現実的世界の認識と人間の妄想 『ヒトラー~最期の12日間』死と犬死への序曲 完結編
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(この記事は、これまでの本映画に関する5本のブログを纏めたものであり、この映画に関する批評の最終稿になる)。
また、本記事は、2005年10月13日の初出であるが、2022年8月26日に改稿した。
『ヒトラー ~最期の12日間~』死と犬死への序曲
戦争映画は数々あるが、戦争の本質の一端を示した映画は少ない。おそらく『ヒトラー ~最期の12日間~』は、その数少ない映画の一つであろう。この映画は戦争映画を超えて人間の普遍的な問題と関連している。たんなる戦争映画という範疇を超えて、一般的人間の感情に訴えている。そもそも、ある映画は、戦争映画、ピンク映画、西部劇、時代劇、任侠映画等という特殊な範疇に分類されている。しかし、その映画がこの特殊な範疇を超えて、普遍的人間の問題と関わるかぎり、その範疇を超えて映画史に刻印される。
この映画が取り扱った本質的主題はかなりの数に上る。それらの複数の主題が競合することによって、戦争映画という範疇を超えてゆく。これは、人間の責任の取り方という普遍的主題と関連している。ある種の理念に殉じることは何かという問題と関連しているからである。自らが構想し、実現しようとした国家社会主義という理念がその崩壊に直面したとき、ヒトラー、ゲッベルス等のナチス高官は、自らの命を絶った。もちろん、ヒムラー、ゲーリングのように、逃亡して、外交交渉においてその活路を開くという手段も残されていた。また、責任など取りようもなく、死ぬ市民も多数あった。
この映画に対する批評として数多く取り上げられたことは、ベルリン陥落直前の総統府における地下要塞に焦点を絞っている点ことである。地下室において、ヒトラーを中心とするナチス高官たちの人間模様が描かれている。ヒトラーは将軍たちとベルリン攻防戦のために絶望的状況のなかで最後の戦略を練る。ただし、軍事的手段は限られ、妄想的戦略を練るか、将軍たちを怒鳴り散らすだけである。また、そこでは、政治的人間としてのヒトラーだけではなく、エヴァ・ブラウンを中心とする秘書たちとの私的生活が描かれている。そこでは、彼は菜食主義者であり、愛犬を大事にしている一人の老人として描かれている。その点において、限られた空間に焦点があてられた著名なドイツ映画、『U-BOOT』(潜水艦)を想起させる。
この点は、一面では当たっているが、他面において正確ではない。この映画の美しさは、このベルリンにおける地下要塞と、戦争末期のベルリン市民生活が対照をなしていることにその本質を持っている。後者において、戦争の悲惨さが描かれている。そこでは、シェンク教授(軍医)が中心となり、市民の戦争時における日常(麻酔なしでの手足の切断という、医薬品の無い状況での医療行為)が描かれている。この映画の主人公の一人でいってよい。
前者、つまり総統府においては、日常生活に必要なもの、電気、水道等は完備されている。また、嗜好品、酒、煙草、菓子は充分供給されており、その配給をめぐる人間の悲惨があるわけではない。映画のなかでは、将軍、参謀達は、しばしば泥酔しており、秘書は、煙草を喫している。しかし、彼らは死を予感しており、その準備のために酒を飲み、煙草を喫している。自殺する参謀が、その直前に煙草を喫して、吸殻を絨毯に投げつけ、足で踏み潰すシーンは象徴的である。総統府には、人間が生きてゆくための物質的悲惨さはない。青酸カリも潤沢に用意されている。人間は物質的悲惨がないかぎり、観念に殉じることができる。
この限られた空間においてベルリン陥落という状況下にありながら、ヒトラーも含めた高官たちが、ありもしない「第9軍」、あるいはシュタイナー軍団がベルリンを解放してくれるという幻想に浸っている。この軍団は地図の上でしか存在していない。現実態においいてこのような軍団は、壊滅している。少なくとも、常識的に考えれば、ベルリン市民が水道、電気等がない状況下において、そのようなことはありえない。ベルリンが空爆を受けている状況下において、民需工場だけではなく、軍需工場もまた稼働していない。
にもかかわらず、そのような自己にとってのみ、有利な情報を選択し、都合の悪い情報をないものと考えることはよくあることである。ほとんど、ありえない状況を仮構し、そのなかで夢想することは、人間にとって幸福である。しかし、いつかこの幸福な状況は現実に直面することになる。ヒトラーのこの仮定を、幻想、妄想として嘲笑することは、簡単である。しかし、我々もまた、この嘲笑される状況下にあるのかもしれないからである。
しかし、この幻想も長くは続かない。地下壕もまた空爆される。ヒトラーを含めたナチ高官がその理念に殉じることになる、とりわけ、ゲッベルス宣伝相の家族は、夫人だけではなく、その幼児までも、その理念に殉じるということを強制した。もちろん、幼児にこの強制に対する反抗手段は残されていなかったが。それを狂気とみなすことは、簡単である。しかし、何か人間の美しさを表現していると言えなくもない。少なくとも、映画においてヒトラーの死よりも、涙を誘ったのは事実である。
他方、ベルリン市民生活では、人間の最低限度の生活(水、医薬品等)は保障されておらず、人間生活の悲惨さが充満している。ヒットラーやその周囲の高官たちの死がそれなりに必然性を持って描かれていることと対照的に、多くの市民、下級兵士、市民防衛隊員は、あっけなく死んでゆくことである。何の必然性もなく、その死への心の準備もなく、死んでゆくことである。たとえば、水を汲むために戸外に出た瞬間、爆弾にあたって死ぬように。
もし、戦争の本質が、このような一般市民の突然死であるとするならば、彼らの死は、犬死であろうか。ナチス高官の死と、このような市民の死は等価であろうか。この二つに類型化された死の諸相から、人間の死ということを考える契機になろう。
(このブログは、これまでの本映画に関する5本のブログを纏めたものである)。