田村伊知朗への連絡方法ーーコメント欄へ
田村伊知朗への連絡方法
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中島正(1920-2017年)の人間論と食養生論への前梯――
専門知と素人知――減塩思想と大量の野菜摂取そして少量の肉の摂取
(下線部分は、中島正論に援用する。)
はじめに
本稿は、後期近代における専門知と素人知の関係を、食養生の観点から考察してみよう。健康志向が、後期近代の都市住民の関心事になっている。しかし、関心があればあるほど、素人知は結果的に逆の方向、つまり不健康をもたらす場合がある。この逆説が生まれる根拠を考察してみよう。また、本稿は2021年夏に執筆予定の「中島正の人間論と食養生論」の前梯になろう。
第1節 減塩思想
現在、食養生に関して関心を持っている市民は数多い。彼らに共通している最大公約数の一つが減塩思想である。ナトリウムの多い食事を続けていると、ナトリウムの排出が十分ではなくなり、血液内のナトリウム量が増えて血圧が上昇する。また、ナトリウムがコレステロールを高め、血栓の危険性を導くことは、専門知にとって自明の事柄に属している。本稿もこの因果関係を正しいと仮定しているし、この専門知を否定しようとするではない。
多くの市民はこの専門知に忠実である。スーパーマーケットに行けば、減塩味噌、減塩醤油、減塩梅干し、果ては減塩塩麴まである。否、それどころではない。減塩塩という塩という概念を否定している製品すら販売されている。[1] 塩化ナトリウムと同様な味覚を生む塩化カリウムが、工業的に添付されている。減塩という思想に殉じることによって、化学的に製造された保存料、工業的に精製された化学調味料を大量に摂取している。「日本でその塩分を否定したら、別の手段で食品を長持ちさせねばなりません。そのため、添加物や防腐剤を使った食品が増えました」。[2] 対照的に、塩分の大量摂取を主張すれば、狂気の沙汰のようにみなされるであろう。[3]
また、多くの健康志向の市民は、野菜を摂取しようとしている。とりわけ、ダイエット(Diätetik)、減量指向がある女性にとって、野菜の摂取は必須である。素人知にとってダイエット(Diätetik)は、体重の減少をだけを意味しているが、本来的には食養生法あるいは食事療法を意味している。その射程はさらに広大である。「ダイエットは、・・・集合概念であり、この概念は、元来、肉体的だけではなく、精神的な健康維持あるいは治療に寄与する整除された生活様式の意味における措置すべてを包摂している」。[4] ダイエットは、肉体的な健康維持だけではなく、精神的な健康維持をも包摂している。にもかかわらず、市民は、ダイエット概念に含まれている減量思想だけを抽出し、この思想を信奉している。
このような単純化にもかかわらず、穀菜食を摂取することは、間違っていないであろう。植物は光合成能力を有しており、そこには光量子が含まれているからだ「生ある植物摂取は、高度に秩序づけられたエネルギーの高度なポテンシャルを含んでいる。このエネルギーは、光量子の保存によって光合成能力を有する植物の生ある細胞において現存しているはずだ」。[5] 植物を摂取することは、人間にとって必須のことのように思われる。
もちろん、イヌイット民族あるいはマサイ族のような例外はあるが、多くの食養生において植物を摂取することは、ほぼ推奨されている。とりわけ、数千年の歴史を持っている自然人の歯型に基づき、この論拠は主張されている。「32本の歯の中で肉食用は4本の犬歯である。・・・その量は、せいぜい4/32ぐらいにとどめておくべきである」。[6] 人間が類人猿から進化する過程で、1割程度の肉食をしながらも、穀菜食を中心にした植物の摂取を否定することはできないであろう。
また、食養生論において、民族の特性を看過することもできないであろう。日本列島に居住していた民族は、欧州等に居住してきた民族と異なる遺伝子構造を持っている。肉食ではなく、穀菜食を中心にするような肉体的構造を持っている。「二千年、三千年のスパンで繊維質中心の食生活をしてきた日本人は、遺伝子的にも急激な肉食を受け入れる環境が整っていない」。[7] ドイツ民族と比較して、日本民族はより多くの量と種類の植物を摂取してきた。
このように減塩思想と穀菜食摂取の思想は、専門知としてはほぼ承認されている。しかし、両者が素人知において結合したときに、人間の身体が侵害されることになる。この二つの思想は、それぞれ別の領域における専門知として形成された。専門家は他の分野の専門知を顧慮しないし、できない。ある分野の専門家は他の分野において素人としてふるまわざるをえない。
この二つの思想が素人知において結合したとき、矛盾が生じる。「野菜を多くとる日本人は、野菜に含まれるカリウムがナトリウムを体外に排出することになり、塩を十分に補給する必要があるわけである」。[8] 植物を大量に摂取することによって、体内細胞に過剰に含まれているカリウムが、水分と共にナトリウムを必要以上に体外に排出する。二つの専門知が結合した場合、それぞれの専門知の目的、つまり健康の維持が破壊される。
さらに、栄養学という専門知は、身体全体にとってどのような栄養素をとるべきかを顧慮しない。口腔から摂取された食物が、体細胞にとってどのように機能するかという身体全体に関する全体知への指向は、ほぼ看過されている。体細胞を構成するタンパク質が必要だから、動物性タンパク質の摂取が推奨されている。生理学という全体知が看過されると、次のような倒錯した思想に近接する。「サカナよりは肉、肉の中でもトリや牛よりサル、できれば、ヒトの肉が一番よい・・・・というように、われわれの体の蛋白質により近い動物の肉をとれ、という結論になっている」。[9] 栄養学がより専門的になり、食品分析学に近接している。より高度に細分化されるほど、専門知は単純化された素人知として機能する。素人知にも理解可能な食品分析学に基づき、健康を破壊するような食物の摂取が奨励されている。
もちろん、微量ではあれ、穀菜自体にもナトリウム等のミネラル成分が含まれている。[10] しかし、後期近代において穀菜の生産が化学肥料に依存する程度が上昇したことによって、野菜のミネラル成分は減少しているはずである。[11] 「昭和三十年代になると硫安や燐酸カリウムといった化学肥料が堆肥にとって代わったために、大切なミネラル類が農作物の中から減少してしまったのである」。[12] 伝統的な発酵堆肥の使用量が減少したことによって、土壌微生物が減少した。そして、穀菜食に含まれるナトリウム等の微量元素が減少した。
また、穀菜の内に含まれていたナトリウムは、加熱することによって減少している。[13] 「食品に調理、とくに加熱という操作を加えることによって、そこに含まれている塩分の多くを消失している」。[14] 血液内のナトリウム濃度が低下することによって、浮腫、いわゆるむくみの原因になる。細胞内そして血液内におけるナトリウム濃度が低下し、ふらつき、頻脈、皮膚や口の中の乾燥等をもたらす。
逆に、原爆症等の治療において、ナトリウムの摂取が有効であることは知られている。「重い原爆症が出現しなかったのは、実にこの秋月式の栄養論、食塩ミネラル治療法のおかげであった」。[15] 長崎浦上第一病院長であった秋月辰一郎は、アメリカ合衆国による長崎原爆投下による被爆者でもあった。この病院は爆心地に近く、彼は被爆者の治療にあたっていた。多かれ少なかれ、彼も原爆症の症状を自覚していた。しかし、秋月辰一郎は原爆症の症状によって死ぬことはなく、天寿(89歳)を全うした。世界的基準以上の塩分摂取の効用も経験的には否定することはできないであろう。
本節の議論をまとめておこう。穀菜を大量に摂取し、減塩思想にとらわれた市民は、いくつかの専門知を組み合わせることによって健康を破壊する結果になる。専門知を持たない市民は、大衆としてマス・メディアにおいて流布している専門知を組み合わせて(=減塩思想と穀菜食の結合)、ある思想の一部分を極大化して(=減量へのダイエットの還元)享受しているにすぎない。人間の健康に関する知識総体、人間の生理学総体に関する知は、大衆的存在である市民だけではなく、それぞれの限定された領域の専門家にとっても疎遠である。「知識社会は、むしろ専門家つまり専門馬鹿の社会、あるいは普遍的に無知の素人社会であろう。概観すること、つまり連関総体の考察、概念化能力を、厳密な意味で誰もが持っていない」。[16] 断片化されたいくつかの専門知が結合することによって、それぞれの専門知が本来持っていた目的、ここではより健康な身体を形成するという目的から逸脱している。
第2節 肉食
人間的自然の観点から人間の食性を考察してみよう。前節において、歯型から人間的自然における肉食の意味を考察した。その場合、犬歯を肉食用に創造された自然的自然としてみなされていた。しかし、中島正はそれすら、否定している。「人間の食性は何か。その身体の構造とその嗜好とから推して、先ず木に登り、木の実をもぎ取り、前歯で皮をむき、あるいは固い栃や栗は犬歯で割り(人間の犬歯の名残りを肉食獣であった証拠という学説はナンセンスである)、奥歯で咀嚼する。・・・草の実を・・・奥歯で噛みだき、イモを・・・奥歯で噛む」。[17] 犬歯は、肉を食べるためではなく、硬い木の種子を破砕するための用途を持っていた。縄文人あるいはそれ以前の類人猿は穀菜食性を持っており、道具を使用せずとも、人間の手足によって捕捉できる食糧を摂取してきた。
・・・・・・・・・・・
人間的自然に基づく食養生論ではなく、別の観点、たとえば動物倫理学の立場から肉食を考察してみよう。
動物倫理学の最大公約数によれば、肉食自体が倫理的悪とみなされている。「動物倫理学では畜産をはじめとして商業的な動物利用それ自体が間違っており、最終的な廃絶を目指してできる限り縮減されてゆくべきだと考える」。[18]
・・・・・・・
動物の虐待を防ぐ
「食肉の生産は、最善である廃絶が不可能ならば、少なくとも虐待が不可能になるまでに規模が縮小されてゆくのが望ましいといういうことになる」。[19] 中島正家族養鶏論の基礎づけへ
第3節 発酵食品
日本人の食生活から塩分の効用を主張することも可能であろう。「発酵食品なくして日本の『食生活』は語れません。そこに“触媒”として使われているのは、塩です。だから、日本の保存食に塩分が多いのは当然なのです」。[20] 大量に塩分を含む発酵食品を摂取することは、発酵菌を摂取することと同義であろう。
[1] 「塩分半分のおいしい減塩」『味の素』。In: https://www.ajinomoto.co.jp/yasashio/. [Datum: 07.04.2021]
[2] 幕内秀夫『40歳からの元気食「何を食べないか」――10分間体内革命』講談社、2002年、78頁。
[3] 減塩思想に反対する専門家も少数ながら存在している。白澤卓二『すごい塩 長生きできて、料理もおいしい!』あさ出版、2016年、参照。
[4] Diätetik. In: Wikipedia. In: https://de.wikipedia.org/wiki/Di%C3%A4tetik. [Datum: 07.07.2020]
[5] Max Bircher-Benner. In: Wikipedia. In: https://en.wikipedia.org/wiki/Maximilian_Bircher-Benner, [Datum: 07.07.2020]
[6] 森下敬一『自然食で健康に強くなる本』海南書房、1975年、46頁。
[7] 小泉武夫『食の堕落と日本人』東洋経済新報社、2001年、22頁。
[8] 森下敬一『自然医食療法――ガン・成人病・慢性病・婦人病克服のポイント』文理書院、1994年、98頁。
[9] 森下敬一『自然食で健康に強くなる本』海南書房、1975年、63頁。
「近代栄養学はその動物に一番近い食物をたべるのがベストだといいますが、一番近いといえば牛は牛を食い、人間は人間を食うのが最高だといういうことです」。(山下惣一、中島正『市民皆農~食と農のこれまで・これから』創森社、2012年、197頁)
[10] 「大地は地上のすべての有機物(動物の排せつ物や植物の落葉など)を、土壌の微生物の助けを借りて、土壌中の微生物の助けをかりてこれを腐植土に化す作用を、十憶年以上も休みなく続けてきたのである」。(中島正『増補版 自然卵養鶏法』農山漁村文化協会、2001年、41頁)
「化学肥料や農薬はいかなる事情があろうと利用しない。これは人間にとって毒物にほかならない」(中島正『農家が教える 自給農業のはじめ方 自然卵・イネ・ムギ・野菜・果樹・農産加工』農山漁村文化協会、2007年、108頁。)
[11] 「元来は塩などはことさら摂らなくても健康に障害はない。自然の食物に含まれているもので十分である。」(中島正『みの虫革命―独立農民の書』十月社出版局、1986年、217頁。)
[12] 小泉武夫『食の堕落と日本人』東洋経済新報社、2001年、23頁。
[13] 「『原形のままの食糧の生食』は・・・・人々の健康を回復させるという効用があり、次いで食糧の大幅節約が可能であるという効用がある」(中島正『都市を滅ぼせ 人類を救う最後の選択』舞字社、1994年、112頁)。
[14] 森下敬一『自然食で健康に強くなる本』海南書房、1975年、106頁。
[15] 秋月辰一郎『長崎原爆記 被爆医師の証言』日本ブックエース、2010年、122頁。
[16] Goldschmidt, Werner: „Expertokratie“ - Zur Theoriegeschichte und Praxis einer Herrschaftsform. In: Hrsg. v. Heister, Hanns-Werner u. Lambrecht, Lars: „Der Mensch, das ist die Welt des Menschen...“ Eine Diskussion über menschliche Natur. Berlin: Frank & Timme 2013, S. 187.
[17] 中島正『みの虫革命―独立農民の書』十月社出版局、1986年、205頁。
[18] 田上孝一『はじめての動物倫理学』集英社、2021年、107頁。
[19] 田上孝一『はじめての動物倫理学』集英社、2021年、121頁。
[20] 幕内秀夫『実践・50歳からの少食長寿法――粗食革命のすすめ』講談社、2004年、121頁。
【以下は、中島正の著作目録です。遺漏、誤記等を含んでいると、想定してます。もし、遺漏、誤記等があった場合、コメント欄にお願いします。但し、コメントはすぐには返答できません。かなりの時間をいただければ、幸いです】。
■■■■■■ 中島正 著作目録 ■■■■■■
(下線は、著書を表している)。
■■■1964年■■■
Ⅰ.『養鶏世界』養鶏世界社
■■■1965年■■■
Ⅰ.『養鶏世界』養鶏世界社
■■■1966年■■■
Ⅰ.『養鶏世界』養鶏世界社
■■■1967年■■■
Ⅰ.『養鶏世界』養鶏世界社
■■■1968年■■■
Ⅰ.『養鶏世界』養鶏世界社
■■■1969年■■■
Ⅰ.『養鶏世界』養鶏世界社
■■■1970年■■■
Ⅰ.『養鶏世界』養鶏世界社
■■■1971年■■■
Ⅰ.『養鶏世界』養鶏世界社
■■■1972年■■■
Ⅰ.『養鶏世界』養鶏世界社
■■■1973年■■■
Ⅰ.『養鶏世界』養鶏世界社
■■■1974年■■■
Ⅰ.『養鶏世界』養鶏世界社
■■■1975年■■■
Ⅰ.『養鶏世界』養鶏世界社
■■■1976年■■■
Ⅰ.『養鶏世界』養鶏世界社
■■■1977年■■■
Ⅰ.『養鶏世界』養鶏世界社
■■■1978年■■■
Ⅰ.『養鶏世界』養鶏世界社
Ⅱ.農山漁村文化協会編『現代農業』
■■■1979年■■■
Ⅰ.『養鶏世界』養鶏世界社
Ⅱ.『現代農業』農山漁村文化協会
■■■1980年■■■
Ⅰ.『自然卵養鶏法』農山漁村文化協会。
Ⅱ.『養鶏世界』養鶏世界社
Ⅲ.農山漁村文化協会編『現代農業』
Ⅳ.『農業技術大系 畜産編』第5巻、農山漁村文化協会
■■■1981年■■■
Ⅰ.『養鶏世界』養鶏世界社
Ⅱ.『現代農業』農山漁村文化協会
■■■1982年■■■
Ⅰ.『養鶏世界』養鶏世界社
Ⅱ.農山漁村文化協会編『現代農業』
■■■1983年■■■
Ⅰ.農山漁村文化協会編『現代農業』
Ⅱ.全国自然養鶏会編『鶏声』
■■■1984年■■■
Ⅰ.全国自然養鶏会編『鶏声』
Ⅱ.公害問題研究会編『環境破壊』
■■■1985年■■■
Ⅰ.全国自然養鶏会編『鶏声』
Ⅱ.公害問題研究会編『環境破壊』
■■■1986年■■■
Ⅰ.『みの虫革命―独立農民の書』十月社出版局。
Ⅱ.農山漁村文化協会編『現代農業』
Ⅲ.全国自然養鶏会編『鶏声』
■■■1987年■■■
Ⅰ. 農山漁村文化協会編『現代農業』
Ⅱ.全国自然養鶏会編『鶏声』
■■■1988年■■■
Ⅰ. 全国自然養鶏会編『鶏声』
■■■1989年■■■
Ⅰ. 全国自然養鶏会編『鶏声』
■■■1991年■■■
Ⅰ. 全国自然養鶏会編『鶏声』
Ⅱ.日本協同体協会 緑健文化研究所(草刈善造)編『緑健文化』
Ⅲ.日本有機農業研究会編『土と健康』
■■■1992年■■■
Ⅰ. 『都市を滅ぼせ』日本協同体協会(私家版)。(典拠:1994年Ⅱ.2. 4頁)
Ⅱ.全国自然養鶏会編『鶏声』
Ⅲ.日本協同体協会 緑健文化研究所(草刈善造)編『緑健文化』
Ⅳ.地球百姓ネットワーク編『百姓天国 元気な百姓達の手づくり本』
■■■1993年■■■
Ⅰ. 全国自然養鶏会編『鶏声』
Ⅱ.日本協同体協会 緑健文化研究所(草刈善造)編『緑健文化』
Ⅲ.地球百姓ネットワーク編『百姓天国 元気な百姓達の手づくり本』
■■■1994年■■■
Ⅰ.『都市を滅ぼせ 人類を救う最後の選択』舞字社。(1992年Ⅰ.の増補改訂版)
Ⅱ.日本協同体協会 緑健文化研究所(草刈善造)編『緑健文化』
■■■1996年■■■
Ⅰ. Nakashima, Tadashi: Down with the Cities. In: Project Gutenberg. In: https://www.gutenberg.org/ebooks/578. [Datum: 05.07.2020]. (1992年Ⅰ.の英訳版)
■■■1998年■■■
Ⅰ. 全国自然養鶏会編『鶏声』
■■■2000年■■■
Ⅰ.農山漁村文化協会編『現代農業』
Ⅱ.日本協同体協会 緑健文化研究所(草刈善造)編『緑健文化』
■■■2001年■■■
Ⅰ.『増補版 自然卵養鶏法』農山漁村文化協会。(1980年Ⅰ.の増補改訂版)
Ⅱ. 日本協同体協会 緑健文化研究所(草刈善造)編『緑健文化』
■■■2002年■■■
Ⅰ. 全国自然養鶏会編『鶏声』
■■■2003年■■■
Ⅰ. 全国自然養鶏会編『鶏声』
■■■2004年■■■
Ⅰ. 全国自然養鶏会編『鶏声』
Ⅱ.天野慶之、高松修、多辺田政弘編『有機農業の事典』三省堂
■■■2005年■■■
Ⅰ.阿寒学園村(いざや農工園) 緑健文化研究所(草刈善造)編『緑健文化』
■■■2006年■■■
Ⅰ.阿寒学園村(いざや農工園) 緑健文化研究所(草刈善造)編『緑健文化』
■■■2007年■■■
Ⅰ.『農家が教える 自給農業のはじめ方 自然卵・イネ・ムギ・野菜・果樹・農産加工』農山漁村文化協会。
Ⅱ.『今様、徒然草』新風舎。
Ⅲ. 全国自然養鶏会編『鶏声』
Ⅳ.阿寒学園村(いざや農工園) 緑健文化研究所(草刈善造)編『緑健文化』
■■■2008年■■■
Ⅰ.阿寒学園村(いざや農工園) 緑健文化研究所(草刈善造)編『緑健文化』
■■■2009年■■■
Ⅰ.『自給養鶏Q&A エサ、育すう、飼育環境、病気、経営』農山漁村文化協会。
Ⅱ.『今様、徒然草』文芸社。(2007年Ⅱ.の増補改訂版)
■■■2012年■■■
Ⅰ.Nakashima, Tadashi: Down with the Cities. Hamburg: tredition. (1992年Ⅰ.の英訳版)
Ⅱ.(共著)山下惣一『市民皆農~食と農のこれまで・これから』創森社。
■■■2014年■■■
Ⅰ.『都市を滅ぼせ 目から鱗の未来文明論』双葉社。(1994年Ⅰ.の増補改訂版)
■■■2016年■■■
Ⅰ. 全国自然養鶏会編『鶏声』
■■■2017年■■■
Ⅰ.『マーマーマガジン フォーメン』エムエムブックス
■■■2018年■■■
Ⅰ.倉本聡、林原博光『愚者が訊く、その2』双葉社
【付記】
本稿は、田村伊知朗「中島正の思想研究序説――その著作目録と都市論に対する序文」『北海道教育大学紀要(人文科学・社会科学編)』第71巻第1号、2020年、1-16頁として公表されている。また、
として、分割されてインターネット上において公開されている。本稿を『田村伊知朗 政治学研究室』へと転載する際、本稿公表以後に増補・改定された部分は、斜字体として記述されている。
中島正の思想研究序説――その著作目録と都市論に対する序文
田村伊知朗
第1節 都市という概念の歴史
社会的な主要産業が農業であるかぎり、都市の発展は限定的である。もちろん、前近代においても商業は必然であり、統治機構は都市を必要としていた。しかし、大多数の農奴が農村に居住することは、社会的に必然的前提であった。前近代社会は、農業なくして存立しえなかった。都市住民が農村居住者よりも多くなることは、前近代社会を否定することと同義であった。
他方で、都市という概念は、学問一般において不可避的なものして前提にされてきた。古代ギリシャの時代から、文明は都市と共に進展してきた。ポリスという都市がなければ、ソクラテス、プラトンそしてアリストテレスの政治哲学も存在しえなかったであろう。神の支配が都市において表現されていた。「都市は、究極的に完全な神の支配のシンボルである。神がある日、その民族を招集する場所、それが都市である」。[1] 都市空間がなければ、西欧における神の支配という概念も成立しなかったであろう。
古代社会そして中世社会と同様に、近代市民社会という文明も、人間が密集した空間として都市において成立した。近代という時代精神と近代に関する表象も、都市において生じた。農村だけでは、文明も近代市民社会も成立しえない。現代都市もその歴史的傾向を継承している。「都市は、文化的中心、歴史的舞台そして人工技術的な遂行物である。この都市は、人間を飲み込むモンスターの悪魔という大都市―映画形象によって重層化されている」。[2] この傾向は、後期近代において極限まで昂進している。タワー型の巨大建造物が、都市において君臨している。
大都市のこの巨大化傾向にもかからず、農村と都市の対立は現在でも残存している。「市民社会は私的身分として存立している。身分的区別は市民社会において、もはや自立的諸団体としての欲求と労働の区別ではない。唯一普遍的であり、表面的かつ形式的区別は、市民社会における都市と農村のわずかな区別だけである」。[3] 市民社会の社会的区別は、金銭と教養の差異に基づく社会的区別にすぎず、私的区別へと解消された。都市と農村の区別が、唯一の例外として市民社会において存在している。しかし、その差異はわずかでしかない。人口密度という自然的区別を除けば、後期近代において農村と都市の差異は、減少傾向にある。
自然的区別以外の区別、たとえば農村独自の文化あるいは生活様式の区別は、ほとんど消滅している。「広大な農民文化とその伝統的生活様式が、1950~1960年代のドイツにおいてかなり解体した。農業は技術化され、産業化され、そして資本主義化した。ラジオとテレビという近代的コミュニケイション手段が、都市の生活スタイルを指導文化へとプロパガンダした」。[4] 都市文化は、後期近代において農村独自の文化をほとんど解体した。とりわけ、百姓という概念に残存していた自給自足的な生活様式は、都市化の過程においてほぼ消滅した。端的に言えば、農村は近代化されることによって都市化された。
第2節 中島正の都市論
本節では、中島正(1920-2017年)という哲学者の思想によって、この事態を基礎づけてみよう。近代の現実態と異なり、すべての都市を農村化することによって、中島はこの区別を解消しようとする。「都市は(都市機構は)断固として滅ぼさねばならない」。[5] 近代精神が農村を解体し、地上のすべての領域を都市化しようとしたことと対照的に、中島正は都市を解体し、すべての領域を農村化しようとする。後期近代ひいては近代の主要潮流と対照的な方法によって、彼の思想は農村と都市という空間を基礎づけようとする。「近代化ということは都市化ということを意味するのである」。[6] 中島正によれば、初期近代と後期近代を通底する近代化は、都市の拡大として把握される。近代それ自体そして都市それ自体を無化しようとする。近代思想が暗黙の前提にしている都市空間の限界性が、彼の批判という手続きを通じて逆照射される。
もちろん、彼の思想は、近代そして後期近代において現実化されえないであろう。しかし、彼の思想は近代思想の根底的基盤を明示している。どのような形式であれ、近代思想は都市という概念を暗黙の前提にしている。近代を根底的に揚棄しようとしている共産主義思想すら、都市という空間を前提にしている。彼の主著『都市を滅ぼせ』は英訳され、プロジェクト・グーテンベルクに採用されている。[7] 彼の思想が世界的に認知された客観的証明の一つでもあろう。
彼の思想によれば、都市は空間的観点からだけではなく、産業的観点からも考察される。「都市のひろがりとは、いわゆる『都会』のひろがりだけをいうのではない。それは、・・・地域において田舎と区別されるだけではなく、産業別(階級別)の色分けにおいても田舎と峻別されねばならない」。[8] 都市は、第二次産業と第三次産業に供される空間と、この産業に従事する人間の居住空間である。
都市と農村の関係を解明するために、自然卵養鶏に触れてみよう。自然卵養鶏は今世紀においてかなり一般化しているが、中島正は1950~1960年代においてその提唱者そして先駆者の一人であった。都市の解体が即自的には不可能であるがゆえに、農村と都市の関係を意図的に再構築しようとした。自家用に生産された農産物を都市住民に供給することによって、都市との関係を構築した。都市は、農民に対して関係を強制する。租税負担、教育負担等の名目で貨幣を都市に供与することを強制している。したがって、農民も都市との関係を整序するために、貨幣を最低限、準備しなければならない。
自然卵を通じた農村と都市の関係は、通常の農村と都市の関係と表層的には近似している。農民が農産物を都市住民に提供する、という観点からすれば、両者における差異はないであろう。しかし、その目的は根本から異なっている。彼は自分とその家族の食料生産を目的にし、都市との最小限度の関係を自然卵売却によって維持しようとした。自家消費後の余剰農産物を都市に供給する。生産様式、生産物の質量は、農民自身によって決定される。「消費者不在の自然循環型農業に活路を求める」。[9] この過程において生じる余剰生産物があれば、それを都市に供給し、それがなければ供給しない。食料生産の主目的は、農民とその家族の生命を再生産することにある。都市との関係は、農民にとって余剰でしかない。
中島正は、都市から自立した農村を構想する。究極的に言えば、農業は他の産業無しに自立可能である。都市は貨幣経済を前提にしている。自然的人間の再生産のために不可避な食料を、都市は貨幣を通じて農村に依存している。「貨幣がなければ、都市は滅ぶ――逆に言えば貨幣が農村から富を収奪して、都市を繁栄させているのである」。[10] 中島正は貨幣なき社会を構想している。「独立農業は貨幣からの独立であることを意味し、貨幣からの独立とはそのまま都市からの独立であることを意味する」。[11] 都市なき農村が、彼の思想の根底にある。都市は第二次産業と第三次産業から構成されている。都市には存在しない第一次産業を収奪するための機構である。[12] 都市との関係を断絶しても、農村は生き延びることができる。逆に、農村との関係を断絶すれば、都市は滅亡する。
中島正の思想の根底には、蓑虫革命と命名された原理がある。「蓑虫革命とは――『自分の食い扶持は自分でさがすか、つくる』という人間本来の生存の原則にしたがって、大自然の掟に順応した自然循環型農業を営み・・・自給自足自立の生活に入ることをいうのである」。[13] 中島正は、究極的には民族皆農を主張する。「都市機構を潰し、都市活動をやめて、太古に存在した農耕社会に還る」。[14] 都市ではなく、農村に万人が居住する社会を理想とする。都市ではなく、農村において万人が、自分の食料を自分で探すか、生産する。
第3節 都市と不耕貪食の民の拡大
しかし、多くの都市住民はこの原理と無縁である。不耕貪食の集団として農村から食物を、貨幣を媒介にして獲得する。それだけではなく、都市に居住する自然食品愛好家でさえ、農民に様々な指令を下す。農民は、彼らとどのような関係を結ぶべきであろうか。「いわく、話し合い、いわく、勉強会、いわく、農場見学、いわく、援農、いわく、資金援助――消費者グループによるこれらの農業介入は、・・・農民監視戦略なのである」。[15] 農民は蓑虫を目指しながらも、自然卵を媒介にして、都市の不耕貪食の集団と関係を持たざるをえない。自然卵を希求するこのような消費者集団は、都市住民のなかでかなり良質な階層を形成している。しかし、このような集団もまた、農民の収奪を目的とする集団と大差はなく、所詮、都市の不耕貪食の集団に属している。
都市化の拡大は、不耕貪食の民の拡大を意味している。都市住民は、自分の食料を自分で生産しない。中世社会において、農産物は都市へと収奪されたと言っても過言ではないであろう。武装集団である武士階級が統治に当たっており、農民が農産物を都市に送らないことは、農民の死を意味していた。農村から都市への食料の移動は、近代において金銭を媒介にしている。農産物は、合法的に農村から都市への移送されている。
中島正は、この事態を『都市を滅ぼせ』において批判的に考察している。安藤昌益の思想を媒介にして、不耕貪食の民を滅ぼし、民族皆農を主張する。都市を廃棄して、すべての人間が自らの食料を生産することを主張する。中島正の思想は、江戸時代の思想家、安藤昌益、あるいは戦後その思想が周知された石原莞爾等によって唱導された万人直耕と大同小異という評価もありうる。しかし、彼の思想総体は、ありうべかりし農村論だけではなく、近代都市論でもある。先行する諸思想家と中島の差異は、彼の思想によって近代という時代精神の一側面が解明されることにある。現代農業の批判を通じて、近代という時代精神が依拠している無意識の前提を照射している。現在までの近代革命思想は、都市の存在を前提にしている。
彼の人間論は、自然的人間に還元される。人間的活動は、自然的人間の再生産に限定される。「人間は空気と水と日光と大地と緑(食餌)とさえあれば、その生存に支障はない」。[16] それ以外の活動は、人間にとって余剰にしかすぎない。自然だけに依拠している人間が真に自立した人間であれば、百姓こそがその理想の存在形式になる。「百姓とは百の仕事をする意であり、衣食住のすべてにわたってセルフサービス=自前の労力で賄うことが可能であった」。[17] 百姓は人間の食料を自前で生産し、森林において採集する。衣食住すべてを他者に依存せず、生産した。それ以外の人間的活動は、余計なことになる。たとえば、子弟が東京の有名大学に進学し、有名企業に就職するという事実すら、中島正にとって余計である。否、反社会的である。
中島正は、現代社会における大学の社会的役割を次のように、批判する。「大学は、汚染破壊集団の予備軍養成所である・・・・年々無慮20数万にも及ぶ大卒が、悉く農民の汗の上に居座って不耕貪食を企み、汚染農業を余儀なからしむるだけでなく、その過半数は工業化社会の活動の中心になり、・・・自然=環境に迫害を加え続ける」。[18] 大学生という社会的存在形式は、その価値が否定される。大学生そして都市住民は、農民と農村に対して害悪を加える存在でしかない。彼らが都市住民であるかぎり、彼らは農村から食料を供給してもらわねばならない。にもかかわらず、農民の子弟が社会的賞賛を受けるためには、農村ではなく、都市において居住しなければならない。ただの百姓であることは、社会的賞賛の対象外である。むしろ、農業に従事することは、社会的劣後者とみなされている。「今は農業はすっかり見捨てられバカにされながら、大量に搾取されている」。[19] 都市住民の意識からすれば、農村に居住することは、馬鹿げたことである。
対照的に、中島正は、身を立て、名をあげることを拒否する。不耕貪食の都市住民という存在形式が、中島正によって根底的に批判される。この根拠は、現代社会における環境破壊の進展にある。「数ある危機の中でも、これは(温暖化にともなう氷解は)最大の喫緊事である」。[20] その都市の環境破壊の一因として、動力化された個人交通も問題になる。「あなた方がマイカーで、渋滞や交通事故に悩まされながら、温泉だ、祭りだ、イベントだと右往左往する度毎に、温暖化は加速され、海水面はじわじわと上昇し続けていくのである」。[21] 動力化された個人交通が、個人的自由を拡大させ、都市住民の快楽を促進すると同時に、自然環境に対する負荷を増大させ、環境破壊を拡大させる。
第4節 著作目録解題
中島正の著作目録は公表年別に整序されている。未見のものは記載されていないが、『緑健文化』(2005年Ⅰ.)のいくつかの論説のように、掲載雑誌が特定され、その論説の存在がほぼ確実に推定される場合には、「@@頁」として記載されている。
本著作目録は、完全性を断念した中間報告でしかない。著作目録の作成という作業の終焉を展望することは、有限な人間にとって困難である。本稿は、その基礎資料を提供することを目的にしている。彼の思想総体に関する学問的研究、とりわけ都市論、農村論、近代化論等は、彼の死後、その端緒についたばかりである。著作目録が整備されて初めて、中島正の思想を解読するための契機が構築されよう。
田村伊知朗「中島正の思想研究序説――その著作目録と都市論に対する序文」『北海道教育大学紀要(人文科学・社会科学編)』第71巻第1号、2020年、1-16頁。
[1] Wulsdorf, Helge: Stadt ohne Grenzen-Utopie der Moderne. In: Hrsg. v. Droesser, Gerhard u. Schirm, Stephan: Kreuzungen. Ethische Probleme der modernen Stadt. Berlin u. New York: Peter Lang 2005, S. 47.
[2] Keul, G. Alexander: Wohlbefinden in der Stadt-Abriß eines Forschungsfeldes. In: Hrsg. v. ders.: Wohlbefinden in der Stadt. Umwelt- und gesundheitspsychologische Perspektiven. Weinheim: Beltz, Psychologie-Verlags-Union 1995, S. 2.
[3] Marx, Karl: Zur Kritik der Hegelschen Rechtsphilosophie. In: MEW, Bd. 1. Berlin: Dietz Verlag 1981, S. 284.
[4] Droesser, Gerhard: Ortangaben. In: Hrsg. v. Droesser, Gerhard u. Schirm, Stephan: Kreuzungen, a. a. O., S. 183.
[5] 中島正『都市を滅ぼせ 人類を救う最後の選択』舞字社、1994年、86頁。
[6] 中島正「都市を滅ぼせ(第一回) 第一章 都市のひろがり、第二章 都市の悪」公害問題研究会編『環境破壊』第155号、公害問題研究会、1984年、7頁。
[7] Vgl. Project Gutenberg. In: https://www.gutenberg.org/browse/titles/d. [Datum: 12.10.2019]
[8] 中島正「都市を滅ぼせ(第一回) 第一章 都市のひろがり、第二章 都市の悪」前掲書、6頁。
[9] 中島正「私の百姓自立宣言(最終回) 農民の生き甲斐ここにあり」『現代農業』第62巻第12号、農山漁村文化協会、1983年、347頁。
[10] 中島正『みの虫革命―独立農民の書』十月社出版局、1986年、41頁。
[11] 中島正『都市を滅ぼせ 人類を救う最後の選択』前掲書、159頁。
[12] 中島正「私の百姓自立宣言① カネのしがらみを解き放て!――小農にこそ大義あり」『現代農業』第62巻第1号、農山漁村文化協会、1983年、164頁参照。
[13] 中島正「私の百姓自立宣言⑦ 『自然世』を近づける蓑虫革命とは」『現代農業』第62巻第7号、農山漁村文化協会、1983年、352頁。
[14] 中島正『都市を滅ぼせ 人類を救う最後の選択』前掲書、174頁。
[15] 中島正「私の百姓自立宣言(最終回) 農民の生き甲斐ここにあり」前掲書、347頁。
[16] 中島正『今様、徒然草』文芸社、2009年、79頁。
[17] 中島正「都市を滅ぼせ(第四回) 第三章 都市と田舎」公害問題研究会編『環境破壊』第158号、公害問題研究会、1984年、44頁。
[18] 中島正『みの虫革命――独立農民の書』前掲書、152-153頁。
[19] 同上書、129頁。
[20] 中島正『今様、徒然草』前掲書、13頁。
[21] 同上書、17頁。
六匹の飼い犬の死亡と、都市生活者の貧困
実家で犬を飼っていた。私が早稲田大学進学のために上京した年から、捨て犬を拾ってきた。ほぼ40年の歴史がある。初代の犬は、ほぼ人間と同じような生活をしていた。土間ではなく、両親の寝室の傍に布団を敷いて寝ていた。両親もまだ、50歳にもなっていなかった。私の名前、伊知朗(イチロ)と発音が同じようなチロと名付けられた。晩飯のときも、父親のそばにいて、彼の嫌いな肉等のおこぼれをいただいていた。食後のデザート、特に甘い煎餅は彼女の大好物であった。彼女は、私が上京していなくなった家族空間において位置していた。彼女は、自分を人間の一員と思っていたようである。雄犬が来ても、ほとんど無視していた。喧嘩は弱かったが、可愛いかった。優雅な毛を誇り、華奢(かしゃ)という今では聞きなれない言葉が当てはまっていた。
彼女の墓は私が作った。親戚の葬儀に帰郷したことはなかったが、この犬の葬儀のためだけに東京から帰ってきた。親族の持山に墓を作り、遠くの河原から石を拾い、墓石代わりにした。墓石を積んで、山の急斜面を数往復した。私もまだ、35歳であり、若かった。その墓も30年以上が経過した今、どのようになっているかは、定かではない。北海道に赴任して20年になろうとしている。その間、ほとんど犬の墓参りから無縁であった。それ以降、40数年間、ほぼ途切れなく、両親は捨て犬を拾ってきた。すべて雑種であり、血統書などなかった。そして、その世話をした。二匹の犬が同時にいたことも珍しいことではなかった。母親は、献身的にその最後まで看取った。
二代目のレオは、手塚治の漫画に由来していた。その名前のとおり、聡明な犬であった。しかし、事情があり、母方の祖母の家に養子に遣られた。祖母の家はかなりの過疎地にありあり、当時、野犬の集団が我が物顔で徘徊していた。この集団と闘争した挙句、死んでしまったようである。遺体はなかった。彼が最初に死んだ。
三代目のチビは、チロが散歩に行く空き地に捨てられたいた。雌犬であったが、喧嘩は強かった。ブルドックと喧嘩して血まみれになって帰ってきたことがあった。彼女は、喧嘩に勝利して意気軒昂であった。当然のことながら、報酬を受け取るのではなく、家族から叱られ、意気消沈した。
勇猛無比な三代目が華奢な初代と本気で喧嘩をすれば、三代目が勝つことは自明であった。しかし、三代目のチビは、初代のチロには遠慮していた。三代目のチビは土間に寝起きしていた。チロは自己を人間とみなしていた。犬風情が居室に上がることを嫌っていた。それでも、チビは足だけは、人間の居室にかけていた。人間の居室は初代よって占領されていた。初代が威嚇すると、足を引っ込めた。チロの注意が逸れると、また、足だけを居室にかけていた。その繰り返しであった。
三代目を拾ってきた1982年ころ、大学院に進学した。三代目とは、私が大学院時代と重なっていた。金はないが、暇があった。帰郷した折に、散歩に連れていくのは、私の役目であった。歴代の飼い犬のうち、彼女が一番、私と過ごした時間が長かった。散歩に連れていくと、走り回り、なかなか帰ろうとしなかった。四国の夏は夕方でも、30度を超えていた。私はかなり怒ったが、彼女は私を無視して走りまわっていた。その光景を今でも記憶している。それでも、数回名前を呼ばれると、悪戯を照れるように、尻尾を振りながら家路についた。散歩の後の食事が楽しみであった。食べる前には、一度だけ御手をするように躾けられていた。若かった私は、数回、御手を要求した。怒りもせず、不思議そうにお手を繰り返していた。健気な犬であった。そんなときには、デザートを奮発した。人間と同じように、四国の名物の瓦煎餅等を与えた。元気に食べていた。食べ終わった後でも、私のほうじっと見ていた。欲しい素振りを一切、見せなかった。
四代目はダイスケと名づけられた。猟犬の血が混じているらしく、父方の祖母の足を噛んでしまったようである。そのころ、両親は店舗を構えていたが、よくお客様に吠えていた。仕方なく、母方の祖母に預けられた。番犬としては、優秀であった。
五代目の犬は、コロと名付けらた。人柄ならぬ犬柄がよく、ほとんど吠えなかった。泥棒が来ても、尻尾を振っていたであろう。誰にでも愛想よかった。この雌犬は、体が大きくなり、玄関に鎮座していた。仏様のようにニコニコしていた。通りを歩く人からも愛されていたようであった。
最近、両親が最後に拾ってきた犬、六代目のナナが亡くなった。彼女は、七代目でなかったが、ナナと命名された。発端は父親が後期高齢者になったころ、彼が強引に飼うことを主張した。母親は反対したが、結局飼うことになった。父親の精神の安定には寄与したようである。彼女の命日は、父親の一回忌に遅れること2か月であった。殉死の一種だったかもしれない。父親の強引さがなければ、おそらく保健所送致になっていたであろう。まさに、彼女にとって、父親は命の恩人であった。私は、そのころ北海道に赴任していた。帰郷した折にしか、会えなかった。北海道から内地に帰郷した時の滞在日数は、数日であった。ナナに対してほとんど馴染みはない。しかし、ナナちゃんという名前は、いしいひさいちのマンガの主人公、ののちゃんと似ていることもあり、気に入っていた。ナナちゃんをののちゃんと呼んでも、彼女には違和感はなかったようである。そのころ、『朝日新聞』を講読していたこともあり、毎日、ののちゃんの漫画を見ながら、ナナちゃんのことを思い出すことも多かった。
母親はすでに後期高齢者である。彼女が、もはや犬を飼うこともないであろう。犬は、10年以上生きる。三代目は、18年も生きていた。後期高齢者が10年以上生きることを前提にして、子犬を飼うことはできない。私の家の犬に関する物語も、六代目で終了である。母親は、少なくとも6匹の子犬を保健所つまり屠殺場から救い出した。母親が世話をしなければ、これらの子犬は野犬として処理され、その寿命を全うすることはできなかった。彼らにとって、母親はまさに命の恩人であった。
私は、犬を飼えるような居住形態を採用していない。コンクリートの長屋に住んでいるからだ。落語家、林家彦六師匠の名言を借りれば、マンションに住んでいる都市住民は、長屋の皆様でしかない。マンションの原語は、豪邸を意味しているらしいが、長屋がもっともふさわしい名称である。もちろん、犬を飼うことは禁止されている。私が犬を飼うこともないであろう。生涯、犬猫だけではなく、鶏そして動物を飼うことから無縁であろう。都市に居住することは、そのような欲望を捨てることにもなる。
都市に居住することは貧しい、ということが実感される。貧困であるがゆえに、都市に住む。都市に居住しなければ、生活の糧を得ることはできない。貧乏であるがゆえに、都市において生活している。土地の香りを味わうことはほぼ生涯ないであろう。中島正によれば、大地は生きている。「大地は生きて呼吸している。自然の霊気はその呼吸とともに地中深く地表へと立ち昇る」。[1] 都市住民は、朝靄と混じる大地の生気に触れることもないであろう。コンクリートから、生気を享受することは、不可能であろう。朝取りのトウモロコシを一度だけ食したことがあるが、朝露だけの調味料で美味しくいただいた。その食後感を今でも忘れていていない。本当に美味いものは、山海の珍味ではない。生きたままの植物である。スーパーマーケットで購入する野菜は、死後数日を経過している。
農村に居住し、一度も岐阜の地を離れることのなかった中島正は、この意味で幸福であった。鶏の世話に生涯を捧げていたからだ。生き物が身近にいた。動物だけでない。植物も最高に美味いものを食べていた。それだけでも、幸福であった。鶏を抱いた時のなんとも言えない温かみは、格別のものであったであろう。その思想の原理主義的峻厳性にもかかわらず、彼の人柄の良さは、動物を飼うことに由来しているのかもしれない。そして、朝取りの食物を生涯にわたって享受できた。彼ほど、人間らしい生活を営んでいる都市生活者は、おそらく存在しえないであろう。
[1] 中島正『増補版 自然卵養鶏法』農山漁村文化協会、2001年、43頁。
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自然的人間と同様に、研究者人生の終点はある。最近数年間、それが意識されるようになった。田村伊知朗は、具体的な人間としてどのような存在であり、かつあったのかを認識しなければならない。その一環として、青年時代から私の本棚を占有してきた書物を再検討してみようと考えた。青年時代から愛読してきた思想家の何人かを対象にして、その意義を研究論文の形式において再確認しようとしている。
いしいひさいち、中島正そして中村天風もその一人である。この三人の思想家は一見、関連性はないように思える。いしいひさいちは、漫画家であり、しかも4コ漫画家である。思想史研究家がしばし取り上げる手塚治、白土三平等の長編漫画家ではない。中島正は自然卵養鶏家としては著名であり、農業養鶏を指向する養鶏家のなかでは教祖的存在であるが、ほとんど学術的対象になったことはない。また、中村天風の思想はしばし論じられてきたが、中村天風財団の創始者として知られ、実践家として有名である。
三人の思想家に共通している事柄は何であろうか。彼らは私の思想形成上、重要な役割を果たしたが、私はなぜ彼らに魅了されたのであろうか。彼らの思想の何が私を駆り立てたのか。再吟味してみたい欲求が生まれた。2020年現在、その解答は未だ曖昧模糊としている。しかし、もうすぐ、わかるような気がしている。その導きの糸は、三人とも、原理主義者であることであろう。対照的に私は、原理主義に対して魅力を感じながらも、自らの原理を確立することを断念している。