宮廷大、地帝国、地底国というインターネット造語

1. 宮廷大、地帝国、地底国というインターネット造語

  インターネットが社会に普及してほぼ30年になる。この仮想空間において興味深い造語が生まれた。宮廷大(旧帝大)、地帝国(地方旧帝国大学)そして地底国(地方底辺国立大学)なる造語である。宮廷大のなかでも、地方にある旧帝国大学と本州中央部に位置する旧帝国大学は区別されている。また、同じ発音でも、地帝国と地底国は区別されている。地底国は、大宅壮一によって命名された駅弁大学とほぼ同じかもしれない。但し、戦後直後と異なり、鉄道の社会的役割は、かなり減少している。また、駅弁という概念も、平成生まれの学生にとってほぼ疎遠である。若者にとって、駅弁とは駅で購入するのではなく、デパート地下で購入する弁当にすぎない。地底国のほうが、よりその本質を明瞭にしている。

 とくに、地底国教授は、地帝国出身者が多い。たとえば、北海道を例にとれば、北大以外の地方単科大学つまり地底国の教授は、北大出身者によってほぼ占められている。もちろん、地帝国たる北大教授は、北大あるいは宮廷大出身者にほぼ限定されている。

 宮廷大教授が国家公務員総合職を養成するとすれば、地底国教授は、地方公務員養成を主眼としている。しかも、都道府県職員ではない。市町村職員である。後者は数百万人ほど存在している。膨大な数である。

  地底国教授の使命は、財務省高官を養成することではない。国際的な学術会議で、脚光を浴びる研究を公表することでもない。事務次官を頂点にする官僚機構と、現実社会の接点に立つ労働者を養成することにある。つまり市町村の窓口労働者を養成することにある。彼らが優秀であることが、日本の社会の常識を高めることにつながる。たとえば、厚生労働省の事務次官がいかに優秀な政策を立案したとしても、その窓口職員が優秀でなければ、どのような社会福祉政策であれ、絵に描いた餅になる。

  戦前の用語を使用するならば、宮廷大が官吏を養成することを目標にしているとするならば、地底国は待遇官吏あるいは市町村吏員を養成しようとする。彼らが、地域の政策を領導し、日本人の常識を形成している。地底国が、彼らに対する教育の一環を担っている。その事情は、戦前も戦後も同様である。

  このヒエラルヒー的構造のどこかに我々は位置している。

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オンライン講義始末記 

オンライン講義序章――講義内容の公開

 

  1.  

3月下旬における前期の講義形態予測

 

 オンライン講義が突如、大学教授の身の上に降りかかってきた。本稿はその記録である。3月下旬において、41日開講は困難であるという認識を大学は持っていた。この認識は正しい。5月の連休明けに講義を開始することが決定された。この場合でも、オンライン講義ではなく、通常の教室での講義、つまりオフライン講義(以下、オフライン講義)が想定されていた。オフライン講義に備え、マスクの購入が勧告された。しかし、コンビニエンスストア、ドラッグストアーだけでなく、インターネット上でも、マスクはほとんど購入することが不可能であった。フェースシールドを購入した。ドクター中松のマスクを購入したのも、このころであった。もっとも、525日現在でも、中松マスクは到着していない。アベノマスクも同様である。

 しかし、4月下旬には、連休明けの講義がオンラインで実施されることになった。ただでさえ、書類的整合性が求められる地方国立大学である。地方国立大学事務職員は、漢字の誤謬だけではなく、罫線の太さに至るまで様々な文書修正を教授に要求する。このような事務職員の倫理からすれば、度重なる文書修正は、事務職員に対して過剰な負担を負荷したことは間違いない。鬱病に倒れる事務職員も今後、想定されるかもしれない。

 しかし、東京六大学は、前期講義をすべてオンライン講義形式に実施することを決定していた。大学内において、独自の仮想空間を構築できる教授が多数存在していた。また、オンライン講義に精通した教員が乏しい大学でも、このようなシステム構築を外注すればよいだけの話である。対照的に、地方国立大学では、オンライン講義に対する拒否意識が強かった。従来の講義形式に愛着があったという保守意識でしかない。東京六大学を前例にしておけば、事務職員そして教員の負担と不安もより軽減されていたのであろう。

 コロナヴィールス-19(Coronavirus SARS-CoV-2)に対する対策が緩いとされるスウェーデンですら、本年度の大学春学期と秋学期の講義は、オンライン形式で実施することが、早々に決定されていた。東京六大学がオンライン講義を2月下旬あるいは3月初旬に、早々に導入した背景には、オンライン講義がオフライン講義よりも優れているという認識があったはずである。コロナヴィールス-19(Coronavirus SARS-CoV-2)騒動とは無関係に、オンライン講義の必要性が認識されていた。

 

2

オンライン講義への紆余曲折

 

まず、You tubeによる実況中継を試みた。しかし、この試みはすぐさま挫折した。たった、数分で切断された。この動画サイトのAIが、「暴力革命」、「国王のギロチン」等に反応し、私の近代革命論をすぐさま不適切と認定した。近代革命における暴力の問題は、近代思想史の講義において頻出している。にもかかわらず、実況中継ではすくさま遮断された。これでは、講義にならない。You tubeAIも、厳格すぎて、近代革命の本質まで理解できないようである。しかも、同時実況であれば、オフライン講義と変わらない。むしろ、劣化したオフライン講義しかすぎない。ズームと同様に、オンライン講義の独自の意義は、実況中継において発揮されない。

次に、ニコニコ動画において事前に撮影した動画を公開した。しかし、限定公開に失敗した。投稿した動画はすぐさま不特定多数によって閲覧可能になった。もし、私の動画を限定公開するためには、コミュニティを形成しなければならない。そのためには、学生すべてがこの動画サイトのアカウントを取得しなければならない。これではアカウントを取得できない学生が多数出現しそうである。

したがって、You tube に事前録画した動画を投稿することにした。最初の動画投稿には、ほぼ12時間かかった。念のため、講義時間の2日前に投稿することにした。所属大学の大学情報システムを通じて、登録学生に対して、当日13時~19時まで閲覧可能な設定にした。もちろん、オンライン講義は1週間ほど閲覧可能にする設定も可能であった。しかし、オンライン講義をいつでも聞ける状態にすることは、いつも聞かないことにつながる。これは私の個人的体験に由来している。かつてラジオ講座は限定された時間しか、聴取できなかった。そのためには、他の用事をやり繰りし、ラジオ講座を決められた時間に聞かねばならなかった。

しかし、現在では1週間前の講座を、録音機能によって数日聴取可能である。いつでも聞けるという安心から、いつも聞かず録音された番組が山積されてゆき、結局、録音されたファイルだけがPCに保存されたしまった。私のドイツ語学習時間は、増えなかった。

 また、出席確認が大学から要請されたので、講義終了後に400字数程度のレポートを決められた時間までに要求した。もっとも、はじめ数人の学生が明らかにインターネット情報をコピペしていた。アリストテレスの民主主義批判を講義しているにもかかわらず、インターネット上、どこにでもあるアリストテレスのポリス論を送付した豪傑がいた。その後、私の講義草稿を数行引用するという条件を課したので、そのような行為はほぼなくなった。この講義課題の設定は、意図しない効果をもたらした。すなわち、私の課した課題は、400字程度の音声を、書き言葉に直すことである。音声になった講義草稿の重要点、400字程度を、文字に直す作業である。この課題を解答するためには、前後300字程度に対して耳を澄まさねばならない。集中して聞くことになった。

 学生の印象では、講義終了後の400字のレポートはかなり負担になっているようである。私の講義草稿から引用し、自分の意見を付することを要求した。オフライン講義では、多くの学生が講義時間を睡眠時間とみなしていた。その都度指摘したのでは、講義は成立しない。そのような怠惰な学生は、ほぼ駆逐された。

 

3

オンライン講義の積極面 Ⅰ――淡々とした講義

 

 You tubeに動画をアップし、講義を実施することにした。その利点をここで挙げねばならない。You tubeに動画を上げるためには、その2日前までに、講義を仕上げねばならない。動画配信なので、すべての講義言説をレジュメ形式ではなく、文章にした。もちろん、口語と書き言葉は異なる。しかし、講義内容をすべて文章化した。もし、動画を視聴できない環境にあった場合でも、休講にすることはできないからだ。政治思想史第3回は、8,000字ほどの原稿ができた。ちなみに、第3回講義は、ルターの宗教改革の意義を近代の原理との関連で考察した。原稿用紙換算で20枚ほどの講義内容である。オフライン講義では、約2回で実施した講義が、1回で終了した。草稿文字数で換算すれば、オフライン講義では3,000字しかできなかったが、オンライン講義では8,000字に達することも稀ではない。毎回、400字原稿用紙換算で20枚程度の原稿を準備しなければならない。毎週、二つの講義を準備しなければならない。週末だけでは間に合わない。講義原稿を修正する時間と併せて、56時間、講義原稿と格闘しなければならない。2020年度前期は、2科目、西洋政治思想史と政治学原論を担当している。週末はほぼ、オンライン講義のために費やされる。90分の講義原稿と講義録音を作成するために、土曜日半日、PCの前で集中しなければならない。土曜日全日、日曜日全日だけも間に合わない。月曜日午前中も原稿作成作業に従事している。

 また、録音をすることは、自らの原稿を大きな声で読み上げることである。音読によって講義原稿の不備が明らかになった。オフライン講義でも、原稿を準備していたが、すべて黙読であり、音読するという習慣はなかった。発音の明瞭性も含めて自分の言語が記録される。これまでの30年間、自分の講義を聞いたことはなかった。かなり、言語明瞭、意味不明な言説――この形容は、かつて竹下登総理に対して付せられた特徴づけであった――が、多数あった。今でもあるかもしれない。

 オフライン講義においては、講義内容とは関係のない事柄にも注意を払わねばならない。「飯を食べるな」、「帽子を脱げ」、「私語を慎め」、「携帯電話の電源を切れ」等といった講義内容とは異なる事柄に対しても、注意喚起しなければならない。「教育実習のため、公休扱いにしろ」、「所属ゼミナールで終日、大学外で実習するので、私の講義に出られない」等、学生の個人事情にも、講義内容とは無関係な事柄であったとしても、配慮しなければならない。

このような無駄な時間が一切ない。淡々と講義するしかない。また、事務連絡は、大学教育情報システムによって学生に通知される。講義時間は、講義の内容に集中できるし、しなければならない。

学生の側からすれば、音に集中できる。私の容姿、服装は一切関係ない。私の表情を窺うこともない。その音声だけに集中できる。学習効果は数倍向上した。特に、講義課題として設定している私の音声を書き写する作業によって、学生の理解力は飛躍的に向上した。

 また、動画は限定公開であれ、インターネット上で視聴される。下手な冗談は記録される恐れもある。一切の冗談を自粛した。冗談は講義への関心を喚起するために、時折これまで意図的に発せられていた。学生に対するこのようなサービスは、一切廃止した。

冗談は、その内容が面白ければ面白いほど、社会的な一般常識とは異なる水準で発せられる。不快に思う視聴者が当然いる。不快に思うだけで済めば問題ないかもしれない。人権擁護委員会の審議対象になるでろう。近代の基本的理念、平等という理念を揶揄すれば、しかも学生に理解可能なコンテキストで揶揄すれば、人権侵害とみなされる恐れもある。   

平等という理念に対する異議申し立てを、学問的に許容できる言語で説明するしかない。人権侵害あるいは法律違反を奨励するような言説は、拒絶されるだけである。ビートたけしの冗談、「赤信号、皆で渡れば怖くない」は有名である。しかし、大学教授がこの冗句と同様な趣旨で発話すれば、道路交通法違反を奨励していると、批難される。国家の法侵犯を奨励していると批判されることは、必定である。講壇と高座は区別されねばならない。このような冗句は、少なくとも講壇から排除されている。肝に銘じている。

 

5、オンライン講義の積極面 Ⅱ――録音ファイルの分割

 

 90分の動画をアップロードするためには、56個の音声録音ファイルを作成する。のちにこれら複数のファイルを一つのファイルに編集する。学生だけではなく、教授もまた90分の緊張関係を保てない。少なくとも、90分の動画作成のなかで、一回以上、30分以上の長い休憩時間が入っている。自分の肉体的かつ精神的疲労を意識する。前節で述べた冗談の原因もまた、学生の疲労だけではなく、講義者の疲労にあるのかもしれない。オンライン講義は、肉体的にも、精神的にも衰えを自覚している老教授にとって朗報であろう。

4.

オンライン講義の積極面 Ⅲ――大学カリキュラムの相違

 

 かつて30年前にインターネットが人口に膾炙し始めたころ、大学は東京大学と京都大学だけ必要であり、教員数の大幅な削減が可能であり、その他の大学教員は淘汰されるという言説があった。二つの大学で講義されている科目をオンライン講義で受講すればよいという考えである。

たとえば、教職課程で選択必修科目である政治学概論は、少なくとも全国で数百、数千開講されているはずである。また、法学部、政経学部で開講されている政治学概論に相当する科目、政治学原論を加えれば、その数は増大するであろう。それに応じて、非常勤講師を含めて、担当教員は数百、数千にいるはずである。二人の教授が担当すれば、それ以外の数百人、数千の教員は余剰である。

この言説は正当性を持っているのであろうか。西洋政治思想史も、政治思想史、近代政治思想史そして社会思想史も含めれば、数百人の教員が講義を担当しているはずである。学部のカリキュラム総体においてその位置づけは異なっている。それぞれの大学における学部の事情、学生の偏差値に応じた講義が求められている。

 

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「いつも一人 浮浪雲から学ぶ人生論(二)」 

「いつも一人 浮浪雲から学ぶ人生論(二)」 

ジョージ秋山『浮浪雲』第19巻、小学館、1982年、168頁。

191982168

c Jyoji Akiyama

 

 浮浪雲はいつも一人である。他者の存在、他者との関係は、労働者、サラリーマンにとって、悩みの種である。労働者の途中退社理由は、ほとんど人間関係の悪化に由来しているであろう。それに対して、浮浪雲は、人間が一人であることを自覚している。すべての事柄、他者との関係、社会総体との関係、国家との関係、歴史総体との関係もまた、自分にとって疎遠である。この世に生まれてくるときも、一人、この世を去るときも、一人。この心境こそが理想である。怒ったところで、対象は変化しない。嘆き悲しんだところで、過去の状況そのものが、この世に存在しない。

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内容とその形式、あるいは実体とその外観ーーいしいひさいち官僚制論

内容とその形式、あるいは実体とその外観

 

いしいひさいち『ドーナツボックス』第5巻、いしい商店、2018年、11頁。

 

5201811

 

  風車発電は、自然的世界に存在する風を利用してエネルギーを産出する装置である。自然界に存在しているエネルギーを別の形式のエネルギーに転換し、新たなエネルギーを人間が利用する。しかし、役人はそのように考えない。風車が回らなければ、電気エネルギーを使用して風車を回転させる。ここでは、新たな形式のエネルギーが産出されたわけではない。むしろ、電気エネルギーを浪費する。石油、石炭等の化石燃料の使用を減少させ、自然エネルギーを使用することによって、環境破壊を減少させようとする。この大目的は、彼らにとって考察対象外である。

 官僚的行為の目的とは、どこにあるのであろうか。風車を回転させるという外観を住民に認識させるだけである。実体的世界においてエネルギーを新たに利用可能にするという本来の目的を忘却し、外観だけを御化粧する。官僚は、実体的世界の改善つまり新たなエネルギーの獲得ではなく、風車が回転するしているという指標にしか問題にしていない。

 同様な事柄が株式市場において生じている。株価は、国総体の経済活動の指標と言われている。経済活動が活発になれば株価が上昇し、停滞すれば下落する。実体としての経済活動の指標の一つが、株価である。しかし、経済官僚は、そのようには考えない。株価を上昇させることに狂奔する。年金積立管理運用独立法人は、基本ポートフォリオの約50パーセントを国内株式と海外株式市場に投入している。世俗的表現をもちいれば、鉄火場に有り金をほとんどぶちんこんでいる。株価は上昇しないはずはない。この独立行政法人そして日本銀行が株価を維持していると言っても過言ではないであろう。そして、次のように弁明するにちがいない。株価の上昇によって、日本経済の実体も好影響を与えるであろうと。しかし、それは、火力発電によって得られた電気によって風車が回転し、新たな風力エネルギーが獲得されることと同様であろう。

  

 

 

 

 

 

 

 

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道路交通による自然環境と人間的自然に対する否定的作用――ドイツにおけるその具体的様態に関する考察

(本稿は、田村伊知朗「道路交通による自然環境と人間に対する否定的作用――その具体的様態」『北海道教育大学紀要(人文科学・社会科学編)』第70巻第2号、2020年、13-22頁、として公表された論文である。行末に書かれた数字は、本稿の頁数を表している。ドイツ語要約も含めて完全な論稿として、一つの記事において掲載する)。

 

道路交通による自然環境と人間的自然に対する否定的作用

――ドイツにおけるその具体的様態に関する考察

田村伊知朗

 

Tamura, Ichiro:

Die negativen Auswirkungen des motorisierten individuellen VerkehrsDie Beschreibung der konkreten Eigenschaften der Schadstoff-Freisetzungen und Schadenswirkungen für die natürliche Umwelt und die menschliche Natur durch das verkehrliche Mobilitätsgeschehen

                                 

 

                                                                            Zusammenfassung

  Bis zum Wirtschaftswunder Anfang der 1960er Jahre, d.h., in der Übergangsperiode von der frühen in die späte Moderne wurde der Anstieg der Verkehrsquantität gemeinhin als einer der notwendigen, aus dem Wirtschaftswachstum entstandenen Erfolge betrachtet, der einen gelungenen Beitrag zum ewigen Fortschritt des menschlichen Lebens leisten können würde. Erst mit Beginn der späten Moderne der 1970er Jahre zogen die negativen Auswirkungen des motorisierten individuellen Verkehrs auf die natürliche Umwelt die höchste Aufmerksamkeit der breiten der bürgerlichen Öffentlichkeit auf sich. Diese Umweltprobleme stellten den wichtigsten Bestandteil bei der kritischen Betrachtung des Mobilitätsverhaltens dar. In der späten Moderne vermehrt sich der motorisierte individuelle Verkehr, der zum größten Faktor der Umweltbelastung innerhalb einer Stadt geworden ist. Deswegen war es die nachdrückliche Betonung des Kriteriums der Umweltverträglichkeit im Verkehr, welche das Mobilitätsverhalten zum Gegenstand der philosophischen Auseinandersetzung machte.

  Die kritische Verkehrsphilosophie hat sich in den letzten Jahrzehnten auf der Grundlage dieser Veränderungen des bürgerlichen Bewusstseins etabliert. Darüber hinaus bewirkte das in der Öffentlichkeit anwachsende bürgerliche Bewusstsein für die umfangreichen Umweltzerstörungen in einer Stadt durch den motorisierten individuellen Verkehr die Straßenbahnrenaissance in der späten Moderne.

                                                 13頁↑、14頁↓(S. 13

  Dieser Beitrag versteht sich als Einleitung für die Beschreibung der konkreten Eigenschaften der Schadstoff-Freisetzungen und Schadenswirkungen für die natürliche Umwelt und die menschliche Natur durch das verkehrliche Mobilitätsgeschehen, wobei einer der philosophischen Gründe für das geschichtliche Wiederaufleben dieses Verkehrsmittels ins wissenschaftliche Licht gerückt werden soll.

                          

 

はじめに

 環境保護に関する意識が、後期近代の西欧において急激に浮上した。大気、水、土壌、動植物等から構成される自然環境の保護が、主要な政策課題の一つになった。環境保護という人間的自然と関係する課題が、様々な政治的決定の前提を規定している。人間的活動による自然環境の破壊が重大になったからである。「環境保護問題が設定されている認識条件は、より古い社会が環境保護問題を解決しなければならなかった認識条件と比べてほとんど比較不能である」。[1] 近代化とそれに基づく自然環境に対する負荷は、後期近代においてそれ以前の社会と比べて比較にならないほど進展した。

近代社会は自然を労働によって加工することによって、生産力を増大させた。それに比例して、自然環境に対する負荷を増大させた。この人間的行為に対する反省的意識が、後期近代において生じた。「決定的な環境システム、つまり人間と、人間に対して地球によって産出された要求は、人間の社会システムによって産出された要求に対して優越している」。[2] もちろん、後者を否定しているのではない。しかし、両者が競合する場合、前者の優位性を認識する社会意識が醸成されつつあった。環境世界と人間的自然に対する社会的意識が、後期近代の公共的意識に刻印されつつあった。自然環境に関する配慮が、それ以外の政策課題に対してより優先するようになった。

 本稿は後期近代における自然環境と人間的自然に対する市民意識の鋭敏化を前提にしつつ、道路交通による自然環境と人間的自然に対する否定的作用に限定して、その概略を提示してみよう。環境保護と動力化された個人交通の連関構造の提示が、今後の研究、とりわけ1980年代の西ドイツ、1990年代の東ドイツの路面電車ルネサンスの生成に関する諸根拠の一つを解明することにつながるであろう。[3]

 それゆえ、本稿は、前世紀後半から今世紀のドイツ語文献ならびにその議論形式に依拠している。ここで議論対象になっている事象は、自然環境に対する破壊一般ではなく、交通とりわけ動力化された個人交通による自然環境と人間的自然に対する否定的作用にすぎない。もちろん、思想史的に考察すれば、両者は後期近代において普遍的現象である。本邦とドイツに限定しても、この問題は両者において共通する事象も多く、同一水準にあるとみなすこともできよう。この観点すれば、依拠する資料も、ドイツ語文献だけではなく、日本語文献にも拡大されるべきかもしれない。

                                                                                                         14頁↑、15頁↓

しかし、本稿に関する初発の研究契機は、ドイツにおける前世紀末の交通政策の転換を基礎づけることにある。環境問題に関する意義づけとその強度は、ドイツと日本の公共圏において同一位相にはない。さらに、環境問題一般だけではなく、動力化された個人交通による自然環境と人間的自然に対する否定的作用に関する認識も、両者においてかなり異なっている。したがって、本稿が依拠する文献は、前世紀末から今世紀のドイツ語文献に限定されている。

 

1節 本稿の目的設定とその限定性

 初期近代から後期近代の移行期、つまり19501960年代における環境破壊の主たる要因は、重化学工業施設からの有害物質の排出にあった。しかし、後期近代が始まる19701980年代において、重化学工業施設からの排煙と排水等ではなく、交通に起因している有害物質の排出が、都市内と都市周辺において環境保護政策の焦点の一つになった。都市内と都市周辺における重化学工業の施設は、後期近代においてかなり削減されていた。重化学工業の生産施設は、先進国から発展途上国へと移行しつつあった。また、後期近代において重化学工業の排煙と排水等に対する環境基準がより厳格化されたことにより、有害物質の除去装置の性能が向上していた。ドイツ、フランス等の先進国の重化学工業は環境基準を遵守することによって、市民社会の環境意識と調和しようとした。

 重化学工業施設ではなく、都市内交通からの有害物質の排出が、市民の環境意識を規定するようになった。「列挙された有害物質は、最大限の有意味な産出集団を交通において形成している。未来もまたそうであろうことは、高い蓋然性を持っている」。[4] 交通量の増大は、後期近代に移行するまで経済成長と一体とみなされ、人間生活の進歩に寄与すると考えらてれてきた。自家用車の個人的所有が、市民の幸福度を図る尺度になっていた。[5] とりわけ、動力化された個人交通の拡大に対する批判意識は、社会的に看過されてきた。

 しかし、交通とりわけ動力化された個人交通による否定的作用が、後期近代において初めて社会的に承認された。交通倫理、交通思想そして交通哲学等が、この市民意識の変容に基づき成立した。「交通に起因する否定的な環境作用が、主要なものとして知覚された。交通的移動性に関する人間的態度への決定的批判が、最近になって初めて始まった」。[6] 交通という人間の移動性態度に対する根底的批判が、学問的形式において開始された。環境問題は、移動性に関する批判的考察において主要な構成要素である。交通量の増大と自動車の高速化によって、都市内交通における動力化された個人交通が、自然環境に負荷を与える最大のセクターになった。

 交通に起因している環境破壊は多岐にわたるが、その概要は以下のように定義されている。「交通に起因している否定的なエコロジー作用は、地域浪費と地域分断、エネルギー浪費と原材料浪費、そして有害物質の排出、動物の破壊作用の四つに分類できる」。[7] 

                                                        15頁↑、16頁↓

限定された地下資源としてのエネルギー浪費と原材料浪費の問題等、そして地域浪費つまり都市内平面の使用も重要であろう。しかし、前者は自動車の生産様式および運転様式と、後者は都市構造総体と関連している。それぞれ、独立した論稿として討究されるべきであろう。本稿では、有害物質の排出と自動車交通それ自体による自然環境と人間的自然に対する否定的作用に限定して論述する。

 自然環境との調和的発展に関する問題に関する批判的考察の目的は、次のように設定されている。「移動性態度を影響づけるための措置は、自己目的に寄与するのではない。むしろ、この措置は、交通による期待されざる環境負荷を縮減することを意図している」。[8] 自動車交通とりわけ動力化された個人交通の縮減は、都市内の環境負荷を減少させることにある。この学問的意味を対自化するための前提が、環境負荷の具体的様態を提示することである。

 

2節 自然環境への否定的影響――その概観

 都市内交通における有害物質の排出に関して、道路交通が果たす役割についてより具体的に言及してみよう。諸交通手段において道路交通が、前世紀末時点での環境破壊において主要要素になっている。「全体排出量のうち、道路走行自動車が関与している割合は、一酸化炭素の55%、酸化窒素の48%、揮発性有機化合物の24%である」。[9] 道路交通が大気汚染に全体量において占める割合は、約半数と言ってよいであろう。もちろん、調査方法、調査前提、算出方法の差異に応じて、若干の差異はあろう。[10] さらに、交通媒体総体における他の手段、たとえば鉄道交通、軌道交通、内陸水運交通等による有害物質排出量が零であると想定しているのではない。しかし、これらの交通媒体によって排出される有害物質量は、道路交通によって排出されるそれと比較してほとんど論じるべき量ではない。少なくとも、人員数あるいはトン数基準で考察すれば、道路交通は、鉄道と内陸水運に比べて数倍の排出量を占めているのであろう。[11] 道路交通における有害物質の排出量の削減が、環境保護にとって最重要課題の一つであろう。

 さらに、道路交通は、常に問題になる二酸化炭素だけではなく、様々な有害物質の排出においても高い割合を占めている。道路交通に起因する有害物質排出を論じる際に、近年問題になっている二酸化窒素にも言及せざるをえないであろう。人間あるいは動物によって排出される二酸化炭素と異なり、この物質はその排出先が限定されている。「二酸化窒素は、燃焼過程における期待されざる副作用の産物である。二酸化窒素の主要源は、燃焼エンジンと石炭、石油、ガス、木材とゴミである。道路交通が、密集地域において最も有意味な二酸化窒素の排出源である」。[12] 

                                                       16頁↑、17頁↓

都市内の他の要因、たとえば工場からの排気ガス等は、削減されている。また、ドイツの家庭内暖房の多くは、地域集合暖房等に切り替えられており、二酸化窒素の排出は少ない。二酸化窒素は主として、ディーゼル自動車から排出される。その濃度もまた、道路交通の量と相関している。この環境破壊の元凶として、動力化された個人交通の増大が社会的問題になった。

 二酸化窒素の排出をめぐって、2017年においてドイツ政府は欧州委員会から警告を受けた。「ドイツにおける28の地域が、二酸化窒素の限界値を超えている」。[13] 首都ベルリンを含む28都市が、二酸化窒素に関する欧州環境基準(年間平均、40μg/m3)を超過していた。さらに、欧州委員会はこの主要原因を、ディーゼル車を中心にする動力化された個人交通による排出と認定した。もちろん、ドイツ政府も、大都市の二酸化窒素の排出が欧州環境基準を超えていたことを認識していた。[14] 交通禁止が、欧州委員会の環境基準を超えている28都市の地域に対して要請された。ドイツ政府は2018年に、ヘルトリック環境省大臣、シュミット交通省大臣そしてアルトマイヤー首相府長官の三者によって署名された共同書簡を、欧州環境委員会長に送付した。ドイツ政府は欧州委員会の要請をこの時点で想定していなかったし、これまで二酸化窒素の限界超えに関して如何なる施策も実施していなかった。

 この共同書簡において関係閣僚は、旅客近距離公共交通の無料化の社会実験を実施するという提案をした。「私的に使用される自動車数を縮減するために、公共的旅客輸送を無料提供することを、州と市町村と協働して検討する」。[15] 動力化された個人交通から旅客近距離公共交通へのモーダルシフトを実施する提案がなされ、都市内の環境改善への政策転換が指向された。ディーゼル車を中心にした動力化された個人交通が環境破壊、とりわけ二酸化窒素の排出の主原因として特定された。二酸化窒素の過剰排出と動力化された個人交通の因果関係が、欧州委員会とドイツ政府によって公式に認められた。

 さらに、大気汚染は、都市空間における水の循環過程を通じて水質汚染につながる。雨や雪が、大気中に浮遊している有害物質を吸収し、湖沼や河川等に流れ込む。「大気汚染は、無数の環境問題、たとえば酸性有害物質と富栄養物質、つまり二酸化硫黄、酸化窒素、アンモニアによる水の酸性化と湖沼の富栄養化につながる」。[16] 大気汚染は、水の酸性化と富栄養化という水質汚染に対して影響を与えることによって、間接的に人間的自然を破壊する。水中における動植物の有機体的統一性が、水質汚染によって破壊される。これまで水中に生存していた動植物の多くが死滅し、それに代わってバクテリア等の極小有機体が過剰に繁茂する。大気汚染と水質汚染は、最終的に自然的生態系を破壊するであろう。

 また、大気汚染は、水質汚染につながるだけではなく、土壌汚染にもつながる。大気は、大地つまり地球の表層と連続している。とりわけ、大気汚染の程度が高い高速道路周辺において、土壌汚染はより顕著になろう。

                                                       17頁↑、18頁↓

「汚染物質は、道路に沿った土地へと集積する。高い割合の大気汚染は、部分的には転形的形式においてアウトバーン周辺においてほぼ二倍になっている」。[17] 大気汚染は、直線的に土壌汚染につながる。道路とりわけアウトバーンは、道路幅が広大であり、延長距離が長く、同一時間における自動車走行数が多い。アウトバーンは一般道路より多くの有害物質を輩出する。アウトバーンと一般道路の対比は、アウトバーンと鉄道との対比においてより鮮明になろう。「同一人数を輸送するためには、アウトバーンは鉄道に比べて2倍以上の平面を必要にする」。[18] 人員輸送ではなく、物資輸送においてアウトバーンが必要とする平面はより拡大するであろう。鉄道と異なり、アウトバーンにおいて単位時間の走行車両も途切れることはない。アウトバーン周辺において排出された有害物質の密度は、より高くなるであろう。大地において生きている動植物が、アウトバーン周辺の自動車交通に起因する汚染物質を取り入れる。人間がこの動植物を自己の肉体へと摂取することによって、有害物質を自らの肉体へ取り入れる。

 さらに、自動車走行のための空間つまり道路空間が拡大されることによって、都市空間が切り刻まれる。この現象は、既存の都市空間だけではなく、その周辺の空間においても見られる。人間化された自然つまり農地も、その一部がアスファルト舗装されることによって、分断される。本節では、人間的自然と動植物的自然と関連するかぎりで、平面分断に言及してみよう。道路の両側の人間的共同性が寸断され、道路面積の拡大による生活空間自体が破壊される。人間は、この分断という作用に一定程度対応できるかもしれない。しかし、人間以外の生物そして無機物としての自然的な環境世界は、この分断を補償することができない。

 生活空間の分断は、動植物の生存と世代交代という生活環境の破壊として現象する。アスファルト舗装によって平面が分断されることによって、動植物の個体間の世代交代の可能性つまり再生産機能が減少する。「交通によって分断されることによって、動植物の生活空間が失われ、生活空間がより縮小し、個体群の必然的な世代交代が妨げられる。本来、健全であった形態状態が、危機に陥る」。[19] 個体群の世代交代の可能性が縮小し、遺伝子の健全性が損なわれる。

 次に、土地平面が分断されることによって、地下水にも影響を与えるであろう。一般道路と自動車専用道路は、地下水というほぼ再生不可能な資源を破壊する。その作用は自明であるが、その結果によって破壊された自然環境に対する総決算書は、記述不可能である。大地がアスファルトとコンクリートによって覆われたことによって、多数の微生物の生存環境であった大地という生命体が、ほぼ死滅した。これらの生命体によって担われていた様々な自然的機能、たとえば保水力、保温力等が減少した。その全貌はまだ解明されていない。巨大都市とその周辺における微生物の減少が自然環境総体に対してどのような意義を持っているのかという問題に関して、未だ明白な結論は出ていない。

 交通だけには限定されない他の要因と複合して、水質汚染と土壌汚染が拡大している。その原因が他の社会的要因、たとえば生活排水や工業排水、農薬配布等と複合しているかぎり、交通による有害物質の排出問題として市民に認識されることは少ないであろう。動植物の有機的一体性の破壊と、人間的自然の破壊が直接的ものとして認識されないかぎり、この環境破壊は環境の変化として認識されるだけにすぎない。

                                                         18頁↑、19頁↓

「環境媒体物として喧伝され、人間の生活と存立に対して影響づける作用と人間的行為が結合する場合にのみ、このような間接的な社会作用は所与のものになっている」。[20] 人間的理性によって認識される環境媒体物しか、人間的意識に映現しない。逆に言えば、環境媒体物として宣言されていない環境破壊は、ほとんど研究対象にすらならない。自然環境に直接的に影響を与えないことによって、その間接的影響は社会的にほぼ看過される。

 環境保護システム総体に関する間接的影響を把握することは、都市住民の日常意識にとって不可能であろう。水質汚染と土壌汚染は、動力化された個人交通だけではなく、他の社会的要因にも起因している。もちろん、交通に起因する水質汚染と土壌汚染が、その総体においてどのような割合を占めているのか、厳密に算出することは不可能である。しかし、前者による汚染も看過できないであろう。

 

3節 人間的自然に対する直接的破壊(1)――交通事故

 本節では、道路交通による自然環境の破壊ではなく、人間的自然の破壊に触れてみよう。道路交通に起因する有害物質の排出による自然環境の破壊は、人間的自然にとって間接的であり、すぐさま影響するわけではない。先述のように、ドイツの都市における二酸化窒素の排出量はこの数年間、欧州の環境基準を超過していたが、人間的自然の明白な破壊につながっているわけではない。

 最初に言及しなければないことは、人間的自然への明白な侵害、つまり肉体の物理的破壊である。その一つが、道路交通の結果としての交通事故である。通説によれば、交通事故による人間的自然の破壊は、環境保護問題として認識されていない。市民が交通事故に遭遇することは、偶然あるいは不運として認識されるだけである。

 しかし、交通事故は、動力化された個人交通による直接的な人間的自然の破壊、つまり普遍的な環境保護問題である。「環境保護の本質的目的は、人間的健康に対する侵害を除去することにある。通常の環境保護として現象しないとしても、交通事故は交通による環境負担の最高のカテゴリーとして考察されねばならない。交通事故は直接的に人間的健康を破壊し、動植物と同様に人間の生命を否定するからである」。[21] 交通事故こそは、人間的自然に対する最大かつ本質的な破壊行為である。交通事故によって引き起こされた人間的自然の破壊は、その治療のコスト、たとえば救急車の手配、医師の労働等を必要とし、膨大な社会的コストを上昇させる。にもかかわらず、それが完全に支払われることはない。

 交通事故は、人間の肉体の一部あるいはその全体を破壊する。一度でも毀損した肉体は、以前の状態に完全に復帰することはない。人間という有機体の自己回復能力は、限定的である。しかも、この環境破壊に遭遇する確率は、かなり少ない。「大気汚染あるいは騒音負担が広大な平面に渡ることと対照的に、交通事故に遭遇する住民は、つねにその一部にしかすぎない」。[22] 交通事故に遭遇する人数が限定的であることによって、交通事故に関する報道は、多くの住民にとって娯楽番組と同様に消費される対象でしかない。多くの住民は、自らが交通事故に遭遇すると考えていない。逆に言えば、実際に交通事故に遭遇した人間にとって、この出来事はそれだけ重大なものになる。遠い世界の物語としてしか認識されなかった事象が、突然、市民の個人的な生活全般を現実的に影響づける。

                                                       19頁↑、20頁↓

 道路交通に起因している重大な交通事故の多くは、農村ではなく、都市において生じている。「死亡交通事故の90%超が、道路交通によって引き起こされた。そのうちの四分の三は農村以外で生じている」。[23] なぜ、重大な交通事故の多くが都市内において生じるのであろうか。この問題に解答するための選択肢は無数に存在するであろう。本節では交通事故を、歩道を移動する歩行者と、車道を走行する自動車の衝突に基づく接触事故に限定して述べてみよう。都市内における両者の関係を考察する際に重要なことは、道路空間を使用する際の第一義的目的が、後期近代において自動車交通を優先させたことにある。現代社会における交通に関連する法規範の多くは、道路交通と関連している。「第一に、現代の交通法は、一面的に方向づけられた道路法と道路交通法である。正確に分析すれば、規範的形態化の企図は、自動車交通の諸欲求をさらに指向することにある」。[24] 交通法規の規範的形態化つまりその究極的目的は、自動車の渋滞なき走行にある。

 交通法体系の究極的目的がこのように設定された結果、都市内の一般的な道路空間が、自動車の走行空間とその駐車空間に侵食された。「自動車の駐車スペースが、他のすべての交通参加者、また自然、樹木、緑地、広場も排除する。・・・危険ゾーンと死亡ゾーンが、玄関から数メートル先から始まる」。[25] 玄関を出た直後すぐさま、歩行者の肉体は、走行している自動車車両との接触という危険に晒される。歩行者は、目的地に到着するまで、あるいは動力化された交通に乗車するまでこの危険性から逃れられない。自動車運転者は、自動車車両という防御手段を持っているが、歩行者は、人間的自然を自動車車両に対して無防備に晒している。

 玄関に面しているこの空間は、かつては市民的公共性が形成される場所であった。居住者と近隣からの訪問者が、この空間において言語を媒介にすることによって共同性を醸し出した。「市民は道路を、仕事場と世帯の機能を拡大するための平面として利用した。道路は主として、労働、遊び、祝祭、討論の目的に寄与した」。[26] 道路は、初期近代まで人間的共同性を拡大する空間であり、居住者と訪問者を相互に結びつける媒介物であった。この機能が、後期近代において減少しただけではない。自動車車両の停車空間として利用されることによって、この空間は、潜在的に人間的自然が破壊される領域になった。

 歩行者としての住民と都市訪問者の生命が危険に晒される理由は、自動車運転者の快適性が優先されたことにある。この問題は、その社会的費用が顧慮されることなく、既存の道路が駐車空間として使用されている事実から生じている。道路の歩道側の車線は、事実上、無料駐車場と化している。自動車運転者にとって最適な駐車空間を確保するために、建造物の前の空間は、歩行者にとってかぎりなく減少している。自動車運転者は、目的地から離れた空間ではなく、目的地にもっとも隣接した領域、つまり住居に近接した領域に自動車車両を停車させる。歩行者という無防備な存在が、その生命の危機に晒されている。「弱者を顧慮する人間社会は、このような生命に対する脅威と以前から長期間格闘し、それを除去してきた。対照的に今日では、自動車社会にとっての快適性が普遍的に優先されており、健康よりも重要である」。[27] 近代において自動車運転者の快適性が優先された結果、住民の市民的公共性が破壊されただけではなく、その生命すら犠牲に供せられた。

                                                        20頁↑、21頁↓

 しかし、このような状況の問題性は、市民の日常意識においてほとんど看過されている。その理由は、多くの市民が、歩行者であると同時に自動車運転者でもあるからだ。市民は、市民的公共性の侵害を甘受しなければならない一方で、他方でこの侵害の原因である特殊的利益の受益者でもある。個人的な特殊的利益が、都市全体の普遍的利益に優先している。普遍的利益は、特殊的利益の総和ではない。全体は、つねに個別的部分の総和と異なる。都市住民の特殊的利益という観点ではなく、その上位概念としての都市構造という観点からのみ、普遍性が考察される。

 

4節 人間的自然に対する直接的破壊(2)――騒音

 さらに、騒音にも言及しよう。動力化された個人交通が連続する場合、道路周辺において騒音が発生する。動力化された個人交通による環境破壊が自然環境の破壊に限定されていることによって、交通事故と同様に、騒音も環境保護の主要課題から排除されている。交通事故によって人間的自然がすぐさま破壊されることと対照的に、騒音によって人間的自然が徐々に破壊される。人間的自然にとって不快音が、聴覚を通じて恒常的に人間的自然に影響を与える。「騒音が心臓循環の疾病に関与している。そして夜間の睡眠障害が人間にとって否定的に作用する。これらのことは、学問的に議論の余地がない」。[28] 人間的自然の維持のために不可欠な睡眠という作用が、騒音によって妨げられている。

 騒音問題が自動車による環境破壊の主要要素であると、1950~1960年代において認識されていた。当時この問題が社会問題と化したとき、交通政策担当者は、この問題を自動車産業の生産技術的水準ではなく、自動車運転者の運転技術の未熟性およびその運転マナーの問題に還元した。彼らは、自動車産業の技術水準を無条件に信頼していた。自動車の生産技術は絶対不可侵の対象であった。大衆民主主義における大量生産の象徴が、自動車の生産であったからである。交通政策担当者は、最新の技術的合理性に基づく近代的な自動車産業に対して負荷をかけなかった。「自動車産業の見解によれば、交通騒音への責任は、・・・生産者に負担されるべきではなく、自動車運転者に委ねられる」。[29] 自動車産業は、騒音を自家用車運転者の運転技能の稚拙性に還元した。

 もちろん、自動車の走行による騒音は、19501960年代と比較して今世紀になってかなり緩和された。数十年の歳月が経過することによって、自動車の性能が向上し、騒音を軽減してきた。しかし、この環境破壊は、看過されるべき水準までには至っていない。一台当たりの騒音は減少した一方で、他方で自動車の総数は、半世紀前と比較して飛躍的に増大している。「ドイツ連邦環境省によって委託された研究が数年にわたって明らかにしたように、騒音問題の場合、交通がその第一義的原因である。総人口の70%超が、道路交通による騒音を苦痛として感じている」。[30] にもかかわらず、騒音による精神的苦痛、それによる肉体的苦痛は外部化され、環境保護の要素としてほとんど勘案されていない。

                                                      21頁↑、22頁↓

 さらに、騒音は人間的自然を一時的に破壊するだけではなく、人間的精神の破壊にもつながる。環境問題は、外部化された自然に対する侵害だけに限定されてはならない。むしろ、内部化された人間的自然に対する侵害として認識されねばならない。肉体の破壊は精神の破壊につながる。前世紀後半までの近代哲学は、人間を人間的精神とりわけ自己意識に解消してきた。肉体の破壊と精神の破壊が別であるという意識が醸成されている。しかし、精神と肉体の二元論的分離は、近代の日常意識において普遍化された幻想にすぎない。

 たとえば、騒音が、労働意欲の減退を引き起こし、人格破壊につながる場合もある。その影響は長期化し、道路周辺の居住者の精神を徐々に、しかし確実に破壊する。「さらなる健康負荷が、ストレスによって条件づけられたいわゆる強制注意に属する騒音結果を表現している。騒音はコミュニケーション可能性を制限することによって、関与者のフラストレーションとストレス感情を喚起する。それによって、精神的な受容能力と集中能力を減少させる」。[31] 動力化された個人交通が、道路周辺の居住者の人間的精神を破壊する。大気汚染や水質汚染と異なり、この環境負荷は複合的要因から構成されるではなく、道路交通に明白に一元化されている。もちろん、鉄道交通、軌道交通、内陸水運交通等による騒音も、近隣地域に影響を与える。しかし、公共交通の本質は同時的な大量輸送にある。都市全体における公共交通に基づく騒音総体は、動力化された個人交通のそれに比べ、比較にならないほど小さい。

 なぜ、後期近代において騒音が主要な環境問題として認識されないのであろうか。騒音は、聴覚という感覚器官を通じて人間も含めた高等動物の内的自然を破壊するが、外的な環境保護システム総体とほとんど関連しない。「騒音排出という概念による選択的な書き換えによって、害悪物質の排出と比較可能な作用を問題にしているという印象が喚起される。騒音は、人間と、おそらく高度に発展した動物個体群にのみ作用し、環境それ自体には作用しない」。[32] 環境問題一般が、外部化された自然環境に対する侵害に歪曲されることによって、人間的自然にとっての騒音問題はほとんど看過されている。

 

おわりに

 動力化された個人交通による自然環境と人間的自然に対する否定的作用にもかかわらず、今世紀になっても、現実的社会において環境破壊を縮減しようとする試みは、ほとんど具現化への途を見出していない。「人間―自然に対する直接的に有意味な有害物質が減少したにもかかわらず、動力化された個人交通とりわけ道路交通がその人為的排出において今日なお高い割合を示している」。[33] エコロジーに関する都市住民の意識が先鋭化しても、動力化された個人交通による有害物質の排出は削減されなかった。この問題に対する解答は全面的に別稿に委ねられている。

                                                                                                         22頁↑

 

[1] Lübbe, Hermann: Ökologische Probleme im kulturellen Wandel. In: Hrsg. v. Lübbe, Hermann u. Ströker, Elisabeth: Ökologische Probleme im kulturellen Wandel. München: Wilhelm Fink Verlag 1986, S. 10.

[2] Korff, Wilhelm: Kernenergie und Moraltheologie. Der Beitrag der theologischen Ethik zur Frage allgemeiner Kriterien ethischer Entscheidungsprozesse. Frankfurt am Main: Suhrkamp 1979, S. 72.

[3] 田村伊知朗「後期近代の公共交通に関する政治思想的考察――ハレ新市における路面電車路線網の延伸過程を媒介にして」『北海道教育大学紀要(人文科学・社会科学編)』第66巻第1号、2015年、213-223頁; 田村伊知朗「東西ドイツ統一過程における公共交通と公共性に対する市民意識――ハレ市・ハイデ北への路面電車の延伸計画とその挫折過程に関する考察」『北海道教育大学紀要(人文科学・社会科学編)』第67巻第1号、2016年、73-83頁参照。

[4] Erl, Erhard u. Bobinger, Stephan: Umweltverbund im Nahverkehr. Entlastungspotentiale durch eine integrierte Förderung umweltschonender Verkehrssysteme unter Berücksichtigung der Straßenbahn. Berlin: Umweltbundesamt 1994, S. 5.

[5] 田村伊知朗「戦後西ドイツにおける自動車中心主義の形成――その政治的根拠」壽福眞美監修『知の史的探究―社会思想史の世界』八千代出版、2017年、259-276頁参照。

[6] Feldhaus, Stephan: Ethik und Verkehr. Ethische Orientierungsgrößen für eine verantwortliche Mobilität. In: Hrsg. v. Barz, Wolfgang u. Dicke, Bernhard: Umwelt und Verkehr. Symposium am 19. und 20. Juni 1995 in Münster. Landsberg: Ecomed 1996, S. 128.

[7] Feldhaus, Stephan: Verantwortbare Wege in eine mobile Zukunft. Grundzüge einer Ethik des Verkehrs. Hamburg: Abera Verlag 1998, S. 100.

[8] Rommerskirchen, Stefan: Verkehrssteuernde Maßnahme zur Minderung verkehrsbedingter Emission. In: Hrsg. v. Barz, Wolfgang u. Dicke, Bernhard: Umwelt und Verkehr, a. a. O., S. 133.

[9] Deiters, Jürgen: Verkehrswachstum und die Umweltbelastung des Verkehrs-Perspektiven für die Vermeidung und Verlegung von Gütertransporten. In: Hrsg. v. Deiters, Jürgen: Umweltgerechter Güterverkehr. Handlungsansätze auf staatlicher, kommunaler und betrieblicher Ebene. Osnabrück: Universität Verlag Rasch 2002, S. 14.

[10] Vgl. Plaßmann, Eberhard u. Waldeyer, Heinrich: Konzepte zur Versöhnung von Verkehr und Umwelt auf nationaler und internationaler Ebene. In: Hrsg. v. Plaßmann, Eberhard: Umwelt und Verkehr. Umweltgerechter Verkehr oder Recht auf Mobilität? Heidelberg: Decker 1996, S. 5.

[11] Vgl. Deiters, Jürgen: Verkehrswachstum und die Umweltbelastung des Verkehrs-Perspektiven für die Vermeidung und Verlegung Gütertransport, a. a. O., S. 15.

[12] Umweltbundesamt Umweltbundesamt v. 01.11.2019: Stickstoffdioxid-Belastung. In: https://www.umweltbundesamt.de/daten/luft/stickstoffdioxid-belastung#textpart-1. [Datum: 03.11.2019] 

[13] Europäische Kommission. Vertretung in Deutschland v. 15.02.2017: Luftverschmutzung durch Stickstoffdioxid: Kommission droht Deutschland mit Klage. In:

https://ec.europa.eu/germany/news/luftverschmutzung-durch-stickstoffdioxid-kommission-droht-deutschland-mit-klage_de. [Datum: 25.10.2018]

[14] Vgl. [Anonym]: Diesel-Abgase. Luftverschmutzung in deutschen Städten leicht zurückgegangen. In: Zeit Online v. 01.02.2018. In: https://www.zeit.de/wissen/umwelt/2018-02/diesel-abgase-luftverschmutzung-stickstoffdioxid-umweltbundesamt-muenchenDiesel-Abgase. [Datum: 25.10.2018]

[15] Doll, Nikolaus: Regierung plant kostenlosen Nahverkehr. Experten lachen. In: FAZ v. 13.02.2018. In: https://www.welt.de/wirtschaft/article173550351/OEPNV-Regierung-plant-kostenlosen-Nahverkehr-Experten-lachen.html. [Datum: 25.10.2018]

[16] [Anonym]: Luftverschmutzung. In: Wikipedia. In: https://de.wikipedia.org/wiki/Luftverschmutzung. [Datum: 25.10.2018]

[17] Holzapfel, Helmut: Verkehrsentwicklung und Verkehrspolitik aus wissenschaftlicher Sicht. In: Hrsg. v. Evangelische Akademie Baden: Mit Vollgas in die Sackgasse? Das Drama der Mobilität. Karlsruhe; Evangelische Akademie Baden 1992, S. 35.

[18] Rothengatter, Werner: Folgen für Umwelt und Verkehrssicherheit. In: Hrsg. v. Aberle, Gerd: Erstickt Europa im Verkehr? Probleme, Perspektiven, Konzepte: Beiträge zum Verkehrspolitischen Kongreß der Landesregierung von Baden-Württemberg am 5./6. Februar 1991 in Stuttgart. Baden-Württemberg: Staatsministerium 1991, S. 36.

[19] Dietmar, Scholich: Nutzungsanspruch Verkehr. In: Hrsg. v. Borchard, Klaus: Flächenhaushaltspolitik. Feststellungen und Empfehlungen für eine zukunftsfähige Raum- und Siedlungsentwicklung. Hannover: Akaddemie für Raumforschung und Landesplanung 1999, S. 65.

[20] Feldhaus, Stephan: Verantwortbare Wege in eine mobile Zukunft, a. a. O., S. 98.

[21] Kandler, Jakob: Grundzüge einer Gesamtverkehrsplanung unter dem Gesichtspunkt des Umweltschutzes. Berlin: Duncke und Humblot 1983, S. 24.

[22] Feldhaus, Stephan: Verantwortbare Wege in eine mobile Zukunft, a. a. O., S. 129.

[23] Deiters, Jürgen: Verkehrswachstum und die Umweltbelastung des Verkehrs-Perspektiven für die Vermeidung und Verlegung Gütertransport, a. a. O., S. 14.

[24] Feldhaus, Stephan: Verantwortbare Wege in eine mobile Zukunft, a. a. O., S. 12.

[25] Knoflacher, Hermann: Zur Harmonie von Stadt und Verkehr: Freiheit vom Zwang zum Autofahren. Wien, Köln u. Weima: Böhlau 1993, S. 92.

[26] Kokkelink, Günther u. Menke, Rudolf: Die Straße und ihre sozialgeschichtliche Entwicklung. In: Bauwelt. Berlin u. Frankfurt a. M. : Gütersloh: Bauverlag 1977, S. 354.

[27] Knoflacher, Hermann: Zur Harmonie von Stadt und Verkehr, a. a. O., S. 102.

[28] Holzapfel, Helmut: Verkehrsentwicklung und Verkehrspolitik aus wissenschaftlicher Sicht,

  1. a. O., S. 32.

[29] Klenke, Dietmar: Bundesdeutsche Verkehrspolitik und Umwelt. Von der Motorisierungseuphorie zur ökologischen Katerstimmung. In: Hrsg. v. Abelshauser, Werner: Umweltgeschichte. Umweltverträgliches Wirtschaften in historischer Perspektive. Göttingen: Vandenhoeck und Ruprecht 1994, S. 169.

[30] Plaßmann, Eberhard u. Waldeyer, Heinrich: Konzepte zur Versöhnung von Verkehr und Umwelt auf nationaler und internationaler Ebene, a. a. O., S. 10.

[31] Feldhaus, Stephan: Verantwortbare Wege in eine mobile Zukunft, a. a. O., S. 139.

[32] Ebenda, S. 98.

[33] Höpfner, Ulrich: Die Entwicklung der Luftbelastung durch den Verkehr. In: Hrsg. v. Barz, Wolfgang u. Dicke, Bernhard: Umwelt und Verkehr. Symposium am 19. und 20. Juni 1995 in Münster. Landsberg: Ecomed 1996, S. 1.

 

本稿は、『公共空間X』In: http://pubspace-x.net/pubspace/archives/7860 [Datum: 22.06.2020] へと転載されている。

 

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Tamura, Ichiro: Die negativen Auswirkungen des motorisierten individuellen Verkehrs

Tamura, Ichiro:

 

Die negativen Auswirkungen des motorisierten individuellen Verkehrs: Die Beschreibung der konkreten Eigenschaften der Schadstoff-Freisetzungen und Schadenswirkungen für die natürliche Umwelt und die menschliche Natur durch das verkehrliche Mobilitätsgeschehen.

 

In: Bericht der Pädagogischen Hochschule zu Hokkaido in Japan, Bd. 70. H. 2, Sapporo-city 2020, S. 13-22.

 

Zusammenfassung

Bis zum Wirtschaftswunder Anfang der 1960er Jahre, d.h., in der Übergangsperiode von der frühen in die späte Moderne, wurde der Anstieg der Verkehrsquantität gemeinhin als einer der notwendigen, aus dem Wirtschaftswachstum entstandenen Erfolge betrachtet, der einen gelungenen Beitrag zum ewigen Fortschritt des menschlichen Lebens leisten können würde. Erst mit Beginn der späten Moderne der 1970er Jahre zogen die negativen Auswirkungen des motorisierten individuellen Verkehrs auf die natürliche Umwelt die höchste Aufmerksamkeit der breiteren bürgerlichen Öffentlichkeit auf sich. Diese Umweltprobleme stellten den wichtigsten Bestandteil bei der kritischen Betrachtung des Mobilitätsverhaltens dar. In der späten Moderne vermehrt sich der motorisierte individuelle Verkehr, der zum größten Faktor der Umweltbelastung innerhalb einer Stadt geworden ist. Deswegen war es die nachdrückliche Betonung des Kriteriums der Umweltverträglichkeit im Verkehr, welche das Mobilitätsverhalten zum Gegenstand der philosophischen Auseinandersetzung machte.

Die kritische Verkehrsphilosophie hat sich in den letzten Jahrzehnten auf der Grundlage dieser Veränderungen des bürgerlichen Bewusstseins etabliert. Darüber hinaus bewirkte das in der Öffentlichkeit anwachsende bürgerliche Bewusstsein für die umfangreichen Umweltzerstörungen in einer Stadt durch den motorisierten individuellen Verkehr die Straßenbahnrenaissance der späten Moderne.

Dieser Beitrag versteht sich als Einleitung für die Beschreibung der konkreten Eigenschaften der Schadstoff-Freisetzungen und Schadenswirkungen für die natürliche Umwelt und die menschliche Natur durch das verkehrliche Mobilitätsgeschehen, wobei einer der philosophischen Gründe für das geschichtliche Wiederaufleben dieses Verkehrsmittels ins wissenschaftliche Licht gerückt werden soll.

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世の中の流れに悲歌慷慨しない――浮浪雲の達観と市民の心の救済

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(右クリックすると、画像が拡大されます)

ジョージ秋山『浮浪雲』第103巻、小学館、2014年、22頁。

 このマンガの時代背景は、幕末というより、江戸城無血開城がまさに実現しようというときである。日本近代史において近代革命が生じるときである。西郷隆盛、伊藤博文等、有名な豪傑が排出したときである。革命家、政治家だけではなく、庶民もまた生活が一変しようとした。まさに、百家争鳴の時代である。

 このときでも、浮浪雲は達観している。「世の中なるようになるもんですから」と、悲憤慷慨しない。自己が悲歌慷慨したところで、世の中が変わることはない。かつて、ベルリンの壁が崩壊し、後期近代が始まろうとしたとき、世界の人が慌ただしかった。私も、社会主義と共産主義という理念が崩壊する現場にいるという興奮に包まれていた。しかし、私が興奮しようとしまいと、後期近代という巨大な歴史の潮流に掉さすことはできない。この感情は、30年経過した現在では理解できる。況や、150年以上前の明治維新に感情移入することは、21世紀の日本人にはほとんどいない。

 庶民の多くは、つねに何かに悲憤をいだいている。会社員であれば、上司の横暴と無理解に対して、夜明けまで眠れない経験をしたことは多いであろう。そのような身近な煩悶は、むしろ世界総体の矛盾に対する煩悶よりも多い。人生に絶望して、華厳の滝に飛び込む勇気もないし、人生それ自体をそのように真剣に思考したこともない。

 もっとも、このような無理難題には、のらりくらいに対応することに限る。正面切って、その不当性を糾弾することもない。たいていの場合、上司は34年で転勤する。別の上司がその椅子に座ったとき、前の上司の馬鹿さ加減など忘れている。おそらく馬鹿が会社の出世街道を驀進するかぎり、馬鹿な上司ではなく、馬鹿が上司になる。馬鹿な上司に悶々とする必要はない。会社の組織形式を変更することなど、労働者にはできない。自己の任務を全うするだけである。この任務は、会社から与えられた任務だけではない。鳴かぬ鴉の声から与えられて使命も含まれている。それに従って邁進するだけである。なるようになる、と諦観すべきであろう、浮浪雲のように。

 この漫画を見た労働者は、その魂が癒されてるであろう。何度見ても、癒される。しかも、中村天風の著作に取り組むように、読者が考え込むこともない。笑いながら、しかも、宇宙の真理に気付く。いい漫画である。浮浪雲の連載を許可した小学館に感謝する。

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時間と共同性を共有するための紫煙――絞首刑前の三人による喫煙

時間と共同性を共有するための紫煙――絞首刑前の三人による喫煙

https://www.youtube.com/watch?v=X6p7eDaX7n8  [Datum: 19.05.2020]

 

 この映画は、ドイツ第三帝国において有名なレジスタント運動、白バラ運動の一側面を描いている。政治的に言えば、この運動は第三帝国の残忍性をプロパガンダするビラを撒いただけである。しかし、このビラはのちに連合国飛行機から、ミュンヘンに撒かれ、戦争終結にかなり影響を与えた、この運動そしてこの映画、原作に関してすでに多くの論者が描いており、筆者が屋上屋を架すこともないであろう。但し、この映画で表現された煙草に関しては、このレジスタント運動に対する敬意を表するために、少し言及してみよう。

その主人公、ミュンヘン大学生のショールが絞首刑される直前に、ある看守から煙草とマッチをこっそりもらい、一服するシーンがある。もちろん、彼女は絞首刑の前に喫煙できるとは考えていなかった。看守に「ありがとう」と短く感謝し、一服する。そして、このレジスタント運動において時間を共有した兄とその友人に、その煙草を渡す。三人がまさに、人生最後の煙草を共有しながら、生命の最後の時間を共有する。彼らは、共同性を確認するために、一本の煙草を喫する。

 ちなみに、絞首刑になる前に、調書を取る大学教授から一本の煙草を提供された。しかも、この教授から減刑の誘いを受けていた。もし、補助的役割しか果たしていなければ、減刑すると。そのように調書を書き換えることも可能であると。しかし、彼女はこの誘いを拒否していた。そして、彼から提供された煙草を彼ととも喫することを拒否した。たばこを飲むか、という問いに対して、「Gelegentlich しばし」と答え、煙草入れから提供された煙草に手を出すことをしなかった。まさに、彼女は、この審問官と喫煙時間を共有することを拒否した。

 対照的に、兄とその友人と一本の煙草を共有するとき、人生を共有していた。一本の煙草とともに、彼女は幸福であった。そして、一本の煙草とともに、短い生涯を終えた。断頭台と共に、紫煙も消えていった。しかし、彼女は、二人の人間と人生を共有し、煙草を共有した。このような美しい紫煙を未だかって見たこともないし、このように美味い煙草を喫することもないであろう。

 最後に、現在、禁煙運動がドイツだけではなく、本邦においても盛んである。第三帝国の主導者、ヒットラーも禁煙主義であった。禁煙運動はヒットラーの思想に追随し、ショールが共有した共同性を拒否しようとしている。もはや、他者と共同するという高揚感は、後期近代において消去されてしまったかもしれない。

 

追記

 人民法廷長官であったフライスラー(Roland Freisler)をアンドレ・ヘンニッケ(André Hennicke)が演じている。彼は、『ヒトラー 最期の12日間』ではモーンケを演じて、ベルリン攻防戦を指揮していた。ヒットラーに忠実なドイツ人を描かせれば、彼ほどの適任はないであろう。

 

 

 

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いしいひさいち近代論(1)「クニ」あるいは故郷意識の変遷――村落、藩、県、国家そして県への逆流――コロナヴィールス-19の感染に関する県民意識の復活

 

 

2020年0516

田村伊知朗

 

 

4198884  マンガ(1)

 

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 マンガ(2)

いしいひさいち近代論(1)――「クニ」あるいは故郷意識の変遷――村落、藩、県、国家そして県への逆流――コロナヴィールス-19の感染に関する県民意識の復活

 

2020年0516

田村伊知朗

 クニという言葉は、故郷を表している。江戸時代であれば、村落を表現していた。、どれほど拡大しようとも、明治維新前まで故郷という概念は、所属する藩という領域を越えることはなかった。大多数の小作農民にとって、隣の藩へと越境することは、御法度であったし、その必要もなかった。

 近代革命が始まろうとした江戸時代末期において、藩を超えた日本という意識が、近代革命を担った日本人、とりわけ下級武士階層において生じた。藩という領域を越えた日本というクニが意識され始めた。明治維新後、300余の藩は47都道府県に再編され、現在まで継続している。県民という意識は少なくとも、明治、大正、昭和初期まで継続した。薩長土肥という藩意識に基づく共同性は、その後も解体したわけではなかった。日本の宰相も、岸信介、佐藤栄作までその本籍は、山口県であった。軍隊が解体する1945年まで、長州閥、薩摩閥という故郷意識は日本陸軍において残存していた。

 しかし、近代革命はほぼ100年経過して、県民という意識はほぼ解体した。自分のクニを県と規定する世代が減少した。明治生まれ、大正生まれの世代が鬼籍に入り始め、近代革命の目標であった国民国家は実体としてだけではなく、個人の意識においても完成された。とりわけ、元号が昭和から平成に代わり、前世紀後半から後期近代が始まった。国際化が進展し、国境を越えた移動が一般化した。自分のクニと言えば、日本という世代が増大した。日本において居住する労働者の国籍が外国であることも、稀ではなくなった。まさに、御宅のクニは、カンボジアであった。マンガ(2

 さらに、ある論者によれば、自己の共同性を都道府県単位の地域的共同性として規定するよりも、内的意識によって規定する傾向が強化された。クニという概念が消滅した人々も増加した。ユダヤ人が居住している地域によって形成された共同性よりも、ユダヤ人という人間的意識によって形成された共同性によって自己を規定するように。

 いしいひさいちのこのマンガ(1)は、1988年に出版された。県民意識が残存していた最後の世代が、このマンガにおいて表現されている。しかし、それ以後、県民意識はほぼ解体されてしまったと思われていた。高校野球の県代表を応援するということも、昭和が去り、平成になってほぼその熱狂が日本全体を覆うこともなくなったかにみえた。まさに、令和の時代に入り、昭和は遠くなりにけり、という意識が出現したかの外観を呈していた。

 ところが、20203月、コロナヴィールス-19( Coronavirus SARS-CoV-2)による感染が、日本人の生活を一変させた。この感染症は、全国一律に拡大したのではなかった。地理的差異が顕著であった。東京都や大阪府のように巨大人口を擁する都道府県が、感染数を拡大した。また、2020516日現在、北海道も緊急事態宣言の重点地域の一つであった。もっとも、北海道は人口の少ない地方自治体と思われているが、その人口は500万人を擁している。四国の人口総数は、4県合わせても370万にすぎない。感染者数もその総数では多いように思われるが、総人口が多いので当然であろう。

 問題は、このような都道府県別の感染者数が公表されたことにより、県民意識が復活したことにある。いしいひさいちのマンガに描かれているような都道府県別の故郷意識が復活したことにある。徳島県では、徳島ナンバー以外の自家用車に対して、検問紛いの行為が平然と実施されている。内閣総理大臣よりも、都道府県知事が「おらが町」の感染者を減少させてくれるという意識が、国民の意識を規定するようになった。

 まさに、日本というクニ意識すら、希薄になった国際化時代において、100年以上前の県民意識が復活した。徳島県民意識に代表される故郷に感染者を入れない、さらに県外者を入れない。小さな故郷を清浄に保ちたい。何か別の思惑が日本だけではなく、西欧も含めた世界に蔓延しているのかもしれない。

 

 

 

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社会科学とマンガの架橋(1)――いしいひさいち官僚制論(1)

いしいひさいちの官僚制論

いしいひさいち官僚制(1)(2) (3)は、これまでの「いしいひさいちから学ぶ政治学」等のうち、その官僚制に関する記事を集大成した原稿である。漫画を入れずに、原稿用紙約70枚の分量がある。通常の論文1~2本分である。(3)は、官僚制論と対比される政治家論である。

本稿は、

田村伊知朗「社会科学とマンガの架橋()――いしいひさいち官僚制論」『人文論究(北海道教育大学函館人文学会)』第89号、2020年、9-28頁、 

として公表された。本文中の数字は、『人文論究』の頁数を表現している。

 一つの区切りがついたという感じである。論文としてではなく、書評という範疇であるが、それもまた結構である。書評としてはよくできた部類に入ると自画自賛している。少なくとも、ドイツ語の本を一冊書評するよりも、膨大な時間を消費した。いしいひさいちのマンガを見直していると、この官僚制論には論点として出ていない新しい視点も再構成できた。いしいひさいち農村論だけではなく、いしいひさいち官僚制論第2部も構想している。

 なお、(1)と(2)そして(3)に分割した理由は、このサイトにおいて写真等は10枚までという制限が、niftyによって設定されているからだ。連続して読解していただければ幸いである。

 ここから、印刷部分が始まる。

 

はじめに

 

いしいひさいちが、日本を代表する漫画家であり、第一級の知識人であることはほぼ異論がないであろう。彼は、1970年代から約半世紀間、ほぼ毎日、数編の4コマ漫画を世に送り出してきた。それだけではない。より本質的に言えば、彼が偉大であることの根拠は、現代日本あるいは後期近代の事象を4コマ漫画という世界において抽出していることにある。現代社会の一側面が、わずか1頁の4コマにおいて切り取られている。

このような栄光は、社会科学に従事している研究者にとって羨望の的である。おそらく、彼は、一瞬の閃きにおいて現代社会を抽出する。研究者の多くは、1年をかけて1本の論文を執筆する。いしいひさいちと同じ結論を述べるために、数年を要する場合もある。日々、外国語文献と格闘し、論文の準備をしなければならない。それだけの労力を払ったとしても、いしいひさいちほどの読者を獲得することはない。良くて、同じ領域の研究者数人から賞賛を受けるだけである。多くの場合、学会誌の数頁を埋めるだけで終わるであろう。いずれにしろ、研究論文が社会的影響力を行使することは、ほぼ無いであろう。

 ここで、数万あるいはそれ以上存在するかもしれない四コママンガから、数編のマンガが選択されている。そのどれもが、官僚制の本質の一側面を表現している。もちろん、彼のマンガは官僚制の一部分しか表象していないという批判が出てくるであろう。しかも、その一側面をデフォルメしているにすぎないという批判である。しかし、どのような高名な古典とみなされる官僚制論、たとえばヴェーバーの官僚制論であれ、その一面性から逃れることはできないであろう。[1] より一般化して言えば、どのような事象であれ、研究者によって把握されたかぎり、その特殊性を廃棄することはできない。この点は、別稿においてすでに考察している。[2] 

 さらに、官僚制に関するいしいひさいちの洞察は、本稿で取り上げた数編のマンガに収斂しているわけではない。彼の著作活動はより多面的な視野を持っている。官僚制に対する彼の考察を筆者の視点が矮小化していることは否定できない。忸怩たる思いにかられながらも、筆者がこの批判を甘受しなければならないであろう。

[1] Vgl. Max Weber: Wirtschaft und Gesellschaft. Tübingen 1922 (Besonders 1. Teil, Kap. III).

[2] 田村伊知朗「初期近代における世界把握の不可能性に関する政治思想史的考察――初期カール・シュミット(Karl Schmidt 1819-1864)の政治思想を中心にして」『北海道教育大学紀要(人文科学・社会科学編)』第五五巻第二号、二〇〇五年、七三―八〇頁参照。

 

9頁

 

1節 官僚制総論

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いしいひさいち『いしいひさいち選集』第37巻、双葉社、2003年、100頁。

 

 この漫画における面白さは、落城寸前になっても、官僚的な目的合理性が追求されていることにある。自己に与えられた領域、つまり有職故実に関する事柄が議論されている。落城になれば、そのような合理性はその基盤が崩壊するにもかかわらず、有職故実に固執している。落城という現実の前にほとんど無意味であるにもかかわらず、使者の接待方法に関する議論が重臣間において熱心に議論されている。

 この漫画によって揶揄されている第一の事柄は、前例主義である。前例主義とは、前例のないことをしない、という官僚に特有な意識である。前例を否定することは、前任者の瑕疵をあげつらうことになる。前任者の欠陥を是正することは、その顔に泥を塗ることにつながる。その前任者は現在の上司であることが多い。上司の意向に反して仕事をすることが嫌われる。有職故実に関する認識が不必要であるわけでない。彼らにその仕事が割り振られた以上、その仕事を貫徹しなければならない。しかし、前例をとりまいていた過去の環境世界は、もはや変化してしまっている。現時点での環境世界は、過去の環境世界と隔絶している場合も多いであろう。前例が妥当するか否か、現時点での環境世界において再検討されねばならない。にもかかわらず、前例に固執することは、愚かなことであろう。

  この漫画によって揶揄されている第二の事柄は、先送り主義である。先送り主義とは、決定を先送りすることであり、キャリア官僚とみなされる高級公務員に特有な病気である。彼らは、34年の間隔で多くの部署を渡り歩く。したがって、その任期の間にできる前例によって規定された日常業務にしか従事しない。重要な問題を次の任にあたる後輩に委ねる。その後輩もまた、次々に次の任期のキャリア官僚に大きな問題を委ねる。

 大きな問題とは、その解決のためにかなりのエネルギーを必要とする課題である。たとえば、組織内の問題であっても、多くの他の部署との折衝を要する仕事である。そのような大事な仕事よりも、より処理しやすい日常的な仕事に没頭する。しかし、いつの日かその仕事の期限がやってくる。その時には、手遅れになっている。ここでは有職故実に拘ることによって、落城における政治的決定という問題は先送りされている。

10頁

 この漫画によって揶揄されている第三の事柄は、官僚組織における出世の現実態である。官僚組織は位階制組織である。権能が上昇すればするほど、その権能担当者の数は減少する。ここでは、重臣がその位階制の上位者である。問題は、このような重臣が決定権を保持していることにある。有職故実に精通した官僚が、この位階制の上位者になった。この問題こそが問われねばならない。彼らは、戦闘の場において業績を積んだわけではないはずだ。有職故実に精通することによって、位階制の階段を駆け上った。このような人間が組織の上部において席を占めていることこそが、本漫画における最大の問題点である。彼らは政治的危機に対応できないし、政治家のような世界全体像を持たない。全体的視点を放棄した近視眼的人間しか、位階制的秩序を上昇できない。

現代の官僚組織においても同様である。誤植のない文章が書ける人間、退屈な会議が好きな人間が重宝される。誤植の指摘を生き甲斐にしている人間が局長、課長等の要職に就く。漢字を読み間違えたら、減点の対象である。つまらない人間が上に立つほど、組織にとって不幸はない。現代社会における有職故実は、規則であり、前例であり、横並びの知識である。この観点からすれば、現代社会の役人と、落城寸前の御前会議における役人の間には、差異はない。

枝葉末節な事柄が、会議において熱心に議論される。重要な問題は議論されない。むしろ、漢字の変換ミスには過剰に反応する。本当の馬鹿は、自分が書いた文章を逐一読み上げる。日本語で書かれた文章をなぜ読み上げる必要があるのか。時間を浪費し、批判的議論を封じるためである。彼の読み上げ作業が終了した後、会議参加者の多くは、その文章を批判する気力を喪失している。

このような馬鹿が多く存在する会社あるいは組織は、つぶれてよいのであろうか。ただ、このような会議に参加する構成員もすべてが馬鹿ではない。良識ある構成員は落城を阻止するために、獅子奮迅の活躍をしなければならないのであろうか。そして他の馬鹿構成員あるいは上司から次のように言われるに違いない。勝手にやって、でも会議では承認されていないと。

 組織においてその組織の維持、管理が自己目的化する。なんのための組織であるかが忘却され、管理に強い人間が出世してゆく。営利企業であっても、利益を上げる営業畑の人間ではなく、総務畑の人間が出世してゆく。同僚と仲良く喧嘩せず、という人間が頭角を現す。警察機構においても、犯人を捕まえることに執着する刑事ではなく、法律と規則に通じた人間が出世してゆく。何時までも犯人逮捕のために靴底を減らしている現場の刑事よりも、昇任試験に長けた法学部出身者が上司になる。現場の人間よりも、試験勉強に苦痛を感じない人間が、組織において重宝される。現代社会における有職故実に相当する法律、条令、事務次官通達に精通した官僚が、出世街道を驀進する。

この事例として、2011325日に開催された第19回原子力安全委員会が、いしいひさいちのこの4コマ漫画にまさに適合している。[1] 2011325日と言えば、314日における東京電力福島第一原子力発電所の第3号機の水素爆発を受けて、国家が危機的状況にあったときである。第2号機、第4号機も同様な危機的状況にあった。この東京電力福島第一原子力発電所の非常事態を受けて開催された原子力安全委員会は、たった42分程度で閉会している。しかも、PDFファイル12頁にわたる議事録の半分以上は、事務局によって作成された資料の読み上げに終わっている。その後の委員による議論の中心は、「『葉』になってございますけれども、これは平仮名の『は』でございます」、あるいは「平仮名の『に』を入れてください」(10頁)という文書の校正にある。

 

 

[1]「第19回原子力安全委員会議事録」10頁。In: http://www.nsc.go.jp/anzen/soki/soki2011/genan_so19.pdf. [Datum: 26.09.2011]

 

11頁 

日本的会議の特質は、どうでもよいことに反応し、大事なことを議論しない点にある。会議は、会議に参加する構成員にとって重要なことを討論する舞台である。しかし、往々にして、些細なことに過剰反応して多くの時間を費やす。もちろん、漢字の使用法、あるいは句読点の一字によって、法解釈そのものが180度変わることは承知している。しかし、変換ミスが明らかである場合でさえも、糾弾の対象になる。

 原子力安全委員会委員としての専門知識は要求されていない。基本的に委員長が事務局と相談のうえ、会議資料を作成する。その他の委員はその会議資料に基づいて議論する。彼らは、会議資料に掲載されていないことに関して知る由もない。ある事柄を会議資料に掲載するか否かは、委員長と事務局の専権事項である。

この傾向は、日本の官僚機構における会議の特色である。異議なし、と唱和するか、語句の間違いを指摘するだけである。朝鮮民主主義共和国においては、前者の選択肢しか存在しない。自称社会主義国家の会議において異議を申し立てることは、収容所送りの危険を甘受しなければならない。自称自由主義国家においては、誤字脱字の修正だけが許されている。アジアにおける二つの国家の差異は、五十歩百歩でしかない。

誤植の訂正であれば、村役場の庶務課長のほうが、より適切な指示を出せるであろう。このような議論しかできない専門委員は、村役場の庶務課長に転職したほうがよいであろう。もっとも、庶務課長ほどの文書校正能力を有しているとは思えず、庶務課主任に降格されるであろう。

このような繁文縟礼に通じた専門家しか、政府によって認定された専門委員になれない。専門知識よりも管理職的能力に通じた専門家のみが大学教授になり、そして政府の審議会委員に抜擢される。そこで求められる能力は、事務局と協調する能力と文書作成能力でしかない。

 専門委員には、事務局によって作成された資料を根源的に批判し、積極的な提言を求められているはずである。事務局によって提出された文書を規定しているパラダイムを指摘し、より現実的な選択肢を提起しなければならない。あるいは文書作成者によって意図的に看過されている事象を指摘しなければならない。にもかかわらず、ここでの議論は、専門知識を要求されない事務局職員以下の水準にある。

逆に言えば、このような専門家は、官僚機構にとって統御し易い人間である。自分たちを批判しない人間のみが、専門家として認知される。学術的専門家と官僚機構の癒着が生じる。

彼らはこれまでいつもこのような議論形式に慣れてきたはずである。このような議論しかできない。それゆえ、彼らは専門家として認知された。国家の危機に際しても、このようにしか議論できない。いしいひさいちが描いた落城という危機が、現代日本にもあった。しかし、官僚組織は、日本列島崩壊という危機的状況においても前例主義という旧態依然の対応しかできなかった。

 

12頁

 

2節 前例主義の展開

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いしいひさいち『いしいひさいち選集』第11巻、双葉社、1986年、132頁。

 

この漫画において、「ある建物が40年経過したから、危険である」という命題と、「ある建物が40年間安全であったから、今後も安全である」という命題が、併記されている。この二つの論理が交差することはない。しかし、後者の論理の破綻は明らかである。

過去40年間において、様々な部品が劣化し、機能不全に陥っているかもしれない。それに対して、40年間安全であったがゆえに、安全であるという命題が対置される。この命題は妥当性を持っているのであろうか。官僚は前例主義を規範化している。40年間、安全であれば、今後も安全であると。しかし、この40年間に主体は、明らかに老化している。客観的条件も変化している。にもかかわらず、前例主義を主張する官僚は、馬鹿でしかない。

このような命題は、常識的にはありえない。事実、いしいひさいちもまた、この命題に反論していない。しかし、この命題が根源的に錯誤していることは、明らかである。築40年のアパートがそろそろ限界に達していることは、常識的判断にしたがえば明らかである。にもかかわらず、アパートではなく原子力発電施設が40年間、安全であれば、今後も安全である、とある論者が主張している。

ちなみに、40年という数字は、原子力発電施設の耐用年数にあてはまる。偶然かもしれないが、四半世紀以後の東京電力株式会社福島第一原子力発電所の耐用年数を示している。いしいひさいちの漫画家としての評価は、天才と言うしかない。天才であるがゆえに、彼が当初意図していない結果を暗示している。

より一般化して言えば、前例にしたがうということは、環境世界の変化を考慮しない。過去の環境世界は、現在の環境世界と異なっている。この変化を考慮せずに、過去の経験知が絶対化される。

 

3節 先送り主義の展開

 

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いしいひさいち『問題外論』第11巻、チャンネルゼロ、1997年、45頁。

 

1節の官僚制総論の補論として、現代政治における先送り主義がここにおいて展開されている。橋本龍太郎総理と主要各省の事務次官の話し合いの場面にも出てくる。橋本龍太郎総理は、大臣に信頼を置いていない。大臣は政治家であり、専門知をもっていないからである。

彼は、事務次官に代表される高級官僚を信頼している。とりわけ、外務省、法務省、自治省という主要省庁の官僚を信頼している。官僚の専門知が、大臣の専門知よりも優れている、と彼はみなしている。

13頁 

 しかし、彼もまた専門知を持たない政治家にすぎない。その判断力が各省の大臣と同等であるということを見落としている。官僚の知は、官僚の独自の圏域において形成されてきた。先送り主義も彼らの習性である。政治家は専門知を持たないが、総体知あるいは世界観的知を持っているはずである。

 

4節 減点主義の展開

 

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いしいひさいち『いしいひさいち選集』第13巻、双葉社、1986年、118頁。

 

 第1節の官僚制総論の補論として、官僚個人に対する評価基準を問題にしてみよう。官僚の評価基準は、加点主義ではなく、減点主義である。国民にとってどれほど良い政策を実施したとしても、それは評価されない。むしろ、新しい仕事をすれば、周囲と無用な摩擦が生じる。同僚そして他の部局に新しい仕事と任務を与えるからだ。それでなくとも、高級官僚の予備軍は、必要以上の仕事をそもそも抱えている。それに加えて、ある官僚が新しい仕事を考案すれば、より仕事量が増大する。勤務時間が増えても、労働賃金が増えることはない。残業代金の上限は、年度計画において前もって規定されている。上限を超えた残業代金は支払われない。

 この新規の仕事が成功すれば、まだよい。失敗した場合には、それ見たことと嘲笑される。できるかぎり、前例にしたがって、失敗がないことを心がける。

 しかし、自分が前例にしたがって仕事をしたとしても、災難は周囲から生じる。部下が不祥事を起こせば、その管理責任を取らされる。部下が物品を横流しすれば、管理責任を問われる。勤務時間内の不祥事であれば、直接的責任がなくとも、その失敗の全責任を取らされる。

 校長は、学校内の管理責任を最終的に負わねばならない。部下である教諭がいじめに対して適切な処置をしなかった。その結果、いじめを受けた生徒が自殺した。昨今、よく新聞の社会面に、いじめによる自殺が報道されている。

 校長個人はこの不祥事により、懲戒処分が予定されている。減給処分等が想定されるであろう。減給処分は月間給与が減少するだけではない。年金、退職金にも反映される。それだけではない。給与が良くて、仕事が楽な天下り先から排除される。特に、小学校教諭であれば、地元の大学教育学部卒業生である場合が多い。同窓会組織からも、懲戒処分対象者として、白眼視される。

14頁

5節 減点主義に関する一般的補論

 

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いしいひさいち『いしいひさいち選集』第22巻、双葉社、1997年、55頁。

 

  ここで、官僚機構の評価基準として減点主義をより普遍化してみよう。いしいひさいちのこの漫画は、闘将として有名であった中日ドラゴンズ監督の選手管理の方法を揶揄している。彼は鉄拳制裁つまり暴力によって選手管理を実施した。いわゆる熱血監督として有名であった。彼の鉄拳制裁の思想は、監督と選手における命令=被命令関係を前提にしている。もちろん、監督がこの位階制において上位の権能者である。

ここでは、暴力ではなく、減点主義つまり罰金制度によって選手を管理しようした。彼の管理政策に対抗するために、選手は積極的行為を断念している。失策を恐れて球を追うことをしない。多くの失策はファインプレーと紙一重である。通常であれば、ヒットになる打球を追うことによって、ファインプレーが生じることもあれば、失策になることもある。

たとえば、遊撃手の宇野選手は、遊撃手としての仕事をしない。宇野選手は仕事を回避することによって、その評価が高まるという矛盾した結果になる。少なくとも、罰金制度の対象者にならない。

 官僚機構もこの評価方法の弊害から免れていない。前例のない積極的仕事を企図すれば、成功することもあれば、失敗することもある。したがって、多くの官僚機構構成員は、前例主義にしたがって行為するであろう。前例を踏襲することによって、減点の対象になることはない。

 

6節 誤植の訂正――日本語の意味の転倒

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いしいひさいち『バイトくん』第5巻、双葉社、2006年、68頁。

 

 先ほど、誤植の訂正がほとんど無意味な仕事であるかのように論じてきた。しかし、変換ミス、あるいは句読点の位置が少しずれるだけで、日本語の意味が変わる場合もある。その事例として、いしいひさいちは次のような事例を挙げている。「わ~、すごいマンション」と「わ~すごい、マンション」という二つの用語の発音記号は同じである。両者とも「Wa, Sugoi, Mansion」であり、句読点の位置が異なるだけである。しかし、前者は、すごいマンションと普通のマンションの存在を前提にしている。「すごい」という形容詞が、比較級、最上級を持っている。

 

15頁

 対照的に、マンションの存在自体が素晴らしいことを、後者は描いている。この「すごい」という形容詞は、状態記述形容詞であり、すべてのマンションは素晴らし存在である。ここでは、比較級、最上級はありえない。すべてのマンションが素晴らしいという文が、すごいマンション

 このように、句読点の位置を変えるだけで、文意も変わる場合もある。しかし、それはまれである。現在の官僚機構における会議で指摘される誤植の修正によって、文意が変わる場合だけ、誤植は修正されるべきであろう。それ以外の誤植の修正は、専門的会議では無意味であろう

 

 

 

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