決原理は適用されない。

 

24頁

 政治的領域においても、多数決原理が適用される領域はかなり少ない。有権者間における平等性が、前提になる領域でしかない。況や、社会的関係、家族的関係においてこの原理を導入しようとすることは、無謀という誹りを免れない。この原理が妥当する領域は、限定されねばならない。私的領域においてこの原理は、適用されてはならない。私的領域にこの原理を適用した場合、利害関係があまりに強く、少数者が多数者に従うことが困難である。

もっとも、後期近代において公的領域と私的領域は交錯しており、その峻別が困難である。公的領域の本質規定が問題になる。私的領域における行為、たとえば私有地において住宅あるいは環境破壊的産業を建設することが、公的領域と交錯する。しかし、公的領域と私的領域の交錯領域でも、多数決原理が適用されることは少ないであろう。ここでも、行政つまり命令組織と、個人の関係が主である。

より一般化すれば、多数決原理は、政治的国家における平等原理を前提にしており、官僚機構における命令原理とは相容れない。政治的領域に限定しても、その適用範囲は狭い。また、市民社会はこの原理を採用していない。たとえば、株式会社において、労働者は経営者、そして究極的には資本家の命令に従わねばならない。また、株主総会では、持ち株高に応じて、投票数が決定される。所有株券の数に応じて、投票行動が実施される。一株に付き一票であり、持ち株が多ければ、投票数も多い。多数決原理ではなく、当該企業の株式の多寡に応じて、投票数が決定される。ここには、平等原理は適用されない。

しかし、構成員全体が平等であるかのような軍隊が、かつて存在していた。歴史的に言えば、軍隊に民主主義あるいは多数決原理が導入されることは、必ずしも荒唐無稽でない。一七世紀にイギリス革命が生じたが、この世界初の近代革命の一翼を担った水平派に、その起源を求めることも可能であろう。

ここで、数世紀前に生じたイギリス革命の歴史的経緯に触れておこう。まず、この革命は国王と議会との憲法論争から始まった。この論争の中心は、今後のイギリスの政治体制を絶対主義的君主制のままとどめるのか、立憲主義的君主に改変するべきかということにあった。国王派が前者を、議会派が後者をそれぞれ代表する。一六四二年には、国王派と議会派の内乱が開始される。一六四九年に、革命派は軍事的に勝利し、国王を処刑する。世界初の近代革命がイギリスにおいて成功し、近代が始まる。同時に、革命派の勝利は、議会派内部の対立を明瞭にした。つまり、長老派、独立派そして水平派という派閥闘争が激化する。

三つの派閥の指向性の差異が、明瞭になりつつあった。長老派は立憲君主制を、独立派は共和制をそれぞれ指向していた。共和制が、立憲君主制を超えて独立派によって宣言される。共和制は、長老派に対する独立派のヘゲモニーが確立されたことによる。同時に水平派も弾圧される。一六五三年に、独立派のクロンウェルの軍事独裁が始まる。ローマ共和制に似た護民官政治が始まる。独立派が革命派のなかで全権を把握する。しかし、独立派による独裁政治は、長老派と水平派の支持ひいては国民一般の支持を喪失した。

この革命の主流を形成することはなかったが、水平派の思想に触れておこう。ここには、近代揚棄の思想がみられる。彼らは軍隊内部に全軍評議会を形成しようとする。この評議会は軍隊内の意志決定を民主化しようとする。この党派は、軍隊という命令型組織に多数決原理を適用しようとする。もちろん、軍隊という官僚組織に民主主義を適用することは、明らかな矛盾である。結果的にこの試みは敗北する。上級将校を中心にした独立派によって、水平派は弾圧される。

しかし、正規軍ではなく、反乱軍において民主主義的要素を導入しようという試みは、一定程度必要になる。イギリス革命における水平派は、荒唐無稽な存在ではない。なぜなら、つねにその使命感が反乱軍において鼓舞されねばならないからである。革命軍は正規軍と異なり、金銭的裏付けがないにもかかわらず、軍への参加を鼓舞しなければならない。なぜ、革命軍に参加しなければならないのかを参加者に理論的に説明しなければならない。既存の秩序を破壊することを、言語によって正当化しなければならない。長老派と独立派は、水平派に対して革命軍への参画を煽動した。結果的には水平派は弾圧されるが、水兵派がなければ革命は成就しなかった。反乱軍あるいは革命軍は、これまでの忠誠対象とは異なる対象にその忠誠心を要求する。

 

25頁

このマンガに揶揄された命令組織における多数決原理の導入は、軍隊の例外的な存在形式つまり革命軍において妥当性を有しているのかもしれない。

 

おわりに

 永井均『マンガは哲学する』(岩波書店、二〇〇九年)は、思想的分野における必読文献になっていると想像している。本書に倣えば、本稿の題名は「マンガは社会科学する」のほうが正しいのかもしれない。

 しかし、彼の著書を構成しているある小節を論文として哲学の学会誌に投稿したとしても、受理されることはないであろう。哲学の論文としての形式をほとんど無視しているからである。にもかかわらず、マンガという娯楽対象から自己自身の思想を形成しようとする市民にとって、彼の著作が有益であることに変わりはないであろう。哲学的諸課題のうちの一つが、本書によって解答されている。

 本稿は、官僚制に関するいしいひさいちの深遠な洞察をマンガという形式ではなく、文章として提示している。マンガと文章の関係において、この作業は現在流布している方法論と逆方向を指向している。通常、難解な書物、たとえばマルクス『資本論』をマンガによって解説することが、現今の出版界において一般的である。対照的に、本稿は四コママンガから得た着想を文章として提示している。彼のマンガを何度も読み直すなかで、現代政治そして官僚制に関する深遠な洞察に気付いた。この面白さの根拠を考察するなかで、本稿が生まれた。

いしいひさいちのマンガを媒介することによって、現代社会の様々な側面を考察してみよう。官僚制論だけではなく、農村論そして経済論等を準備している。さらに、いしいひさいちだけではなく、村上和彦、西岸良平等の社会科学に関する論稿もすでに準備している。それを集大成すれば、近代政治そして近代社会の一側面が明瞭に浮かび上がってくるであろう。

 

著作権に関する付論

マンガの著作権に関する思想も永井均の前掲書の考えに依拠している。永井均はマンガの著作権と思想的論稿の関係を次のように述べている。「本書におけるマンガの引用は、『報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲で行われるもの』であるから、著者および出版社の許諾を得ていない」。[1] この叙述様式が、著作権法三二条第一項に妥当するとみなしている。

永井均の著作に先行する同様な手法の業績として、呉智英『現代マンガの全体像』も参照されるべきであろう。呉智英は、引用したマンガのすべてに対して著作権マークCを付けている。[2] 本稿執筆にあたって、呉智英の考えに依拠すべきであろうかとも、考えた。呉智英によれば、マンガの引用は、マンガ家の承認を得るべきであるとされる。

しかし、筆者は、呉智英ではなく、永井均の著作権に関する解釈を正当なものと考えている。学術論文や学術書と同様に、書籍化されたマンガも公開された社会的な共有財産である。その引用は自由であるべきだ、と考えている。もしそうでなければ、あるマンガの1頁を批評するために、マンガ家に転載許可を求めねばならない。著作権者と連絡を取る方法は、通常、公開されていない。そのような煩瑣な作業をマンガ批評者に要求することは、事実上、マンガ批評を断念するという選択肢しか残されていない。

26頁

逆に、マンガ家からすれば、毎日のように転載許可の電話、メールが届くことになる。マンガを執筆する時間よりも、転載許可の許諾が彼の仕事になる。著作活動を断念し、著作権を守るという事務作業に没頭しなければならない。呉智英の著作権に関する認識によれば、このような馬鹿げた事態が招来するであろう。さらに、マンガ評論に関する古典とみなされている著作、たとえば鶴見俊輔の一連のマンガ評論は、引用頁数すら記載していない。ただ、マンガ本の題名だけである。[3] それでも、問題ないと考えられている

いしいひさいちの筆名は、引用されることによってより高まると想像している。もっとも、私が引用しなくとも、いしいひさいちのマンガは、すでに同時代の大衆にとって基礎教養になっている。前世紀後半において廣松渉の哲学が基礎教養になっていたことと同様である。いしいひさいちからすれば、著作権の問題はどうでもよいことに属する事柄にすぎないのかもしれない。

さらに、学術的世界、とりわけ自然科学系学問領域において、引用される回数が当該論文の価値を高めている。引用される回数を増すために、姑息な手段が横行しているとも聞いている。研究者仲間で相互に不必要な引用がなされているという指摘は、よく聞く話である。

私は特定のマンガ家、いしいひさいちと個人的面識を持っているわけではない。公刊された彼のマンガ本を購入し、その読者になっているだけである。なお、本稿以後にも、同様な叙述形式の原稿を幾つか用意している。マンガの著作権に関する考察も、同様な思想に基づいている。著作権マークCは、私の論文に付されていない。

 

引用文献表

第一節 いしいひさいち『ドーナツブックス』第三七巻、双葉社、二〇〇三年、一〇〇頁。

第二節 いしいひさいち『ドーナツブックス』第一一巻、双葉社、一九八六年、一三二頁。

第三節 いしいひさいち『問題外論』第一一巻、チャンネルゼロ、一九九七年、四五頁。

第四節 いしいひさいち『ドーナツブックス』第一三巻、双葉社、一九八六年、一一八頁。

第五節 いしいひさいち『ドーナツブックス』第二二巻、双葉社、一九九〇年、五五頁。

第六節 いしいひさいち『バイトくん』第五巻、双葉社、二〇〇六年、六八頁。

第七節 いしいひさいち『眼前の敵』河出書房新社、二〇〇三年、二二―二三頁。

第八節 いしいひさいち『ドーナツブックス』第五巻、双葉社、一九八四年、一九頁。

第九節 いしいひさいち『問題外論』第二巻、チャンネルゼロ、一九九三年、一二八頁。

第一〇節 いしいひさいち『バイトくん』第四巻、双葉社、二〇〇五年、三〇頁。

第一一節 いしいひさいち『ドーナツブックス』第一三巻、双葉社、一九八六年、一二六頁。

第一二節 いしいひさいち『近くて遠山の金さん』双葉社、二〇〇七年、七七頁。

第一三節 いしいひさいち『ドーナツブックス』第五巻、双葉社、一九八四年、一二頁。

第一四節 いしいひさいち『経済外論』第三巻、朝日新聞社、一九九一年、五四頁。

 

27頁

第一五節 いしいひさいち『スチャラカお宝大明神』双葉社、二〇〇八年、三二―三三頁。

第一六節 いしいひさいち『鏡の国の戦争』潮出版、一九八五年、七六―七七頁。

 

[1] 永井均『マンガは哲学する』岩波書店、二〇〇九年、二三二頁。

[2] 呉智英『現代マンガの全体像』双葉社、一九九七年参照。

[3] 鶴見俊輔『鶴見俊輔全漫画論Ⅰ』筑摩書房、二〇一八年参照。

 

28頁

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日本のコロナヴィールス-19の感染者数は、5.000人と推定(2020年4月4日現在)ーーマスク信仰ではなく、感染者数の検査を!ーー大本営発表から真実を考える

日本のコロナヴィールス-19の感染者数は、5,000人と推定(202044日現在)――あるいは、本当の死亡者は、すでに10,000人を超えているのかもしれない。

――マスク信仰ではなく、感染者数の検査を!――大本営発表から真実を考える――中村天風の論説の援用

 

           20200404日 田村伊知朗

                20200507日   追記 

 

日本のコロナヴィールス-19( Coronavirus SARS-CoV-2)の感染者の数は、不明である。そもそもほとんど検査していない。保健所でも、38度以上の高熱が4日間継続していないと、検査すらしてくれない。1日だけ高熱が出ても門前払いである。

検査をせずに、マスクを信仰している。マスクをしても、コロナヴィールス-19を排除できない。マスクの穴の大きさは、5マイクロメートルであり、コロナウイルスは、0.1マイクロメートルにすぎない。マスクの穴の大きさは、コロナヴィールス-19( Coronavirus SARS-CoV-2)の約50倍である。マスクの穴は絶望的に大きい。にもかかわらず、マスクをしろと言い、マスクを各世帯に2個無料配布するという。そのような暇と金が余っているのであれば、感染者を発見するための検査をすべきであろう。日本の厚生労働省は暇と予算を持て余していると言わざるをえない。マスク信仰は、かつての言霊信仰を想起させる。現代日本は、マスクによる怨霊退散、そしてコロナヴィールス-19( Coronavirus SARS-CoV-2)退散を祈念しているのであろうか。マスクと感染症予防は、ほぼ2%の関連性しかない。常識的に判断すれば、ほぼ両者は無関係である。

(下線部は、202057日に追記された)。マスクに関して、中村天風は次のように規定している。「マスクを常用すると、口腔内の粘膜皮膚の生活力や、特に鼻腔内及び咽頭粘膜または気管部の抵抗力をますます弱めて、僅かな病的刺戟にも直ぐ犯されて、鼻やのどに加答児疾患を起す機会を多く作るからである。元来あのマスクというものは、自分が何かの病をもつ弱い体で、他人にそれを伝染させまいと・・・使用すべきもの」である。[1] 自分の健康を保持するためにではなく、他者への配慮をするために、マスクを使用すると明白に述べている。当然であろうが、中村天風は近代思想家であると同時に、医学博士であるという事実を思い出した。そして、中村天風は因習を嫌っていた。

したがって、感染者数を推測するしかない。202044日現在、ドイツの感染者数は85,778人であるが、死亡者は1,158人である。死亡率1.3%である。[2] 日本の感染数は、2,617人、死亡者は63人である。日本の感染者数は、信用できないが、死亡者数は信用できると仮定している。また、死亡率は、ほぼ日本と同じような医療体制を誇っているドイツと同じであると仮定してみよう。約1.3%いうドイツの死亡率を参考にして計算してみると、日本の感染者数は、4846人である。スウェーデンとほぼ同じであろう。感染者数は、5.000人前後であろう。世界の他の国と比較すれば、20位くらいのランクにあると推定される。[3] しかし、スウェーデンの人口は、1,000万人でしかない。その10倍以上の人口を有する日本は、まだ安心してよいのかもしれない。

ただ、ドイツに比べて、日本の死亡者数が二桁異なっている。まさか、死亡者数まで隠蔽しているのであろうか。もし、死亡者数が二桁間違っているのであれば、本稿の推定も無意味となろう。その可能性を筆者は危惧している。もちろん、病院でコロナヴィールス-19の感染者が死亡すれば、この死亡者数に換算されるが、自宅での死亡者、たとえば重度の癌患者、糖尿病患者が死亡すれば、死亡診断書にはたんに心不全と書かれるだけである。たとえ、この重度の癌患者がコロナヴィールス-19に感染していたとしても、死者の感染可能性を調べる町医者はほとんどいない。家族が医者を呼んだときには、患者はすでに死亡している。心不全という診断は適切である。この患者は、コロナヴィールス-19の死者とは換算されない。たとえば、私の親族4人が、自宅で死亡している。4人とも、死因は心不全であった。4人とも重度の疾病、たとえば癌、パーキンソン病等に苦しんでいた。死亡診断書には、すべて心不全と書かれていた。もちろん、間違いではない。しかし、正しいとも思えない。必要なことは、大本営発表を信仰することではない。大本営発表の中にも、真実は含まれている。その事実を総合的に判断するしかない。もし、死亡者が二桁異なっていれば、たとえば1,000人を超えていれば、ドイツ並みの感染者数が日本に潜在していることになる。

また、日本では年間約120,000人が肺炎で死亡している。月間、10,000人である。この肺炎死亡者の内、約10パーセントがコロナヴィールス-19( Coronavirus SARS-CoV-2)に罹患していれば、死亡者数は、半年間で約60,000万人である。イタリアと同程度になる。果たして、どの程度がコロナヴィールス-19( Coronavirus SARS-CoV-2)を主要要因として死亡しているのか、闇の中の事象である。

202044日)

 

 

 

 

[1] 中村天風『真人生の探究』天風会、1994年、242頁。

[2] Vgl. Robert Koch-Institut: COVID-19-Dashboard. In: https://experience.arcgis.com/experience/478220a4c454480e823b17327b2bf1d4. [Datum: 04.04.2020]

[3] Vgl. Coronavirus disease (COVID-19) Situation Dashboard. In: https://experience.arcgis.com/experience/685d0ace521648f8a5beeeee1b9125cd. [Datum: 04.04.2020]

 

 

 

 

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中村天風論試論――暫定稿

闇の夜に鳴かぬ烏の声聞けば、中村天風私論            20190515,0502,0504.0509,0610,0627

 

 

1. 中村天風の哲学の魅力

1.1 中村天風の哲学の継続性

 中村天風(18761968年)の哲学が日露戦争前後から形成されていたことを考えると、ほぼ100年の歴史を有している。哲学を専門にしている大学教授は、日本のこの1世紀において、数千人、数万人以上いたからもしれない。彼らによって出版された哲学書あるいは哲学に関する研究書は、数万冊に至るかもしれない。しかし、現在でも読書界において確固たる地位を保っている書物は、非常に数少ない。

 さらに、この1世紀に渡る時間のなかで、中村天風(18761968年)の哲学が東郷平八郎元帥等の著名人に対して影響を与えた。[1] 日本人だけが、彼の哲学に対する信奉者でもなかった。著名な外国人、たとえばロックフェラー3世も彼の思想に触れる機会を持った。[2] 偶然であれ、多くの人間が、彼の人格そしてその思想に触れ、より安楽な生を送ったであろう。

 

1.2 専門知と素人知の区別

 なぜ、彼の哲学がほぼ1世紀近く、その命脈を保ってきたのであろうか。その根拠の一つは、彼が専門知と素人知を区別したことにある。彼の人間論や宇宙論が、たとえばハイデガーよりも優れていたからではない。専門知が素人知に加工されず、その存在形式が保持されているかぎり、彼の哲学書の大半は、国会図書館の書庫の奥にたまった埃にまみれていたであろう。彼は専門知の限界を明確に理解していた。「私の知れる限りをとことん説明いたしません。・・・この集まりがね、・・・基礎医学の知識ばかり持った人の集まりだというと、また説明はもっとずっと立体的に深くなっていくんですが、そういう説明になると、今度はあなた方が皆目わからなくなっちまいます」。[3] 中村天風の啓蒙そして講演対象は、専門知を理解しない素人である大衆である。専門家に対する説明と大衆に対する説明は、ここでは明白に区別されており、彼の思想は大衆によって支持されてきた。

 

1.3 理解の容易性

 たとえば、ハイデガーによって提起された本来的自己を自己のものにすることが、ある読者に必要不可欠であるとしてみよう。ドイツ哲学史において刻印された哲学を理解するために、大衆はその難解な書物を購入しなければならない。彼の哲学書をドイツ語で読解するためには、ドイツ語の初等文法から学習しなければならない。ドイツ語の文法構造を完全に習得したとしても、彼の叙述形式はドイツの知識人すら理解しがたい難解な構造を持っている。彼の全集を読むだけで数十年の年月がかかるであろう。途方もない時間がかかる。10数年後には、この読者の生命すら風前の灯になっているであろう。

 

1.4 思想と実践

 対照的に、中村天風の哲学は、多くの人の病気、煩悶、貧乏等の悩みを解消した。その実用的価値から、彼の哲学が現在でも影響を与え続けている。彼の哲学が人口に膾炙した根拠の一つは、日常的生活において実行可能な提言であることにある。中村天風は、それに至る一つの途として、日常生活において積極的言葉を使用するという誰でも実行できそうな提言をしている。「言語というものには、頗る強烈な暗示力が固有されている。従って特に積極的人生の建設に志す者は、夢にも消極的の言語を、戯れにも口にしてはならないのである」。[4] もちろん、厳密に考えれば、この命題を実行に移すことはかなり困難である。哲学的背景を持っているこの言葉を聞くことによって、多くの人が肩の荷を少し下ろし、煩悶から解放された。積極的言葉をより使用し、かつ快濶に、はっきりと発音することが肝要であろう。これだけでも、肩凝りの症状が軽くなった人は数多いであろう。

 あるいは、他人の悪口を言わない、できる限り他人の良い点を褒める、ということも実行できそうである。他人の悪口は、自分の心の清浄性を冒し、自分自身を貶めることにつながるであろう。宇宙霊から与えられた自己の生命、そして自己の心を汚すことにつながる。宇宙霊から活力を得ることは、できない。自分の心の汚濁は、疾病の素であろう。雑念や妄想を自己の心から追放すれば、このような心境になれる。その方法は次のようになっている。「雑念、妄想を除くのは、・・・無念無想になりゃいいんです。・・・いっさいの感覚を超越して・・・いっさいの感情、情念を心になかに入れないで、純真な気持ちになることが無念無想なんです」。[5] この心境に至るための道筋は、彼によって示されている。

 

しかも、中村天風の思想はこのような事柄に限定されない広大な背景を持っている。彼の思想は、巷に溢れている自己啓発に関する書物、あるいは軽薄短小なビジネス本と区別されるべき射程を持っている。多くの彼の信奉者と同様に、彼の哲学を纏めてみよう。しかし、彼の哲学書に関する解釈書は数多いが、その宇宙論から根源的に解釈した書物は数少ない。本稿がその一助に寄与すれば幸いであろう。

2.人間的自然と宇宙

2.1 闇の夜に鳴かぬ烏の声

 「闇の夜に鳴かぬ烏の声聞けば、生まれぬ先の親ぞ恋しき」という有名な詩歌は、一休宗純(13941481年)によって作成された、とみなされている。この解釈は古来より多々あるであろう。中村天風もまた、この和歌を講演、訓話等で引用していた。[6] 本節では以下のように解釈したい。私という一回かぎりの生を現生に送り出したもの、闇の奥にあるものが存在しており、その声が聞こえるはずだ。私もたまに、聞こえるような気もするが、どうであろう。少なくとも、その声を聞こうとしている鳴かぬ烏の声とは何か。私という人格を送り出し根源的なものとは何か。私に何を託そうとしているのか。宇宙が進化するか、否かはわからないが、何かをするためにここにいることは、間違いないであろう。その根源的なものに関して考察してみよう。人間あるいは人類の歴史に関して、どのような寄与ができるのであろうか。

2.2 宇宙観とプランク定数h

 この問題に解答するために、中村天風の宇宙観に言及してみよう。彼の世界観によれば、「人間は宇宙の進化と向上に順応するために生まれてきた」。[7] そして、「この宇宙の創造を司る造物主と称する宇宙霊」こそが、人間を創造した。[8] しかし、この宇宙は進化するのであろうか。「宇宙の本来が進化と向上にある」。[9] 宇宙は進化し、向上する、と断言している。宇宙が進化する根拠に関して中村天風は曖昧である。宇宙が根源的で絶対的であれば、進化も向上もする必要はないからである。現象界に送り出された人間は、宇宙に寄与することは何もない。

 しかし、次のように考えることによって、中村天風はこの難問に回答を与えている。中村は、宇宙霊を生命体とみなしている。「宇宙霊は、休むことなく働いている。創造に瞬時の休みもなくいそしんでいる活動体である。だからこそ、この宇宙はつねに更新し、常に進化し、向上しつつあるのである」。[10] 中村天風によれば、生命体つまり有機体として宇宙霊こそが、宇宙エネルギー総体である。この中村天風によって把握され、命名された宇宙霊が、自然的人間の環境世界を包んでいる。[11] 「宇宙霊なるものこそは、万物の一切をよりよく作り更える」[12] 宇宙霊は、現象界を改善する方向へと変化させる。人間がその用意をした場合、「造物主(宇宙霊)の無限の力が自然に自己の生命の中へ、無条件に同化力を増加してくる」。[13] 現象界において人間は、この宇宙の本質を無限に受容できる。

この思想は次のように要約される。「宇宙の最初は、ただ宇宙霊のみであった」。[14] ここまでは、私にも理解できる。しかし、なぜ宇宙霊は絶対的ではなく、進化あるいは変動するのか。この点が理解困難であった。

2.3 プランク定数h

 しかし、中村天風は宇宙霊を固定的に考察するのではなく、エネルギーと周波数の関係つまり超極微粒子のブランク定数hとみなしている。「万物能造の宇宙エネルギーは、この空間と俗に人々から呼称せられているものの中に、遍満している『絶対に人類の発明した顕微鏡は、分光器では、何としても分別感覚することの不可能な・・・見えざる光であるところの超極微粒子』だと論定している。しこうして、この『超極微粒子』を、今から半世紀以前にドイツのプランク博士が、これをプランク常数Hと名付けた。このプランク常数Hなるものこそ、ヨガ哲学者のいう宇宙霊なのである」。[15] プランク(Planck, Max 18581947)によって発見されたプランク定数hは作用量子(Wirkungsquantum)であり、つねに活動している。これは、この光子のエネルギーと周波数の関係であり、固定的なものではなく、常に流動している。共鳴子の振動は、その振幅と位相を変化交替させる。

 中村天風によれば、鳴かぬ烏の声あるいは生まれぬ先の親は、ブランク定数hである。「なにもかもすべて、あにあえて、人間ばかりじゃない。現象界に形を現わしている物質はみな、その根源は見えないElementary particle (素粒子) だ」。[16] 現象界において個別的肉体が生成する以前に、その根源は形成されていた。すべての肉体と精神は、この超極素粒子に還元される。

但し、この流動性は、以下のような作用量子に関する中村天風の独自の解釈に基づいている。「宇宙現象の根源をなすところの『気』というものは、(+)の『気』と(-)の『気』の二種類に分別される。そして、プラス=+の『気』は、建設能造の働きを行い、マイナス=-の『気』は、消滅崩壊の働きを行って、生々化々の現実化のため、常に新陳代謝の妙智を具顕しているのである」。[17] この中村天風の言説がプランク定数hにおけるどのような要素と関連しているのか、不明である。

 通常の宗教学によれば、宇宙霊とは唯一絶対神であり、固定的に思惟されている。たとえば、ユダヤ教あるいはキリスト教における唯一絶対神が、流動的であるはずがない。この常識に囚われていた私は、宇宙霊を固定的に考察していた。

 

2.4 宇宙の進歩

 もちろん、宇宙が進歩しているかどうかに関して異論はある。宇宙には進歩という概念がないという宇宙観もまた、真理である。もちろん、宇宙が固定的ではなく、流動的であるという断定に異論はない。しかし、その流動性に進歩があるか、否かに関してはわからない。

数千年における人間の歴史という尺度において、果たして宇宙には進歩がないかもしれない。「循環=繰り返しには『進歩』がない。・・・田舎(農業)は、この大自然の『永遠の循環』『進歩なき繰り返し』と共にあるべきものである」。[18] 進化あるいは進歩は自然において存在しない。中島正はこのような東洋的宇宙観に基づき、その思想を形成している。中村天風の宇宙観は、中島正の宇宙観から区別されている。しかし、どちらの宇宙観が正当であるかは、時間的尺度の差異に基づき決定される。中村天風は数億年単位で、中島正は数千年単位で宇宙を考察している。また、前者は惑星を含めた宇宙総体に基づき宇宙を考察していることと対照的に、後者は地球総体に基づき宇宙を考察している。

 

3.  道具としての肉体と精神

3.1 人間の本質

 中村天風の宇宙観によれば、生命体を含む物質の根源は素粒子である。したがって、自己の本質は、肉体でもなければ、精神でもない。「自己それ自身と自分のpossess (所有物)とはちがうはずだもの。体や心は自分ではない。自分というこの気体である真我の本質が、現象界にある生命活動をするために必要とする道具なんですよ」。[19] 心すら、自己の本質とは別物である。精神至上主義が否定されている。

 気体である真我の本質が、自己の精神と肉体を統御する。宇宙の本質としての気体と個人が一体になることによって、精神と肉体の欲求すらも統御できる。真我は心ではない。

 しかし、多くの知識人は、精神と肉体の虜になっている。自己の本質ではない精神と肉体の欲求を制御できない。真我が現れなくなっている。精神も肉体も真我の声を聴くことができない。個別的個人としての私の存在意義を理解できなくなっている。

 

「珈琲時間」

 ここで私的体験を述べておこう。201972415時半前後にJR札幌駅から地下鉄東豊線札幌駅への徒歩での移動中のことであった。久しぶりの札幌であり、讃岐うどんを食したいという肉体的欲求に従って、地下鉄東豊線札幌駅近くの讃岐うどんの店を訪れた。しかし、その行為は肉体の欲求に順じただけであった。真我の欲求に従えば、握り飯を食するべきであった。あるいは何物も食さないことが、真我の欲求だったかもしれない。事実、かけうどんの中を注文したが、ほとんど食べ残してしまった。御百姓様に申し訳なかったが、真我がこのうどんを拒否していたように思えた。

 また、現在交通論に取り組んでいるが、必ずしも既存の交通論研究の範疇に属することを考察しているのではない。近代思想史の範疇として、近代公共交通論を議論している。それを忘れていることに気が付いた。東豊線の車中であった。隣に座った二人の老婦人が、かなり上品であるが、些細なことに夢中で議論していた。彼女はこのような生活の利便性、JR東のスイカは札幌の地下鉄で使用できるか否かに関して、激論を交わしていた。このような議論をするために、彼女は生まれて来たのであろうか。生活の利便性ではなく、まさに鴉の声が聞こえたのであろうか。このときに、私はなにか、鴉の声を聴いたような気がした。彼女たちの議論には感謝しなければならない。

 

3.2 宇宙霊と自然的人間

 この認識に基づくかぎり、これ以後は一瀉千里である。[20] 「わが生命は宇宙霊の生命と通じている。宇宙霊の生命は無限である」。[21] 宇宙霊と人間の精神が同一化される状況へと自己の精神を方向づけるだけである。「人間は、恒に宇宙原則に即応して、この世の中の進化と向上とを現実化するという、厳粛な使命をもってこの世に生まれて来た」。[22] 宇宙の進化と感応する人間的精神の目的が、明瞭に述べられている。ここからは、心を積極的にするための方法論の実践だけである。たとえば、怒り、怖れ、悲嘆ではなく、感謝と歓喜の感情に満ちた生活をおくることが重要である。「宇宙の神霊は、人間の感謝と歓喜という感情で、その通路を開かれる」。[23] 宇宙霊と自然的人間の精神が合体することによって、積極的感情が満ちる。自然的人間の運命も積極化する。このような消極的感情は、自然的人間の心にはない。

 

3.3 自然的人間の潜勢力

 このような積極的感情が生成する根拠は、人間には生命力が備わっていることにある。「人間の生命の内奥深くに、潜勢力という微妙にして優秀な特殊な力が何人にも実在している」。[24] 人間的自然の内に、宇宙霊の積極性を受容する力が備わっている。宇宙進化と同様に、人間も進化することが前提にされている。以下では、この進化へと至る具体的方法を列挙してみよう。この具体的実行例は、多くの信奉者が日々配慮しているのであろう事柄に属している。

 

3.4 自然的人間の目的

 自然的人間は、目的を持って存在している。そして、生まれる前から、何らの目的を持っている。闇の夜の鳴かぬ烏の声によって規定されている。「自分がある目的をもって生まれてきた」。[25] 造物主つまり宇宙霊によってこの世に出現した。理想を持つことが、重要である。生まれぬ先の存在者の目的、つまり理想をつねに明確にしなければならない。「常に気高い標準をもって、しかも人生理想を変更しないで心に描いている人は、・・・その理想を現実になしえる資格を自分でつくっている・・・宇宙霊の力がそれへドンドン注ぎこまれんだから」。[26] その理想は、つねに自己の精神において保持されねばならない。どのような環境世界に生きようとも、明るく、朗らかに、生き生きとして生きることによって、宇宙霊からのヴリル=活力を心身に取り入れることができる。この理想は、心が清浄である場合にだけ、実現される。「心の世界には人を憎んだり、やたらにくだらないことを怖れたり、つまらないことを怒ったり、悲しんだり、妬んだりするというような消極的なるものはひとつもない」。[27] 本来の人間の心には存在しないにもかかわらず、そのような心に我々は陥る。どのようにすれば、その状態から逃れることができるのであろうか。そのような状態に陥っていることに気が付いている場合、「その思い方、考え方を打ち切りさえすれば、もう悪魔はそのまま姿をひそめる」。[28] まさに、禅宗の名言、「念を継がない」ことが重要である。

 悪魔を退散させるためには、どのようにすべきであろうか。中村天風は明瞭に示している。「俺はこの世の中で一番気高い人間だ、俺はいちばんこの世の中で心のきれいな人間だ、・・・それをしょっちゅう思い続けていくんだ」。[29] 心が汚れている場合には、それを拭うことが肝要である。打ち切る、念を継がない。

 

4.人生建設のために必要な生命力

4.1 6種の生命力

 生命力は、以下の6つに分類されている。体力、胆力、精力、能力、判断力、断行力の6つに分類されている。[30] 人間の生命の内奥には、崇高な使命を現実化するための潜勢力が備わっている。ここでは、2番目の胆力について言及してみよう。ここでは、中村天風の思想の独自性として胆力を挙げておこう。周知のように、彼は武道とりわけ剣道において当時の一級の使い手であった。日露戦争直前の満州において、清龍刀の達人を殺したことが書かれている。当時の軍事探偵としての使命を全うした。

 この生命力は6つに分類されているが、それぞれ相関している。とりわけ、胆力は後期近代の知識人にはほとんど顧慮されていない生命力の一側面である。単純化して言えば、右顧左眄しないことである。ここからは、私の体験に基づくものも含まれている。

 

4.2 周章狼狽

単なる思い付きで行動しないことである。思い付きは慌てるときに生じる。「慌てるというのは、またの名を周章狼狽というが、これは心がその刹那放心状態に陥って、行動と精神とが全然一致しない状態をいうのである」。[31] 通常、行動と精神はほぼ一致しない。通常、行為には前もってその選択肢が考察されている。ある状況における選択肢は、前もって用意されている。段取りという言葉によって表象される行為は、すでに考察済であったはずである。

しかし、実際にその段になると、右往左往することがある。とりわけ、親族の危篤状況、死去に際して、それが現実化したときに段取り通りすることは、稀である。段取りあるいは計画を忘れて、想定外の選択肢を選びがちである。しかし、その思い付きの選択肢は、段取りの段階において消去されていた場合も多い。胆力がない場合、この思い付きの選択肢を取りがちである。とりわけ、小賢しい理性を有する人間は、段取りにしたがって行為できない。段取りに従って行動することは、環境世界の小さな変化を無視する力を必要としている行動と精神が一致していない状態に陥ることは、中村天風になかったかもしれない。しかし、周章狼狽状態に陥った場合、私のような凡人は、前もって想定されていた段取りに従った方が、良いように思われる。

たとえば、親族危篤あるいは死去に際して実家に移動する場合、鉄道を使用するのか、航空機を使用するのか、段取りの段階において精密に検討されていたはずである。しかし、緊急事態に現実に陥ったとき、この事前の段取りを忘れて、別の選択肢を採用しがちである。状況の仔細な変化を無視する胆力が要請されている。胆力は、状況の微細な変化を無視する力である。

 

4.3 一つのことへの集中――柳生但馬守と沢庵禅師の問答

 人間は一つのことしかできない。「柳生但馬守が未だ修行中のおり、沢庵禅師に次のような質問をしたことがある。『一本の剣は扱いやすし、されど、数本ともなればいかになすべきや?』と。禅師答えて曰く、『・・・数本もやはり一本一本扱うべし』」。[32] 中村天風から学んだ方法論は幾つかあるが、この方法論は私を魅了した。瞬間、瞬間に人間ができることは、一個でしかない。そのときどきの課題に集中するしかない。

 

「珈琲時間」

2019年秋に、論文を5本書いた。それぞれ一度に沢山の剣を相手にしたのではない。

 

5. 理想的人間像への精進

5.1 価値ある人生

 人生は一回限りである。人間が現世において生きていることが、奇跡のようである。したがって、人間の本質は尊い。「価値ある人生を活きるには、先ず自分の本質の尊さを正しく自覚することが必要である」。[33] 何か使命あるいは意義を持って現世において生まれてきた。価値高い生き方が万人に可能である。その価値高い生を可能にするためには、「霊性満足」を指向するしかない。この目標をかかげるかぎり、失望や煩悶もないはずである。「『霊性満足』の生活目標なるものは小我的欲求の満足を目標とするものではなく、・・・自己の存在が人の世のためになるということを目標とする生活であるからである[34] 自己の存在理由が、人間の環境世界に寄与する。

 しかし、人の世にとって私の存在がどのように寄与するのか。あるいは、別の言葉によれば、世界における私の役割を自覚することは、簡単ではない。しかし、私の生が存在すること、出発点はそれ以外にはない。

 

5.2 自分の心の更新

 心は日々、更新されねばならない。「日々更新の宇宙真理に順応するためには、先ず自己の心を日々更新せしめざるべからず」。[35] 宇宙の目的が進化と向上あるか、否かは、現在の私には判断できない。しかし、宇宙の形態が変化していることは、異論がないであろう。その変化に私つまり私の心も変化する。宇宙霊に自己の本質があるかぎり、私の心もその変化に対応しなければならない。

 

5.3 積極的言葉の使用

 中村天風の偉大さは、この理想的人間像の形成への道筋を示していることにある。彼の死後、半世紀が経過しても、彼の思想が参照される理由もまた、この点にあろう。この実践的方法論をここで再録してみよう。自然的人間が生きる道標にとして、中村天風の哲学は価値がある。

 誰でも、無意識に使用している口癖がある。それを対象化する。使用している言語、とりわけ無意識に使用している言葉を意識化することが、中村天風の思想を理解するために必要である。「言語は自己感化に直接的な力を持っている」。[36] 言語活動が自己の心を影響づけるからだ。自己によって発話された言語が、自己の心境を影響づける。積極性を指向しない口癖は、彼の哲学が意識化されていない証拠である。厳に慎むべきであろう。

それは、山岸巳代蔵の主張にもある。「いつでも快適な状態、これが真の人間の姿だ」。[37] ここでも消極的ではなく、積極的な人生が真の人生であるとされている。「大変なことが起きたようなことでも、大変なこととは思わない」。[38] 積極的なこと、やるべきことが見つかれば、大変なことも大変でなくなる。現前の課題が追求されるべきであろう。

 

5.4 諸事万事気を込めて行う[39]

 自然人が行うすべて行為を、気を込めて行う。~をしながら行為することを慎む。たとえば、煙草を喫するという行為を私は、気を込めて行おうと思う。いままで、勉強しながら、あるいは音楽を聴きながら喫煙してきた。煙草それ自体を味わっていなかった。近年、喫煙所で煙草を喫することが強制されている。しかし、喫煙所では、煙草一本、一本を愛しむようにして喫するようになった。机の側で喫するときでも、煙草を味わってみたいと思う。

 そのためには、充分な時間と場所が必要だ。23分の空き時間ではなく、最低でも5分の時間を見出して、深呼吸しながら煙草を味わいたい。

 

「珈琲時間」

 他者の関係性において、人間は煩悶する。悩みの大半はここにある。自分の意向に従って、他者を変革することはできない。他者の距離感が問題である。変革しようする場合は、自分の内にその理想像がある。しかし、自分の思いとやることは区別されるべきである。できないことをしようすることに、煩悶の原因がある。他者の範疇には、親、子供、配偶者、親族、友人、知人、機能的関係者等も含まれる。自分以外の人間すべてを意味している。しかし、この命題は自分を絶対化することでもない。自分の現在の問い自体にも返答することはできない。そもそも、わからないから質問している。他者であれば、自己であれ、質問の内容もまた、要をえない。

 しかし、自己は他者と何らかの関係を持っている。命令することもあれば、お願いすることもある。金銭を媒介にすれば、ほとんどの物を入手できる。しかし、それはなんかの限定された関係でしかない。ゼミナールの学生に論文指導をすることは、卒論論文という限定された関係でしかない。そのうちの一人と左酒を飲むこともある。しかし、飲み屋を出れば、他人である。酒を飲むという関係でしかない。他者たとえば子供に対しても、影響を与える。部分的な影響である。ある人が死期を明示されて、それを子供に伝達することも不可避である。子供の人生を中断することでもない。親の死に反応する子供がいるだけである。

5.5 他者との関係

 他者に対して、機能的関係に限定して交際すれば、煩悶が生じることはない。君子の交わりは、淡きこと、水の如し。この関係を他者とのどのような場面でも、貫徹できれば問題ないであろう。しかし、私は他者に対して、怒る。悲しむ。怖れる。「最後に必要な注意は、三勿の実行ということである。三勿とは何を意味するかというと、(1)、勿怒、(2)、勿悲、(3)、勿怖の三つの事柄である」。[40] 私は他者に対して、このような消極的感情に支配されている。過剰に他者に期待することによって、そのような感情が芽生える。煩悶すれば、生命維持のための活力が大幅に減少する。にもかかわらず、消極的感情に支配されている。中村天風を咀嚼していないからであろう。

 

6. 理想的人間への具体的方策

6.1 助けを求めない。

 まず、運命の主人公になるためには、悲鳴を上げないことが重要である。「悲鳴を上げないことを第一に自分に約束しなさい」。[41] 悲鳴を上げたとこで、誰も助けてくれない。多くの人は口癖として、助けを求める言葉を発している。たとえば、「助けて、皆」あるいは「助けて、神様」という言葉を発している。しかし、そもそも皆あるいは神とは誰であろうか。この言葉を聞いている人は、自分でしかない。自分の人生を自分で決定するしかない。共同体たとえば、『じゃりン子チエ』において描かれているような下町共同体が、このような言語を発する自然的人間の脳裏にある。この無意識に設定した前提は、間違っている。後期近代における社会において、他人は誰も自分の現状に関心がない。この漫画における竹本テツは、つねに両親、子供、地域社会の人々から慕われている。表題とは異なり、この漫画の主人公は竹本テツであろう。彼は、博徒、警官、両親、地域共同体の人と関係している。彼は、下町共同体の住民にとって迷惑な存在である。粗暴で、暴力的そして無教養である。彼らはこの主人公を迷惑な存在と認識しているにもかからず、両者は、終生関係づけられている。この下町共同体の主人公ですらある。この漫画の最終頁に登場人物の集合写真があるが、竹本テツがその中心に位置している。[42] 

 このような人間が自分、自分とあると錯覚していた。近代人は、竹本テツことテッチャンにはなれない。他者に助けを求める人は、そこから過剰な期待を他者、たとえば地域社会の人々、あるいは会社の同僚に期待していた。彼らは、限定された時間、限定された空間そして限定された目的においてする人と関係しているにすぎない。家族ですら、その限定性から逃れられない。この条件下でしか、他者と私は関係を構築できない。この関係を超えた関係を突然築くことはできない。

 もっとも、これ以上書くと、消極的思考に陥る。いずれにしろ、助けを求めず、自分のことを自分でする。助けを求めるような口癖をやめよう。心に隙ができよう。自分の関係のないことには、関与しない。宇宙から与えられた自分の使命を、つねに再認識してゆく。自然的人間はつねにこれを忘れがちである。

 

「珈琲時間」

受験生と自己責任 20200404追記

 このごろの大学受験生は、高校時代に塾や予備校に通学するようである。しかし、平均的学生は、塾の宿題をすることで終わってしまう。自分で勉強する習慣を喪失する。また、地元志向が強い傾向にある。東京圏や大阪圏は当然であろうが、地方都市でもその傾向があるようである。例えば、函館市のような30万人都市でも、その傾向は強い。しかし、自宅から通学すると、母親にすべてお任せになる。特に、炊事、洗濯をしたことのない男子学生も多い。すべての生活を両親に任せることによって、責任を他者に押し付けるようになる。しかし、人間は自分で考えて、自分で決断し、自分で責任を負う、そして自分で死んでゆく。もちろん、自分の思考、決断は完全ではない。ほとんど、間違っていると言っても過言ではない。しかし、他者つまり母親、塾と学校の先生に責任を押し付けるよりも、より良いであろう。

 最近、知人が中途視覚障碍者になった。盲目になった人が、他者例えば親近者に盲目になった責任を押し付けることが、彼の知人の周囲には多いようである。中途失明の場合、何らかの過去の人生において、別の選択肢を採用していれば、失明に至らなかったという後悔が出てくる。選択肢は、たしかに過去にあった。別の選択肢を採用していれば、全盲にはならなかった。原因を他者に押し付けがちである。しかし、強制されたものであれ、選択をしたのは自分でしかない。

 

6.2 不満なし

 自然的人間は、自らの現状に不満を持っているが、中村天風は自らの運命を悲嘆することを戒めている。「不平不満を言わないようにしろ」。[43] たとえ、盲目になったとしても、不満を言うべきではない。宇宙霊がこのような現状に自然的人間を置いている。それは、自らが播いた種でもある。不平不満を言ったから、現状が変革されるわけではない。また、心が汚れる。現状においてできるかぎりの精力を使用することが重要である。さらに、この心境に至れば、現時点での状況配置をより冷静に考察することができる。目的を定めず、現状においてできるかぎりのことをする。「心に従いながら、がむしゃらにファイトを燃やして行く」。[44] 自己の現状に不満を言うのではなく、現状においてできるかぎりのことをする。現前の課題を心から信じているかぎり、それに邁進するしかない。「結局、当たって砕けろです」。[45] 現存する課題だけに集中する。

 

「珈琲時間」

1960~1970年代の新左翼の文献を読んでいたころ、判断力がないことに気が付く。見ている状況は他の党派――しかも限られた新左翼、良くて旧左翼の状況でしかない。自民党の状況など眼中にない。これでは、衰退することも必然であった。

 

6.3 とらわれからの脱皮

 多くの自然的人間は、こだわり、心配、取り越し苦労に、とらわれている。そこに拘るかぎり、心配事は永遠に尽きない。中村天風はそこから脱却するためには、別の思考様式を考察している。現存する心配事に意識を集中するかぎり、そこからの脱却はできない。むしろ、現在の課題、現前の課題に集中することを提起している。「自ら顧みて、今あなたたちの心にとらわれがあるとしたら、そのとらわれから抜けださなきゃだめだよ。とらわれから抜け出すのは難しくないんだ。・・・心を打ちこんで何事かをする習慣をつけると、今までとらわれていたはずのものが、向うから出ていってしまう」。[46] 有限な自然人が過去の状況、未来の状況を考慮しても、無意味である。時間は現在においてしか存在していない。

6.4 自分のことを自分でする

 中村天風は、夜具の上げ下ろしを自分でしている。自分のことを自分でする。その習慣化した作業工程、たとえば夜具の上げ下ろしの過程において、本日の課題を再認識してゆく。この意義は大きい。「寝具は・・・自身たたむ」。[47] 寝具をたたむことは、自己統御の原初的行為である。就寝中においてあらゆる動物は、自己統御力を回復する。寝具は、この神聖な時を演出した。人間はそれに感謝すべきである。

7.  人間的自然としての肉体

7.1 睡眠と人間的自然

さらに、中村天風は、睡眠を宇宙のエネルギーを受容する過程とみなしている。「睡眠というものを科学的に結論すると、自然の力と人間の生命と交流結合する時だとえいえる」。[48] 睡眠によって自然的人間は活力を取り戻し、宇宙からヴリルを受容する。心身の積極性の根源は睡眠にある。その道具に対する感謝は必要であろう。

 

7.2 食生活論――中島正との同一性???

8.  自然的人間の活動とその目的

8.1 自然的人間の活動とその基礎づけ

現代人の多くは、職業に従事している。この職業を賃労働という狭義の意味ではなく、社会的活動あるいは人間的活動とみなしてみよう。現代人が奴隷でないかぎり、この人間的活動に対してなんらかの意義づけをしている。以下の文書は、私の政治思想史講義資料からの抜粋である。「中世において世俗的職業に従事することは、神との関係において職業的聖職者の生活を支えるという点が主であった。聖職者の特権が廃止された結果、天職は聖職者だけではなく、すべての職業に適合する。世俗的職業に従事することが、神に仕えることと同義になる。たとえば、靴職人が靴を作ることが、神に奉仕することである」。[49] ヴェーバーの有名な『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を敷衍することによって、ルターのプロテスタンティズムと社会関係の近代的意味を基礎づけている。

 社会思想史におけるルターの思想に関する意義づけを離れて一般的に考察してみよう。もし、世俗的活動が宗教的に基礎づけられるならば、この世俗人は幸せである。世俗人の活動、たとえば靴職人が靴を作ることの目的は、生存のための費用を獲得するだけではない。この世俗人は神に対する奉仕活動して、その活動、職業に精励することができる。生計維持のための手段、つまり金銭の獲得以外の要素を人間的活動に見出せるなら、豊かな充実感を得られるであろう。神あるいは宇宙と一体になっているという感情がこの世俗人にあるならば、彼が活動している時間と空間において、積極的な精神しか入る余地はないであろう。自然的人間の活動と宇宙霊への奉仕が一体化することによって、世俗的活動が神聖な活動に転化する。中村天風の積極的活動に関する意義づけも、このような解釈に基づくのかもしれない。

 

[1] 中村天風『君に成功を贈る』日本経営者合理化協会出版局、2010年、89頁参照。

[2] 中村天風『幸福なる人生』PHP研究所、2011年、118頁:中村天風『運命を拓く』講談社、1998年、253頁参照。

[3] 中村天風『心を磨く』PHP研究所、2018年、197頁。

[4] 中村天風『真人生の探究』天風会、1994年、144頁。

[5] 中村天風『盛大な人生』日本経営合理化協会出版局、2009年、372-373頁。

[6] 中村天風『心を磨く』PHP研究所、2018年、61-64頁、340頁参照。森本暢『実録 中村天風先生 人生を語る』南雲堂フェニックス、2004年、201頁参照。

[7] 中村天風『運命を拓く』講談社、1998年、87頁。

[8] 中村天風『運命を拓く』講談社、1998年、87頁。

[9] 中村天風『真理のひびき』講談社、2006年、93頁。

[10] 中村天風『運命を拓く』講談社、1998年、83頁。

[11] 中村天風『運命を拓く』講談社、1998年、67頁参照。

[12] 中村天風『運命を拓く』講談社、1998年、90頁。

[13] 中村天風『運命を拓く』講談社、1998年、137頁。

[14] 中村天風『運命を拓く』講談社、1998年、80頁。

[15] 中村天風『叡智のひびき』講談社、1995年、71頁。

[16] 中村天風『心を磨く』PHP研究所、2018年、340頁。

[17] 中村天風『真人生の探究』天風会、1994年、171頁。

[18] 中島正『都市を滅ぼせ 人類を救う最後の選択』舞字社、1994年、49頁。

[19] 中村天風『心を磨く』PHP研究所、2018年、47頁。

[20] 中村天風は、『叡智のひびき』においてプランク定数hに実在するエネルギー源泉としてヴリル(Vril)という概念を用いている。この概念がプランクの作用量子論におけるどの概念に該当するのかは、不明である。別の論稿においてこの概念は宇宙ではなく、その現象界における人間的自然の活力として考察されている。中村天風『叡智のひびき』講談社、72; 中村天風『真人生の探究』天風会、1994年、195頁参照。

[21] 中村天風『運命を拓く』講談社、1998年、146頁。

[22] 中村天風『真人生の探究』天風会、1994年、42頁。

[23] 中村天風『運命を拓く』講談社、1998年、172頁。

[24] 中村天風『真人生の探究』天風会、1994年、15頁。

[25] 中村天風『盛大な人生』日本経営合理化協会出版局、2009年、119頁。

[26] 中村天風『盛大な人生』日本経営合理化協会出版局、2009年、118頁。

[27] 中村天風『盛大な人生』日本経営合理化協会出版局、2009年、130頁。

[28] 中村天風『盛大な人生』日本経営合理化協会出版局、2009年、130頁。

[29] 中村天風『盛大な人生』日本経営合理化協会出版局、2009年、157頁。

[30] 中村天風『真人生の探究』天風会、1994年、45頁参照。

[31] 中村天風『真理のひびき』講談社、2006年、191頁。

[32] 中村天風『真理のひびき』講談社、2006年、194頁。

[33] 中村天風『真理のひびき』講談社、2006年、22頁。

[34] 中村天風『真理のひびき』講談社、2006年、32頁。

[35] 中村天風『真理のひびき』講談社、2006年、92頁。

[36] 中村天風『幸福なる人生』PHP研究所、2011年、140頁。

[37] 山岸巳代蔵「無数の愛人と共に/愉快の幾千万倍の気持ち」山岸巳代蔵全集刊行委員会編『山岸巳代蔵全集』第2巻、2004年、302頁。

[38] 山岸巳代蔵「本当の人間 当然の人生」山岸巳代蔵全集刊行委員会編『山岸巳代蔵全集』第2巻、2004年、304頁。

[39] 中村天風『折れない心』扶桑社、2019年、36頁。

[40] 中村天風『真人生の探究』天風会、1994年、151頁。

[41] 中村天風『幸福なる人生』PHP研究所、2011年、140頁。

[42] はるき悦巳『じゃりン子チエ』第47巻、双葉社、2004年、300-301頁参照。

[43] 中村天風『幸福なる人生』PHP研究所、2011年、141頁。

[44] 中村天風『幸福なる人生』PHP研究所、2011年、156頁。

[45] 中村天風『幸福なる人生』PHP研究所、2011年、169頁。

[46] 中村天風『幸福なる人生』PHP研究所、2011年、237頁。

[47] 中村天風『真人生の探究』天風会、1994年、237頁。

[48] 中村天風『真人生の探究』天風会、1994年、129頁。

[49] 田村伊知朗『社会思想史講義草稿』(未公刊)第二章「ルターの宗教改革の政治思想的意義」参照。

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自己の選択肢と自己責任ーー子供の大学受験と後期近代

  このごろの大学受験生は、高校時代に塾や予備校に通学するようである。しかし、平均的学生は、塾の宿題をすることで終わってしまう。自分で勉強する習慣を喪失する。塾に行かないほうが、かえって良い結果をもたらす。大学入試だけが人生の目的ではない。大学入試は、限定された範囲から限定された問題から出題され、それに如何にコンパクトに対応するかが、求められているにすぎない。大学生活全般をコンパクトにまとめたような指針を提示してくれるような塾は、大学生活でも社会人生活においてもはやないであろう。個人は、すべて異なる環境において思考し、決断しなければならない。

  また、地元の大学への進学志向が強い傾向にある。東京圏や大阪圏は当然であろうが、地方都市でもその傾向があるようである。例えば、函館市のような30万人都市でも、その傾向は強い。しかし、自宅から通学すると、母親にすべてお任せになる。特に、炊事、洗濯をしたことのない男子学生も多い。すべての生活を両親に任せることによって、責任を他者に押し付けるようになる。人間は自分で考えて、自分で決断し、自分で責任を負う、そして自分で死んでゆく。もちろん、そのときどきの自分の思考、決断は完全ではない。ほとんど、間違っていると言っても過言ではない。しかし、他者つまり母親、塾と学校の先生に責任を押し付けるよりも、より良いであろう。

  子供であれ、20歳を超えると親の価値観とは、まったく異なる。子供と親が同じ家に住めば、常に、喧嘩になる。喧嘩の対象は、些細なことである。たとえば食事の時間、その作法、扇風機の埃を掃除するか否か、という他者からみればほぼどうでもよいことである。しかし、その背後には、世界観の相違が横たわっている。

  とりわけ、子供と大人とは、30歳以上異なる。40歳以上異なる場合もまれではない。偶然に生まれた両親の世界観に従え、と子供に命令することは不可能であろう。子供が両親の家からでて、一人暮らしをすることは、当然であろう。西欧では、大学入学あるいは就職を機会に単身世帯になる。まさに、自然である。家族の解体過程が現象しているのであろう。子弟が、両親のもとに帰ることはないであろう。私が故郷に帰ることがないことと同様であろう。後期近代において故郷は、その時々の自分にとって最良の場所でしかない。後期近代の個人にとって、出生地あるいは親の居住地が、故郷になることはない。

  最近、知人が視覚障碍者になった。盲目になった人が、他者例えば親近者に盲目になった責任を押し付けることが、彼の知人の周囲には多いようである。中途失明の場合、何らかの過去の人生において、別の選択肢を採用していれば、失明に至らなかったという後悔が出てくる。選択肢は、たしかに過去にあった。原因を他者に押し付けがちである。しかし、強制されたものであれ、選択をしたのは自分でしかない。

 しかし、極大化した自己という意識は、個人にとって寂しい時代でしかない。すべて自己そして自己責任に還元される。個人はその重圧に耐えられるのであろうか。

 

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自然的人間の活動の目的――中村天風の思想に関する覚書             

自然的人間の活動の目的――中村天風の思想に関する覚書             20190515,0502,0504.0509,0610

(本稿は未定稿である。標記に関して、備忘録的色彩を持ち、学界の定型に従っていない)。

 

  1. 中村天風の哲学との偶然的出会い

 中村天風(1876~1968年)の哲学は、日露戦争前後から形成されていたことを考えると、ほぼ100年の歴史を有している。日本には哲学に関する大学教授は、この100年間に、数万人、あるいは数十万人いたからもしれない。彼らによって出版された哲学書あるいは哲学に関する研究書は、数万冊に至るかもしれない。しかし、現在でも読書界において確固の地位を保っている書物は、少ない。この1世紀に渡る時間のなかで、日本人だけが彼の信奉者でもなかった。著名な外国人、たとえばロックフェラー3世も彼の思想にふれる機会を持った。[1] 多くの人間が彼の人格そしてその思想にふれたことは、偶然であれ、幸福であったであろう。

 彼の哲学は、多くの人の病気、煩悶、貧乏等の悩みを解消した。その実用的価値からも、彼の哲学が現在でも影響を与え続けている。彼の哲学が人口に膾炙した根拠の一つは、日常的生活において実行可能な提言である。たんに、ハイデガーのように本来的自己を提示することは、容易である。しかし、どのようにして市井の個人がそれに到達できるのか不明である。それ以前に、ハイデガーの難解な書物を購入しなければならない。それ読むだけで数十年の年月がかかる。

 中村天風は、それに至る一つの途として、日常生活において積極的言葉を使用するという誰でも実行できそうな提言をしている。もちろん、厳密に考えれば、かなり困難であるが、肩の荷が少し軽くなった悩める人間は数多いであろう。

 積極的言葉をより使用し、そして私の実行方法ではできる限り元気で、かつ快濶に、はっきりと発音することが肝要であろう。これだけでも、肩凝りの症状が軽くなった人は数多いであろう。

 あるいは、他人の悪口を言わない、できる限り他人の良い点を褒める、ということも実行しようと思う。他人の悪口は、自分の心の清浄性を冒し、自分自身を貶めることにつながるであろう。自分の心の汚濁は、疾病の素であろう。

1.人間的自然と宇宙

1.1 闇の夜に鳴かぬ烏の声

「闇の夜に鳴かぬ烏の声聞けば、生まれぬ先の親ぞ恋しき」という有名な詩歌は、一休宗純(1394~1481年)によって作成された、とみなされている。[2] この解釈は古来より多々あるであろう。しかし、以下のように解釈したい。私という一回かぎりの生を現生に送り出したもの、闇の奥にあるものが存在しており、その声が聞こえるはずだ。私もたまに、聞こえるような気もするが、どうであろう。少なくとも、その声を聞こうとしている。

 鳴かぬ烏の声とは何か。私という人格を送り出し根源的なものとはなにか。私に何を託そうとしているのか。宇宙が進化するか、否かはわからないが、何かをするためにここにいることは、間違いないであろう。その何か、に関して、おもうことはある。人間あるいは人類の歴史に関して、どのような寄与ができるのであろうか。

 

1.2  中村天風の宇宙観とプランク定数h

 この問題に解答するために、中村天風の宇宙観に言及してみよう。彼の世界観によれば、「人間は宇宙の進化と向上に順応するために生まれてきた」。[3] そして、「この宇宙の創造を司る造物主と称する宇宙霊」[4] こそが、人間を創造した。しかし、この宇宙は進化するのであろうか。この点に関して中村天風は曖昧である。宇宙が根源的で絶対的であれば、進化も向上もする必要はないからである。現象界に送り出された人間は、宇宙に寄与することは何もない。

 しかし、次のように考えることによって、中村天風はこの難問に回答を与えている。中村は、宇宙霊を生命体とみなしている。「宇宙霊は、休むことなく働いている。創造に瞬時の休みもなくいそしんでいる活動体である。だからこそ、この宇宙はつねに更新し、常に進化し、向上しつつあるのである」。[5] 中村天風によれば、生命体つまり有機体として宇宙霊こそが、宇宙エネルギー総体である。この中村天風によって把握され、命名された宇宙霊が、人間的個人の周りを包んでいる。[6] 「宇宙霊なるものこそは、万物の一切をよりよく作り更える」[7]  宇宙霊は、現象界を改善する方向へと変化させる。人間がその用意をした場合、「造物主(宇宙霊)の無限の力が自然に自己の生命の中へ、無条件に同化力を増加してくる」。[8] 現象界において人間は、この無限に受容できる。この思想は次のように要約される。「宇宙の最初は、ただ宇宙霊のみであった」。[9] ここまでは、私にも理解できる。しかし、なぜ宇宙霊は絶対的ではなく、進化あるいは変動するのか。この点が理解困難であった。

 しかし、中村天風は宇宙霊を固定的に考察するのではなく、エネルギーと周波数の関係つまり超極微粒子のブランク定数hとみなしている。「万物能造の宇宙エネルギーは、この空間と俗に人々から呼称せられているものの中に、遍満している『絶対に人類の発明した顕微鏡は、分光器では、何としても分別感覚することの不可能な・・・見えざる光であるところの超極微粒子』だと論定している。しこうして、この『超極微粒子』を、今から半世紀以前にドイツのプランク博士が、これをプランク常数Hと名付けた。このプランク常数Hなるものこそ、ヨガ哲学者のいう宇宙霊なのである」。[10] プランク(Planck, Max 1858~1947年)によって発見されたプランク定数hは作用量子(Wirkungsquantum)であり、つねに活動している。これは、この光子のエネルギーと周波数の関係であり、固定的なものではなく、常に流動している。共鳴子の振動は、その振幅と位相を変化交替させる。但し、この流動性は以下のような作用量子に関する中村天風の解釈に基づいている。「宇宙現象の根源をなすところの『気』というものは、(+)の『気』と(-)の『気』の二種類に分別される。そして、プラス=+の『気』は、建設能造の働きを行い、マイナス=-の『気』は、消滅崩壊の働きを行って、生々化々の現実化のため、常に新陳代謝の妙智を具顕しているのである」。[11] この中村天風の言説がプランク定数hにおけるどのような要素と関連しているのか、不明である。

 通常の宗教学によれば、宇宙霊とは唯一絶対神であり、固定的に思惟されている。たとえば、ユダヤ教あるいはキリスト教における唯一絶対神が、流動的であるはずがない。この常識に囚われていた私は、宇宙霊を固定的に考察していた。それが、まちがいのもとであった。もちろん、宇宙が進歩しているかどうかに関して異論はある。宇宙には進歩という概念がないという宇宙観もまた、真理である。数千年における人間の歴史という尺度において、果たして宇宙には進歩がないかもしれない。「循環=繰り返しには『進歩』がない。・・・田舎(農業)は、この大自然の『永遠の循環』『進歩なき繰り返し』と共にあるべきものである」。[12] 中島正はこのような東洋的宇宙観に基づき、その思想を形成している。中村天風の宇宙観は、中島正の宇宙観から区別されている。しかし、どちらの宇宙観が正統であるかは、時間的尺度の差異に基づき決定される。

 

1.3 宇宙霊と自然的人間

 この認識に間違いがなければ、これからは一瀉千里である。[13] 「わが生命は宇宙霊の生命と通じている。宇宙霊の生命は無限である」。[14] 宇宙霊と人間の精神が同一化される状況へと自己の精神を方向づけるだけである。「人間は、恒に宇宙原則に即応して、この世の中の進化と向上とを現実化するという、厳粛な使命をもってこの世に生まれて来た」。[15] 宇宙の進化と感応する人間的精神の目的が、明瞭に述べられている。ここからは、心を積極的にするための方法論の実践だけである。たとえば、怒り、怖れ、悲嘆ではなく、感謝と歓喜の感情に満ちた生活をおくることが重要である。「宇宙の神霊は、人間の感謝と歓喜という感情で、その通路を開かれる」。[16] 宇宙霊と個人の精神が合体することによって、積極的感情に満ちることによって、個人の運命も積極化する。以下では、そのための具体的方法を列挙してみよう。この具体的実行例は、多くの信奉者が日々配慮しているであろう事柄に属している。

 

2.理想的人間像への精進と、積極的言葉の使用

 中村天風の偉大さは、この理想的人間像の形成への道筋をしめしていることにある。本稿が彼の思想に言及する根拠も、そして世人が彼の思想に傾倒する理由もまた、この点にあろう。この実践的方法論をここで再録してみよう。私の生きる道標にとっても、価値があるからだ。

 誰でも、無意識に使用している口癖がある。それを対象化する。使用している言語、とりわけ無意識に使用している言葉を意識化することが、中村天風の思想を理解するために必要である。「言語は自己感化に直接的な力を持っている」。[17] 言語活動が自己の心を影響づけるからだ。自己によって発話された言語が、自己の心境を影響づける。口癖は意識化されていない証拠である。厳に慎むべきであろう。

それは、山岸巳代蔵の主張にもある。「いつでも快適な状態、これが真の人間の姿だ」。[18] ここでも消極的ではなく、積極的な人生が真の人生であるとされている。「大変なことが起きたようなことでも、大変なこととは思わない」。[19] 積極的なこと、やるべきことが見つかれば、大変なことも大変でなくなる。

2.1 助けを求めない。

 まず、運命の主人公になるためには、悲鳴を上げないことが重要である。「悲鳴を上げないことを第一に自分に約束しなさい」。[20] 悲鳴を上げたとこで、誰も助けてくれない。口癖として、助けを求める言葉を発していた。たとえば、「助けて、皆」という言葉を発していた。しかし、そもそも皆とは誰であろうか。この言葉を聞いている人は、自分でしかない。自分の人生を自分で決定するしかない。

 共同体たとえば、『じゃりんこチエ』において描かれているような共同体を私は理想としてした。この無意識に設定した前提は、間違っている。誰も自分の現状に関心がない。この漫画における鉄は、つねに両親、子供、地域社会の人々からし慕われている。このような人間が自分、田村伊知朗とあると錯覚していた。私は、鉄ことテッチャンには、なれない。ありえない。そこから過剰な期待を他者、たとえば地域社会の人々、あるいは会社の同僚に期待していた。彼らは、限定された時間、限定された空間そして限定された目的において私と関係しているにすぎない。家族ですら、その限定性から逃れられない。この条件下でしか、他者と私は関係を構築できない。この関係を超えた関係を突然築くことはできない。

 もっとも、これ以上書くと、消極的思考に陥る。いずれにしろ、助けを求めず、自分のことを自分でする。助けを求めるような口癖をやめよう。心に隙ができよう。自分の関係のないことには、関与しない。宇宙から与えられた自分の使命を、つねに再認識してゆく。自然的人間はつねにこれを忘れがちである。中村天風から学んだことである。

受験生と自己責任 20200404追記

 このごろの大学受験生は、高校時代に塾や予備校に通学するようである。しかし、平均的学生は、塾の宿題をすることで終わってしまう。自分で勉強する習慣を喪失する。また、地元志向が強い傾向にある。東京圏や大阪圏は当然であろうが、地方都市でもその傾向があるようである。例えば、函館市のような30万人都市でも、その傾向は強い。しかし、自宅から通学すると、母親にすべてお任せになる。特に、炊事、洗濯をしたことのない男子学生も多い。すべての生活を両親に任せることによって、責任を他者に押し付けるようになる。しかし、人間は自分で考えて、自分で決断し、自分で責任を負う、そして自分で死んでゆく。もちろん、自分の思考、決断は完全ではない。ほとんど、間違っていると言っても過言ではない。しかし、他者つまり母親、塾と学校の先生に責任を押し付けるよりも、より良いであろう。

 最近、知人が中途視覚障碍者になった。盲目になった人が、他者例えば親近者に盲目になった責任を押し付けることが、彼の知人の周囲には多いようである。中途失明の場合、何らかの過去の人生において、別の選択肢を採用していれば、失明に至らなかったという後悔が出てくる。選択肢は、たしかに過去にあった。別の選択肢を採用していれば、全盲にはならなかった。原因を他者に押し付けがちである。しかし、強制されたものであれ、選択をしたのは自分でしかない。

2.2  不平、不満を言わない

 人間は、自らの現状に不満を持っているが、中村天風は自らの運命を悲嘆することを戒めている。「不平不満を言わないようにしろ」。[21] 宇宙霊がこのような現状に自然的人間を置いている。それは、自らが播いた種でもある。不平不満を言ったから、現状が変革されるわけではない。また、心が汚れる。現状においてできるかぎりの精力を使用することが重要である。さらに、この心境に至れば、現時点での状況配置をより冷静に考察することができる。

目的を定めず、現状においてできるかぎりのことをする。「心に従いながら、がむしゃらにファイトを燃やして行く」。[22] 自己の現状に不満を言うのではなく、現状においてできるかぎりのことをする。現前の課題を心から信じているかぎり、それに邁進するしかない。「結局、当たって砕けろです」。[23] 現存する課題だけに集中する。

2.3  とらわれからぬける

 とらわれ、こだわり、心配、取り越し苦労に、多くの自然的人間はとらわれている。そこに拘るかぎり、心配事を尽きない。中村天風はそこから脱却するためには、別の思考様式を考察している。そこに意識を集中するかぎり、そこからの脱却はできない。むしろ、現在の課題、現前の課題に集中することを提起している。「心を打ちこんで何事かをする習慣をつけると、今までとらわれていたはずのものが、向うから出ていってしまう」。[24] 有限な自然人が過去の状況、未来の状況を考慮しても、無意味である。時間は現在においてしか存在していない。

2.4  自分のことを自分でする

 中村天風は、夜具の上げ下ろしを自分でしている。私もそれを実践している。自分のことを自分でするようになってよかったことは、その習慣化した作業工程、たとえば夜具の上げ下ろしの過程において、本日の課題を再認識してゆく。この意義は大きい。「寝具は・・・自身たたむ」。[25] 寝具をたたむことは、「自己統御」の原初的行為である。

2.5 睡眠における活力の受容

 中村天風は、睡眠を宇宙のエネルギーを受容する過程とみなしている。「睡眠というものを科学的に結論すると、自然の力と人間の生命を交流結合する時だとえいえる」。[26] 睡眠によって人間は活力を取り戻し、宇宙からヴリルを受容する。心身の積極性の根源は、睡眠にある。

3.  人間の活動とその目的

3.1 人間的活動とその基礎づけ

 現代人の多くは、職業に従事している。この職業を賃労働という狭義の意味ではなく、社会的活動あるいは人間的活動とみなしてみよう。現代人が奴隷でないかぎり、この人間的活動に対してなんらかの意義づけをしている。以下の文書は、私の政治思想史講義資料からの抜粋である。「中世において世俗的職業に従事することは、神との関係において職業的聖職者の生活を支えるという点が主であった。聖職者の特権が廃止された結果、天職は聖職者だけではなく、すべての職業に適合する。世俗的職業に従事することが、神に仕えることと同義になる。たとえば、靴職人が靴を作ることが、神に奉仕することである」。[27] ヴェーバーの有名な『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を敷衍することによって、ルターのプロテスタンティズムと社会関係の近代的意味を基礎づけている。

 政治思想史におけるルターの思想に関する意義づけを離れて一般的に考察してみよう。もし、世俗的活動が宗教的に基礎づけられるならば、この世俗人は幸せである。世俗人の活動、たとえば靴職人が靴を作ることの目的は、生存のための費用を獲得するだけではない。この世俗人は神に対する奉仕活動して、その活動、職業に精励することができる。生計維持のための手段、つまり金銭の獲得以外の要素を人間的活動に見出せるなら、豊かな充実感を得られるであろう。神あるいは宇宙と一体になっているという感情がこの世俗人にあるならば、彼が活動している時間と空間において、積極的な精神しか入る余地はないであろう。中村天風の積極的活動に関する意義づけも、このような解釈に基づくのかもしれない。

[1] 中村天風『幸福なる人生』PHP研究所、2011年、118頁:中村天風『運命を拓く』講談社、1998年、253頁参照。

[2] 「一休宗純」『ウィキペディア』In: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E4%BC%91%E5%AE%97%E7%B4%94.

[Datum: 10.02.2019]; 東映アニメーション編「鳴かぬ烏と仏さま」『一休さん 第42話』In:

https://www.youtube.com/watch?v=KNTK2x5lRXk.

[Datum: 10.02.2019]

[3] 中村天風『運命を拓く』講談社、1998年、87頁。

[4] 中村天風『運命を拓く』講談社、1998年、87頁。

[5] 中村天風『運命を拓く』講談社、1998年、83頁。

[6] 中村天風『運命を拓く』講談社、1998年、67頁参照。

[7] 中村天風『運命を拓く』講談社、1998年、90頁。

[8] 中村天風『運命を拓く』講談社、1998年、137頁。

[9] 中村天風『運命を拓く』講談社、1998年、80頁。

[10] 中村天風『叡智のひびき』講談社、1995年、71頁。

[11] 中村天風『真人生の探究』天風会、1994年、171頁。

[12] 中島正『都市を滅ぼせ 人類を救う最後の選択』舞字社、1994年、49頁。

[13] 中村天風は、『叡智のひびき』においてプランク定数hに実在するエネルギー源泉としてヴリル(Vril)という概念を用いている。この概念がプランクの作用量子論におけるどの概念に該当するのかは、不明である。別の論稿においてこの概念は宇宙ではなく、その現象界における人間的自然の活力として考察されている。中村天風『叡智のひびき』講談社、72頁参照; 中村天風『真人生の探究』天風会、1994年、195頁。

[14] 中村天風『運命を拓く』講談社、1998年、146頁。

[15] 中村天風『真人生の探究』天風会、1994年、42頁。

[16] 中村天風『運命を拓く』講談社、1998年、172頁。

[17] 中村天風『幸福なる人生』PHP研究所、2011年、140頁。

[18] 山岸巳代蔵「無数の愛人と共に/愉快の幾千万倍の気持ち」山岸巳代蔵全集刊行委員会編『山岸巳代蔵全集』第2巻、2004年、302頁。

[19] 山岸巳代蔵「本当の人間 当然の人生」山岸巳代蔵全集刊行委員会編『山岸巳代蔵全集』第2巻、2004年、304頁。

[20] 中村天風『幸福なる人生』PHP研究所、2011年、140頁。

[21] 中村天風『幸福なる人生』PHP研究所、2011年、141頁。

[22] 中村天風『幸福なる人生』PHP研究所、2011年、156頁。

[23] 中村天風『幸福なる人生』PHP研究所、2011年、169頁。

[24] 中村天風『幸福なる人生』PHP研究所、2011年、237頁。

[25] 中村天風『真人生の探究』天風会、1994年、237頁。

[26] 中村天風『真人生の探究』天風会、1994年、129頁。

[27] 田村伊知朗『政治思想史講義』(未公刊)第二章「ルターの宗教改革の政治思想的意義」参照。

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