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「珈琲時間」5 【贈り物と矜持】

「珈琲時間」5 【贈り物と矜持】

中村天風試論「5 理想的人間像への精進 5.5. 他者との関係、その一、三勿」補論

 

 自己の行為の対象である他者が、無反応であることもある。あるいは、逆効果になることもある。贈答という行為を題材にしてこの意味を考察してみよう。他者に対して贈り物を送付しても、相手が、私の贈り物を貶す場合もあろう。貶されても、怒り、怖れ、悲しみという感情は無意味である。そのような相手に贈り物をした自己の不明を恥じるだけである。あるいは、贈り物に対して、こんな安物と罵倒されれば、経済環境の差異を自覚すべきである。商品の価格に対する価値づけは、置かれている経済環境に異なる。毎日、高級ビールとされるエビスビールを飲んでいる男性に対して、発泡酒を贈呈してもあまり喜んでいただけるとは思えない。レミーマルタンしか飲酒しない女性に対して、コンビニで購入した数百円の安価なワインを贈呈しても、たいして喜んでもらえるとは思えない。貶した相手が悪いのではなく、自分が悪い。

 相互行為における齟齬は、恒常的にその発端になった自己の行為に責任がある。怒る根拠は、ないであろう。

「珈琲時間」4 【煩悶の対象として他者】

「珈琲時間」4 【煩悶の対象として他者】

中村天風試論「5 理想的人間像への精進 5.5. 他者との関係、その一、三勿」

 

 人間が煩悶する対象は、他者の関係性にある。人間の煩悩の大半はここにある。自分の意向に従って、他者を変革することはできない。他者の距離感が問題である。変革しようする場合は、自分の内にその理想像がある。しかし、他者に対する期待と、他者の現実態の間には、巨大な径庭がある。

 他者の範疇には、親、子供、配偶者、親族、友人、知人、機能的関係者等も含まれる。自分以外の人間すべてを意味している。自己は他者と何らかの関係を持っている。命令することもあれば、お願いすることもある。金銭を媒介にすれば、ほとんどの物を入手できる。しかし、それはなんかの限定された関係でしかない。他者、例えば子供に対して、私は影響を与える。部分的な影響である。ある人が死期を明示されて、それを子供に伝達することも不可避である。子供の人生を中断することでもない。親の死に反応する子供がいるだけである。

 他者と自分との関係は、限定的である。にもかからず、この限定性を克服しようとするとき、煩悶が生じる。他者は、自分の思惑を超えて行動する。この限定性を認識すれば、他者との関係において摩擦が生じないであろう。

  中村天風の思想を了解する鍵は、限定性という概念にある。

「珈琲時間」3.8 【他者の死確認】

 

「珈琲時間」3 【現在の限定性を確認するための方法

「珈琲時間」3.8 【他者の死確認】

 

 人間の真我を考える契機になったことは、人間が死ぬという事実を垣間見たからである。2019年夏に、父親の死に遭遇したからである。人間が死ねば、死体を洗浄し、納棺し、そして石油を掛けて焼く。そして、最後に喉仏だけになる。この一連の過程を数日間かけて見た。そして、喪主として、彼の死体を焼くために、火葬の点火ボタンを押した。火葬すれば、肉体が復活することは100%ありえない。その儀式の最後の最終過程の責任者になった。

 彼は何をしたかったのであろうか。何のために生を授けられ、そして火葬場に運ばれたのか。世界あるいは宇宙という究極の存在者から、どのような使命をいただき、生を全うしたのか。そのような課題を中村天風からいただいた。その大きな課題は私個人にとって未だ朦朧としている。ただ、以下のことは確実に私の行動規範を導いている。人間は一つのことしか、現在の時間にできない。限定された時間、限定された自分の能力という思想が、今の私を支配している。知人、親類の死も、中村天風論に親しむ契機になった。

「珈琲時間」3.7 【人生を思考する契機】

「珈琲時間」3 【現在の限定性を確認するための方法

「珈琲時間」3.7 【人生を思考する契機】

    このような人生の整理を決定づけた契機は、2019年現在、定年までの時間が5年しかない、という焦燥感である。実際には、4年と数か月しかない。限定された時間において、何ができるのか、あるいは何ができないのか、が問題である。

   また、多くの知人と親族が、最近の数年間に死亡している。それも、かなり影響している。彼らの多くは年金生活者であった。しかし、後期高齢者の多くが、人生の目的を作れなかった。膨大な余暇時間を消費するために、株式投機、パチンコ等の私営賭博、違法博奕あるいは夜の接待場所に生き甲斐を見出していた。周知のように。夜の社交場に頻繁に通うようになると、現役世代と比べようにないほどの金銭を浪費する。

   学生であれば、そもそも生活費は月額10数万にしかすぎない。博奕や夜の社交場に費やす金額は、数万円でしかない。しかし、後期高齢者の多くは、数百万、数千万の現金が手許にある。退職金を貰った直後であれば、数千万の現金が手元にある。小遣いや年金だけではなく、退職金や定期預金に手を付けた老人も数多い。家族から顰蹙を買うだけでは済まないことも、生じているようである。碌なことは生じなかったようである。彼らの轍を踏むまいという決意を具現化するために、現在の自己の状況を整理する必要が不可避であった。

「珈琲時間」3.6 【筆記用具と書籍の限定性――現在と未来の分離】

「珈琲時間」3 【現在の限定性を確認するための方法

「珈琲時間」3.6 【筆記用具と書籍の限定性――現在と未来の分離】

 

 文具、本、そして日用品も含めて、現在使用する物と、未来において使用する物が混合していた。まず、文具において同一種類を多数所持していた。同じ種類のボールペンを56本持っていた。1度に使用できるボールペンは、1本しかない。机上には1本のボールペンだけを置いた。ボールペンだけではなく、すべての筆記具も1種類だけを机上に置いた。ちなみに、現在では、シャープペンシル1本、青ボールペン1本、赤ボールペン1本しか机上にはない。それまでは、年に数度しか使用しない黒ボールペン1本も後生大事に、ペンケースに入れていた。それまで保持していたボールペン数10本は、まとめて押し入れに入れた。赤ボールペン、青ボールペンも、ブランドはラミーだけになり、かなり高価なボールペンだけに限定した。

万年筆も数種類、机上に置いていた。そもそも万年筆を使用する機会は、年間に数度しかない。その際、使用目的の差異、日本語署名用とドイツ語署名用と区別して使用していた。日常的に使用しない万年筆を押し入れに仕舞った。万年筆1本も、ラミーだけになった。結果的に、シャープペンシルを除いて、ボールペン2本、万年筆1本も、ラミーだけになった。

同様に、書籍も現在使用するものと、未来において使用するものを分離した。未来において使用するものを別の部屋と書斎に隣接している廊下に集中した。書斎において必要な本は現在――それでも数週間という幅があるが――において必要なものに限定した。また、書庫を整理した。これまでも書庫に似たような場所はあった。それをかなり大雑把であるが、整理した。図書館のように番号までは振れないが、19世紀ヘーゲル左派関連の文献を著者別に整理した。

 現在という時間に、未来という時間を混入させてはならない。現在という場所には、現在に必要な場所しか提供しない。未来に必要な場所を、現在の場所に混入させてはならない。

「珈琲時間」3.5 【会議資料の廃棄――過去は未来に役立たない】

「珈琲時間」3 【現在の限定性を確認するための方法

「珈琲時間」3.5 【会議資料の廃棄――過去は未来に役立たない】

 

  今まで多くの会議資料を職場の本棚に保存していた。将来において役立つからもしれないという想定に基づいていた。しかし、多くの過去の会議資料は、現在そして未来において役に立たない。過去と未来において環境世界が相違している。もちろん、自分のノート等は保存するが、状況依存な書類とりわけ会議資料は、廃棄している。所有物に関する身辺整理の過程において、捨てるべきもとと、保存すべきものが分類される。この過程において、自らにとっての重要性が認識される。その意味で今後の方針が得られる。あまつさえ、本棚を二重にしていた。結局、後段の本棚にあった資料は、私の視野から消えていた。本棚の数を減少させ、すべての資料を可視化した。

「珈琲時間」3.4 【可能性の拡大】

「珈琲時間」3 【現在の限定性を確認するための方法

「珈琲時間」3.4 【可能性の拡大】

 

 さらに、東側の出窓にあったプリンターを南側の本棚に配置したことによって、出窓全体から物品が消えた。机と同様に使用することが可能になった。机の幅は140cmであるが、出窓の30㎝を机として使用できることになった。実質170cmの机に変貌した。机の上から余計な書類と机上照明が消えた。現在使用している書類だけが、机上にある。未来において使用する書類は出窓に置くことができる。広い机は快適である。

 人生は、配線と同様に簡単なことかもしれない。つまらない拘りと全体を考えない状況判断の欠如によって、困難に陥っていた。自分自身によって自分の状況を複雑怪奇にしていた。自分の困難な状況を、自分でつくっていたのかもしれない。自ら直面している困難の原因は、自分が過去において播いた種にある。現在の課題だけに集中すること、未来と過去の課題を追求しないことを中村天風から学び、そしてこの課題を実践するための配置にした。

「珈琲時間」3.3 【コンセントの集中】

「珈琲時間」3 【現在の限定性を確認するための方法

「珈琲時間」3.3 【コンセントの集中】

 

 書斎には、コンセントが東西に二箇所ある。今まで、それを目一杯使用していた。また、電源延長コードを南北の壁に沿って張り巡らしていた。この部屋には、9個の電気機器(携帯充電器、電話子機、枕元照明、机照明、パソコン[日本語OS]、パソコン[ドイツ語OS]、プリンター、ラジカセ、空気清浄器)があった。ほとんど使用していなかった固定電話の子機を書斎から排除した。リビングにある親機のそばに再配置した。携帯電話だけで十分であった。また、携帯電話の充電配線を押入れにしまった。毎日、携帯電話を充電する必要はないからである。

 それでも、残り7個の電気機器が残った。それらをすべて南側の本棚1個に纏めた。北側の本棚から電気機器とその配線が消えた。南側の壁に沿って机があったので、机の下に配線を纏めた。コンセントからの延長コードは1本になった。東側のコンセント1個だけを使用することになった。配線がすべて机の下に位置することになり、視界から消えた。机の幅は140cmである。東壁側のコンセントだけから1本の配線によって接続された。

 これまでは、南側の壁に長い配線が1本、北側の壁にかなり長い配線が1本、そして東側の出窓にもプリンター用の配線が1本あった。すべての配線が視野から消滅した。清々した気分になった。

「珈琲時間」3.2【分岐点の集中と機械の除去】

「珈琲時間」3 【現在の限定性を確認するための方法

「珈琲時間」3.2【分岐点の集中と機械の除去】

 また、複数の電源とUSB配線の分岐点を本棚の最下段に集約した。そこは、グチャグチャである。絶望的なほど、グチャグチャである。どうしようもない。しかし、そのすぐ上に、本棚の板を設置した。外からは、このグチャグチャが見えなくなった。あたかも配線がないかのようである。また、配線を下段にたらす際、本棚と壁の間を通すようにした。本棚上段に本を配架することによって、この配線も見えなくなった。今まで、本棚は壁に隙間なく接合すべきということに拘っていた。この拘りをなくすることによって、配線を本棚の後ろに配架することができた。もちろん、最上段だけは壁に接合されている。安全を確保するためである。

 その後、「ケーブルボックスコード」を購入した。長さ、30㎝ほどの黒い箱であり、両端に穴が開いており、箱のなかに、グチャグチャになった配線を収納できる。1000円から2000円前後で購入できる。配線は完全に整理された。

 さらに、巨大な電話機があった。FAX装置を維持するためである。しかし、この機能を10年来使用していない。この機械を除去した。また、この電話機には、留守電機能が付属していた。メール以外で留守電に入った情報は、碌なものがなかった。マンション等の購入を薦める営業用の留守電は問題なかった。消去するだけであった。これ以外の留守電は私の心の平穏を掻き乱すものばかりであった。2011年当時、大学行政の仕事をしていたが、私の決定に難癖をつけるものばかりであった。留守番電話機能を除去することによって、快適な精神状態を維持できるであろう。電話機は、電源を必要としない災害用電話機だけを残した。もちろん、この機械には余計な機能、つまり留守番電話機能が搭載されていない。私が不在の時の電話を後日、聞く必要はないからである。本当は、50年前の黒電話を購入したかったが、なかなか探すことができなかった。現在では災害用に売られている電話が容易に購入できる。黒電話と比べて、小型であり、プッシュボタン式であり、便利であろう。それで充分であった。電話電話配線1本だけですみ、電源配線を除去した。

 また、スキャナー機能と印刷機能が1台において搭載されているプリンターを購入した。今まで2台の機械が本棚にあったが、1台になった。今では、この機械1台で用が済むようになった。機械のための本棚は1段になった。つまり、プリンターだけが、機械として鎮座している。

「珈琲時間」3.1【電源配線とUSB配線の分離】

「珈琲時間」3 【現在の限定性を確認するための方法

中村天風試論「4.人生建設のために必要な生命力 4.3 一つのことへの集中――柳生但馬守と沢庵禅師の問答」補論

 

「珈琲時間」3.1【電源配線とUSB配線の分離】

 

  PC周りの配線を整理した。新しい機械を導入するたびに、USB配線と電源延長コードが、既存の配線の上に設置された。配線が複雑怪奇になっていた。その整理をしていて、気が付いたことがある。

  無用な延長コードを多用して、配線を複雑にしていた。配線が整理できなかった現状は、配線の種類と量を把握していなかったことに由来する。2種類しかない配線をそれぞれ1か所に纏めた。配線は、電源配線と、USBによるPC結合配線の2種類しかない。今まで、PC結合配線を必要とする機械、たとえば印刷機やスキャナー等を数か所に分割していた。2本の電源延長コードと、3本のUSB延長コードがあった。整理する過程において、これらが除去された。分量的には、延長距離は約半分になった。また、コンセントを一本化した。冷蔵庫の電源を除いて、職場を夕方退去するときに、電源コンセントをすべて抜いていた。今まで、その数が3本あった。それを1本に纏めた。まず、USB配線も1本にだけに整理した。次に、機械電源コードだけを整理した。複数の機械電源も1か所に纏めた。電源延長コードも1本になった。USB配線コードも1本になった。複数の機械を同じ本棚の同じ段に設置することによって、PC結合配線が1本になった。複雑になった事柄は、分割されねばならない。単純化されることによって、人間に認識しやすくなるからだ。この世の複雑な事柄は、単純化される。デカルトから学習した法則である。

「珈琲時間」2 【胆力は、環境世界の変化を看過する力である】

「珈琲時間」2 【胆力は、環境世界の変化を看過する力である】

中村天風試論「4. 人生建設のために必要な生命力 4.2 周章狼狽」補論

 

  前もって、段取りをつけていたにもかかわらず、実際にその段になると、右往左往することがある。とりわけ、親族の危篤状況、死去に際して、それが現実化したときに段取り通りすることは、稀である。段取りあるいは計画を忘れて、想定外の選択肢を選びがちである。しかし、その思い付きの選択肢は、段取りの段階において消去されていた場合も多い。胆力がない場合、この思い付きの選択肢を取りがちである。とりわけ、小賢しい理性を有する人間は、段取りにしたがって行為できない。段取りに従って行動することは、環境世界の小さな変化を無視する力を必要としている行動と精神が一致していない状態に陥ることは、中村天風になかったかもしれない。しかし、周章狼狽状態に陥った場合、私のような凡人は、前もって想定されていた段取りに従った方が、良いように思われる。

 例えば、親族危篤あるいは死去に際して実家に移動する場合、鉄道を使用するのか、航空機を使用するのか、段取りの段階において精密に検討されていたはずである。しかし、緊急事態に現実に陥ったとき、この事前の段取りを忘れて、別の選択肢を採用しがちである。状況の仔細な変化を無視する胆力が要請されている。中村天風によって指摘されている胆力は、状況の微細な変化を無視する力である。

 但し、段取りに拘りすぎると、良くない結果をもたらす場合もある。予定された時間が切迫しているときに、周囲が見えなくなる。特に雪道を急いでいるときには、下を向いて歩いている。その場合、信号が見えていないことも多い。正面の信号が赤である場合、歩行者は停止しなければならない。にもかわらず、横の信号が緑であり、停止せず、そのまま横断歩道を渡っていた。交通事故に寸でのところで遭遇するかもしれなかった、20222月のことであった。自動車運転者が私の存在に気づき、交通事故を回避できた。交通事故に遭遇すれば、段取りなど無になる。数分の遅れは、次の電車を待てば解決する。気が散っている証拠であろう。

「珈琲時間」1の2 【闇の夜に鳴かぬ烏の声と現在の確認】

「珈琲時間」12 【闇の夜に鳴かぬ烏の声と現在の確認】

中村天風試論「3. 道具としての肉体と精神 3.1 人間の本質」補論

 ある時、田村伊知朗はこの宇宙霊と交感する機会を得た。2019年から2022年にかけてである。今現在、取り組んでいる労作を仕上げることである。それは契機でしかない。現在の課題を認識して、一歩踏み出そうとしている方向性が明瞭になったときである。この瞬間は必ずしも、中村天風の思想における現在ではない。ベクトルとは近未来への方向性であり、第1歩を歩む方向であろう。ベクトルは現在の位置とは無関係である。なぜ、この第一歩を歩みだそうとしているのか。現在において近未来への方向性がエネルギーとして溜まっている。その根拠を問うことが、宇宙霊との対話であろう。暗黒の宇宙が一瞬であるが、眼前に現れた。闇の夜に鳴かぬ烏の声が、聞こえたような気がした。

「珈琲時間」1 【他者の存在と闇の夜に鳴かぬ烏の声を聞くために】

「珈琲時間」1 【他者の存在と闇の夜に鳴かぬ烏の声を聞くために】

中村天風試論「3. 道具としての肉体と精神 3.1 人間の本質」補論

 

 ここで私的体験を述べておこう。201972415時半前後にJR札幌駅から地下鉄東豊線札幌駅への徒歩での移動中のことであった。久しぶりの札幌であり、讃岐うどんを食したいという肉体的欲求に従って、地下鉄東豊線札幌駅近くの讃岐うどんの店を訪れた。しかし、その行為は肉体の欲求に応じただけであった。真我の欲求に従えば、握り飯を食するべきであった。あるいは何物も食さないことが、真我の欲求だったかもしれない。事実、かけうどんの中を注文したが、ほとんど食べ残してしまった。御百姓様に申し訳なかったが、真我がこのうどんを拒否していたように思えた。

 また、現在交通論に取り組んでいるが、必ずしも既存の交通論研究の範疇に属することを考察しているのではない。近代思想史の範疇として、近代公共交通論を議論している。この議論を構想することは、私の使命を形成しているはずであるが、それを忘れていることに気が付いた。東豊線の車中であった。隣に座った二人の老婦人が、かなり上品であるが、些細なことに夢中で議論していた。彼女はこのような生活の利便性、JR東のスイカは札幌の地下鉄で使用できるか否かに関して、激論を交わしていた。このような議論をするために、彼女は生まれて来たのであろうか。生活の利便性ではなく、まさに烏の声が聞こえたのであろうか。このときに、私はなにか、烏の声を聴いたような気がした。彼女たちの議論には感謝しなければならない。

「珈琲時間」0 「闇の夜に鳴かぬ烏の声聞けば――中村天風試論」における「珈琲時間」の改編

「珈琲時間」0 【中村天風試論」における「珈琲時間」の改編】

 

はじめに

 「珈琲時間」は、議論の本筋から若干離れるが、示唆的な叙述を意味している。語学教材、例えばドイツ語の入門書において、ドイツ語文法とは無関係であるが、ドイツの学問事情、ドイツ人気質等が「珈琲時間」として記述されている。ドイツ語初級者は、ドイツ語文法の理解困難な本文よりも、「珈琲時間」を楽しみにしている。

 しかし、中村天風試論における「珈琲時間」と中村天風試論が混在しており、通読が困難になっていた。「珈琲時間」における論稿が長くなりそれ自体としての価値を持っていると考えているからである。今後、両者を大幅に改訂し、かつそれを分離して『田村伊知朗 政治学研究室』に掲載する。その内容は、45年前に執筆したものとほとんど変わっていない。バラバラであった内容を「珈琲時間」の全体の中に位置づけたこと、誤植等を修正しただけである。

今後、「珈琲時間」を先に1記事毎に、それぞれ、独立させて掲載していく。その後、まとめて、中村天風試論をまとめる所存である。私的体験と密接に関連している「珈琲時間」を纏める過程で、中村天風試論がより正確になるであろう。

 

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