『ドイツ路面電車ルネサンス』その後 窮地?
『ドイツ路面電車ルネサンス』その後 窮地?
『ドイツ路面電車ルネサンス』の最終校正版を論創社に手渡した後で、幾つかの誤植を発見した。その時は、七月上旬であり、装丁の校正も六月下旬に終了していた。にもかかわらず、表記法の問題、例えば「かぎり」あるいは「限り」、どちらにすべきか、真剣に悩んだ。しかも、そのどちらが良いのか、判断がつきかねた。再校正をお願いしても、更に再々校正を依頼する羽目に陥るかもしれない。それは、日本語の慣行に依存しており、どちらが正しいかは、曖昧な境界に位置している。
加えて、最終校正が終了しているので、五月雨式に校正を依頼すると、行数の変更が生じる。その場合、本書全体に影響を与える可能性がある。字数が一字分だけでも増減すると、行数そして頁数が増減し、索引等に影響を与える。また、担当編集者より、今後の校正は受け付けないと言われていた。かなり、悩んだ記憶がある。とくに、バスを停留所で待つという何もすることがないときには、頭のなかで数々の妄想が浮かんだ。講義終了後における大学の近くあるバス停留所の光景は、今でも鮮明に覚えている。数本の煙草を吸いながら、あれこれ考えていた。「組版会社に直接、依頼するか」という小賢しい案も浮かんだ。
最終的に、脳裏に浮かんだ小賢しい妄想を断念させた言葉は、古典のなかの一節である。とりわけ、『鶡冠子』の一節と『論語』の一節が、私の軽挙妄動を抑えてくれた。すなわち、「「一葉目を蔽えば、太山を見ず」、[1] 「君子固より窮す。小人窮すれば斯に濫る」、[2] である。そのどちらも、窮地に陥ったときには、より正確に言えば、窮地に陥ったと自分が判断しているときには、その窮地の根源から脱しようと足掻き、藻掻くことを諫める言葉である。一葉しか見ないこと、つまり「かぎり」あるいは「限り」、そのどちらにすべきかという悩みは、放擲すべき枝葉末節な事柄でしかない。しかし、本人の妄想は別にして、四〇〇字詰め原稿用紙換算で七〇〇枚近い本書は、既に校了している。客観的状況は至福の状態にある。にもかかわらず、本人の主観によれば、窮地に陥っていると判断しているだけである。
そもそも窮地はあるのであろうか。否、窮地なぞはないのである。窮地に陥っていると自己が判断しているだけである。その場合、何もしないことが重要である。ドイツ語の一節、“Es ist schon erledigt“. (既に、事柄は終了している。)が浮かんだ。この箴言は、あれこれ論争している二人の人間に対して第三者が投げかける言葉である。過去のある事柄が錯誤していたとしても、それは変更不可能である。
過去のある事象に関して、何も言わないこと、何もしないこと、そして何も考えないことが、窮地を脱するための最良かつ最適の選択肢である。本書は既に校了している、すなわち終了している。それに対して、何らかの変更を加えることはできない。
(二〇二四年一一月一五日、一五時)
[1] 周子義、陸佃『鶡冠子』藝文印書館、一九九五年、八頁。
[2] 孔子「衛霊公」『論語』(宮崎市定訳『現代語訳ーー論語』岩波書店、二〇〇〇年、二五二頁)
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