ドイツ帝国市民運動・ライヒスビュルガー (Reichsbürger)ーードイツ的なものの喪失という思想状況
ドイツ帝国市民・ライヒスビュルガー (Reichsbürger)が、ドイツの治安問題として問題になっている。しかし、この運動は、後期近代においてドイツ的なものの喪失と関連している。たんなる、コロナヴィールス-19( Coronavirus SARS-CoV-2)に関する政策問題や、陰謀論に還元されてはならない。この運動は、ビスマルクによって象徴されるドイツ第二帝政にドイツ的なものの起源を求めようとしている。あまりにノスタルジックなその外見に幻惑されてはならない。
もはや、この運動の意義は、ドイツ的なものは、ドイツ語しかないという状況において、初めて理解される。ここにおいて、もはや、ドイツ的なもの、ドイツ人気質(Deutsche Mentalität)は、消滅している。ドイツ的なものをドイツ語以外に求めることは、差別になるからである。人種、宗教、家柄等出自に源泉を発する如何なる概念も、ドイツ的なものと関連づけることは、差別につながる。ドイツ語を使用する人間、これがドイツ人になる。
この状況を創り出した根拠は、最近の30年における連邦政府の政策にある。この運動の端緒は、ベルリンの壁崩壊以後、世界中に蔓延している国際化という潮流に対する反対運動にあろう。検察による検挙理由であるクーデターという19世紀的な運動形式に、幻惑されてはならない。近代思想における大衆民主主義の進展というコンテキストに晒されている社会的状況下において、この運動は初めて理解される。地球市民という概念が、主権国家あるいは地域の個別性と特殊性を、個人の嗜好に還元したからだ。
日本においても、これから日本的なものは、ますます解体される。朝鮮半島、中国大陸との対抗軸において、日本の独自性ひいてはその優越性が議論されている。しかし、日本的なもの、日本精神ひいては大和魂それ自体が、日本列島から消え去ろうとしている。世界に冠たる日本精神が、日本語しかないとなったときに、ドイツ帝国市民・ライヒスビュルガー (Reichsbürger)と類似した運動が、本邦においても生まれるであろう。
しかし、国際化を進展させようとする政治状況において、ドイツ帝国市民・ライヒスビュルガー (Reichsbürger)は弾圧される。日本的なものを奪還しようとする運動も同様である。この運動の必然性とその解体が、予見されている。後期近代において、現存秩序を破壊しよとする運動は、新左翼運動と同様に社会的に葬らされる。この運動がどのような思想を胚胎しているかにかかわりなく、政府そして社会から仮借なく駆逐される。たんなる暴力集団として、秩序を支配している階層から、弾圧されるだけに終わるであろう。