田村伊知朗への連絡方法ーーコメント欄へ
田村伊知朗への連絡方法
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「『浮浪雲』から学ぶ人生論(1)、(2)、(3) 、(4)総括ーーいつも一人であることと、寂寥感の克服」『田村伊知朗 政治学研究室』、http://izl.moe-nifty.com/tamura/2021/07/post-d27670.html. [Datum: 22.07.2021]
1 ジョージ秋山『浮浪雲』第19巻、小学館、1982年、168頁。
2 ジョージ秋山『浮浪雲』第103巻、小学館、2014年、22頁。
3 ジョージ秋山『浮浪雲』第17巻、小学館、1981年、86頁。
4.1 ジョージ秋山『浮浪雲』第8巻、小学館、1977年、146頁。
4.2 ジョージ秋山『浮浪雲』第8巻、小学館、1977年、159頁。
©Jyoji Akiyama
1.孤独
浮浪雲はいつも一人である。浮浪雲は、人間が一人であることを自覚している。すべての事柄、他者との関係、社会総体との関係、国家との関係、歴史総体との関係もまた、自分にとって疎遠である。この世に生まれてくるときも、一人、この世を去るときも、一人。この心境こそが理想である。自我にとって、他者は無関係である。まさに、唯我独尊であろう。
他者の存在、他者との関係は、労働者、サラリーマンにとって、悩みの種である。労働者の中途退社理由は、ほとんど人間関係の悪化に由来しているであろう。会社員であれば、上司の横暴と無理解に対して、夜明けまで眠れない経験をしたことは多いであろう。そのような身近な煩悶は、むしろ世界総体の矛盾に対する煩悶よりも多い。アメリカ合衆国空軍によるイラク空爆に対して、毎夜、煩悶している日本人はほとんどいないであろう。
もっとも、凡庸な庶民は、人生に絶望して、華厳の滝に飛び込む勇気もない。人生それ自体を藤村操のように真剣に思考したこともないからだある。自己の喜怒哀楽によって、対象は変化しない。過去の行為を嘆き悲しんだところで、過去の状況そのものが、この世に存在しない。自己の外側に位置する環境世界に対して、個人は無為でしかない。もちろん、抵抗する権利は個人にある。
上司や同僚の無理難題には、面従背腹に対応することに限る。正面切って、その不当性を糾弾することもない。たいていの場合、上司は数年で転勤する。別の上司がその椅子に座ったとき、前の上司の馬鹿さ加減など忘れている。おそらく馬鹿が会社の出世街道を驀進するかぎり、馬鹿な上司ではなく、馬鹿が上司になる。馬鹿な上司に悶々とする必要はない。会社の組織形式を変更することなど、労働者にはできない。自己の任務を全うするだけである。この任務は、会社から与えられた任務だけではない。鳴かぬ鴉の声から与えられて使命も含まれている。それに従って邁進するだけである。なるようになる、と諦観すべきであろう、浮浪雲のように。
しかし、環境世界が巨大なうねりとして流れていくとき、個人は無力である。私は60年ほど生きてきた。世界の変動のなかで最大限に衝撃的であったことは、東ドイツそしてソビエト連邦共和国の崩壊であり、社会主義という概念の無効化であった。ベルリンの壁が崩壊し、後期近代が始まろうとしたとき、世界の人が慌ただしかった。1989年以後、数年間、この事態が多くの国民そして世界の人々の精神を覆っていた。
私も、社会主義と共産主義という理念が崩壊する現場にいるという興奮に包まれていた。しかし、私が興奮しようとしまいと、後期近代の到来という巨大な歴史の潮流に掉さすことはできない。この感情は、30年経過した現在では理解できる。
しかし、よく考えてみれば、よりドイツ語的に言えば、追思惟すれば、人為的に国家そして社会を形成しようとすることが馬鹿げたことである。このような真理が認識された。これ以後、世界政治、世界経済に対して、感情的になることはほとんどない。もっとも、日常的に職場で、家庭で、職場で、そして地域社会で怒ることはある。スーパーマーケットのレジで怒鳴りあってる老人も、珍しくない。コンビニのレジで、長時間、クレームを垂れ流して、顰蹙をかっているいるご婦人も多い。しかし、後期近代が本格的に始まった時代精神の変容に比較すれば、ほとんど、どうでもよいことである。もはや、社会主義という理念を語ることが、少なくとも個人では無理であろう。
環境世界に対して、無為だけではない。無念夢想、つまり何もしないし、何も思念しない。外的な環境世界に一喜一憂しない。町内会、地方自治体、政府に対して無為無策、無念無想である。
無為無策と無念無想は、どちらが優先するのであろか。何かしようと思うことが、蹉跌の原因である。論理的には、無念無想であれば、無為無策になる。しかし、我々小人には、無念無想は無理である。環境世界に対して、無為無策であることが先のように思える。何もしないから、何も考えない。自らの使命だけに集中する。現在の課題に集中することこそが、大事である。
2.環境世界に対する不安
このマンガの時代背景は、幕末というより、江戸城無血開城がまさに実現しようというときである。日本近代史において近代革命が生じるときである。西郷隆盛、伊藤博文、山県有朋等、有名な革命家が排出したときである。革命家、政治家だけではなく、庶民もまた生活が一変しようとした。まさに、百家争鳴の時代である。
このときでも、浮浪雲は達観している。「世の中なるようになるもんですから」と、悲憤慷慨しない。自己が悲歌慷慨したところで、世の中が変わることはない。150年以上前の明治維新に感情移入することは、21世紀の日本人にはほとんどいない。
この漫画を見た労働者は、その魂が癒されてるであろう。何度見ても、癒される。しかも、中村天風の著作に取り組むように、読者が考え込むこともない。笑いながら、しかも、宇宙の真理に気付く。いい漫画である。『浮浪雲』の連載を許可した小学館に感謝する。
3.心の空隙
無念無想、無為無策が最高の理想であるとしも、我々小人は、何らかのことに関与せざるをえない。その根拠は、我々が浮浪雲のように、一人では生きていくことができないことにある。不安感に苛まされ、環境世界を自己にとって都合の良いように変化させようとする。もっとも、不安感が根源的に解消されないかぎり、どのような環境世界に対する働きかけも、焼き石に水でしかない。あるいは、寂寥感にとらわれ、環境世界に対して行為する。
小人が無念無想の境地に至ることは、不可能であろう。何らかの行為をしてしまう。でくの坊にはなり切れない。何らかの行為が不可避であれば、女衒のような行為ではなく、あるいは「酒や女で埋める」のではなく、社会の一隅を照らすことをしたほうが良い。このマンガでは、殺人という行為を通じて寂寥感を埋めようとした若者が描かれている。まさに、お縄になるとき、浮浪雲の言葉が青年の脳裏に浮かぶ。しかし、もはや青年は何もできない。自己の使命として感じることに没頭すべきであった。
4、人生の意味づけ
若者が額に汗して働いているとき、自己の人生の意味づけに関して悩むことはない。額の汗が、そのような取り越し苦労を流してくれるからだ。しかし、手を休め、ふとした時、自己の人生の意味づけを問う場合もある。周囲の友人が立て続けに結婚したとき、独身である自分の将来に不安を抱くこともあろう。
とりわけ、精神労働者は額に汗することは、ほとんどない。それゆえ、このような解答不能な問題から自由になれない。しかし、浮浪雲はこのような無意味な問題設定から自由である。惰性で生きているようである。人生に関する意味づけをしようとしない。環境世界の激変にも不安を抱かない。このような生き方を自由人と規定できるのであろう。
花輪和一は、かなり多くの著作を残している。しかし、執筆動機あるいはその主題は限られている。その限定された主題の一つが、寂寥感あるいは寂しさである。おそらく、花輪和一本人に由来する寂しさからの脱却である。マンガをほとんど読まないひとでも、彼の名著、『刑務所の中』を知らない人はいないであろう。このマンガは映画化もされ、今でもYouTube等で視聴できる。この名著が世に出る契機になったことは、彼自身の銃刀法違反である。実弾と実銃を所持していた。この非合法の趣味の根源も、花輪和一自身の感情に由来しているように思える。
この『風童』も寂しさという感情の根源を主題にしたマンガである。寂しさからの脱却あるいはそれを気にしないことになる過程を描いている。自然の営みにおいて、動物も植物も寂しいという感情を持たない。あるいは、他者と自分とを比較せず、日々与えられた課題を遂行するかぎり、人間もまたそのような感情を抱くこともない。この感情に囚われていた少女が、自然の営為を見て気づく名場面である。
世を忍ぶ仮の姿と、職業に貴賎あり
人間は何らかの事情で、世を忍ぶ仮の姿を取ることがある。たとえば、大学教授を目指す若者が、塾の講師をするということは、珍しくない。私もしたことがある。塾の講師をすることは、世間的に考えても悪くはない。国立大学の学生も、塾講師を第一志望の就職先に選ぶことは、よく聞く話である。
さらに、どのように世間から蔑まされる職業についていたとしても、本人が意思を持っているかぎり、それは尊重されるべきである。ここで、具体的に蔑まされる職業を具体的に明示することは避けよう。現実社会において職業に序列があるにもかかわらず、理念的にはその序列はないことになっているからだ。例えば、県議会議員ですら、ある視点からすれば格下、あるいは蔑まされる職業である。市議会議員からすれば、県会議員は憧れの対象である。市民も県議を蔑むことはほとんどない。しかし、政治家においてもヒエラルヒーは厳然として存在している。かつて竹下登が田中派の一陣笠議員だったころ、田中角栄元総理から以下のように言われたそうである。「県議上がりが、日本の政治史において総理大臣になったことはない」。竹下氏の前職、つまり県議会議員という職業が、蔑まされる対象であった。もし、彼が大蔵省(現財務省)の官僚であれば、このような言説は成立しない。彼らは、戦後だけに限定しても、池田勇人、大平正芳、福田赳夫、宮澤喜一と多くの総理大臣を輩出しており、総理大臣のリクルート先として日本政治史に刻印されていたからだ。もっとも、竹下登はこのような貴賎意識を跳ね返し、総理大臣になったが、貴賎意識から全く自由であったとは思えない。
誰もが蔑む対象として、乞食が挙げられる。好き好んで乞食をする人はいない。「わしは、乞食と違う」という啖呵は、西日本では耳にタコができるほど聞かれる。侮蔑の対象として施しを受ける場合、つねに発せられる言葉である。彼らに対する蔑みは、社会的に承認されている。しかし、何らかの個人的事由から、乞食をせざるを得ない場合もある。それを嘲ってはならない。その事由そのものが、その個人にとって不可避であったからだ。この漫画で描かれている女性は、地震によって家族と財産を喪失している。もちろん、物乞いの対象になっている人には、わからない。古代社会から初期近代に至るまで、社会の最底辺に住む人を嘲ってはならないという社会規範が日本にあった。平等意識あるいは職業に貴賎なしという建前が浸透する現代社会において、この規範はむしろ弱体化している。現代社会においても、乞食とは貴賎意識の最底辺に位置している。
現代社会においても職業に貴賎はある。このマンガでも、多くの農民は乞食に対して施しをしない。主人公の少女も乞食に対する施しに批判的である。しかし、近代化されたとはいえ、日本の農村では前近代的意識が濃厚に残存していた。この前近代的意識が、社会的ヒエラルヒーの最底辺に位置している乞食に対して優しい眼差しをかけている。
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20140522 破滅への予感と、日常的営為への没頭――花輪和一『刑務所の前』と福島における放射能汚染
人間は、人生の岐路においても日常的課題から免れない。食事、入浴、清掃そして仕事をしなければならない。どのような破滅的結果が予見されたとしても、このような日常的行為に振り回される。
東京電力株式会社福島第一原子力発電所が危機的状況に陥ったとき、その300キロ圏に居住した住民は、日常的営為に没頭していた。放射能汚染が通常の10倍になったとしても、安全神話が染みついていた。30キロ圏に居住していた住民の多くも、政府の「すぐには、健康被害はない」という大本営発表を信じていた。2011年4月18日、枝野官房長官(当時)が福島第一原発から半径20キロ圏内にある被災地を訪れた際、彼は完全防護服を着用していた。彼はこの事故に関する情報を充分に把握していた。それに対して、住民はマスクすらしていなかった。
被災地がもはや人間の居住には耐えられないほど、放射能によって汚染されていたからである。現地が宇宙空間と同様な放射能によって汚染されていたということを認識していたからである。その姿を見ただけで、住民は即座に避難すべきであった。100キロ圏の住民もまた、危機意識を保持すべきあった。しかし、多くの住民はそこにとどまった。少数の住民は、安全と考えられていた関西、そして九州に避難した。
花輪和一もまた、数日後に警察が自宅に乗り込んでくることを予感していた。警察がくれば、監獄行はほぼ確定していた、しかし、日常的営為、漫画の題材を考えることを優先してしまった。その葛藤がこの漫画において描かれている。
花輪和一『刑務所の前』第3巻、小学館、2007年、104-105頁。
20150116 シャルリ・エブド社(Charlie Hebdo)による風刺画――出版の自由と言論の自由は無制限であろうか――低水準の対象を批判するのではなく、嘲笑すべきであった。
田村伊知朗
シャルリ・エブド社の風刺画とそれに対する暴力的抗議が世界的に問題になっている。この問題の本質は後期近代におけるテロリズムとして処理されるべきであろう。なぜ、初期近代では政治的暴力が肯定され、後期近代においてそれがテロリズムとして否定されるか。しかし、この問題は本ブログで詳細に論じているので、ここでは割愛する。過去のブログを参照していただきたい。[1]
ここでは、この問題を出版の自由と言論の自由の問題として考察してみよう。この出版社へのテロ行為のあとで、フランス大統領だけではなく、ドイツ首相、A・メルケルをはじめとして西欧資本主義国家の政治的指導者がデモ行進をして「出版の自由と言論の自由」を掲げたからだ。
しかし、この行進に参加したすべての政治指導者が、無制限の「出版の自由と言論の自由」を標榜したにもかかわらず、自国においてそれを無制限に実践しているわけではない。フランス、ドイツそして西欧において、ナチス・ドイツ時代の「強制収容所」の犠牲者を虚仮にして、ユダヤ人をいたぶる風刺画を作成すればどのようになったであろうか。この風刺画においてヒトラーとナチ親衛隊を賛美し、その論説において「強制収容所はなかった」と表現すれば、どのような事態に陥るであろうか。フランスの出版自由法(第24条の2)において、「ホロコーストの存在に対する異議申し立て罪」が明白に表現されている。そのような論説は、刑事罰の対象になるだけであろう(もちろん、筆者はホロコーストを否定しているのではない。本文の記述は、接続法に属している)。ユダヤ人あるいはユダヤ教を揶揄することは、犯罪であるが、イスラム教あるいはイスラム教徒を揶揄することは、犯罪ではなく、むしろ、出版の自由の下で保護される。第二次世界大戦下で公表されたユダヤ人を揶揄した風刺画、たとえば本稿の冒頭部で引用した風刺画を今世紀において公表する自由を、今世紀の出版社は持っていない。イスラム教徒が憤激することも、根拠がないとも思えない。さらに、ユダヤ教に対する優遇措置は、イスラエルによるアラブ人虐殺を肯定していることにもつながる。出版の自由と言論の自由は無制限ではない。それぞれの国家の歴史的コンテキストにおいて決定されている。
ところで、この風刺画がイスラム教徒、ならびにイスラム教徒が多数派である国家を憤慨させていることは事実である。イスラム教によれば、ムハンムドの形象を描くこと自体が神への冒瀆である。いわんや、その像を虚仮にすれば、イスラム教徒が憤慨することは道理にかなっている。しかし、この風刺画をイスラム教徒は批判すべきであろうか。ある対象を批判するという行為は、批判者と批判対象が同一の論理構造に位置することを含んでいる。批判者はある対象を批判の対象にすることによって、その実体の変革を指向する。しかし、その対象の変革を指向することは、その対象と同一の論理構造にからめとられる危険がある。
一番良い方法は、その対象を嘲笑するだけでよかった。一部のイスラム教徒が暴力的行為をはたらくことによって、シャルリ・エブドの最近の特別号は、100万部も販売されたようである。通常の販売部数は数万部であるから、その10倍を超えている。[2] しかも、数分で売りきれたようである。一部のイスラム教徒の行為によって、極東の国の住人ですら、この風刺画を読むことになった。この政治的暴力はシャルリ・エブドに莫大な利益をもたらした。そして、イスラム教徒一般に対する言われなき差別を助長することは、ほぼ確かであろう。
通俗化すれば、馬鹿と話をすることはない。自分よりも低水準の人間と対象を批判の対象にすべきではない。馬鹿な人間と馬鹿げた対象を批判することによって、批判者もまた低水準化しなければならない。嘲笑するだけでよかった。
Ⅱ
本稿が依拠している叙述方法は、ブルーノ・バウアー(Bauer, Bruno 1809-1882年)によって提起された純粋批判である。[3] 19世紀のヘーゲル左派、カール・シュミット(Schmidt, Karl 1819-1864年)は、バウアーの哲学的方法論、つまり純粋批判という手続きを次のように把握する。「批判はすべての対象をそれ自身において考察し、その対象に固有の矛盾を示す」。[4] 対象の固有の矛盾が、マンガによって表現されている。「批判的嘲笑のテロリズム・・・が、現実的に必然である」。[5] 実体としての社会的現実態の変革は、前提にされていない。[6] 自己意識の哲学が1844年にバウアー自身によって批判されることによって、バウアーの純粋批判の哲学は生成した。真正理論のテロリズムが、批判的嘲笑のテロリズムと対になっている。前者において自己意識の普遍性と矛盾する歴史的現実態としての社会的実体が自己意識によって批判されることによって、新たな歴史的現実態が形成されるはずであった。しかし、彼は純粋批判において社会的現実態の変革可能性を放擲した。
マンガ家は、この矛盾を変革しようとしているのではなく、この矛盾を嘲笑しているだけである。もし、何らかの理念を掲げ、現実態を変革しようとすれば、その理念は容易にドグマに転換される。「純粋批判は・・・破壊しない。なぜなら、それは建設しようとしないという単純な根拠からである。純粋批判は新たな理念を提起しない。それは古いドグマを新たなドグマによって代替しようとしない」。[7] 批判的嘲笑の目的は、現存している時代精神の本質を提示し、その矛盾を提起するだけであり、新たな理念を創造することではない。マンガ家は、読者の即自的意識において存在している事柄を対自化したにすぎない。本稿も、西欧とりわけドイツとフランスにおけるイスラム差別の意識変革を目的にしていないし、現存している意識に代わる新たな意識を提示していない。
自分が制御できない対象に関して、諦念が必要である。自らの世界像と他者の世界像を同一化できない。にもかかわらず、この襲撃犯はそれを可能とみなした。このイスラム教徒もまた近代の病理――人間的理性による世界の秩序化――に染まっているのかもしれない。[8] このイスラム教徒も、西欧近代によって産出された啓蒙主義者とかなり近い存在かもしれない。
Ⅲ
シャルリ・エブド社(Charlie Hebdo)による風刺画をめぐる議論が本邦でも盛んである。この場合、イスラム過激派に対する共感は少ない。もっぱら、シャルリ・エブド社(Charlie Hebdo)による風刺画を肯定的にとらえている。その内容に眉をひそめる人も多いが、「出版の自由と言論の自由」を守るべきであるという錦の御旗に逆らうことはできない。しかし、この風刺画を肯定する人間は、カナール・アンシェネ(Le Canard enchaîné)による東京電力株式会社福島第一原子力発電所に対する風刺もまた、肯定しなければならない。東京オリンピック決定後に出された風刺画は、多くの日本人にとって屈辱的であった。日本の文化を代表する相撲を、手足が3本ある奇怪な日本人がとっている。事実、日本国政府はこれに抗議していたはずである。イスラム教に対する風刺画の存在自体を肯定する人間は、この福島と日本に対する風刺もまた肯定しなければならない。イスラム教に対する風刺はいいが、日本に対する風刺はよくないとは、二重基準にしかすぎない。しかも、この風刺はかなり本質をついている。
一般的に言えば、風刺画は読者を憤慨させ、そして考えさせる。本当に東京電力株式会社福島第一原子力発電所の事故は収束したのであろうか。その意味で、凡百の評論よりも、この一枚の風刺画が福島事故を思い出させた。多くの日本人にとって、東京電力株式会社福島第一原子力発電所の事故は、ほとんど考慮の対象外である。安倍総理の言によれば、それは「制御されている」。しかし、この風刺画を見るかぎり、海外では少なくとも安倍総理の言葉は信用されていないようである。
Ⅳ
このような議論をもとにして、2020年10月28日に問題になっているトルコ大統領に対する風刺画を考察してみよう。この風刺画をめぐって、トルコ政府がフランス政府に対して抗議している。もちろん、トルコ政府は知らぬ、存ぜぬ、で放置すればよかった。フランスとの外交関係だけではなく、貿易、経済的関係を悪化させることは確実である。近代国家は、いつから宗教国家に転移したのであろうか。
[1] 田村伊知朗「近代における初期近代と後期近代の時代区分」(2008年7月 3日)
http://izl.moe-nifty.com/tamura/2008/07/post_7bcf.html [Datum: 03.07.2008] 参照。
[2] Vgl. Wunder der Solidarität. In: Schwäbische Tagblatt, 15.01.2015.
[3] 田村伊知朗「初期ブルーノ・バウアー純粋批判研究序説――後期近代における時代認識との連関において」『北海道教育大学紀要(人文科学・社会科学編)』第58巻第2号、2008年、27-37頁参照。
[4] Schmidt, Karl: Eine Weltanschauung. Wahrheiten und Irrtümer. Dessau: Julius Fritsche 1850, S. 201.
[5] Bauer, Bauer: Korrespondenz aus der Provinz. In: Hrsg. v. Bauer, Bruno: Allgemeine Literatur Zeitung. H. 6. Charlottenburg: Egbert Bauer 1844, S. 31.
[6]、田村伊知朗「初期ブルーノ・バウアー純粋批判研究序説――後期近代における時代認識との連関において」前掲書、35頁参照。
[7] Szeliga: Die Kritik. In: Hrsg. v. Bauer, Bruno: Allgemeine Literatur-Zeitung. H. 11-12. Charlottenburg: Egbert Bauer 1844, S. 45.
[8] 田村伊知朗「世界の変革は可能か」『田村伊知朗 政治学研究室』
http://izl.moe-nifty.com/tamura/2006/05/post_5a0c.html[Datum: 15.05.2006]
内容とその形式、あるいは実体とその外観
いしいひさいち『ドーナツボックス』第5巻、いしい商店、2018年、11頁。
風車発電は、自然的世界に存在する風を利用してエネルギーを産出する装置である。自然界に存在しているエネルギーを別の形式のエネルギーに転換し、新たなエネルギーを人間が利用する。しかし、役人はそのように考えない。風車が回らなければ、電気エネルギーを使用して風車を回転させる。ここでは、新たな形式のエネルギーが産出されたわけではない。むしろ、電気エネルギーを浪費する。石油、石炭等の化石燃料の使用を減少させ、自然エネルギーを使用することによって、環境破壊を減少させようとする。この大目的は、彼らにとって考察対象外である。
官僚的行為の目的とは、どこにあるのであろうか。風車を回転させるという外観を住民に認識させるだけである。実体的世界においてエネルギーを新たに利用可能にするという本来の目的を忘却し、外観だけを御化粧する。官僚は、実体的世界の改善つまり新たなエネルギーの獲得ではなく、風車が回転するしているという指標にしか問題にしていない。
同様な事柄が株式市場において生じている。株価は、国総体の経済活動の指標と言われている。経済活動が活発になれば株価が上昇し、停滞すれば下落する。実体としての経済活動の指標の一つが、株価である。しかし、経済官僚は、そのようには考えない。株価を上昇させることに狂奔する。年金積立管理運用独立法人は、基本ポートフォリオの約50パーセントを国内株式と海外株式市場に投入している。世俗的表現をもちいれば、鉄火場に有り金をほとんどぶちんこんでいる。株価は上昇しないはずはない。この独立行政法人そして日本銀行が株価を維持していると言っても過言ではないであろう。そして、次のように弁明するにちがいない。株価の上昇によって、日本経済の実体も好影響を与えるであろうと。しかし、それは、火力発電によって得られた電気によって風車が回転し、新たな風力エネルギーが獲得されることと同様であろう。
2020年05月16日
田村伊知朗
マンガ(2)
いしいひさいち近代論(1)――「クニ」あるいは故郷意識の変遷――村落、藩、県、国家そして県への逆流――コロナヴィールス-19の感染に関する県民意識の復活
2020年05月16日
田村伊知朗
クニという言葉は、故郷を表している。江戸時代であれば、村落を表現していた。、どれほど拡大しようとも、明治維新前まで故郷という概念は、所属する藩という領域を越えることはなかった。大多数の小作農民にとって、隣の藩へと越境することは、御法度であったし、その必要もなかった。
近代革命が始まろうとした江戸時代末期において、藩を超えた日本という意識が、近代革命を担った日本人、とりわけ下級武士階層において生じた。藩という領域を越えた日本というクニが意識され始めた。明治維新後、300余の藩は47都道府県に再編され、現在まで継続している。県民という意識は少なくとも、明治、大正、昭和初期まで継続した。薩長土肥という藩意識に基づく共同性は、その後も解体したわけではなかった。日本の宰相も、岸信介、佐藤栄作までその本籍は、山口県であった。軍隊が解体する1945年まで、長州閥、薩摩閥という故郷意識は日本陸軍において残存していた。
しかし、近代革命はほぼ100年経過して、県民という意識はほぼ解体した。自分のクニを県と規定する世代が減少した。明治生まれ、大正生まれの世代が鬼籍に入り始め、近代革命の目標であった国民国家は実体としてだけではなく、個人の意識においても完成された。とりわけ、元号が昭和から平成に代わり、前世紀後半から後期近代が始まった。国際化が進展し、国境を越えた移動が一般化した。自分のクニと言えば、日本という世代が増大した。日本において居住する労働者の国籍が外国であることも、稀ではなくなった。まさに、御宅のクニは、カンボジアであった。マンガ(2)
さらに、ある論者によれば、自己の共同性を都道府県単位の地域的共同性として規定するよりも、内的意識によって規定する傾向が強化された。クニという概念が消滅した人々も増加した。ユダヤ人が居住している地域によって形成された共同性よりも、ユダヤ人という人間的意識によって形成された共同性によって自己を規定するように。
いしいひさいちのこのマンガ(1)は、1988年に出版された。県民意識が残存していた最後の世代が、このマンガにおいて表現されている。しかし、それ以後、県民意識はほぼ解体されてしまったと思われていた。高校野球の県代表を応援するということも、昭和が去り、平成になってほぼその熱狂が日本全体を覆うこともなくなったかにみえた。まさに、令和の時代に入り、昭和は遠くなりにけり、という意識が出現したかの外観を呈していた。
ところが、2020年3月、コロナヴィールス-19( Coronavirus SARS-CoV-2)による感染が、日本人の生活を一変させた。この感染症は、全国一律に拡大したのではなかった。地理的差異が顕著であった。東京都や大阪府のように巨大人口を擁する都道府県が、感染数を拡大した。また、2020年5月16日現在、北海道も緊急事態宣言の重点地域の一つであった。もっとも、北海道は人口の少ない地方自治体と思われているが、その人口は500万人を擁している。四国の人口総数は、4県合わせても370万にすぎない。感染者数もその総数では多いように思われるが、総人口が多いので当然であろう。
問題は、このような都道府県別の感染者数が公表されたことにより、県民意識が復活したことにある。いしいひさいちのマンガに描かれているような都道府県別の故郷意識が復活したことにある。徳島県では、徳島ナンバー以外の自家用車に対して、検問紛いの行為が平然と実施されている。内閣総理大臣よりも、都道府県知事が「おらが町」の感染者を減少させてくれるという意識が、国民の意識を規定するようになった。
まさに、日本というクニ意識すら、希薄になった国際化時代において、100年以上前の県民意識が復活した。徳島県民意識に代表される故郷に感染者を入れない、さらに県外者を入れない。小さな故郷を清浄に保ちたい。何か別の思惑が日本だけではなく、西欧も含めた世界に蔓延しているのかもしれない。
いしいひさいちの官僚制論
いしいひさいち官僚制(1)(2) (3)は、これまでの「いしいひさいちから学ぶ政治学」等のうち、その官僚制に関する記事を集大成した原稿である。漫画を入れずに、原稿用紙約70枚の分量がある。通常の論文1~2本分である。(3)は、官僚制論と対比される政治家論である。
本稿は、
田村伊知朗「社会科学とマンガの架橋(一)――いしいひさいち官僚制論」『人文論究(北海道教育大学函館人文学会)』第89号、2020年、9-28頁、
として公表された。本文中の数字は、『人文論究』の頁数を表現している。
一つの区切りがついたという感じである。論文としてではなく、書評という範疇であるが、それもまた結構である。書評としてはよくできた部類に入ると自画自賛している。少なくとも、ドイツ語の本を一冊書評するよりも、膨大な時間を消費した。いしいひさいちのマンガを見直していると、この官僚制論には論点として出ていない新しい視点も再構成できた。いしいひさいち農村論だけではなく、いしいひさいち官僚制論第2部も構想している。
なお、(1)と(2)そして(3)に分割した理由は、このサイトにおいて写真等は10枚までという制限が、niftyによって設定されているからだ。連続して読解していただければ幸いである。
ここから、印刷部分が始まる。
はじめに
いしいひさいちが、日本を代表する漫画家であり、第一級の知識人であることはほぼ異論がないであろう。彼は、1970年代から約半世紀間、ほぼ毎日、数編の4コマ漫画を世に送り出してきた。それだけではない。より本質的に言えば、彼が偉大であることの根拠は、現代日本あるいは後期近代の事象を4コマ漫画という世界において抽出していることにある。現代社会の一側面が、わずか1頁の4コマにおいて切り取られている。
このような栄光は、社会科学に従事している研究者にとって羨望の的である。おそらく、彼は、一瞬の閃きにおいて現代社会を抽出する。研究者の多くは、1年をかけて1本の論文を執筆する。いしいひさいちと同じ結論を述べるために、数年を要する場合もある。日々、外国語文献と格闘し、論文の準備をしなければならない。それだけの労力を払ったとしても、いしいひさいちほどの読者を獲得することはない。良くて、同じ領域の研究者数人から賞賛を受けるだけである。多くの場合、学会誌の数頁を埋めるだけで終わるであろう。いずれにしろ、研究論文が社会的影響力を行使することは、ほぼ無いであろう。
ここで、数万あるいはそれ以上存在するかもしれない四コママンガから、数編のマンガが選択されている。そのどれもが、官僚制の本質の一側面を表現している。もちろん、彼のマンガは官僚制の一部分しか表象していないという批判が出てくるであろう。しかも、その一側面をデフォルメしているにすぎないという批判である。しかし、どのような高名な古典とみなされる官僚制論、たとえばヴェーバーの官僚制論であれ、その一面性から逃れることはできないであろう。[1] より一般化して言えば、どのような事象であれ、研究者によって把握されたかぎり、その特殊性を廃棄することはできない。この点は、別稿においてすでに考察している。[2]
さらに、官僚制に関するいしいひさいちの洞察は、本稿で取り上げた数編のマンガに収斂しているわけではない。彼の著作活動はより多面的な視野を持っている。官僚制に対する彼の考察を筆者の視点が矮小化していることは否定できない。忸怩たる思いにかられながらも、筆者がこの批判を甘受しなければならないであろう。
[1] Vgl. Max Weber: Wirtschaft und Gesellschaft. Tübingen 1922 (Besonders 1. Teil, Kap. III).
[2] 田村伊知朗「初期近代における世界把握の不可能性に関する政治思想史的考察――初期カール・シュミット(Karl Schmidt 1819-1864)の政治思想を中心にして」『北海道教育大学紀要(人文科学・社会科学編)』第五五巻第二号、二〇〇五年、七三―八〇頁参照。
9頁
第1節 官僚制総論
いしいひさいち『いしいひさいち選集』第37巻、双葉社、2003年、100頁。
この漫画における面白さは、落城寸前になっても、官僚的な目的合理性が追求されていることにある。自己に与えられた領域、つまり有職故実に関する事柄が議論されている。落城になれば、そのような合理性はその基盤が崩壊するにもかかわらず、有職故実に固執している。落城という現実の前にほとんど無意味であるにもかかわらず、使者の接待方法に関する議論が重臣間において熱心に議論されている。
この漫画によって揶揄されている第一の事柄は、前例主義である。前例主義とは、前例のないことをしない、という官僚に特有な意識である。前例を否定することは、前任者の瑕疵をあげつらうことになる。前任者の欠陥を是正することは、その顔に泥を塗ることにつながる。その前任者は現在の上司であることが多い。上司の意向に反して仕事をすることが嫌われる。有職故実に関する認識が不必要であるわけでない。彼らにその仕事が割り振られた以上、その仕事を貫徹しなければならない。しかし、前例をとりまいていた過去の環境世界は、もはや変化してしまっている。現時点での環境世界は、過去の環境世界と隔絶している場合も多いであろう。前例が妥当するか否か、現時点での環境世界において再検討されねばならない。にもかかわらず、前例に固執することは、愚かなことであろう。
この漫画によって揶揄されている第二の事柄は、先送り主義である。先送り主義とは、決定を先送りすることであり、キャリア官僚とみなされる高級公務員に特有な病気である。彼らは、3~4年の間隔で多くの部署を渡り歩く。したがって、その任期の間にできる前例によって規定された日常業務にしか従事しない。重要な問題を次の任にあたる後輩に委ねる。その後輩もまた、次々に次の任期のキャリア官僚に大きな問題を委ねる。
大きな問題とは、その解決のためにかなりのエネルギーを必要とする課題である。たとえば、組織内の問題であっても、多くの他の部署との折衝を要する仕事である。そのような大事な仕事よりも、より処理しやすい日常的な仕事に没頭する。しかし、いつの日かその仕事の期限がやってくる。その時には、手遅れになっている。ここでは有職故実に拘ることによって、落城における政治的決定という問題は先送りされている。
10頁
この漫画によって揶揄されている第三の事柄は、官僚組織における出世の現実態である。官僚組織は位階制組織である。権能が上昇すればするほど、その権能担当者の数は減少する。ここでは、重臣がその位階制の上位者である。問題は、このような重臣が決定権を保持していることにある。有職故実に精通した官僚が、この位階制の上位者になった。この問題こそが問われねばならない。彼らは、戦闘の場において業績を積んだわけではないはずだ。有職故実に精通することによって、位階制の階段を駆け上った。このような人間が組織の上部において席を占めていることこそが、本漫画における最大の問題点である。彼らは政治的危機に対応できないし、政治家のような世界全体像を持たない。全体的視点を放棄した近視眼的人間しか、位階制的秩序を上昇できない。
現代の官僚組織においても同様である。誤植のない文章が書ける人間、退屈な会議が好きな人間が重宝される。誤植の指摘を生き甲斐にしている人間が局長、課長等の要職に就く。漢字を読み間違えたら、減点の対象である。つまらない人間が上に立つほど、組織にとって不幸はない。現代社会における有職故実は、規則であり、前例であり、横並びの知識である。この観点からすれば、現代社会の役人と、落城寸前の御前会議における役人の間には、差異はない。
枝葉末節な事柄が、会議において熱心に議論される。重要な問題は議論されない。むしろ、漢字の変換ミスには過剰に反応する。本当の馬鹿は、自分が書いた文章を逐一読み上げる。日本語で書かれた文章をなぜ読み上げる必要があるのか。時間を浪費し、批判的議論を封じるためである。彼の読み上げ作業が終了した後、会議参加者の多くは、その文章を批判する気力を喪失している。
このような馬鹿が多く存在する会社あるいは組織は、つぶれてよいのであろうか。ただ、このような会議に参加する構成員もすべてが馬鹿ではない。良識ある構成員は落城を阻止するために、獅子奮迅の活躍をしなければならないのであろうか。そして他の馬鹿構成員あるいは上司から次のように言われるに違いない。勝手にやって、でも会議では承認されていないと。
組織においてその組織の維持、管理が自己目的化する。なんのための組織であるかが忘却され、管理に強い人間が出世してゆく。営利企業であっても、利益を上げる営業畑の人間ではなく、総務畑の人間が出世してゆく。同僚と仲良く喧嘩せず、という人間が頭角を現す。警察機構においても、犯人を捕まえることに執着する刑事ではなく、法律と規則に通じた人間が出世してゆく。何時までも犯人逮捕のために靴底を減らしている現場の刑事よりも、昇任試験に長けた法学部出身者が上司になる。現場の人間よりも、試験勉強に苦痛を感じない人間が、組織において重宝される。現代社会における有職故実に相当する法律、条令、事務次官通達に精通した官僚が、出世街道を驀進する。
この事例として、2011年3月25日に開催された第19回原子力安全委員会が、いしいひさいちのこの4コマ漫画にまさに適合している。[1] 2011年3月25日と言えば、3月14日における東京電力福島第一原子力発電所の第3号機の水素爆発を受けて、国家が危機的状況にあったときである。第2号機、第4号機も同様な危機的状況にあった。この東京電力福島第一原子力発電所の非常事態を受けて開催された原子力安全委員会は、たった42分程度で閉会している。しかも、PDFファイル12頁にわたる議事録の半分以上は、事務局によって作成された資料の読み上げに終わっている。その後の委員による議論の中心は、「『葉』になってございますけれども、これは平仮名の『は』でございます」、あるいは「平仮名の『に』を入れてください」(10頁)という文書の校正にある。
[1]「第19回原子力安全委員会議事録」10頁。In: http://www.nsc.go.jp/anzen/soki/soki2011/genan_so19.pdf. [Datum: 26.09.2011]
11頁
日本的会議の特質は、どうでもよいことに反応し、大事なことを議論しない点にある。会議は、会議に参加する構成員にとって重要なことを討論する舞台である。しかし、往々にして、些細なことに過剰反応して多くの時間を費やす。もちろん、漢字の使用法、あるいは句読点の一字によって、法解釈そのものが180度変わることは承知している。しかし、変換ミスが明らかである場合でさえも、糾弾の対象になる。
原子力安全委員会委員としての専門知識は要求されていない。基本的に委員長が事務局と相談のうえ、会議資料を作成する。その他の委員はその会議資料に基づいて議論する。彼らは、会議資料に掲載されていないことに関して知る由もない。ある事柄を会議資料に掲載するか否かは、委員長と事務局の専権事項である。
この傾向は、日本の官僚機構における会議の特色である。異議なし、と唱和するか、語句の間違いを指摘するだけである。朝鮮民主主義共和国においては、前者の選択肢しか存在しない。自称社会主義国家の会議において異議を申し立てることは、収容所送りの危険を甘受しなければならない。自称自由主義国家においては、誤字脱字の修正だけが許されている。アジアにおける二つの国家の差異は、五十歩百歩でしかない。
誤植の訂正であれば、村役場の庶務課長のほうが、より適切な指示を出せるであろう。このような議論しかできない専門委員は、村役場の庶務課長に転職したほうがよいであろう。もっとも、庶務課長ほどの文書校正能力を有しているとは思えず、庶務課主任に降格されるであろう。
このような繁文縟礼に通じた専門家しか、政府によって認定された専門委員になれない。専門知識よりも管理職的能力に通じた専門家のみが大学教授になり、そして政府の審議会委員に抜擢される。そこで求められる能力は、事務局と協調する能力と文書作成能力でしかない。
専門委員には、事務局によって作成された資料を根源的に批判し、積極的な提言を求められているはずである。事務局によって提出された文書を規定しているパラダイムを指摘し、より現実的な選択肢を提起しなければならない。あるいは文書作成者によって意図的に看過されている事象を指摘しなければならない。にもかかわらず、ここでの議論は、専門知識を要求されない事務局職員以下の水準にある。
逆に言えば、このような専門家は、官僚機構にとって統御し易い人間である。自分たちを批判しない人間のみが、専門家として認知される。学術的専門家と官僚機構の癒着が生じる。
彼らはこれまでいつもこのような議論形式に慣れてきたはずである。このような議論しかできない。それゆえ、彼らは専門家として認知された。国家の危機に際しても、このようにしか議論できない。いしいひさいちが描いた落城という危機が、現代日本にもあった。しかし、官僚組織は、日本列島崩壊という危機的状況においても前例主義という旧態依然の対応しかできなかった。
12頁
第2節 前例主義の展開
いしいひさいち『いしいひさいち選集』第11巻、双葉社、1986年、132頁。
この漫画において、「ある建物が40年経過したから、危険である」という命題と、「ある建物が40年間安全であったから、今後も安全である」という命題が、併記されている。この二つの論理が交差することはない。しかし、後者の論理の破綻は明らかである。
過去40年間において、様々な部品が劣化し、機能不全に陥っているかもしれない。それに対して、40年間安全であったがゆえに、安全であるという命題が対置される。この命題は妥当性を持っているのであろうか。官僚は前例主義を規範化している。40年間、安全であれば、今後も安全であると。しかし、この40年間に主体は、明らかに老化している。客観的条件も変化している。にもかかわらず、前例主義を主張する官僚は、馬鹿でしかない。
このような命題は、常識的にはありえない。事実、いしいひさいちもまた、この命題に反論していない。しかし、この命題が根源的に錯誤していることは、明らかである。築40年のアパートがそろそろ限界に達していることは、常識的判断にしたがえば明らかである。にもかかわらず、アパートではなく原子力発電施設が40年間、安全であれば、今後も安全である、とある論者が主張している。
ちなみに、40年という数字は、原子力発電施設の耐用年数にあてはまる。偶然かもしれないが、四半世紀以後の東京電力株式会社福島第一原子力発電所の耐用年数を示している。いしいひさいちの漫画家としての評価は、天才と言うしかない。天才であるがゆえに、彼が当初意図していない結果を暗示している。
より一般化して言えば、前例にしたがうということは、環境世界の変化を考慮しない。過去の環境世界は、現在の環境世界と異なっている。この変化を考慮せずに、過去の経験知が絶対化される。
第3節 先送り主義の展開
いしいひさいち『問題外論』第11巻、チャンネルゼロ、1997年、45頁。
第1節の官僚制総論の補論として、現代政治における先送り主義がここにおいて展開されている。橋本龍太郎総理と主要各省の事務次官の話し合いの場面にも出てくる。橋本龍太郎総理は、大臣に信頼を置いていない。大臣は政治家であり、専門知をもっていないからである。
彼は、事務次官に代表される高級官僚を信頼している。とりわけ、外務省、法務省、自治省という主要省庁の官僚を信頼している。官僚の専門知が、大臣の専門知よりも優れている、と彼はみなしている。
13頁
しかし、彼もまた専門知を持たない政治家にすぎない。その判断力が各省の大臣と同等であるということを見落としている。官僚の知は、官僚の独自の圏域において形成されてきた。先送り主義も彼らの習性である。政治家は専門知を持たないが、総体知あるいは世界観的知を持っているはずである。
第4節 減点主義の展開
いしいひさいち『いしいひさいち選集』第13巻、双葉社、1986年、118頁。
第1節の官僚制総論の補論として、官僚個人に対する評価基準を問題にしてみよう。官僚の評価基準は、加点主義ではなく、減点主義である。国民にとってどれほど良い政策を実施したとしても、それは評価されない。むしろ、新しい仕事をすれば、周囲と無用な摩擦が生じる。同僚そして他の部局に新しい仕事と任務を与えるからだ。それでなくとも、高級官僚の予備軍は、必要以上の仕事をそもそも抱えている。それに加えて、ある官僚が新しい仕事を考案すれば、より仕事量が増大する。勤務時間が増えても、労働賃金が増えることはない。残業代金の上限は、年度計画において前もって規定されている。上限を超えた残業代金は支払われない。
この新規の仕事が成功すれば、まだよい。失敗した場合には、それ見たことと嘲笑される。できるかぎり、前例にしたがって、失敗がないことを心がける。
しかし、自分が前例にしたがって仕事をしたとしても、災難は周囲から生じる。部下が不祥事を起こせば、その管理責任を取らされる。部下が物品を横流しすれば、管理責任を問われる。勤務時間内の不祥事であれば、直接的責任がなくとも、その失敗の全責任を取らされる。
校長は、学校内の管理責任を最終的に負わねばならない。部下である教諭がいじめに対して適切な処置をしなかった。その結果、いじめを受けた生徒が自殺した。昨今、よく新聞の社会面に、いじめによる自殺が報道されている。
校長個人はこの不祥事により、懲戒処分が予定されている。減給処分等が想定されるであろう。減給処分は月間給与が減少するだけではない。年金、退職金にも反映される。それだけではない。給与が良くて、仕事が楽な天下り先から排除される。特に、小学校教諭であれば、地元の大学教育学部卒業生である場合が多い。同窓会組織からも、懲戒処分対象者として、白眼視される。
14頁
第5節 減点主義に関する一般的補論
いしいひさいち『いしいひさいち選集』第22巻、双葉社、1997年、55頁。
ここで、官僚機構の評価基準として減点主義をより普遍化してみよう。いしいひさいちのこの漫画は、闘将として有名であった中日ドラゴンズ監督の選手管理の方法を揶揄している。彼は鉄拳制裁つまり暴力によって選手管理を実施した。いわゆる熱血監督として有名であった。彼の鉄拳制裁の思想は、監督と選手における命令=被命令関係を前提にしている。もちろん、監督がこの位階制において上位の権能者である。
ここでは、暴力ではなく、減点主義つまり罰金制度によって選手を管理しようした。彼の管理政策に対抗するために、選手は積極的行為を断念している。失策を恐れて球を追うことをしない。多くの失策はファインプレーと紙一重である。通常であれば、ヒットになる打球を追うことによって、ファインプレーが生じることもあれば、失策になることもある。
たとえば、遊撃手の宇野選手は、遊撃手としての仕事をしない。宇野選手は仕事を回避することによって、その評価が高まるという矛盾した結果になる。少なくとも、罰金制度の対象者にならない。
官僚機構もこの評価方法の弊害から免れていない。前例のない積極的仕事を企図すれば、成功することもあれば、失敗することもある。したがって、多くの官僚機構構成員は、前例主義にしたがって行為するであろう。前例を踏襲することによって、減点の対象になることはない。
第6節 誤植の訂正――日本語の意味の転倒
いしいひさいち『バイトくん』第5巻、双葉社、2006年、68頁。
先ほど、誤植の訂正がほとんど無意味な仕事であるかのように論じてきた。しかし、変換ミス、あるいは句読点の位置が少しずれるだけで、日本語の意味が変わる場合もある。その事例として、いしいひさいちは次のような事例を挙げている。「わ~、すごいマンション」と「わ~すごい、マンション」という二つの用語の発音記号は同じである。両者とも「Wa, Sugoi, Mansion」であり、句読点の位置が異なるだけである。しかし、前者は、すごいマンションと普通のマンションの存在を前提にしている。「すごい」という形容詞が、比較級、最上級を持っている。
15頁
対照的に、マンションの存在自体が素晴らしいことを、後者は描いている。この「すごい」という形容詞は、状態記述形容詞であり、すべてのマンションは素晴らし存在である。ここでは、比較級、最上級はありえない。すべてのマンションが素晴らしいという文が、すごいマンション
このように、句読点の位置を変えるだけで、文意も変わる場合もある。しかし、それはまれである。現在の官僚機構における会議で指摘される誤植の修正によって、文意が変わる場合だけ、誤植は修正されるべきであろう。それ以外の誤植の修正は、専門的会議では無意味であろう
承前
第7節 書類至上主義
いしいひさいち『眼前の敵』河出書房新社、2003年、22-23頁。
官僚制の位階的秩序を上昇すればするほど、下部機関から上がってきた書類に依拠して政治的決定を実施する。上位の決定権能者には、書類において形成された事象と現実態が同一であると映現している。その書類が間違っていれば、政治的判断を間違える。この漫画は、書類において再構成された現実態と、現実態そのものが乖離していることを指摘している。さらに、現実態と無関係に上部機関が、上部機関に都合の良い現実態を再構成している。現実の師団はすでに壊滅しているにもかわらず、地図の上における師団を動員することによって、敗色濃厚な戦局を打開しようする。
このように上部機関が振舞うことを、下部機関は知っている。官僚機構において、しばしば下部組織は上部組織に上げる書類を改竄する。第一に、この書類改竄の目的は、義務を持っている労働者が責任を逃れることにある。現実態とは異なる事実を記載することによって、下部組織は降格、解雇さらに刑事訴追等から逃れることができる。下部吏員の現在の地位と賃金は、安泰である。いかなる責任を取ることもない。
第二に、現状維持という安泰感は、それ以上の安楽をもたらす。それは、書類至上主義と言われる病理と関連している。この用語は私の造語である。現実における危機を現実態においてではなく、書類の上で解消する。当然のことながら、現実態において危機は残存している。しかし、書類を作成する下部組織は、それによって自己満足に陥る。危機は去ったと。上部組織もそれについて気が付いている。気が付かない上部組織は馬鹿である。しかし、気が付いていて、それを黙過する上部組織は、なお馬鹿である。いずれにしろ、上部組織の暗黙の了解のもとで、下部組織は書類を改竄する。
16頁
第三に、書類を改竄することは、現状維持を目的にしている。現状が過去と同一の状態にあるという虚偽の報告書を偽造する。この病理は、官僚化した組織に特有なものである。組織を活性化するような積極的姿勢は評価されない。むしろ、それは疎まれる。現状の危機を報告することによって、下部組織が新たな仕事を引き受けることになる。つまり、負担が増える。官僚化した組織においてこの言葉は、水戸の御老公の印籠に相当する。書類上が現状の危機を表現していれば、下部組織の仕事が今後増えることは明白である。それを回避するために、短絡的に書類を改竄する。書類的総合性があれば、仕事は増えないからである。現状が書類の上で過去と同一であれば、問題ないとされる。前例主義あるいは現状維持志向が、官僚組織の通弊である。
この書類至上主義は、旧ソ連末期における書類上の食糧の確保と現実態における食糧危機に典型的に妥当していた。毎日のように、ゴルバチョフ・ソヴィエト連邦共和国共産党書記長のもとに資料が下部組織、各連邦共和国から上がってくる彼の手許にある資料によれば、ソヴィエト連邦共和国は十分すぎる食糧生産高を有していた。輸出も可能であった。第三世界の貧困国に食料援助をしていた。
しかし、モスクワの街の食料品店では、長蛇の列が食料を求めて形成されていた。食糧の緊急輸入が常態化していた。現実のソ連住民には、十分な食料が供給されていなかった。食糧危機が蔓延していた。ゴルバチョフ・ソ連共産党書記長は、書類を見る気力を喪失したはずである。書類上、ソ連は安泰であった。しかし、現実態において前世紀末にソヴィエト連邦共和国自体、そしてソヴィエト連邦共和国共産党が崩壊した。官僚集団あるいは官僚化した組織は、この病理に多かれ少なかれ侵されている。その危機を回避できる健全性が求められている。
第8節 書類を読解する能力(その一)――官僚機構における権能の上昇と老化現象
いしいひさいち『いしいひさいち選集』第5巻、双葉社、1991年、19頁。
この漫画において、老参謀長が、すでに壊滅した師団をもう一度、机上の作戦の展開主体にしようとしている。官僚制における二つの問題点が露呈している。一方は、書類至上主義の問題である。この意味は前節において論じられている。他方は、官僚制における権能上位者の年齢の問題である。位階制の階梯を登るためには、一定の時間を必要としている。その頂点に君臨するときには、すでに老境に達している。日本の官僚機構においても定年間際になって初めて、事務次官の職位に到達する。
一般に、自然人の肉体的能力は20~30歳を頂点にしている。あとは下り坂である。精神的な活動能力は肉体的能力と比べて、その衰えは緩やかかもしれない。しかし、衰えは隠しようがない。
17頁
位階制の頂点に立つ人間の判断能力に疑問符がつけられている。その頂点に立つ人間は、何も考えずに、50歳前後の課長によって決裁された書類に承認の印鑑だけを押せばよいのかもしれない。
第9節 情報公開の本質
いしいひさいち『問題外論』第2巻、チャンネルゼロ、1993年、129頁。
官僚の行為は、ある本質的なものを隠蔽することにある。もちろん、すべての行為がそうであるとみなしているわけではない。しかし、ある行為の目的が、別の本質的行為から市民の眼をそらせることにある。
ここでは、プルトニウム運搬船あかつき丸に関する情報公開が問題になっている。当時のマス・メディアそして市民が知りたかった情報は、あかつき丸の運行経路、プルトニウムの運搬量等であったはずである。しかし、当該官庁は、この運搬船の労働者の趣味嗜好に関する情報を公開した。官僚は、前者に関する情報を公開する企図を持っていなかった。むしろ、それを隠蔽しようとした。
この運搬船の労働者の趣味嗜好も、運搬船あかつき丸に関する情報公開であると、官僚的思考はみなした。もちろん、広義では個人情報も情報公開の情報という範疇に属する。市民が欲している情報と、官僚が公開すべきであるとみなした情報の間には、巨大な径庭がある。
いしいひさいちのこの漫画に似た事例は多数ある。飛翔体に関する情報公開にふれてみよう。近年では、北朝鮮からしばし飛翔体が日本の領空を侵犯している。ミサイルが飛来するという情報は、巨大な予算を浪費して発信されている。しかし、国民の健康を害する情報、つまり国民がある程度防御できる情報は、警報として出さない。ある都市において放射性物質の空間濃度が上昇しても、当日その情報が警報として公開されることはない。数日経過して市民に公開されても、市民はどうしようない。
ミサイルが飛来しています、という情報をいただいても、どうしようもない。竹槍で撃ち落とせと命令しているのであろうか。ミサイルに竹槍で勝利するぞ、というスローガンが、今後巷に溢れるのであろうか。
18頁
私の家の納戸には竹槍すらない。野球のバットはあるが、私は直球とカーブしか打てない。ミサイルがフォークすれば、空振りである。そのような情報はどのような意味があるのであろうか。
第10節 英語の濫用
いしいひさいち『バイトくん』第4巻、双葉社、2005年、30頁。
奇妙なカタカナ英語が氾濫している。いしいひさいちは、ここで塵紙交換をチリ紙スワッピングと言い換えることの奇妙さを揶揄している。ここで問題であることは、カタカナを使うことではない。むしろ、カタカナを使用することによって、事柄の本質を不可視なものにすることである。カタカナあるいは和製英語を使用することによって、たんなる塵紙交換が、主婦の潜在的願望と一致するかのごとき外観を呈している。
たとえば、数年前に狂牛病という家畜の病気が世界を席巻した。ある時、この名称はBSEと改称された。通常の日本人は、BSEを理解できない。事柄の本質を示すような日本語がかつてあった。あるいは、もっと分かりやすい翻訳語であれば、狂い死病あるいはヤコブ病であろう。
この病気は、牛だけのものではなく、人間にも係わってくるからである。死ぬのは、牛だけではなく、人間でもある。本当の恐怖は、牛肉を食した人間が、苦しみながら、死んでゆくことである。
しかし、この言い換えがおそらく行政機関から指導された時期は、アメリカ合衆国農務長官が、対日牛肉輸出再開を要求していた時期と奇妙に一致していた。それは、2005年11月である。そして、アメリカ合衆国の要求は、2005年末に実現された。アメリカ合衆国産の安価な牛肉を食べる日本人が、この狂い死病に罹患して、長期間苦しみながら死ぬ、という可能性は考慮されたのであろうか。年収300万円以下の下流日本人は、安価な牛肉を求めるからである。
おそらく、このアメリカ合衆国産牛肉輸入再開を決めた高級官僚、あるいは国会議員たちは、このような牛肉ではなく、和牛、あるいは神戸牛を食するのであろう。彼らの年収は少なくとも、1,200万円を超えている。期末手当と勤勉手当を含めて、月間100万円を消費活動にあてることができる。安価な牛肉ではなく、適正価格の国産牛肉を食することができる。間違っても、数百円の牛丼を朝、昼、晩、毎日食べ続けることは、ないであろう。このような牛肉を食べる必要がないからである。
通常のスーパーマーケットに行けば、但馬牛も、神戸牛も購入することができる。100グラム、数百円から数千円という値段で購入できる。高級官僚、財界人の年収からすれば、小遣いの範囲である。政治家御用達の赤坂の高級料亭で、100グラム200円のアメリカ合衆国産牛肉を提供することは、ほとんどありえない。もし、このような安価の牛肉を提供する高級料亭があれば面白い。それを看板に掲げる神楽坂や赤坂の料亭があれば、一度見てみたい。
このような翻訳による曖昧化は、事柄の本質を隠蔽するものであろう。カタカナ英語は、事柄の本質を明確化するためではなく、それを隠蔽するために使用されている。そして、このカタカナ英語のほとんどが、アメリカ合衆国由来であることは、偶然であろうか。この翻訳用語を定着させたのは、現在の官僚組織における課長、室長、あるいは課長補佐である。彼らの英語能力に欠陥があるとは思えない。むしろ、平均的日本人以上の英語能力を有していることは明らかであろう。なぜ、彼らがその正当な訳語ではなく、むしろ誤訳あるいは迷訳に近い翻訳語を選択したのであろうか。
彼らは、30歳前後においてアメリカ合衆国に国費留学している。戦前の高級官僚がアメリカ合衆国だけではなく、ドイツ、イギリス、フランスに留学してきたことと対照的である。旧西独の首都ボン、あるいはフランスの首都パリへの留学は、語学上のハンディもありほとんど推奨されていなかった。少なく見積もっても、課長より上級の官僚の半数以上は、アメリカ合衆国への留学体験があるはずである。彼らは、20歳代後半、30歳代前半においてアメリカに留学する。もちろん、自費ではない。官費による留学である。
19頁
彼らは私費留学生とは異なり、学生寮に住むことはない。日本流に表現すれば、3DKの部屋に6-7人で住むことはないはない。数人の寄宿生が一つのトイレをめぐって闘争することは、ありえない。
留学場所にもよるが、多くの場合、瀟洒な一戸建てがあてがわれる。夫婦ともども高級官僚であれば、プール付きの豪邸も可能である。アメリカでは、平均的な住居である。自家用車で数10分運転すれば、郊外において瀟洒な住居は数多くある。
しかし、彼らも公務員である。学位を取得して、数年後帰国すれば、ほとんど改築されていない古びた官舎に居住せざるをえない。公務員官舎に対する批判は近年盛んであるが、それは近隣の民間住宅との比較から生じるのであり、アメリカ、オーストラリアの住宅事情を勘案すれば、大差ない。林家彦六師匠の名言を借りれば、官舎もまた長屋(ナガヤ)でしかない。高級官僚も長屋(ナガヤ)の皆さんでしかない。長屋に居住せざるをえない高級官僚という概念は、矛盾に満ちている。官僚的世界において、アメリカ合衆国の生活様式そしてその政策は規範になっている。その規範にしたがって、日本を改良しようとする。
そこにおいて、彼らの政策意図を込めているのではなかろうか。もし、そうでなければ彼らは無能な役人になるであろう。なぜ、アメリカ合衆国の政策とその生活状態を日本に定着させねばならないのであろうか。彼らは、アメリカ合衆国の留学生活において、日本の官僚の生活水準以上の生活をしてきたことを考慮に入れねばならないであろう。たとえば、住環境という観点からも、アメリカ合衆国において日本人の平均的水準以上の生活をしてきたはずである。その水準を維持するために、現在の日本を変更しようとしているのであろう。この政策意図を明らかにし、それに代わる対案を市民が準備することが、今求められている。
20頁