『ドイツ路面電車ルネサンス』の刊行

 2024年7月30日に、論創社から『ドイツ路面電車ルネサンス――思想史と交通政策』(ISBN: 978-4-8460-2303-4)を上梓した。

 本書は、近代における交通と移動性の普遍的意義に関する考察から始め、前世紀初頭における路面電車の隆盛、前世紀中葉におけるその没落、そして前世紀末におけるそのルネサンスに至る過程を再検討してる。ドイツ路面電車ルネサンスの意義が、都市交通政策及び近代思想史のコンテキストにおいて解明されている。とりわけ、公共交通手段である路面電車を思想史的観点から討究するという研究方法は、本邦の読書界において人口に膾炙されていない。しかし、この交通政策史における画期的事象は、近代の時代精神によって必然的に産出された。同時に、このルネサンスがほとんどの都市において生じなかった不可避的理由もあり、その論拠が解明された。本書は本邦での最初の試行である。

 もちろん、この意図が成功するか、否かは、本書の内容に依存している。400字詰め原稿用紙で600枚程度の分量がある。当初の想定では、1,000枚を越えていた。そのような大著の定価は1万円を越え、市場では流通しない。それゆえ、この事象の事例研究、ハレ及びベルリンの路面電車の延伸過程に関する具体的な研究部分を削除して、その理論編だけを先行出版した。本書の刊行後、『ドイツ路面電車ルネサンスの栄光と挫折――ハレとベルリン(仮題)』として出版する予定である。

ジュンク堂書店池袋本店(特別展示)

https://x.com/junkuike_jitsu/status/1819219343693303996.

国会図書館(及び公立図書館)

https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I033602518.

大学図書館

https://ci.nii.ac.jp/ncid/BD08004601.

ドイツ国立図書館(ライプチヒ)

https://portal.dnb.de/opac.htm?method=showFullRecord&currentResultId=per%3D%22tamura%2C%22%20AND%20per%3D%22ichiro%22%20AND%20jhr%3D%222024%22%20AND%20Catalog%3Ddnb%2526any&currentPosition=0&cqlMode=true&bibtip_docid=1338985728.

ベルリン国家図書館

https://kvk.bibliothek.kit.edu/view-title/index.php?katalog=STABI_BERLIN&url=https%3A%2F%2Fstabikat.de%2FRecord%2F1899363734&signature=3EGZsyMp8XaXwGB80vuitqujLv-YivLO_7tH9SiGIEI&showCoverImg=1.

オーストリア国立図書館(ヴィーン)

Doitsu romen densha runesansu : shisōshi to kōtsū seisaku<br> - Österreichische Nationalbibliothek (onb.ac.at)

バーゼル大学図書館

https://swisscovery.slsp.ch/discovery/fulldisplay?docid=alma991171958306505501&vid=41SLSP_NETWORK:VU1_UNION&lang=en.

論創社

https://ronso.co.jp/book/%e3%83%89%e3%82%a4%e3%83%84%e8%b7%af%e9%9d%a2%e9%9b%bb%e8%bb%8a%e3%83%ab%e3%83%8d%e3%82%b5%e3%83%b3%e3%82%b9/.

アマゾンhttps://www.amazon.co.jp/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E8%B7%AF%E9%9D%A2%E9%9B%BB%E8%BB%8A%E3%83%AB%E3%83%8D%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%B9-%E6%80%9D%E6%83%B3%E5%8F%B2%E3%81%A8%E4%BA%A4%E9%80%9A%E6%94%BF%E7%AD%96-%E7%94%B0%E6%9D%91%E4%BC%8A%E7%9F%A5%E6%9C%97/dp/4846023036/ref=sr_1_1?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&crid=2HTFCTDJG1L1Y&dib=eyJ2IjoiMSJ9.YraZO8LZbjVZFmu73UpsEg.QCVCOMPQnN3yKlAZkWIJnA8xxPAGDT_H1Qc7peABq6o&dib_tag=se&keywords=%E7%94%B0%E6%9D%91%E4%BC%8A%E7%9F%A5%E6%9C%97&qid=1720696342&sprefix=%E7%94%B0%E6%9D%91%E4%BC%8A%E7%9F%A5%E6%9C%97%2Caps%2C609&sr=8-1. 

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20240714     

自己の選択肢と自己責任ーー子供の大学受験と後期近代

  このごろの大学受験生は、高校時代に塾や予備校に通学するようである。しかし、平均的学生は、塾の宿題をすることで終わってしまう。自分で勉強する習慣を喪失する。塾に行かないほうが、かえって良い結果をもたらす。大学入試だけが人生の目的ではない。大学入試は、限定された範囲から限定された問題から出題され、それに如何にコンパクトに対応するかが、求められているにすぎない。大学生活全般をコンパクトにまとめたような指針を提示してくれるような塾は、大学生活でも社会人生活においてもはやないであろう。個人は、すべて異なる環境において思考し、決断しなければならない。

  また、地元の大学への進学志向が強い傾向にある。東京圏や大阪圏は当然であろうが、地方都市でもその傾向があるようである。例えば、函館市のような30万人都市でも、その傾向は強い。しかし、自宅から通学すると、母親にすべてお任せになる。特に、炊事、洗濯をしたことのない男子学生も多い。すべての生活を両親に任せることによって、責任を他者に押し付けるようになる。人間は自分で考えて、自分で決断し、自分で責任を負う、そして自分で死んでゆく。もちろん、そのときどきの自分の思考、決断は完全ではない。ほとんど、間違っていると言っても過言ではない。しかし、他者つまり母親、塾と学校の先生に責任を押し付けるよりも、より良いであろう。

  子供であれ、20歳を超えると親の価値観とは、まったく異なる。子供と親が同じ家に住めば、常に、喧嘩になる。喧嘩の対象は、些細なことである。たとえば食事の時間、その作法、扇風機の埃を掃除するか否か、という他者からみればほぼどうでもよいことである。しかし、その背後には、世界観の相違が横たわっている。

  とりわけ、子供と大人とは、30歳以上異なる。40歳以上異なる場合もまれではない。偶然に生まれた両親の世界観に従え、と子供に命令することは不可能であろう。子供が両親の家からでて、一人暮らしをすることは、当然であろう。西欧では、大学入学あるいは就職を機会に単身世帯になる。まさに、自然である。家族の解体過程が現象しているのであろう。子弟が、両親のもとに帰ることはないであろう。私が故郷に帰ることがないことと同様であろう。後期近代において故郷は、その時々の自分にとって最良の場所でしかない。後期近代の個人にとって、出生地あるいは親の居住地が、故郷になることはない。

  最近、知人が視覚障碍者になった。盲目になった人が、他者例えば親近者に盲目になった責任を押し付けることが、彼の知人の周囲には多いようである。中途失明の場合、何らかの過去の人生において、別の選択肢を採用していれば、失明に至らなかったという後悔が出てくる。選択肢は、たしかに過去にあった。原因を他者に押し付けがちである。しかし、強制されたものであれ、選択をしたのは自分でしかない。

 しかし、極大化した自己という意識は、個人にとって寂しい時代でしかない。すべて自己そして自己責任に還元される。個人はその重圧に耐えられるのであろうか。

 

討論会の招請 2

「自由の意識はなぜ、現実態を変革しようとするのか」

という題目で、討論会を設定します。コメント欄に論稿を張り付けてください。2000字程度でお願いします。なお、個人名、大学名、会社名等が特定されるコメントは削除されます。

締切は、7月28日になります。なお、コメントはすぐには開示されません。安心して投稿してください。

日常生活に関する思想史的考察

 哲学あるいは思想という学問が実生活において役に立たないという非難がある。しかし、あることを根源的に考えるという意味において哲学的思考、あるいは思想史的思考は役に立つこともある。もちろん、役に立たない場合も多いが・・・。

 その一例として「君を幸せにする」という命題を考察してみよう。よくテレビドラマで結婚を前提にしている若い男女がこのセリフを口にする。たいていの場合、このセリフを男がしゃべることは、いわゆるフェミニズムと関連している。この問題を除外しても、以下のような問題がある。

1、他者がなぜ私の幸福に関与するのか。幸福、あるいは幸福感は個人的領域に属する。なぜ、他者である男(女でもよい)が、私の幸福に関して絶対的力を持つのか。傲慢ではないのか。

2、幸福という観念は多岐に渡る。そこでは、どのような事態が幸福であろうか。3DKの公団住宅に住むことであるのか、4畳半のアパートに住むことなのか。住宅問題を例にとっても必ずしも一義的ではない。あるいは、物質的事態だけではなく、精神的事柄とも関係する。

3、時間という観念が重要である。もし、幸福観念で両者が一致しても、いつまでであろうか。生涯に渡って?そのような数十年後の未来を予想することが可能であろうか。あるいは、今夜だけのことであろうか。そのことを両者が確かめることはない。

4、もし、この命題をテレビドラマ風に解釈したとしても、それが成就されない場合、どのような保障があるのであろうか。この約束が履行されない場合どのような対価が用意されているのであろうか。

 ざっと考えてもこのような疑問が生じる。しかし、この言葉が発せさられる状況下においてどれほど人間がこのようなことを考えるであろうか。否、このようなことを考えもしないであろう。人間が理性を喪失し、感情に基づいて行動しないかぎり、第一歩を始めることはできないであろうから。人間理性は脆いものである。しかし、理性を喪失した場合のほうが良い結果をもたらすと言ってもよいかもかもしれない。保障のかぎりではないが・・・。

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