『ドイツ路面電車ルネサンス』に関する書評

 『ドイツ路面電車ルネサンス――思想史と交通政策』(論創社、2024年)に対する書評が、新聞等において幾つか公刊されている。

 

2.6 三上真嗣(長野県立大学)「行政学」日本政治学会文献委員会編「2024年学会展望」日本政治学会編『年報政治学 2025-Ⅱ 「改革」と日本政治』筑摩書房、2025年、380-381頁。

 

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2.5 書評 橋本紘樹(九州大学)「ドイツ路面電車ルネサンス 思想史と交通政策」社会思想史学会編『社会思想史研究』第49号、藤原書店、2025年、113-116頁。

 

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2.4 書評 土方まり子(交通経済研究所)「ドイツ路面電車ルネサンス――思想史と交通政策」『都政新報』2024年12月17日、6面。

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 土方まり子は、ドイツ都市交通政策に関する現在の第一人者である。おそらく、彼女は国土交通省と密接な関係を持っている。本省の依頼に応じて、ドイツ都市交通政策を研究しているはずであろう。その深い見識に基づき、本書の意義を紹介している。本書は、路面電車ルネサンスを巡る都市住民そして交通政策者の意識構造を考察している。彼女は、その点を洞察し、この書評に反映している。筆者の意図を的確に見抜いている。

2.3 書評 齊藤大起(神奈川新聞社)「鉄路と自由を思索する」『神奈川新聞』2024年12月15日、10面。

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 この齊藤大起の書評は、研究論文一般の本質を把握している。この意味を『マルクス伝』という有名な研究書を事例にして考察してみよう。マルクス伝、とりわけ初期マルクス伝の場合、実はマルクスの事行だけではなく、ヘーゲル左派の事行が研究の分量の大半を占めている。初期マルクスの事柄が、他のヘーゲル左派との対抗関係において形成されているからだ。対抗関係という概念をより普遍的関係において記載すれば、それは相関関係である。ある事柄は、それ自体としてではなく、他者との関係においてのみ形成される。

 また、マンガを例にしてみよう。日本マンガ史上、最高傑作の一つとされている『カムイ伝』において、カムイという名前を持っているのは、白狼と天才忍者にすぎない。この狼と忍者が出てくるコマは、ほとんどない。むしろ、第一部において最も頻出している人物は、正助といいう下人から本百姓になった人物である。しかし、カムイとされる白狼と天才忍者の本質は、他の人物との相関関係においてのみ描き出されている。

 路面電車を例にとれば、この交通手段は、馬車鉄道、スチームトラム、バスそして動力化された個人交通との関係性において考察される。路面電車を研究するということは、路面電車の意味の解明という観点から、他の手段を研究することと同義である。初期マルクスの研究が、ブルーノ・バウアー、エトガー・バウアー等のヘーゲル左派の研究と同義であることと同様である。

 齊藤大起は、路面電車の本質を自動車の本質との相関関係において考察している。彼の書評論文は、路面電車の本質を動力化された個人交通、とりわけ自動車との相関関係において考察している。本書の分量は、ほとんど自動車に関する考察に割かれている。実は、本書において路面電車の車両の考察、架線の考察等には、ほとんど言及されていない。通常のマニュアックな路面電車研究は、その車両に関する考察が主とされている。

 私が学生時代に初期マルクスの研究を志したとき、その当初には初期マルクスの著作、『ヘーゲル国法論批判』、『神聖家族』そして『ドイツ・イデオロギー』等しか読解していなかった。彼の著作だけを如何に精微に読解したとしても、それは彼の著作を敷衍しただけに終わっていたであろう。彼の著作におけるマルクスのブルーノ・バウアー批判だけを敷衍したとしても、その独自の意義を把握することは不可能であろう。ブルーノ・バウアーの著作の近代思想上の位置を確定して初めて、マルクスのブルーノ・バウアー批判の意義が、明瞭に浮上してくる。この研究方法論を明瞭に把握した時は、東独に留学した大学院博士課程に在籍して以降である。私が東独から帰国した時、私は30歳に近かった。

 自動車の本質を把握して初めて、路面電車の独自の意義が浮上してくる。それが、本書と他のマニュアックな路面電車研究との分岐点である。齊藤大起の書評論文は、本書の研究史的意義を明瞭に把握している。

 

 

 

 

2.2 書評 石塚正英(東京電機大学名誉教授)「ホモ・モビリタスの創出ーーアクチュアルにしてカルチュラルな議論」『週刊読書人』2024年11月8日、4面。

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2.1 書評 無署名「独交通網の発展を解明」『四国新聞』(朝刊)2024年10月25日、18面。

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1.2 新刊紹介 『鉄道ダイヤ情報』交通新聞社、2024年10月号、94頁。

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1.1 書評論文 高橋一行(明治大学名誉教授)「路面電車の語ることーー田村伊知朗『ドイツ路面電車ルネサンス 思想史と交通政策』に触れつつ ―― (政治学講義番外編)」『公共空間X』。 In: http://pubspace-x.net/pubspace/archives/11709. [Datum: 28.07.2024].

『ドイツ路面電車ルネサンス』に関する補遺

『ドイツ路面電車ルネサンス』に関する補遺

(三一頁)

 一九六〇年~一九七〇年代において、ドイツの多くの都市から路面電車の軌道が撤去された。片側二車線であれば、軌道を撤去することによって、自動車、とりわけ動力化された個人交通の走行空間は倍増した。(九八頁)この意味をより広義の近代思想史のコンテキストにおいて再吟味してみよう。道路空間における渋滞の意義を再検討してみよう。なぜ、交通計画者は自動車の渋滞問題をその政策の第一意義的課題とみなすのであろうか。その解答は、渋滞が近代の至高の価値規範である自由の侵害であると判断されたことにある。近代思想の基礎を形成した思想家の一人、ホッブスが移動の自由を無数の自由においてその価値階梯の至高の位置に置いたことと関連している。長くなるが、本書を引用してみよう。「移動性概念は、ホッブスの自由概念においてその端緒という役割を担っている。『自由は、移動障害の非存在に他ならない。・・・各人にとっての自由は、その人が移動できる空間の大小に応じて、大きくなったり、小さくなったりする』。人間の自由は、その移動可能な空間の拡大に依存している。移動性概念は自由概念の下位的な構成要素ではなく、その端緒へと高められている。イギリス社会契約論が移動性概念を自由概念とほぼ同一視したことは、現代の移動性概念にも継承されている。移動性概念に対する肯定的評価が無制限になることによって、移動の自由が、無数に存在している自由のうちで特権的な上位概念として位置づけられる。『移動性は、一般的に肯定的なものとして設定され、価値階梯において最上位に位置づけられ、制限に晒されていない』。移動の自由は、他の種類の自由によって制限されておらず、無数に存在している自由に関するヒエラルヒーの最上位に位置づけられている」。(三一頁)

 たしかに、渋滞は移動の自由、すなわち近代の無数の自由に関するヒエラルヒーの至高の存在を侵害している。しかし、ホッブスのこの見解は、現代においてそのまま妥当するのであろうか。もちろん、現代の交通計画者は、ホッブスを読んだことはほぼないであろう。しかし、彼の思想を契機として形成されてきた近代思想の脈々した流れが近代人の思考枠組を規定しているのかもしれない。移動の自由が他の種類の自由とどのような関係にあるのか。少なくとも、渋滞を解消することによって、他の自由を侵害するという思想枠組は、現代の交通計画者の意識において存在しているようには思われない。

 

(四五―四六頁)

「大規模発電所の建設」の意味

都市近郊における大規模発電所の建設というイノベーション

安価な電力を都市全域に供給可能になった。遠くの発電所ではなく、都市近郊における電力供給が可能になったことにより、より安価かつ都市全域への電力供給が可能になった。このイノベーションなくしては、都市全域への電力供給は不可能であった。

『ドイツ路面電車ルネサンス』の刊行

 2024年7月30日に、論創社から『ドイツ路面電車ルネサンス――思想史と交通政策』(ISBN: 978-4-8460-2303-4)を上梓した。

 本書は、近代における交通と移動性の普遍的意義に関する考察から始め、前世紀初頭における路面電車の隆盛、前世紀中葉におけるその没落、そして前世紀末におけるそのルネサンスに至る過程を再検討してる。ドイツ路面電車ルネサンスの意義が、都市交通政策及び近代思想史のコンテキストにおいて解明されている。とりわけ、公共交通手段である路面電車を思想史的観点から討究するという研究方法は、本邦の読書界において人口に膾炙されていない。しかし、この交通政策史における画期的事象は、近代の時代精神によって必然的に産出された。同時に、このルネサンスがほとんどの都市において生じなかった不可避的理由もあり、その論拠が解明された。本書は本邦での最初の試行である。

 もちろん、この意図が成功するか、否かは、本書の内容に依存している。400字詰め原稿用紙で600枚程度の分量がある。当初の想定では、1,000枚を越えていた。そのような大著の定価は1万円を越え、市場では流通しない。それゆえ、この事象の事例研究、ハレ及びベルリンの路面電車の延伸過程に関する具体的な研究部分を削除して、その理論編だけを先行出版した。本書の刊行後、『ドイツ路面電車ルネサンスの栄光と挫折――ハレとベルリン(仮題)』として出版する予定である。

ジュンク堂書店池袋本店(特別展示)

https://x.com/junkuike_jitsu/status/1819219343693303996.

国会図書館(及び公立図書館)

https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I033602518.

大学図書館

https://ci.nii.ac.jp/ncid/BD08004601.

ドイツ国立図書館(ライプチヒ)

https://portal.dnb.de/opac.htm?method=showFullRecord&currentResultId=per%3D%22tamura%2C%22%20AND%20per%3D%22ichiro%22%20AND%20jhr%3D%222024%22%20AND%20Catalog%3Ddnb%2526any&currentPosition=0&cqlMode=true&bibtip_docid=1338985728.

ベルリン国家図書館

https://kvk.bibliothek.kit.edu/view-title/index.php?katalog=STABI_BERLIN&url=https%3A%2F%2Fstabikat.de%2FRecord%2F1899363734&signature=3EGZsyMp8XaXwGB80vuitqujLv-YivLO_7tH9SiGIEI&showCoverImg=1.

オーストリア国立図書館(ヴィーン)

Doitsu romen densha runesansu : shisōshi to kōtsū seisaku<br> - Österreichische Nationalbibliothek (onb.ac.at)

バーゼル大学図書館

https://swisscovery.slsp.ch/discovery/fulldisplay?docid=alma991171958306505501&vid=41SLSP_NETWORK:VU1_UNION&lang=en.

論創社

https://ronso.co.jp/book/%e3%83%89%e3%82%a4%e3%83%84%e8%b7%af%e9%9d%a2%e9%9b%bb%e8%bb%8a%e3%83%ab%e3%83%8d%e3%82%b5%e3%83%b3%e3%82%b9/.

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楽天ブックス

https://books.rakuten.co.jp/rb/17932382/?l-id=search-c-item-text-02.

20240714     

自著を語る:『ドイツ路面電車ルネサンスーー思想史と交通政策』

自著を語る:『ドイツ路面電車ルネサンス――思想史と交通政策』 

                                                         田村伊知朗

 

 

田村伊知朗『ドイツ路面電車ルネサンス――思想史と交通政策』(論創社、2024年)。

論創社:https://ronso.co.jp/book/%e3%83%89%e3%82%a4%e3%83%84%e8%b7%af%e9.

 

はじめに

 「自著を語る」という形式が、近年ではかなり一般化している。この形式は、インターネット上において稀ではなくなっている。京都大学出版会のある叢書において、この形式の論稿を公表することが、その著者の義務として制度化されている。[i] この形式は、半世紀前には、ほとんど想定されていなかったが、インターネットの普及によって可能になったようである。そこでは、「まえがき」あるいは「あとがき」以前の問題意識等、書籍では書けない事柄、すなわち書籍の統一性を破壊する事柄も、この公表形式によって執筆可能になった。また、著書公刊以後における読者からの批判に対しても、リプライ可能になった。

 

本書の基本的立脚点

 第一に、路面電車ルネサンスに対する本書の基本的立場に言及してみよう。本書は、路面電車の都市交通政策の総体における意義を宣揚し、そのルネサンスを推進すべきであると主張しているわけではない。もちろん、本研究は、路面電車を動力化された個人交通(=自家用車)、バスそして地下鉄と比較して、動力化された交通及び旅客近距離公共交通におけるその交通政策的意義を取り扱っている。(第二章第三節~第六節、第七章第一節~第三節)しかし、本書は、路面電車ルネサンスをドイツの全ての都市において推進すべきであると主張しているのではない。自動車の社会的役割の意義も顧慮されている。とりわけ、動力化された個人交通が近代の普遍的原理の一つである自由概念によって基礎づけられているかぎり、この交通手段を廃棄することは不可能であろう。(第二章第五節~第六節)

 本書では、原理主義的観点から路面電車が考察されていない。原理主義とは社会における様々な諸原理のうちから、ある特定の原理を取り出し、それに依拠して交通政策を論じることである。本書は、原理主義から自由である。思想としての整合性と、その社会的受容性は、一致することはない。したがって、都市総体における路面電車の網状化を意図しているわけではない。自動車を廃棄すれば、都市環境は格段に向上するが、自動車なき都市生活を目的にしているわけではない。自動車の機能を代替しうる大量公共交通の可能性を探求しているにすぎない。[ii]

 第二に、本書の研究方法論に言及してみよう。本研究は、数学的方法論と物理学的方法論から無縁である。これまでの交通学はこの二つの方法論によって支配されてきたと言っても過言ではないであろう。もちろん、筆者はこの二つの研究方法論の意義を否定しているのではない。これらの方法論が現在の交通学の隆盛をもたらしたことは否定できない。しかし、これらの方法論を用いることによって、交通学の全体像は、ほぼ知覚不能になっている。対照的に、本書は統合科学的方法論に依拠している。「統合科学的方法論は既存の諸学問の成果を媒介にすることによって、その全体的形象の把握を目的にしている。本研究もまた、この方法論に依拠している」。(237頁)[iii] フェルトハオス等によって提唱されてきた統合科学的方法論を用いることによって、本書はドイツ路面電車ルネサンスの全体像の把握を目的にしている。同時に、このドイツの研究方法論は、本邦の歴史学的方法論、つまり近年浮上してきた歴史知的方法論と交差する。「経験知・生活知、総じて感性知と、科学知・理論知、総じて理性知・・・・・・その二種の知を時間軸において連合させる21世紀的新地平、そこに立つ。こうした〈地平〉において歴史知は成立し、歴史知はパラダイムとして確立する」。[iv] 統合科学的方法論が、歴史知的方法論と意味論的親近性を獲得する。

 第三に、本書の題名、とりわけそれに冠された「ドイツ」という限定性に言及してみよう。もちろん、後期近代における路面電車ルネサンスは、ドイツだけではなく、アメリカ合衆国、フランスそして本邦でも生じており、ドイツだけに限定されているわけではない。しかし、研究書は、そもそも限定された領域に関するものである。それぞれの国におけるこの交通政策史に刻印されるべき事象は、国ごとに微妙に異なっている。「路面電車ルネサンスを基礎づけた思想、例えば自然環境の破壊に関する認識及びその意義づけも、それぞれの国において独自の歴史的起源を持っており、必ずしも同一位相にあるわけではない」。(236頁)それゆえ、本書はその研究対象を一つの国、ドイツに限定している。もちろん、研究対象はドイツ以外でも選択可能である。しかし、本書執筆の基礎になった事例研究は、ドイツ再統一以後のハレ市、ベルリン州の路面電車の延伸計画の実現過程に関する考察に基づいている。[v] それゆえ、事例研究という特殊性から出現したその普遍的考察も、ドイツという限定性を免れない。

 さらに、研究対象をドイツに限定するという理由は、その根拠になった研究文献をドイツ語文献に限定していることと関連している。もちろん、日本語、英語そしてフランス語で執筆された研究文献にも、優れたものは数多いであろう。しかし、本書はその依拠すべき研究論文をドイツ語文献に限定している。「本研究の課題は、ドイツ路面電車ルネサンスを意義づけることにある。それゆえ、日本語によって本文を執筆しているにもかかわらず、本研究が依拠する研究文献は、前世紀後半から今世紀において公刊されたドイツ語文献にほぼ限定されている」。(236頁)どのような偉大な研究書であれ、依拠すべき研究論文は限定されている。有限な人間が優れた研究論文全てを入手し、それを読解することは不可能である。むしろ、依拠すべき論稿の限定性を明示していることによって、本書は他の研究書よりも誠実であろう。もちろん、本研究が前世紀後半から今世紀初頭に公刊された全てのドイツ語論文を読解していると主張しているのではない。むしろ、管見に触れた論文の方が、はるかに少ないであろう。本書は、その限定された時間のなかで読解された研究論文に依拠することによって成立している。

 第四に、本書が路面電車ルネサンスの根源的理由をどのように考察しているのか、に触れてみよう。本研究は、その根源的根拠を都市構造の変容(第四章)と都市環境問題の悪化(第五章)とみなしているが、そのどちらが、より根源的であろうか。本書は、前者を路面電車ルネサンスの根源的理由と考えている。都市空間の限りなき拡大とそれによる交通、とりわけ動力化された個人交通の増大、これに対する反措定としての交通縮減の思想こそが、このルネサンスを思想史的に基礎づけている。本書は、交通縮減という思想を第四章において考察している。交通の増大の必然的根拠は、都市構造の変容にある。都市交通政策史における画期的事象は、交通思想史における画期的思想によって基礎づけられている。

 したがって、環境問題だけに依拠することによって、このルネサンスが生じたわけではないし、都市構造の問題を看過すれば、環境問題の改善は個人的な倫理的要請にとどまり、実現化は砂上の楼閣とならざるをえない。「都市住民が交通態度を決定する際に、空間構造が問題になる。交通態度は、都市住民の主観的意志ではなく、客観的な都市構造によって前もって決定されている。交通手段の選択に際して、都市住民がどれほど善を意志しようとも、その裁量余地は、ほとんど無化されている。・・・・・・交通縮減を目的にする秩序政策が、要請されている。都市構造が変革されることによって、交通縮減が構造的に可能になる。この思想の端緒は、交通を最初から縮減できることにある」。(126頁)都市住民の交通態度は、都市構造によって前もって決定されている。そして、交通縮減は、空間構造の変容によって初めて実現される。「統合された交通計画という基礎的思想は、以下の考察に基づいている。すなわち、交通計画が他の計画領域、とりわけ空間計画と調和し、結合している場合だけ、交通問題は解消されうる。この概念の出発点は、交通産出的な空間構造が、(動力化された)交通拡大の本質的原因の一つであるという点にある」。[vi] 交通、とりわけ動力化された交通が都市住民の生活において必要不可欠になるのは、それを必要としている空間構造にある。都市交通政策は、この構造に依存している。

 都市郊外が限りなく拡大するのではなく、市民生活にとっての不可避の機能が都市中心街へと帰還することによって、新たな都市理想像が提起される。「住宅地と職場が適度に凝集し、都市機能が多種多様に混合されており、そして公共空間が魅力的であることによって、都市住民は遠距離を移動することなしに、快適な生活を享受できる。住宅、職場そして公共空間が一体化し、コンパクトな都市が形成される。とりわけ、住宅が都市郊外ではなく、都市中心部において建設される。すなわち、都市機能が都市中心部において集積されるべきであるという表象が、都市構造の理想像として提起された。・・・・・・この秩序政策は、都市郊外から都市中心部への都市機能の還帰を促す」。(129-130頁)路面電車という交通手段は、人口が集積された都市中心街においてのみ有効に機能する。都市機能が都市中心街へと帰還することによって、路面電車ルネサンスが生じる。

 最後に、本書には、400字詰め原稿用紙換算で、100枚以上のドイツ語要約が添付されている。その根拠は以下の点にある。「仮に、本書にドイツ語要約が添付されていないと仮定してみよう。その場合、本書の存在自体が、ドイツ語圏の研究史において刻印されることはないであろう。・・・・・・しかし、ドイツ語要約が添付されることによって、本書は旅客近距離公共交通及び路面電車ルネサンスに関するドイツ語圏の研究史において位置づけられる」。(235頁)ドイツ語要約によって、本書は、本邦だけではなく、ドイツの研究史に位置づけられる。また、日本語索引にはドイツ語が添付されている。ドイツ語翻訳の妥当性を検証するためである。

 

おわりに

 本書は、ドイツ路面電車ルネサンスの理論編である。この理論研究の土台になった事例研究、すなわちハレ市とベルリン州における路面電車の延伸計画の実現過程と挫折過程に関する考察が、既に準備されている。『ドイツ路面電車ルネサンスの現実態――栄光と挫折(仮題)』が、近日中に公刊されるであろう。

 

 

[i] 京都大学東南アジア地域研究研究所編「叢書紹介プロジェクト『自著を語る』」. In: https://edit.cseas.kyoto-u.ac.jp/ja/jicho/. [Datum: 02.08.2024]、参照。

[ii] Vgl. Hrsg. v. City: Mobil: Stadtverträgliche Mobilität. Handlungsstrategien für eine nachhaltige Verkehrsentwicklung in Stadtregionen. Berlin: Analytica 1999, S. 30.

[iii] 本文中における頁数の記載は、本書のそれを表現している。

[iv] 石塚正英『歴史知と学問論』社会評論社、2007年、7-8頁。

[v] 例えば、田村伊知朗「後期近代の公共交通に関する政治思想的考察―ハレ新市における路面電車路線網の延伸過程を媒介にして」『北海道教育大学紀要(人文科学・社会科学編)』第66 巻第1 号、2015年、213-223 頁、参照。

[vi] Hrsg. v. City: Mobil: Stadtverträgliche Mobilität, a.a. O., S. 43.

 

田村伊知朗「自著を語る: 『ドイツ路面電車ルネサンス――思想史と交通政策』」石塚正英監修『歴史知と現代の混迷――戦争、宗教、民族、感染症の諸相』柘植書房新社、2025年、221-226頁、所収。

『ドイツ路面電車ルネサンス』その後 窮地?

『ドイツ路面電車ルネサンス』その後 窮地?

 

 『ドイツ路面電車ルネサンス』の最終校正版を論創社に手渡した後で、幾つかの誤植を発見した。その時は、七月上旬であり、装丁の校正も六月下旬に終了していた。にもかかわらず、表記法の問題、例えば「かぎり」あるいは「限り」、どちらにすべきか、真剣に悩んだ。しかも、そのどちらが良いのか、判断がつきかねた。再校正をお願いしても、更に再々校正を依頼する羽目に陥るかもしれない。それは、日本語の慣行に依存しており、どちらが正しいかは、曖昧な境界に位置している。

加えて、最終校正が終了しているので、五月雨式に校正を依頼すると、行数の変更が生じる。その場合、本書全体に影響を与える可能性がある。字数が一字分だけでも増減すると、行数そして頁数が増減し、索引等に影響を与える。また、担当編集者より、今後の校正は受け付けないと言われていた。かなり、悩んだ記憶がある。とくに、バスを停留所で待つという何もすることがないときには、頭のなかで数々の妄想が浮かんだ。講義終了後における大学の近くあるバス停留所の光景は、今でも鮮明に覚えている。数本の煙草を吸いながら、あれこれ考えていた。「組版会社に直接、依頼するか」という小賢しい案も浮かんだ。

 最終的に、脳裏に浮かんだ小賢しい妄想を断念させた言葉は、古典のなかの一節である。とりわけ、『鶡冠子』の一節と『論語』の一節が、私の軽挙妄動を抑えてくれた。すなわち、「「一葉目を蔽えば、太山を見ず」、[1] 「君子固より窮す。小人窮すれば斯に濫る」、[2] である。そのどちらも、窮地に陥ったときには、より正確に言えば、窮地に陥ったと自分が判断しているときには、その窮地の根源から脱しようと足掻き、藻掻くことを諫める言葉である。一葉しか見ないこと、つまり「かぎり」あるいは「限り」、そのどちらにすべきかという悩みは、放擲すべき枝葉末節な事柄でしかない。しかし、本人の妄想は別にして、四〇〇字詰め原稿用紙換算で七〇〇枚近い本書は、既に校了している。客観的状況は至福の状態にある。にもかかわらず、本人の主観によれば、窮地に陥っていると判断しているだけである。

 そもそも窮地はあるのであろうか。否、窮地なぞはないのである。窮地に陥っていると自己が判断しているだけである。その場合、何もしないことが重要である。ドイツ語の一節、“Es ist schon erledigt“. (既に、事柄は終了している。)が浮かんだ。この箴言は、あれこれ論争している二人の人間に対して第三者が投げかける言葉である。過去のある事柄が錯誤していたとしても、それは変更不可能である。

過去のある事象に関して、何も言わないこと、何もしないこと、そして何も考えないことが、窮地を脱するための最良かつ最適の選択肢である。本書は既に校了している、すなわち終了している。それに対して、何らかの変更を加えることはできない。

(二〇二四年一一月一五日、一五時)

 

[1] 周子義、陸佃『鶡冠子』藝文印書館、一九九五年、八頁。

[2] 孔子「衛霊公」『論語』(宮崎市定訳『現代語訳ーー論語』岩波書店、二〇〇〇年、二五二頁)

研究会報告原稿

レジュメ 「19501960年代の戦後西ドイツにおける自動車の所有と使用」

 

この時期の西ドイツにおいて自動車が増大した。本節では、この意義を自由の実現という観点から、自動車の所有と使用の増大を考察する。自動車の所有と使用は、近代に特有のパラダイムとしての自由の実現と関連している。この自由は、個人的自由と関連している。本節は、以下の3項から構成されている。

 

1 西ドイツは、過去の社会主義(民族社会主義)と同時代の社会主義(東ドイツ社会主義)を集合主義とみなし、自己を自由主義国家とみなす。個人的自由の拡大が、社会の発展を促す。鉄軌道を集合主義の象徴とみなし、自動車、とりわけ動力化された個人交通を個人的自由の象徴とみなす。

 

2 戦前1920年代及び民族社会主義の時代に贅沢品であった自動車の所有が、平均的労働者にとって実現可能な夢の対象になった。まず、フォルクスワーゲン(国民車)が一般化した。次いで、この自動車が大衆にとって一般化したことを背景に、より高性能な自動車が大衆によって希求された。自動車のヒエラルヒーが、社会的ヒエラルヒーにつながった。

 

3 自動車を運転することの意味を考察する。移動が自己意思の形態化としてみなされる。大衆社会において、自分は大衆ではないという意識が増大した。より高性能の自動車を運転することによって、より強大化した自我を確認することができる。

 

1 過去の社会主義(民族社会主義)と同時代の社会主義(マルクス主義的社会主義)に対する競合関係――西側自由主義国家としての西ドイツの自己規定

 

1.1 自由=個人的自由の象徴

1.2 二つの社会主義を、同一概念とみなし、集合主義と総括=全体(民族共同体と社会主義国家)へと奉仕する。

1.3 自由を個人的自由と同一とみなし、その追求が、19501960年代の経済復興を進展

1.4  自動車の優秀性 

1.5 鉄軌道――集合主義: 自家用車=動力化された個人交通(MIVMotorisierter Individualverkehr)――個人的自由の象徴

 

2   自動車の所有――19501960年代の経済復興

 

2.1 大量生産と大量消費の象徴としての動力化された個人交通: 自由主義において労働者も1920年代において贅沢品であった自動車を所有できる

2.2 ナチズムの象徴=国民車構想の実現 階級の消滅:ナチズム

     生産の領域における階級の消滅: ナチズムの理念(階級ではなく、ドイツ国民)

2.3 労働者の平均賃金の上昇: 夢の実現: 神としての動力化された個人交通

2.4 生産者としての社会的ヒエラルヒー: 消費者としての社会的ヒエラルヒー: 後者の前面化

 

3     自動車の運転

 

3.1  親密空間

3.2  労働疎外の解消

3.3 近代の機制: 自己意思の形態化

3.4 個人的自由の最大化: 自己の意思の最大化

3.5 自我の強大化

3.7 大衆社会における自我の強大化=自分は大衆ではない

3.6  共同性の水準に自由実現の断念性: 共同的水準、国家、社会全般における自由実現が困難であることによって、個人的自由の実現への方向性がより促進される。

近代思想史という学問――近代交通思想史という学問の構築ーー近代政治思想史と近代社会思想史

近代思想史という学問――近代交通思想史という学問の構築、そして政治思想史と社会思想史

 

 大学の講義科目において近代思想史という科目がある。おそらく、慶応義塾大学他、少数の大学でしか開講されていない。通常は、社会思想史、政治思想史、経済思想史等の科目が開講され、近代思想史という科目が開講されていることは少ない。また、開講されていても、社会思想史、政治思想史、経済思想史等の研究者がその科目を担当している場合も多い。既存の科目名称と代替したとしても、問題は生じないであろう。内容も大同小異である。デカルト、スピノザ、ヘーゲル、マルクス等の近代思想史において巨人とされている思想家が、時代順に講義の中で取りあげられている。もちろん、科目名称によって、あるいは講義担当者の専門の差異によって、取り扱かわれる思想家に関する取捨選択はある。経済思想史であれば、アダム・スミスやマルサスを除外することはありえないが、政治思想史であれば、まったく言及しないことも稀ではない。

 いずれにしろ、近代思想史が、近代思想の歴史であることは、ほとんど疑われることはないであろう。しかし、この科目を近代に関する思想史と解釈すれば、かなりの困難が生じる。近代とは何かについて、科目担当者が考察することになる。近代という時代精神を大学教授が自らの有限な知識を動員して、考察しなければならない。このような作業を実行すれば、例えばヘーゲルの哲学に相似した時代精神を体系化しなければならない。筆者もまた、このような科目を設置したことがある。地方国立大学、とりわけ教育学部では、科目の新設は科目担当者の裁量に任されている。英文法担当者であれば、変形生成文法概論という専門科目を新設し、チョムスキーの理論を30回にわたって講義することも可能である。他の教員、例えば自然科学の専門家は言語学に関して無知であり、その内容を想像することはできない。このような職場環境の中で、筆者も近代思想史を新設し、近代に関する思想を体系化しようとした。しかし、結局、ヘーゲルの哲学体系を中心にした思想を講義しただけに終わった。あるいは、別の年度では、社会思想史に似た思想家の思想を順に講義しただけであった。近代思想史を近代社会思想史に代替しただけで終わった。近代という数百年の歴史を15回の講義で体系化することは、有限な人間には不可能であった。

 そこで、近代という時代精神の一側面、交通という部分領域に限定して、近代交通思想史という科目へと変更した。近代という時代精神を考察することを断念し、その部分領域を討究することになった。筆者が本邦で初めて、近代交通思想史という専攻する研究者になった。ドイツでは、このような研究家は少数ながら存在しているが、日本では皆無であろう。また、大学の講義科目においてこのような専門科目を、筆者の勤務大学以外に見出すこともないであろう。橋のない場所に橋を架ける作業に関心がある。もちろん、先行研究が山ほどあるマルクス、ヘーゲルの思想を別の視点から考察するという伝統的手法が間違っているわけではない。しかし、近代交通思想史という学問体系を新たに構築する意思も、尊重されるべきであろう。

 最後に、近代交通思想史以外の筆者の担当科目に触れてみよう。現在では、この科目以外に、西洋政治思想史と西洋社会思想史を担当している。20年前、つまり前世紀末までは、大学講義の大半の専門科目は、4単位制がほとんどであった。世紀転換後、2単位制が主流になっていた。国際標準の9月入学が国際化された大学にとって愁眉の課題になったからである。そこで多くの政治思想史担当者は、政治思想史Ⅰ、Ⅱと衣替えした。それまで、多くの政治思想史担当者は、後期だけしか試験をしない豪傑もいたが、そのような豪傑は駆逐された。その後、時間が推移にしたがって、そのような曖昧な科目名称を変更することが、教務課から要請された。筆者の勤務校でも、西洋社会思想史の科目設定が要請された。西洋史概論の代替科目が必要であったかららしい。歴史科目である西洋史概論の代替科目が西洋政治思想史では、課程認定上問題であったようである。

 そこでこの二つの科目を二分割した。ただ、単純に時間によって二分割することもできなかった。4年生、5年生等が、科目名称は異なるが、内容上重複している科目を受講するからだ。そこで、西洋社会思想史を通常の社会思想史とほぼ同様に構成した。西洋思想史における巨人とされているイギリス経験論、大陸合理論、ドイツ観念論哲学へ至る思想史の流れ通りに講義している。西洋政治思想史は近代の政治的転換、つまり革命の歴史と解釈して、ドイツ宗教改革、イギリス革命、フランス革命、ドイツ三月革命の順に16世紀から19世紀の巨大な政治変動を支える事象を考察対象にした。個別的思想家の思想ではなく、巨大な社会的かつ政治的変動そのものの思想を考察した。たとえば、ドイツ宗教改革では、ルターの思想ではなく、プロテスタントの出現の意味を内面的自由の確立という観点から抽象的に考察した。

 この三つの科目、近代社会思想史、近代政治思想史、近代交通思想史はともに西洋の思想に基づいている。限定された知識しかない筆者が、方法論の異なる三科目を担当することになった。大過なきことを祈るしかない。

公共性の変革ーー19世紀の国家から20世紀の都市構造の変革、公共交通の変革

  1. 二つの異なる研究対象

現在、19世紀中葉のドイツ政治思想史とりわけヘーゲル左派の政治思想と、20世紀後半のドイツ都市交通思想史とりわけ路面電車ルネサンスに関する研究に従事している。この二つの研究対象は、近代の揚棄という観点から対照的である。前者が近代の揚棄の可能性を前面に出しているが、後者はその不可能性を前提にしている。後者は時代そのものの変革ではなく、限定された都市における公共交通の可能性を志向している。国家より狭く、市民意識にとって可視的な都市という空間における公共性を転換しようとしている。

 この二つの研究対象に共通していることは、公共性の存在形式を現状とは異なる形式において構想している点にある。ブルジョワジー的な個人的自由が、19世紀中葉において進展していた。ヘーゲル左派は、ブルジョワジーに統御された国家的共同性に対抗する形式において別の近代つまり近代の揚棄を構想していた。20世紀後半の交通思想も、動力化された個人交通の進展という潮流に対抗する都市内の公共交通の存在形式、つまり路面電車ルネサンスを意義づけようとしている。

 現在、私はこの二つの研究を同時に実施しようとしている。それぞれ、数年以内に単行本としてまとめるつもりである。

 

  1. 19世紀のヘーゲル左派に関する研究

現在、私が従事している研究課題、純粋批判の哲学は、ブルーノ・バウアー(Bruno Bauer 1809-1882)研究史そしてヘーゲル左派研究史において、それ以前の彼の哲学、自己意識の哲学と比較してほとんど看過されてきた。1843年以前におけるバウアーの自己意識の哲学こそは、ヘーゲル左派における近代の揚棄の典型的思想形式であった。マルクス、エンゲルスそしてヘーゲル左派総体に影響を与えた思考様式であった。バウアーはこの近代の揚棄に関する思考様式――これまでの自己の思想的基礎であった――を1844年に根底的に批判し、自己意識の哲学から純粋批判の哲学へと移行した。近代の揚棄が不可能になった根拠は、大衆社会の到来が予見されていたからである。大衆社会において個人的利益が指向され、公共性への志向は減少する。時代精神の変革という課題は、大衆にとって疎遠であった。

このような純粋批判の哲学をたんにバウアーが残した文献だけではなく、所謂バウアー派のヘーゲル左派の諸思想家の哲学というコンテキストにおいて定位しようとしている。この研究目的を成就するためには、伝記的事実すらほとんど解明されていない思想家を研究しなければならない。ヘルマン・イエリネック、テオドール・オーピッツ、そして19世紀の教育学者、カール・シュミット(1819-1864)等の同時代の思想家の伝記的事実を含めた思想が解明されねばならない。純粋批判の哲学の同時代的受容の内容がより精密になるであろう。彼らの伝記、そして純粋批判の受容に関する研究は、本邦そしてドイツにおいてもほとんど解明されていない。

 

  1. 20世紀の公共交通に関する研究

 大衆社会は19世紀中葉から20世紀後半にかけてより進展した。もはや、社会総体の改革という思想は、その基盤を喪失した。社会総体ではなく、より限定された空間、つまり都市、地域社会の問題がより現実性を獲得した。国家の変革ではなく、都市の変革が後期近代の市民意識において形態化された。

19世紀と同様に20世紀後半においても、大衆化つまり個人の利益への志向性は衰えたわけではない。都市構造を規定している主要な構成要素である都市交通も、動力化された個人交通へと一元化されようとしていた。しかし、個人交通への一元化は都市中心街の機能と都市環境の限界を超えつつあった。交通の個人化への限界を阻止するために、路面電車ルネサンスが1980~90年代のドイツにおいて発生した。もちろん限定された都市だけであったが、個人的快適性ではなく、公共的利益を志向した現象が発生した。公共性に関する市民意識が、この時期に変容した。

 都市構造の変容に関する実証的研究と同時に、路面電車ルネサンスの意義を後期近代における公共性の転換として考察する。

討論 路面電車

12月25日09時16分、締切ました。

下記のテーマで討論会を実施する。

「後期近代における路面電車の意義を思想史的観点から論述する」

1、締切:12月24日24時
2、1500字以上2000字以内(PCで計算する)。
3、投稿者は、四文字熟語を自己の名前とする。本名を書かない。
4、投稿論文の最初の行に、タイトル、字数、四文字熟語を記入する。
5、投稿者は、まず、ワードで文書を作成し、それをコメント欄にはりつける。

路面電車による非日常空間の形成――バーゼル市、ハレ市の事例を中心にして(二)

路面電車による非日常空間の形成――バーゼル市、ハレ市の事例を中心にして(二)

 

 

3. 旧車両基地における旧式車両の動態保存

 

 現在、ハレ市ではローゼンガルテン車両基地において営業車両が格納されている。非営業車両はゼーブナー旧車両基地に動態保存されている。旧車両基地において営業運転終了車両が保存されている。
第一、第三土曜日だけであるが、この車両基地は路面電車博物館として開館されている。
「画像7」
Strassenbahfreunde

 

 

 

 

 

11月から4月までの冬季は閉館されている。路面電車の非営業車両あるいは車両一般に対するマニア的関心を持っている市民あるいは観光客にとって、この博物館は好評である。入場料は大人1人あたり2ユーロである。この博物館の維持費用として使用されている。入場券は、かつての硬券が使用されている。ここにも、観光客への配慮がなされている。
「画像8」
Halle

 

 

 

 

 

 この博物館は、ボランティア団体「ハレ・路面電車友の会」(Halleschen Straßenbahnfreunde e.V)によって運営されている。ハレ交通株式会社(HAVAG)の現役職員そしてその退職者も属しており、専門的知識を構成員に供与している。この協会構成員は、この車両基地をほぼ自由に使用できる。また、博物館の来訪者への説明役も果たしている。博物館の開館時期には、営業運転されていない車両が特別なルートで運行されている。
さらに、運転手付きの車両が、時間当たり250ユーロで個人に貸与されている。 2 ちなみに、19世紀に建造された動力車両(Tribwagen 4: Baujahr: 1894 Sitzplätze 16)も貸与されている。 前述のように、この車両を結婚式の披露宴会場として使用することも可能である。

 

4. ホテルによる路面電車の無料券の配布

 

非日常的空間つまり祝祭的空間において、都市住民と異邦人が共存する。非日常的空間において異邦人が存在しないかぎり、それは祭典ではない。祝祭的空間を盛り上げるために、バーゼル市、ハレ市の観光ホテルにおいて宿泊する異邦人に対して、その宿泊期間に応じて、地域内の公共的人員交通の無料乗車券が配布されている。この配布によって、観光客は無料で路面電車とバスを利用できる。この配慮は通年的に実施されている。
「画像9」
Halle_u_basel_hotel_ticket_2

 

 

 

 

 

 

 

 

 

もちろん、すべてのホテルが旅行者にこのような配慮をしているわけではないない。個別ホテルがその費用を負担するので、この配慮をしないホテルもある。
 ここで問題にすることは、その金銭負担の側面だけではない。その異邦人にとって、乗車方法自体が疎遠である。最大数日あるいは数週間しか当該地域に滞在しない観光客は、とりわけ複雑なバス路線網を自由に使用することはできない。バスは、都市の日常的空間において自由に路線網を設定できる。バス路線網と停留所が複雑になる。同一名称の電停が、方向別に複数あることも稀ではない。それに対して、路面電車網は異邦人にも理解しやすい。無料乗車券は路面電車に関する事前知識の無い異邦人に対してその利用を促進する。
 また、ドイツ各都市の公共交通における切符の購入手段は、必ずしも画一的ではない。ドイツ人ですら戸惑うこともある。たとえば、ベルリン市では事前に購入した切符を自分で刻印機械に入れて刻印するが、ハレ市では切符を買った段階ですでに自動的に刻印されている。 3 このような事情を異邦人が知る由もない。とりわけ、日常的会話および読解能力が貧困である外国人にとって、無料乗車券は魅力的に映る。切符を購入する際、その煩瑣性から解放されるからだ。

 

5. 路面電車の車内における電光掲示板

 

ハレ市の路面電車の車両には、すべての電停が記載された電光掲示板が設備されている。
「画像10」
20140914halle

 

 

 

 

 

乗車している路線が都市全体においてどこに位置しているかが、明瞭になる。この電光掲示には、次の電停だけではなく、終点までがすべて記載されている。これによって、自分が走行している地点が都市全体においてどの点を通過しているかが明瞭になる。日常的に路面電車を利用している都市住民にとって、このような位置確認は不要である。むしろ、その都市に関する詳細な位置情報に疎遠な異邦人が、このような情報を必要としている。

 

6. おわりに

 

 本稿は、「路面電車による市民的な公共空間の形成――ベルリン市とハレ市の日常的空間における事例を中心にして」の続編あるいはその補遺にあたる。  4 もちろん、路面電車は地域内の公共的人員交通において日常的に運行されている。しかし、それは非日常的空間においても一定の役割を果たしている。時間的に考察すれば、この空間はほとんど無意味なほど小さい。100周年記念行事はまさに100年に一度しかない。しかし、都市住民そして観光客にとって、祝祭は限定された人生において記憶に残っている。それが稀であればあるほど、人間の記憶に刻印された時間はそれだけ鮮明である。この記憶のなかに、路面電車の残像が印象づけられている。
 当然のことながら、本稿で取り上げたバーゼル市とハレ市の祝祭的空間は、両市で実施されているそれを網羅しているわけではない。その一部でしかない。しかも、その一部の祝祭的空間において路面電車が一定の役割を果たしているかぎり、ここで論述の対象にしている。それは特殊な事例研究であり、普遍的考察ではない。
 したがって、これらの業績は、狭義の研究論文に属しているわけではない。この二つの論稿は、講演レジュメを文章化したにすぎない。講演会の対象者は市民である。彼らは、公共交通いわんや路面電車に関する基礎知識を持っていない。しかし、私の設定した論題に着目し、講演会に参加した。
  一般化して言えば、すべての種類の講演会はこのような市民大衆を対象にした特殊な研究に基づいている。何ら基礎知識を持っていない人間に対して、講演者が自己の主張を展開しなければならない。限定された講演時間において、自己の主張を理解させねばならない。したがって、狭義の専門論文的な専門用語を駆使することは、避けねばならない。基礎知識にない人間に対して、jジャーゴン(Jargon)を駆使することは「意識高い系(笑)」と馬鹿にされても仕方がないであろう。 5 このような講演会において、写真、動画等を多用することが推奨されている。基礎知識がない大衆に対して、写真、動画等は有効な媒体である。本稿でも視覚情報が駆使されている。
 ここで大衆とみなされるのは、後期近代におけるすべての人間である。後期近代において、人間は専門家としてみなされている。その知識が高度化すればするほど、その領域は狭まる。ノーベル受賞者である山中伸弥・京都大学再生医科学研究所教授は、本邦における最高水準の知識人に属している。彼ですら大衆の一員である。その専門領域に近い分野、たとえば臨床医学において彼は、一般的水準に到達していなかった。「じゃまなか」つまり「邪魔な山中」という名称が、彼に冠されていたそうである。いわんや、彼の専門領域である人工多能性幹細胞研究と遠い分野、たとえばベルリン市の道路行政に関する研究で専門的知識を得ることは不可能である。誰もが専門分野以外において、素人大衆として振舞わざるをえない。
 しかし、後期近代における大衆は自己の専門分野以外における見識を必要とする。選挙があれば、有権者として投票行動を実施しなければならないし、エネルギー政策とりわけ原子力発電に対しても見識を必要とする。その無限に広大な領域において最低限度の見識を得ることが必要である。専門知は大衆に媒介されねばならない。

 

 

 

 

 

 


1. 1. Vgl. Hrsg. v. HAVAG: 125 Jahre elektrisiert durch Halle. In:
http://www.havag.com/news-detail/125-jahre-elektrisiert-durch-halle/2016/1/1/25738.. [Datum: 05.05.2016]

 

2. Vgl. Mietbare Fahrzeuge. In: Halleschen Straßenbahnfreunde e.V. In:
http://www.hsf-ev.de/sonderfahrten/fahrzeuge. [Datum: 05.05.2016]

 

3. [Fahrkartenautomat, Halle]. In: Halle Spektrum. In:
http://hallespektrum.de/nachrichten/umwelt-verkehr/havag-schaltet-fahrkartenautomaten-rund-um-silvester-ab/195929/. [Datum: 20.04.2016]; [Fahrkartenautomaten u. Entwerter im Berliner Verkehrsbetrieb]. In: Public Transport in Berlin. Spirit of Berlin. In:
http://www.spirit-of-berlin.de/spiritsenglish/transportation/. [Datum: 20.02.2015]

 

4. 田村伊知朗「路面電車による市民的な公共空間の形成――ベルリン市とハレ市の日常空間における事例を中心にして」『田村伊知朗 政治学研究室』参照。
(その一)http://izl.moe-nifty.com/tamura/2016/05/post-286c.html (その二)http://izl.moe-nifty.com/tamura/2016/05/post-e632.html (その三)http://izl.moe-nifty.com/tamura/2016/05/post-5762.html

 

5.「意識高い系」『ウィキペディア』In:
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%8F%E8%AD%98%E9%AB%98%E3%81%84%E7%B3%BB. [Datum: 25.05.2016]

 

 

 

画像出典

 

画像1
Liniennet Basel und Umgebung. In: Tarifverbund Nordwestschweiz. In:
http://www.tnw.ch/fileadmin/redacteur/pdf/Drucksachen_TNW/TNW_Liniennetz_Basel_2016.pdf [Datum: 05.05.2016]

 

画像2
Hrsg. v. HAVAG: Die Stadtlinie. In: http://www.havag.com/fahrplan/liniennetz-und-tarifzonenplan">http://www.havag.com/fahrplan/liniennetz-und-tarifzonenplan">http://www.havag.com/fahrplan/liniennetz-und-tarifzonenplan [Datum: 25.04.2012]

 

画像3
Basel, Rheingasse. [Datum: 27.02.2012]

 

画像4
Halle, Marktplatz. [Datum: 09.09.2009]

 

画像5
Halle, Marktplatz. [Datum: 09.09.2009]

 

画像6
Der Wagenkorso. In: B. L. Schmidt: 100 Jahre elektrisch durch Halle. Halle 1991, S. 175.

 

画像7
Die Halleschen Straßenbahnfreunde e.V.
http://www.hallesche-strassenbahnfreunde.de/. [Datum: 05.05.2016]

 

画像8
Halle, Seebener Str. [Datum: 14.09.2014]

画像9
Halle, Grand city Hotel Halle. [Datum: 05.09.2013]
Basel, Dorint Hotel Basel. [Datum: 28.02.2012]

画像10
Halle, Hauptbahnhof. [Datum: 14.09.2014

 

画像出典において地名と日付だけが、記述されている場合がある。それは、私が撮影した写真を表している。

 

注釈
本稿は、本稿は、2015年7月2日に北海道教育大学で実施された市民公開講座「路面電車による祝祭的空間の形成――バーゼル市、ハレ市の事例を中心にして」に基づいている。そのレジュメを文章化し、加筆、修正した。本記事は、『公共空間X』に転載されている。
(その一)http://pubspace-x.net/pubspace/archives/3255 (その二)http://pubspace-x.net/pubspace/archives/3265

 

 

本記事の転載は自由であるが、著者名、題名、サイト名とアドレスを明記することが必要である。

(たむらいちろう 近代思想史専攻)

 

 

 

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