田村伊知朗への連絡方法ーーコメント欄へ
田村伊知朗への連絡方法
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近代思想史という学問――近代交通思想史という学問の構築、そして政治思想史と社会思想史
大学の講義科目において近代思想史という科目がある。おそらく、慶応義塾大学他、少数の大学でしか開講されていない。通常は、社会思想史、政治思想史、経済思想史等の科目が開講され、近代思想史という科目が開講されていることは少ない。また、開講されていても、社会思想史、政治思想史、経済思想史等の研究者がその科目を担当している場合も多い。既存の科目名称と代替したとしても、問題は生じないであろう。内容も大同小異である。デカルト、スピノザ、ヘーゲル、マルクス等の近代思想史において巨人とされている思想家が、時代順に講義の中で取りあげられている。もちろん、科目名称によって、あるいは講義担当者の専門の差異によって、取り扱かわれる思想家に関する取捨選択はある。経済思想史であれば、アダム・スミスやマルサスを除外することはありえないが、政治思想史であれば、まったく言及しないことも稀ではない。
いずれにしろ、近代思想史が、近代思想の歴史であることは、ほとんど疑われることはないであろう。しかし、この科目を近代に関する思想史と解釈すれば、かなりの困難が生じる。近代とは何かについて、科目担当者が考察することになる。近代という時代精神を大学教授が自らの有限な知識を動員して、考察しなければならない。このような作業を実行すれば、例えばヘーゲルの哲学に相似した時代精神を体系化しなければならない。筆者もまた、このような科目を設置したことがある。地方国立大学、とりわけ教育学部では、科目の新設は科目担当者の裁量に任されている。英文法担当者であれば、変形生成文法概論という専門科目を新設し、チョムスキーの理論を30回にわたって講義することも可能である。他の教員、例えば自然科学の専門家は言語学に関して無知であり、その内容を想像することはできない。このような職場環境の中で、筆者も近代思想史を新設し、近代に関する思想を体系化しようとした。しかし、結局、ヘーゲルの哲学体系を中心にした思想を講義しただけに終わった。あるいは、別の年度では、社会思想史に似た思想家の思想を順に講義しただけであった。近代思想史を近代社会思想史に代替しただけで終わった。近代という数百年の歴史を15回の講義で体系化することは、有限な人間には不可能であった。
そこで、近代という時代精神の一側面、交通という部分領域に限定して、近代交通思想史という科目へと変更した。近代という時代精神を考察することを断念し、その部分領域を討究することになった。筆者が本邦で初めて、近代交通思想史という専攻する研究者になった。ドイツでは、このような研究家は少数ながら存在しているが、日本では皆無であろう。また、大学の講義科目においてこのような専門科目を、筆者の勤務大学以外に見出すこともないであろう。橋のない場所に橋を架ける作業に関心がある。もちろん、先行研究が山ほどあるマルクス、ヘーゲルの思想を別の視点から考察するという伝統的手法が間違っているわけではない。しかし、近代交通思想史という学問体系を新たに構築する意思も、尊重されるべきであろう。
最後に、近代交通思想史以外の筆者の担当科目に触れてみよう。現在では、この科目以外に、西洋政治思想史と西洋社会思想史を担当している。20年前、つまり前世紀末までは、大学講義の大半の専門科目は、4単位制がほとんどであった。世紀転換後、2単位制が主流になっていた。国際標準の9月入学が国際化された大学にとって愁眉の課題になったからである。そこで多くの政治思想史担当者は、政治思想史Ⅰ、Ⅱと衣替えした。それまで、多くの政治思想史担当者は、後期だけしか試験をしない豪傑もいたが、そのような豪傑は駆逐された。その後、時間が推移にしたがって、そのような曖昧な科目名称を変更することが、教務課から要請された。筆者の勤務校でも、西洋社会思想史の科目設定が要請された。西洋史概論の代替科目が必要であったかららしい。歴史科目である西洋史概論の代替科目が西洋政治思想史では、課程認定上問題であったようである。
そこでこの二つの科目を二分割した。ただ、単純に時間によって二分割することもできなかった。4年生、5年生等が、科目名称は異なるが、内容上重複している科目を受講するからだ。そこで、西洋社会思想史を通常の社会思想史とほぼ同様に構成した。西洋思想史における巨人とされているイギリス経験論、大陸合理論、ドイツ観念論哲学へ至る思想史の流れ通りに講義している。西洋政治思想史は近代の政治的転換、つまり革命の歴史と解釈して、ドイツ宗教改革、イギリス革命、フランス革命、ドイツ三月革命の順に16世紀から19世紀の巨大な政治変動を支える事象を考察対象にした。個別的思想家の思想ではなく、巨大な社会的かつ政治的変動そのものの思想を考察した。たとえば、ドイツ宗教改革では、ルターの思想ではなく、プロテスタントの出現の意味を内面的自由の確立という観点から抽象的に考察した。
この三つの科目、近代社会思想史、近代政治思想史、近代交通思想史はともに西洋の思想に基づいている。限定された知識しかない筆者が、方法論の異なる三科目を担当することになった。大過なきことを祈るしかない。
オンライン講義序章――講義内容の公開
1.
3月下旬における前期の講義形態予測
オンライン講義が突如、大学教授の身の上に降りかかってきた。本稿はその記録である。2020年3月下旬において、4月1日開講は困難であるという認識を大学は持っていた。この認識は正しい。5月の連休明けに講義を開始することが決定された。この場合でも、オンライン講義ではなく、通常の教室での講義、つまりオフライン講義(以下、オフライン講義)が想定されていた。オフライン講義に備え、マスクの購入が勧告された。しかし、コンビニエンスストア、ドラッグストアーだけでなく、インターネット上でも、マスクはほとんど購入することが不可能であった。フェースシールドを購入した。5月25日現在でも、アベノマスクは到着していない。しかし、4月下旬には、連休明けの講義がオンラインで実施されることになった。ただでさえ、書類的整合性が求められる地方国立大学である。地方国立大学事務職員は、漢字の誤謬だけではなく、罫線の太さに至るまで様々な文書修正を教授に要求する。このような事務職員の倫理からすれば、度重なる文書修正は、事務職員に対して過剰な負担を負荷したことは間違いない。
ちなみに、東京六大学は、前期講義をすべてオンライン講義形式に実施することを決定していた。大学内において、独自の仮想空間を構築できる教授が多数存在していた。また、オンライン講義に精通した教員が乏しい大学でも、このようなシステム構築を外注すればよいだけの話である。対照的に、地方国立大学では、オンライン講義に対する拒否意識が強かった。従来の講義形式に愛着があったという保守意識でしかない。東京六大学を前例にしておけば、事務職員そして教員の負担と不安もより軽減されていたのであろう。
海外の事情に目を向けてみよう。コロナヴィールス-19(Coronavirus SARS-CoV-2)に対する対策が緩いとされるスウェーデンですら、本年度の大学春学期と秋学期の講義は、オンライン形式で実施することが、早々に決定されていた。東京六大学がオンライン講義を2月下旬あるいは3月初旬に、早々に導入した背景には、オンライン講義がオフライン講義よりも優れているという認識があったはずである。コロナヴィールス-19(Coronavirus SARS-CoV-2)騒動とは無関係に、オンライン講義の必要性が認識されていた。
2.
オンライン講義への紆余曲折
まず、You tubeによる実況中継を政治思想史の講義において試みた。しかし、この試みはすぐさま挫折した。たった、数分で切断された。真の原因は不明であったが、この動画サイトのAIが、「暴力革命」、「国王のギロチン」等に反応し、私の近代革命論をすぐさま不適切と認定した可能性も排除できない。90分の講義が数分ごとに切断されたのでは、講義にならない。
しかも、同時実況であれば、オフライン講義と変わらない。むしろ、劣化したオフライン講義しかすぎない。ズームと同様に、オンライン講義の独自の意義は、実況中継において発揮されない。
次に、ニコニコ動画において事前に撮影した動画を公開した。しかし、限定公開に失敗した。投稿した動画はすぐさま不特定多数によって閲覧可能になった。もし、私の動画を限定公開するためには、コミュニティを形成しなければならない。そのためには、学生すべてがこの動画サイトのアカウントを取得しなければならない。これではアカウントを取得できない学生が多数出現しそうである。
したがって、You tube に事前録画した動画を投稿することにした。最初の動画投稿には、ほぼ12時間かかった。念のため、講義時間の2日前に投稿することにした。所属大学の大学情報システムを通じて、登録学生に対して、当日13時~19時まで閲覧可能な設定にした。もちろん、オンライン講義は1週間ほど閲覧可能にする設定も可能であった。しかし、オンライン講義をいつでも聞ける状態にすることは、いつも聞かないことにつながる。これは私の個人的体験に由来している。かつてラジオ講座は限定された時間しか、聴取できなかった。そのためには、他の用事をやり繰りし、ラジオ講座を決められた時間に聞かねばならなかった。しかし、現在では1週間前の講座を、録音機能によって数日聴取可能である。いつでも聞けるという安心から、いつも聞かず録音された番組が山積されてゆき、結局、録音されたファイルだけがPCに保存されたしまった。私のドイツ語学習時間は、増えなかった。
また、出席確認が大学から要請されたので、講義終了後に400字数程度のレポートを決められた時間までに要求した。もっとも、はじめ数人の学生が明らかにインターネット情報をコピペしていた。アリストテレスの民主主義批判を講義しているにもかかわらず、インターネット上、どこにでもあるアリストテレスのポリス論を送付した豪傑がいた。その後、私の講義草稿を数行引用するという条件を課したので、そのような行為はほぼなくなった。この講義課題の設定は、意図しない効果をもたらした。すなわち、私の課した課題は、400字程度の音声を、書き言葉に直すことである。音声になった講義草稿の重要点、400字程度を、文字に直す作業である。この課題を解答するためには、前後300字程度に対して耳を澄まさねばならない。集中して聞くことになった。
学生の印象では、講義終了後の400字のレポートはかなり負担になっているようである。私の講義草稿から引用し、自分の意見を付することを要求した。オフライン講義では、多くの学生が講義時間を睡眠時間とみなしていた。その都度指摘したのでは、講義は成立しない。そのような怠惰な学生は、ほぼ駆逐された。次回の講義時間に、学生のレポートを総覧し、その内容を敷衍し、回答する「珈琲時間」を設けた。毎回、冒頭部の10分ほどの時間を質問に対する回答として設定した。たとえば、西洋政治思想史の本質とは関係ないが、現代社会において必須の概念、たとえば日本人の宗教意識に概説した。日本人の穢れ、禊等に対する意識も宗教的規範に属するということを説明した。
3.
オンライン講義の積極面 Ⅰ――淡々とした講義
You tubeに動画をアップし、講義を実施することにした。その利点をここで挙げねばならない。You tubeに動画を上げるためには、その2日前までに、講義を仕上げねばならない。動画配信なので、すべての講義言説をレジュメ形式ではなく、文章にした。もちろん、口語と書き言葉は異なる。しかし、講義内容をすべて文章化した。もし、動画を視聴できない環境にあった場合でも、休講にすることはできないからだ。政治思想史第3回は、8,000字ほどの原稿ができた。ちなみに、第3回講義は、ルターの宗教改革の意義を近代の原理との関連で考察した。原稿用紙換算で20枚ほどの講義内容である。オフライン講義では、約2回で実施した講義が、1回で終了した。草稿文字数で換算すれば、オフライン講義では3,000字しかできなかったが、オンライン講義では8,000字に達することも稀ではない。毎回、400字原稿用紙換算で20枚程度の原稿を準備しなければならない。毎週、二つの講義を準備しなければならない。週末だけでは間に合わない。講義原稿を修正する時間と併せて、5~6時間、講義原稿と格闘しなければならない。2020年度前期は、2科目、西洋政治思想史と政治学概論(政治学原論と同じ講義内容)を担当している。週末はほぼ、オンライン講義のために費やされる。90分の講義原稿と講義録音を作成するために、土曜日半日、PCの前で集中しなければならない。土曜日全日、日曜日全日だけも間に合わない。月曜日午前中も原稿作成作業に従事している。
また、録音をすることは、自らの原稿を大きな声で読み上げることである。音読によって講義原稿の不備が明らかになった。オフライン講義でも、原稿を準備していたが、すべて黙読であり、音読するという習慣はなかった。発音の明瞭性も含めて自分の言語が記録される。これまでの30年間、自分の講義を聞いたことはなかった。かなり、言語明瞭、意味不明な言説――この形容は、かつて竹下登総理に対して付せられた特徴づけであった――が、多数あった。今でもあるかもしれない。
オフライン講義においては、講義内容とは関係のない事柄にも注意を払わねばならない。「飯を食べるな」、「帽子を脱げ」、「私語を慎め」、「携帯電話の電源を切れ」等といった講義内容とは異なる事柄に対しても、注意喚起しなければならない。「教育実習のため、公休扱いにしろ」、「所属ゼミナールで終日、大学外で実習するので、私の講義に出られない」等、学生の個人事情にも、講義内容とは無関係な事柄であったとしても、配慮しなければならない。このような無駄な時間が一切ない。淡々と講義するしかない。また、事務連絡は、大学教育情報システムによって学生に通知される。講義時間は、講義の内容に集中できるし、しなければならない。学生の側からすれば、音に集中できる。私の容姿、服装は一切関係ない。私の表情を窺うこともない。その音声だけに集中できる。学習効果は数倍向上した。特に、講義課題として設定している私の音声を書き写する作業によって、学生の理解力は飛躍的に向上した。
また、動画は限定公開であれ、インターネット上で視聴される。下手な冗談は記録される恐れもある。一切の冗談を自粛した。冗談は講義への関心を喚起するために、時折これまで意図的に発せられていた。学生に対するこのようなサービスは、一切廃止した。冗談は、その内容が面白ければ面白いほど、社会的な一般常識とは異なる水準で発せられる。不快に思う視聴者が当然いる。不快に思うだけで済めば問題ないかもしれない。人権擁護委員会の審議対象になるでろう。近代の基本的理念、平等という理念を揶揄すれば、しかも学生に理解可能なコンテキストで揶揄すれば、人権侵害とみなされる恐れもある。平等という理念に対する異議申し立てを、学問的に許容できる言語で説明するしかない。人権侵害あるいは法律違反を奨励するような言説は、拒絶されるだけである。ビートたけしの冗談、「赤信号、皆で渡れば怖くない」は有名である。しかし、大学教授がこの冗句と同様な趣旨で発話すれば、道路交通法違反を奨励していると、批難される。国家の法侵犯を奨励していると批判されることは、必定である。講壇と高座は区別されねばならない。このような冗句は、少なくとも講壇から排除されている。肝に銘じている。
4.
オンライン講義の積極面 Ⅱ――録音ファイルの分割
90分の動画をアップロードするためには、5~6個の音声録音ファイルを作成する。のちにこれら複数のファイルを一つのファイルに編集する。学生だけではなく、教授もまた90分の緊張関係を保てない。少なくとも、90分の動画作成のなかで、一回以上、30分以上の長い休憩時間が入っている。自分の肉体的かつ精神的疲労を意識する。前節で述べた冗談の原因もまた、学生の疲労だけではなく、講義者の疲労にあるのかもしれない。オンライン講義は、肉体的にも、精神的にも衰えを自覚している老教授にとって朗報であろう。
5.
オンライン講義の積極面 Ⅲ――大学カリキュラムと大学偏差値の相違
かつて30年前にインターネットが人口に膾炙し始めたころ、大学は東京大学と京都大学だけ必要であり、教員数の大幅な削減が可能であり、その他の大学教員は淘汰されるという言説があった。二つの大学で講義されている科目をオンライン講義で受講すればよいという考えである。たとえば、教職課程で選択必修科目である政治学概論は、少なくとも全国で数百、数千開講されているはずである。また、法学部、政経学部で開講されている政治学概論に相当する科目、政治学原論を加えれば、その数は増大するであろう。それに応じて、非常勤講師を含めて、担当教員は数百、数千にいるはずである。二人の教授が担当すれば、それ以外の数百人、数千の教員は余剰である。
この言説は正当性を持っているのであろうか。西洋政治思想史も、政治思想史、近代政治思想史そして社会思想史も含めれば、数百人の教員が講義を担当しているはずである。学部のカリキュラム総体においてその位置づけは異なっている。それぞれの大学における学部の事情、学生の偏差値に応じた講義が求められている。少なくとも、東大法学部の政治学原論を地方国立大学の教育学部の学生に聴講させたとしても、ほとんど理解不能である。後者において、政治学は私の講義だけで終了する。彼らは、ルター、況やミュンツァーという名前をもはや他の科目で聞くことはないであろう。政治思想史は教育学部の専門科目であるが、実質上、教養科目に位置づけられている。
内容とその形式、あるいは実体とその外観
いしいひさいち『ドーナツボックス』第5巻、いしい商店、2018年、11頁。
風車発電は、自然的世界に存在する風を利用してエネルギーを産出する装置である。自然界に存在しているエネルギーを別の形式のエネルギーに転換し、新たなエネルギーを人間が利用する。しかし、役人はそのように考えない。風車が回らなければ、電気エネルギーを使用して風車を回転させる。ここでは、新たな形式のエネルギーが産出されたわけではない。むしろ、電気エネルギーを浪費する。石油、石炭等の化石燃料の使用を減少させ、自然エネルギーを使用することによって、環境破壊を減少させようとする。この大目的は、彼らにとって考察対象外である。
官僚的行為の目的とは、どこにあるのであろうか。風車を回転させるという外観を住民に認識させるだけである。実体的世界においてエネルギーを新たに利用可能にするという本来の目的を忘却し、外観だけを御化粧する。官僚は、実体的世界の改善つまり新たなエネルギーの獲得ではなく、風車が回転するしているという指標にしか問題にしていない。
同様な事柄が株式市場において生じている。株価は、国総体の経済活動の指標と言われている。経済活動が活発になれば株価が上昇し、停滞すれば下落する。実体としての経済活動の指標の一つが、株価である。しかし、経済官僚は、そのようには考えない。株価を上昇させることに狂奔する。年金積立管理運用独立法人は、基本ポートフォリオの約50パーセントを国内株式と海外株式市場に投入している。世俗的表現をもちいれば、鉄火場に有り金をほとんどぶちんこんでいる。株価は上昇しないはずはない。この独立行政法人そして日本銀行が株価を維持していると言っても過言ではないであろう。そして、次のように弁明するにちがいない。株価の上昇によって、日本経済の実体も好影響を与えるであろうと。しかし、それは、火力発電によって得られた電気によって風車が回転し、新たな風力エネルギーが獲得されることと同様であろう。
時間と共同性を共有するための紫煙――絞首刑前の三人による喫煙
https://www.youtube.com/watch?v=X6p7eDaX7n8 [Datum: 19.05.2020]
この映画は、ドイツ第三帝国において有名なレジスタント運動、白バラ運動の一側面を描いている。政治的に言えば、この運動は第三帝国の残忍性をプロパガンダするビラを撒いただけである。しかし、このビラはのちに連合国飛行機から、ミュンヘンに撒かれ、戦争終結にかなり影響を与えた、この運動そしてこの映画、原作に関してすでに多くの論者が描いており、筆者が屋上屋を架すこともないであろう。但し、この映画で表現された煙草に関しては、このレジスタント運動に対する敬意を表するために、少し言及してみよう。
その主人公、ミュンヘン大学生のショールが絞首刑される直前に、ある看守から煙草とマッチをこっそりもらい、一服するシーンがある。もちろん、彼女は絞首刑の前に喫煙できるとは考えていなかった。看守に「ありがとう」と短く感謝し、一服する。そして、このレジスタント運動において時間を共有した兄とその友人に、その煙草を渡す。三人がまさに、人生最後の煙草を共有しながら、生命の最後の時間を共有する。彼らは、共同性を確認するために、一本の煙草を喫する。
ちなみに、絞首刑になる前に、調書を取る大学教授から一本の煙草を提供された。しかも、この教授から減刑の誘いを受けていた。もし、補助的役割しか果たしていなければ、減刑すると。そのように調書を書き換えることも可能であると。しかし、彼女はこの誘いを拒否していた。そして、彼から提供された煙草を彼ととも喫することを拒否した。たばこを飲むか、という問いに対して、「Gelegentlich しばし」と答え、煙草入れから提供された煙草に手を出すことをしなかった。まさに、彼女は、この審問官と喫煙時間を共有することを拒否した。
対照的に、兄とその友人と一本の煙草を共有するとき、人生を共有していた。一本の煙草とともに、彼女は幸福であった。そして、一本の煙草とともに、短い生涯を終えた。断頭台と共に、紫煙も消えていった。しかし、彼女は、二人の人間と人生を共有し、煙草を共有した。このような美しい紫煙を未だかって見たこともないし、このように美味い煙草を喫することもないであろう。
最後に、現在、禁煙運動がドイツだけではなく、本邦においても盛んである。第三帝国の主導者、ヒットラーも禁煙主義であった。禁煙運動はヒットラーの思想に追随し、ショールが共有した共同性を拒否しようとしている。もはや、他者と共同するという高揚感は、後期近代において消去されてしまったかもしれない。
追記
人民法廷長官であったフライスラー(Roland Freisler)をアンドレ・ヘンニッケ(André Hennicke)が演じている。彼は、『ヒトラー 最期の12日間』ではモーンケを演じて、ベルリン攻防戦を指揮していた。ヒットラーに忠実なドイツ人を描かせれば、彼ほどの適任はないであろう。
秋は学会の季節である。しかし、学会報告に対して議論が生じることは、ほとんどない。通常、一つの報告時間が30分であり、質疑応答の時間は、それを越えることはない(通常、5-10分程度)。学会の本大会における発表は、その多くがそれ以前の小さな研究会等で公表されているからであろう。しかし、それでは、より専門家の集まる小さな研究会での発表でことは済んでいるのであり、改めて発表するまでもない。多くの学会員は、拍手で応えるのみである。
さらに、問題は学会発表だけの問題ではない。すべての会議、公共的空間において、事前に発表者が詳細な報告書を作成し、参加者はそれに拍手で応えるか、あるいは反対するしかできない。そもそも、発表者の時間がその多くを占め、質疑応答の時間はほとんどとられていない。おそらく、この問題は、官僚が報告書を作成する審議会等でも起きているのであろう。審議会の委員、とりわけ学識経験者は、官僚によって作成された資料の字句を修正することだけにとどまっており、持論を展開する時間は与えられていないのであろう。報告書類の前提そのものに関する議論は、想定されていない。また、事前準備資料を根底から覆すような議論をもしすれば、その委員は今度からそもそも任命されないであろう。煙たがられるか、奇妙な意見を保持しているというレッテルを貼られてお仕舞であろう。
しかし、それでは議論、とりわけ公共的空間における議論にはならないであろう。すべての案件を拍手で以って応えた旧社会主義国家の会議と同じ水準である。この意味において、我々は金王朝支配下の市民と同じ議論形式しか持ちえていない。もちろん、社会主義的ではなく、資本主義的であるという違いを持っているが・・・・。金王朝の市民も大変であるが、我々もそれを嘲笑して済ませるわけではない。金王朝と同じように拍手で以って、報告者あるいは官僚の意見を、拍手で以って応えているだけである。反面教師にしたいものであるが、精神構造が「金さん一家」と同様であるかぎり、それも無理であろう。
この問題は、学問に従事する者、学者の精神構造が公共性に対する貢献を無視していることにある。官僚は自らの仕事領域を極限までに細分化する。組織が巨大化すればするほど、この傾向は強化される。細分化の強化によって、組織自体も強化される。
この傾向は、後期近代の人間関係すべてにおいて適合している。機能主義的原理がすべての人間関係に適応される。
学者の仕事も、細分化されている。たとえば、マルクスの共産主義論という論文すら、社会思想史学会では受理されないであろう。『資本論』○○章××節の文言の解釈に関する論文が高い評価を受ける。しかし、それでもって、共産主義という未来社会の概略すらわからない。この潮流に掉さすためには、百科事典の記事を原稿用紙50枚から100枚にまとめる論稿が欲しい。今、それを構想している。
「二十歳の魂、百まで」
国家公務員が地方公務員になっている。この現象は天下りかもしれない。その天下りで最高の地位は、都道府県知事である。地方公務員の至高の地位である。知事は、選挙というフィルターを経ているが、意識としては天下りである。少なくとも、地方政界と財界の推薦を受けて、知事に立候補している。
戦前の官選知事とほぼ同じような意識を持っているはずである。ただ、戦前と異なり、出身官庁は旧自治省(現総務省)に限定されていない。旧通産省(現経済産業省)、旧大蔵省(現財務省)等と多岐にわたる。出身省庁ごとに政策に対する強度は異なっているが、出身官庁に対する同族あるいは同窓意識は強い。官僚は、大学の成績、入省年次、入省成績に関する自負を持っている。おそらく、その意識は、官僚機構内部にいた人間しかわからないであろう。東大、早大という官僚機構にいる教授陣にも、その意識は強烈であろう。もっとも難関なゼミにはいり、大学院を首席で卒業したという意識は、還暦を迎えた今でも強烈である。
高級官僚の意識において、10歳代前半から20歳代前半の経歴が、人生を決定している。彼らは高校時代を含め、若いころ刻苦勉励した。これは一部の天才を除いて、間違いないであろう。この意識は、間違っていないような気がする。多くの人間もまた、20歳前後に考えていた人生を40年経過した今も、歩んでいるような気がする。
ここまでは、官僚に対する一般的事象である。高級官僚ならびに東大教授たちの還暦と比較しながら、地方底辺国立大学の教授の還暦という事態を客観的にみてみよう。ある地方国立大学教授は、官僚達のサークルの外側にいた。地底国つまり地方底辺国立大学という微妙な立場に、彼は位置している。戦後改革はいくつかの職場をかなり変わり者に提供している。大宅壮一によって命名された駅弁大学の後期近代における別名である。
この老教授は、10歳代前半から20歳代前半の経歴において、若干彼らと交錯する時間を持っていた。たまたま、法学部にいた関係で、彼らと同席する機会をもっていた。同じテーブルを囲んでいても、彼らとは異なることを考えていた。話題の設定自体が異なっていた。40年前はよく喧嘩を売っていたようである。今は、テーブルから離れ、喫煙室に直行しているようである。
そして、還暦を過ぎた今も、彼らからすれば頓珍漢なことをこの教授は考えている。彼らからすれば、このしょぼい教授は馬鹿であろう。彼を馬鹿にする思考様式は、40年前と同じかもしれない。三つ子の魂、百までという故事にならえば、二十歳の魂、百までであろう。40年前に同席していたこの老教授も後悔することもあるが、それも必然かもしれない。彼らの年金と比べれば、雲泥の差がある。年金定期便を見て、愕然としていた。それでも、40年前にすでに、彼らとは異なったことをこの老教授は考えていた。年金の些少性を嘆くことも、40年前に想定されていた。
公務員組織、大企業、大組合等の大組織が陥るのが、」前例主義」、「横並び主義」、「新しい仕事をしない主義」そして「先送り主義」という病気である。
1、「前例主義」とは、前例のないことをするな、という意識である。前例を否定することは、前任者の瑕疵をあげつらうことになるからである。前任者の欠陥を是正することは、その顔をつぶすことにつながるからである。その前任者は現在の上司であることが多い。上司の意向に反して仕事をすることが嫌われる。
2、「横並び主義」とは、他の部署、他の組織が実施していない仕事をしないことである。民間企業であれば、他の企業がしないこと、たとえば画期的な新製品を提案することは、表彰される。しかし、停滞している組織において、そのようなことをすることは危険があるとの理由で却下される。もちろん、新企画は失敗する可能性もある。しかし、そのようなリスクが、ほとんどない場合が大半であっても、ごくわずかの可能性を見つけてその新企画をつぶすことが快感になっている場合が多い。
3、「新しい仕事をしない主義」とは、組織の当該部署に割り振られた仕事が多いことに由来する。新しい仕事をしても、古い仕事が減るわけではない。自分の仕事が増えるだけである。活気のある組織では、自分で新しい仕事を見つけることが本来のしごとである。与えられた仕事だけをしている人間は、使えない人間とみなされる。しかし、公務員組織において、
4、「先送り主義」とは、決定をキャリア官僚とみなされる高級公務員に特有な病気である。彼らは、3-4年の間隔で多くの部署をわたり歩く。したがって、その任期の間にできることしかしない。あるいは、重要な問題を次の任にあたる後輩に委ねる。その後輩もまた、次々に次の任期のキャリア官僚に大きな問題を委ねる。大きな問題は、その解決のためにかなりのエネルギーを必要とする課題である。その組織外の他の組織との折衝を要したり、組織内の問題であっても他の多くの部署との折衝を要する仕事である。そのような大事な仕事よりも、日常的な仕事に没頭する。しかし、いつの日かその仕事の期限がやってくる。その時には、手遅れになっている。「前例主義」、「横並び主義」、「新しい仕事をしない主義」そして「先送り主義」という「公務員組織、大企業、大組合等の大組織」の病理は、そこで仕事をする人間をスポイルする。やがて、自分の部署だけ良ければよいという病気が社会全体に蔓延するとき、社会が壊死する。しかし、このような「前例主義」、「横並び主義」、「新しい仕事をしない主義」そして「先送り主義」を組織から追放すべきである。少なくとも、新企画を破壊することの原理として禁止すべきである。しかし、多くの組織はこの病気に陥る。そして、問題が起きても、誰も責任をとらない。
http://izl.moe-nifty.com/tamura/2018/11/post-d1a4.html 日々、日常的にこなさねばならない事柄が増えている。本日締め切り、今週締め切り、来月締め切り、来年締め切りの事柄が、日々堆積している。どうしても、本日締め切りの文書を作成しがちである。簡単だからである。簡単な事柄ばかりに目が向く。意識が目先の事柄に向く。大学教員の場合、日々の事柄はかなり多い。目先の事柄は、「きったはった」の事柄も多い。電話一本で片付く場合も多い。他の教員のなかには、「研究室トンビ」をやり、日々他人の研究室を訪問している場合も多い。「トンビ」だけは、やらないと肝に銘じているが、それもままならない場合もある。私は電話でやろうとする場合が多い。それでも、電話でもカッカする。夜の研究時間を浸食する。
このような日々を送っていると、ふと気が付く。来年締め切りの文書の締め切りを、忘れていることを。来年締め切りの文書は、簡単にはできない。たとえば、原稿用紙50枚ほどの文書、たとえば学術論文は、一朝一夕にはできない。締め切りを数か月前にして、この計画を断念する。この習慣を断絶することは、可能であろうか。
1、細かい仕事に集中する時間を作る。大学のPCを開けるとメイルが山積みである。海外出張等によって数週間ほど留守にすると、メイルが数百通ほど堆積していることもままある。現在では、ほぼ毎日PCを開けている。したがって、「きったはった」の事柄を毎日やる。重要案件は、日々後回しである。特定の時間以外にPCを開けることを断念しよう。但し、特定の時間帯に片付かなくとも、徹底的にやろう。徹夜覚悟で実行する。
しかし、徹夜を覚悟するためには、自然人として肉体に対して配慮を加えねばならない。夕食をどのようにすべきであろうか。近所のラーメン屋で夕食を済ませねばならないのであろうか。今まではチーズ、魚の缶詰、インスタント味噌汁で我慢してきた。それ以外に長期保存が可能で火を使用せずに、腹の足しになる食物はあるのであろうか。
2、官僚機構の構成員の多くも、このような病理に冒されているいる。日々の事柄におわれて、大事な事柄は忘却の彼方にある。国会議員等の有力者の意見には、すぐさま対応しなければならない。電話も頻繁にかかってくる。その対応におわれて、自分の小さなその日の仕事に手一杯になる。自己の本来課題など、どこ吹く風にならざるをえない。