「珈琲時間」8 【受験生と自己責任】

 

6.理想的人間への具体的方策 6.1 助けを求めない】

「珈琲時間」8 【受験生と自己責任】

 

このごろの大学受験生は、高校時代に塾や予備校に通学するようである。しかし、平均的学生は、塾の宿題をすることで終わってしまう。自分で勉強する習慣を喪失する。また、地元志向が強い傾向にある。東京圏や大阪圏は当然であろうが、地方都市でもその傾向があるようである。例えば、函館市のような30万人都市でも、その傾向は強い。しかし、自宅から通学すると、母親にすべてお任せになる。特に、炊事、洗濯をしたことのない男子学生、そして女子学生も多い。すべての生活を両親に任せることによって、責任を他者に押し付けるようになる。

しかし、人間は自分で考えて、自分で決断し、自分で責任を負う、そして自分一人で死んでゆく。もちろん、自分の思考、決断は完全ではない。ほとんど、間違っていると言っても過言ではない。しかし、他者つまり母親、塾と学校の先生に責任を押し付けるよりも、より良いであろう。

「珈琲時間」7 【地底国教授の憂鬱と矜持】 「珈琲時間」7.3 【地底国への感謝】

20220908日投稿済

5.理想的人間像への精進 5.6 他者との関係、その二、清濁を併せ呑む】

「珈琲時間」7 【地底国教授の憂鬱と矜持】

「珈琲時間」7.3 【地底国への感謝

 

現在の境遇、つまり地底国教授であることに、感謝しよう。生涯、非常勤講師の可能性もあったからだ。現在の地底国に助教授として採用されたときのことを今でも明瞭に覚えている。人事担当教授から採用確定の電話を受けた時、涙が少し溢れてきた。

年度末の1月、2月には、数コマの非常勤講師の枠をめぐって屈辱的かつ隠微な闘争が、非常勤講師の間で繰り広げられている。1コマ削減でも、月に3万円の減収は堪えるからだ。逆に、数コマ増大すれば、月額10万円近い増収である。年収に換算すれば、100万円の増収である。その逆もある。ちょうど採用の通知を受けた同日に、近所の専門学校で模擬授業をやらされて、屈辱的な批評を受けた直後であったからだ。もちろん、不採用であった。

地底国教授は、このような屈辱的事態から免れている。年度末に履歴書と業務経歴書を専門学校事務長に送付する必要は、全くない。専門学校の事務長に卑屈になることから、国立大学教授は免れており、自分の事柄に集中できる。

【5.理想的人間像への精進 5.6 他者との関係、その二、清濁を併せ呑む】 「珈琲時間」7 【地底国教授の憂鬱と矜持】 「珈琲時間」7.2 【地底国教授の勤務状況】

【5.理想的人間像への精進 5.6 他者との関係、その二、清濁を併せ呑む】

「珈琲時間」7 【地底国教授の憂鬱と矜持】

「珈琲時間」7.2 【地底国教授の勤務状況

 

 国立大学教授である限り、東京大学教授であろうと、地底国教授であろうと、若干の給与の差異を除けば、大差ない。もっとも、その微妙な差異が気になることもある。地底国教授は、おそらく東京大学教授の約半分ほどの給与しかない。海外研修を受ける機会も、東京大学教授に比較するとかなり困難である。人員削減の影響で、日常業務に差し障りが生じるからだ。知人が東京の有名大学において教授をしているが、彼が講義を免除され、半年間、海外研修を実施している。このような挨拶状を受け取ると、羨ましいと心底思う。地底国では、予算の関係もあり、数年に一度、数週間の海外研修ができるだけだ。もっとも、コロナヴィールス-19( Coronavirus SARS-CoV-2)の影響で、2021年度、2022年には、海外に出張する機会、さらには国内での出張も皆無である。大学行政、学会に関しては言えば、すべての会議は、オンラインで開催することが、通例化している。東京大学教授であろうと、地底国教授であろうと、この疫病は平等に作用している。

  地底国教授であれば、その勤務形態は社会的標準からすれば、かなり緩やかである。朝、8時集合ということは、1年間でほんの数日である。フレックスタイム制が採用されているからだ。近所の八百屋の大将から羨ましがられている。

  もっとも、大学行政が佳境にいると、夜23時ころ、タクシーで大学に駆け付つけることもあった。朝の会議資料を作成するためである。部署によっては、夜20時から会議ということもあった。大学も、かつての象牙の塔ではないからだ。社会の一般企業と同様な側面を持っている。年度、役職によって落差が大きい。そのような事態を八百屋の大将は、知る由も無い。こちらも、説明しない。どのような職業にも、負の側面はあるからだ。八百屋の大将もまた、人に説明できない側面を抱えている。

 

「珈琲時間」7 【地底国教授の憂鬱と矜持】 「珈琲時間」7.1 【地底国教授の憂鬱】

5.理想的人間像への精進 5.6 他者との関係、その二、清濁を併せ呑む】

「珈琲時間」7 【地底国教授の憂鬱と矜持】

「珈琲時間」7.1 【地底国教授の憂鬱

 

 地底国というインターネット用語がある。地方底辺国立大学、大宅宗一の言葉を借りると、駅弁大学である。北海道教育大学函館校も、旧制北海道第二師範学校を母胎とする新制国立大学である。しかし、戦後70年が経過したことによって、地底国もその幾つかは様変わりしている。香川大学も最初は、旧制香川師範学校と旧制高松高等商業学校を母胎とする教育学部と経済学部の2学部体制であったが、1955年には、地元の香川県立農科大学を吸収し、農学部を設置して3学部となった。さらに、香川医科大学を吸収し、医学部を設置した。また、法学部と創造工学部を新たに設置して、教育学部、経済学部、農学部、医学部、法学部そして工学部という6学部体制になった。この駅弁大学は、総合大学として雄飛している。もはや、地底国とは言い難い。対照的に、北海道教育大学は単科大学のままである。

 地底国の教授も、学会ではそのような扱いを受ける。東京六大学、関西六大学の教授が綺羅星の如く集う東京の学会にいけば、どこか疎外感を免れない。私の研究態度も、研究方法も学会の主要潮流から逸脱している。私の著者など、研究書ではなく、雑本の扱いである。次の事例は、この地底国教授と旧帝国大学、つまり宮廷大学教授の落差を表している。

私が日本政治学会において、ある著名な東大法学部名誉教授に挨拶をした。彼の著書を教科書にしていることもあり、最初の著書を彼に献呈したからだ。政治学会の懇親会において彼に挨拶したとき、彼の第一声は、次のようなものであった。「なぜ、君がここにいるのか」。この言葉は明瞭に記憶している。二の句が継げないとは、このことである。懇親会において彼の廻りを、彼の弟子たちが取り囲んでいた。彼らもまた、著名な政治思想史研究者である。地底国教育学部などは、いしいひさいちの用語を借りれば、雑学部扱いである。実際、教育学部の教授陣は、自然科学系、人文科学、社会科学とほぼすべての学問体系をその専門にしている。多種多様であるとも言えるが、多くの専門分野が雑然と並んでいるにすぎない。

【5. 理想的人間像への精進 5.6 他者との関係、その二、清濁を併せ呑む】補論 「珈琲時間」6.3 【函館市から逃亡】

20220905日投稿済

「珈琲時間」6 【函館市という憂鬱と矜持】

5. 理想的人間像への精進 5.6 他者との関係、その二、清濁を併せ呑む】補論

「珈琲時間」6.3 【函館市から逃亡】

 

 このような本邦では最高の気象条件を備える函館市であるが、人口減少に歯止めがかからない。平成の大合併で中核市に昇格したが、その後、人口が減り続け、2022年現在では、25万人でしかない。昭和初期まで、上野以北で最大の繁華街を有していた大都市の面影は消え失せている。

21世紀初頭の20年間で、人口が5万人ほど減少した計算になる。日本最高の気候条件を有しているいるにもかかわらず、なぜ、人口減少が続くのであろうか。その一つが行政の存在形式であろう。この続きを書くことは、容易であるが、精神の健康上良い結果をもたらさない。馬鹿げた政策を実施しても、行政がそれを恥じることは少ない。

この都市は、路面電車に沿って多数の総合病院、デパート等の一定の社会的インフラストラクチャー構造を有している。このような気候で過ごせる都市は、日本有数である。軽井沢など歯牙にもかけない快適な街でもある。この町に居住している愉快を満喫しようとしている。今までは、その否定的側面に着目しがちであったが、この町の快適性に感謝しよう。これまで、この地方都市の消極的側面だけが着目されたが、積極的側面を保持しよう。この街の気候は、日本最高である。

「珈琲時間」6 【函館市という憂鬱と矜持】 「珈琲時間」6.2 【三方を海に囲まれた地形】

20220904日投稿済

5. 理想的人間像への精進 5.6 他者との関係、その二、清濁を併せ呑む】補論

「珈琲時間」6 【函館市という憂鬱と矜持】

「珈琲時間」6.2 【三方を海に囲まれた地形】

 

 対照的に、道南地域では冬でも、ほとんど雪は降らないし、最低気温もマイナス10度を下回る日は、数日でしかない。10㎝以上の降雪量はほぼ想定する必要はなく、深夜も暖房をつけることはない。2重窓にしている場合、日中でも暖房を使用しない冬も珍しくない。とりわけ、旧函館市の中心街、地元の言葉で西部地区では、その傾向が強い。この地域は、南北に海に囲まれた半島であり、津軽海峡を見渡せる南海岸から、北海道北部を見渡せる北海岸まで、徒歩20分程度で到達可能である。海風が両方向から流れおり、大気汚染もその程度が緩やかである。西側には、函館山があり、その向こう側も海である。三方向海に囲まれた街は、日本でも函館市以外には、ほとんど思いつかない。対照的に、戦後、函館市と合併した旧亀田市では、函館旧市街と比較して、降雪量も多く、冬の厳しさもより強大である。戦後開通した産業道路沿いの大気汚染は、計測機器を使用することなく、人間の臭覚が知覚することができるほどある。旧市街の気候、自然環境は、申し分ない。

 おそらく、この道南地方の気温は、北ドイツの気候とかなり似ている。ローストック等の北ドイツでは気候も乾燥しており、過ごしやすい。ベルリンでも、冷房装置がない家庭が大半であり、気温が30度を超えると、市民は狂喜乱舞する有様である。函館市は、北ドイツと比べて、気候的には甲乙をつけがたい。

日本の避暑地として、軽井沢が有名であるが、夏にはかなり熱く、冬に暖房なしですごすことはほとんど不可能である。この意味で、函館市等の道南地域、つまり北海道南部の気候は日本で最高であると断言してもよいであろう。

「珈琲時間」6 【函館市という憂鬱と矜持】 「珈琲時間」6.1 【函館市の天気】

5. 理想的人間像への精進 5.6 他者との関係、その二、清濁を併せ呑む】補論

「珈琲時間」6 【函館市という憂鬱と矜持】

 

「珈琲時間」6.1 【函館市の天気】

 函館という都市は、潜勢力に溢れた街である。しかし、経済界、医師会、行政等に携わる有力者の狭い了見によって、ことごとく発展の可能性を潰してきた町でもある。その否定的側面に目を向けると、この町の欠陥ばかりが気になる。

 しかし、為政者の根源的失政にもかかわらず、この街の気候と天然の良港はそのままである。とりわけ、地球温暖化によって、猛暑日が続いている西日本、首都圏に比べて、夏でもエアコンなしで過ごせる快適な気候を持っている。2022年の夏は、本州、四国で猛暑日をかなり記録しているが、函館市では扇風機を使用した日が、数日程度でしかない。冷房装置がない家庭が、圧倒的に多い。公営住宅では、冷房装置を設置できない。

最高気温が25度以上になる日が夏日であり、最高気温が30度以上になる日が真夏日であり、最高気温が35度以上になる日が猛暑日である。2022624日、2022625日において、瀬戸内海地方、例えば高松市では、最高気温35度を記録した。6月下旬にして、すでに猛暑日である。[1] 地球温暖化の勢いはとどまることはない。

高松市の夏の平均気温は、2010年には、1950年と比較すると、3度ほど上昇している。夏の平均気温は現在では、26度前後であるが、60年前では23度前後である。[2]

猛暑日の夜には、エアコンなしに過ごすことは、ほとんど不可能である。通常よりも、多くのアルコールを摂取することになる。偶然、6月下旬に高松市の実家に滞在する機会があった。通常、350mlの缶ビール3本までとしているが、この猛暑日は、4本を摂取することになった。

 20226月末の北海道函館市では、最高気温22度であり、最高に過ごしやすい日々が続いていた。[3] 北海道の主要都市、例えば625日の札幌市では、最高気温30度を記録し、真夏日を記録している。北海道の夏は過ごしやすいという印象があるが、あまり当てはまらない。夏、過ごしやすい地域は、函館市、伊達市等の道南地域、釧路市等の道東地域、稚内市等の道北地域だけある。もっとも、道東、道北地域は、厳寒期には、24時間暖房を入れる必要があり、気候的に過ごしやすいとは言い難い。冬の結露対策及び水抜きは、必須である。

 

[1] https://tenki.jp/past/2022/06/24/weather/8/[Datum: 26.06.2022]

[2] https://www.jma-net.go.jp/takamatsu/3_bousai/shizengenshou/kikou/change_kagawa/temp/change_kagawa_t.html[Datum: 07.07.2022]

[3] https://tenki.jp/past/2022/06/24/amedas/1/4/23232.html. [Datum: 26.06.2022]

「珈琲時間」5 【贈り物と矜持】

「珈琲時間」5 【贈り物と矜持】

中村天風試論「5 理想的人間像への精進 5.5. 他者との関係、その一、三勿」補論

 

 自己の行為の対象である他者が、無反応であることもある。あるいは、逆効果になることもある。贈答という行為を題材にしてこの意味を考察してみよう。他者に対して贈り物を送付しても、相手が、私の贈り物を貶す場合もあろう。貶されても、怒り、怖れ、悲しみという感情は無意味である。そのような相手に贈り物をした自己の不明を恥じるだけである。あるいは、贈り物に対して、こんな安物と罵倒されれば、経済環境の差異を自覚すべきである。商品の価格に対する価値づけは、置かれている経済環境に異なる。毎日、高級ビールとされるエビスビールを飲んでいる男性に対して、発泡酒を贈呈してもあまり喜んでいただけるとは思えない。レミーマルタンしか飲酒しない女性に対して、コンビニで購入した数百円の安価なワインを贈呈しても、たいして喜んでもらえるとは思えない。貶した相手が悪いのではなく、自分が悪い。

 相互行為における齟齬は、恒常的にその発端になった自己の行為に責任がある。怒る根拠は、ないであろう。

「珈琲時間」4 【煩悶の対象として他者】

「珈琲時間」4 【煩悶の対象として他者】

中村天風試論「5 理想的人間像への精進 5.5. 他者との関係、その一、三勿」

 

 人間が煩悶する対象は、他者の関係性にある。人間の煩悩の大半はここにある。自分の意向に従って、他者を変革することはできない。他者の距離感が問題である。変革しようする場合は、自分の内にその理想像がある。しかし、他者に対する期待と、他者の現実態の間には、巨大な径庭がある。

 他者の範疇には、親、子供、配偶者、親族、友人、知人、機能的関係者等も含まれる。自分以外の人間すべてを意味している。自己は他者と何らかの関係を持っている。命令することもあれば、お願いすることもある。金銭を媒介にすれば、ほとんどの物を入手できる。しかし、それはなんかの限定された関係でしかない。他者、例えば子供に対して、私は影響を与える。部分的な影響である。ある人が死期を明示されて、それを子供に伝達することも不可避である。子供の人生を中断することでもない。親の死に反応する子供がいるだけである。

 他者と自分との関係は、限定的である。にもかからず、この限定性を克服しようとするとき、煩悶が生じる。他者は、自分の思惑を超えて行動する。この限定性を認識すれば、他者との関係において摩擦が生じないであろう。

  中村天風の思想を了解する鍵は、限定性という概念にある。

「珈琲時間」3.8 【他者の死確認】

 

「珈琲時間」3 【現在の限定性を確認するための方法

「珈琲時間」3.8 【他者の死確認】

 

 人間の真我を考える契機になったことは、人間が死ぬという事実を垣間見たからである。2019年夏に、父親の死に遭遇したからである。人間が死ねば、死体を洗浄し、納棺し、そして石油を掛けて焼く。そして、最後に喉仏だけになる。この一連の過程を数日間かけて見た。そして、喪主として、彼の死体を焼くために、火葬の点火ボタンを押した。火葬すれば、肉体が復活することは100%ありえない。その儀式の最後の最終過程の責任者になった。

 彼は何をしたかったのであろうか。何のために生を授けられ、そして火葬場に運ばれたのか。世界あるいは宇宙という究極の存在者から、どのような使命をいただき、生を全うしたのか。そのような課題を中村天風からいただいた。その大きな課題は私個人にとって未だ朦朧としている。ただ、以下のことは確実に私の行動規範を導いている。人間は一つのことしか、現在の時間にできない。限定された時間、限定された自分の能力という思想が、今の私を支配している。知人、親類の死も、中村天風論に親しむ契機になった。

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