花輪和一とホッブス

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花輪和一『刑務所の中』青林工藝舎、2000年、210頁。


珈琲時間

花輪和一は、しばしば縄文人を自由人として表象している。 近代社会を国家によって管理された社会とみなし、縄文人を自由人とみなしている。しかし、それは自然状態の第一段階を表しているにすぎない。自然状態における資源が有限であることによって、人間は人間間で闘争状態に陥る。これがホッブスの論点である。

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いしいひさいち官僚制論(その四)――前例主義の欠陥

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いしいひさいち『ドーナツブックス・いしいひさいち選集』第11巻、双葉社、1986年、132頁。

 いしいひさいちの漫画家としての評価は、天才と言うしかない。天才であるがゆえに、彼が当初意図していない結果を暗示している。東京電力福島第一原子力発電所が築40年ということもあり、日本の大惨事をもたらした。対照的に、東京電力株式会社福島第二原子力発電所は、ほぼ同じような打撃をうけながらも、そのようにはなっていない。
 それは、過去40年間において、様々な部品が劣化し、機能不全に陥っていたからである。それに対して、40年間安全であったがゆえに、安全であるという命題が対置される。この命題は妥当性を持っているのであろうか。官僚は前例主義を取りがちである。40年安全であれば、今後も安全であると。しかし、この40年間に主体は、明らかに老化している。客観的条件も変化している。にもかかわらず、前例主義を主張する官僚は、馬鹿でしかない。
 このような命題は、常識的にはありえない。事実、いしいもまた、この命題に反論していない。しかし、この命題が根源的に錯誤していることは、明らかである。築40年のアパートが、そろそろ限界に達していることはあきらかである。にもかかわらず、ある論者は40年安全であれば、今も安全であると主張する。その馬鹿さ加減を漫画という形式において、明瞭に提示した。

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シャルリ・エブド社(Charlie Hebdo)による風刺画(その二)――東京電力福島第一原子力発電所と福島県民を虚仮にする風刺画――手足が3本ある日本人

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シャルリ・エブド社(Charlie Hebdo)による風刺画(その二)――東京電力福島第一原子力発電所と福島県民を虚仮にする風刺画――手足が3本ある日本人


"Le Canard enchaîné" froisse Tokyo

Le Monde.fr avec AFP | 12.09.2013 à 08h10 • Mis à jour le 12.09.2013 à 09h17

En savoir plus sur http://www.lemonde.fr/japon/article/2013/09/12/le-canard-enchaine-froisse-tokyo_3476202_1492975.html#3HYBp7blMzrlSyXy.99

http://www.lemonde.fr/japon/article/2013/09/12/le-canard-enchaine-froisse-tokyo_3476202_1492975.html[Datum: 19.01.2015]

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 シャルリ・エブド社(Charlie Hebdo)による風刺画をめぐる議論が本邦でも盛んである。この場合、イスラム過激派に対する共感は少ない。もっぱら、シャルリ・エブド社(Charlie Hebdo)による風刺画を肯定的にとらえている。その内容に眉をひそめる人も多いが、「出版の自由と言論の自由」を守るべきであるという御旗に逆らうことはできない。
 しかし、この風刺画を肯定する人間は、東京電力株式会社福島第一原子力発電所に対する風刺もまた、肯定しなければならない。東京オリンピック決定後に出された風刺画は、多くの日本人にとって屈辱的であった。日本の文化を代表する相撲を、手足が3本ある奇怪な日本人がとっている。事実、日本国政府はこれに抗議していたはずである。
 しかし、イスラム教に対する風刺画の存在自体を肯定する人間は、この福島と日本に対する風刺もまた肯定しなければならない。イスラム教に対する風刺はいいが、日本に対する風刺はよくないとは、二重基準にしかすぎない。
 一般的に言えば、風刺画は読者を憤慨させ、そして考えさせる。本当に東京電力株式会社福島第一原子力発電所の事故は収束したのであろうか。その意味で、凡百の評論よりも、この一枚の風刺画が福島事故を思い出させた。多くの日本人にとって、東京電力株式会社福島第一原子力発電所の事故は、ほとんど考慮の対象外である。安倍総理の言によれば、それは「制御されている」。しかし、この風刺画を見るかぎり、海外では少なくとも安倍総理の言葉は信用されていないようである。

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 シャルリ・エブド社(Charlie Hebdo)による風刺画(その一)――出版の自由と言論の自由は無制限であろうか――低水準の対象を批判するのではなく、嘲笑すべきであった。

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http://www.charliehebdo.fr/


20150116 シャルリ・エブド社(Charlie Hebdo)による風刺画――出版の自由と言論の自由は無制限であろうか――低水準の対象を批判するのではなく、嘲笑すべきであった。

 シャルリ・エブド社の風刺画とそれに対する暴力的抗議が世界的に問題になっている。この問題の本質は後期近代におけるテロリズムとして処理されるべきであろう。なぜ、初期近代では政治的暴力が肯定され、後期近代においてそれがテロリズムとして否定されるか。しかし、この問題は本ブログで詳細に論じているので、ここでは割愛する。過去のブログを参照していただきたい。 1
ここでは、この問題を出版の自由と言論の自由の問題として考察してみよう。この出版社へのテロ行為のあとで、フランス大統領だけではなく、ドイツ首相メルケルをはじめとして西欧資本主義国家の政治的指導者がデモ行進をして「出版の自由と言論の自由」を掲げたからだ。
 しかし、この行進に参加したすべての政治指導者が、無制限の「出版の自由と言論の自由」を標榜したにもかかわらず、自国においてそれを無制限に実践しているわけではない。フランス、ドイツそして西欧において、ナチス・ドイツ時代の「強制収容所」の犠牲者を虚仮にして、ユダヤ人をいたぶる風刺画を作成すればどのようになったであろうか。この風刺画においてヒトラーとナチ親衛隊を賛美し、その論説において「強制収容所はなかった」と表現すれば、どのような事態に陥るであろうか。フランスの出版自由法(第24条の2)において、ホロコーストの存在に対する異議申し出罪が明白に表現されている。そのような論説は、刑事罰の対象になるだけであろう(もちろん、筆者はホロコーストを否定しているのではない。本文の記述は、接続法の記述に属している)。出版の自由と言論の自由は無制限ではない。それぞれの国家の歴史的コンテキストにおいて決定されている。
 ところで、この風刺画がイスラム教徒、ならびにイスラム教徒が多数派である国家を憤慨させていることは事実である。イスラム教によれば、ムハンムドの形象を描くこと自体が神への冒瀆である。いわんや、その像を虚仮にすれば、イスラム教徒が憤慨することは道理にかなっている。
しかし、この風刺画をイスラム教徒は批判すべきであろうか。ある対象を批判するという行為は、批判者と批判対象が同一の論理構造に位置することを含んでいる。批判者はある対象を批判の対象にすることによって、その実体の変革を指向する。しかし、その対象の変革を指向することは、その対象と同一の論理構造にからめとられる危険がある(この点に関しては、ブルーノ・バウアー純粋批判を参照)。
 一番良い方法は、その対象を嘲笑するだけでよかった。一部のイスラム教徒が暴力的行為をはたらくことによって、シャルリ・エブドの最近の特別号は、100万部も販売されたようである。通常の販売部数は数万部であるから、その10倍を超えている。  しかも、数分で売りきれたようである。 2 一部のイスラム教徒の行為によって、極東の国の住人ですら、この風刺画を読むことになった。この政治的暴力はシャルリ・エブドに莫大な利益をもたらした。そして、イスラム教徒一般に対する言われなき差別を助長することは、ほぼ確かであろう。
一般化すれば、馬鹿と話をすることはない。自分よりも低水準の人間と対象を批判の対象にすべきではない。馬鹿な人間と馬鹿げた対象を批判することによって、批判者もまた低水準化しなければならない。嘲笑するだけでよかった。

1
田村伊知朗「近代における初期近代と後期近代の時代区分」(2008年7月 3日)
http://izl.moe-nifty.com/tamura/2008/07/post_7bcf.html
[Datum: 03.07.2008] 参照。
2
Vgl. Wunder der Solidarität. In: Schwäbische Tagblatt, 15.01.2015.
http://www.tagblatt.de/Home/nachrichten/ueberregional/politik_artikel,-Neue-Ausgabe-von-Charlie-Hebdo-binnen-Minuten-ausverkauft-Zeichner-spotten-sogar-ueber-den-Mord-a-_arid,287389.html
[Datum::17.01.2015]

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チンコロ(密告)に対する儒教の論理と人間の共同性――業田良家「シャルルの男」『独裁君』

20140525チンコロ(密告)に対する儒教の論理と人間の共同性――業田良家「シャルルの男」『独裁君』

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『論語』(子路第13320)に以下のような言葉がある。

 

 

 

「葉公語孔子曰。吾党有直躬者。其父攘羊。而子證之。孔子曰。吾党之直者異於是。父為子隠。子為父隠す。直在其中矣」。(葉公、孔子に語りて曰わく、吾が党に直躬なる者あり。其の父、羊を攘む。而して子、これを証せり。孔子曰わく、吾が党の直き者は是に異なり。父は子の為めに隠し、子は父の為に隠す。直きこと其の中にあり)。

 

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波書店、2000年、214215頁。

 

 

 

(田村による)意訳

 

「父が羊を盗んだ。子は父の行為を政治的支配者に密告した。政治的支配者は、その行為を正直であるとした。それに対して、孔子は、父子は相互に匿うべきである。それが正直である。人間的である」。

 

 

 

 儒教は、第一次集団的関係たとえば家族及び氏族に基づいて、そして社会総体に至るという同心円的な位階制構造を有している。家族主義的国家観も儒教に基づいているとされている。しかし、その基本は、人間が直接的関係を結べる家族あるいは親族間の関係である。人間そして動物が結ぶ直接的関係が、社会構造の基本になる。問題は、社会的規範と家族的規範が矛盾する場合である。儒教の論理は、前者に対する後者の優位にある。

 

 北朝鮮つまり朝鮮民主主義人民共和国が儒教国家であるという説がある。しかし、それは当てはまらない。儒教の論理、人間の直接的関係を優先すべきであるという論理は、崩壊しているのだろう。すべては金正日、金正恩同志のためという論理構造において、家族関係よりも政治的支配層の意思が優先されている。「金正日様、あなたなしでは生きてゆけない」という歌は、著名である。ここでは、金正日が父親、あるいは配偶者に擬されている。

 

 金正日と現実的父親の意思が同一であれば、問題ない。しかし、両者の意思が分離するとき、子供は金正日つまり政治的な父親の意思を優先する。この矛盾を業田は示した。ある共同体の論理よりもより上位の共同体が優先されるとき、チンコロ(密告)が奨励される。チンコロ(密告)が奨励される社会は、もはや人間的社会とは言えない。少なくとも、チンコロ(密告)を優先する社会は、共同体とは言えない。チンコロ(密告)と共同性とは、相容れない。人間はより直接的関係を重視すべきである。業田良家はこの意味を明確にした。

 

 

 

業田良家「シャルルの男」業田良家『独裁君』小学館、2008年、114115頁。

 

 

 

 

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世を忍ぶ仮の姿と、後期近代における貴賎意識―――花輪和一『みずほ草紙』における乞食への眼差し

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花輪和一「仙人」『みずほ草紙』小学館、2013年、138頁、143頁。

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20140720 世を忍ぶ仮の姿と、職業的位階制における貴賎意識―――花輪和一『みずほ草紙』における乞食への眼差し

 

 

 

 人間は何らかの事情で、世を忍ぶ仮の姿を取ることがある。たとえば、大学教授を目指す若者が、塾の講師をするということは、珍しくない。塾の講師をすることは、世間的に考えても悪くはない。国立大学の学生も、塾講師を第一志望の就職先に選ぶことは、よく聞く話である。ただ、多くの大学院生、そして元大学院生もそれを名刺に書くことはほとんどしない。世を忍ぶ仮の姿という意識が強いからだ。

 

さらに、どのように世間から蔑まされる職業についていたとしても、本人が意思を持っているかぎり、それは尊重されるべきである。ここで、蔑まされる職業を具体的に明示することは避けよう。現実社会において職業に序列があるにもかかわらず、理念的にはその序列はないことになっているからだ。

ここではあえて、世間から尊敬される職業として、県議会議員を取り上げてみよう。この職業を明示することが差別であるという論調はほぼない。市議会議員からすれば、憧れの対象である。いづれ、県議会議員になりたいと思っている市議会議員は多い。市民も県議を蔑むことはほとんどない。市民が後ろ指をさすことはない。

しかし、かつて竹下登元総理が田中派の陣笠議員だったころ、田中角栄元総理から以下のように言われたそうである。「県議上がりが、日本の政治史において総理大臣になったことはない」。竹下氏の前職つまり県議という職業が、蔑まされる対象であった。県議会議員は賤しい職業であった。もし、彼が大蔵省の役人であれば、このような言説は成立しない。大蔵官僚は、総理大臣のリクルート先として日本政治史に刻印されていたからだ。もっとも、彼はこのような貴賎意識を跳ね返し、総理大臣になった。

 

誰もが蔑む対象として、乞食が挙げられる。好んで乞食をする人はいない。しかし、何らかの個人的事由から、乞食をせざるを得ない場合もある。それを嘲ってはならない。その事由そのものが、その個人にとって不可避であったからだ。この漫画で描かれている女性は、地震によって家族と財産を喪失している。もちろん、物乞いの対象になっている人には、わからない。古代社会から初期近代に至るまで、社会的最底辺に住む人を嘲ってはならないという社会規範が日本にあった。平等意識あるいは職業に貴賎なしという建前が浸透する現代社会において、この規範はむしろ弱体化している。

 

職業に貴賎はある。このことが明示される社会において、むしろ最底辺に生きる人への眼差しは優しかった。その意味を花輪が解明した。乞食という仮の姿を取りながら、主人公は過去の自分を凝視していた。過去の自分の行状と精神を反省することによってしか、新たな自分を見出すことはできない。職業における位階制的秩序の最底辺に身を置きながら、新たな飛躍をなそうとした。乞食という職業なしに、新たな展開はない。

注記:乞食という用語は後期近代において差別用語だそうである。なんという御不自由なことであろうか。「生活一般において御不自由な人」と言い換えるべきかもしれない。しかし、花輪自身が使用しているので、ここでもこの用語を用いる。また、軽犯罪法第1条22 において、乞食という用語が使用されている。法律用語であるからには、この用語を差別用語と考える方が間違っている。差別用語を決定する権限は、どこにあるのか。もし、これが政府によってなされると、検閲に通じるのかもしれない。

 

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いしいひさいち官僚制論(その四)――全体的利益を追求する政治家?

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いしいひさいち『ドーナツブックス いしいひさいち選集』第13巻、双葉社、1986年、126頁。

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20140616いしいひさいち官僚制論(その四)――全体的利益を追求する政治家?

  官僚が視野狭窄であることは、必ずしも欠陥ではない。与えられた職務に忠実であればあるほど、そのような結果をもたらす。たとえば、かつての記事で中央省庁における一般職員が社長と呼ぶ対象について論じた。多くの一般的公務員は、課長を「社長」と呼ぶ。省益ですらない。自らの属する「課」の利益を追求する。あるいは「課」に属する国民生活に対する忠誠を遂行する。道路行政に関する「課」に属していれば、その利益を追求する。国家全体における公共交通の在り方に関して、ほとんど関心がない。

 官僚機構における国益という考えの欠如は、常識的には政治家によって補正される。政治家、本邦の組織形式を用いれば、大臣、副大臣、政務官等は、必ずしもその省庁の業務に関して精通していない。ほとんど素人同然である。全体的視野から、当該省庁の業務を概観することが求められている。

 しかし、政治家が個別的利益、つまり特定の業界利益、地域利益を追求すれば、国益という観点は看過される。日本沈没という国難に際して、大臣を統括する総理大臣も特殊利益を追求する。日本は沈没する。日本が物理的に沈没する以前に、政治的に沈没する。いしいひさいちは、この意味を明確にした。

 問題は、彼によって提起された地平の彼方にある。誰が国益を追求するのであろうか。多くの官僚は省益すら追求しない。課の利益がその主要関心事である。誰が国益を普遍的地平で考察するのであろうか。哲人政治家が求められる所以である。もっとも、哲人はどこからリクルートされるのであろうか。古色蒼然たる哲学部の卒業生からであろうか。日本には、哲学部という学部はない。たとえ存在したとしても、官僚機構によって追求される課益、省益には対抗できない。それを超えた地平が求められている。

 

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いしいひさいち官僚制論(その三)――官僚機構における減点主義

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いしいひさいち『ドーナツブックス いしいひさいち選集』第13巻、双葉社、1986年、118頁。

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20140616 いしいひさいち官僚制論(その)――官僚機構における減点主義

 かつて『産経新聞』のある記者が、公立校における「なれ合い人事」に対して、教頭による命令型組織を対置した。しかし、なれ合い人事の基礎にある「前例主義」つまり「新しい仕事をしない主義」は、校長という管理職にも蔓延しているかもしれない。この意味を「学校という官僚組織における病根」において論じた。

 前例主義という官僚主義の根幹を学習した教諭が、校長になる。より一般化すれば、官僚機構において出世するためには、この原理を学習しなければならない。官僚機構において重要なことは、新しい仕事をしないことである。新しい仕事をすれば、リスクを負う。失敗することもある。

 しかし、官僚機構におけるその評価は、減点主義である。どのように素晴らしく国民のために仕事をしようとも得点が加算されることはない。前例主義に則り仕事をした人と同じ得点である。新しい仕事をすれば、周囲との摩擦が生じる。失敗すれば、それ見たことかと、嘲笑される。

 定年前の校長を例にとり、この意味をいしいひさいちが解明した。ここでは、校長は子供という対象を見ていない。彼にとって問題は、自己の給与が如何に減額されるのか、定年後の再就職がどれほど困難になるか、だけであろう。彼の官僚制に関する白眉の漫画である。

参考までに、元の記事を貼り付ける。

20140526 学校という官僚組織における病根――

校長による学校における命令組織の強化 ? 安本寿久「学力低迷の戦犯は「民主的」学校組織だ 校内なれあい人事選挙が示す病根」『産経ニュースWest2014525 http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/140525/waf14052507000002-n3.htm [Datum: 25.05.2014]

 安本氏は、学力低迷の原因を学校における「なれあい人事」に求めている。戦後確立された「鍋蓋(なべぶた)型組織」に求めている。この組織類型によれば、校長、教頭以外の教諭は、平等であり、相互に介入しない。彼は、このような組織類型に対して、校長により権限を与えた命令組織を対置している。 しかし、物事はそれほど単純ではない。校長がこのような組織において出世できたのは、その鍋蓋組織と同じ感性を保持している場合が多いからだ。前例主義が貫徹されていることによって、彼は校長たりうる。つまり、「新しい仕事をしない主義」である。

 「休まず、遅れず、働かず」という感性は、どのような官僚組織であれ、貫徹されている。もちろん、この「働かず」は、自分に与えられた以上の仕事をしないという意味である。この原則は官僚組織を基礎づけているし、優位性を持っている場合も多い。組織が上昇気流に沿っている場合、むしろ余計なことをしないほうがよい。しかし、組織が傾いているとき、あるいは泥沼状態にあるとき、この感性は致命的になる。

 この記事において、「新しい仕事をした場合、管理責任を誰が担うのか」という問題が提起されている。このような批判が「出る杭」に与えられる。新しい仕事を提案するものは、このような批判に対して無力である。この感性が是正されないかぎり、校長による命令組織を鍋蓋組織に対置しても、意味がない。校長自身が出る杭を打つことによって、校長になったからだ。 民主的組織に命令組織を対置しても、無駄であろう。事態はより悪化する。

 任期の数年間を無難にこなすことこそが、校長に求めてられている。校長にとって最悪の事態は、年金と退職金の減額措置である。 このような官僚組織における病理を治療することはできるのであろうか。官僚組織にその自浄作用を求めることができるのであろうか。

 

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いしいひさいち官僚制論(その二)官僚機構における多数決原理の非適用――いしいひさいち『鏡の国の戦争』

いしいひさいち『鏡の国の戦争』潮出版、1985年、76-77頁 Ⓒいしいひさいち(2006.9.15

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クリックすると拡大します。この漫画の面白さは以下の点にある。それは、軍隊に多数決原理が導入されていることである。この原理の導入は想定不可能である。将校と兵隊の数は、通常、兵隊の数が多い。もし、軍隊という命令組織に多数決原理を導入すれば、軍隊という組織が崩壊するであろう。多くの兵隊は、徴兵された存在であり、戦意は将校に比べて低いからである。もし、多数決原理が導入されれば、戦争そのものが否定されるであろう。民主主義という原理は、命令組織には導入されない。もし、導入されれば、前線で生命を賭けて戦うのは、将校のみになるであろう。その架空の設定をこの漫画は採用している。あるものの本質とは異なる要素を当該概念に導入することによる面白さである。もちろん、いしいは、当該概念、ここでは軍隊の本質を把握しいている。その本質とは正反対の理念を導入することによって、その概念を鮮やかにしている。

なお、命令組織は軍隊に限定されていない。名目的にはすべての官僚組織に妥当する。また、官僚組織に比肩する強度を誇る営利企業の組織にもあてはまるであろう。そこにおいて、民主主義の原理、多数決原理は適用されない。

政治的領域において、多数決原理が適用される領域はかなり少ない。被選挙者間における平等性が前提になる領域でしかない。況や、社会的関係、家族的関係においてこの原理を導入しようとすることは、無謀という誹りを免れない。この原理が妥当する領域は、限定されねばならない。

(本記事の作成にあたり、いしいひさいち事務所様には大変お世話になりました。誌して感謝申し上げます)。

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いしいひさいち官僚制論(その一)日本官僚制の問題点ーーいしいひさいち役人論(馬鹿役人)

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(クリックすると、拡大されます)。

いしいひさいち『蜜月マーヤの暴言』双葉社、2003年、100頁

この漫画において、日本官僚制の問題点が明白に現れている。つまり、落城寸前になっても、官僚的な目的合理性が追求されている。自分の領域、つまり有職故実に関する事柄が議論されている。落城になれば、そのような合理性はその基盤が崩壊するのであるが・・。このような官僚が組織の重要な部分を担ってしまえば、その組織の崩壊は明らかである。

 このような官僚的合理性が組織の崩壊をもたらす。この問題について、次のブログ記事で議論したい。まさに、木を見て、森を見ず、という盲目的役人が跋扈している。いしいひさいちは、この日本の現状を明確に把握している。

この記事に触発されて、以下のような文章を書いた。

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 「日本的会議の特質は、どうでもよいことに反応し、大事なことに反応しないことであろう。会議は、会議に参加する構成員にとって重要なことを討論する舞台である。しかし、往々にして、些細なことの過剰反応して多くの時間を費やす。1時間の会議で、文章の間違いを30分以上話し合った会議があった。「阻害」という漢字をしようするのか、「疎外」を用いるのか、ということが論点であった。馬鹿ではないかと多くの参加者は考えていたが、うんざりしながら、聞いていた。もちろん、漢字の使用法、あるいは句読点の一字によって、法解釈そのものが180度変わることは承知している。しかし、変換ミスが明らかである場合でさえも、糾弾の対象になる。

 それに対して、重要なことにはほとんど反応しない。たとえば、多くの大学で「教員任期制」を導入するにあたって、すくなくとも私が参加した大学の会議では議論の対象になったことはない。任期制とは、簡単に言えば首切りである。そのような重大な問題に対しては議論せず、漢字の変換ミスには過剰に反応する。「木を見て森を見ず」、あるいはかつてのブログに書いたような「落城寸前の御前会議における文書日付」のような事態が進行している。このような馬鹿が多く存在する会社、あるいは組織はつぶれてよいのであろうか。ただ、このような会議に参加する構成員は、それでも落城を阻止するために、獅子奮迅の活躍をしなければならないのであろうか。そして他の構成員から次のように言われるに違いない。「勝手にやって。会議では承認されていない」と。

 漢字の変換ミス、あるいは改行の是非しか議論できない組織には、見切りをつけるべきであろうか。思案している。あるいは、このような組織が崩壊することは、目に見えている」。

そして、2011年3月になった。いしいの予言は、我々の生命自体に関係してくる。大惨事を前にした官僚機構の壊死が生じた。

「20110414 馬鹿役人と馬鹿学者の政治学――誤植の訂正しかしない原子力安全委員会の議論形式と、学術専門家の怠慢

 かつて本ブログにおいて「日本官僚制の問題点――いしいひさいち役人論(会議の無駄)」(2010227日)と題して、日本の官僚機構における会議の特徴を述べた。 1 この論説の中心点は、会議における議論が誤植の訂正と文章の若干の改変に終始して、本質的議論をしない日本の官僚制に対する批判である。落城の危機に際して、繁文縟礼を議論している重臣を揶揄した、いしいひさいち氏の4コマ漫画を援用しながら、この官僚制の問題を議論した。

 この日本の会議形式に対する批判が、平成23325日に開催された第19回原子力安全委員会にまさに当てはまる。2 325日と言えば、314日における東京電力福島第一原子力発電所の第3号機の水素爆発を受けて、国家が危機的状況にあったときである。第2号機、第4号機も同様な危機的状況にあった。この東京電力福島第一原子力発電所の非常事態を受けて開催された原子力安全委員会は、たった42分程度で閉会している。しかも、PDFファイル12頁にわたる議事録の半分以上は、事務局によって作成された資料の読み上げに終わっている。その後の委員による議論の中心は、「『葉』になってございますけれども、これは平仮名の『は』でございます」、あるいは「平仮名の『に』を入れてください」(10頁)という文書の校正にある。

委員としての専門知識は要求されていない。誤植の訂正であれば、村役場の庶務課長のほうが、より適切な指示を出せるであろう。このような議論しかできない専門委員は、役場の庶務課長に転職したほうがよいであろう。もちろん、庶務課長ほどの文書校正能力を有しているとは思えないが。

このような繁文縟礼に通じた専門家しか、専門委員になれない現状がある。専門知識よりも管理職的能力に通じた専門家のみが、大学教授になり、そして政府の審議会委員に抜擢される。そこで求められる能力は事務局と協調する能力と文書作成能力でしかない。

専門委員には、事務局によって作成された資料を根源的に批判し、積極的な提言を求められているはずである。ここでの議論は、専門知識を要求されない事務局職員以下の水準にある。逆に言えば、このような専門家は、官僚機構にとって統御し易い人間である。自分たちを批判しない人間のみが、「専門家」として認知される。学術的専門家と官僚機構の癒着が生じる。

彼らはこれまでいつもこのような議論形式に慣れてきたはずである。このような議論しかできない。それゆえ、彼らは「専門家」として認知された。国家の危機に際しても、このようにしか議論できない。

1. http://izl.moe-nifty.com/tamura/2010/02/index.html

2. http://www.nsc.go.jp/anzen/soki/soki2011/genan_so19.pdf

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