Die tiefe Trauer über das Ableben von Prof. Dr. Heinz Pepperle

Die tiefe Trauer über das Ableben von Prof. Dr. Heinz Pepperle

(1. Juni 1931 bis 24 März 2023)

 

                                                                                                                                                 Japan, den 22.08.2024

                                                                                                                                                 Prof. Dr. Ichiro Tamura

 

Aus dem ganz weit von Deutschland entfernten Fernost betraut ein japanischer Wissenschaftler das Ableben seines ehemaligen Betreuers an der Humboldt-Universität zu Berlin, Prof. Dr. Heinz Pepperle. Die wissenschaftliche Hilfeleistung und Fürsorge vom großen Wissenschaftler über die Junghegelianer könnten die Begründung von der späteren wissenschaftlichen Karriere des japanischen Doktoranden in der Heimat vorbringen, so dass der zurückgekehrte Aspirant nach einigen Jahren mit einer Arbeit über die politische Philosophie des jungen Edgar Bauer im deutschen Vormärz promovierte.

   Der kürzlich verstorbene Professor spielte für den japanischen alten Wissenschaftler in seiner Jugendzeit die Rolle eines wesenhaften Doktorvaters, welcher die entscheidende Bedeutung über die wissenschaftliche Behandlung der noch unbekannten Junghegelianer zeigte. Erst sein angemessener Ratschlag könnte dem japanischen jungen Doktoranden das begreifliche Verständnis dafür entgegenbringen, die tiefen bisherigen Lücken der Forschungsgeschichte über die Hegelschen Linken und die Weltanschauung im Allgemeinen zu schließen.

   Zurzeit beschäftige sich der schon als Rentner eintretende Wissenschaftler nicht mit der philosophischen Erforschung über den Denker im Vormärz, sondern mit der sozialphilosophischen Untersuchung über das moderne Verkehrssystem, ausdrücklich die Renaissance der Straßenbahn in der späten Moderne. Also schwelgt der ältere und im Ruhestand befindliche Menschen in die schöne Erinnerung an die gemeinsam vergangenen Erlebnisse mit dem großen Wissenschaftler über den Vormärz und gleichzeitig auch an seine Jugendzeit an der Berliner Universität und/oder an seine Jugendzeit überhaupt, welche nicht wiedereingenommen werden könnte. 

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中島正(1920-2017年)の人間論と食養生論への前梯―― 専門知と素人知――減塩思想と大量の野菜摂取そして少量の肉の摂取

中島正(1920-2017年)の人間論と食養生論への前梯――

専門知と素人知――減塩思想と大量の野菜摂取そして少量の肉の摂取

下線部分は、中島正論に援用する。)

 

 

はじめに

 

 本稿は、後期近代における専門知と素人知の関係を、食養生の観点から考察してみよう。健康志向が、後期近代の都市住民の関心事になっている。しかし、関心があればあるほど、素人知は結果的に逆の方向、つまり不健康をもたらす場合がある。この逆説が生まれる根拠を考察してみよう。また、本稿は2021年夏に執筆予定の「中島正の人間論と食養生論」の前梯になろう。

 

1節 減塩思想

 

 現在、食養生に関して関心を持っている市民は数多い。彼らに共通している最大公約数の一つが減塩思想である。ナトリウムの多い食事を続けていると、ナトリウムの排出が十分ではなくなり、血液内のナトリウム量が増えて血圧が上昇する。また、ナトリウムがコレステロールを高め、血栓の危険性を導くことは、専門知にとって自明の事柄に属している。本稿もこの因果関係を正しいと仮定しているし、この専門知を否定しようとするではない。

多くの市民はこの専門知に忠実である。スーパーマーケットに行けば、減塩味噌、減塩醤油、減塩梅干し、果ては減塩塩麴まである。否、それどころではない。減塩塩という塩という概念を否定している製品すら販売されている。[1] 塩化ナトリウムと同様な味覚を生む塩化カリウムが、工業的に添付されている。減塩という思想に殉じることによって、化学的に製造された保存料、工業的に精製された化学調味料を大量に摂取している。「日本でその塩分を否定したら、別の手段で食品を長持ちさせねばなりません。そのため、添加物や防腐剤を使った食品が増えました」。[2] 対照的に、塩分の大量摂取を主張すれば、狂気の沙汰のようにみなされるであろう。[3]

また、多くの健康志向の市民は、野菜を摂取しようとしている。とりわけ、ダイエット(Diätetik)、減量指向がある女性にとって、野菜の摂取は必須である。素人知にとってダイエット(Diätetik)は、体重の減少をだけを意味しているが、本来的には食養生法あるいは食事療法を意味している。その射程はさらに広大である。「ダイエットは、・・・集合概念であり、この概念は、元来、肉体的だけではなく、精神的な健康維持あるいは治療に寄与する整除された生活様式の意味における措置すべてを包摂している」。[4] ダイエットは、肉体的な健康維持だけではなく、精神的な健康維持をも包摂している。にもかかわらず、市民は、ダイエット概念に含まれている減量思想だけを抽出し、この思想を信奉している。

このような単純化にもかかわらず、穀菜食を摂取することは、間違っていないであろう。植物は光合成能力を有しており、そこには光量子が含まれているからだ「生ある植物摂取は、高度に秩序づけられたエネルギーの高度なポテンシャルを含んでいる。このエネルギーは、光量子の保存によって光合成能力を有する植物の生ある細胞において現存しているはずだ」。[5] 植物を摂取することは、人間にとって必須のことのように思われる。

もちろん、イヌイット民族あるいはマサイ族のような例外はあるが、多くの食養生において植物を摂取することは、ほぼ推奨されている。とりわけ、数千年の歴史を持っている自然人の歯型に基づき、この論拠は主張されている。32本の歯の中で肉食用は4本の犬歯である。・・・その量は、せいぜい4/32ぐらいにとどめておくべきである」。[6] 人間が類人猿から進化する過程で、1割程度の肉食をしながらも、穀菜食を中心にした植物の摂取を否定することはできないであろう。

また、食養生論において、民族の特性を看過することもできないであろう。日本列島に居住していた民族は、欧州等に居住してきた民族と異なる遺伝子構造を持っている。肉食ではなく、穀菜食を中心にするような肉体的構造を持っている。「二千年、三千年のスパンで繊維質中心の食生活をしてきた日本人は、遺伝子的にも急激な肉食を受け入れる環境が整っていない」。[7] ドイツ民族と比較して、日本民族はより多くの量と種類の植物を摂取してきた。

このように減塩思想と穀菜食摂取の思想は、専門知としてはほぼ承認されている。しかし、両者が素人知において結合したときに、人間の身体が侵害されることになる。この二つの思想は、それぞれ別の領域における専門知として形成された。専門家は他の分野の専門知を顧慮しないし、できない。ある分野の専門家は他の分野において素人としてふるまわざるをえない。

この二つの思想が素人知において結合したとき、矛盾が生じる。「野菜を多くとる日本人は、野菜に含まれるカリウムがナトリウムを体外に排出することになり、塩を十分に補給する必要があるわけである」。[8] 植物を大量に摂取することによって、体内細胞に過剰に含まれているカリウムが、水分と共にナトリウムを必要以上に体外に排出する。二つの専門知が結合した場合、それぞれの専門知の目的、つまり健康の維持が破壊される。

さらに、栄養学という専門知は、身体全体にとってどのような栄養素をとるべきかを顧慮しない。口腔から摂取された食物が、体細胞にとってどのように機能するかという身体全体に関する全体知への指向は、ほぼ看過されている。体細胞を構成するタンパク質が必要だから、動物性タンパク質の摂取が推奨されている。生理学という全体知が看過されると、次のような倒錯した思想に近接する。「サカナよりは肉、肉の中でもトリや牛よりサル、できれば、ヒトの肉が一番よい・・・・というように、われわれの体の蛋白質により近い動物の肉をとれ、という結論になっている」。[9] 栄養学がより専門的になり、食品分析学に近接している。より高度に細分化されるほど、専門知は単純化された素人知として機能する。素人知にも理解可能な食品分析学に基づき、健康を破壊するような食物の摂取が奨励されている。

もちろん、微量ではあれ、穀菜自体にもナトリウム等のミネラル成分が含まれている。[10] しかし、後期近代において穀菜の生産が化学肥料に依存する程度が上昇したことによって、野菜のミネラル成分は減少しているはずである。[11] 「昭和三十年代になると硫安や燐酸カリウムといった化学肥料が堆肥にとって代わったために、大切なミネラル類が農作物の中から減少してしまったのである」。[12] 伝統的な発酵堆肥の使用量が減少したことによって、土壌微生物が減少した。そして、穀菜食に含まれるナトリウム等の微量元素が減少した。

また、穀菜の内に含まれていたナトリウムは、加熱することによって減少している。[13] 「食品に調理、とくに加熱という操作を加えることによって、そこに含まれている塩分の多くを消失している」。[14] 血液内のナトリウム濃度が低下することによって、浮腫、いわゆるむくみの原因になる。細胞内そして血液内におけるナトリウム濃度が低下し、ふらつき、頻脈、皮膚や口の中の乾燥等をもたらす。

逆に、原爆症等の治療において、ナトリウムの摂取が有効であることは知られている。「重い原爆症が出現しなかったのは、実にこの秋月式の栄養論、食塩ミネラル治療法のおかげであった」。[15] 長崎浦上第一病院長であった秋月辰一郎は、アメリカ合衆国による長崎原爆投下による被爆者でもあった。この病院は爆心地に近く、彼は被爆者の治療にあたっていた。多かれ少なかれ、彼も原爆症の症状を自覚していた。しかし、秋月辰一郎は原爆症の症状によって死ぬことはなく、天寿(89歳)を全うした。世界的基準以上の塩分摂取の効用も経験的には否定することはできないであろう。

本節の議論をまとめておこう。穀菜を大量に摂取し、減塩思想にとらわれた市民は、いくつかの専門知を組み合わせることによって健康を破壊する結果になる。専門知を持たない市民は、大衆としてマス・メディアにおいて流布している専門知を組み合わせて(=減塩思想と穀菜食の結合)、ある思想の一部分を極大化して(=減量へのダイエットの還元)享受しているにすぎない。人間の健康に関する知識総体、人間の生理学総体に関する知は、大衆的存在である市民だけではなく、それぞれの限定された領域の専門家にとっても疎遠である。「知識社会は、むしろ専門家つまり専門馬鹿の社会、あるいは普遍的に無知の素人社会であろう。概観すること、つまり連関総体の考察、概念化能力を、厳密な意味で誰もが持っていない」。[16] 断片化されたいくつかの専門知が結合することによって、それぞれの専門知が本来持っていた目的、ここではより健康な身体を形成するという目的から逸脱している。

 

2節 肉食

 

 人間的自然の観点から人間の食性を考察してみよう。前節において、歯型から人間的自然における肉食の意味を考察した。その場合、犬歯を肉食用に創造された自然的自然としてみなされていた。しかし、中島正はそれすら、否定している。「人間の食性は何か。その身体の構造とその嗜好とから推して、先ず木に登り、木の実をもぎ取り、前歯で皮をむき、あるいは固い栃や栗は犬歯で割り(人間の犬歯の名残りを肉食獣であった証拠という学説はナンセンスである)、奥歯で咀嚼する。・・・草の実を・・・奥歯で噛みだき、イモを・・・奥歯で噛む」。[17] 犬歯は、肉を食べるためではなく、硬い木の種子を破砕するための用途を持っていた。縄文人あるいはそれ以前の類人猿は穀菜食性を持っており、道具を使用せずとも、人間の手足によって捕捉できる食糧を摂取してきた。

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 人間的自然に基づく食養生論ではなく、別の観点、たとえば動物倫理学の立場から肉食を考察してみよう。

 動物倫理学の最大公約数によれば、肉食自体が倫理的悪とみなされている。「動物倫理学では畜産をはじめとして商業的な動物利用それ自体が間違っており、最終的な廃絶を目指してできる限り縮減されてゆくべきだと考える」。[18] 

・・・・・・・

動物の虐待を防ぐ

「食肉の生産は、最善である廃絶が不可能ならば、少なくとも虐待が不可能になるまでに規模が縮小されてゆくのが望ましいといういうことになる」。[19] 中島正家族養鶏論の基礎づけへ

 

 

3節 発酵食品

 

日本人の食生活から塩分の効用を主張することも可能であろう。「発酵食品なくして日本の『食生活』は語れません。そこに“触媒”として使われているのは、塩です。だから、日本の保存食に塩分が多いのは当然なのです」。[20] 大量に塩分を含む発酵食品を摂取することは、発酵菌を摂取することと同義であろう。

 

[1] 「塩分半分のおいしい減塩」『味の素』。In: https://www.ajinomoto.co.jp/yasashio/. [Datum: 07.04.2021]

[2] 幕内秀夫『40歳からの元気食「何を食べないか」――10分間体内革命』講談社、2002年、78頁。

[3] 減塩思想に反対する専門家も少数ながら存在している。白澤卓二『すごい塩 長生きできて、料理もおいしい!』あさ出版、2016年、参照。

[4] Diätetik. In: Wikipedia. In: https://de.wikipedia.org/wiki/Di%C3%A4tetik. [Datum: 07.07.2020]

[5] Max Bircher-Benner. In: Wikipedia. In: https://en.wikipedia.org/wiki/Maximilian_Bircher-Benner, [Datum: 07.07.2020]

[6] 森下敬一『自然食で健康に強くなる本』海南書房、1975年、46頁。

[7] 小泉武夫『食の堕落と日本人』東洋経済新報社、2001年、22頁。

[8] 森下敬一『自然医食療法――ガン・成人病・慢性病・婦人病克服のポイント』文理書院、1994年、98頁。

[9] 森下敬一『自然食で健康に強くなる本』海南書房、1975年、63頁。

「近代栄養学はその動物に一番近い食物をたべるのがベストだといいますが、一番近いといえば牛は牛を食い、人間は人間を食うのが最高だといういうことです」。(山下惣一、中島正『市民皆農~食と農のこれまで・これから』創森社、2012年、197頁)

[10]大地は地上のすべての有機物(動物の排せつ物や植物の落葉など)を、土壌の微生物の助けを借りて、土壌中の微生物の助けをかりてこれを腐植土に化す作用を、十憶年以上も休みなく続けてきたのである」。(中島正『増補版 自然卵養鶏法』農山漁村文化協会、2001年、41頁)

「化学肥料や農薬はいかなる事情があろうと利用しない。これは人間にとって毒物にほかならない」(中島正『農家が教える 自給農業のはじめ方 自然卵・イネ・ムギ・野菜・果樹・農産加工』農山漁村文化協会、2007年、108頁。)

[11] 「元来は塩などはことさら摂らなくても健康に障害はない。自然の食物に含まれているもので十分である。」(中島正『みの虫革命―独立農民の書』十月社出版局、1986年、217頁。)

[12] 小泉武夫『食の堕落と日本人』東洋経済新報社、2001年、23頁。

[13] 「『原形のままの食糧の生食』は・・・・人々の健康を回復させるという効用があり、次いで食糧の大幅節約が可能であるという効用がある」(中島正『都市を滅ぼせ 人類を救う最後の選択』舞字社、1994年、112頁)。

[14] 森下敬一『自然食で健康に強くなる本』海南書房、1975年、106頁。

[15] 秋月辰一郎『長崎原爆記 被爆医師の証言』日本ブックエース、2010年、122頁。

[16] Goldschmidt, Werner: „Expertokratie“ - Zur Theoriegeschichte und Praxis einer Herrschaftsform. In: Hrsg. v. Heister, Hanns-Werner u. Lambrecht, Lars: „Der Mensch, das ist die Welt des Menschen...“ Eine Diskussion über menschliche Natur. Berlin: Frank & Timme 2013, S. 187.

[17] 中島正『みの虫革命―独立農民の書』十月社出版局、1986年、205頁。

[18] 田上孝一『はじめての動物倫理学』集英社、2021年、107頁。

[19] 田上孝一『はじめての動物倫理学』集英社、2021年、121頁。

[20] 幕内秀夫『実践・50歳からの少食長寿法――粗食革命のすすめ』講談社、2004年、121頁。

Die deutsche Sprache

Die deutsche Sprache

 

  Die deutsche Sprache an sich ist bekanntlich so sehr reich, dass die meisten Deutschen jedoch von einem Zehntel Teil Nutzen ziehen können. Darüber hinaus sind in der deutschen Sprache die gesprochene und die geschriebene Sprache großartig unterschiedlich. Und zwar ist letztere auch in mehrere Stufen unterteilt. Es gibt zum Beispiel einen umfangreichen Unterschied zwischen der populären, meisten nur am Kiosk gekauften Boulevardzeitung und der qualitativ hochwertigen, das Intellektuelle als Leser ansprechende Zeitung. Und es sind nur die zehn überregionalen Tageszeitungen, welche auf die Öffentlichkeit schwerwiegende Einflüsse üben können.

  Das gegenwärtiges Niveau eines japanischen Wissenschaftler der deutschen Sprache ist gleich oder niedriger als das einer populären Boulevardzeitung.

Einleitung für die Forschung über die Gedanken des japanischen Bauernphilosophen, Nakashima, Tadashi (1920-2017): Vorwort zu seiner Bibliographie als seine Einwände gegen die ungeheure Erweiterung der modernen Städte

Einleitung für die Forschung über die Gedanken des japanischen Bauernphilosophen, Nakashima, Tadashi (1920-2017): Vorwort zu seiner Bibliographie als seine Einwände gegen die ungeheure Erweiterung der modernen Städte

 

TAMURA, Ichiro

 

 Deutsche Zusammenfassung über die Gedanken von Nakashima, Tadashi (1920-2017)

 

Die städtische Kultur zersetzte die traditionelle, aus dem Mittelalter entspringende Kultur des ländlichen Raums. Die grundlegende Auflösung von unabhängigen, der Bauerngemeinschaft eigentümlichen Lebensformen war in der Wirklichkeit der späten Moderne unvermeidlich. Im modernen Staat erfassten die städtischen Lebensstile alle Räume einschließlich des ländlichen Dorfes, weil die Entwicklung der modernen Industrie und der Massenkommunikationsmittel fast alle Bereiche einheitlich gestaltet hatte.

Ein japanischer Bauernphilosoph, Nakashima, Tadashi (1920-2017), kritisierte eindringlich die unvermeidlichen, der späten Moderne eigentümlichen Phänomene der grundlegenden Veränderung der Lebensweise. Seines Erachtens bestand das Wesen der Moderne in der ungeheuren und unbeschränkten Erweiterung der Städte, die alle negativen Aspekte dieser Zeit, z. B. die große Umweltverschmutzung in unverträglicher Weise zur Folge hatte.

Dieser prinzipienfeste und einsame, über alles Weltliche erhabene Philosoph widersetzte sich der Hauptströmung der modernen Wirklichkeit und plädierte, alle städtischen Ballungsgebiete in ländliche Bauerndörfer umzuwandeln. Seine philosophische Behauptung bezieht sich auf die offenbare Tatsache, dass alle in den Städten lebenden Bürger von den Dörfern abhängig sind, da sie nur durch das Medium des Geldes die für die dauerhafte Reproduktion der menschlichen Natur unentbehrlichen Lebensmittel erwerben können. Seiner Ansicht nach müssten alle Menschen nicht in den Städten, sondern in den Dörfern wohnen, und sie sollten die landwirtschaftlichen Erzeugnisse dort nicht für Andere, sondern nur für sich selbst produzieren.

Natürlich wäre es unmöglich, seine philosophische Behauptung unmittelbar in der modernen gesellschaftlichen Wirklichkeit umzusetzen. Jedoch ist durch seine Gedanken über die Daseinsform der Städte deutlich gemacht worden, auf welcher Grundlage der moderne Zeitgeist in stillschweigendem Einverständnis steht. Jede Form der modernen Philosophie macht implizit das Konzept der Stadt als Ballungsgebiet zur unerlässlichen Bedingung und Voraussetzung. Sogar die kommunistischen Theorien, die versuchten, die Moderne im Allgemeinen für die Schaffung einer neuen Ära aufzuheben, betrachteten tatsächlich die ungeheure und unbeschränkte Erweiterung der Städte als notwendige Voraussetzung.

Die unverwechselbare Stadttheorie von T. Nakashima bedarf meines Erachtens einer legitimen und festen Verortung in der Geschichte der modernen Philosophie. Des Weiteren verdient es hier besonderer Erwähnung, dass sein Hauptwerk, „Down with the Cities“ freiwillig vom Japanischen ins Englische übersetzt und in „das Projekt Gutenberg“ aufgenommen wurde. Dieses Projekt übersetzt Publikationen aus aller Welt, die als Klassiker der Menschheit gelten, ins Englische und veröffentlicht sie kostenlos im Internet.

Dadurch, dass dieser Aufsatz T. Nakashimas vortreffliche und unbekannte Überlegungen zu den modernen Städten einbezieht, lässt er sich als Einleitung für seine Bibliographie verstehen. Erst durch die Veröffentlichung seiner Bibliographie kann die Grundlage für die weitere wissenschaftliche Erforschung der verschiedenen Bedeutungen seiner Philosophie geschaffen werden.

 

„Bericht der Pädagogischen Hochschule zu Hokkaido in Japan“, Bd. 71, H. 1, 2020, S. 1-16.

Die negativen Auswirkungen des motorisierten individuellen Verkehrs

Tamura, Ichiro: Die negativen Auswirkungen des motorisierten individuellen Verkehrs: Die Beschreibung der konkreten Eigenschaften der Schadstoff-Freisetzungen und Schadenswirkungen für die natürliche Umwelt und die menschliche Natur durch das verkehrliche Mobilitätsgeschehen.

In: Bericht der Pädagogischen Hochschule zu Hokkaido in Japan, Bd. 70. H. 2, Sapporo-city 2020, S. 13-22.

 

Zusammenfassung

 Bis zum Wirtschaftswunder Anfang der 1960er Jahre, d.h., in der Übergangsperiode von der frühen in die späte Moderne, wurde der Anstieg der Verkehrsquantität gemeinhin als einer der notwendigen, aus dem Wirtschaftswachstum entstandenen Erfolge betrachtet, der einen gelungenen Beitrag zum ewigen Fortschritt des menschlichen Lebens leisten können würde. Erst mit Beginn der späten Moderne der 1970er Jahre zogen die negativen Auswirkungen des motorisierten individuellen Verkehrs auf die natürliche Umwelt die höchste Aufmerksamkeit der breiteren bürgerlichen Öffentlichkeit auf sich. Diese Umweltprobleme stellten den wichtigsten Bestandteil bei der kritischen Betrachtung des Mobilitätsverhaltens dar. In der späten Moderne vermehrt sich der motorisierte individuelle Verkehr, der zum größten Faktor der Umweltbelastung innerhalb einer Stadt geworden ist. Deswegen war es die nachdrückliche Betonung des Kriteriums der Umweltverträglichkeit im Verkehr, welche das Mobilitätsverhalten zum Gegenstand der philosophischen Auseinandersetzung machte.

 Die kritische Verkehrsphilosophie hat sich in den letzten Jahrzehnten auf der Grundlage dieser Veränderungen des bürgerlichen Bewusstseins etabliert. Darüber hinaus bewirkte das in der Öffentlichkeit anwachsende bürgerliche Bewusstsein für die umfangreichen Umweltzerstörungen in einer Stadt durch den motorisierten individuellen Verkehr die Straßenbahnrenaissance der späten Moderne.

 Dieser Beitrag versteht sich als Einleitung für die Beschreibung der konkreten Eigenschaften der Schadstoff-Freisetzungen und Schadenswirkungen für die natürliche Umwelt und die menschliche Natur durch das verkehrliche Mobilitätsgeschehen, wobei einer der philosophischen Gründe für das geschichtliche Wiederaufleben dieses Verkehrsmittels ins wissenschaftliche Licht gerückt werden soll.

Meine gegenwärtigen und nächst zukünftigen Forschungstheme

 

Meine gegenwärtigen und nächst zukünftigen Forschungstheme

 

  1. Zwei verschiedene Forschungsthemen

  Zur Zeit beschäftige ich mich mit zwei verschiedenen Forschungsgegenstände, d.h. der Erforschung der politischen Philosophie im deutschen Vormärz und der Erforschung der ÖPNV in der späten Moderne. Diese beiden Forschungsprojekte würden zueinander den geraden Gegensatz aus dem Gesichtspunkt von der Durchbarkeit der Aufhebung der Moderne bilden. Der Erstere legt die sichere Möglichkeit fest, die Aufhebung der modernen Gesellschaft in andere Art Gesellschaft übernehmen, obwohl der Letztere die Unmöglichkeit der Verwirklichung dieser den jung Hegelianer bestimmenden Philosophie als gegebend annimmt. Der Letztere hätte keine Wollen, die Moderne als den gegenwärtigen Zeitgeist zu verändern. Er legt den beschränkteren Entwurf, die Öffentlichkeit des bürgerlichen Bewußtseins im kleineren, vom Stadtbürger leicht sichtbaren Zeitraum, d.h. einer Stadt zu verändern.

 Es ist gemeinsam diesen beiden Forschungstheme, dass die ideale Form der Öffentlichkeit in anderer Form als der gegenwärtigen Vorhandendensform vorausgesetzt geworden ist. Die junghelianischen Bewegungen im Vormärz hätten das Wollen, die bisherig gegebene Gestalt der Gesellschaft in die andere Gestalt zu verändern. Auf gleiche Weise versucht auch in der letzten Phase des 20. Jahrhunderts die Verkehrsphilosophie, die Straßenbahnrenaissance zu begründen, welche die Öffentlichkeit der Stadtverkehr in die andere Richtung als den bisherig beherrschende Rahmen verändern zu sucht. Bis zum Ereignisse dieser Renaissance hätten nur die große Sorge um den fließenden Lauf des motorisierten individuellen Verkehrs ohne den Stau beherrscht.

  Es ist meine Pflicht in der jetzigen Zeit, mich mit den zwei verschiedenen Forschungsgegenständen zugleich zu beschäftigen, um zwei Bücher zu veröffentlichen.

 

  1. Das erste Forschungsthema über die Bedeutung der Reinen Kritik Bruno Bauers in den junghegelianischen Bewegungen

  Die Philosophie der Reinen Kritik Bruno Bauers, mit welcher ich mich beschäftigt, würde in der Forschungsgeschichte nicht nur über die Hegelsche Linke, sondern auch über seine Philosophie während seines ganzes Lebens im Vergleich zu seiner früheren Philosophie, d.h. der Philosophie des Selbstbewußtseins. Seine letzte Philosophie war die typische, die Rahmenbedingung der junghegelianischen Bewegungen führende Philosophie, welche von ihm selbst im Jahre 1844 kritisiert wurde. Seitdem wandert er seine Philosophie von der Philosophie des Selbstbewußtseins in die Reine Philosophie zu. Der Grund ist deswegen, weil die Aufhebung der Moderne wegen die Verlagerung des Volks in die Masse in nächsten Zukunft unmöglich geworden sein sollte. Im nächsten Zeitalter würde nicht das Volk, sondern nur die Masse alle Instituten der Gesellschaft und das bürgerliche Bewußtsein beherrschen. Die privaten Interesse des Bürgers sind in dieser Massengesellschaft orientiert und die Absicht zum Interesse der Öffentlichkeit wird in dem bürgerlichen Bewußtsein ziemlich reduziert. Die Vorstellung der Aufhebung der Moderne war und ist der Masse ganz fremd.

 

Es geht bei der Feststellung der Reinen Kritik Bauers in der Forschungsgeschichte darum, nicht nur die eignen Artikel B. Bauers zu analysieren, sondern auch die philosophische der sogenannten Heiligen Familie um die Reinen Kritik zu untersuchen. Um diesen Forschungszweck zu erfüllen, sollten die kleinen Philosophen untersucht werden, welcher biologischen Fakten selbst noch nicht unbekannt sind. Zu diesen zeitgenössischen, noch nicht vollständig erforschten Philosophen gehören Hermann Jelinek, Theodor Opitz und dem Hallenser Pädagoge Karl Schmidt. Die Erklärung der Inhalt der Akzeptanzweise, wie sie die neue Philosophie in Ihre philosophische System einnahmen, würde zur Verdeutlichung der Reinen Kritik in der Forschungsgeschichte über die Hegelsche Linke beitragen, obwohl die biographischen Fakten selbst noch nicht geklärt würden.

 

  1. Das zweite Forschungsthema über die Bedeutung der Öffentlichkeit, besonders des ÖPNV in der letzten Phase des 20. Jahrhunderts.

  Auf der einer Seite entwickelte sich die Massengesellschaft mehr in der Mitte des 19. Jahrhunderts bis zum Ende des 20. Jahrhunderts. Das Subjekt dieser Gesellschaft beabsichtigt nicht mehr das öffentliche Interesse, sondern das private Interesse. Im urbanen Raum vermehren sich die Zahl des individuellen motorisierten Verkehr, sodass die Verkehrsgestalt in der Stadt in den Autoverkehr monopolisiert. 

Auf der anderen Seite ging schon der Begriff von der Aufhebung der Moderne die gesellschaftliche Basis in der späten Moderne verloren. Nicht mehr der Raum des Staates, sondern nur der beschränkte Raum der Stadt würde die sichtbare und realisierbare Gegenstand für das bürgerliche Bewußtsein geworden sein. Das Verkehrssystem innerhalb der Stadt hat die Kraft, die Eigenshcaft der Stadtsstruktur zu bestimmen.

 Die Zahl des MIV überschritt jedoch die Grenzen der verschiedenen Funktionen in der Stadt, besonders des Umweltschutz. In den 1980er und 1990er Jahren entstanden in einigen Städte sogenannten die Straßenbahnrenaissance, damit nicht nur das private Interesse für den persönliche Komfort, sondern auch das öffentliche Interesse in der Stadt angestrebt würden. In diesem Zeitpunkt verändert sich das bürgerliche Bewußtsein über die Öffentlichkeit innerhalb der Stadt.

 

Eine nähere Betrachtung des Plans, das Straßenbahnnetzwerk der Stadt Halle bis Heide-Nord auszudehnen, und dessen Scheitern

Der öffentliche Verkehr und das bürgerliche Bewusstsein von der Öffentlichkeit im Vereinigungsprozess der beiden deutschen Staaten – Eine nähere Betrachtung des Plans, das Straßenbahnnetzwerk der Stadt Halle bis Heide-Nord auszudehnen, und dessen Scheitern

 

                                                       Ichiro Tamura

 

 

                             Zusammenfassung

 

                                 

 

  Am äußersten nordwestlichen Rand der Stadt Halle an der Saale liegt Heide-Nord, wo in der letzten Phase der DDR im großen Maße Plattenbauhäuser für die Maschinenindustriearbeiter gebaut wurden. Dabei musste für die Einwohner im neuen peripherischen Gebiet zwangläufig ein öffentlicher personaler Nahverkehr zwischen diesem Stadtviertel und dem Stadtzentrum eingerichtet werden. Gerade nach dem großen gesellschaftlich-politischen Wandel entstand die Möglichkeit, den Plan, Straßenbahnnetzwerk bis Heide-Nord auszudehnen, zu verwirklichen. Das Gemeindeverkehrsfinanzierungsgesetz wurde auf die neuen Bundesländer ausgedehnt, um Förderungsmittel für die Erweiterung vorhandener Anlagen des öffentlichen Verkehrs zur Verfügung zu stellen. Durch die zukünftige Umsetzung dieses Plans wären die Einwohner dieses Stadtteils in der Lage, ohne umzusteigen mit der Straßenbahn direkt ins Zentrum zu fahren.
  Trotzdem wurde es in den neunziger Jahren des vorigen Jahrhunderts beschlossen, diese Richtlinie zur Verbesserung des öffentlichen Verkehrs nicht zu verwirklichen. Das Scheitern des Plans gründete sich auf der offensichtlich drastischen und massenhaften Bevölkerungsschrumpfung in dieser Stadt im Ganzen, besonders in diesem Stadtgebiet.
  Der vorliegende Bericht macht zum Gegenstand seiner Forschung die Diskussionsprozesse der Verkehrsplanungsbehörden über den Plan der Ausdehnung des Straßenbahnnetzwerkes vom Stadtzentrum bis Heide-Nord, die einen wesentlichen Bezug zur Idealvorstellung des öffentlichen Verkehrs und der Straßenbahn aufweisen. Der Grund für die sogenannte Renaissance der Straßenbahn besteht darin, dass sich das bürgerliche Bewusstsein von der Öffentlichkeit in der späten Moderne veränderte. Dabei spielte eine große und wesentliche Rolle das Bewusstsein für Umweltschutzpolitik in urbanen Ballungsgebieten und die zu verstärkende Sozialfürsorge für die zunehmend alternde Bevölkerung. So erklärt dieser Forschungsbericht, aus welchem Grund und in welcher Weise der Plan, das Straßenbahnnetzwerkbis Heide-Nord auszudehnen, in der Öffentlichkeit der Stadt gerade nach der Vereinigung der beiden deutschen Staaten diskutiert wurde und schließlich nicht verwirklicht werden konnte.

 

Das Vorhandensein der Öffentlichkeit in der späten Moderne-- Eine politisch-philosophische Begründung für die Renaissance der Straßenbahn im öffentlichen Personennahverkehr

Ichiro Tamura: Das Vorhandensein der Öffentlichkeit in der späten Moderne-- Eine politisch-philosophische Begründung für die Renaissance der Straßenbahn im öffentlichen Personennahverkehr

 

Zusammenfassung

 

Der vorliegende Bericht versteht sich als Einleitung für die philosophische Begründung des öffentlichen Personennahverkehrs in der späten Moderne. Es lässt sich unschwer erklären, dass die Straßenbahn in ihm eine bedeutungsvolle und entscheidende Rolle spielen kann. Die Straßenbahn verkehrt 30-40 Jahren nach der Stillegung der alten Trams wieder in vielen europäischen Städten. Die Verlegung von PKW-Fahrten auf den ÖPNV durch den neuen Ausbau des Straßenbahnnetzwerkes gehört zum zentralen Ansatzpunkt nicht nur für die verkehrspolitische Strategie zur Verbesserung der Stadtplanung, sondern auch für den Wiederaufbau der Öffentlichkeit einer Stadt im Allgemeinen. Die sogenannte Renaissance der Straßenbahn findet deswegen seinen Grund nicht nur im Gebiet des öffentlichen Verkehrs, sondern auch in der Öffentlichkeit im Allgemeinen.
Das Phänomen von der Renaissance der städtischen Straßenbahn tritt in der späten Moderne nur dabei auf, dass eine große Anzahl der Bürger ihr Bewusstsein nicht mit ihren PKW-Fahrten im privaten Interesse, sondern nur mit dem öffentlichen Interesse der Stadt im Ganzen in Übereinstimmung bringen kann.

 

Verfasser Tamura, Ichiro
Prof. Dr. phil., geb. 1958 in Japan (Bezirk: Kagawa). Professor an der Pädagogischen Hochschule zu Hokkaido. Thematische Schwerpunkte und Veröffentlichungen: zur politischen Philosophie (Junghegelianismus, insbesondere Edgar Bauer, Bruno Bauer, Karl Nauwerck, Karl Schmidt, Theodor Opitz) und zum Verkehrswesen(ÖPNV, insbesondere Straßenbahn)

 

In: Bericht der Pädagogischen Hochschule zu Hokkaido (Japanisch). Bd. 66. H. 2. 2016, S. 61-72.

 

Die politisch-philosophische Begründung des öffentlichen personalen Nahverkehrs in der späten Moderne. Die nähere Betrachtung über die Ausdehnungsprozesse des Straßenbahnstreckennetzwerkes in Halle-Neustadt

Die politisch-philosophische Begründung des öffentlichen personalen Nahverkehrs in der späten Moderne. Die nähere Betrachtung über die Ausdehnungsprozesse des Straßenbahnstreckennetzwerkes in Halle-Neustadt

 

 

 

Ichiro Tamura

 

Zusammenfassung

 

 

 

Die Stadt Halle (Saale) war die Hauptstadt des Bezirks Halle vor dem
gesellschaftlich-politischen Wandel der Deutschen Demokratischen Republik (DDR) im Jahre 1989. In dem westlichen Umgebungsbereich von Halle wurde nach dem zweiten Weltkriege in der frühen Phase der DDR die Halle-Neustadt als ein umfangreiche Wohnungsgebiet für die zahlreichen Chemiearbeiter gebaut, die in den chemischen Großindustriewerken, Leuna und Schkopau-Buna beschäftigt waren. Dabei entstanden die Verkehrsprobleme zwischen der traditionellen Stadt und der neuen, durch die Arbeitsgruppe der Sozialistischen Einheitspartei Deutschlands (SED) geplanten Stadt. Damals beschränkten sich die Verkehrsmittel zwischen beiden Städte nur auf die S-Bahn und die Busse. Nach der Auffassung der politischen Leitung der SED war der Bus das wichtigstes Massenverkehrsmittel im öffentlichen personalen Nahverkehr bezeichnet. Dies sei dadurch begründet, dass das Straßenbahnnetz den steigenden Verkehrsströmen der gewachsenen Stadt nicht mehr entsprechen würde. Erst nach der Wende wurden die neuen, die beiden Städte unmittelbar verbindenden Straßenbahnnetzwerke vollzogen, obwohl die große und rasche Schrumpfung beider Städte auch damals ganz einfach hätte vorausgesehen werden können.
Der vorliegende Aufsatz versteht sich als eine politisch-philosophische Begründung der Ausdehnungsprozesse der Straßenbahn zwischen Halle-Neustadt und Halle. Durch die wissenschaftliche Erklärung der Bedeutung dieser Entstehungsgeschichte soll das Wesen der Straßenbahn im öffentlichen personalen Nahverkehr zum neuen Ausdruck gebracht werden.

 

 

Verfasser Tamura, Ichiro
Prof. Dr. phil., geb. 1958 in Japan (Bezirk: Kagawa). Professor an der Pädagogischen Hochschule zu Hokkaido. Thematische Schwerpunkte und Veröffentlichungen: zur politischen Philosophie (Junghegelianismus, insbesondere Edgar Bauer, Bruno Bauer, Karl Nauwerck, Karl Schmidt, Theodor Opitz) und zum Verkehrswesen(ÖPNV, insbesondere Straßenbahn)

 

In: Bericht der Pädagogischen Hochschule zu Hokkaido (Japanisch). Bd. 66. H. 1. 2015, S. 213-223.

 

 

 

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