中島正論序説――いしいひさいち農村論を媒介にして  

中島正論序説――いしいひさいち農村論を媒介にして  

 

                                                        田村伊知朗

はじめに

 

  いしいひさいちが、日本を代表する漫画家であり、第一級の知識人であることはほぼ異論がないであろう。彼は、1970年代から約半世紀間、ほぼ毎日、数編の4コマ漫画を世に送り出してきた。それだけではない。より本質的に言えば、彼が偉大であることの根拠は、現代日本あるいは後期近代の事象を4コマ漫画という世界において抽出していることにある。現代社会の一側面が、わずか1頁の4コマにおいて切り取られている。

  このような栄光は、社会科学に従事している研究者にとって羨望の的である。おそらく、彼は、一瞬の閃きにおいて現代社会を抽出する。研究者の多くは、1年をかけて1本の論文を執筆する。いしいひさいちと同じ結論を述べるために、数年を要する場合もある。日々、外国語文献と格闘し、論文の準備をしなければならない。それだけの労力を払ったとしても、いしいひさいちほどの読者を獲得することはない。良くて、同じ領域の研究者数人から賞賛を受けるだけである。多くの場合、学会誌の数頁を埋めるだけで終わるであろう。いずれにしろ、研究論文が社会的影響力を行使することは、ほぼないであろう。

 

 

 

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1節 百姓という存在形式

 

 さて、この物語の主人公、甚太少年は、小学校のある村落の中心街から30キロほど離れた山村に住んでいる。[1]  毎日、片道30キロほどの道のりを約5時間かけて通学している。往復10時間ほどかかる。通常ならば、村落共同体の中心街に下宿するという選択肢が採用されるが、様々な事情で通学を余儀なくされたのであろう。学校と自宅を往復するために、10時間前後を要するということは、体力的観点だけではなく、時間使用的観点からも、ほとんど無意味である。通学のために10時間、睡眠のために8時間を用いれば、実質的な活動時間は6時間しか残っていない。その結果、彼は登校することを諦め、「ただの百姓」になった。おそらく、義務教育すら完全には受けていない。彼には、「ただの百姓」という選択肢しか残っていなかった。

 「ただの百姓」という概念は、近代社会において肯定的に使用されることはなかった。多くの農民の子弟は、この数百年の近代化過程において学校制度という選択装置を通じて都市に移住した。有意の人材であれば、なおさらである。郷土の希望の星として官界、政界、財界、学界等において君臨した。彼らが身を立て、名を上げるためには、農村や山村に居住することにとどまっているならば、不可能であったであろう。彼らは都市に住み、郷土を後にした。「ただの百姓」であることを拒否し、農村を捨てた。有意の人材でなかったとしても、金の卵として都市に流入した。その多くは、下層労働者として都市住民になった。都市下層住民として、大衆社会の一翼を担った。

  有意であろうが、なかろうが、都市住民は「ただの百姓」から食料を供給された。この点において、都市住民と「ただの百姓」は、対立関係にある。かつて「ただの百姓」あるいはその子弟であった青年は、自らの出自である「ただの百姓」であることを否定している。いしいひさいちが、このような現代日本、いな後期近代という時代を通底する近代の自己意識の一側面を抽出した。彼は、その意味で賞賛に値するであろう。ほぼすべての文化は、都市において生産される。彼によって描写された現代日本の社会論、たとえば『山田家の人々』、『ののちゃん』等は、その叙述対象がほとんど都市住民の生活様式である。

  対照的に、中島正の思想は、この近代という時代精神とは異なる位相にある。彼は「ただの百姓」であることの意義を称揚し、都市住民の存在意義を否定した。彼の思想の根底には、蓑虫革命と命名された原理がある。「蓑虫革命とは――『自分の食い扶持は自分でさがすが、つくる』という人間本来の生存の原則にしたがって、大自然の掟に順応した自然循環型農業を営み・・・自給自足自立の生活に入ることをいうのである」 [2](2)  中島正は、究極的には民族皆農を主張する。「都市機構を潰し、都市活動をやめて、太古に存在した農耕社会に還る」。[3] 都市ではなく、農村に万人が居住する社会を理想とする。

  次節では、農民と対照して、都市住民の生活に言及してみよう。とりわけ、都市における大学という存在形式に言及してみよう。

 

[1]   いしいひさいち『いしいひさいち選集』第9巻、双葉社、1992年、91頁。    

[2]   中島正「私の百姓自立宣言⑦ 『自然世』を近づける蓑虫革命とは」『現代農業』第62巻第7号、農山漁村文化協会、1983年、352頁。

[3]   中島正『都市を滅ぼせ 人類を救う最後の選択』舞字社、1994年、174頁。

 

 

 

第2節 大学という社会的存在形式

 

 

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2節 大学という社会的存在形式

 

  今回の物語の主人公、新田の政次君は、村で初めて東京の大学に行った。それまで、農村近郊の地方都市に存在する大学に進学する子弟は、少なからずいたのであろう。しかし、首都東京に進学した子弟は、政次君が初めてであったようである。[1]

 彼が、三菱物産という日本を代表する企業において就職内定を獲得した。三菱物産という会社名は、三菱商事と三井物産という代表的商社に由来している。創作の世界では一般に使用されている超一流企業名称である。生涯賃金、社会的知名度、福利厚生等の観点から、現代日本における最高の企業の代名詞として使用されている。この企業で労働をすることは、多くの大学生そして多くの日本人によって羨望の的になる。一般的大卒労働者の平均的生涯年収は、2ー3億円と言われている。さしあたり、2.5億円としてみよう。対照的に、三井物産の平均的生涯年収は、5億円である。ほぼ、平均的労働者の2倍の年収をこの企業の労働者は獲得する。平均以下の生涯年収しか獲得できない労働者の4-5倍の賃金を獲得できる。

 新田の政次君がこの企業に内定した。この事象は、彼の故郷の農村においてニュース的価値を持っていた。彼の就職内定に関する記事が、地方新聞の地域欄に掲載された。もちろん、就職協定に違反していた。有名無実化しているとはいえ、この協定は遵守されねばならない。したがって、この内定が取り消されるという、いしいひさいち流の落ちがついている。

  この4コマ漫画の落ちの部分を除いて、この物語は次の点を前提にしている。第一に、農民の子弟が東京の大学に進学することが、農民あるいは農村の共同意識において素晴らしいと認識されている。新田の政次君は、農村の共同意識において東京の大学に進学した段階においてすでに郷土の誉れであった。子弟が大学生として都市の住民になること、より厳格に言えば、都市の上層市民になることが、農民の意識において郷土の誉れとみなされている。これまでも、この農村から都市の下層市民になったことは、稀ではなかったであろう。農村の子弟が、1950~1960年代に金の卵として大都市とりわけ東京に流入した。中卒労働者として都市の下層市民になった。中卒労働者と大卒労働者は、日本社会において明白に区別されている。新田の政次君が中学を卒業して、東京の労働者となったとしても、その事実が新聞記事になることはない。

  第二に、新田の政次君は東京の大学に進学し、大学生として就職活動をした。三菱物産という日本を代表する企業に内定した。三菱物産の労働者は、ほぼ偏差値の高い大学卒業者から構成されている。この難関大学に入学することは、高校生を抱える両親の希望である。大企業に就職することは、後期近代において社会的に承認されている。大企業に就職することによって、後ろ指をさされることは、めったにないであろう。もっとも、全共闘世代あるいはこの世代と価値観を共有している人々にとって、大企業への就職は社畜への第一歩として馬鹿にされたであろうが、21世紀の学生にとってこのような企業への就職は、ほとんど痛痒を感じないであろう。

  彼が有名大学において優秀な成績を修めたことは、当然であろう。彼は大学生として刻苦勉励した。あるいは、彼は刻苦勉励するための能力を保持していたのであろう。東京の有名大学卒業生の大半は、三菱物産に就職できない。上位の成績優秀者のうちにいなければならない。多数の「優」を獲得することは、成績優秀者として当然であった。社会的エリートとして十分な基礎教養が、彼の4年間の学業生活において形成された。

  このいしいひさいちの4コマ漫画において描写されている事態は、現代日本人にとって願望である。子弟が東京の有名大学に進学し、有名企業に就職した。この事実において非難される要素はないかのようである。しかし、中島正はこのような大学生の意識ひいては大学の社会的役割を次のように、批判する。「大学は、汚染破壊集団の予備軍養成所である・・・・年々無慮20数万にも及ぶ大卒が、悉く農民の汗の上に居座って不耕貪食を企み、汚染農業を余儀なからしむるだけでなく、その過半数は工業化社会の活動の中心になり、・・・自然=環境に迫害を加え続ける」。[2]  大学生という社会的存在形式は、その価値が否定される。大学生そして都市住民は、農民と農村に対して害悪を加える存在でしかない。彼らが都市住民であるかぎり、彼らは農村から食料を供給してもらわねばならない。にもかかわらず、農民の子弟が社会的賞賛を受けるためには、農村ではなく、都市において居住しなければならない。「ただの百姓」であることは、社会的賞賛の対象外である。対照的に、中島正は、身を立て、名をあげることを拒否する。不耕貪食の都市住民という存在形式が、中島正によって根底的に批判される。

 

おわりに

 

  中島正の思想も、いしいひさいちの漫画も、独立して論じられるべき対象である。今まで、『田村伊知朗 政治学研究室』において、両者は断片的に論じられてきた。また、政治学概論と政治思想史講義草稿の補助教材として提示されてきた。今後、それらをより明確な形で提示したい。この作業は、後期近代という時代精神を対自化するために不可欠の前提になろう。

 

 

 

[1] いしいひさいち『ノンキャリウーマン』第2巻、双葉社、1999年、110頁。

[2]   中島正『みの虫革命――独立農民の書』十月社出版局、1986年、152-153頁。

 

  本記事は、『公共空間 X』に転載されている。(In: http://pubspace-x.net/pubspace/archives/6613. [Datum; 27.05.2019]) なお、転載以後、加筆修正している部分もある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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密告(チンコロ、タレコミ)に対する儒教の論理と人間の共同性――業田良家「シャルルの男」『独裁君』

20140525 密告(チンコロ、タレコミ)に対する儒教の論理と人間の共同性――業田良家「シャルルの男」『独裁君』

 

20190510 追記

 

1、50年前の西日本ではチンコロという日常用語を、一般人でもよく使用していた。しかし、タレコミに比べて、東日本そして21世紀ではかなり廃れているようである。タレコミと併記する。

 

2、 密告を奨励する組織がある。組織として、密告を奨励することは、内部で問題を解決する能力がない。北朝鮮と同様に、日本国政府がセクハラ、パワハラを組織上部に密告を奨励している。しかし、これを奨励するする組織において人間的交流は期待できない。できるかぎり、かかわらないことを肝に銘じておこう。この組織は、北朝鮮の社会制度と同じである。そして、同僚、上司を陥れようとすれば、この制度を利用して虚偽の事態を、組織上部に密告すればよい。

 そのような組織をよくしようとはおもわない。Scheiße egal, dieses Institut! Fleihen Sie sofort aus ihm ! 

 

 

 

 

 

 

 

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(クリックすると、画像が拡大されます)。

 

 

『論語』(子路第13320)に以下のような言葉がある。

 

 

 

 

 

 

 

「葉公語孔子曰。吾党有直躬者。其父攘羊。而子證之。孔子曰。吾党之直者異於是。父為子隠。子為父隠す。直在其中矣」。(葉公、孔子に語りて曰わく、吾が党に直躬なる者あり。其の父、羊を攘む。而して子、これを証せり。孔子曰わく、吾が党の直き者は是に異なり。父は子の為めに隠し、子は父の為に隠す。直きこと其の中にあり)。

 

 

 

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波書店、2000年、214215頁。

 

 

 

 

 

 

 

(田村による)意訳

 

 

 

「父が羊を盗んだ。子は父の行為を政治的支配者に密告した。政治的支配者は、その行為を正直であるとした。それに対して、孔子は、父子は相互に匿うべきである。それが正直である。人間的である」。

 

 

 

 

 

 

 

 儒教は、第一次集団的関係たとえば家族及び氏族に基づいて、そして社会総体に至るという同心円的な位階制構造を有している。家族主義的国家観も儒教に基づいているとされている。しかし、その基本は、人間が直接的関係を結べる家族あるいは親族間の関係である。人間そして動物が結ぶ直接的関係が、社会構造の基本になる。問題は、社会的規範と家族的規範が矛盾する場合である。儒教の論理は、前者に対する後者の優位にある。

 

 

 

 北朝鮮つまり朝鮮民主主義人民共和国が儒教国家であるという説がある。しかし、それは当てはまらない。儒教の論理、人間の直接的関係を優先すべきであるという論理は、崩壊しているのだろう。すべては金正日、金正恩同志のためという論理構造において、家族関係よりも政治的支配層の意思が優先されている。「金正日様、あなたなしでは生きてゆけない」という歌は、著名である。ここでは、金正日が父親、あるいは配偶者に擬されている。

 

 

 

 金正日と現実的父親の意思が同一であれば、問題ない。しかし、両者の意思が分離するとき、子供は金正日つまり政治的な父親の意思を優先する。この矛盾を業田は示した。ある共同体の論理よりもより上位の共同体が優先されるとき、密告(チンコロ、タレコミ)が奨励される。密告(チンコロ、タレコミ)が奨励される社会は、もはや人間的社会とは言えない。少なくとも、密告(チンコロ、タレコミ)を優先する社会は、共同体とは言えない。密告(チンコロ、タレコミ)と共同性とは、相容れない。人間はより直接的関係を重視すべきである。業田良家はこの意味を明確にした。

 

 

 

 

 

 

 

業田良家「シャルルの男」業田良家『独裁君』小学館、2008年、114115頁。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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花輪和一とホッブス

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花輪和一『刑務所の中』青林工藝舎、2000年、210頁。


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花輪和一は、しばしば縄文人を自由人として表象している。 近代社会を国家によって管理された社会とみなし、縄文人を自由人とみなしている。しかし、それは自然状態の第一段階を表しているにすぎない。自然状態における資源が有限であることによって、人間は人間間で闘争状態に陥る。これがホッブスの論点である。

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いしいひさいち官僚制論(その四)――前例主義の欠陥

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いしいひさいち『ドーナツブックス・いしいひさいち選集』第11巻、双葉社、1986年、132頁。

 いしいひさいちの漫画家としての評価は、天才と言うしかない。天才であるがゆえに、彼が当初意図していない結果を暗示している。東京電力福島第一原子力発電所が築40年ということもあり、日本の大惨事をもたらした。対照的に、東京電力株式会社福島第二原子力発電所は、ほぼ同じような打撃をうけながらも、そのようにはなっていない。
 それは、過去40年間において、様々な部品が劣化し、機能不全に陥っていたからである。それに対して、40年間安全であったがゆえに、安全であるという命題が対置される。この命題は妥当性を持っているのであろうか。官僚は前例主義を取りがちである。40年安全であれば、今後も安全であると。しかし、この40年間に主体は、明らかに老化している。客観的条件も変化している。にもかかわらず、前例主義を主張する官僚は、馬鹿でしかない。
 このような命題は、常識的にはありえない。事実、いしいもまた、この命題に反論していない。しかし、この命題が根源的に錯誤していることは、明らかである。築40年のアパートが、そろそろ限界に達していることはあきらかである。にもかかわらず、ある論者は40年安全であれば、今も安全であると主張する。その馬鹿さ加減を漫画という形式において、明瞭に提示した。

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シャルリ・エブド社(Charlie Hebdo)による風刺画(その二)――東京電力福島第一原子力発電所と福島県民を虚仮にする風刺画――手足が3本ある日本人

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シャルリ・エブド社(Charlie Hebdo)による風刺画(その二)――東京電力福島第一原子力発電所と福島県民を虚仮にする風刺画――手足が3本ある日本人


"Le Canard enchaîné" froisse Tokyo

Le Monde.fr avec AFP | 12.09.2013 à 08h10 • Mis à jour le 12.09.2013 à 09h17

En savoir plus sur http://www.lemonde.fr/japon/article/2013/09/12/le-canard-enchaine-froisse-tokyo_3476202_1492975.html#3HYBp7blMzrlSyXy.99

http://www.lemonde.fr/japon/article/2013/09/12/le-canard-enchaine-froisse-tokyo_3476202_1492975.html[Datum: 19.01.2015]

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(クリックすると、画像が鮮明になります)。

 シャルリ・エブド社(Charlie Hebdo)による風刺画をめぐる議論が本邦でも盛んである。この場合、イスラム過激派に対する共感は少ない。もっぱら、シャルリ・エブド社(Charlie Hebdo)による風刺画を肯定的にとらえている。その内容に眉をひそめる人も多いが、「出版の自由と言論の自由」を守るべきであるという御旗に逆らうことはできない。
 しかし、この風刺画を肯定する人間は、東京電力株式会社福島第一原子力発電所に対する風刺もまた、肯定しなければならない。東京オリンピック決定後に出された風刺画は、多くの日本人にとって屈辱的であった。日本の文化を代表する相撲を、手足が3本ある奇怪な日本人がとっている。事実、日本国政府はこれに抗議していたはずである。
 しかし、イスラム教に対する風刺画の存在自体を肯定する人間は、この福島と日本に対する風刺もまた肯定しなければならない。イスラム教に対する風刺はいいが、日本に対する風刺はよくないとは、二重基準にしかすぎない。
 一般的に言えば、風刺画は読者を憤慨させ、そして考えさせる。本当に東京電力株式会社福島第一原子力発電所の事故は収束したのであろうか。その意味で、凡百の評論よりも、この一枚の風刺画が福島事故を思い出させた。多くの日本人にとって、東京電力株式会社福島第一原子力発電所の事故は、ほとんど考慮の対象外である。安倍総理の言によれば、それは「制御されている」。しかし、この風刺画を見るかぎり、海外では少なくとも安倍総理の言葉は信用されていないようである。

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 シャルリ・エブド社(Charlie Hebdo)による風刺画(その一)――出版の自由と言論の自由は無制限であろうか――低水準の対象を批判するのではなく、嘲笑すべきであった。

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http://www.charliehebdo.fr/


20150116 シャルリ・エブド社(Charlie Hebdo)による風刺画――出版の自由と言論の自由は無制限であろうか――低水準の対象を批判するのではなく、嘲笑すべきであった。

 シャルリ・エブド社の風刺画とそれに対する暴力的抗議が世界的に問題になっている。この問題の本質は後期近代におけるテロリズムとして処理されるべきであろう。なぜ、初期近代では政治的暴力が肯定され、後期近代においてそれがテロリズムとして否定されるか。しかし、この問題は本ブログで詳細に論じているので、ここでは割愛する。過去のブログを参照していただきたい。 1
ここでは、この問題を出版の自由と言論の自由の問題として考察してみよう。この出版社へのテロ行為のあとで、フランス大統領だけではなく、ドイツ首相メルケルをはじめとして西欧資本主義国家の政治的指導者がデモ行進をして「出版の自由と言論の自由」を掲げたからだ。
 しかし、この行進に参加したすべての政治指導者が、無制限の「出版の自由と言論の自由」を標榜したにもかかわらず、自国においてそれを無制限に実践しているわけではない。フランス、ドイツそして西欧において、ナチス・ドイツ時代の「強制収容所」の犠牲者を虚仮にして、ユダヤ人をいたぶる風刺画を作成すればどのようになったであろうか。この風刺画においてヒトラーとナチ親衛隊を賛美し、その論説において「強制収容所はなかった」と表現すれば、どのような事態に陥るであろうか。フランスの出版自由法(第24条の2)において、ホロコーストの存在に対する異議申し出罪が明白に表現されている。そのような論説は、刑事罰の対象になるだけであろう(もちろん、筆者はホロコーストを否定しているのではない。本文の記述は、接続法の記述に属している)。出版の自由と言論の自由は無制限ではない。それぞれの国家の歴史的コンテキストにおいて決定されている。
 ところで、この風刺画がイスラム教徒、ならびにイスラム教徒が多数派である国家を憤慨させていることは事実である。イスラム教によれば、ムハンムドの形象を描くこと自体が神への冒瀆である。いわんや、その像を虚仮にすれば、イスラム教徒が憤慨することは道理にかなっている。
しかし、この風刺画をイスラム教徒は批判すべきであろうか。ある対象を批判するという行為は、批判者と批判対象が同一の論理構造に位置することを含んでいる。批判者はある対象を批判の対象にすることによって、その実体の変革を指向する。しかし、その対象の変革を指向することは、その対象と同一の論理構造にからめとられる危険がある(この点に関しては、ブルーノ・バウアー純粋批判を参照)。
 一番良い方法は、その対象を嘲笑するだけでよかった。一部のイスラム教徒が暴力的行為をはたらくことによって、シャルリ・エブドの最近の特別号は、100万部も販売されたようである。通常の販売部数は数万部であるから、その10倍を超えている。  しかも、数分で売りきれたようである。 2 一部のイスラム教徒の行為によって、極東の国の住人ですら、この風刺画を読むことになった。この政治的暴力はシャルリ・エブドに莫大な利益をもたらした。そして、イスラム教徒一般に対する言われなき差別を助長することは、ほぼ確かであろう。
一般化すれば、馬鹿と話をすることはない。自分よりも低水準の人間と対象を批判の対象にすべきではない。馬鹿な人間と馬鹿げた対象を批判することによって、批判者もまた低水準化しなければならない。嘲笑するだけでよかった。

1
田村伊知朗「近代における初期近代と後期近代の時代区分」(2008年7月 3日)
http://izl.moe-nifty.com/tamura/2008/07/post_7bcf.html
[Datum: 03.07.2008] 参照。
2
Vgl. Wunder der Solidarität. In: Schwäbische Tagblatt, 15.01.2015.
http://www.tagblatt.de/Home/nachrichten/ueberregional/politik_artikel,-Neue-Ausgabe-von-Charlie-Hebdo-binnen-Minuten-ausverkauft-Zeichner-spotten-sogar-ueber-den-Mord-a-_arid,287389.html
[Datum::17.01.2015]

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世を忍ぶ仮の姿と、後期近代における貴賎意識―――花輪和一『みずほ草紙』における乞食への眼差し

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花輪和一「仙人」『みずほ草紙』小学館、2013年、138頁、143頁。

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20140720 世を忍ぶ仮の姿と、職業的位階制における貴賎意識―――花輪和一『みずほ草紙』における乞食への眼差し

 

 

 

 人間は何らかの事情で、世を忍ぶ仮の姿を取ることがある。たとえば、大学教授を目指す若者が、塾の講師をするということは、珍しくない。塾の講師をすることは、世間的に考えても悪くはない。国立大学の学生も、塾講師を第一志望の就職先に選ぶことは、よく聞く話である。ただ、多くの大学院生、そして元大学院生もそれを名刺に書くことはほとんどしない。世を忍ぶ仮の姿という意識が強いからだ。

 

さらに、どのように世間から蔑まされる職業についていたとしても、本人が意思を持っているかぎり、それは尊重されるべきである。ここで、蔑まされる職業を具体的に明示することは避けよう。現実社会において職業に序列があるにもかかわらず、理念的にはその序列はないことになっているからだ。

ここではあえて、世間から尊敬される職業として、県議会議員を取り上げてみよう。この職業を明示することが差別であるという論調はほぼない。市議会議員からすれば、憧れの対象である。いづれ、県議会議員になりたいと思っている市議会議員は多い。市民も県議を蔑むことはほとんどない。市民が後ろ指をさすことはない。

しかし、かつて竹下登元総理が田中派の陣笠議員だったころ、田中角栄元総理から以下のように言われたそうである。「県議上がりが、日本の政治史において総理大臣になったことはない」。竹下氏の前職つまり県議という職業が、蔑まされる対象であった。県議会議員は賤しい職業であった。もし、彼が大蔵省の役人であれば、このような言説は成立しない。大蔵官僚は、総理大臣のリクルート先として日本政治史に刻印されていたからだ。もっとも、彼はこのような貴賎意識を跳ね返し、総理大臣になった。

 

誰もが蔑む対象として、乞食が挙げられる。好んで乞食をする人はいない。しかし、何らかの個人的事由から、乞食をせざるを得ない場合もある。それを嘲ってはならない。その事由そのものが、その個人にとって不可避であったからだ。この漫画で描かれている女性は、地震によって家族と財産を喪失している。もちろん、物乞いの対象になっている人には、わからない。古代社会から初期近代に至るまで、社会的最底辺に住む人を嘲ってはならないという社会規範が日本にあった。平等意識あるいは職業に貴賎なしという建前が浸透する現代社会において、この規範はむしろ弱体化している。

 

職業に貴賎はある。このことが明示される社会において、むしろ最底辺に生きる人への眼差しは優しかった。その意味を花輪が解明した。乞食という仮の姿を取りながら、主人公は過去の自分を凝視していた。過去の自分の行状と精神を反省することによってしか、新たな自分を見出すことはできない。職業における位階制的秩序の最底辺に身を置きながら、新たな飛躍をなそうとした。乞食という職業なしに、新たな展開はない。

注記:乞食という用語は後期近代において差別用語だそうである。なんという御不自由なことであろうか。「生活一般において御不自由な人」と言い換えるべきかもしれない。しかし、花輪自身が使用しているので、ここでもこの用語を用いる。また、軽犯罪法第1条22 において、乞食という用語が使用されている。法律用語であるからには、この用語を差別用語と考える方が間違っている。差別用語を決定する権限は、どこにあるのか。もし、これが政府によってなされると、検閲に通じるのかもしれない。

 

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いしいひさいち官僚制論(その四)――全体的利益を追求する政治家?

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いしいひさいち『ドーナツブックス いしいひさいち選集』第13巻、双葉社、1986年、126頁。

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20140616いしいひさいち官僚制論(その四)――全体的利益を追求する政治家?

  官僚が視野狭窄であることは、必ずしも欠陥ではない。与えられた職務に忠実であればあるほど、そのような結果をもたらす。たとえば、かつての記事で中央省庁における一般職員が社長と呼ぶ対象について論じた。多くの一般的公務員は、課長を「社長」と呼ぶ。省益ですらない。自らの属する「課」の利益を追求する。あるいは「課」に属する国民生活に対する忠誠を遂行する。道路行政に関する「課」に属していれば、その利益を追求する。国家全体における公共交通の在り方に関して、ほとんど関心がない。

 官僚機構における国益という考えの欠如は、常識的には政治家によって補正される。政治家、本邦の組織形式を用いれば、大臣、副大臣、政務官等は、必ずしもその省庁の業務に関して精通していない。ほとんど素人同然である。全体的視野から、当該省庁の業務を概観することが求められている。

 しかし、政治家が個別的利益、つまり特定の業界利益、地域利益を追求すれば、国益という観点は看過される。日本沈没という国難に際して、大臣を統括する総理大臣も特殊利益を追求する。日本は沈没する。日本が物理的に沈没する以前に、政治的に沈没する。いしいひさいちは、この意味を明確にした。

 問題は、彼によって提起された地平の彼方にある。誰が国益を追求するのであろうか。多くの官僚は省益すら追求しない。課の利益がその主要関心事である。誰が国益を普遍的地平で考察するのであろうか。哲人政治家が求められる所以である。もっとも、哲人はどこからリクルートされるのであろうか。古色蒼然たる哲学部の卒業生からであろうか。日本には、哲学部という学部はない。たとえ存在したとしても、官僚機構によって追求される課益、省益には対抗できない。それを超えた地平が求められている。

 

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いしいひさいち官僚制論(その三)――官僚機構における減点主義

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いしいひさいち『ドーナツブックス いしいひさいち選集』第13巻、双葉社、1986年、118頁。

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20140616 いしいひさいち官僚制論(その)――官僚機構における減点主義

 かつて『産経新聞』のある記者が、公立校における「なれ合い人事」に対して、教頭による命令型組織を対置した。しかし、なれ合い人事の基礎にある「前例主義」つまり「新しい仕事をしない主義」は、校長という管理職にも蔓延しているかもしれない。この意味を「学校という官僚組織における病根」において論じた。

 前例主義という官僚主義の根幹を学習した教諭が、校長になる。より一般化すれば、官僚機構において出世するためには、この原理を学習しなければならない。官僚機構において重要なことは、新しい仕事をしないことである。新しい仕事をすれば、リスクを負う。失敗することもある。

 しかし、官僚機構におけるその評価は、減点主義である。どのように素晴らしく国民のために仕事をしようとも得点が加算されることはない。前例主義に則り仕事をした人と同じ得点である。新しい仕事をすれば、周囲との摩擦が生じる。失敗すれば、それ見たことかと、嘲笑される。

 定年前の校長を例にとり、この意味をいしいひさいちが解明した。ここでは、校長は子供という対象を見ていない。彼にとって問題は、自己の給与が如何に減額されるのか、定年後の再就職がどれほど困難になるか、だけであろう。彼の官僚制に関する白眉の漫画である。

参考までに、元の記事を貼り付ける。

20140526 学校という官僚組織における病根――

校長による学校における命令組織の強化 ? 安本寿久「学力低迷の戦犯は「民主的」学校組織だ 校内なれあい人事選挙が示す病根」『産経ニュースWest2014525 http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/140525/waf14052507000002-n3.htm [Datum: 25.05.2014]

 安本氏は、学力低迷の原因を学校における「なれあい人事」に求めている。戦後確立された「鍋蓋(なべぶた)型組織」に求めている。この組織類型によれば、校長、教頭以外の教諭は、平等であり、相互に介入しない。彼は、このような組織類型に対して、校長により権限を与えた命令組織を対置している。 しかし、物事はそれほど単純ではない。校長がこのような組織において出世できたのは、その鍋蓋組織と同じ感性を保持している場合が多いからだ。前例主義が貫徹されていることによって、彼は校長たりうる。つまり、「新しい仕事をしない主義」である。

 「休まず、遅れず、働かず」という感性は、どのような官僚組織であれ、貫徹されている。もちろん、この「働かず」は、自分に与えられた以上の仕事をしないという意味である。この原則は官僚組織を基礎づけているし、優位性を持っている場合も多い。組織が上昇気流に沿っている場合、むしろ余計なことをしないほうがよい。しかし、組織が傾いているとき、あるいは泥沼状態にあるとき、この感性は致命的になる。

 この記事において、「新しい仕事をした場合、管理責任を誰が担うのか」という問題が提起されている。このような批判が「出る杭」に与えられる。新しい仕事を提案するものは、このような批判に対して無力である。この感性が是正されないかぎり、校長による命令組織を鍋蓋組織に対置しても、意味がない。校長自身が出る杭を打つことによって、校長になったからだ。 民主的組織に命令組織を対置しても、無駄であろう。事態はより悪化する。

 任期の数年間を無難にこなすことこそが、校長に求めてられている。校長にとって最悪の事態は、年金と退職金の減額措置である。 このような官僚組織における病理を治療することはできるのであろうか。官僚組織にその自浄作用を求めることができるのであろうか。

 

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いしいひさいち官僚制論(その二)官僚機構における多数決原理の非適用――いしいひさいち『鏡の国の戦争』

いしいひさいち『鏡の国の戦争』潮出版、1985年、76-77頁 Ⓒいしいひさいち(2006.9.15

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クリックすると拡大します。この漫画の面白さは以下の点にある。それは、軍隊に多数決原理が導入されていることである。この原理の導入は想定不可能である。将校と兵隊の数は、通常、兵隊の数が多い。もし、軍隊という命令組織に多数決原理を導入すれば、軍隊という組織が崩壊するであろう。多くの兵隊は、徴兵された存在であり、戦意は将校に比べて低いからである。もし、多数決原理が導入されれば、戦争そのものが否定されるであろう。民主主義という原理は、命令組織には導入されない。もし、導入されれば、前線で生命を賭けて戦うのは、将校のみになるであろう。その架空の設定をこの漫画は採用している。あるものの本質とは異なる要素を当該概念に導入することによる面白さである。もちろん、いしいは、当該概念、ここでは軍隊の本質を把握しいている。その本質とは正反対の理念を導入することによって、その概念を鮮やかにしている。

なお、命令組織は軍隊に限定されていない。名目的にはすべての官僚組織に妥当する。また、官僚組織に比肩する強度を誇る営利企業の組織にもあてはまるであろう。そこにおいて、民主主義の原理、多数決原理は適用されない。

政治的領域において、多数決原理が適用される領域はかなり少ない。被選挙者間における平等性が前提になる領域でしかない。況や、社会的関係、家族的関係においてこの原理を導入しようとすることは、無謀という誹りを免れない。この原理が妥当する領域は、限定されねばならない。

(本記事の作成にあたり、いしいひさいち事務所様には大変お世話になりました。誌して感謝申し上げます)。

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