日本のコロナヴィールス-19の感染者数は、5.000人と推定(2020年4月4日現在)ーーマスク信仰ではなく、感染者数の検査を!ーー大本営発表から真実を考える

日本のコロナヴィールス-19の感染者数は、5,000人と推定(202044日現在)――あるいは、本当の死亡者は、すでに10,000人を超えているのかもしれない。

――マスク信仰ではなく、感染者数の検査を!――大本営発表から真実を考える――中村天風の論説の援用

 

           20200404日 田村伊知朗

                20200507日   追記 

 

日本のコロナヴィールス-19( Coronavirus SARS-CoV-2)の感染者の数は、不明である。そもそもほとんど検査していない。保健所でも、38度以上の高熱が4日間継続していないと、検査すらしてくれない。1日だけ高熱が出ても門前払いである。

検査をせずに、マスクを信仰している。マスクをしても、コロナヴィールス-19を排除できない。マスクの穴の大きさは、5マイクロメートルであり、コロナウイルスは、0.1マイクロメートルにすぎない。マスクの穴の大きさは、コロナヴィールス-19( Coronavirus SARS-CoV-2)の約50倍である。マスクの穴は絶望的に大きい。にもかかわらず、マスクをしろと言い、マスクを各世帯に2個無料配布するという。そのような暇と金が余っているのであれば、感染者を発見するための検査をすべきであろう。日本の厚生労働省は暇と予算を持て余していると言わざるをえない。マスク信仰は、かつての言霊信仰を想起させる。現代日本は、マスクによる怨霊退散、そしてコロナヴィールス-19( Coronavirus SARS-CoV-2)退散を祈念しているのであろうか。マスクと感染症予防は、ほぼ2%の関連性しかない。常識的に判断すれば、ほぼ両者は無関係である。

(下線部は、202057日に追記された)。マスクに関して、中村天風は次のように規定している。「マスクを常用すると、口腔内の粘膜皮膚の生活力や、特に鼻腔内及び咽頭粘膜または気管部の抵抗力をますます弱めて、僅かな病的刺戟にも直ぐ犯されて、鼻やのどに加答児疾患を起す機会を多く作るからである。元来あのマスクというものは、自分が何かの病をもつ弱い体で、他人にそれを伝染させまいと・・・使用すべきもの」である。[1] 自分の健康を保持するためにではなく、他者への配慮をするために、マスクを使用すると明白に述べている。当然であろうが、中村天風は近代思想家であると同時に、医学博士であるという事実を思い出した。そして、中村天風は因習を嫌っていた。

したがって、感染者数を推測するしかない。202044日現在、ドイツの感染者数は85,778人であるが、死亡者は1,158人である。死亡率1.3%である。[2] 日本の感染数は、2,617人、死亡者は63人である。日本の感染者数は、信用できないが、死亡者数は信用できると仮定している。また、死亡率は、ほぼ日本と同じような医療体制を誇っているドイツと同じであると仮定してみよう。約1.3%いうドイツの死亡率を参考にして計算してみると、日本の感染者数は、4846人である。スウェーデンとほぼ同じであろう。感染者数は、5.000人前後であろう。世界の他の国と比較すれば、20位くらいのランクにあると推定される。[3] しかし、スウェーデンの人口は、1,000万人でしかない。その10倍以上の人口を有する日本は、まだ安心してよいのかもしれない。

ただ、ドイツに比べて、日本の死亡者数が二桁異なっている。まさか、死亡者数まで隠蔽しているのであろうか。もし、死亡者数が二桁間違っているのであれば、本稿の推定も無意味となろう。その可能性を筆者は危惧している。もちろん、病院でコロナヴィールス-19の感染者が死亡すれば、この死亡者数に換算されるが、自宅での死亡者、たとえば重度の癌患者、糖尿病患者が死亡すれば、死亡診断書にはたんに心不全と書かれるだけである。たとえ、この重度の癌患者がコロナヴィールス-19に感染していたとしても、死者の感染可能性を調べる町医者はほとんどいない。家族が医者を呼んだときには、患者はすでに死亡している。心不全という診断は適切である。この患者は、コロナヴィールス-19の死者とは換算されない。たとえば、私の親族4人が、自宅で死亡している。4人とも、死因は心不全であった。4人とも重度の疾病、たとえば癌、パーキンソン病等に苦しんでいた。死亡診断書には、すべて心不全と書かれていた。もちろん、間違いではない。しかし、正しいとも思えない。必要なことは、大本営発表を信仰することではない。大本営発表の中にも、真実は含まれている。その事実を総合的に判断するしかない。もし、死亡者が二桁異なっていれば、たとえば1,000人を超えていれば、ドイツ並みの感染者数が日本に潜在していることになる。

また、日本では年間約120,000人が肺炎で死亡している。月間、10,000人である。この肺炎死亡者の内、約10パーセントがコロナヴィールス-19( Coronavirus SARS-CoV-2)に罹患していれば、死亡者数は、半年間で約60,000万人である。イタリアと同程度になる。果たして、どの程度がコロナヴィールス-19( Coronavirus SARS-CoV-2)を主要要因として死亡しているのか、闇の中の事象である。

202044日)

 

 

 

 

[1] 中村天風『真人生の探究』天風会、1994年、242頁。

[2] Vgl. Robert Koch-Institut: COVID-19-Dashboard. In: https://experience.arcgis.com/experience/478220a4c454480e823b17327b2bf1d4. [Datum: 04.04.2020]

[3] Vgl. Coronavirus disease (COVID-19) Situation Dashboard. In: https://experience.arcgis.com/experience/685d0ace521648f8a5beeeee1b9125cd. [Datum: 04.04.2020]

 

 

 

 

|

中村天風論試論――暫定稿

闇の夜に鳴かぬ烏の声聞けば、中村天風私論            20190515,0502,0504.0509,0610,0627

 

 

1. 中村天風の哲学の魅力

1.1 中村天風の哲学の継続性

 中村天風(18761968年)の哲学が日露戦争前後から形成されていたことを考えると、ほぼ100年の歴史を有している。哲学を専門にしている大学教授は、日本のこの1世紀において、数千人、数万人以上いたからもしれない。彼らによって出版された哲学書あるいは哲学に関する研究書は、数万冊に至るかもしれない。しかし、現在でも読書界において確固たる地位を保っている書物は、非常に数少ない。

 さらに、この1世紀に渡る時間のなかで、中村天風(18761968年)の哲学が東郷平八郎元帥等の著名人に対して影響を与えた。[1] 日本人だけが、彼の哲学に対する信奉者でもなかった。著名な外国人、たとえばロックフェラー3世も彼の思想に触れる機会を持った。[2] 偶然であれ、多くの人間が、彼の人格そしてその思想に触れ、より安楽な生を送ったであろう。

 

1.2 専門知と素人知の区別

 なぜ、彼の哲学がほぼ1世紀近く、その命脈を保ってきたのであろうか。その根拠の一つは、彼が専門知と素人知を区別したことにある。彼の人間論や宇宙論が、たとえばハイデガーよりも優れていたからではない。専門知が素人知に加工されず、その存在形式が保持されているかぎり、彼の哲学書の大半は、国会図書館の書庫の奥にたまった埃にまみれていたであろう。彼は専門知の限界を明確に理解していた。「私の知れる限りをとことん説明いたしません。・・・この集まりがね、・・・基礎医学の知識ばかり持った人の集まりだというと、また説明はもっとずっと立体的に深くなっていくんですが、そういう説明になると、今度はあなた方が皆目わからなくなっちまいます」。[3] 中村天風の啓蒙そして講演対象は、専門知を理解しない素人である大衆である。専門家に対する説明と大衆に対する説明は、ここでは明白に区別されており、彼の思想は大衆によって支持されてきた。

 

1.3 理解の容易性

 たとえば、ハイデガーによって提起された本来的自己を自己のものにすることが、ある読者に必要不可欠であるとしてみよう。ドイツ哲学史において刻印された哲学を理解するために、大衆はその難解な書物を購入しなければならない。彼の哲学書をドイツ語で読解するためには、ドイツ語の初等文法から学習しなければならない。ドイツ語の文法構造を完全に習得したとしても、彼の叙述形式はドイツの知識人すら理解しがたい難解な構造を持っている。彼の全集を読むだけで数十年の年月がかかるであろう。途方もない時間がかかる。10数年後には、この読者の生命すら風前の灯になっているであろう。

 

1.4 思想と実践

 対照的に、中村天風の哲学は、多くの人の病気、煩悶、貧乏等の悩みを解消した。その実用的価値から、彼の哲学が現在でも影響を与え続けている。彼の哲学が人口に膾炙した根拠の一つは、日常的生活において実行可能な提言であることにある。中村天風は、それに至る一つの途として、日常生活において積極的言葉を使用するという誰でも実行できそうな提言をしている。「言語というものには、頗る強烈な暗示力が固有されている。従って特に積極的人生の建設に志す者は、夢にも消極的の言語を、戯れにも口にしてはならないのである」。[4] もちろん、厳密に考えれば、この命題を実行に移すことはかなり困難である。哲学的背景を持っているこの言葉を聞くことによって、多くの人が肩の荷を少し下ろし、煩悶から解放された。積極的言葉をより使用し、かつ快濶に、はっきりと発音することが肝要であろう。これだけでも、肩凝りの症状が軽くなった人は数多いであろう。

 あるいは、他人の悪口を言わない、できる限り他人の良い点を褒める、ということも実行できそうである。他人の悪口は、自分の心の清浄性を冒し、自分自身を貶めることにつながるであろう。宇宙霊から与えられた自己の生命、そして自己の心を汚すことにつながる。宇宙霊から活力を得ることは、できない。自分の心の汚濁は、疾病の素であろう。雑念や妄想を自己の心から追放すれば、このような心境になれる。その方法は次のようになっている。「雑念、妄想を除くのは、・・・無念無想になりゃいいんです。・・・いっさいの感覚を超越して・・・いっさいの感情、情念を心になかに入れないで、純真な気持ちになることが無念無想なんです」。[5] この心境に至るための道筋は、彼によって示されている。

 

しかも、中村天風の思想はこのような事柄に限定されない広大な背景を持っている。彼の思想は、巷に溢れている自己啓発に関する書物、あるいは軽薄短小なビジネス本と区別されるべき射程を持っている。多くの彼の信奉者と同様に、彼の哲学を纏めてみよう。しかし、彼の哲学書に関する解釈書は数多いが、その宇宙論から根源的に解釈した書物は数少ない。本稿がその一助に寄与すれば幸いであろう。

2.人間的自然と宇宙

2.1 闇の夜に鳴かぬ烏の声

 「闇の夜に鳴かぬ烏の声聞けば、生まれぬ先の親ぞ恋しき」という有名な詩歌は、一休宗純(13941481年)によって作成された、とみなされている。この解釈は古来より多々あるであろう。中村天風もまた、この和歌を講演、訓話等で引用していた。[6] 本節では以下のように解釈したい。私という一回かぎりの生を現生に送り出したもの、闇の奥にあるものが存在しており、その声が聞こえるはずだ。私もたまに、聞こえるような気もするが、どうであろう。少なくとも、その声を聞こうとしている鳴かぬ烏の声とは何か。私という人格を送り出し根源的なものとは何か。私に何を託そうとしているのか。宇宙が進化するか、否かはわからないが、何かをするためにここにいることは、間違いないであろう。その根源的なものに関して考察してみよう。人間あるいは人類の歴史に関して、どのような寄与ができるのであろうか。

2.2 宇宙観とプランク定数h

 この問題に解答するために、中村天風の宇宙観に言及してみよう。彼の世界観によれば、「人間は宇宙の進化と向上に順応するために生まれてきた」。[7] そして、「この宇宙の創造を司る造物主と称する宇宙霊」こそが、人間を創造した。[8] しかし、この宇宙は進化するのであろうか。「宇宙の本来が進化と向上にある」。[9] 宇宙は進化し、向上する、と断言している。宇宙が進化する根拠に関して中村天風は曖昧である。宇宙が根源的で絶対的であれば、進化も向上もする必要はないからである。現象界に送り出された人間は、宇宙に寄与することは何もない。

 しかし、次のように考えることによって、中村天風はこの難問に回答を与えている。中村は、宇宙霊を生命体とみなしている。「宇宙霊は、休むことなく働いている。創造に瞬時の休みもなくいそしんでいる活動体である。だからこそ、この宇宙はつねに更新し、常に進化し、向上しつつあるのである」。[10] 中村天風によれば、生命体つまり有機体として宇宙霊こそが、宇宙エネルギー総体である。この中村天風によって把握され、命名された宇宙霊が、自然的人間の環境世界を包んでいる。[11] 「宇宙霊なるものこそは、万物の一切をよりよく作り更える」[12] 宇宙霊は、現象界を改善する方向へと変化させる。人間がその用意をした場合、「造物主(宇宙霊)の無限の力が自然に自己の生命の中へ、無条件に同化力を増加してくる」。[13] 現象界において人間は、この宇宙の本質を無限に受容できる。

この思想は次のように要約される。「宇宙の最初は、ただ宇宙霊のみであった」。[14] ここまでは、私にも理解できる。しかし、なぜ宇宙霊は絶対的ではなく、進化あるいは変動するのか。この点が理解困難であった。

2.3 プランク定数h

 しかし、中村天風は宇宙霊を固定的に考察するのではなく、エネルギーと周波数の関係つまり超極微粒子のブランク定数hとみなしている。「万物能造の宇宙エネルギーは、この空間と俗に人々から呼称せられているものの中に、遍満している『絶対に人類の発明した顕微鏡は、分光器では、何としても分別感覚することの不可能な・・・見えざる光であるところの超極微粒子』だと論定している。しこうして、この『超極微粒子』を、今から半世紀以前にドイツのプランク博士が、これをプランク常数Hと名付けた。このプランク常数Hなるものこそ、ヨガ哲学者のいう宇宙霊なのである」。[15] プランク(Planck, Max 18581947)によって発見されたプランク定数hは作用量子(Wirkungsquantum)であり、つねに活動している。これは、この光子のエネルギーと周波数の関係であり、固定的なものではなく、常に流動している。共鳴子の振動は、その振幅と位相を変化交替させる。

 中村天風によれば、鳴かぬ烏の声あるいは生まれぬ先の親は、ブランク定数hである。「なにもかもすべて、あにあえて、人間ばかりじゃない。現象界に形を現わしている物質はみな、その根源は見えないElementary particle (素粒子) だ」。[16] 現象界において個別的肉体が生成する以前に、その根源は形成されていた。すべての肉体と精神は、この超極素粒子に還元される。

但し、この流動性は、以下のような作用量子に関する中村天風の独自の解釈に基づいている。「宇宙現象の根源をなすところの『気』というものは、(+)の『気』と(-)の『気』の二種類に分別される。そして、プラス=+の『気』は、建設能造の働きを行い、マイナス=-の『気』は、消滅崩壊の働きを行って、生々化々の現実化のため、常に新陳代謝の妙智を具顕しているのである」。[17] この中村天風の言説がプランク定数hにおけるどのような要素と関連しているのか、不明である。

 通常の宗教学によれば、宇宙霊とは唯一絶対神であり、固定的に思惟されている。たとえば、ユダヤ教あるいはキリスト教における唯一絶対神が、流動的であるはずがない。この常識に囚われていた私は、宇宙霊を固定的に考察していた。

 

2.4 宇宙の進歩

 もちろん、宇宙が進歩しているかどうかに関して異論はある。宇宙には進歩という概念がないという宇宙観もまた、真理である。もちろん、宇宙が固定的ではなく、流動的であるという断定に異論はない。しかし、その流動性に進歩があるか、否かに関してはわからない。

数千年における人間の歴史という尺度において、果たして宇宙には進歩がないかもしれない。「循環=繰り返しには『進歩』がない。・・・田舎(農業)は、この大自然の『永遠の循環』『進歩なき繰り返し』と共にあるべきものである」。[18] 進化あるいは進歩は自然において存在しない。中島正はこのような東洋的宇宙観に基づき、その思想を形成している。中村天風の宇宙観は、中島正の宇宙観から区別されている。しかし、どちらの宇宙観が正当であるかは、時間的尺度の差異に基づき決定される。中村天風は数億年単位で、中島正は数千年単位で宇宙を考察している。また、前者は惑星を含めた宇宙総体に基づき宇宙を考察していることと対照的に、後者は地球総体に基づき宇宙を考察している。

 

3.  道具としての肉体と精神

3.1 人間の本質

 中村天風の宇宙観によれば、生命体を含む物質の根源は素粒子である。したがって、自己の本質は、肉体でもなければ、精神でもない。「自己それ自身と自分のpossess (所有物)とはちがうはずだもの。体や心は自分ではない。自分というこの気体である真我の本質が、現象界にある生命活動をするために必要とする道具なんですよ」。[19] 心すら、自己の本質とは別物である。精神至上主義が否定されている。

 気体である真我の本質が、自己の精神と肉体を統御する。宇宙の本質としての気体と個人が一体になることによって、精神と肉体の欲求すらも統御できる。真我は心ではない。

 しかし、多くの知識人は、精神と肉体の虜になっている。自己の本質ではない精神と肉体の欲求を制御できない。真我が現れなくなっている。精神も肉体も真我の声を聴くことができない。個別的個人としての私の存在意義を理解できなくなっている。

 

「珈琲時間」

 ここで私的体験を述べておこう。201972415時半前後にJR札幌駅から地下鉄東豊線札幌駅への徒歩での移動中のことであった。久しぶりの札幌であり、讃岐うどんを食したいという肉体的欲求に従って、地下鉄東豊線札幌駅近くの讃岐うどんの店を訪れた。しかし、その行為は肉体の欲求に順じただけであった。真我の欲求に従えば、握り飯を食するべきであった。あるいは何物も食さないことが、真我の欲求だったかもしれない。事実、かけうどんの中を注文したが、ほとんど食べ残してしまった。御百姓様に申し訳なかったが、真我がこのうどんを拒否していたように思えた。

 また、現在交通論に取り組んでいるが、必ずしも既存の交通論研究の範疇に属することを考察しているのではない。近代思想史の範疇として、近代公共交通論を議論している。それを忘れていることに気が付いた。東豊線の車中であった。隣に座った二人の老婦人が、かなり上品であるが、些細なことに夢中で議論していた。彼女はこのような生活の利便性、JR東のスイカは札幌の地下鉄で使用できるか否かに関して、激論を交わしていた。このような議論をするために、彼女は生まれて来たのであろうか。生活の利便性ではなく、まさに鴉の声が聞こえたのであろうか。このときに、私はなにか、鴉の声を聴いたような気がした。彼女たちの議論には感謝しなければならない。

 

3.2 宇宙霊と自然的人間

 この認識に基づくかぎり、これ以後は一瀉千里である。[20] 「わが生命は宇宙霊の生命と通じている。宇宙霊の生命は無限である」。[21] 宇宙霊と人間の精神が同一化される状況へと自己の精神を方向づけるだけである。「人間は、恒に宇宙原則に即応して、この世の中の進化と向上とを現実化するという、厳粛な使命をもってこの世に生まれて来た」。[22] 宇宙の進化と感応する人間的精神の目的が、明瞭に述べられている。ここからは、心を積極的にするための方法論の実践だけである。たとえば、怒り、怖れ、悲嘆ではなく、感謝と歓喜の感情に満ちた生活をおくることが重要である。「宇宙の神霊は、人間の感謝と歓喜という感情で、その通路を開かれる」。[23] 宇宙霊と自然的人間の精神が合体することによって、積極的感情が満ちる。自然的人間の運命も積極化する。このような消極的感情は、自然的人間の心にはない。

 

3.3 自然的人間の潜勢力

 このような積極的感情が生成する根拠は、人間には生命力が備わっていることにある。「人間の生命の内奥深くに、潜勢力という微妙にして優秀な特殊な力が何人にも実在している」。[24] 人間的自然の内に、宇宙霊の積極性を受容する力が備わっている。宇宙進化と同様に、人間も進化することが前提にされている。以下では、この進化へと至る具体的方法を列挙してみよう。この具体的実行例は、多くの信奉者が日々配慮しているのであろう事柄に属している。

 

3.4 自然的人間の目的

 自然的人間は、目的を持って存在している。そして、生まれる前から、何らの目的を持っている。闇の夜の鳴かぬ烏の声によって規定されている。「自分がある目的をもって生まれてきた」。[25] 造物主つまり宇宙霊によってこの世に出現した。理想を持つことが、重要である。生まれぬ先の存在者の目的、つまり理想をつねに明確にしなければならない。「常に気高い標準をもって、しかも人生理想を変更しないで心に描いている人は、・・・その理想を現実になしえる資格を自分でつくっている・・・宇宙霊の力がそれへドンドン注ぎこまれんだから」。[26] その理想は、つねに自己の精神において保持されねばならない。どのような環境世界に生きようとも、明るく、朗らかに、生き生きとして生きることによって、宇宙霊からのヴリル=活力を心身に取り入れることができる。この理想は、心が清浄である場合にだけ、実現される。「心の世界には人を憎んだり、やたらにくだらないことを怖れたり、つまらないことを怒ったり、悲しんだり、妬んだりするというような消極的なるものはひとつもない」。[27] 本来の人間の心には存在しないにもかかわらず、そのような心に我々は陥る。どのようにすれば、その状態から逃れることができるのであろうか。そのような状態に陥っていることに気が付いている場合、「その思い方、考え方を打ち切りさえすれば、もう悪魔はそのまま姿をひそめる」。[28] まさに、禅宗の名言、「念を継がない」ことが重要である。

 悪魔を退散させるためには、どのようにすべきであろうか。中村天風は明瞭に示している。「俺はこの世の中で一番気高い人間だ、俺はいちばんこの世の中で心のきれいな人間だ、・・・それをしょっちゅう思い続けていくんだ」。[29] 心が汚れている場合には、それを拭うことが肝要である。打ち切る、念を継がない。

 

4.人生建設のために必要な生命力

4.1 6種の生命力

 生命力は、以下の6つに分類されている。体力、胆力、精力、能力、判断力、断行力の6つに分類されている。[30] 人間の生命の内奥には、崇高な使命を現実化するための潜勢力が備わっている。ここでは、2番目の胆力について言及してみよう。ここでは、中村天風の思想の独自性として胆力を挙げておこう。周知のように、彼は武道とりわけ剣道において当時の一級の使い手であった。日露戦争直前の満州において、清龍刀の達人を殺したことが書かれている。当時の軍事探偵としての使命を全うした。

 この生命力は6つに分類されているが、それぞれ相関している。とりわけ、胆力は後期近代の知識人にはほとんど顧慮されていない生命力の一側面である。単純化して言えば、右顧左眄しないことである。ここからは、私の体験に基づくものも含まれている。

 

4.2 周章狼狽

単なる思い付きで行動しないことである。思い付きは慌てるときに生じる。「慌てるというのは、またの名を周章狼狽というが、これは心がその刹那放心状態に陥って、行動と精神とが全然一致しない状態をいうのである」。[31] 通常、行動と精神はほぼ一致しない。通常、行為には前もってその選択肢が考察されている。ある状況における選択肢は、前もって用意されている。段取りという言葉によって表象される行為は、すでに考察済であったはずである。

しかし、実際にその段になると、右往左往することがある。とりわけ、親族の危篤状況、死去に際して、それが現実化したときに段取り通りすることは、稀である。段取りあるいは計画を忘れて、想定外の選択肢を選びがちである。しかし、その思い付きの選択肢は、段取りの段階において消去されていた場合も多い。胆力がない場合、この思い付きの選択肢を取りがちである。とりわけ、小賢しい理性を有する人間は、段取りにしたがって行為できない。段取りに従って行動することは、環境世界の小さな変化を無視する力を必要としている行動と精神が一致していない状態に陥ることは、中村天風になかったかもしれない。しかし、周章狼狽状態に陥った場合、私のような凡人は、前もって想定されていた段取りに従った方が、良いように思われる。

たとえば、親族危篤あるいは死去に際して実家に移動する場合、鉄道を使用するのか、航空機を使用するのか、段取りの段階において精密に検討されていたはずである。しかし、緊急事態に現実に陥ったとき、この事前の段取りを忘れて、別の選択肢を採用しがちである。状況の仔細な変化を無視する胆力が要請されている。胆力は、状況の微細な変化を無視する力である。

 

4.3 一つのことへの集中――柳生但馬守と沢庵禅師の問答

 人間は一つのことしかできない。「柳生但馬守が未だ修行中のおり、沢庵禅師に次のような質問をしたことがある。『一本の剣は扱いやすし、されど、数本ともなればいかになすべきや?』と。禅師答えて曰く、『・・・数本もやはり一本一本扱うべし』」。[32] 中村天風から学んだ方法論は幾つかあるが、この方法論は私を魅了した。瞬間、瞬間に人間ができることは、一個でしかない。そのときどきの課題に集中するしかない。

 

「珈琲時間」

2019年秋に、論文を5本書いた。それぞれ一度に沢山の剣を相手にしたのではない。

 

5. 理想的人間像への精進

5.1 価値ある人生

 人生は一回限りである。人間が現世において生きていることが、奇跡のようである。したがって、人間の本質は尊い。「価値ある人生を活きるには、先ず自分の本質の尊さを正しく自覚することが必要である」。[33] 何か使命あるいは意義を持って現世において生まれてきた。価値高い生き方が万人に可能である。その価値高い生を可能にするためには、「霊性満足」を指向するしかない。この目標をかかげるかぎり、失望や煩悶もないはずである。「『霊性満足』の生活目標なるものは小我的欲求の満足を目標とするものではなく、・・・自己の存在が人の世のためになるということを目標とする生活であるからである[34] 自己の存在理由が、人間の環境世界に寄与する。

 しかし、人の世にとって私の存在がどのように寄与するのか。あるいは、別の言葉によれば、世界における私の役割を自覚することは、簡単ではない。しかし、私の生が存在すること、出発点はそれ以外にはない。

 

5.2 自分の心の更新

 心は日々、更新されねばならない。「日々更新の宇宙真理に順応するためには、先ず自己の心を日々更新せしめざるべからず」。[35] 宇宙の目的が進化と向上あるか、否かは、現在の私には判断できない。しかし、宇宙の形態が変化していることは、異論がないであろう。その変化に私つまり私の心も変化する。宇宙霊に自己の本質があるかぎり、私の心もその変化に対応しなければならない。

 

5.3 積極的言葉の使用

 中村天風の偉大さは、この理想的人間像の形成への道筋を示していることにある。彼の死後、半世紀が経過しても、彼の思想が参照される理由もまた、この点にあろう。この実践的方法論をここで再録してみよう。自然的人間が生きる道標にとして、中村天風の哲学は価値がある。

 誰でも、無意識に使用している口癖がある。それを対象化する。使用している言語、とりわけ無意識に使用している言葉を意識化することが、中村天風の思想を理解するために必要である。「言語は自己感化に直接的な力を持っている」。[36] 言語活動が自己の心を影響づけるからだ。自己によって発話された言語が、自己の心境を影響づける。積極性を指向しない口癖は、彼の哲学が意識化されていない証拠である。厳に慎むべきであろう。

それは、山岸巳代蔵の主張にもある。「いつでも快適な状態、これが真の人間の姿だ」。[37] ここでも消極的ではなく、積極的な人生が真の人生であるとされている。「大変なことが起きたようなことでも、大変なこととは思わない」。[38] 積極的なこと、やるべきことが見つかれば、大変なことも大変でなくなる。現前の課題が追求されるべきであろう。

 

5.4 諸事万事気を込めて行う[39]

 自然人が行うすべて行為を、気を込めて行う。~をしながら行為することを慎む。たとえば、煙草を喫するという行為を私は、気を込めて行おうと思う。いままで、勉強しながら、あるいは音楽を聴きながら喫煙してきた。煙草それ自体を味わっていなかった。近年、喫煙所で煙草を喫することが強制されている。しかし、喫煙所では、煙草一本、一本を愛しむようにして喫するようになった。机の側で喫するときでも、煙草を味わってみたいと思う。

 そのためには、充分な時間と場所が必要だ。23分の空き時間ではなく、最低でも5分の時間を見出して、深呼吸しながら煙草を味わいたい。

 

「珈琲時間」

 他者の関係性において、人間は煩悶する。悩みの大半はここにある。自分の意向に従って、他者を変革することはできない。他者の距離感が問題である。変革しようする場合は、自分の内にその理想像がある。しかし、自分の思いとやることは区別されるべきである。できないことをしようすることに、煩悶の原因がある。他者の範疇には、親、子供、配偶者、親族、友人、知人、機能的関係者等も含まれる。自分以外の人間すべてを意味している。しかし、この命題は自分を絶対化することでもない。自分の現在の問い自体にも返答することはできない。そもそも、わからないから質問している。他者であれば、自己であれ、質問の内容もまた、要をえない。

 しかし、自己は他者と何らかの関係を持っている。命令することもあれば、お願いすることもある。金銭を媒介にすれば、ほとんどの物を入手できる。しかし、それはなんかの限定された関係でしかない。ゼミナールの学生に論文指導をすることは、卒論論文という限定された関係でしかない。そのうちの一人と左酒を飲むこともある。しかし、飲み屋を出れば、他人である。酒を飲むという関係でしかない。他者たとえば子供に対しても、影響を与える。部分的な影響である。ある人が死期を明示されて、それを子供に伝達することも不可避である。子供の人生を中断することでもない。親の死に反応する子供がいるだけである。

5.5 他者との関係

 他者に対して、機能的関係に限定して交際すれば、煩悶が生じることはない。君子の交わりは、淡きこと、水の如し。この関係を他者とのどのような場面でも、貫徹できれば問題ないであろう。しかし、私は他者に対して、怒る。悲しむ。怖れる。「最後に必要な注意は、三勿の実行ということである。三勿とは何を意味するかというと、(1)、勿怒、(2)、勿悲、(3)、勿怖の三つの事柄である」。[40] 私は他者に対して、このような消極的感情に支配されている。過剰に他者に期待することによって、そのような感情が芽生える。煩悶すれば、生命維持のための活力が大幅に減少する。にもかかわらず、消極的感情に支配されている。中村天風を咀嚼していないからであろう。

 

6. 理想的人間への具体的方策

6.1 助けを求めない。

 まず、運命の主人公になるためには、悲鳴を上げないことが重要である。「悲鳴を上げないことを第一に自分に約束しなさい」。[41] 悲鳴を上げたとこで、誰も助けてくれない。多くの人は口癖として、助けを求める言葉を発している。たとえば、「助けて、皆」あるいは「助けて、神様」という言葉を発している。しかし、そもそも皆あるいは神とは誰であろうか。この言葉を聞いている人は、自分でしかない。自分の人生を自分で決定するしかない。共同体たとえば、『じゃりン子チエ』において描かれているような下町共同体が、このような言語を発する自然的人間の脳裏にある。この無意識に設定した前提は、間違っている。後期近代における社会において、他人は誰も自分の現状に関心がない。この漫画における竹本テツは、つねに両親、子供、地域社会の人々から慕われている。表題とは異なり、この漫画の主人公は竹本テツであろう。彼は、博徒、警官、両親、地域共同体の人と関係している。彼は、下町共同体の住民にとって迷惑な存在である。粗暴で、暴力的そして無教養である。彼らはこの主人公を迷惑な存在と認識しているにもかからず、両者は、終生関係づけられている。この下町共同体の主人公ですらある。この漫画の最終頁に登場人物の集合写真があるが、竹本テツがその中心に位置している。[42] 

 このような人間が自分、自分とあると錯覚していた。近代人は、竹本テツことテッチャンにはなれない。他者に助けを求める人は、そこから過剰な期待を他者、たとえば地域社会の人々、あるいは会社の同僚に期待していた。彼らは、限定された時間、限定された空間そして限定された目的においてする人と関係しているにすぎない。家族ですら、その限定性から逃れられない。この条件下でしか、他者と私は関係を構築できない。この関係を超えた関係を突然築くことはできない。

 もっとも、これ以上書くと、消極的思考に陥る。いずれにしろ、助けを求めず、自分のことを自分でする。助けを求めるような口癖をやめよう。心に隙ができよう。自分の関係のないことには、関与しない。宇宙から与えられた自分の使命を、つねに再認識してゆく。自然的人間はつねにこれを忘れがちである。

 

「珈琲時間」

受験生と自己責任 20200404追記

 このごろの大学受験生は、高校時代に塾や予備校に通学するようである。しかし、平均的学生は、塾の宿題をすることで終わってしまう。自分で勉強する習慣を喪失する。また、地元志向が強い傾向にある。東京圏や大阪圏は当然であろうが、地方都市でもその傾向があるようである。例えば、函館市のような30万人都市でも、その傾向は強い。しかし、自宅から通学すると、母親にすべてお任せになる。特に、炊事、洗濯をしたことのない男子学生も多い。すべての生活を両親に任せることによって、責任を他者に押し付けるようになる。しかし、人間は自分で考えて、自分で決断し、自分で責任を負う、そして自分で死んでゆく。もちろん、自分の思考、決断は完全ではない。ほとんど、間違っていると言っても過言ではない。しかし、他者つまり母親、塾と学校の先生に責任を押し付けるよりも、より良いであろう。

 最近、知人が中途視覚障碍者になった。盲目になった人が、他者例えば親近者に盲目になった責任を押し付けることが、彼の知人の周囲には多いようである。中途失明の場合、何らかの過去の人生において、別の選択肢を採用していれば、失明に至らなかったという後悔が出てくる。選択肢は、たしかに過去にあった。別の選択肢を採用していれば、全盲にはならなかった。原因を他者に押し付けがちである。しかし、強制されたものであれ、選択をしたのは自分でしかない。

 

6.2 不満なし

 自然的人間は、自らの現状に不満を持っているが、中村天風は自らの運命を悲嘆することを戒めている。「不平不満を言わないようにしろ」。[43] たとえ、盲目になったとしても、不満を言うべきではない。宇宙霊がこのような現状に自然的人間を置いている。それは、自らが播いた種でもある。不平不満を言ったから、現状が変革されるわけではない。また、心が汚れる。現状においてできるかぎりの精力を使用することが重要である。さらに、この心境に至れば、現時点での状況配置をより冷静に考察することができる。目的を定めず、現状においてできるかぎりのことをする。「心に従いながら、がむしゃらにファイトを燃やして行く」。[44] 自己の現状に不満を言うのではなく、現状においてできるかぎりのことをする。現前の課題を心から信じているかぎり、それに邁進するしかない。「結局、当たって砕けろです」。[45] 現存する課題だけに集中する。

 

「珈琲時間」

1960~1970年代の新左翼の文献を読んでいたころ、判断力がないことに気が付く。見ている状況は他の党派――しかも限られた新左翼、良くて旧左翼の状況でしかない。自民党の状況など眼中にない。これでは、衰退することも必然であった。

 

6.3 とらわれからの脱皮

 多くの自然的人間は、こだわり、心配、取り越し苦労に、とらわれている。そこに拘るかぎり、心配事は永遠に尽きない。中村天風はそこから脱却するためには、別の思考様式を考察している。現存する心配事に意識を集中するかぎり、そこからの脱却はできない。むしろ、現在の課題、現前の課題に集中することを提起している。「自ら顧みて、今あなたたちの心にとらわれがあるとしたら、そのとらわれから抜けださなきゃだめだよ。とらわれから抜け出すのは難しくないんだ。・・・心を打ちこんで何事かをする習慣をつけると、今までとらわれていたはずのものが、向うから出ていってしまう」。[46] 有限な自然人が過去の状況、未来の状況を考慮しても、無意味である。時間は現在においてしか存在していない。

6.4 自分のことを自分でする

 中村天風は、夜具の上げ下ろしを自分でしている。自分のことを自分でする。その習慣化した作業工程、たとえば夜具の上げ下ろしの過程において、本日の課題を再認識してゆく。この意義は大きい。「寝具は・・・自身たたむ」。[47] 寝具をたたむことは、自己統御の原初的行為である。就寝中においてあらゆる動物は、自己統御力を回復する。寝具は、この神聖な時を演出した。人間はそれに感謝すべきである。

7.  人間的自然としての肉体

7.1 睡眠と人間的自然

さらに、中村天風は、睡眠を宇宙のエネルギーを受容する過程とみなしている。「睡眠というものを科学的に結論すると、自然の力と人間の生命と交流結合する時だとえいえる」。[48] 睡眠によって自然的人間は活力を取り戻し、宇宙からヴリルを受容する。心身の積極性の根源は睡眠にある。その道具に対する感謝は必要であろう。

 

7.2 食生活論――中島正との同一性???

8.  自然的人間の活動とその目的

8.1 自然的人間の活動とその基礎づけ

現代人の多くは、職業に従事している。この職業を賃労働という狭義の意味ではなく、社会的活動あるいは人間的活動とみなしてみよう。現代人が奴隷でないかぎり、この人間的活動に対してなんらかの意義づけをしている。以下の文書は、私の政治思想史講義資料からの抜粋である。「中世において世俗的職業に従事することは、神との関係において職業的聖職者の生活を支えるという点が主であった。聖職者の特権が廃止された結果、天職は聖職者だけではなく、すべての職業に適合する。世俗的職業に従事することが、神に仕えることと同義になる。たとえば、靴職人が靴を作ることが、神に奉仕することである」。[49] ヴェーバーの有名な『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を敷衍することによって、ルターのプロテスタンティズムと社会関係の近代的意味を基礎づけている。

 社会思想史におけるルターの思想に関する意義づけを離れて一般的に考察してみよう。もし、世俗的活動が宗教的に基礎づけられるならば、この世俗人は幸せである。世俗人の活動、たとえば靴職人が靴を作ることの目的は、生存のための費用を獲得するだけではない。この世俗人は神に対する奉仕活動して、その活動、職業に精励することができる。生計維持のための手段、つまり金銭の獲得以外の要素を人間的活動に見出せるなら、豊かな充実感を得られるであろう。神あるいは宇宙と一体になっているという感情がこの世俗人にあるならば、彼が活動している時間と空間において、積極的な精神しか入る余地はないであろう。自然的人間の活動と宇宙霊への奉仕が一体化することによって、世俗的活動が神聖な活動に転化する。中村天風の積極的活動に関する意義づけも、このような解釈に基づくのかもしれない。

 

[1] 中村天風『君に成功を贈る』日本経営者合理化協会出版局、2010年、89頁参照。

[2] 中村天風『幸福なる人生』PHP研究所、2011年、118頁:中村天風『運命を拓く』講談社、1998年、253頁参照。

[3] 中村天風『心を磨く』PHP研究所、2018年、197頁。

[4] 中村天風『真人生の探究』天風会、1994年、144頁。

[5] 中村天風『盛大な人生』日本経営合理化協会出版局、2009年、372-373頁。

[6] 中村天風『心を磨く』PHP研究所、2018年、61-64頁、340頁参照。森本暢『実録 中村天風先生 人生を語る』南雲堂フェニックス、2004年、201頁参照。

[7] 中村天風『運命を拓く』講談社、1998年、87頁。

[8] 中村天風『運命を拓く』講談社、1998年、87頁。

[9] 中村天風『真理のひびき』講談社、2006年、93頁。

[10] 中村天風『運命を拓く』講談社、1998年、83頁。

[11] 中村天風『運命を拓く』講談社、1998年、67頁参照。

[12] 中村天風『運命を拓く』講談社、1998年、90頁。

[13] 中村天風『運命を拓く』講談社、1998年、137頁。

[14] 中村天風『運命を拓く』講談社、1998年、80頁。

[15] 中村天風『叡智のひびき』講談社、1995年、71頁。

[16] 中村天風『心を磨く』PHP研究所、2018年、340頁。

[17] 中村天風『真人生の探究』天風会、1994年、171頁。

[18] 中島正『都市を滅ぼせ 人類を救う最後の選択』舞字社、1994年、49頁。

[19] 中村天風『心を磨く』PHP研究所、2018年、47頁。

[20] 中村天風は、『叡智のひびき』においてプランク定数hに実在するエネルギー源泉としてヴリル(Vril)という概念を用いている。この概念がプランクの作用量子論におけるどの概念に該当するのかは、不明である。別の論稿においてこの概念は宇宙ではなく、その現象界における人間的自然の活力として考察されている。中村天風『叡智のひびき』講談社、72; 中村天風『真人生の探究』天風会、1994年、195頁参照。

[21] 中村天風『運命を拓く』講談社、1998年、146頁。

[22] 中村天風『真人生の探究』天風会、1994年、42頁。

[23] 中村天風『運命を拓く』講談社、1998年、172頁。

[24] 中村天風『真人生の探究』天風会、1994年、15頁。

[25] 中村天風『盛大な人生』日本経営合理化協会出版局、2009年、119頁。

[26] 中村天風『盛大な人生』日本経営合理化協会出版局、2009年、118頁。

[27] 中村天風『盛大な人生』日本経営合理化協会出版局、2009年、130頁。

[28] 中村天風『盛大な人生』日本経営合理化協会出版局、2009年、130頁。

[29] 中村天風『盛大な人生』日本経営合理化協会出版局、2009年、157頁。

[30] 中村天風『真人生の探究』天風会、1994年、45頁参照。

[31] 中村天風『真理のひびき』講談社、2006年、191頁。

[32] 中村天風『真理のひびき』講談社、2006年、194頁。

[33] 中村天風『真理のひびき』講談社、2006年、22頁。

[34] 中村天風『真理のひびき』講談社、2006年、32頁。

[35] 中村天風『真理のひびき』講談社、2006年、92頁。

[36] 中村天風『幸福なる人生』PHP研究所、2011年、140頁。

[37] 山岸巳代蔵「無数の愛人と共に/愉快の幾千万倍の気持ち」山岸巳代蔵全集刊行委員会編『山岸巳代蔵全集』第2巻、2004年、302頁。

[38] 山岸巳代蔵「本当の人間 当然の人生」山岸巳代蔵全集刊行委員会編『山岸巳代蔵全集』第2巻、2004年、304頁。

[39] 中村天風『折れない心』扶桑社、2019年、36頁。

[40] 中村天風『真人生の探究』天風会、1994年、151頁。

[41] 中村天風『幸福なる人生』PHP研究所、2011年、140頁。

[42] はるき悦巳『じゃりン子チエ』第47巻、双葉社、2004年、300-301頁参照。

[43] 中村天風『幸福なる人生』PHP研究所、2011年、141頁。

[44] 中村天風『幸福なる人生』PHP研究所、2011年、156頁。

[45] 中村天風『幸福なる人生』PHP研究所、2011年、169頁。

[46] 中村天風『幸福なる人生』PHP研究所、2011年、237頁。

[47] 中村天風『真人生の探究』天風会、1994年、237頁。

[48] 中村天風『真人生の探究』天風会、1994年、129頁。

[49] 田村伊知朗『社会思想史講義草稿』(未公刊)第二章「ルターの宗教改革の政治思想的意義」参照。

|

自然的人間の活動の目的――中村天風の思想に関する覚書             

自然的人間の活動の目的――中村天風の思想に関する覚書             20190515,0502,0504.0509,0610

(本稿は未定稿である。標記に関して、備忘録的色彩を持ち、学界の定型に従っていない)。

 

  1. 中村天風の哲学との偶然的出会い

 中村天風(1876~1968年)の哲学は、日露戦争前後から形成されていたことを考えると、ほぼ100年の歴史を有している。日本には哲学に関する大学教授は、この100年間に、数万人、あるいは数十万人いたからもしれない。彼らによって出版された哲学書あるいは哲学に関する研究書は、数万冊に至るかもしれない。しかし、現在でも読書界において確固の地位を保っている書物は、少ない。この1世紀に渡る時間のなかで、日本人だけが彼の信奉者でもなかった。著名な外国人、たとえばロックフェラー3世も彼の思想にふれる機会を持った。[1] 多くの人間が彼の人格そしてその思想にふれたことは、偶然であれ、幸福であったであろう。

 彼の哲学は、多くの人の病気、煩悶、貧乏等の悩みを解消した。その実用的価値からも、彼の哲学が現在でも影響を与え続けている。彼の哲学が人口に膾炙した根拠の一つは、日常的生活において実行可能な提言である。たんに、ハイデガーのように本来的自己を提示することは、容易である。しかし、どのようにして市井の個人がそれに到達できるのか不明である。それ以前に、ハイデガーの難解な書物を購入しなければならない。それ読むだけで数十年の年月がかかる。

 中村天風は、それに至る一つの途として、日常生活において積極的言葉を使用するという誰でも実行できそうな提言をしている。もちろん、厳密に考えれば、かなり困難であるが、肩の荷が少し軽くなった悩める人間は数多いであろう。

 積極的言葉をより使用し、そして私の実行方法ではできる限り元気で、かつ快濶に、はっきりと発音することが肝要であろう。これだけでも、肩凝りの症状が軽くなった人は数多いであろう。

 あるいは、他人の悪口を言わない、できる限り他人の良い点を褒める、ということも実行しようと思う。他人の悪口は、自分の心の清浄性を冒し、自分自身を貶めることにつながるであろう。自分の心の汚濁は、疾病の素であろう。

1.人間的自然と宇宙

1.1 闇の夜に鳴かぬ烏の声

「闇の夜に鳴かぬ烏の声聞けば、生まれぬ先の親ぞ恋しき」という有名な詩歌は、一休宗純(1394~1481年)によって作成された、とみなされている。[2] この解釈は古来より多々あるであろう。しかし、以下のように解釈したい。私という一回かぎりの生を現生に送り出したもの、闇の奥にあるものが存在しており、その声が聞こえるはずだ。私もたまに、聞こえるような気もするが、どうであろう。少なくとも、その声を聞こうとしている。

 鳴かぬ烏の声とは何か。私という人格を送り出し根源的なものとはなにか。私に何を託そうとしているのか。宇宙が進化するか、否かはわからないが、何かをするためにここにいることは、間違いないであろう。その何か、に関して、おもうことはある。人間あるいは人類の歴史に関して、どのような寄与ができるのであろうか。

 

1.2  中村天風の宇宙観とプランク定数h

 この問題に解答するために、中村天風の宇宙観に言及してみよう。彼の世界観によれば、「人間は宇宙の進化と向上に順応するために生まれてきた」。[3] そして、「この宇宙の創造を司る造物主と称する宇宙霊」[4] こそが、人間を創造した。しかし、この宇宙は進化するのであろうか。この点に関して中村天風は曖昧である。宇宙が根源的で絶対的であれば、進化も向上もする必要はないからである。現象界に送り出された人間は、宇宙に寄与することは何もない。

 しかし、次のように考えることによって、中村天風はこの難問に回答を与えている。中村は、宇宙霊を生命体とみなしている。「宇宙霊は、休むことなく働いている。創造に瞬時の休みもなくいそしんでいる活動体である。だからこそ、この宇宙はつねに更新し、常に進化し、向上しつつあるのである」。[5] 中村天風によれば、生命体つまり有機体として宇宙霊こそが、宇宙エネルギー総体である。この中村天風によって把握され、命名された宇宙霊が、人間的個人の周りを包んでいる。[6] 「宇宙霊なるものこそは、万物の一切をよりよく作り更える」[7]  宇宙霊は、現象界を改善する方向へと変化させる。人間がその用意をした場合、「造物主(宇宙霊)の無限の力が自然に自己の生命の中へ、無条件に同化力を増加してくる」。[8] 現象界において人間は、この無限に受容できる。この思想は次のように要約される。「宇宙の最初は、ただ宇宙霊のみであった」。[9] ここまでは、私にも理解できる。しかし、なぜ宇宙霊は絶対的ではなく、進化あるいは変動するのか。この点が理解困難であった。

 しかし、中村天風は宇宙霊を固定的に考察するのではなく、エネルギーと周波数の関係つまり超極微粒子のブランク定数hとみなしている。「万物能造の宇宙エネルギーは、この空間と俗に人々から呼称せられているものの中に、遍満している『絶対に人類の発明した顕微鏡は、分光器では、何としても分別感覚することの不可能な・・・見えざる光であるところの超極微粒子』だと論定している。しこうして、この『超極微粒子』を、今から半世紀以前にドイツのプランク博士が、これをプランク常数Hと名付けた。このプランク常数Hなるものこそ、ヨガ哲学者のいう宇宙霊なのである」。[10] プランク(Planck, Max 1858~1947年)によって発見されたプランク定数hは作用量子(Wirkungsquantum)であり、つねに活動している。これは、この光子のエネルギーと周波数の関係であり、固定的なものではなく、常に流動している。共鳴子の振動は、その振幅と位相を変化交替させる。但し、この流動性は以下のような作用量子に関する中村天風の解釈に基づいている。「宇宙現象の根源をなすところの『気』というものは、(+)の『気』と(-)の『気』の二種類に分別される。そして、プラス=+の『気』は、建設能造の働きを行い、マイナス=-の『気』は、消滅崩壊の働きを行って、生々化々の現実化のため、常に新陳代謝の妙智を具顕しているのである」。[11] この中村天風の言説がプランク定数hにおけるどのような要素と関連しているのか、不明である。

 通常の宗教学によれば、宇宙霊とは唯一絶対神であり、固定的に思惟されている。たとえば、ユダヤ教あるいはキリスト教における唯一絶対神が、流動的であるはずがない。この常識に囚われていた私は、宇宙霊を固定的に考察していた。それが、まちがいのもとであった。もちろん、宇宙が進歩しているかどうかに関して異論はある。宇宙には進歩という概念がないという宇宙観もまた、真理である。数千年における人間の歴史という尺度において、果たして宇宙には進歩がないかもしれない。「循環=繰り返しには『進歩』がない。・・・田舎(農業)は、この大自然の『永遠の循環』『進歩なき繰り返し』と共にあるべきものである」。[12] 中島正はこのような東洋的宇宙観に基づき、その思想を形成している。中村天風の宇宙観は、中島正の宇宙観から区別されている。しかし、どちらの宇宙観が正統であるかは、時間的尺度の差異に基づき決定される。

 

1.3 宇宙霊と自然的人間

 この認識に間違いがなければ、これからは一瀉千里である。[13] 「わが生命は宇宙霊の生命と通じている。宇宙霊の生命は無限である」。[14] 宇宙霊と人間の精神が同一化される状況へと自己の精神を方向づけるだけである。「人間は、恒に宇宙原則に即応して、この世の中の進化と向上とを現実化するという、厳粛な使命をもってこの世に生まれて来た」。[15] 宇宙の進化と感応する人間的精神の目的が、明瞭に述べられている。ここからは、心を積極的にするための方法論の実践だけである。たとえば、怒り、怖れ、悲嘆ではなく、感謝と歓喜の感情に満ちた生活をおくることが重要である。「宇宙の神霊は、人間の感謝と歓喜という感情で、その通路を開かれる」。[16] 宇宙霊と個人の精神が合体することによって、積極的感情に満ちることによって、個人の運命も積極化する。以下では、そのための具体的方法を列挙してみよう。この具体的実行例は、多くの信奉者が日々配慮しているであろう事柄に属している。

 

2.理想的人間像への精進と、積極的言葉の使用

 中村天風の偉大さは、この理想的人間像の形成への道筋をしめしていることにある。本稿が彼の思想に言及する根拠も、そして世人が彼の思想に傾倒する理由もまた、この点にあろう。この実践的方法論をここで再録してみよう。私の生きる道標にとっても、価値があるからだ。

 誰でも、無意識に使用している口癖がある。それを対象化する。使用している言語、とりわけ無意識に使用している言葉を意識化することが、中村天風の思想を理解するために必要である。「言語は自己感化に直接的な力を持っている」。[17] 言語活動が自己の心を影響づけるからだ。自己によって発話された言語が、自己の心境を影響づける。口癖は意識化されていない証拠である。厳に慎むべきであろう。

それは、山岸巳代蔵の主張にもある。「いつでも快適な状態、これが真の人間の姿だ」。[18] ここでも消極的ではなく、積極的な人生が真の人生であるとされている。「大変なことが起きたようなことでも、大変なこととは思わない」。[19] 積極的なこと、やるべきことが見つかれば、大変なことも大変でなくなる。

2.1 助けを求めない。

 まず、運命の主人公になるためには、悲鳴を上げないことが重要である。「悲鳴を上げないことを第一に自分に約束しなさい」。[20] 悲鳴を上げたとこで、誰も助けてくれない。口癖として、助けを求める言葉を発していた。たとえば、「助けて、皆」という言葉を発していた。しかし、そもそも皆とは誰であろうか。この言葉を聞いている人は、自分でしかない。自分の人生を自分で決定するしかない。

 共同体たとえば、『じゃりんこチエ』において描かれているような共同体を私は理想としてした。この無意識に設定した前提は、間違っている。誰も自分の現状に関心がない。この漫画における鉄は、つねに両親、子供、地域社会の人々からし慕われている。このような人間が自分、田村伊知朗とあると錯覚していた。私は、鉄ことテッチャンには、なれない。ありえない。そこから過剰な期待を他者、たとえば地域社会の人々、あるいは会社の同僚に期待していた。彼らは、限定された時間、限定された空間そして限定された目的において私と関係しているにすぎない。家族ですら、その限定性から逃れられない。この条件下でしか、他者と私は関係を構築できない。この関係を超えた関係を突然築くことはできない。

 もっとも、これ以上書くと、消極的思考に陥る。いずれにしろ、助けを求めず、自分のことを自分でする。助けを求めるような口癖をやめよう。心に隙ができよう。自分の関係のないことには、関与しない。宇宙から与えられた自分の使命を、つねに再認識してゆく。自然的人間はつねにこれを忘れがちである。中村天風から学んだことである。

受験生と自己責任 20200404追記

 このごろの大学受験生は、高校時代に塾や予備校に通学するようである。しかし、平均的学生は、塾の宿題をすることで終わってしまう。自分で勉強する習慣を喪失する。また、地元志向が強い傾向にある。東京圏や大阪圏は当然であろうが、地方都市でもその傾向があるようである。例えば、函館市のような30万人都市でも、その傾向は強い。しかし、自宅から通学すると、母親にすべてお任せになる。特に、炊事、洗濯をしたことのない男子学生も多い。すべての生活を両親に任せることによって、責任を他者に押し付けるようになる。しかし、人間は自分で考えて、自分で決断し、自分で責任を負う、そして自分で死んでゆく。もちろん、自分の思考、決断は完全ではない。ほとんど、間違っていると言っても過言ではない。しかし、他者つまり母親、塾と学校の先生に責任を押し付けるよりも、より良いであろう。

 最近、知人が中途視覚障碍者になった。盲目になった人が、他者例えば親近者に盲目になった責任を押し付けることが、彼の知人の周囲には多いようである。中途失明の場合、何らかの過去の人生において、別の選択肢を採用していれば、失明に至らなかったという後悔が出てくる。選択肢は、たしかに過去にあった。別の選択肢を採用していれば、全盲にはならなかった。原因を他者に押し付けがちである。しかし、強制されたものであれ、選択をしたのは自分でしかない。

2.2  不平、不満を言わない

 人間は、自らの現状に不満を持っているが、中村天風は自らの運命を悲嘆することを戒めている。「不平不満を言わないようにしろ」。[21] 宇宙霊がこのような現状に自然的人間を置いている。それは、自らが播いた種でもある。不平不満を言ったから、現状が変革されるわけではない。また、心が汚れる。現状においてできるかぎりの精力を使用することが重要である。さらに、この心境に至れば、現時点での状況配置をより冷静に考察することができる。

目的を定めず、現状においてできるかぎりのことをする。「心に従いながら、がむしゃらにファイトを燃やして行く」。[22] 自己の現状に不満を言うのではなく、現状においてできるかぎりのことをする。現前の課題を心から信じているかぎり、それに邁進するしかない。「結局、当たって砕けろです」。[23] 現存する課題だけに集中する。

2.3  とらわれからぬける

 とらわれ、こだわり、心配、取り越し苦労に、多くの自然的人間はとらわれている。そこに拘るかぎり、心配事を尽きない。中村天風はそこから脱却するためには、別の思考様式を考察している。そこに意識を集中するかぎり、そこからの脱却はできない。むしろ、現在の課題、現前の課題に集中することを提起している。「心を打ちこんで何事かをする習慣をつけると、今までとらわれていたはずのものが、向うから出ていってしまう」。[24] 有限な自然人が過去の状況、未来の状況を考慮しても、無意味である。時間は現在においてしか存在していない。

2.4  自分のことを自分でする

 中村天風は、夜具の上げ下ろしを自分でしている。私もそれを実践している。自分のことを自分でするようになってよかったことは、その習慣化した作業工程、たとえば夜具の上げ下ろしの過程において、本日の課題を再認識してゆく。この意義は大きい。「寝具は・・・自身たたむ」。[25] 寝具をたたむことは、「自己統御」の原初的行為である。

2.5 睡眠における活力の受容

 中村天風は、睡眠を宇宙のエネルギーを受容する過程とみなしている。「睡眠というものを科学的に結論すると、自然の力と人間の生命を交流結合する時だとえいえる」。[26] 睡眠によって人間は活力を取り戻し、宇宙からヴリルを受容する。心身の積極性の根源は、睡眠にある。

3.  人間の活動とその目的

3.1 人間的活動とその基礎づけ

 現代人の多くは、職業に従事している。この職業を賃労働という狭義の意味ではなく、社会的活動あるいは人間的活動とみなしてみよう。現代人が奴隷でないかぎり、この人間的活動に対してなんらかの意義づけをしている。以下の文書は、私の政治思想史講義資料からの抜粋である。「中世において世俗的職業に従事することは、神との関係において職業的聖職者の生活を支えるという点が主であった。聖職者の特権が廃止された結果、天職は聖職者だけではなく、すべての職業に適合する。世俗的職業に従事することが、神に仕えることと同義になる。たとえば、靴職人が靴を作ることが、神に奉仕することである」。[27] ヴェーバーの有名な『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を敷衍することによって、ルターのプロテスタンティズムと社会関係の近代的意味を基礎づけている。

 政治思想史におけるルターの思想に関する意義づけを離れて一般的に考察してみよう。もし、世俗的活動が宗教的に基礎づけられるならば、この世俗人は幸せである。世俗人の活動、たとえば靴職人が靴を作ることの目的は、生存のための費用を獲得するだけではない。この世俗人は神に対する奉仕活動して、その活動、職業に精励することができる。生計維持のための手段、つまり金銭の獲得以外の要素を人間的活動に見出せるなら、豊かな充実感を得られるであろう。神あるいは宇宙と一体になっているという感情がこの世俗人にあるならば、彼が活動している時間と空間において、積極的な精神しか入る余地はないであろう。中村天風の積極的活動に関する意義づけも、このような解釈に基づくのかもしれない。

[1] 中村天風『幸福なる人生』PHP研究所、2011年、118頁:中村天風『運命を拓く』講談社、1998年、253頁参照。

[2] 「一休宗純」『ウィキペディア』In: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E4%BC%91%E5%AE%97%E7%B4%94.

[Datum: 10.02.2019]; 東映アニメーション編「鳴かぬ烏と仏さま」『一休さん 第42話』In:

https://www.youtube.com/watch?v=KNTK2x5lRXk.

[Datum: 10.02.2019]

[3] 中村天風『運命を拓く』講談社、1998年、87頁。

[4] 中村天風『運命を拓く』講談社、1998年、87頁。

[5] 中村天風『運命を拓く』講談社、1998年、83頁。

[6] 中村天風『運命を拓く』講談社、1998年、67頁参照。

[7] 中村天風『運命を拓く』講談社、1998年、90頁。

[8] 中村天風『運命を拓く』講談社、1998年、137頁。

[9] 中村天風『運命を拓く』講談社、1998年、80頁。

[10] 中村天風『叡智のひびき』講談社、1995年、71頁。

[11] 中村天風『真人生の探究』天風会、1994年、171頁。

[12] 中島正『都市を滅ぼせ 人類を救う最後の選択』舞字社、1994年、49頁。

[13] 中村天風は、『叡智のひびき』においてプランク定数hに実在するエネルギー源泉としてヴリル(Vril)という概念を用いている。この概念がプランクの作用量子論におけるどの概念に該当するのかは、不明である。別の論稿においてこの概念は宇宙ではなく、その現象界における人間的自然の活力として考察されている。中村天風『叡智のひびき』講談社、72頁参照; 中村天風『真人生の探究』天風会、1994年、195頁。

[14] 中村天風『運命を拓く』講談社、1998年、146頁。

[15] 中村天風『真人生の探究』天風会、1994年、42頁。

[16] 中村天風『運命を拓く』講談社、1998年、172頁。

[17] 中村天風『幸福なる人生』PHP研究所、2011年、140頁。

[18] 山岸巳代蔵「無数の愛人と共に/愉快の幾千万倍の気持ち」山岸巳代蔵全集刊行委員会編『山岸巳代蔵全集』第2巻、2004年、302頁。

[19] 山岸巳代蔵「本当の人間 当然の人生」山岸巳代蔵全集刊行委員会編『山岸巳代蔵全集』第2巻、2004年、304頁。

[20] 中村天風『幸福なる人生』PHP研究所、2011年、140頁。

[21] 中村天風『幸福なる人生』PHP研究所、2011年、141頁。

[22] 中村天風『幸福なる人生』PHP研究所、2011年、156頁。

[23] 中村天風『幸福なる人生』PHP研究所、2011年、169頁。

[24] 中村天風『幸福なる人生』PHP研究所、2011年、237頁。

[25] 中村天風『真人生の探究』天風会、1994年、237頁。

[26] 中村天風『真人生の探究』天風会、1994年、129頁。

[27] 田村伊知朗『政治思想史講義』(未公刊)第二章「ルターの宗教改革の政治思想的意義」参照。

|

研究者人生の終点と、いしいひさいち、中島正そして中村天風

 

 

 20200210

  自然的人間と同様に、研究者人生の終点はある。最近数年間、それが意識されるようになった。田村伊知朗は、具体的な人間としてどのような存在であり、かつあったのかを認識しなければならない。その一環として、青年時代から私の本棚を占有してきた書物を再検討してみようと考えた。青年時代から愛読してきた思想家の何人かを対象にして、その意義を研究論文の形式において再確認しようとしている。

いしいひさいち、中島正そして中村天風もその一人である。この三人の思想家は一見、関連性はないように思える。いしいひさいちは、漫画家であり、しかも4コ漫画家である。思想史研究家がしばし取り上げる手塚治、白土三平等の長編漫画家ではない。中島正は自然卵養鶏家としては著名であり、農業養鶏を指向する養鶏家のなかでは教祖的存在であるが、ほとんど学術的対象になったことはない。また、中村天風の思想はしばし論じられてきたが、中村天風財団の創始者として知られ、実践家として有名である。

三人の思想家に共通している事柄は何であろうか。彼らは私の思想形成上、重要な役割を果たしたが、私はなぜ彼らに魅了されたのであろうか。彼らの思想の何が私を駆り立てたのか。再吟味してみたい欲求が生まれた。2020年現在、その解答は未だ曖昧模糊としている。しかし、もうすぐ、わかるような気がしている。その導きの糸は、三人とも、原理主義者であることであろう。対照的に私は、原理主義に対して魅力を感じながらも、自らの原理を確立することを断念している。

 

 

 

 

 

|

複雑怪奇なPC配線と人生ーー複雑な配線の単純化と生きる意味

 職場のPC周りの配線を整理した。新しい機械を導入すたびに、USB配線と電源延長コードが、既存の配線の上に設置された。配線が複雑怪奇になっていた。その整理をしていて、気が付いたことがある。

 

 無用な延長コードを多用して、配線を複雑にしていた。配線は、電源配線と、USBによるPC結合配線の2種類しかない。今まで、PC結合配線を必要とする機械、たとえば印刷機やスキャナー等を数か所に分割していた。2本の電源延長コードと、3本のUSB延長コードがあった。整理する過程において、これらが除去された。分量的には、延長距離は約半分になった。また、コンセントを一本化した。冷蔵庫の電源を除いて、職場を夕方退去するときに、コンセントをすべて抜いていた。今まで、その数が3本あった。それを1本に纏めた。まず、USB配線も1本にだけに整理した。複雑になった事柄は、分割されねばならない。単純化されることによって、人間に認識しやすくなるからだ。この世の複雑な事柄は、単純化される。デカルトから学習した法則である。複数の機械を同じ本棚の同じ段に設置することによって、PC結合配線が1本になった。次に、機械電源コードだけを整理した。複数の機械電源も1か所に纏めた。電源延長コードも1本になった。USB配線コードも1本になった。

 また、複数の電源とUSB配線の分岐点を本棚の最下段に集約した。そこは、グチャグチャである。絶望的なほど、グチャグチャである。どうしようもない。しかし、そのすぐ上に、本棚の板を設置した。外からは、このグチャグチャが見えなくなった。あたかも配線がないかのようである。また、配線を下段にたらす際、本棚と壁の間を通すようにした。本棚上段に本を配架することによって、この配線もみえなくなった。今まで、本棚は壁に隙間なく接合すべきということに拘っていた。この拘りをなくすることによって、配線を本棚の後ろに配架することができた。もちろん、最上段だけは壁に接合されている。安全を確保するためである。

追記

20191225

  2019年12月の大掃除の時に、プリンターを本棚最下段に置いた。配線は本棚の下に通したので、グチャグチャはなくなった。また、机の離れたところに、本棚を置き、そこにこの機械を設置していた。しかし、机に隣接して本棚を置いて、そこにプリンターを設置した。配線は1メートルになった。電源とUSBの延長コードは、不要になった。本体からの配線だけで十分であった。部屋の中がすっきりとして、心もすっきりした。中村天風の思想の影響かもしれない。

 

 さらに、巨大な電話機があった。FAX装置を維持するためである。しかし、この機能を10年来使用していない。この機械を除去した。また、この電話機には、留守電機能がついていた。メール以外で留守電に入った情報は、ろくなものがなかった。マンション等の購入を薦める営業用のものを除けば、私の心の平穏を掻き乱すものばかりであった。私が決裁した大学行政に関する書類に、細かな言いがかりをつけるものばかりであった。因縁をつけるのは、大学教授に特有な現象である。他者を批判して、自分は悦に入っている。他者なくして、自己同一性を維持できない。このような教授は精神科を受診したほうがよいであろう。

20191225

  他者を省みる必要などない。自分の課題、生まれぬ先の親から与えられた課題だけを追求すればよい。この点も、中村天風の思想を体現しているような気がする

 

 留守番電話機能を除去することによって、快適な精神状態を維持できる。電話機は、電源を必要としない災害用電話機だけを残した。電話配線1本だけですみ、電源配線を除去した。

 

 人生は、簡単なことかもしれない。つまらない拘りと全体を考えない状況によって、困難に陥っていた。自分で、自分の状況を複雑怪奇にしていた。自分の困難な状況を、自分でつくっていたのかもしれない。

 

20191225

 自ら直面している困難の原因は、自分が過去において播いた種にある。この点も中村天風、そして一休禅師から学んだような気がする。

 

 

|

中村天風の心境には至らない現在

他者への問いかけとその不可能性、しかし他者へと問いかける。その意思はどこから来るのか、理解していない。

 

0.他者に影響を与えることはできる。しかし、自分の意思に従って、他者を変革することはできない。

他者の距離感が問題である。変革する場合は、自分の内にその理想像がある。しかし、自分の思いとやることは区別されるべきである。

1.他者との無関係性

 他者の文章に直接的返信はしないし、できない。他者の要求に応えることはできない。この記事の本質と関係するが、他者と本質と関わり、他者を変革することはできない。他者の範疇には、親、子供、配偶者、親族、友人、知人、機能的関係者等も含まれる。すべての自分以外の人間を意味している。

 しかし、この命題は自分を絶対化することでもない。自分の現在の問い自体にも返答することはできない。そもそも、わからないから質問している。質問の内容もまた、要をえない。

2.他者との部分的結合

 私は、他者そして私も含めて、何らかの関係を持っている。命令することもあれば、お願いすることもある。しかし、それはなんかの限定された関係でしかない。ゼミナールの学生に論文指導をすることは、卒論論文という限定された関係でしかない。そのうちの一人と酒を飲むこともある。しかし、飲み屋を出れば、他人である。酒を飲むという関係でしかない。

 他者たとえば子供に対しても、影響を与える。部分的な影響である。ある人が死期を明示されて、それを子供に伝達することも不可避である。子供の人生を中断することでもない。親の死に反応する子供がいるだけである。迷惑でもない。

3.私の現状

 淡きこと、水の如し。この関係を他者とのどのような場面でも、貫徹できれば問題ないであろう。しかし、怒る。怖れる。嘆く。他者との関係において、このような消極的感情に支配される。過剰に他者に期待することによって、そのような感情が芽生える。中村天風を咀嚼していないからであろう。

追記

 思考が煮詰まった場合、単純作業はその解決に寄与する。ある人が、段ボールをフォークリフトで積み、そして下ろしていた。無駄な作業である。私の場合も掃除、片付けがそれに相当している。心境を調整することは、心つまり脳の活動だけではできない。身体総体を何らかの手段によって、静かにしなければならない。

|

中村天風の思想と私的適用――2019年7月20日

中村天風の思想と私的適用――2019720

                               田村伊知朗

 

1節 一期一会と老教授との30年振りの再会:2013年七夕の東京再訪

                          

 この夏の思い出である。奇しくも、日時は七夕であった。七夕では織姫と彦星が1年振りに再会するという。物語では、二人の若者は老化しない。しかし、人間であれば、歳をとり、1年前の自分ではない。永遠に若いことはありえない。

2013年の七夕に、東京で学部時代にお世話になった老教授、大学院時代にお世話になった壮年教授、そして学部時代からの友人である少壮教授と会う機会があった。彼らはその独自の人生と学問的途を歩んでいる。当然のことである。とりわけ、30年間一度も会わなかった老教授と会うことができ、感涙の極みであった。もちろん、学会等で挨拶を交わしたり、講演会を聞いたりしたことはこの間にもあった。研究会で特定の学問的主題に関して議論したこともあった、しかし、自宅を訪れ、数時間を二人だけですごすことはなかった。

 この老教授の自宅を訪れたのは、生涯でそもそも二度きりであった。私の学部時代の血気盛んな時と、今回の訪問だけである。30数年前と街の風景も一変していた。住所はそのときと同じであったが、正確な場所を探し出すために小一時間を要した。私が初めて自宅を訪れて不躾なお願いをしたことを、老教授は今でも面白がっていた。赤面の至りであった。

 老教授は30数年前とほぼ同様な研究課題を追求していた。その主題に関して現在の私も、そして過去の私と同一の場所に立っているかのような錯覚に襲われた。しかし、現在の私は、同じ場所をほぼ正反対の視角から眺めている。一方は、近代の揚棄を自己の思想的基盤にしている。他方は、その不可能性を論じている。両者が思想的に交錯することはない。おそらく、老教授もそのことを感じていたに違いない。その後、電話で長く話す機会があり、涙が出そうになった。もはや、学問的立場が異なってしまったからだ。30数年前には、私の思想も萌芽的状況においてしかありえなかった。また、この30年の経験は私の学問的立場を決定的に変化させた。それでも老教授に対する尊敬の念を喪失することはない。そして、壮年教授と少壮教授に対しても。

人生はまさに一期一会である。過去の自分は、現在の自分と同一ではない。

 

2節 未来からではなく、現状からの活力の創生: 20196月初頭の高松再訪

 

すべての行為は現存在にありながらも、未来を志向する。しかし、未来から現代への逆照射という私の若き構想は、破綻している。未来の条件は、現代では構想できない。諸条件が異なっている。未来から見た現代の課題設定は、無意味になるのであろうか。否、現状において最善の選択肢を選ぶ。現代における最適化を目的にする。

すべての行為において、未来から考察された善悪の基準を設定できない。この命題が正しければ、行為の本質と我々は格闘している。行為は、現在から未来へと指向している。その活力は未来の環境世界ではなく、現存する環境世界にある。未来を指向する力の源泉は、現存する自分にある。

現存する環境世界こそが重要であるならば、現存する人間関係も永続しない。また、その関係がより濃厚になったり、より広大になったりすることもない。全人格的結合も夢物語である。機能的結合を支えている機能それ自体がなくなれば、機能的結合もなくなる。全人格的結合の象徴とも言える家族、とりわけ核家族内の関係すら、限定的である。ある特定の関係、金銭的関係、性的関係、教育関係、食事等の家事一般等に限定される。自分の家族構成員ですら、職場でどのような関係を締結しているかも、知る由もない。

 しかし、他者を道具的理性の対象にすべきという主張ではない。万物は現にそうあるような仕方で、現存している。そのような他者を変革しようとも思わない。現にそうある必然性において現存している。他者の関係性は、淡きこと、水の如し、という格言に凝縮されている。

 このような結論を2019年6月06日からの3泊4日の故郷滞在で学んだ。故郷では、私のことを知る人は、家族を除いて誰もいない。小中高すべての母校を訪問した。校舎はすべて鉄筋コンクリート化されていた。半世紀前の木造校舎は消去されていた。教員すら、同期生は、すべて退職年齢を超えている。在職しているはずがない。ドイツにおいて旅行しているような異郷感情を持った。

 

3節 明日そして本日にすること:20196月中旬の高松再訪

                          

 昭和一桁生まれの親族、知人が幽冥界を異にしている。昭和二桁に生まれた我々の世代が、次にその順になろう。明日あるいは近未来に黄泉の国へと旅立つことが確定している、という仮定が、私の意識において真実味を帯びてきた。もちろん、この近未来がいつであるか、確定していない。ちょうど、終末期医療の段階にある自然人、たとえば癌の第4ステージにある人間が、近未来に死ぬことが確定していたとしても、その時が数週間後なのか、数か月なのか、あるいは数年後なのか、確定しないと同様である。

 先週の金曜日に受診した定期健康診断の結果において、すべての項目がA評価であったとしても、近未来に死を迎えることは100%確実である。このような心境に至るようになった。朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり、という心境には未だ至らない。しかし、近未来において確実に死ぬという確証を認識することによって、通勤途上の風景が変わった。とりわけ、今は2019年6月下旬であり、北海道では新緑の季節である。仰ぎ見るニセアカシアの上部に群生する緑から漏れてくる陽の光ほど美しいものはない。木漏れ日の美しさに気が付いた理由は、人生観の転換にあろう。

 明日、幽冥界を異にするのであれば、私は本日何をするのであろうか、という問いが現実味を帯びてきた。その解答は、溌剌と生きたい、という希望にある。中村天風にしたがえば、積極的精神によって生きたい、という信念にある。少なくとも、本日は生きていることが、確実である。溌剌と生きて、寝る前には麒麟麦酒に酔いたい。

地球滅亡の日時が確定したとしても、私は大学において講義をするであろう。そして、論文を修正し、先行する論文を読むであろう。それだけである。但し、それ以外の時間は可能かぎり削除したい。溌剌性を浸食するような思考からは解放されたい。あるいは、それを排除するように生きねばならない。自分が意図した行為に集中する。朝に道を聞かず、夕べに死すとも、自分によって企図された行為を粛々と、そして溌剌と実行するだけである。

 

自己の行為に関する覚書

講義の意義は、草稿に基づく発話と、講義草稿の修正にある。今までは前者に偏りすぎていた。後者を排除してはならない。

講義において90分間、しゃべり続けねばならない。講義草稿に基づき、話続けるであろう。それだけの気力と体力はある。今までは講義中には、草稿の修正を殴り書きでしていた。今日からは前頁の裏の白い頁に、万年筆できれいに、ゆっくり書こうとしていた。心境を集中すると講義時間において余裕が生まれた。おそらく、聴講者にも生まれたのであろう。

5時限目の講義を終えれば、20分後のバスに乗車し、帰宅するであろう。そのためには、講義が始まる前に、部屋の片づけ、PCにおける日常業務、塵捨て等を完了していなければならない。今までは、講義終了後、これらの事柄に従事していたので、50分後のバスに乗車するしかなかった。

そして、帰宅後は夕飯に舌鼓を打つであろう。そして、本日、政治学概論の講義草稿(議会制度)を修正した。また、環境保護に関する論文を修正した。そして、次は、ドイツから持ち帰ったドイツ語論文の複写物を読み、読書ノートを作成しなければならない。

このような修正を具体例としてここでも記述しておきたい。

 

| | コメント (0)