禁煙思想の強制:倫理の崩壊

多くの公共機関において禁煙という思想が強制されている。この事態を倫理あるいは倫理学から考えてみたい。禁煙という思想を持つことは、個人の思想信条の自由として承認されている。それは、禁酒あるいは禁性交を特定の個人が生活信条とすることは、社会的に承認されているのと同様である。その思想自体をここで批判しようとするのではない。

 しかし、問題はその個人的思想を他者に強制して恥じない倫理性の欠如である。自らの生活信条を他者に強制して恥じない他者性の欠如である。どのように優れた生活信条であれ、それを他者に強制することは、内面の自由を侵害することになる。近代国家はどのような思想であれ、それを他者に強制することを禁じている。もちろん、日本国家も近代国家の範疇に入ることは当然であり、憲法等でこのことは明記されている。このような事態に対して、多くの倫理学者がなぜ沈黙を守っているのか。不思議である。

また、煙草そのものが、財務大臣を大株主とする日本たばこ産業株式会社によって販売されている商品である。その商品を買うことを規制することは、どのような法律に基づいて禁止されているのであろうか。言わば、政府によって販売されている商品に対する不買運動は、どのような名分で実施されるのであろうか。石油排気ガスを他者に吸引させながら、喫煙による悪を弾劾する思想的根拠はどこにあるのであろうか。

今日の健康問題、ひいては環境問題にとって重要なことは、二酸化炭素の排出量に対する抑制である。喫煙によってオゾン層が破壊されるのであろうか。もちろん、喫煙によって二酸化炭素も排出される。しかし、自家用車の使用による二酸化炭素排出量と比べれば、微々たるものであろう。禁煙という思想は、近代の近視眼的一元的思考の最たるものである。

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共生ーー喫煙者と非喫煙者

少数者の権利は多数者によって侵害されてはならない。社会を多数派の思考様式によって一元化してはならない。「清潔」な社会は、人間抑圧的である。しかし、近代社会はある原理によって社会を一元化しようとする。学問もまたそうである。市場原理によって社会を一元化しようする。共生という概念は知的障害者と健常者との共生として195060年代北欧で広まり、米国を経由して日本に輸入された。しかし、現実において共生はほとんど不可能になりつつある。嫌煙権運動は喫煙者と非喫煙者との共生をなぜ指向しないのであろうか。

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大学における敷地内全面禁煙という馬鹿――小さな悪を攻撃し、大きな悪を導き入れる

20140811 大学における敷地内全面禁煙という馬鹿――小さな悪を攻撃し、大きな悪を導き入れる

 

 近年、学校及び大学において敷地内全面禁煙という愚行が流行している。馬鹿な小市民が喜んでいる様が容易に想像される。タバコは健康に悪いというお題目が唱えられている。このようなお題目を唱えているうちは、可愛かった。UFOは存在するというお題目をゼミナールで真剣な顔をして主張している学生と同じだからだ。その主張を完全に否定することはできない。地球外生命の存在と同様に、宇宙全体を思惟することは、不可能であるからだ。

 彼らがどのような信仰を保持しようとかまわない。大学内のゼミナールでは別の事柄を議論の対象にすべきであると主張すればよい。彼らが、UFOや地球外生命の存在を信仰しようと、大学教員には無関係であるからだ。

 しかし、煙草は健康に悪いという信仰を小市民が信仰することは、大学教員にとって問題ない。煙草は健康に悪いという命題と、地球外生命は存在するという命題は、同じだからだ。悪いと言えば、悪い。ただし、セシウムよりも健康被害は少ないであろう。基準値内のセシウム――食品における99ベクレル/キロのセシウムは、食べて安全であろう。むしろ、食べて応援というスローガンによって政府によって推奨されている。地球外生命の存在を主張する若い学生は、その信仰を他のすべての学生に強制することはない。その点で、禁煙論者よりも優れている。

 しかし、禁煙論者は喫煙者にも同じ思想を保持するよう強制する。ナチスでさえ、躊躇した禁煙の強制を平気で実施する。馬鹿教員が一部の大学・学校に存在する証明である。私は馬鹿を排除しようとしない。最高学部である大学でさえ、馬鹿は存在する。大学はそれぞれの小さな専門領域に秀でた者の集団である。大学教員は馬鹿でもなれる。専門的知識と教養は、何の関係もない。むしろ、発達障害を疑われるような大学教授が存在する。発達障害者の一部は、小さいことにこだわる。その小さいことが、剰余価値説の効用という問題であれば、この発達障害者は偉大な学者として尊敬されることもありうる。この命題を生涯の主題にすれば、少なくとも論文を多数執筆することもできる。

 ところが、馬鹿禁煙論者は自分で研究することもなく、敷地内全面禁煙という愚行を大学内で実施する。大学行政の責任者、とりわけ保健関係教員がその中心的絵図を描く。本人の信仰を平気で他者に強制する。

もちろん、煙草の健康における善を主張しているのではない。しかし、煙草は健康という一元的価値尺度において図られるべきではない。健康に良いことを実施することが、他の害悪を伸張することもある。健康であることと、悪一般とはいかなる係わりもない。健康な精神を維持するために、煙草を必要とする人間も存在する。尺度の一元化こそが、生き難い生活を強制する。

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地方都市の破壊ーー高速道路無料化と禁煙思想

 都市内交通としての路面電車の役割が増大しています。しかし、現在の日本は、都市間交通としての高規格道路、高速道路の建設が加速しています。さらに、高速道路無料化という馬鹿げた政策が、景気浮揚対策として上っています。都市内の過疎化を進展させ、農地を破壊し、郊外の商業施設を活性化させようとしています。

 旧市街を破壊し、郊外において全国資本の商業施設を建設して、その利益を東京、大阪等の大都市へと還流させています。地方都市労働者は、所謂「下流階層」としてのみ生きることを許されているように思われます。年収、300万円程度の労働者が増大しています。

 高速道路無料化は、地方都市を中心にして進展します。地方の公共交通機関を衰退させるためです。この国の政策は、この点において自民党政権、民主党政権を問わず、一貫しています。

 また、タスポの導入によって、地方における個人経営の煙草販売店の多くが廃業に追い込まれました。これも、青少年の喫煙を阻止するという美名のもとで、地方都市における個人経営の商店を破壊する試みの一環と考えてよいでしょう。

 地方破壊は、健康増進、青少年の健全育成、景気浮揚という美名のもとで遂行されます。「小さきものの衰退」をこれらの美名が推進します。

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禁煙地帯における喫煙所ーー公共施設における喫煙場所の設置

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 全面禁煙が流行している。ドイツの空港、駅も全面禁煙をうたっている。しかし、喫煙所もある。この写真は、ドイツの玄関口、フランクフルト・アム・マインにあるドイツ鉄道「フランクフルト空港駅」である。例外的な駅ではない。喫煙所はどのホームにもある。喫煙所がなければ、かえって駅は汚れる。喫煙所があるから、確かに、吸い殻は汚い。汚いものは、集中的に管理される。人間は清潔すきである。逆に言えば、汚物を体内に蓄積している。この汚物、たとえば大便を家の中、街の中に垂れ流さない。集中化させる。つまり、便所に集める。

 全面禁煙領域において、喫煙所があるのは当然である。煙草を吸うという幸福追求権が実現される場所が必要である。もちろん、吸い殻は汚い。しかし、灰皿を設置するば、問題ない。

 全面禁煙を標榜している公共施設においても、灰皿を設置すべきだ。喫煙場所のない空間は、人間の住む空間ではない。少なくとも、ドイツ、そして西欧の方が、日本よりも人間的である。人間学の水準が高いのであろう。学問の程度が低い人間が、清潔ファシズムを生む。


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貧乏人は煙草を吸うな、俺たち政治家、高級官僚は、年収1,000万円以上あるので、一箱1,000円でも大丈夫――年収600万円以下の人間にとって過酷な煙草の値上げ

20110926 貧乏人は煙草を吸うな、俺たち政治家、高級官僚は、年収1,000万円以上あるので、一箱1,000円でも大丈夫――年収600万円以下の人間にとって過酷な煙草の値上げ

 煙草が値上げされるという。一説には、一箱700円、1000円になるかもしれない。現在では、一箱400-500円前後である。一日一箱として、月に12,00015,000円前後である。年収360万円未満の労働者の場合、月の小遣いは3-5万円前後であるから、相当な支出割合である。煙草が1,000円前後に値上げになれば、月に3万円前後の支出になる。昼食代を含めて、小遣い5万円前後の労働者にとって、おそらく「ゴールデンバット」、「しんせい」以外の煙草は吸えなくなるであろう。最も多くの日本人が喫煙している「セブンスター」、「マイルドセブン」等は高級たばこにならざるを得ない。

 他方、高級官僚つまり本省の課長級以上の年収は1,200万円前後と言われている。局長ともなれば、1,500万円とも言われている。彼らの年収を月当たりに換算すれば、100万円前後以上である。月収100万円あれば、数万円の支出増なぞ問題外である。そして国会議員は高級官僚以上に優遇されている。また、副収入もゼロではない。一箱1,000円であっても、彼らにとって、100万円以上の月収からすれば、2万円の支出増加など問題ではない。新聞記者は、煙草の値上げを主張している大臣等の年収をきちんと書くべきである。また、安易な煙草税増税を主張している、煙草嫌いの文化人の年収をきちんと紙面に反映させるべきである。

 煙草税増税を決定することに関与する国会議員、高級官僚は、この月収100万円以上の人間ばかりである。煙草税増税を主張する人は、国民のささやかな寛ぎとそれを支える小遣い5万円という意味を理解できない。

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喫煙率の減少と肺がんの増加――煙草をやめる人が増えると、肺がんが増える

20110925 喫煙率の減少と肺がんの増加――煙草をやめる人が増えると、肺がんが増える。

1965年、今から約50年前における男性喫煙率は、約80%であった。2010年には、約40%になっている。つまり、喫煙者の数は約半分になっている。[1]

喫煙と肺がんの因果関係が問題になっている。この半世紀間において喫煙率は半減しているのであるから、肺がんで死亡する数も半減しているはずである。少なくとも、上昇するはずもない。

しかし、肺がんの死亡率は約7倍になっている。1万人当たり500人から4,700人に上昇している。[2]少なく見積もっても、約8倍前後に上昇している。ある変数(ここでは、喫煙率)と他の別の変数(ここでは、肺がん死亡率)に因果関係はあるのか。一方が半減して、他方が8倍になっているのであれば、反比例の関係にあると考察するのが適当ではないのか。少なくとも、喫煙率の減少は、肺がん死亡率の上昇をもたらしている。煙草を吸う人が少なくなればなるほど、肺がんで死ぬ人が増えている。

もちろん、統計的な調査には様々前提があり、一概には言えないこともある。この二つの変数、つまり喫煙率と肺がん死亡率は、全く関係のないものかもしれないからだ。むしろ、このほうが正しい可能性が高い。煙草と肺がんという無関係なものに依拠している。

そして、禁煙オタクの小宮山大臣が主張するような煙草税増税など、オタクの戯言として放置すべきあろう。無関係なものかもしれない二つの変数を関係ありとして捏造して、彼女は権力を保持し、国民を弾圧することを主張している。国民弾圧を主張している権力者を戴く国民こそ悲劇である。

(本稿は武田邦彦氏の言説に触発されたものであるが、同一ではない)。http://takedanet.com/2011/09/post_26f1.html


[2]平成19 厚生労働省人口動態統計月報年計(概数)http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/geppo/nengai07/kekka3.html

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貧乏人は煙草を吸うなーーー煙草増税推進者の馬鹿

 現在、煙草に対する課税強化が叫ばれている。もちろん、自民党の良識派がそれを阻止したが、民主党政権ではその良識も怪しくなりそうである。かつて池田首相は、貧乏人は米を食うな、麦を食べろと言ったそうである。その時の良識あるマス・メディアは、池田首相を弾劾したはずである。しかし、今日のマス・メディアは煙草増税に対して概ね好意的である。この数十年間にマス・メディアが変質したことは、ここにも現われている。

 もし、煙草が500円であろうと、1,000円であろうと、年収2、000万円を超えている富裕層には、問題は全くない。現在議論されている、定額給付金を受領しない「矜持」を保持できる階層である。彼らは、1日、1箱吸うとして、1日1、000円、月に均すと30、000円程の問題は、ほとんど意に介さない。煙草が1日、1、000円で困るのは、年収200万円以下の階層である。彼らにとって、そもそも1日の昼食代を含めた小遣いが1、000円程度、あるいはそれ以下であろうと推定される。彼にとって、煙草1日、1、000円というのは、煙草を吸うなというに等しい。日当80,000円の人間は、日当8,000円弱の人間の営みにはほとんど関心がないかのようである。

 しかも、煙草増税議論の政策過程には、年収200万円の人間はそもそも参加できない。審議会委員の年収は、少なく見積もっても、2、000万円以上の人間が多数を占めるはずである。大病院の管理職等の有識者、マス・メディアの論説委員、政治家、厚生労働省の局長級の委員たちの平均年収は、軽く2、000万を超えている。彼らは、現場の派遣労働者が休憩時間に煙草を吸うことすら、金銭面から禁止しようとする。派遣労働者にとって、一日、1、000円の煙草代は決して安くないはずである。労働者のわずかな楽しみすら略奪することに躊躇ない政治家が多い。彼れらは、口では派遣労働者が「可哀そう」と言っているが、その実態にはほとんど関心はないのであろう。

 煙草増税を拒否した自民党の良識ある政治家がまだ存在することにおいて、日本国家の健全性をすこし評価したい。

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異邦人ーー煙草による自己疎外の回復

 誰でも、自分はここにいるべきではないと感じることがある。それは、どのような華やかな場であれ、どのような熱狂に包まれようとも感じることがある。その時、一本の煙草に火をつける時、いつもの自己がまだ生きていると感じられることがある。

 外国に初めて行った時のことである。もちろん、知人も友人もいない。医療システムに対する情報もない。自分が属する組織もまだみえない。すべての世界が自分にとって疎遠であると感じられるときは誰にでもあるはずだ。

 その時、一本の煙草に火をつける。日本から持参したハイライトである。その一本の煙草に火をつけて一服したときだけ、まだ生きているという実感が生まれた。ここで死ぬわけにはいかないからだ。

 そのときの一本の煙草が私に与えてくれた恩義に対して、どのように報いることができるのか、まだ思案中である。

 そしてそのような一本の煙草を吸う場所がないことが、人間性を破壊しているのであろう。破壊された場所、破壊された人間性の回復の可能性は限りなく小さい。

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煙草の効用ーーまあ、一服と殺人の抑止力

  昔、ある青年が「あの野郎、ぶち殺したる」と無意識に叫びながら包丁を持っている姿を目撃したことがある。その姿は鬼気迫るものがあった。しかし、その姿をみたある老人が一本の煙草に火をつけ、その青年に渡した。その青年が煙草を一服した後、肩から力が抜けたようにして、包丁を落とした。

 もし、この青年にとって煙草がなければ、殺人罪で少なくとも10年位は刑務所暮らしを余儀なくされたであろう。このような情景が今でも目に焼き付いている。禁煙運動家はそのような青年の行動には無頓着である。

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