いしいひさいち近代論(1)「クニ」あるいは故郷意識の変遷――村落、藩、県、国家そして県への逆流――コロナヴィールス-19の感染に関する県民意識の復活

 

 

2020年0516

田村伊知朗

 

 

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 マンガ(2)

いしいひさいち近代論(1)――「クニ」あるいは故郷意識の変遷――村落、藩、県、国家そして県への逆流――コロナヴィールス-19の感染に関する県民意識の復活

 

2020年0516

田村伊知朗

 クニという言葉は、故郷を表している。江戸時代であれば、村落を表現していた。、どれほど拡大しようとも、明治維新前まで故郷という概念は、所属する藩という領域を越えることはなかった。大多数の小作農民にとって、隣の藩へと越境することは、御法度であったし、その必要もなかった。

 近代革命が始まろうとした江戸時代末期において、藩を超えた日本という意識が、近代革命を担った日本人、とりわけ下級武士階層において生じた。藩という領域を越えた日本というクニが意識され始めた。明治維新後、300余の藩は47都道府県に再編され、現在まで継続している。県民という意識は少なくとも、明治、大正、昭和初期まで継続した。薩長土肥という藩意識に基づく共同性は、その後も解体したわけではなかった。日本の宰相も、岸信介、佐藤栄作までその本籍は、山口県であった。軍隊が解体する1945年まで、長州閥、薩摩閥という故郷意識は日本陸軍において残存していた。

 しかし、近代革命はほぼ100年経過して、県民という意識はほぼ解体した。自分のクニを県と規定する世代が減少した。明治生まれ、大正生まれの世代が鬼籍に入り始め、近代革命の目標であった国民国家は実体としてだけではなく、個人の意識においても完成された。とりわけ、元号が昭和から平成に代わり、前世紀後半から後期近代が始まった。国際化が進展し、国境を越えた移動が一般化した。自分のクニと言えば、日本という世代が増大した。日本において居住する労働者の国籍が外国であることも、稀ではなくなった。まさに、御宅のクニは、カンボジアであった。マンガ(2

 さらに、ある論者によれば、自己の共同性を都道府県単位の地域的共同性として規定するよりも、内的意識によって規定する傾向が強化された。クニという概念が消滅した人々も増加した。ユダヤ人が居住している地域によって形成された共同性よりも、ユダヤ人という人間的意識によって形成された共同性によって自己を規定するように。

 いしいひさいちのこのマンガ(1)は、1988年に出版された。県民意識が残存していた最後の世代が、このマンガにおいて表現されている。しかし、それ以後、県民意識はほぼ解体されてしまったと思われていた。高校野球の県代表を応援するということも、昭和が去り、平成になってほぼその熱狂が日本全体を覆うこともなくなったかにみえた。まさに、令和の時代に入り、昭和は遠くなりにけり、という意識が出現したかの外観を呈していた。

 ところが、20203月、コロナヴィールス-19( Coronavirus SARS-CoV-2)による感染が、日本人の生活を一変させた。この感染症は、全国一律に拡大したのではなかった。地理的差異が顕著であった。東京都や大阪府のように巨大人口を擁する都道府県が、感染数を拡大した。また、2020516日現在、北海道も緊急事態宣言の重点地域の一つであった。もっとも、北海道は人口の少ない地方自治体と思われているが、その人口は500万人を擁している。四国の人口総数は、4県合わせても370万にすぎない。感染者数もその総数では多いように思われるが、総人口が多いので当然であろう。

 問題は、このような都道府県別の感染者数が公表されたことにより、県民意識が復活したことにある。いしいひさいちのマンガに描かれているような都道府県別の故郷意識が復活したことにある。徳島県では、徳島ナンバー以外の自家用車に対して、検問紛いの行為が平然と実施されている。内閣総理大臣よりも、都道府県知事が「おらが町」の感染者を減少させてくれるという意識が、国民の意識を規定するようになった。

 まさに、日本というクニ意識すら、希薄になった国際化時代において、100年以上前の県民意識が復活した。徳島県民意識に代表される故郷に感染者を入れない、さらに県外者を入れない。小さな故郷を清浄に保ちたい。何か別の思惑が日本だけではなく、西欧も含めた世界に蔓延しているのかもしれない。

 

 

 

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社会科学とマンガの架橋(1)――いしいひさいち官僚制論(1)

いしいひさいちの官僚制論

いしいひさいち官僚制(1)(2) (3)は、これまでの「いしいひさいちから学ぶ政治学」等のうち、その官僚制に関する記事を集大成した原稿である。漫画を入れずに、原稿用紙約70枚の分量がある。通常の論文1~2本分である。(3)は、官僚制論と対比される政治家論である。

本稿は、

田村伊知朗「社会科学とマンガの架橋()――いしいひさいち官僚制論」『人文論究(北海道教育大学函館人文学会)』第89号、2020年、9-28頁、 

として公表された。本文中の数字は、『人文論究』の頁数を表現している。

 一つの区切りがついたという感じである。論文としてではなく、書評という範疇であるが、それもまた結構である。書評としてはよくできた部類に入ると自画自賛している。少なくとも、ドイツ語の本を一冊書評するよりも、膨大な時間を消費した。いしいひさいちのマンガを見直していると、この官僚制論には論点として出ていない新しい視点も再構成できた。いしいひさいち農村論だけではなく、いしいひさいち官僚制論第2部も構想している。

 なお、(1)と(2)そして(3)に分割した理由は、このサイトにおいて写真等は10枚までという制限が、niftyによって設定されているからだ。連続して読解していただければ幸いである。

 ここから、印刷部分が始まる。

 

はじめに

 

いしいひさいちが、日本を代表する漫画家であり、第一級の知識人であることはほぼ異論がないであろう。彼は、1970年代から約半世紀間、ほぼ毎日、数編の4コマ漫画を世に送り出してきた。それだけではない。より本質的に言えば、彼が偉大であることの根拠は、現代日本あるいは後期近代の事象を4コマ漫画という世界において抽出していることにある。現代社会の一側面が、わずか1頁の4コマにおいて切り取られている。

このような栄光は、社会科学に従事している研究者にとって羨望の的である。おそらく、彼は、一瞬の閃きにおいて現代社会を抽出する。研究者の多くは、1年をかけて1本の論文を執筆する。いしいひさいちと同じ結論を述べるために、数年を要する場合もある。日々、外国語文献と格闘し、論文の準備をしなければならない。それだけの労力を払ったとしても、いしいひさいちほどの読者を獲得することはない。良くて、同じ領域の研究者数人から賞賛を受けるだけである。多くの場合、学会誌の数頁を埋めるだけで終わるであろう。いずれにしろ、研究論文が社会的影響力を行使することは、ほぼ無いであろう。

 ここで、数万あるいはそれ以上存在するかもしれない四コママンガから、数編のマンガが選択されている。そのどれもが、官僚制の本質の一側面を表現している。もちろん、彼のマンガは官僚制の一部分しか表象していないという批判が出てくるであろう。しかも、その一側面をデフォルメしているにすぎないという批判である。しかし、どのような高名な古典とみなされる官僚制論、たとえばヴェーバーの官僚制論であれ、その一面性から逃れることはできないであろう。[1] より一般化して言えば、どのような事象であれ、研究者によって把握されたかぎり、その特殊性を廃棄することはできない。この点は、別稿においてすでに考察している。[2] 

 さらに、官僚制に関するいしいひさいちの洞察は、本稿で取り上げた数編のマンガに収斂しているわけではない。彼の著作活動はより多面的な視野を持っている。官僚制に対する彼の考察を筆者の視点が矮小化していることは否定できない。忸怩たる思いにかられながらも、筆者がこの批判を甘受しなければならないであろう。

[1] Vgl. Max Weber: Wirtschaft und Gesellschaft. Tübingen 1922 (Besonders 1. Teil, Kap. III).

[2] 田村伊知朗「初期近代における世界把握の不可能性に関する政治思想史的考察――初期カール・シュミット(Karl Schmidt 1819-1864)の政治思想を中心にして」『北海道教育大学紀要(人文科学・社会科学編)』第五五巻第二号、二〇〇五年、七三―八〇頁参照。

 

9頁

 

1節 官僚制総論

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いしいひさいち『いしいひさいち選集』第37巻、双葉社、2003年、100頁。

 

 この漫画における面白さは、落城寸前になっても、官僚的な目的合理性が追求されていることにある。自己に与えられた領域、つまり有職故実に関する事柄が議論されている。落城になれば、そのような合理性はその基盤が崩壊するにもかかわらず、有職故実に固執している。落城という現実の前にほとんど無意味であるにもかかわらず、使者の接待方法に関する議論が重臣間において熱心に議論されている。

 この漫画によって揶揄されている第一の事柄は、前例主義である。前例主義とは、前例のないことをしない、という官僚に特有な意識である。前例を否定することは、前任者の瑕疵をあげつらうことになる。前任者の欠陥を是正することは、その顔に泥を塗ることにつながる。その前任者は現在の上司であることが多い。上司の意向に反して仕事をすることが嫌われる。有職故実に関する認識が不必要であるわけでない。彼らにその仕事が割り振られた以上、その仕事を貫徹しなければならない。しかし、前例をとりまいていた過去の環境世界は、もはや変化してしまっている。現時点での環境世界は、過去の環境世界と隔絶している場合も多いであろう。前例が妥当するか否か、現時点での環境世界において再検討されねばならない。にもかかわらず、前例に固執することは、愚かなことであろう。

  この漫画によって揶揄されている第二の事柄は、先送り主義である。先送り主義とは、決定を先送りすることであり、キャリア官僚とみなされる高級公務員に特有な病気である。彼らは、34年の間隔で多くの部署を渡り歩く。したがって、その任期の間にできる前例によって規定された日常業務にしか従事しない。重要な問題を次の任にあたる後輩に委ねる。その後輩もまた、次々に次の任期のキャリア官僚に大きな問題を委ねる。

 大きな問題とは、その解決のためにかなりのエネルギーを必要とする課題である。たとえば、組織内の問題であっても、多くの他の部署との折衝を要する仕事である。そのような大事な仕事よりも、より処理しやすい日常的な仕事に没頭する。しかし、いつの日かその仕事の期限がやってくる。その時には、手遅れになっている。ここでは有職故実に拘ることによって、落城における政治的決定という問題は先送りされている。

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 この漫画によって揶揄されている第三の事柄は、官僚組織における出世の現実態である。官僚組織は位階制組織である。権能が上昇すればするほど、その権能担当者の数は減少する。ここでは、重臣がその位階制の上位者である。問題は、このような重臣が決定権を保持していることにある。有職故実に精通した官僚が、この位階制の上位者になった。この問題こそが問われねばならない。彼らは、戦闘の場において業績を積んだわけではないはずだ。有職故実に精通することによって、位階制の階段を駆け上った。このような人間が組織の上部において席を占めていることこそが、本漫画における最大の問題点である。彼らは政治的危機に対応できないし、政治家のような世界全体像を持たない。全体的視点を放棄した近視眼的人間しか、位階制的秩序を上昇できない。

現代の官僚組織においても同様である。誤植のない文章が書ける人間、退屈な会議が好きな人間が重宝される。誤植の指摘を生き甲斐にしている人間が局長、課長等の要職に就く。漢字を読み間違えたら、減点の対象である。つまらない人間が上に立つほど、組織にとって不幸はない。現代社会における有職故実は、規則であり、前例であり、横並びの知識である。この観点からすれば、現代社会の役人と、落城寸前の御前会議における役人の間には、差異はない。

枝葉末節な事柄が、会議において熱心に議論される。重要な問題は議論されない。むしろ、漢字の変換ミスには過剰に反応する。本当の馬鹿は、自分が書いた文章を逐一読み上げる。日本語で書かれた文章をなぜ読み上げる必要があるのか。時間を浪費し、批判的議論を封じるためである。彼の読み上げ作業が終了した後、会議参加者の多くは、その文章を批判する気力を喪失している。

このような馬鹿が多く存在する会社あるいは組織は、つぶれてよいのであろうか。ただ、このような会議に参加する構成員もすべてが馬鹿ではない。良識ある構成員は落城を阻止するために、獅子奮迅の活躍をしなければならないのであろうか。そして他の馬鹿構成員あるいは上司から次のように言われるに違いない。勝手にやって、でも会議では承認されていないと。

 組織においてその組織の維持、管理が自己目的化する。なんのための組織であるかが忘却され、管理に強い人間が出世してゆく。営利企業であっても、利益を上げる営業畑の人間ではなく、総務畑の人間が出世してゆく。同僚と仲良く喧嘩せず、という人間が頭角を現す。警察機構においても、犯人を捕まえることに執着する刑事ではなく、法律と規則に通じた人間が出世してゆく。何時までも犯人逮捕のために靴底を減らしている現場の刑事よりも、昇任試験に長けた法学部出身者が上司になる。現場の人間よりも、試験勉強に苦痛を感じない人間が、組織において重宝される。現代社会における有職故実に相当する法律、条令、事務次官通達に精通した官僚が、出世街道を驀進する。

この事例として、2011325日に開催された第19回原子力安全委員会が、いしいひさいちのこの4コマ漫画にまさに適合している。[1] 2011325日と言えば、314日における東京電力福島第一原子力発電所の第3号機の水素爆発を受けて、国家が危機的状況にあったときである。第2号機、第4号機も同様な危機的状況にあった。この東京電力福島第一原子力発電所の非常事態を受けて開催された原子力安全委員会は、たった42分程度で閉会している。しかも、PDFファイル12頁にわたる議事録の半分以上は、事務局によって作成された資料の読み上げに終わっている。その後の委員による議論の中心は、「『葉』になってございますけれども、これは平仮名の『は』でございます」、あるいは「平仮名の『に』を入れてください」(10頁)という文書の校正にある。

 

 

[1]「第19回原子力安全委員会議事録」10頁。In: http://www.nsc.go.jp/anzen/soki/soki2011/genan_so19.pdf. [Datum: 26.09.2011]

 

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日本的会議の特質は、どうでもよいことに反応し、大事なことを議論しない点にある。会議は、会議に参加する構成員にとって重要なことを討論する舞台である。しかし、往々にして、些細なことに過剰反応して多くの時間を費やす。もちろん、漢字の使用法、あるいは句読点の一字によって、法解釈そのものが180度変わることは承知している。しかし、変換ミスが明らかである場合でさえも、糾弾の対象になる。

 原子力安全委員会委員としての専門知識は要求されていない。基本的に委員長が事務局と相談のうえ、会議資料を作成する。その他の委員はその会議資料に基づいて議論する。彼らは、会議資料に掲載されていないことに関して知る由もない。ある事柄を会議資料に掲載するか否かは、委員長と事務局の専権事項である。

この傾向は、日本の官僚機構における会議の特色である。異議なし、と唱和するか、語句の間違いを指摘するだけである。朝鮮民主主義共和国においては、前者の選択肢しか存在しない。自称社会主義国家の会議において異議を申し立てることは、収容所送りの危険を甘受しなければならない。自称自由主義国家においては、誤字脱字の修正だけが許されている。アジアにおける二つの国家の差異は、五十歩百歩でしかない。

誤植の訂正であれば、村役場の庶務課長のほうが、より適切な指示を出せるであろう。このような議論しかできない専門委員は、村役場の庶務課長に転職したほうがよいであろう。もっとも、庶務課長ほどの文書校正能力を有しているとは思えず、庶務課主任に降格されるであろう。

このような繁文縟礼に通じた専門家しか、政府によって認定された専門委員になれない。専門知識よりも管理職的能力に通じた専門家のみが大学教授になり、そして政府の審議会委員に抜擢される。そこで求められる能力は、事務局と協調する能力と文書作成能力でしかない。

 専門委員には、事務局によって作成された資料を根源的に批判し、積極的な提言を求められているはずである。事務局によって提出された文書を規定しているパラダイムを指摘し、より現実的な選択肢を提起しなければならない。あるいは文書作成者によって意図的に看過されている事象を指摘しなければならない。にもかかわらず、ここでの議論は、専門知識を要求されない事務局職員以下の水準にある。

逆に言えば、このような専門家は、官僚機構にとって統御し易い人間である。自分たちを批判しない人間のみが、専門家として認知される。学術的専門家と官僚機構の癒着が生じる。

彼らはこれまでいつもこのような議論形式に慣れてきたはずである。このような議論しかできない。それゆえ、彼らは専門家として認知された。国家の危機に際しても、このようにしか議論できない。いしいひさいちが描いた落城という危機が、現代日本にもあった。しかし、官僚組織は、日本列島崩壊という危機的状況においても前例主義という旧態依然の対応しかできなかった。

 

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2節 前例主義の展開

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いしいひさいち『いしいひさいち選集』第11巻、双葉社、1986年、132頁。

 

この漫画において、「ある建物が40年経過したから、危険である」という命題と、「ある建物が40年間安全であったから、今後も安全である」という命題が、併記されている。この二つの論理が交差することはない。しかし、後者の論理の破綻は明らかである。

過去40年間において、様々な部品が劣化し、機能不全に陥っているかもしれない。それに対して、40年間安全であったがゆえに、安全であるという命題が対置される。この命題は妥当性を持っているのであろうか。官僚は前例主義を規範化している。40年間、安全であれば、今後も安全であると。しかし、この40年間に主体は、明らかに老化している。客観的条件も変化している。にもかかわらず、前例主義を主張する官僚は、馬鹿でしかない。

このような命題は、常識的にはありえない。事実、いしいひさいちもまた、この命題に反論していない。しかし、この命題が根源的に錯誤していることは、明らかである。築40年のアパートがそろそろ限界に達していることは、常識的判断にしたがえば明らかである。にもかかわらず、アパートではなく原子力発電施設が40年間、安全であれば、今後も安全である、とある論者が主張している。

ちなみに、40年という数字は、原子力発電施設の耐用年数にあてはまる。偶然かもしれないが、四半世紀以後の東京電力株式会社福島第一原子力発電所の耐用年数を示している。いしいひさいちの漫画家としての評価は、天才と言うしかない。天才であるがゆえに、彼が当初意図していない結果を暗示している。

より一般化して言えば、前例にしたがうということは、環境世界の変化を考慮しない。過去の環境世界は、現在の環境世界と異なっている。この変化を考慮せずに、過去の経験知が絶対化される。

 

3節 先送り主義の展開

 

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いしいひさいち『問題外論』第11巻、チャンネルゼロ、1997年、45頁。

 

1節の官僚制総論の補論として、現代政治における先送り主義がここにおいて展開されている。橋本龍太郎総理と主要各省の事務次官の話し合いの場面にも出てくる。橋本龍太郎総理は、大臣に信頼を置いていない。大臣は政治家であり、専門知をもっていないからである。

彼は、事務次官に代表される高級官僚を信頼している。とりわけ、外務省、法務省、自治省という主要省庁の官僚を信頼している。官僚の専門知が、大臣の専門知よりも優れている、と彼はみなしている。

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 しかし、彼もまた専門知を持たない政治家にすぎない。その判断力が各省の大臣と同等であるということを見落としている。官僚の知は、官僚の独自の圏域において形成されてきた。先送り主義も彼らの習性である。政治家は専門知を持たないが、総体知あるいは世界観的知を持っているはずである。

 

4節 減点主義の展開

 

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いしいひさいち『いしいひさいち選集』第13巻、双葉社、1986年、118頁。

 

 第1節の官僚制総論の補論として、官僚個人に対する評価基準を問題にしてみよう。官僚の評価基準は、加点主義ではなく、減点主義である。国民にとってどれほど良い政策を実施したとしても、それは評価されない。むしろ、新しい仕事をすれば、周囲と無用な摩擦が生じる。同僚そして他の部局に新しい仕事と任務を与えるからだ。それでなくとも、高級官僚の予備軍は、必要以上の仕事をそもそも抱えている。それに加えて、ある官僚が新しい仕事を考案すれば、より仕事量が増大する。勤務時間が増えても、労働賃金が増えることはない。残業代金の上限は、年度計画において前もって規定されている。上限を超えた残業代金は支払われない。

 この新規の仕事が成功すれば、まだよい。失敗した場合には、それ見たことと嘲笑される。できるかぎり、前例にしたがって、失敗がないことを心がける。

 しかし、自分が前例にしたがって仕事をしたとしても、災難は周囲から生じる。部下が不祥事を起こせば、その管理責任を取らされる。部下が物品を横流しすれば、管理責任を問われる。勤務時間内の不祥事であれば、直接的責任がなくとも、その失敗の全責任を取らされる。

 校長は、学校内の管理責任を最終的に負わねばならない。部下である教諭がいじめに対して適切な処置をしなかった。その結果、いじめを受けた生徒が自殺した。昨今、よく新聞の社会面に、いじめによる自殺が報道されている。

 校長個人はこの不祥事により、懲戒処分が予定されている。減給処分等が想定されるであろう。減給処分は月間給与が減少するだけではない。年金、退職金にも反映される。それだけではない。給与が良くて、仕事が楽な天下り先から排除される。特に、小学校教諭であれば、地元の大学教育学部卒業生である場合が多い。同窓会組織からも、懲戒処分対象者として、白眼視される。

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5節 減点主義に関する一般的補論

 

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いしいひさいち『いしいひさいち選集』第22巻、双葉社、1997年、55頁。

 

  ここで、官僚機構の評価基準として減点主義をより普遍化してみよう。いしいひさいちのこの漫画は、闘将として有名であった中日ドラゴンズ監督の選手管理の方法を揶揄している。彼は鉄拳制裁つまり暴力によって選手管理を実施した。いわゆる熱血監督として有名であった。彼の鉄拳制裁の思想は、監督と選手における命令=被命令関係を前提にしている。もちろん、監督がこの位階制において上位の権能者である。

ここでは、暴力ではなく、減点主義つまり罰金制度によって選手を管理しようした。彼の管理政策に対抗するために、選手は積極的行為を断念している。失策を恐れて球を追うことをしない。多くの失策はファインプレーと紙一重である。通常であれば、ヒットになる打球を追うことによって、ファインプレーが生じることもあれば、失策になることもある。

たとえば、遊撃手の宇野選手は、遊撃手としての仕事をしない。宇野選手は仕事を回避することによって、その評価が高まるという矛盾した結果になる。少なくとも、罰金制度の対象者にならない。

 官僚機構もこの評価方法の弊害から免れていない。前例のない積極的仕事を企図すれば、成功することもあれば、失敗することもある。したがって、多くの官僚機構構成員は、前例主義にしたがって行為するであろう。前例を踏襲することによって、減点の対象になることはない。

 

6節 誤植の訂正――日本語の意味の転倒

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いしいひさいち『バイトくん』第5巻、双葉社、2006年、68頁。

 

 先ほど、誤植の訂正がほとんど無意味な仕事であるかのように論じてきた。しかし、変換ミス、あるいは句読点の位置が少しずれるだけで、日本語の意味が変わる場合もある。その事例として、いしいひさいちは次のような事例を挙げている。「わ~、すごいマンション」と「わ~すごい、マンション」という二つの用語の発音記号は同じである。両者とも「Wa, Sugoi, Mansion」であり、句読点の位置が異なるだけである。しかし、前者は、すごいマンションと普通のマンションの存在を前提にしている。「すごい」という形容詞が、比較級、最上級を持っている。

 

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 対照的に、マンションの存在自体が素晴らしいことを、後者は描いている。この「すごい」という形容詞は、状態記述形容詞であり、すべてのマンションは素晴らし存在である。ここでは、比較級、最上級はありえない。すべてのマンションが素晴らしいという文が、すごいマンション

 このように、句読点の位置を変えるだけで、文意も変わる場合もある。しかし、それはまれである。現在の官僚機構における会議で指摘される誤植の修正によって、文意が変わる場合だけ、誤植は修正されるべきであろう。それ以外の誤植の修正は、専門的会議では無意味であろう

 

 

 

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社会科学とマンガの架橋(1)――いしいひさいち官僚制論(2)

承前

7節 書類至上主義

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いしいひさいち『眼前の敵』河出書房新社、2003年、22-23頁。

 

官僚制の位階的秩序を上昇すればするほど、下部機関から上がってきた書類に依拠して政治的決定を実施する。上位の決定権能者には、書類において形成された事象と現実態が同一であると映現している。その書類が間違っていれば、政治的判断を間違える。この漫画は、書類において再構成された現実態と、現実態そのものが乖離していることを指摘している。さらに、現実態と無関係に上部機関が、上部機関に都合の良い現実態を再構成している。現実の師団はすでに壊滅しているにもかわらず、地図の上における師団を動員することによって、敗色濃厚な戦局を打開しようする。

このように上部機関が振舞うことを、下部機関は知っている。官僚機構において、しばしば下部組織は上部組織に上げる書類を改竄する。第一に、この書類改竄の目的は、義務を持っている労働者が責任を逃れることにある。現実態とは異なる事実を記載することによって、下部組織は降格、解雇さらに刑事訴追等から逃れることができる。下部吏員の現在の地位と賃金は、安泰である。いかなる責任を取ることもない。

 第二に、現状維持という安泰感は、それ以上の安楽をもたらす。それは、書類至上主義と言われる病理と関連している。この用語は私の造語である。現実における危機を現実態においてではなく、書類の上で解消する。当然のことながら、現実態において危機は残存している。しかし、書類を作成する下部組織は、それによって自己満足に陥る。危機は去ったと。上部組織もそれについて気が付いている。気が付かない上部組織は馬鹿である。しかし、気が付いていて、それを黙過する上部組織は、なお馬鹿である。いずれにしろ、上部組織の暗黙の了解のもとで、下部組織は書類を改竄する。

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 第三に、書類を改竄することは、現状維持を目的にしている。現状が過去と同一の状態にあるという虚偽の報告書を偽造する。この病理は、官僚化した組織に特有なものである。組織を活性化するような積極的姿勢は評価されない。むしろ、それは疎まれる。現状の危機を報告することによって、下部組織が新たな仕事を引き受けることになる。つまり、負担が増える。官僚化した組織においてこの言葉は、水戸の御老公の印籠に相当する。書類上が現状の危機を表現していれば、下部組織の仕事が今後増えることは明白である。それを回避するために、短絡的に書類を改竄する。書類的総合性があれば、仕事は増えないからである。現状が書類の上で過去と同一であれば、問題ないとされる。前例主義あるいは現状維持志向が、官僚組織の通弊である。

 この書類至上主義は、旧ソ連末期における書類上の食糧の確保と現実態における食糧危機に典型的に妥当していた。毎日のように、ゴルバチョフ・ソヴィエト連邦共和国共産党書記長のもとに資料が下部組織、各連邦共和国から上がってくる彼の手許にある資料によれば、ソヴィエト連邦共和国は十分すぎる食糧生産高を有していた。輸出も可能であった。第三世界の貧困国に食料援助をしていた。

しかし、モスクワの街の食料品店では、長蛇の列が食料を求めて形成されていた。食糧の緊急輸入が常態化していた。現実のソ連住民には、十分な食料が供給されていなかった。食糧危機が蔓延していた。ゴルバチョフ・ソ連共産党書記長は、書類を見る気力を喪失したはずである。書類上、ソ連は安泰であった。しかし、現実態において前世紀末にソヴィエト連邦共和国自体、そしてソヴィエト連邦共和国共産党が崩壊した。官僚集団あるいは官僚化した組織は、この病理に多かれ少なかれ侵されている。その危機を回避できる健全性が求められている。

 

8節 書類を読解する能力(その一)――官僚機構における権能の上昇と老化現象

 

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いしいひさいち『いしいひさいち選集』第5巻、双葉社、1991年、19頁。

 

 この漫画において、老参謀長が、すでに壊滅した師団をもう一度、机上の作戦の展開主体にしようとしている。官僚制における二つの問題点が露呈している。一方は、書類至上主義の問題である。この意味は前節において論じられている。他方は、官僚制における権能上位者の年齢の問題である。位階制の階梯を登るためには、一定の時間を必要としている。その頂点に君臨するときには、すでに老境に達している。日本の官僚機構においても定年間際になって初めて、事務次官の職位に到達する。

 一般に、自然人の肉体的能力は2030歳を頂点にしている。あとは下り坂である。精神的な活動能力は肉体的能力と比べて、その衰えは緩やかかもしれない。しかし、衰えは隠しようがない。

 

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 位階制の頂点に立つ人間の判断能力に疑問符がつけられている。その頂点に立つ人間は、何も考えずに、50歳前後の課長によって決裁された書類に承認の印鑑だけを押せばよいのかもしれない。

 

9節 情報公開の本質

 

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いしいひさいち『問題外論』第2巻、チャンネルゼロ、1993年、129頁。

 

 官僚の行為は、ある本質的なものを隠蔽することにある。もちろん、すべての行為がそうであるとみなしているわけではない。しかし、ある行為の目的が、別の本質的行為から市民の眼をそらせることにある。

 ここでは、プルトニウム運搬船あかつき丸に関する情報公開が問題になっている。当時のマス・メディアそして市民が知りたかった情報は、あかつき丸の運行経路、プルトニウムの運搬量等であったはずである。しかし、当該官庁は、この運搬船の労働者の趣味嗜好に関する情報を公開した。官僚は、前者に関する情報を公開する企図を持っていなかった。むしろ、それを隠蔽しようとした。

 この運搬船の労働者の趣味嗜好も、運搬船あかつき丸に関する情報公開であると、官僚的思考はみなした。もちろん、広義では個人情報も情報公開の情報という範疇に属する。市民が欲している情報と、官僚が公開すべきであるとみなした情報の間には、巨大な径庭がある。

 いしいひさいちのこの漫画に似た事例は多数ある。飛翔体に関する情報公開にふれてみよう。近年では、北朝鮮からしばし飛翔体が日本の領空を侵犯している。ミサイルが飛来するという情報は、巨大な予算を浪費して発信されている。しかし、国民の健康を害する情報、つまり国民がある程度防御できる情報は、警報として出さない。ある都市において放射性物質の空間濃度が上昇しても、当日その情報が警報として公開されることはない。数日経過して市民に公開されても、市民はどうしようない。

ミサイルが飛来しています、という情報をいただいても、どうしようもない。竹槍で撃ち落とせと命令しているのであろうか。ミサイルに竹槍で勝利するぞ、というスローガンが、今後巷に溢れるのであろうか。

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 私の家の納戸には竹槍すらない。野球のバットはあるが、私は直球とカーブしか打てない。ミサイルがフォークすれば、空振りである。そのような情報はどのような意味があるのであろうか。

 

10節 英語の濫用

 

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いしいひさいち『バイトくん』第4巻、双葉社、2005年、30頁。

 

 奇妙なカタカナ英語が氾濫している。いしいひさいちは、ここで塵紙交換をチリ紙スワッピングと言い換えることの奇妙さを揶揄している。ここで問題であることは、カタカナを使うことではない。むしろ、カタカナを使用することによって、事柄の本質を不可視なものにすることである。カタカナあるいは和製英語を使用することによって、たんなる塵紙交換が、主婦の潜在的願望と一致するかのごとき外観を呈している。

たとえば、数年前に狂牛病という家畜の病気が世界を席巻した。ある時、この名称はBSEと改称された。通常の日本人は、BSEを理解できない。事柄の本質を示すような日本語がかつてあった。あるいは、もっと分かりやすい翻訳語であれば、狂い死病あるいはヤコブ病であろう。

この病気は、牛だけのものではなく、人間にも係わってくるからである。死ぬのは、牛だけではなく、人間でもある。本当の恐怖は、牛肉を食した人間が、苦しみながら、死んでゆくことである。

しかし、この言い換えがおそらく行政機関から指導された時期は、アメリカ合衆国農務長官が、対日牛肉輸出再開を要求していた時期と奇妙に一致していた。それは、200511月である。そして、アメリカ合衆国の要求は、2005年末に実現された。アメリカ合衆国産の安価な牛肉を食べる日本人が、この狂い死病に罹患して、長期間苦しみながら死ぬ、という可能性は考慮されたのであろうか。年収300万円以下の下流日本人は、安価な牛肉を求めるからである。

おそらく、このアメリカ合衆国産牛肉輸入再開を決めた高級官僚、あるいは国会議員たちは、このような牛肉ではなく、和牛、あるいは神戸牛を食するのであろう。彼らの年収は少なくとも、1,200万円を超えている。期末手当と勤勉手当を含めて、月間100万円を消費活動にあてることができる。安価な牛肉ではなく、適正価格の国産牛肉を食することができる。間違っても、数百円の牛丼を朝、昼、晩、毎日食べ続けることは、ないであろう。このような牛肉を食べる必要がないからである。

通常のスーパーマーケットに行けば、但馬牛も、神戸牛も購入することができる。100グラム、数百円から数千円という値段で購入できる。高級官僚、財界人の年収からすれば、小遣いの範囲である。政治家御用達の赤坂の高級料亭で、100グラム200円のアメリカ合衆国産牛肉を提供することは、ほとんどありえない。もし、このような安価の牛肉を提供する高級料亭があれば面白い。それを看板に掲げる神楽坂や赤坂の料亭があれば、一度見てみたい。

このような翻訳による曖昧化は、事柄の本質を隠蔽するものであろう。カタカナ英語は、事柄の本質を明確化するためではなく、それを隠蔽するために使用されている。そして、このカタカナ英語のほとんどが、アメリカ合衆国由来であることは、偶然であろうか。この翻訳用語を定着させたのは、現在の官僚組織における課長、室長、あるいは課長補佐である。彼らの英語能力に欠陥があるとは思えない。むしろ、平均的日本人以上の英語能力を有していることは明らかであろう。なぜ、彼らがその正当な訳語ではなく、むしろ誤訳あるいは迷訳に近い翻訳語を選択したのであろうか。

 彼らは、30歳前後においてアメリカ合衆国に国費留学している。戦前の高級官僚がアメリカ合衆国だけではなく、ドイツ、イギリス、フランスに留学してきたことと対照的である。旧西独の首都ボン、あるいはフランスの首都パリへの留学は、語学上のハンディもありほとんど推奨されていなかった。少なく見積もっても、課長より上級の官僚の半数以上は、アメリカ合衆国への留学体験があるはずである。彼らは、20歳代後半、30歳代前半においてアメリカに留学する。もちろん、自費ではない。官費による留学である。

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 彼らは私費留学生とは異なり、学生寮に住むことはない。日本流に表現すれば、3DKの部屋に6-7人で住むことはないはない。数人の寄宿生が一つのトイレをめぐって闘争することは、ありえない。

留学場所にもよるが、多くの場合、瀟洒な一戸建てがあてがわれる。夫婦ともども高級官僚であれば、プール付きの豪邸も可能である。アメリカでは、平均的な住居である。自家用車で数10分運転すれば、郊外において瀟洒な住居は数多くある。

しかし、彼らも公務員である。学位を取得して、数年後帰国すれば、ほとんど改築されていない古びた官舎に居住せざるをえない。公務員官舎に対する批判は近年盛んであるが、それは近隣の民間住宅との比較から生じるのであり、アメリカ、オーストラリアの住宅事情を勘案すれば、大差ない。林家彦六師匠の名言を借りれば、官舎もまた長屋(ナガヤ)でしかない。高級官僚も長屋(ナガヤ)の皆さんでしかない。長屋に居住せざるをえない高級官僚という概念は、矛盾に満ちている。官僚的世界において、アメリカ合衆国の生活様式そしてその政策は規範になっている。その規範にしたがって、日本を改良しようとする。

そこにおいて、彼らの政策意図を込めているのではなかろうか。もし、そうでなければ彼らは無能な役人になるであろう。なぜ、アメリカ合衆国の政策とその生活状態を日本に定着させねばならないのであろうか。彼らは、アメリカ合衆国の留学生活において、日本の官僚の生活水準以上の生活をしてきたことを考慮に入れねばならないであろう。たとえば、住環境という観点からも、アメリカ合衆国において日本人の平均的水準以上の生活をしてきたはずである。その水準を維持するために、現在の日本を変更しようとしているのであろう。この政策意図を明らかにし、それに代わる対案を市民が準備することが、今求められている。

 

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社会科学とマンガの架橋(1)――いしいひさいち官僚制論(3)――あるいは政治家論

(承前)

『人文論究』が縦書きのために、漢数字を用いている。なお、第11節以下は、本来、政治家論として公表する所存であったが、雑誌編集部との折衝の結果、一つの論文として公表することになった。

 

第一一節 政治家論() 官僚に対抗する政治家? 

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 このマンガは、日本沈没という国難に際して、政治家が自分の選挙区のことしか考えていないこと揶揄している。政治家という官僚組織を統括する主体が、日本全体の普遍的利益ではなく、特殊的利益しか考えていない。

 官僚は、特殊的利益を指向する観点から物事を考える。しかし、官僚が視野狭窄であることは、必ずしも欠陥ではない。与えられた職務に忠実であればあるほど、そのような結果をもたらす。国家公務員と話していると、彼らの隠語として社長という言葉が乱発される。多くの一般職国家公務員、とりわけ課長補佐、係長等は、課長を社長と呼ぶ。自らが属する課の利益を追求する。あるいは課に属する国民生活に対して忠誠を誓う。国家全体における省全体の在り方に関して、ほとんど関心がない。公務員組織は、株式会社とは異なり、社長という役職を持っていない。にもかかわらず、国家公務員組織に属していない人間に対して、課長はうちの社長と表現されている。

 

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国家公務員組織における社長という隠語は、彼らにとって直属の上司が誰であるかを暗示している。彼らが忠誠を誓う主体は、課長である。彼らは省益すら追求しない。いわんや、国益の本質を考察する能力と意思はない。

官僚機構における国益という思想の欠如は、常識的には政治家によって補正される。政治家、本邦の組織形式を用いれば、大臣、副大臣、政務官等は、必ずしもその省庁の業務に関して精通していない。ほとんど素人同然である。全体的視野から、当該省庁の業務を概観することが求められている。

しかし、政治家が特殊的利益、つまり特定の業界利益、地域利益を追求すれば、国益という観点は看過される。政治家は、次の選挙における当選をつねに考えている。政治家は日本国家の普遍的利益ではなく、選挙区という地域の特殊的利益を追求する。

日本沈没という国難に際して、国務大臣を統括する内閣総理大臣も特殊的利益を追求すれば、日本は沈没する。いしいひさいちは、この意味を明確にした。このマンガの置かれている状況が、日本沈没という地殻変動であることは、示唆的である。経済的地平でもなければ、文化的地平でもない。まさに、日本列島が消滅する段階でも、政治家が特殊的利益を追求している。政治家における目的合理性が議員的身分の保障であるとするならば、選挙区に対する利益誘導が合理的なものとなる。あるいは党官僚組織の一員としての個別政党的な利益が優先される。政治家によって設定された合理性もまた、官僚的目的合理性と結合つまり癒着するであろう。

問題は、彼によって提起された地平の彼方にある。誰が国益を追求するのであろうか。多くの官僚は省益すら追求しない。課益がその主要な関心事である。国益を普遍的地平で考察する哲人政治家が求められる。しかし、哲人政治家はどこからリクルートされるのであろうか。古色蒼然たる哲学部の卒業生からであろうか。日本には、そもそも哲学部という学部はない。せいぜい、文学部哲学科が細々とその命脈を保っているにすぎない。教養課程から専門課程への進学振り分けが、文学部において常態化している。文学部の花形学科は、現代社会のニーズに対応している社会学科、マス・メディア学科、英語学科等である。哲学科は、それらから振り落とされた学生の進学先であり、教養課程における成績の宜しくない学生の振り分け進学先として有名である。

西洋哲学科はまだよい。英語、ドイツ語等の外書講読によって、語学的能力が格段に向上する。東洋哲学科あるいはインド哲学科等は、大学院進学を除けばかなり就職に不利である。古代サンスクリット語を習得したとしても、この言語を使用する機会が現代社会において少ないからである。

さらに、哲学科学生の多くは哲学史には精通していても、哲学者ではない。特定の著名な哲学者の思考様式を学んだとしても、全哲学史におけるその位置づけは不明なままである。

哲学的思考様式は、官僚機構によって追求される課益、省益には対抗できないであろう。それを超えた地平が求められている。

 

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第一二節 政治家論() 劣化した政治家

 

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金正日・朝鮮労働党総書記は父から地盤、看板、鞄を継承した政治家である。その権力と権威の源泉は、金日成・将軍の子供であったという事実に還元される。今世紀初頭の朝鮮半島北部の支配者、金正恩の権力の源泉は、金正日の子供であり、金日成の孫であることにすぎない。彼個人の政治的判断能力、能力はほとんど顧慮されていない。

翻って、本邦においても世襲政治家が跋扈している。安倍晋三・内閣総理大臣、麻生太郎・内閣副総理大臣以下、自民党の政治家の大半は、父親あるいは配偶者の父親から権力基盤を継承した。彼らが最初の選挙に出馬するときには、父親あるいは義父の威光を十全に利用した。その意味で、朝鮮民主主義人民共和国の独裁者、金正恩と、日本の有力政治家は類似している。昨今では、朝鮮民主主義人民共和国と日本の外交関係がかなり険悪化しており、日本はこの国家を経済制裁の対象にしている。しかし、両国において政治的決定を最終的に実施する主体は、世襲政治家であるという点において共通している。両者とも国民の生活習慣を実感することは、ないであろう。

政治的指導者の精神構造もまた、共通している。彼らに哲人政治家的な資質を求めることは、滑稽でしかないであろう。彼らが被支配者の生活様式に配慮するという幻想は、誰も保持していないであろう。

 

第一三節 政治家論() 胆力なき政治家

 

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ここで、小国の戦国大名が、破竹の勢いで侵攻してくる織田信長の軍勢にどのように対処すべきかが問題になっている。しかし、この戦国大名はなんらの政治的決断をしようともしない。たんに、泣き寝入りするという選択肢を選んだにすぎない。

 政治的決断をするためには、主体の能力を考慮しながら状況を的確に判断しなければならない。しかし、この政治的指導者はその決断から逃げているにすぎない。決断をするための胆力に欠けている。政治家はどのような状況であれ、決断を下さねばならない。

 

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第一四節 政治家論() 政治家と国民の同一性

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このマンガでは、農林族に属する政治家の議論過程が描かれている。農林族議員の見識の無さ、つまり農林行政の場当たり性が、自嘲気味に描かれている。次回の選挙で議員自身の落選の危機が、この会議において議論された。しかし、有権者である農民もまた、場当たり的であることが、指摘されている。議員だけではなく、国民もまた、将来に対する見識なき存在である。おそらく、この農林族議員が再選されるであろうことが、予見されている。

 事実、この半世紀間における農政は、自民党か旧民主党の政治家によって決定された。農業経営の大規模化が、ほぼ共通して承認されてきた。家族経営による有畜小規模農業は、ほぼ駆逐されてしまった。自然卵養鶏を営む小規模農家が、細々と生存しているにすぎない。都市に食料を供給するという選択肢は、多くの農民によって支持されてきた。農家は都市の不耕貪食の民に食料を供給する。問題は農業生産物の対価の多寡でしかない。農民が金銭を媒介にして、農産物を都市に供給するというパラダイムは、問題にすらされていない。

 このような傾向を農民自身が選択した。その結果、農業自体が衰退した。政治家の農業観を支えている基盤は、農民の農業意識でしかない。両者の価値観には、ほとんど区別はないであろう。

 

第一五節 政治家論() 官僚に統御された政治家

 

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このマンガでは、前世紀後半に成立した第一次村山内閣が、第一三次村山内閣として今世紀まで継続している。村山首相は死に体ですらなく、すでに、生物学上でも死亡している。しかし、この内閣は継続している。

 

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 官僚によって提出された書類に署名捺印することだけが、宰相の仕事になる。官僚機構によって統御された政治家は、誰でもよいことになる。元社会党委員長であれ、自民党の重鎮であれ、誰が首相になろうとも大差はないであろう。自称、社会主義者であれ、資本主義者であれ、官僚機構という膨大な組織から自由になれない。

 

第一六節 官僚制における民主主義?

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このマンガの面白さは、軍隊に多数決原理が導入されていることにある。この原理の導入は、現実的には想定不可能である。将校と兵隊の数は、通常、兵隊の数が多い。もし、軍隊という命令組織に多数決原理を導入すれば、軍隊という組織が崩壊するであろう。多くの兵隊は、徴兵された存在であり、戦意は将校に比べて低いからである。もし、多数決原理が導入されれば、戦争そのものが否定されるであろう。民主主義という原理は、命令組織には導入されない。官僚組織は位階制的組織である。この官僚組織のうちで、もっとも厳格な組織は軍隊である。上官の命令を否定し、前線から逃亡しようとすれば、前線の背後に控える督戦隊から銃弾を受ける。

軍隊に民主主義が導入されれば、前線で生命を賭けて戦うのは、将校のみになるであろう。このマンガは、その架空の設定を採用している。しかし、この試みはもろくも失敗する。味方の軍隊に民主主義を導入すれば、敵の軍隊にも、民主主義が導入されるであろう。敵の上官は味方の上官を狙撃しようとしない。不条理な怒りに震える敵の上官は、相手方の軍隊の将校ではなく、兵隊を狙撃しようとする。

一般化して言えば、あるものの本質とは異なる要素を当該概念に導入することによって、当該概念が明瞭になる。いしいひさいちは、当該概念、ここでは軍隊の本質を把握しいている。その本質とは正反対の理念を導入することによって、その概念を明瞭にしている。

なお、命令組織は軍隊に限定されていない。名目的にはすべての官僚組織に妥当する。また、官僚組織に比肩する強度を誇る営利企業の組織にもあてはまるであろう。そこにおいて、民主主義の原理、多数決原理は適用されない。

 

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 政治的領域においても、多数決原理が適用される領域はかなり少ない。有権者間における平等性が、前提になる領域でしかない。況や、社会的関係、家族的関係においてこの原理を導入しようとすることは、無謀という誹りを免れない。この原理が妥当する領域は、限定されねばならない。私的領域においてこの原理は、適用されてはならない。私的領域にこの原理を適用した場合、利害関係があまりに強く、少数者が多数者に従うことが困難である。

もっとも、後期近代において公的領域と私的領域は交錯しており、その峻別が困難である。公的領域の本質規定が問題になる。私的領域における行為、たとえば私有地において住宅あるいは環境破壊的産業を建設することが、公的領域と交錯する。しかし、公的領域と私的領域の交錯領域でも、多数決原理が適用されることは少ないであろう。ここでも、行政つまり命令組織と、個人の関係が主である。

より一般化すれば、多数決原理は、政治的国家における平等原理を前提にしており、官僚機構における命令原理とは相容れない。政治的領域に限定しても、その適用範囲は狭い。また、市民社会はこの原理を採用していない。たとえば、株式会社において、労働者は経営者、そして究極的には資本家の命令に従わねばならない。また、株主総会では、持ち株高に応じて、投票数が決定される。所有株券の数に応じて、投票行動が実施される。一株に付き一票であり、持ち株が多ければ、投票数も多い。多数決原理ではなく、当該企業の株式の多寡に応じて、投票数が決定される。ここには、平等原理は適用されない。

しかし、構成員全体が平等であるかのような軍隊が、かつて存在していた。歴史的に言えば、軍隊に民主主義あるいは多数決原理が導入されることは、必ずしも荒唐無稽でない。一七世紀にイギリス革命が生じたが、この世界初の近代革命の一翼を担った水平派に、その起源を求めることも可能であろう。

ここで、数世紀前に生じたイギリス革命の歴史的経緯に触れておこう。まず、この革命は国王と議会との憲法論争から始まった。この論争の中心は、今後のイギリスの政治体制を絶対主義的君主制のままとどめるのか、立憲主義的君主に改変するべきかということにあった。国王派が前者を、議会派が後者をそれぞれ代表する。一六四二年には、国王派と議会派の内乱が開始される。一六四九年に、革命派は軍事的に勝利し、国王を処刑する。世界初の近代革命がイギリスにおいて成功し、近代が始まる。同時に、革命派の勝利は、議会派内部の対立を明瞭にした。つまり、長老派、独立派そして水平派という派閥闘争が激化する。

三つの派閥の指向性の差異が、明瞭になりつつあった。長老派は立憲君主制を、独立派は共和制をそれぞれ指向していた。共和制が、立憲君主制を超えて独立派によって宣言される。共和制は、長老派に対する独立派のヘゲモニーが確立されたことによる。同時に水平派も弾圧される。一六五三年に、独立派のクロンウェルの軍事独裁が始まる。ローマ共和制に似た護民官政治が始まる。独立派が革命派のなかで全権を把握する。しかし、独立派による独裁政治は、長老派と水平派の支持ひいては国民一般の支持を喪失した。

この革命の主流を形成することはなかったが、水平派の思想に触れておこう。ここには、近代揚棄の思想がみられる。彼らは軍隊内部に全軍評議会を形成しようとする。この評議会は軍隊内の意志決定を民主化しようとする。この党派は、軍隊という命令型組織に多数決原理を適用しようとする。もちろん、軍隊という官僚組織に民主主義を適用することは、明らかな矛盾である。結果的にこの試みは敗北する。上級将校を中心にした独立派によって、水平派は弾圧される。

しかし、正規軍ではなく、反乱軍において民主主義的要素を導入しようという試みは、一定程度必要になる。イギリス革命における水平派は、荒唐無稽な存在ではない。なぜなら、つねにその使命感が反乱軍において鼓舞されねばならないからである。革命軍は正規軍と異なり、金銭的裏付けがないにもかかわらず、軍への参加を鼓舞しなければならない。なぜ、革命軍に参加しなければならないのかを参加者に理論的に説明しなければならない。既存の秩序を破壊することを、言語によって正当化しなければならない。長老派と独立派は、水平派に対して革命軍への参画を煽動した。結果的には水平派は弾圧されるが、水兵派がなければ革命は成就しなかった。反乱軍あるいは革命軍は、これまでの忠誠対象とは異なる対象にその忠誠心を要求する。

 

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このマンガに揶揄された命令組織における多数決原理の導入は、軍隊の例外的な存在形式つまり革命軍において妥当性を有しているのかもしれない。

 

おわりに

 永井均『マンガは哲学する』(岩波書店、二〇〇九年)は、思想的分野における必読文献になっていると想像している。本書に倣えば、本稿の題名は「マンガは社会科学する」のほうが正しいのかもしれない。

 しかし、彼の著書を構成しているある小節を論文として哲学の学会誌に投稿したとしても、受理されることはないであろう。哲学の論文としての形式をほとんど無視しているからである。にもかかわらず、マンガという娯楽対象から自己自身の思想を形成しようとする市民にとって、彼の著作が有益であることに変わりはないであろう。哲学的諸課題のうちの一つが、本書によって解答されている。

 本稿は、官僚制に関するいしいひさいちの深遠な洞察をマンガという形式ではなく、文章として提示している。マンガと文章の関係において、この作業は現在流布している方法論と逆方向を指向している。通常、難解な書物、たとえばマルクス『資本論』をマンガによって解説することが、現今の出版界において一般的である。対照的に、本稿は四コママンガから得た着想を文章として提示している。彼のマンガを何度も読み直すなかで、現代政治そして官僚制に関する深遠な洞察に気付いた。この面白さの根拠を考察するなかで、本稿が生まれた。

いしいひさいちのマンガを媒介することによって、現代社会の様々な側面を考察してみよう。官僚制論だけではなく、農村論そして経済論等を準備している。さらに、いしいひさいちだけではなく、村上和彦、西岸良平等の社会科学に関する論稿もすでに準備している。それを集大成すれば、近代政治そして近代社会の一側面が明瞭に浮かび上がってくるであろう。

 

著作権に関する付論

マンガの著作権に関する思想も永井均の前掲書の考えに依拠している。永井均はマンガの著作権と思想的論稿の関係を次のように述べている。「本書におけるマンガの引用は、『報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲で行われるもの』であるから、著者および出版社の許諾を得ていない」。[1] この叙述様式が、著作権法三二条第一項に妥当するとみなしている。

永井均の著作に先行する同様な手法の業績として、呉智英『現代マンガの全体像』も参照されるべきであろう。呉智英は、引用したマンガのすべてに対して著作権マークCを付けている。[2] 本稿執筆にあたって、呉智英の考えに依拠すべきであろうかとも、考えた。呉智英によれば、マンガの引用は、マンガ家の承認を得るべきであるとされる。

しかし、筆者は、呉智英ではなく、永井均の著作権に関する解釈を正当なものと考えている。学術論文や学術書と同様に、書籍化されたマンガも公開された社会的な共有財産である。その引用は自由であるべきだ、と考えている。もしそうでなければ、あるマンガの1頁を批評するために、マンガ家に転載許可を求めねばならない。著作権者と連絡を取る方法は、通常、公開されていない。そのような煩瑣な作業をマンガ批評者に要求することは、事実上、マンガ批評を断念するという選択肢しか残されていない。

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逆に、マンガ家からすれば、毎日のように転載許可の電話、メールが届くことになる。マンガを執筆する時間よりも、転載許可の許諾が彼の仕事になる。著作活動を断念し、著作権を守るという事務作業に没頭しなければならない。呉智英の著作権に関する認識によれば、このような馬鹿げた事態が招来するであろう。さらに、マンガ評論に関する古典とみなされている著作、たとえば鶴見俊輔の一連のマンガ評論は、引用頁数すら記載していない。ただ、マンガ本の題名だけである。[3] それでも、問題ないと考えられている

いしいひさいちの筆名は、引用されることによってより高まると想像している。もっとも、私が引用しなくとも、いしいひさいちのマンガは、すでに同時代の大衆にとって基礎教養になっている。前世紀後半において廣松渉の哲学が基礎教養になっていたことと同様である。いしいひさいちからすれば、著作権の問題はどうでもよいことに属する事柄にすぎないのかもしれない。

さらに、学術的世界、とりわけ自然科学系学問領域において、引用される回数が当該論文の価値を高めている。引用される回数を増すために、姑息な手段が横行しているとも聞いている。研究者仲間で相互に不必要な引用がなされているという指摘は、よく聞く話である。

私は特定のマンガ家、いしいひさいちと個人的面識を持っているわけではない。公刊された彼のマンガ本を購入し、その読者になっているだけである。なお、本稿以後にも、同様な叙述形式の原稿を幾つか用意している。マンガの著作権に関する考察も、同様な思想に基づいている。著作権マークCは、私の論文に付されていない。

 

引用文献表

第一節 いしいひさいち『ドーナツブックス』第三七巻、双葉社、二〇〇三年、一〇〇頁。

第二節 いしいひさいち『ドーナツブックス』第一一巻、双葉社、一九八六年、一三二頁。

第三節 いしいひさいち『問題外論』第一一巻、チャンネルゼロ、一九九七年、四五頁。

第四節 いしいひさいち『ドーナツブックス』第一三巻、双葉社、一九八六年、一一八頁。

第五節 いしいひさいち『ドーナツブックス』第二二巻、双葉社、一九九〇年、五五頁。

第六節 いしいひさいち『バイトくん』第五巻、双葉社、二〇〇六年、六八頁。

第七節 いしいひさいち『眼前の敵』河出書房新社、二〇〇三年、二二―二三頁。

第八節 いしいひさいち『ドーナツブックス』第五巻、双葉社、一九八四年、一九頁。

第九節 いしいひさいち『問題外論』第二巻、チャンネルゼロ、一九九三年、一二八頁。

第一〇節 いしいひさいち『バイトくん』第四巻、双葉社、二〇〇五年、三〇頁。

第一一節 いしいひさいち『ドーナツブックス』第一三巻、双葉社、一九八六年、一二六頁。

第一二節 いしいひさいち『近くて遠山の金さん』双葉社、二〇〇七年、七七頁。

第一三節 いしいひさいち『ドーナツブックス』第五巻、双葉社、一九八四年、一二頁。

第一四節 いしいひさいち『経済外論』第三巻、朝日新聞社、一九九一年、五四頁。

 

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第一五節 いしいひさいち『スチャラカお宝大明神』双葉社、二〇〇八年、三二―三三頁。

第一六節 いしいひさいち『鏡の国の戦争』潮出版、一九八五年、七六―七七頁。

 

[1] 永井均『マンガは哲学する』岩波書店、二〇〇九年、二三二頁。

[2] 呉智英『現代マンガの全体像』双葉社、一九九七年参照。

[3] 鶴見俊輔『鶴見俊輔全漫画論Ⅰ』筑摩書房、二〇一八年参照。

 

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研究者人生の終点と、いしいひさいち、中島正そして中村天風

 

 

 20200210

  自然的人間と同様に、研究者人生の終点はある。最近数年間、それが意識されるようになった。田村伊知朗は、具体的な人間としてどのような存在であり、かつあったのかを認識しなければならない。その一環として、青年時代から私の本棚を占有してきた書物を再検討してみようと考えた。青年時代から愛読してきた思想家の何人かを対象にして、その意義を研究論文の形式において再確認しようとしている。

いしいひさいち、中島正そして中村天風もその一人である。この三人の思想家は一見、関連性はないように思える。いしいひさいちは、漫画家であり、しかも4コ漫画家である。思想史研究家がしばし取り上げる手塚治、白土三平等の長編漫画家ではない。中島正は自然卵養鶏家としては著名であり、農業養鶏を指向する養鶏家のなかでは教祖的存在であるが、ほとんど学術的対象になったことはない。また、中村天風の思想はしばし論じられてきたが、中村天風財団の創始者として知られ、実践家として有名である。

三人の思想家に共通している事柄は何であろうか。彼らは私の思想形成上、重要な役割を果たしたが、私はなぜ彼らに魅了されたのであろうか。彼らの思想の何が私を駆り立てたのか。再吟味してみたい欲求が生まれた。2020年現在、その解答は未だ曖昧模糊としている。しかし、もうすぐ、わかるような気がしている。その導きの糸は、三人とも、原理主義者であることであろう。対照的に私は、原理主義に対して魅力を感じながらも、自らの原理を確立することを断念している。

 

 

 

 

 

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いしいひさいちから学ぶ政治学(4)――都市と農村の対立

いしいひさいちから学ぶ政治学(4)――都市と農村の対立

 

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いしいひさいち『いしいひさいち選集』第9巻、双葉社、1992年、91頁。

 

1節 百姓という存在形式

 

 さて、この物語の主人公、甚太少年は、小学校のある村落の中心街から30キロほど離れた山村に住んでいる。[1]  毎日、片道30キロほどの道のりを約5時間かけて通学している。往復10時間ほどかかる。通常ならば、村落共同体の中心街に下宿するという選択肢が採用されるが、様々な事情で通学を余儀なくされたのであろう。学校と自宅を往復するために、10時間前後を要するということは、体力的観点だけではなく、時間使用的観点からも、ほとんど無意味である。通学のために10時間、睡眠のために8時間を用いれば、実質的な活動時間は6時間しか残っていない。その結果、彼は登校することを諦め、「ただの百姓」になった。おそらく、義務教育すら完全には受けていない。彼には、「ただの百姓」という選択肢しか残っていなかった。

 「ただの百姓」という概念は、近代社会において肯定的に使用されることはなかった。多くの農民の子弟は、この数百年の近代化過程において学校制度という選択装置を通じて都市に移住した。有意の人材であれば、なおさらである。郷土の希望の星として官界、政界、財界、学界等において君臨した。彼らが身を立て、名を上げるためには、農村や山村に居住することにとどまっているならば、不可能であったであろう。彼らは都市に住み、郷土を後にした。「ただの百姓」であることを拒否し、農村を捨てた。有意の人材でなかったとしても、金の卵として都市に流入した。その多くは、下層労働者として都市住民になった。都市下層住民として、大衆社会の一翼を担った。

有意であろうが、なかろうが、都市住民は「ただの百姓」から食料を供給された。この点において、都市住民と「ただの百姓」は、対立関係にある。かつて「ただの百姓」あるいはその子弟であった青年は、自らの出自である「ただの百姓」であることを否定している。いしいひさいちが、このような現代日本、いな後期近代という時代を通底する近代の自己意識の一側面を抽出した。彼は、その意味で賞賛に値するであろう。ほぼすべての文化は、都市において生産される。彼によって描写された現代日本の社会論、たとえば『山田家の人々』、『ののちゃん』等は、その叙述対象がほとんど都市住民の生活様式である。

対照的に、中島正の思想は、この近代という時代精神とは異なる位相にある。彼は「ただの百姓」であることの意義を称揚し、都市住民の存在意義を否定した。彼の思想の根底には、蓑虫革命と命名された原理がある。「蓑虫革命とは――『自分の食い扶持は自分でさがすが、つくる』という人間本来の生存の原則にしたがって、大自然の掟に順応した自然循環型農業を営み・・・自給自足自立の生活に入ることをいうのである」 [2] 中島正は、究極的には民族皆農を主張する。「都市機構を潰し、都市活動をやめて、太古に存在した農耕社会に還る」。[3] 都市ではなく、農村に万人が居住する社会を理想とする。

次節では、農民と対照して、都市住民の生活に言及してみよう。とりわけ、都市における大学という存在形式に言及してみよう。

 

2節 大学という社会的存在形式

 

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いしいひさいち『ノンキャリウーマン』第2巻、双葉社、1999年、110頁。

 

今回の物語の主人公、新田の政次君は、村で初めて東京の大学に行った。それまで、農村近郊の地方都市に存在する大学に進学する子弟は、少なからずいたのであろう。しかし、首都東京に進学した子弟は、政次君が初めてであったようである。[4]

 彼が、三菱物産という日本を代表する企業において就職内定を獲得した。三菱物産という会社名は、三菱商事と三井物産という代表的商社に由来している。創作の世界では一般に使用されている超一流企業名称である。生涯賃金、社会的知名度、福利厚生等の観点から、現代日本における最高の企業の代名詞として使用されている。この企業で労働をすることは、多くの大学生そして多くの日本人によって羨望の的になる。

 新田の政次君がこの企業に内定した。この事象は、彼の故郷の農村においてニュース的価値を持っていた。彼の就職内定に関する記事が、地方新聞の地域欄に掲載された。もちろん、就職協定に違反していた。有名無実化しているとはいえ、この協定は遵守されねばならない。したがって、この内定が取り消されるという、いしいひさいち流の落ちがついている。

この4コマ漫画の落ちの部分を除いて、この物語は次の点を前提にしている。第一に、農民の子弟が東京の大学に進学することが、農民あるいは農村の共同意識において素晴らしいと認識されている。新田の政次君は、農村の共同意識において東京の大学に進学した段階においてすでに郷土の誉れであった。子弟が大学生として都市の住民になること、より厳格に言えば、都市の上層市民になることが、農民の意識において郷土の誉れとみなされている。これまでも、この農村から都市の下層市民になったことは、稀ではなかったであろう。農村の子弟が、1950~1960年代に金の卵として大都市とりわけ東京に流入した。中卒労働者として都市の下層市民になった。中卒労働者と大卒労働者は、日本社会において明白に区別されている。新田の政次君が中学を卒業して、東京の労働者となったとしても、その事実が新聞記事になることはない。

第二に、新田の政次君は東京の大学に進学し、大学生として就職活動をした。三菱物産という日本を代表する企業に内定した。三菱物産の労働者は、ほぼ偏差値の高い大学卒業者から構成されている。この難関大学に入学することは、高校生を抱える両親の希望である。大企業に就職することは、社会的に承認されている。少なくと、大企業に就職することによって、後ろ指をさされることは、めったにないであろう。

彼が有名大学において優秀な成績を修めたことは、当然であろう。彼は大学生として刻苦勉励した。あるいは、彼は刻苦勉励するための能力を保持していたのであろう。東京の有名大学卒業生の大半は、三菱物産に就職できない。上位の成績優秀者のうちにいなければならない。多数の「優」を獲得することは、成績優秀者として当然であった。社会的エリートとして十分な基礎教養が、彼の4年間の学業生活において形成された。

このいしいひさいちの4コマ漫画において描写されている事態は、現代日本人にとって願望である。子弟が東京の有名大学に進学し、有名企業に就職した。この事実において非難される要素はないかのようである。しかし、中島正はこのような大学生の意識ひいては大学の社会的役割を次のように、批判する。「大学は、汚染破壊集団の予備軍養成所である・・・・年々無慮20数万にも及ぶ大卒が、悉く農民の汗の上に居座って不耕貪食を企み、汚染農業を余儀なからしむるだけでなく、その過半数は工業化社会の活動の中心になり、・・・自然=環境に迫害を加え続ける」。[5]  大学生という社会的存在形式は、その価値が否定される。大学生そして都市住民は、農民と農村に対して害悪を加える存在でしかない。彼らが都市住民であるかぎり、彼らは農村から食料を供給してもらわねばならない。にもかかわらず、農民の子弟が社会的賞賛を受けるためには、農村ではなく、都市において居住しなければならない。「ただの百姓」であることは、社会的賞賛の対象外である。対照的に、中島正は、身を立て、名をあげることを拒否する。不耕貪食の都市住民という存在形式が、中島正によって根底的に批判される。

 

おわりに

 

中島正の思想も、いしいひさいちの漫画も、独立して論じられるべき対象である。今まで、『田村伊知朗 政治学研究室』において、両者は断片的に論じられてきた。また、政治学概論と政治思想史講義草稿の補助教材として提示されてきた。

今後、それらをより明確な形で提示したい。この作業は、後期近代という時代精神を対自化するために不可欠の前提になろう。

 

 

(たむらいちろう 近代思想史専攻)

 

本記事は、すでに『田村伊知朗 政治学研究室』においてすでに掲載されている。(In: http://izl.moe-nifty.com/tamura/2019/05/post-ba48.html. [Datum: 23.09.2019)

また、『公共空間X』へと転載されている。(In: http://pubspace-x.net/pubspace/archives/6613. Datum: 27.05.2019)

 

[1] いしいひさいち『いしいひさいち選集』第9巻、双葉社、1992年、91頁。

[2] 中島正「私の百姓自立宣言⑦ 『自然世』を近づける蓑虫革命とは」『現代農業』第62巻第7号、農山漁村文化協会、1983年、352頁。

[3] 中島正『都市を滅ぼせ 人類を救う最後の選択』舞字社、1994年

[4] いしいひさいち『ノンキャリウーマン』第2巻、双葉社、1999年、110頁。

[5] 中島正『みの虫革命――独立農民の書』十月社出版局、1986年、152-153頁。

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いしいひさいちから学ぶ政治学(3)――位階制組織における民主主義

いしいひさいちから学ぶ政治学(3)――位階制組織における民主主義

 

                                 田村伊知朗

 

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いしいひさいち『鏡の国の戦争』潮出版、1985年、76-77頁。

 

 この漫画の面白さは、軍隊に多数決原理が導入されていることである。この原理の導入は、現実的には想定不可能である。将校と兵隊の数は、通常、兵隊の数が多い。もし、軍隊という命令組織に多数決原理を導入すれば、軍隊という組織が崩壊するであろう。多くの兵隊は、徴兵された存在であり、戦意は将校に比べて低いからである。もし、多数決原理が導入されれば、戦争そのものが否定されるであろう。民主主義という原理は、命令組織には導入されない。位階制組織は命令組織である。とりわけ、官僚組織は位階制的組織である。この官僚組織のうちで、もっとも厳格な組織は軍隊である。上官の命令を否定し、前線から逃亡しようとすれば、前線の背後に控える督戦隊から銃弾を受ける。

 仮定の設定として軍隊に民主主義が導入されれば、前線で生命を賭けて戦うのは、将校のみになるであろう。その架空の設定をこの漫画は採用している。あるものの本質とは異なる要素を当該概念に導入することによる面白さである。いしいひさいちは、当該概念、ここでは軍隊の本質を把握しいている。その本質とは正反対の理念を導入することによって、その概念を鮮やかにしている。

 なお、命令組織は軍隊に限定されていない。名目的にはすべての官僚組織に妥当する。また、官僚組織に比肩する強度を誇る営利企業の組織にもあてはまるであろう。そこにおいて、民主主義の原理、多数決原理は適用されない。

 政治的領域において、多数決原理が適用される領域はかなり少ない。被選挙者間における平等性が前提になる領域でしかない。況や、社会的関係、家族的関係においてこの原理を導入しようとすることは、無謀という誹りを免れない。この原理が妥当する領域は、限定されねばならない。私的領域においてこの原理は、適用されてはならない。私的領域にこの原理を適用した場合、利害関係があまりに強く、少数者が多数者に従うことが困難である。もっとも、後期近代において公的領域と私的領域は交錯しており、その峻別が困難である。公的領域の本質規定が問題になる。私的領域における行為、たとえば私有地において住宅あるいは環境破壊的産業を建設することが、公的領域と交錯する。

 より一般化すれば、この原理は、政治的国家における平等原理を前提にしている。多数決原理は、官僚機構における命令原理とは相いれない。政治的領域に限定しても、その適用範囲は狭い。また、市民社会はこの原理を採用していない。たとえば、株式会社において、労働者は経営者の命令にしたがわねばならない。また、株主総会では、持ち株高に応じて、投票数が決定される。株券の数に応じて、投票行動が実施される。たとえば、1株、1 票であり、持ち株が多ければ、投票数も多い。多数決原理ではなく、当該企業の持ち分に応じて、投票数が決定される。

 さらに、この漫画の面白さは、将校と兵隊総体に平等主義的原理が導入されていることにある。多数決原理の前提である構成員全体が、平等であるかのようである。将校と兵隊との区別を別にして、兵隊の間に序列がないことである。現実的軍隊において、平等な兵隊という設定は存在しない。徴兵された兵士もまた、ヒエラルヒー化されている。その軍隊歴によって、差別化されている。軍曹、伍長等は軍歴の長さに比例して設定されるはずだ。より一般化すれば、軍歴の長い兵隊は、短い兵隊に対して優位にふるまう。ちょうど、市民社会における平等な市民ということがフィクションであると同様だ。

 

 しかし、本ブログで取り上げた漫画の設定においては、平等な諸兵が同盟罷業のようなことをしている。実際には、この同盟罷業、ならびその基礎にある兵隊同士の平等性は存在しない。にもかからず、市民社会の理念、つまり理想である平等性を持ち込むことによって、この漫画の面白さが成立している。

軍隊に民主主義あるいは多数決原理を導入することは、歴史的に言えば、必ずしも荒唐無稽でない。イギリス革命における水平派にその起源を求めることも可能であろう。

 ここで、17世紀に生じたイギリス革命の歴史的経緯に触れておこう。まず、この革命は国王と議会との憲法論争から始まった。この論争の中心は、今後のイギリスの政治体制を絶対主義的君主制のままとどめるのか、立憲主義的君主に改変するべきかということにあった。国王派が前者を、議会派が後者をそれぞれ代表する。1642年には、国王派と議会派の内乱が開始される。1649年、革命派は軍事的に勝利し、国王を処刑する。近代革命が成功する。革命派の勝利は、議会派内部の対立を明瞭にした。つまり、長老派、独立派そして水平派という派閥闘争が激化する。

 三つの派閥の指向性の差異が、明瞭になりつつあった。長老派は立憲君主制を、独立派は共和制をそれぞれ指向していた。共和制が、立憲君主制を超えて独立派によって宣言される。共和制は、長老派に対する独立派のヘゲモニーが確立されたことによる。同時に水平派も弾圧される。1653年、独立派のクロンウェルの軍事独裁が始まる。ローマ共和制に似た護民官政治が始まる。独立派が革命派のなかで全権を把握する。しかし、独立派による独裁政治は、長老派と水平派の支持ひいては国民一般の支持を喪失した。

 この革命の主流を形成することはなかったが、水平派の思想に触れておこう。ここには、近代揚棄の思想がみられる。彼らは軍隊内部に全軍評議会を形成しようとする。この評議会は軍隊内の意志決定を民主化しようとする。この党派は、軍隊という命令型組織に多数決原理を適用しようとする。もちろん、軍隊という官僚組織に民主主義を適用することは、明らかな矛盾である。結果的にこの試みは敗北する。上級将校を中心にした独立派によって、水平派は弾圧される。

 しかし、正規軍ではなく、反乱軍において民主主義的要素を導入しようという試みは、一定程度必要になる。イギリス革命における水平派は、荒唐無稽な存在者ではない。なぜなら、つねにその使命感が反乱軍において鼓舞されねばならない。革命軍は正規軍と異なり、金銭的裏付けがないにもかかわらず、軍への参加を鼓舞しなければならない。通常の場合、革命軍は敗北するにもかかわらず、なぜ、革命軍に参加しなければならないのかを参加者に理論的に説明しなければならない。既存の秩序を破壊することを、言語によって正当化しなければならない。長老派と独立派は、水平派に対して革命軍への参画を煽動した。結果的には水平派は弾圧されるが、水兵派がなければ革命は成就しなかった。反乱軍あるいは革命軍は、これまでの忠誠対象とは異なる対象にその忠誠心を要求する。

 この漫画に揶揄された命令組織における多数決原理の導入は、軍隊の例外的な存在形式つまり革命軍において妥当性を有しているのかもしれない。

 

(たむらいちろう 近代思想史専攻)

 

 

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いしいひさいちから学ぶ政治学(2)――官僚に対抗する政治家?

いしいひさいちから学ぶ政治学(2)――官僚に対抗する政治家?

 

                                  田村伊知朗

 

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いしいひさいち『いしいひさいち選集』第13巻、双葉社、1986年、126頁。

 

 この漫画は、日本沈没という国難に際して、政治家が自分の選挙区のことしか考えていないこと揶揄している。政治家という官僚組織を統括する主体が、日本全体の利益ではなく、特殊的利益しか考えていない。

 官僚は部分的利益を指向する。しかし、官僚が視野狭窄であることは、必ずしも欠陥ではない。与えられた職務に忠実であればあるほど、そのような結果をもたらす。多くの一般的な国家公務員、とりわけ係長、主任は、課長を社長と呼ぶ。自らの属する課の利益を追求する。あるいは課に属する国民生活に対する忠誠を遂行する。

 たとえば、ある課に属していれば、その課の利益を追求する。国家全体における当該省全体の在り方に関して、ほとんど関心がない。国家公務員と話していると彼らの隠語として、社長という言葉が乱発される。公務員組織は、株式会社とは異なり、社長という役職を持っていない。にもかかわらず、この組織に属していない人間に対して、うちの社長という表現を用いる。この社長という隠語とその隠語が発される状況は、彼らにとって直属の上司が誰であるかを暗示している。彼らの責任主体は、所属する課あるいは課長である。省益ですらない。いわんや、国益の本質を考察する能力はない。

 官僚機構における国益という考えの欠如は、常識的には政治家によって補正される。政治家、本邦の組織形式を用いれば、大臣、副大臣、政務官等は、必ずしもその省庁の業務に関して精通していない。ほとんど素人同然である。全体的視野から、当該省庁の業務を概観することが求められている。

 しかし、政治家が個別的利益、つまり特定の業界利益、地域利益を追求すれば、国益という観点は看過される。政治家は、次の選挙における当選をつねに考えている。政治家は日本国家の普遍的利益ではなく、選挙区という特殊的利益を追求する。

 日本沈没という国難に際して、大臣を統括する総理大臣も特殊利益を追求すれば、日本は沈没する。この意味をいしいひさいちは、明確にした。この漫画の置かれている状況が、日本沈没という地殻変動であることは、示唆的である。経済的地平でもなければ、文化的地平でもない。まさに、日本列島が消滅する段階でも、政治家が特殊的利益しか考察していない。

 問題は、彼によって提起された地平の彼方にある。誰が国益を追求するのであろうか。多くの官僚は省益すら追求しない。課の利益がその主要関心事である。誰が国益を普遍的地平で考察するのであろうか。哲人政治家が求められるが、哲人政治家はどこからリクルートされるのであろうか。古色蒼然たる哲学部の卒業生からであろうか。日本には、哲学部という学部はない。せいぜい、文学部哲学科が細々とその命脈を保っているにすぎない。たとえ哲学部が存在していたとしても、彼らの多くは哲学史には精通していても、哲学者ではない。哲学は、官僚機構によって追求される課益、省益には対抗できないであろう。それを超えた地平が求められている。

 

 

(たむらいちろう 近代思想史専攻)

 

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いしいひさいちから学ぶ政治学(1)――官僚制の存在形式

はじめに

 

 いしいひさいちが、日本を代表する漫画家であり、第一級の知識人であることはほぼ異論がないであろう。彼は、1970年代から約半世紀間、ほぼ毎日、数編の4コマ漫画を世に送り出してきた。それだけではない。より本質的に言えば、彼が偉大であることの根拠は、現代日本あるいは後期近代の事象を4コマ漫画という世界において抽出していることにある。現代社会の一側面が、わずか1頁の4コマにおいて切り取られている。

 このような栄光は、社会科学に従事している研究者にとって羨望の的である。おそらく、彼は、一瞬の閃きにおいて現代社会を抽出する。研究者の多くは、1年をかけて1本の論文を執筆する。いしいひさいちと同じ結論を述べるために、数年を要する場合もある。日々、外国語文献と格闘し、論文の準備をしなければならない。それだけの労力を払ったとしても、いしいひさいちほどの読者を獲得することはない。良くて、同じ領域の研究者数人から賞賛を受けるだけである。多くの場合、学会誌の数頁を埋めるだけで終わるであろう。いずれにしろ、研究論文が社会的影響力を行使することは、ほぼ無いであろう。

 

1節 官僚制総論

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いしいひさいち『いしいひさいち選集』第37巻、双葉社、2003年、100頁。

 

 この漫画における面白さは、落城寸前になっても、官僚的な目的合理性が追求されていることにある。自己に与えられた領域、つまり有職故実に関する事柄が議論されている。落城になれば、そのような合理性はその基盤が崩壊するにもかかわらず、有職故実に固執している。落城という現実の前にほとんど無意味であるにもかかわらず、この前例に対するその解釈が議論されている。

 この漫画によって揶揄されている第一の事柄は、前例主義である。前例主義とは、前例のないことをしない、という官僚に特有な意識である。前例を否定することは、前任者の瑕疵をあげつらうことになる。前任者の欠陥を是正することは、その顔に泥を塗ることにつながる。その前任者は現在の上司であることが多い。上司の意向に反して仕事をすることが嫌われる。有職故実に関する認識が不必要であるわけでない。彼らにその仕事が割り振られた以上、その仕事を貫徹しなければならない。しかし、先例をとりまいていた過去の環境世界は、もはや変化してしまっている。現時点での環境世界は、過去の環境世界と隔絶している場合も多いであろう。前例が妥当するか否か、現時点での環境世界において再検討されねばならない。にもかかわらず、前例主義に固執することは、愚かなことであろう。

  この漫画によって揶揄されている第二の事柄は、先送り主義である。先送り主義とは、決定を先送りすることであり、キャリア官僚とみなされる高級公務員に特有な病気である。彼らは、3~4年の間隔で多くの部署をわたり歩く。したがって、その任期の間にできることしかしない。重要な問題を次の任にあたる後輩に委ねる。その後輩もまた、次々に次の任期のキャリア官僚に大きな問題を委ねる。大きな問題とは、その解決のためにかなりのエネルギーを必要とする課題である。たとえば、組織内の問題であっても、多くの他の部署との折衝を要する仕事である。そのような大事な仕事よりも、より処理しやすい日常的な仕事に没頭する。しかし、いつの日かその仕事の期限がやってくる。その時には、手遅れになっている。ここでは有職故実に拘ることによって、落城における政治的決定という問題は先送りされている。

 この漫画によって揶揄されている第三の事柄は、官僚組織における出世の現実態である。官僚組織は位階制組織である。権能が上昇すればするほど、その権能担当者の数は減少する。ここでは、重臣がその位階制の上位者である。問題は、このような重臣が決定権を保持していることにある。有職故実に精通した官僚が、この位階制の上位者になった。この問題こそが問われねばならない。彼らは、戦闘の場において業績を積んだわけではないはずだ。有職故実に精通することによって、位階制の階段を駆け上った。このような人間が組織の上部において席をしめていることに問題点がある。彼らは危機に対応できないし、政治家のような世界全体像を持たない。全体的視点を放棄した近視眼的人間しか、位階制的秩序を上昇できない。

 現代の官僚組織においても同様である。誤植のない文章が書ける人間、退屈な会議が好きな人間が重宝される。誤植の指摘を生き甲斐にしている人間が部長、課長等の要職に就く。漢字を読み間違えたら、減点の対象である。つまらない人間が上に立つほど、組織にとって不幸はない。現代社会における有職故実は、江戸時代と同様に、規則であり、前例であり、横並びの知識である。この観点からすれば、現代社会の役人と、落城寸前の御前会議における役人の間には、差異はない。

 たとえば、枝葉末節な事柄に対して、会議において時間がさかれる。重要な問題は議論されない。重要な問題は存在していないかのようにふるまう。本当の馬鹿は、自分が書いた文章を逐一読み上げる。日本語で書かれた文章をなぜ読み上げる必要があるのか。時間を浪費し、批判的議論を封じるためである。彼の読み上げ作業が終了した後、会議参加者の多くは、その文章を批判する気力を喪失している。

 組織においてその組織の維持、管理が自己目的化する。なんのための組織であるかが忘却され、管理に強い人間が出世してゆく。営利企業であっても、利益を上げる営業畑の人間ではなく、総務畑の人間が出世してゆく。同僚と仲良く喧嘩せず、という人間が頭角を現す。警察機構においても、犯人を捕まえることに執着する人間ではなく、法律と規則に通じた人間が出世してゆく。何時までも犯人逮捕のために靴底を減らしている現場の刑事よりも、昇任試験に長けた人間が上司になる。現場の人間よりも、試験勉強に苦痛を感じない人間が、組織において重宝される。

 この事例として、2011年3月25日に開催された第19回原子力安全委員会が、いしいひさいちのこの4コマ漫画にまさに適合している。[1] 2011年3月25日と言えば、3月14日における東京電力福島第一原子力発電所の第3号機の水素爆発を受けて、国家が危機的状況にあったときである。第2号機、第4号機も同様な危機的状況にあった。この東京電力福島第一原子力発電所の非常事態を受けて開催された原子力安全委員会は、たった42分程度で閉会している。しかも、PDFファイル12頁にわたる議事録の半分以上は、事務局によって作成された資料の読み上げに終わっている。その後の委員による議論の中心は、「『葉』になってございますけれども、これは平仮名の『は』でございます」、あるいは「平仮名の『に』を入れてください」(10頁)という文書の校正にある。

  原子力安全委員会委員としての専門知識は要求されていない。基本的に委員長が事務局と相談のうえ、会議資料を作成する。その他の委員はその会議資料に基づいて議論する。彼らは、会議資料に掲載されていないことに関して知る由もない。ある事柄を会議資料に掲載するか否かは、委員長と事務局の専権事項である。

 この傾向は、日本の官僚機構における会議の特色である。「異議なし」と唱和するか、語句の間違いを指摘するだけである。誤植の訂正であれば、村役場の庶務課長のほうが、より適切な指示を出せるであろう。このような議論しかできない専門委員は、村役場の庶務課長に転職したほうがよいであろう。もっとも、庶務課長ほどの文書校正能力を有しているとは思えず、庶務課主任に降格されるであろう。

 このような繁文縟礼に通じた専門家しか、政府によって認定された専門委員になれない。専門知識よりも管理職的能力に通じた専門家のみが大学教授になり、そして政府の審議会委員に抜擢される。そこで求められる能力は、事務局と協調する能力と文書作成能力でしかない。

  専門委員には、事務局によって作成された資料を根源的に批判し、積極的な提言を求められているはずである。ここでの議論は、専門知識を要求されない事務局職員以下の水準にある。逆に言えば、このような専門家は、官僚機構にとって統御し易い人間である。自分たちを批判しない人間のみが、専門家として認知される。学術的専門家と官僚機構の癒着が生じる。

 彼らはこれまでいつもこのような議論形式に慣れてきたはずである。このような議論しかできない。それゆえ、彼らは専門家として認知された。国家の危機に際しても、このようにしか議論できない。いしいひさいちが描いた落城という危機が、現代日本にもあった。しかし、官僚組織は前例主義という旧態依然の対応しかできなかった。

 

2節 前例主義に対する補論

 

 

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いしいひさいち『いしいひさいち選集』第11巻、双葉社、1986年、132頁。

 

 この漫画において、「ある建物が40年経過したから、危険である」という命題と、「ある建物が40年間安全であったから、今後も安全である」という命題が、併記されている。この二つの論理が交差することはない。しかし、後者の論理の破綻は明らかである。過去40年間において、様々な部品が劣化し、機能不全に陥っているかもしれない。それに対して、40年間安全であったがゆえに、安全であるという命題が対置される。この命題は妥当性を持っているのであろうか。官僚は前例主義を規範化している。40年間、安全であれば、今後も安全であると。しかし、この40年間に主体は、明らかに老化している。客観的条件も変化している。にもかかわらず、前例主義を主張する官僚は、馬鹿でしかない。

 このような命題は、常識的にはありえない。事実、いしいひさいちもまた、この命題に反論していない。しかし、この命題が根源的に錯誤していることは、明らかである。築40年のアパートがそろそろ限界に達していることは、常識的判断にしたがえばあきらかである。にもかかわらず、ある論者は40年間、安全であれば、今も安全であると主張する。

 ちなみに、40年という数字は、原子力発電施設の耐用年数にあてはまる。偶然かもしれないが、四半世紀以後の東京電力株式会社福島第一原子力発電所の耐用年数を示している。いしいひさいちの漫画家としての評価は、天才と言うしかない。天才であるがゆえに、彼が当初意図していない結果を暗示している。

 より一般化して言えば、前例にしたがうということは、環境世界の変化を考慮しない。過去の環境世界は、現在の環境世界と異なっている。この変化を考慮せずに、過去の経験知が絶対化される。

 

3節 先送り主義に関する補論

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いしいひさいち『問題外論』第11巻、チャンネルゼロ、1997年、45頁。

 

  第1節のいしいひさいちの漫画の補論として、先送り主義に関する典型的事例が、現代政治論においても展開されている。橋本龍太郎総理と主要各省の事務次官の話し合いの場面にも出てくる。橋本龍太郎総理は、政治家として大臣に信頼を置いていない。彼は、事務次官に代表される高級官僚を信頼している。とりわけ、外務省、法務省、自治省という主要省庁の官僚を信頼している。官僚の専門知が、大臣の専門知よりも優れている、と彼はみなしている。

  しかし、彼もまた政治家である。その判断力が各省の大臣と同等であるということを見落としている。官僚の知は、官僚の独自の圏域において形成されてきた。先送り主義も彼らの習性である。

 

 

4節 減点主義に関する補論

 

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いしいひさいち『いしいひさいち選集』第13巻、双葉社、1986年、118頁。

 

 第1節の官僚制総論の補論として、官僚個人に対する評価基準を問題にしてみよう。官僚の評価基準は、加点主義ではなく、減点主義である。国民にとってどれほど良い政策を実施したとしても、それは評価されない。むしろ、新しい仕事をすれば、周囲と無用な摩擦が生じる。同僚そして他の部局に新しい仕事と任務を与えるからだ。それでなくとも、高級官僚の予備軍は、必要以上の仕事をそもそも抱えている。それに加えて、ある官僚が新しい仕事を考案すれば、より仕事量が増大する。勤務時間が増えても、労働賃金が増えることはない。

 この新規の仕事が成功すれば、まだよい。失敗した場合には、それ見たことと嘲笑される。それだけではない。できるかぎり、前例にしたがって、失敗がないことを心がける。

 しかし、自分が前例にしたがって仕事をしたとしても、災難は周囲から生じる。部下が不祥事を起こせば、その管理責任を取らされる。部下が物品を横流しすれば、管理責任を問われる。勤務時間内の不祥事であれば、直接的責任がなくとも、その失敗の全責任を取らされる。

 校長は、学校内の管理責任を最終的に負わねばならない。部下である教諭がいじめに対して適切な処置をしなかった。その結果、いじめを受けた生徒が自殺した。昨今、よく新聞の社会面に、いじめによる自殺が報道されている。

 校長個人はこの不祥事により、懲戒処分が予定されている。減給処分等が想定されるであろう。減給処分は月間給与が減少するだけではない。年金、退職金にも反映される。それだけではない。給与が良くて、仕事が楽な天下り先から排除される。特に、小学校教諭であれば、地元の大学教育学部卒業生である場合が多い。同窓会組織からも、懲戒処分対象者として、白眼視される。

 

第5節 書類至上主義

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いしいひさいち『眼前の敵』河出書房新社、2003年、22-23頁。

 

 官僚制の位階的秩序を上昇すればするほど、下部機関から上がってきた書類に依拠して政治的決定を実施する。その書類が間違っていれば、政治的判断を間違える。この漫画は、書類において再構成された現実態と、現実態そのものが乖離していることを指摘している。さらに、現実態と無関係に上部機関が、上部機関に都合の良い現実態を再構成している。現実の師団はすでに壊滅しているにもかわらず、地図の上における師団を動員することによって、敗色濃厚な戦局を打開しようする。

 このように上部機関が振舞うことを、下部機関は知っている。官僚機構において、しばしば下部組織は上部組織に上げる書類を改竄する。第一に、この書類改竄の目的は、義務を持っている労働者が責任を逃れることにある。現実態とは異なる事実を記載することによって、下部組織は降格、解雇さらに刑事訴追等から逃れることができる。労働者の現在の地位と賃金は、責任を安泰である。

  第二に、現状維持という安泰感は、それ以上の安楽をもたらす。それは、書類至上主義と言われる病理と関連している。この用語は私の造語である。現実における危機を現実態においてではなく、書類の上で解消する。当然のことながら、現実態において危機は残存している。しかし、書類を作成する下部組織は、それによって自己満足に陥る。危機は去ったと。上部組織もそれについて気が付いている。気が付かない上部組織は馬鹿である。しかし、気が付いていて、それを黙過する上部組織は、なお馬鹿である。いずれにしろ、上部組織の暗黙の了解のもとで、下部組織は書類を改竄する。

 第三に、書類を改竄することは、現状維持を目的にしている。現状が過去と同一の状態にあるという虚偽の報告書を偽造する。この病理は、官僚化した組織に特有なものである。組織を活性化するような積極的姿勢は評価されない。むしろ、それは疎まれる。現状の危機を報告することによって、下部組織が新たな仕事を引き受けることになる。つまり、「負担が増える」。官僚化した組織においてこの言葉は、水戸の御老公の印籠に相当する。書類上が現状の危機を表現していれば、下部組織の仕事が今後増えることは明白である。それを回避するために、短絡的に書類を改竄する。書類的総合性があれば、仕事は増えないからである。現状が書類の上で過去と同一であれば、問題ないとされる。前例主義あるいは現状維持志向が、官僚組織の通弊である。

  この書類至上主義は、旧ソ連末期における書類上の食糧の確保と現実態における食糧危機に典型的に妥当していた。毎日のように、ゴルバチョフ・ソ連共産党書記長のもとに資料が下部組織、各連邦共和国から上がってくる。それによれば、旧ソ連では十分すぎる食糧があった。輸出も可能であった。しかし、街の食料品店では、長蛇の列が食料を求めて形成されていた。食糧の緊急輸入が常態化していた。旧ソ連住民には、十分な食料が供給されていなかった。食糧危機が蔓延していた。ゴルバチョフ・ソ連共産党書記長は、書類を見る気力を喪失したはずである。書類上、ソ連は安泰であった。しかし、現実態において前世紀末にソビエト連邦共和国自体、そしてソビエト連邦共産党が崩壊した。官僚集団あるいは官僚化した組織は、この病理に多かれ少なかれ侵されている。その危機を回避できる健全性が求められている。

 

あとがき

 

 本稿は、4コマ漫画を引用した上で、自分の思想を述べるという叙述形式を採用している。このような叙述様式を読書界において承認させた書物が、永井均『マンガは哲学する』(岩波書店、2009年)である。本稿も、この書物に影響を受けている。

 また、漫画の著作権に関する思想も永井均の考えに依拠している。永井均は漫画の著作権と思想的論稿の関係を次のように述べている。「本書におけるマンガの引用は、『報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲で行われるもの』であるから、著者および出版社の許諾を得ていない」。(同書、232頁)この叙述様式が、著作権法32条第1項に妥当するとみなしている。

 永井均の著作に先行する業績として、呉智英『現代マンガの全体像』(双葉社、1997年)も参照されるべきであろう。呉智英は、引用した漫画のすべてにCマークを付けている。本記事執筆にあたって、呉智英の考えに依拠すべきであろうかとも、考えた。呉智英によれば、漫画の引用は、漫画家の承認を得るべきであるとされる。

 しかし、筆者は、呉智英ではなく、永井均の著作権に関する解釈を正当なものと考えている。学術論文や学術書と同様に、書籍化された漫画も公開された社会的な共有財産である。その引用は自由であるべきと考えている。いしいひさいちの筆名は、引用されることによってより高まると想像している。もっとも、私が引用しなくとも、いしいひさいちの漫画は、すでに同時代の基礎教養になっている。

 さらに、学術的世界、とりわけ自然科学系学問領域において、引用される回数が当該論文の価値を高めている。引用される回数を増すために、姑息な手段が横行しているとも聞いている。研究者仲間で相互に不必要な引用がなされているという指摘は、よく聞く話である。私は漫画家個人とは如何なる直接的関係もない。公刊された漫画を購入し、その読者になっているだけである。なお、本稿以後にも、同様な叙述形式の原稿を幾つか用意している。漫画の著作権に関する考察も、同様な思想に基づいている。

 最後に、引用した漫画を初めて読んだとき、本当に心の底から面白いと感じた。まさに、感動し、大笑いした。ただ、この漫画を何度も読み直すなかで、現代政治そして現代社会に関する深遠な洞察に気付いた。この面白さの根拠を考察するなかで、本稿が生まれた。

 

 

[1]「第19回原子力安全委員会議事録」10頁。In: http://www.nsc.go.jp/anzen/soki/soki2011/genan_so19.pdf. [Datum: 26.09.2011]

 

(たむらいちろう 近代思想史専攻)

 

 

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中島正論序説――いしいひさいち農村論を媒介にして  

中島正論序説――いしいひさいち農村論を媒介にして  

 

                                                        田村伊知朗

はじめに

 

  いしいひさいちが、日本を代表する漫画家であり、第一級の知識人であることはほぼ異論がないであろう。彼は、1970年代から約半世紀間、ほぼ毎日、数編の4コマ漫画を世に送り出してきた。それだけではない。より本質的に言えば、彼が偉大であることの根拠は、現代日本あるいは後期近代の事象を4コマ漫画という世界において抽出していることにある。現代社会の一側面が、わずか1頁の4コマにおいて切り取られている。

  このような栄光は、社会科学に従事している研究者にとって羨望の的である。おそらく、彼は、一瞬の閃きにおいて現代社会を抽出する。研究者の多くは、1年をかけて1本の論文を執筆する。いしいひさいちと同じ結論を述べるために、数年を要する場合もある。日々、外国語文献と格闘し、論文の準備をしなければならない。それだけの労力を払ったとしても、いしいひさいちほどの読者を獲得することはない。良くて、同じ領域の研究者数人から賞賛を受けるだけである。多くの場合、学会誌の数頁を埋めるだけで終わるであろう。いずれにしろ、研究論文が社会的影響力を行使することは、ほぼないであろう。

 

 

 

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1節 百姓という存在形式

 

 さて、この物語の主人公、甚太少年は、小学校のある村落の中心街から30キロほど離れた山村に住んでいる。[1]  毎日、片道30キロほどの道のりを約5時間かけて通学している。往復10時間ほどかかる。通常ならば、村落共同体の中心街に下宿するという選択肢が採用されるが、様々な事情で通学を余儀なくされたのであろう。学校と自宅を往復するために、10時間前後を要するということは、体力的観点だけではなく、時間使用的観点からも、ほとんど無意味である。通学のために10時間、睡眠のために8時間を用いれば、実質的な活動時間は6時間しか残っていない。その結果、彼は登校することを諦め、「ただの百姓」になった。おそらく、義務教育すら完全には受けていない。彼には、「ただの百姓」という選択肢しか残っていなかった。

 「ただの百姓」という概念は、近代社会において肯定的に使用されることはなかった。多くの農民の子弟は、この数百年の近代化過程において学校制度という選択装置を通じて都市に移住した。有意の人材であれば、なおさらである。郷土の希望の星として官界、政界、財界、学界等において君臨した。彼らが身を立て、名を上げるためには、農村や山村に居住することにとどまっているならば、不可能であったであろう。彼らは都市に住み、郷土を後にした。「ただの百姓」であることを拒否し、農村を捨てた。有意の人材でなかったとしても、金の卵として都市に流入した。その多くは、下層労働者として都市住民になった。都市下層住民として、大衆社会の一翼を担った。

  有意であろうが、なかろうが、都市住民は「ただの百姓」から食料を供給された。この点において、都市住民と「ただの百姓」は、対立関係にある。かつて「ただの百姓」あるいはその子弟であった青年は、自らの出自である「ただの百姓」であることを否定している。いしいひさいちが、このような現代日本、いな後期近代という時代を通底する近代の自己意識の一側面を抽出した。彼は、その意味で賞賛に値するであろう。ほぼすべての文化は、都市において生産される。彼によって描写された現代日本の社会論、たとえば『山田家の人々』、『ののちゃん』等は、その叙述対象がほとんど都市住民の生活様式である。

  対照的に、中島正の思想は、この近代という時代精神とは異なる位相にある。彼は「ただの百姓」であることの意義を称揚し、都市住民の存在意義を否定した。彼の思想の根底には、蓑虫革命と命名された原理がある。「蓑虫革命とは――『自分の食い扶持は自分でさがすが、つくる』という人間本来の生存の原則にしたがって、大自然の掟に順応した自然循環型農業を営み・・・自給自足自立の生活に入ることをいうのである」 [2](2)  中島正は、究極的には民族皆農を主張する。「都市機構を潰し、都市活動をやめて、太古に存在した農耕社会に還る」。[3] 都市ではなく、農村に万人が居住する社会を理想とする。

  次節では、農民と対照して、都市住民の生活に言及してみよう。とりわけ、都市における大学という存在形式に言及してみよう。

 

[1]   いしいひさいち『いしいひさいち選集』第9巻、双葉社、1992年、91頁。    

[2]   中島正「私の百姓自立宣言⑦ 『自然世』を近づける蓑虫革命とは」『現代農業』第62巻第7号、農山漁村文化協会、1983年、352頁。

[3]   中島正『都市を滅ぼせ 人類を救う最後の選択』舞字社、1994年、174頁。

 

 

 

第2節 大学という社会的存在形式

 

 

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2節 大学という社会的存在形式

 

  今回の物語の主人公、新田の政次君は、村で初めて東京の大学に行った。それまで、農村近郊の地方都市に存在する大学に進学する子弟は、少なからずいたのであろう。しかし、首都東京に進学した子弟は、政次君が初めてであったようである。[1]

 彼が、三菱物産という日本を代表する企業において就職内定を獲得した。三菱物産という会社名は、三菱商事と三井物産という代表的商社に由来している。創作の世界では一般に使用されている超一流企業名称である。生涯賃金、社会的知名度、福利厚生等の観点から、現代日本における最高の企業の代名詞として使用されている。この企業で労働をすることは、多くの大学生そして多くの日本人によって羨望の的になる。一般的大卒労働者の平均的生涯年収は、2ー3億円と言われている。さしあたり、2.5億円としてみよう。対照的に、三井物産の平均的生涯年収は、5億円である。ほぼ、平均的労働者の2倍の年収をこの企業の労働者は獲得する。平均以下の生涯年収しか獲得できない労働者の4-5倍の賃金を獲得できる。

 新田の政次君がこの企業に内定した。この事象は、彼の故郷の農村においてニュース的価値を持っていた。彼の就職内定に関する記事が、地方新聞の地域欄に掲載された。もちろん、就職協定に違反していた。有名無実化しているとはいえ、この協定は遵守されねばならない。したがって、この内定が取り消されるという、いしいひさいち流の落ちがついている。

  この4コマ漫画の落ちの部分を除いて、この物語は次の点を前提にしている。第一に、農民の子弟が東京の大学に進学することが、農民あるいは農村の共同意識において素晴らしいと認識されている。新田の政次君は、農村の共同意識において東京の大学に進学した段階においてすでに郷土の誉れであった。子弟が大学生として都市の住民になること、より厳格に言えば、都市の上層市民になることが、農民の意識において郷土の誉れとみなされている。これまでも、この農村から都市の下層市民になったことは、稀ではなかったであろう。農村の子弟が、1950~1960年代に金の卵として大都市とりわけ東京に流入した。中卒労働者として都市の下層市民になった。中卒労働者と大卒労働者は、日本社会において明白に区別されている。新田の政次君が中学を卒業して、東京の労働者となったとしても、その事実が新聞記事になることはない。

  第二に、新田の政次君は東京の大学に進学し、大学生として就職活動をした。三菱物産という日本を代表する企業に内定した。三菱物産の労働者は、ほぼ偏差値の高い大学卒業者から構成されている。この難関大学に入学することは、高校生を抱える両親の希望である。大企業に就職することは、後期近代において社会的に承認されている。大企業に就職することによって、後ろ指をさされることは、めったにないであろう。もっとも、全共闘世代あるいはこの世代と価値観を共有している人々にとって、大企業への就職は社畜への第一歩として馬鹿にされたであろうが、21世紀の学生にとってこのような企業への就職は、ほとんど痛痒を感じないであろう。

  彼が有名大学において優秀な成績を修めたことは、当然であろう。彼は大学生として刻苦勉励した。あるいは、彼は刻苦勉励するための能力を保持していたのであろう。東京の有名大学卒業生の大半は、三菱物産に就職できない。上位の成績優秀者のうちにいなければならない。多数の「優」を獲得することは、成績優秀者として当然であった。社会的エリートとして十分な基礎教養が、彼の4年間の学業生活において形成された。

  このいしいひさいちの4コマ漫画において描写されている事態は、現代日本人にとって願望である。子弟が東京の有名大学に進学し、有名企業に就職した。この事実において非難される要素はないかのようである。しかし、中島正はこのような大学生の意識ひいては大学の社会的役割を次のように、批判する。「大学は、汚染破壊集団の予備軍養成所である・・・・年々無慮20数万にも及ぶ大卒が、悉く農民の汗の上に居座って不耕貪食を企み、汚染農業を余儀なからしむるだけでなく、その過半数は工業化社会の活動の中心になり、・・・自然=環境に迫害を加え続ける」。[2]  大学生という社会的存在形式は、その価値が否定される。大学生そして都市住民は、農民と農村に対して害悪を加える存在でしかない。彼らが都市住民であるかぎり、彼らは農村から食料を供給してもらわねばならない。にもかかわらず、農民の子弟が社会的賞賛を受けるためには、農村ではなく、都市において居住しなければならない。「ただの百姓」であることは、社会的賞賛の対象外である。対照的に、中島正は、身を立て、名をあげることを拒否する。不耕貪食の都市住民という存在形式が、中島正によって根底的に批判される。

 

おわりに

 

  中島正の思想も、いしいひさいちの漫画も、独立して論じられるべき対象である。今まで、『田村伊知朗 政治学研究室』において、両者は断片的に論じられてきた。また、政治学概論と政治思想史講義草稿の補助教材として提示されてきた。今後、それらをより明確な形で提示したい。この作業は、後期近代という時代精神を対自化するために不可欠の前提になろう。

 

 

 

[1] いしいひさいち『ノンキャリウーマン』第2巻、双葉社、1999年、110頁。

[2]   中島正『みの虫革命――独立農民の書』十月社出版局、1986年、152-153頁。

 

  本記事は、『公共空間 X』に転載されている。(In: http://pubspace-x.net/pubspace/archives/6613. [Datum; 27.05.2019]) なお、転載以後、加筆修正している部分もある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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