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中村天風哲学の実践例ーー原因追求なし、反省なし、後悔なしーー中途失明者の現在

原因追及なし、反省なし、後悔なしーー中村天風哲学の実践例

(以下の文章は、中村天風論における「珈琲時間」の一部として執筆されたものである)。

2021年08月23日改稿 

1 永遠の正義ではなく、暫定的正義

 

 ある友人は、終戦の年に生まれ、2021年現在、76歳である。同期生には、宮崎学、大谷昭宏等、個性的な人が多い。所謂、団塊の世代に属しており、小学校では50人学級に属していたそうである。小学校の同学年では、400人程度の同期生がいたそうである。長じて、関西大学に進学し、ここで学生運動の洗礼を受けたようである。もっとも、幼少のころより、柔道に親しんでおり、身長170センチ、90キロの巨漢であり、どちらかといえば、右翼的傾向を持っていたようである。

 ところで、彼は、10数年前から、糖尿病の診断を受け、インシュリン注射器のお世話になっていた。この数年前から、とうとう失明してしまった。光の濃淡は認識できるそうであるが、文字はほとんど読解できないそうである。新聞紙の活字も、大きな文字、例えば『朝日新聞』の文字が、かすかに見えるそうである。手元にある新聞が『読売新聞』とは違うということが、かすかに了解できるだけである。通常であれば、中途失明者は人生に絶望し、過去のあるときに、いちいち拘泥したはずである。あの時、糖尿病の進行を阻止できれば、インシュリン注射をしなくてもよかったはずであった。事実、私も数年前、グリコヘモグロビンの値(基準値6.0)が、7.0になり、投薬治療を主治医から勧められた。薬は一般に工業的に精製された毒物の機能を持っており、身体によい影響ばかりではない。副作用が必ずある。私は投薬治療を拒否し、体重減少を指向した。当時、アルコールを摂取すれば、心拍数が上がり、不整脈も頻出していた。明らかに、身体の異常を自覚していた。体重を数年かけて、75キロから15キロ(身長170センチ)ほど減少させ、2019年には60キロ弱になっている。2021年現在、55キロほどになっている。もっとも、それほど極端なダイエットをしたわけではない。彼とは異なり、体育を嫌っており、スポーツする人を暇な人とみなしている。ダイエットに苦労したわけではない。もともと、野菜とりわけ根菜類と豆類は好物の一つであり、家族よりも多めに摂取するだけであった。[1] 

 この友人の事柄に戻れば、客観的に言えば、体重減少の機会は彼にもあったはずだ。しかし、彼はそれ以外の仕事、特に会社経営等に従事しており、その機会を逸したようである。しかし、彼から最近メールが届くようになった。中途失明者が通う職業訓練校に通い、PCに習熟した。彼は、小説家になろうとしている。中途失明者がその体験を小説に書けば、かなり面白いかもしれない。失明者がPCに習熟できるような環境になったのは、今世紀になってからである。数十年前から音声読み上げソフトはあったが、下層市民がそれに接近できるようになったのは、早くとも、後期近代になってかかである。

 

2 原因追及なし、反省なし、後悔なしーー過去も未来もない、現在だけである

 

 彼の偉大さは、中途失明者になっても、その原因を追究しないし、過去の生活態度を反省しなし、そして過去を後悔しないことにある。原因追及や反省や後悔などして、視力が回復するはずもない。中途失明の原因は数ある。あの時、別の選択肢を採用すれば事態は別様に展開したはずである。失明には至らなかったはずである。酒の量を少なくとも半分にしていれば、失明時期を10数年ずらすことも可能であった。ああ、なぜ、そうしなかったか・・・。このような原因の追求は、妄想的思念のうちでいつしか追及になり、他者を攻撃することになる。なぜ、友人はあの時、病院代を工面してくれなかったか。現在できることに従事するだけである。視覚障害者としてできることを為そうしているだけである。

 この現在に固執する生活態度は、未来の事象にもあてはまる。現在、会社の経営は長男に任せている。彼は世間の基準によれば、落ちこぼれに属している。高校を中退して、ほとんど遊び惚けていたようである。にも拘わらず、長男は立派に社長業を全うしている。もっとも、社員は彼一人であり、彼以外の労働者は数人しかおらず、全員、所謂アルバイトである。父親の助言を受けながら、彼が会社の差配をしているようである。ボンクラが後継者である会社の将来に対して、悲観することはこの視覚障害者にとって無縁である。

また、失明の度合いもこれから、悪化する一途である。失明の度合いが改善された事例は、ほぼ想定外である。現在の彼は、光の濃淡を認識できるが、将来的にはほぼ無理である。将来、漆黒の闇の中を歩かねばならない。通常であれば、光無き漆黒の世界に恐怖し、悲嘆に暮れても不思議ではない。しかし、自分の将来を悲観することはない。将来の苦労を現時点でする必要ないとのことである。そして、実際その時が訪れれば、また対処法を見つけてくるであろう。この生活態度は、中村天風の哲学にも通じる偉大な点である。彼は中村天風の名前を知らないようであるが、中村天風哲学の実践者の一人である。私は、中村天風の哲学に親しんでいるが、彼の哲学の実践に関して、この知人には敵わない。

さらに、彼の偉大さは、喫煙も飲酒も止めないことにある。糖尿病にとって、飲酒も喫煙も悪いことは、自明である。飲酒と喫煙を糖尿病患者に勧める医者は、ほぼゼロに近いであろう。しかし、一般的に言って、健康に悪いことは沢山ある。コーラを毎日、1リットル飲めば、健康になるのであろうか。焼肉、ロースやカルビ、500グラムを毎日、摂取すれば、健康になるのであろうか。食事だけではない。人間の健康にとってより重要なことは、大気である。新鮮な大気に満ち溢れた山村に居住することと、高速道路の近辺に居住すること、どちらが健康を改善するのであろうか。発話の正当性は、前提を持っている。より巨大な前提の下では、飲酒も喫煙も五十歩百歩である。

悪という概念は、多様である。選択可能であれば、そこから精神の栄養になるものを摂取すればよいだけである。ある医学者によれば、煙草や酒を摂取することは、白砂糖を摂取することよりも被害が少ないようである。「野菜に含まれているビタミンやミネラル、酵素などが、有害物質を分解する作用をもっており、タバコに関して有効ではないか・・・・穀物・菜食の『自然医食』を日頃から実行していれば、タバコの有害性は消去される」。[2] タバコには有害物質が含まれている。しかし、有害物質を除去する作用を持つ穀菜も数多い。もっとも、それは全体として考察すべきである。白砂糖5グラムが、煙草100本よりも、悪いはずがない。常識で判断すればよいだけである。

 

[1] 食養生論に関しては、「中島正(1920-2017年)の人間論と食養生論への前梯――

専門知と素人知――減塩思想と大量の野菜摂取そして少量の肉の摂取」『田村伊知朗 政治学研究室』、http://izl.moe-nifty.com/tamura/2021/04/post-6c37a5.html、[Datum: 22.04.2021]参照。

[2] 森下敬一『ガンは食事で治す』KKベストセラーズ、2017年、140頁。

 

以上、2021年0823日改稿原稿

 

以下、2021年07月13日初稿

 

正義あるいは正しいことは、個人には適用されない

 

1 正しいことは、暫定的に正しいにすぎない。

  ある友人は、終戦の年に生まれ、2021年現在、76歳である。同期生には、宮崎学、大谷昭宏等、個性的な人が多い。所謂、団塊の世代に属しており、小学校では50人学級に属していたそうである。小学校の同学年では、400人程度の同期生がいたそうである。長じて、関西大学に進学し、ここで学生運動の洗礼を受けたようである。もっとも、幼少のころより、柔道に親しんでおり、身長170センチ、90キロの巨漢であり、どちらかといえば、右翼的傾向を持っていたようである。

  ところで、彼は、10数年前から、糖尿病の診断を受け、インシュリン注射器のお世話になっていた。この数年前から、とうとう失明してしまった。光の濃淡は認識できるそうであるが、文字はほとんど読解できないそうである。通常であれば、中途失明者は人生に絶望し、過去のあるときに、いちいち拘泥したはずである。あの時、糖尿病の進行を阻止できれば、インシュリン注射をしなくてもよかったはずであった。

 事実、私も数年前、グリコヘモグロビンの値(基準値6.0)が、7.0になり、投薬治療を主治医から勧められた。薬は一般に工業的に精製された毒物の機能を持っており、身体によい影響ばかりではない。副作用が必ずある。私は投薬治療を拒否し、体重減少を指向した。当時、アルコールを摂取すれば、心拍数が上がり、不整脈も頻出していた。明らかに、身体の異常を自覚していた。体重を数年かけて、75キロから15キロ(身長170センチ)ほど減少させ、現在では60キロ弱になっている。もっとも、それほど極端なダイエットをしたわけではない。彼とは異なり、体育を嫌っており、スポーツする人を暇な人とみなしている。ダイエットに苦労したわけではない。もともと、野菜は好物の一つであり、家族よりも多めに摂取するだけであった。

 この友人の事柄に戻れば、客観的に言えば、体重減少の機会は彼にもあったはずだ。しかし、彼はそれ以外の仕事、特に会社経営等に従事しており、その機会を逸したようである。しかし、彼から最近メールが届くようになった。中途失明者が通う職業訓練校に通い、PCに習熟した。彼は、小説家になろうとしている。中途失明者がその体験を小説に書けば、かなり面白いかもしれない。失明者がPCに習熟できるような環境になったのは、今世紀になってからである。数十年前から音声読み上げソフトはあったが、下層市民がそれに接近できるようになったのは、早くとも、後期近代になってかかである。彼の偉大さは、中途失明者になっても、その原因を追究しないことである。反省しないことである。反省などして、視力が回復するはずもない。現在できることに従事するだけである。視覚障害者としてできることを為そうしているだけである。後悔も、反省もしない。これは、中村天風の哲学にも通じる偉大な点である。中村天風論を執筆するときには、「珈琲時間」と時間として友人の態度を紹介しようと思っている。[1]

 さらに、彼の偉大さは、喫煙も飲酒も止めないことにある。糖尿病にとって、飲酒も喫煙も悪いことは、自明である。しかし、一般的に言って、健康に悪いことは沢山ある。コーラを毎日、1リットル飲めば、健康になるのであろうか。焼肉を毎日、摂取すれば、健康になるのであろうか。悪という概念は、多様である。選択可能であれば、そこから精神の栄養になるものを摂取すればよいだけである。ある医学者によれば、煙草や酒を摂取することは、白砂糖を摂取することよりも被害が少ないようである。もっとも、それは全体として考察すべきである。白砂糖5グラムが、煙草100本よりも、悪いはずがない。常識で判断すればよいだけである。

 

[1] 「珈琲時間」は、議論の本筋から若干離れるが、示唆的な叙述を意味している。語学教材、例えばドイツ語の入門書において、ドイツ語教育とは無関係であるが、ドイツの学問事情、ドイツ人気質等が「珈琲時間」として記述されている。ドイツ語初級者は、ドイツ語文法よりも、「珈琲時間」を楽しみにしている。

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