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中村天風論試論――暫定稿

闇の夜に鳴かぬ烏の声聞けば、中村天風試論

20190515,0502,0504.

20200509,0610,0627,

20210715,0723,0728,0813

 

 

1. 中村天風の哲学の魅力

1.1 中村天風の哲学の継続性

中村天風(18761968年)の哲学が日露戦争前後から形成されていたことを考えると、ほぼ100年の歴史を有している。哲学を専門にしている大学教授は、日本のこの1世紀において、数千人、数万人以上いたからもしれない。彼らによって出版された哲学書あるいは哲学に関する研究書は、数万冊に至るかもしれない。しかし、現在でも読書界において確固たる地位を保っている書物は、非常に数少ない。

さらに、この1世紀に渡る時間のなかで、中村天風(18761968年)の哲学が東郷平八郎元帥等の著名人に対して影響を与えた。[1] 日本人だけが、彼の哲学に対する信奉者でもなかった。著名な外国人、たとえばロックフェラー3世も彼の思想に触れる機会を持った。[2] 偶然であれ、多くの人間が、彼の人格そしてその思想に触れ、より安楽な生を送ったであろう。

 

1.2 専門知と素人知の区別

なぜ、彼の哲学がほぼ1世紀近く、その命脈を保ってきたのであろうか。その根拠の一つは、彼が専門知と素人知を区別したことにある。彼の人間論や宇宙論が、たとえばハイデガーの哲学よりも優れていたからではない。専門知が素人知に加工されず、その存在形式が保持されているかぎり、彼の哲学書の大半は、国会図書館の書庫の奥にたまった埃にまみれていたであろう。彼は専門知の限界を明確に理解していた。「私の知れる限りをとことん説明いたしません。・・・この集まりがね、・・・基礎医学の知識ばかり持った人の集まりだというと、また説明はもっとずっと立体的に深くなっていくんですが、そういう説明になると、今度はあなた方が皆目わからなくなっちまいます」。[3] 中村天風の啓蒙対象そして講演対象は、専門知を理解しない素人である大衆である。専門家に対する説明と大衆に対する説明は、ここでは明白に区別されており、彼の思想は大衆によって支持されてきた。

 

1.3 理解の容易性

 たとえば、ハイデガーによって提起された本来的自己を自己のものにすることが、ある読者に必要不可欠であるとしてみよう。ドイツ哲学史において刻印された哲学を理解するために、大衆はその難解な書物を購入しなければならない。彼の哲学書をドイツ語で読解するためには、ドイツ語の初等文法から学習しなければならない。ドイツ語の文法構造を完全に習得したとしても、彼の叙述形式はドイツの知識人すら理解しがたい難解な構造を持っている。彼の全集を読むだけで数十年の年月がかかるであろう。途方もない時間がかかる。数十年後には、この読者の生命すら風前の灯になっているであろう。

 本来的自己に到達する方法は、ハイデガーの著作総体において見出し難い。対照的に、中村天風はその方法を日常的に実践可能な方法によって提示している。「いわゆる先哲識者はとう称せられる人々は、種々の言葉をもって、理論の演繹方法を入念にしているが、肝心のそれを現実化する方法手段という一番大切なことに少しも論及していない」。[4] 理論を提示したのちに、その実践方法を体系づけている。

 

1.4 思想と実践

 対照的に、中村天風の哲学は、多くの人の病気、煩悶、貧乏等の悩みを解消した。その実用的価値から、彼の哲学が現在でも影響を与え続けている。彼の哲学が人口に膾炙した根拠の一つは、日常的生活において実行可能な提言であることにある。中村天風は、それに至る一つの途として、日常生活において積極的言葉を使用するという誰でも実行できそうな提言をしている。「言語というものには、頗る強烈な暗示力が固有されている。従って特に積極的人生の建設に志す者は、夢にも消極的の言語を、戯れにも口にしてはならないのである」。[5] もちろん、厳密に考えれば、この命題を実行に移すことはかなり困難である。哲学的背景を持っているこの言葉を聞くことによって、多くの人が肩の荷を少し下ろし、煩悶から解放された。積極的言葉をより使用し、かつ快濶に、はっきりと発音することが肝要であろう。これだけでも、肩凝りの症状が軽くなった人は数多いであろう。

 あるいは、他人の悪口を言わない、できる限り他人の良い点を褒める、ということも実行できそうである。他人の悪口は、自分の心の清浄性を冒し、自分自身を貶めることにつながるであろう。宇宙霊から与えられた自己の生命、そして自己の心を汚すことにつながる。宇宙霊から活力を得ることは、できない。自分の心の汚濁は、疾病の素であろう。雑念や妄想を自己の心から追放すれば、このような心境になれる。その方法は次のようになっている。「雑念、妄想を除くのは、・・・無念無想になりゃいいんです。・・・いっさいの感覚を超越して・・・いっさいの感情、情念を心になかに入れないで、純真な気持ちになることが無念無想なんです」。[6] この心境に至るための道筋は、彼によって示されている。

しかも、中村天風の思想はこのような事柄に限定されない広大な背景を持っている。彼の思想は、巷に溢れている自己啓発に関する書物、あるいは軽薄短小なビジネス本と区別されるべき射程を持っている。多くの彼の信奉者と同様に、彼の哲学を纏めてみよう。しかし、彼の哲学書に関する解釈書は数多いが、その宇宙論から根源的に解釈した書物は数少ない。本稿がその一助に寄与すれば幸いであろう。

 

  1. 人間的自然と宇宙

2.1 闇の夜に鳴かぬ烏の声

「闇の夜に鳴かぬ烏の声聞けば、生まれぬ先の親ぞ恋しき」という有名な詩歌は、一休宗純(13941481年)によって作成された、とみなされている。この解釈は古来より多々あるであろう。中村天風もまた、この和歌を講演、訓話等で引用していた。[7] 本節では以下のように解釈したい。私という一回かぎりの生を現生に送り出したもの、闇の奥にあるものが存在しており、その声が聞こえるはずだ。私もたまに、聞こえるような気もするが、どうであろう。少なくとも、その声を聞こうとしている。

鳴かぬ烏の声とは何か。私という人格を送り出し根源的なものとは何か。私に何を託そうとしているのか。宇宙が進化するか、否かはわからないが、何かをするためにここにいることは、間違いないであろう。その根源的なものに関して考察してみよう。人間あるいは人類の歴史に関して、どのような寄与ができるのであろうか。

 

2.2  宇宙観とプランク定数h

この問題に解答するために、中村天風の宇宙観に言及してみよう。彼の世界観によれば、「人間は宇宙の進化と向上に順応するために生まれてきた」。[8] そして、「この宇宙の創造を司る造物主と称する宇宙霊」こそが、人間を創造した。[9] しかし、この宇宙は進化するのであろうか。「宇宙の本来が進化と向上にある」。[10] 宇宙は進化し、向上する、と断言している。宇宙が進化する根拠に関して中村天風は曖昧である。宇宙が根源的で絶対的であれば、進化も向上もする必要はないからである。現象界に送り出された人間は、宇宙に寄与することは何もない。

 しかし、次のように考えることによって、中村天風はこの難問に回答を与えている。中村は、宇宙霊を生命体とみなしている。「宇宙霊は、休むことなく働いている。創造に瞬時の休みもなくいそしんでいる活動体である。だからこそ、この宇宙はつねに更新し、常に進化し、向上しつつあるのである」。[11] 中村天風によれば、生命体つまり有機体として宇宙霊こそが、宇宙エネルギー総体である。この中村天風によって把握され、命名された宇宙霊が、自然的人間の環境世界を包んでいる。[12] 「宇宙霊なるものこそは、万物の一切をよりよく作り更える」[13]  宇宙霊は、現象界を改善する方向へと変化させる。人間がその用意をした場合、「造物主(宇宙霊)の無限の力が自然に自己の生命の中へ、無条件に同化力を増加してくる」。[14] 現象界において人間は、この宇宙の本質を無限に受容できる。

この思想は次のように要約される。「宇宙の最初は、ただ宇宙霊のみであった」。[15] ここまでは、私にも理解できる。しかし、なぜ宇宙霊は絶対的ではなく、進化あるいは変動するのか。この点が理解困難であった。

 

2.3  プランク定数h

 しかし、中村天風は宇宙霊を固定的に考察するのではなく、エネルギーと周波数の関係つまり超極微粒子のブランク定数hとみなしている。「万物能造の宇宙エネルギーは、この空間と俗に人々から呼称せられているものの中に、遍満している『絶対に人類の発明した顕微鏡は、分光器では、何としても分別感覚することの不可能な・・・見えざる光であるところの超極微粒子』だと論定している。しこうして、この『超極微粒子』を、今から半世紀以前にドイツのプランク博士が、これをプランク常数Hと名付けた。このプランク常数Hなるものこそ、ヨガ哲学者のいう宇宙霊なのである」。[16] プランク(Planck, Max 18581947)によって発見されたプランク定数hは作用量子(Wirkungsquantum)であり、つねに活動している。これは、この光子のエネルギーと周波数の関係であり、固定的なものではなく、常に流動している。共鳴子の振動は、その振幅と位相を変化交替させる。

 中村天風によれば、鳴かぬ烏の声あるいは生まれぬ先の親は、ブランク定数hである。「なにもかもすべて、あにあえて、人間ばかりじゃない。現象界に形を現わしている物質はみな、その根源は見えないElementary particle (素粒子) だ」。[17] 現象界において個別的肉体が生成する以前に、その根源は形成されていた。すべての肉体と精神は、この超極素粒子に還元される。

但し、この流動性は、以下のような作用量子に関する中村天風の独自の解釈に基づいている。「宇宙現象の根源をなすところの『気』というものは、(+)の『気』と(-)の『気』の二種類に分別される。そして、プラス=+の『気』は、建設能造の働きを行い、マイナス=-の『気』は、消滅崩壊の働きを行って、生々化々の現実化のため、常に新陳代謝の妙智を具顕しているのである」。[18] この中村天風の言説がプランク定数hにおけるどのような要素と関連しているのか、不明である。

 通常の宗教学によれば、宇宙霊とは唯一絶対神であり、固定的に思惟されている。たとえば、ユダヤ教あるいはキリスト教における唯一絶対神が、流動的であるはずがない。この常識に囚われていた私は、宇宙霊を固定的に考察していた。

 

2.4 宇宙の進歩

 もちろん、宇宙が進歩しているかどうかに関して異論はある。宇宙には進歩という概念がないという宇宙観もまた、真理である。もちろん、宇宙が固定的ではなく、流動的であるという断定に異論はない。しかし、その流動性に進歩があるか、否かに関してはわからない。

数千年における人間の歴史という尺度において、果たして宇宙には進歩がないかもしれない。「循環=繰り返しには『進歩』がない。・・・田舎(農業)は、この大自然の『永遠の循環』『進歩なき繰り返し』と共にあるべきものである」。[19] 進化あるいは進歩は自然において存在しない。中島正はこのような東洋的宇宙観に基づき、その思想を形成している。中村天風の宇宙観は、中島正の宇宙観から区別されている。しかし、どちらの宇宙観が正当であるかは、時間的尺度の差異に基づき決定される。中村天風は数億年単位で、中島正は数千年単位で宇宙を考察している。また、前者は惑星を含めた宇宙総体に基づき宇宙を考察していることと対照的に、後者は地球総体に基づき宇宙を考察している。

 

3.  道具としての肉体と精神

3.1 人間の本質

 中村天風の宇宙観によれば、生命体を含む物質の根源は素粒子である。したがって、自己の本質は、肉体でもなければ、精神でもない。「自己それ自身と自分のpossess (所有物)とはちがうはずだもの。体や心は自分ではない。自分というこの気体である真我の本質が、現象界にある生命活動をするために必要とする道具なんですよ」。[20] 心すら、自己の本質とは別物である。精神至上主義が否定されている。

 気体である真我の本質が、自己の精神と肉体を統御する。宇宙の本質としての気体と個人が一体になることによって、精神と肉体の欲求すらも統御できる。真我は心ではない。

 しかし、多くの知識人は、精神と肉体の虜になっている。自己の本質ではない精神と肉体の欲求を制御できない。真我が現れなくなっている。精神も肉体も真我の声を聴くことができない。個別的個人としての私の存在意義を理解できなくなっている。

 

「珈琲時間」[21]

 ここで私的体験を述べておこう。201972415時半前後にJR札幌駅から地下鉄東豊線札幌駅への徒歩での移動中のことであった。久しぶりの札幌であり、讃岐うどんを食したいという肉体的欲求に従って、地下鉄東豊線札幌駅近くの讃岐うどんの店を訪れた。しかし、その行為は肉体の欲求に応じただけであった。真我の欲求に従えば、握り飯を食するべきであった。あるいは何物も食さないことが、真我の欲求だったかもしれない。事実、かけうどんの中を注文したが、ほとんど食べ残してしまった。御百姓様に申し訳なかったが、真我がこのうどんを拒否していたように思えた。

 また、現在交通論に取り組んでいるが、必ずしも既存の交通論研究の範疇に属することを考察しているのではない。近代思想史の範疇として、近代公共交通論を議論している。それを忘れていることに気が付いた。東豊線の車中であった。隣に座った二人の老婦人が、かなり上品であるが、些細なことに夢中で議論していた。彼女はこのような生活の利便性、JR東のスイカは札幌の地下鉄で使用できるか否かに関して、激論を交わしていた。このような議論をするために、彼女は生まれて来たのであろうか。生活の利便性ではなく、まさに烏の声が聞こえたのであろうか。このときに、私はなにか、烏の声を聴いたような気がした。彼女たちの議論には感謝しなければならない。

 

3.2 宇宙霊と自然的人間

この認識に基づくかぎり、これ以後は一瀉千里である。[22] 「わが生命は宇宙霊の生命と通じている。宇宙霊の生命は無限である」。[23] 宇宙霊と人間の精神が同一化される状況へと自己の精神を方向づけるだけである。「人間は、恒に宇宙原則に即応して、この世の中の進化と向上とを現実化するという、厳粛な使命をもってこの世に生まれて来た」。[24] 宇宙の進化と感応する人間的精神の目的が、明瞭に述べられている。ここからは、心を積極的にするための方法論の実践だけである。たとえば、怒り、怖れ、悲嘆ではなく、感謝と歓喜の感情に満ちた生活をおくることが重要である。「宇宙の神霊は、人間の感謝と歓喜という感情で、その通路を開かれる」。[25] 宇宙霊と自然的人間の精神が合体することによって、積極的感情が満ちる。自然的人間の運命も積極化する。このような消極的感情は、自然的人間の心にはない。

 

3.3 自然的人間の潜勢力

 このような積極的感情が生成する根拠は、人間には生命力が備わっていることにある。「人間の生命の内奥深くに、潜勢力という微妙にして優秀な特殊な力が何人にも実在している」。[26] 人間的自然の内に、宇宙霊の積極性を受容する力が備わっている。宇宙進化と同様に、人間も進化することが前提にされている。以下では、この進化へと至る具体的方法を列挙してみよう。この具体的実行例は、多くの信奉者が日々配慮しているのであろう事柄に属している。

 

3.4 自然的人間の目的

 自然的人間は、目的を持って存在している。そして、生まれる前から、何らの目的を持っている。闇の夜の鳴かぬ烏の声によって規定されている。「自分がある目的をもって生まれてきた」。[27] 造物主つまり宇宙霊によってこの世に出現した。理想を持つことが、重要である。生まれぬ先の存在者の目的、つまり理想をつねに明確にしなければならない。「常に気高い標準をもって、しかも人生理想を変更しないで心に描いている人は、・・・その理想を現実になしえる資格を自分でつくっている・・・宇宙霊の力がそれへドンドン注ぎこまれんだから」。[28] その理想は、つねに自己の精神において保持されねばならない。どのような環境世界に生きようとも、明るく、朗らかに、生き生きとして生きることによって、宇宙霊からのヴリル=活力を心身に取り入れることができる。この理想は、心が清浄である場合にだけ、実現される。「心の世界には人を憎んだり、やたらにくだらないことを怖れたり、つまらないことを怒ったり、悲しんだり、妬んだりするというような消極的なるものはひとつもない」[29] 「やたらにくだらないことを・・・つまらないこと」に鈍感――私の表現方法によれば「鈍」になるべきであろう。情報は他者から自己に伝達される。生きているかぎり、電話もかかってくれば、メールを受信しなければならない。いちいち、返信するから心労も増えてくる。どうしようもないことは、どうしようもない。相手にしない。相手は、頓珍漢な要求を自己に課してくる。その頓珍漢な要求に対応しようとするから、事態はさらに混乱する。頓頓珍珍漢漢な事態が生じる。もちろん、相手を無視すれば社会的評価、会社内での立場も悪くなるであろう。しかし、死刑になることもなければ、解雇処分になることもない。いつものように対処すればよいだけであろう。

本来の人間の心には存在しないにもかかわらず、そのような心に我々は陥る。どのようにすれば、その状態から逃れることができるのであろうか。そのような状態に陥っていることに気が付いている場合、「その思い方、考え方を打ち切りさえすれば、もう悪魔はそのまま姿をひそめる」。[30] まさに、禅宗の名言、「念を継がない」ことが重要である。悪魔を退散させるためには、どのようにすべきであろうか。中村天風は明瞭に示している。「俺はこの世の中で一番気高い人間だ、俺はいちばんこの世の中で心のきれいな人間だ、・・・それをしょっちゅう思い続けていくんだ」。[31] 先ほどの「鈍」という概念を用いれば、あらゆる情報、要求に鈍感になろうとも、これだけは鈍になれない情報、要求がある。この要求に対応することが、自己の本来的欲求になる。一筋の光が見えてくる。その光こそが、一休禅師が感じた「生まれぬ先の親」であろう。

心が汚れている場合には、それを拭うことが肝要である。人間は、怒り、悲しみ、妬み等、様々な消極的感情に捕らわれる。しかし、怒り、悲しみ、妬み等に拘泥すべきではない。「腹のたつことがあろうと、悲しいことがあろうと、瞬間に心から外してしまえばいいんだ。心を積極的にすることを心がけて、自分の心を汚さないようにするには、気がついたらすぐそれを拭いてしまえばいいじゃないか」。[32] 一時の感情に拘泥しない。打ち切る、念を継がない。しかし、凡人は自己の脳裏に最悪の事態を想定する。その心像に対して恐怖する。この心像も、過去の恐怖を針小棒大に考えているにすぎないことから生じている。「私は必要のないことは雲烟過眼(物事に執着しないこと)、太刀風三寸身をかわす。必要のないものはすーっとかわしちまえさえすればいい」。[33] 何度も消極的事象に対応する必要はない。いちいち反応しない。例えば、自ら感情を刺激する消極的メールが来れば、それに返信しない。返信するのではなく、ごみ箱に入れ、削除する。後生大事に馬鹿げたメールに反応するから、問題を引き起こす。数週間経過すれば、馬鹿げたメールを送信したものも、忘れているからだ。

しかし、なぜ、怒り、悲しみ、妬み等の消極的感情に捕らわれてしまうしまうのであろるか。消極的感情が生じる根拠は、他者に対する過剰な感情移入にある。怒り、悲しみ、妬みの対象は、私の環境世界に存在している他者である。遠い世界に住む名前も知らない人々や過去の人間に対して、眠れぬほど煩悶することはない。例えば、私の知人は、地下鉄等の公共交通において大声で携帯電話によって話している人間に殺意を覚えたそうである。実際に口論になり、かなり不愉快な記憶が今でも、消えないそうである。このいかりは正当であろうか。しかし、自分が乗車していない別の車輛において、同様な行為があったとしても、彼の感情が不安的になることはない。また、より残忍な殺人行為をしたネロ皇帝や、比叡山焼き討ちをした織田信長の行為に対して、煩悶することはない。

視野に入った人間、職場の同僚あるいは家族等が、怒りの対象である。夫婦喧嘩などは、その典型である。なぜ、自らを取り巻く環境世界の人間に対して、怒り、悲しみ、妬むのであろうか。過剰の思い入れ、自ら主張に対する異見が、気に入らないからである。その背後には、対象になった人間こそ、自らにとって重要であるという過剰な感情移入がある。彼も、そして彼女も通りすがりの人間である。「列車がフルスピードは走っているときに、外の風景を気にしてはいないじゃないか」。[34] 他者は、「外の風景」にしかすぎない。流れゆく光景の一つでしかない。私の肉体も、そして私の精神も流れゆく風景として外から眺望できるとき、幸福になれるであろう。

 

4.人生建設のために必要な生命力

4.1 6種の生命力

 生命力は、以下の6つに分類されている。体力、胆力、精力、能力、判断力、断行力の6つに分類されている。[35] 人間の生命の内奥には、崇高な使命を現実化するための潜勢力が備わっている。ここでは、2番目の胆力について言及してみよう。ここでは、中村天風の思想の独自性として胆力を挙げておこう。周知のように、彼は武道とりわけ剣道において当時の一級の使い手であった。日露戦争直前の満州において、清龍刀の達人を殺したことが書かれている。当時の軍事探偵としての使命を全うした。

 この生命力は6つに分類されているが、それぞれ相関している。とりわけ、胆力は後期近代の知識人にはほとんど顧慮されていない生命力の一側面である。単純化して言えば、右顧左眄しないことである。ここからは、私の体験に基づくものも含まれている。

 

4.2 周章狼狽

単なる思い付きで行動しないことである。思い付きは慌てるときに生じる。「慌てるというのは、またの名を周章狼狽というが、これは心がその刹那放心状態に陥って、行動と精神とが全然一致しない状態をいうのである」。[36] 通常、行動と精神はほぼ一致しない。通常、行為には前もってその選択肢が考察されている。ある状況における選択肢は、前もって用意されている。段取りという言葉によって表象される行為は、すでに考察済であったはずである。

 

「珈琲時間」――段取りの忘却

しかし、実際にその段になると、右往左往することがある。とりわけ、親族の危篤状況、死去に際して、それが現実化したときに段取り通りすることは、稀である。段取りあるいは計画を忘れて、想定外の選択肢を選びがちである。しかし、その思い付きの選択肢は、段取りの段階において消去されていた場合も多い。胆力がない場合、この思い付きの選択肢を取りがちである。とりわけ、小賢しい理性を有する人間は、段取りにしたがって行為できない。段取りに従って行動することは、環境世界の小さな変化を無視する力を必要としている行動と精神が一致していない状態に陥ることは、中村天風になかったかもしれない。しかし、周章狼狽状態に陥った場合、私のような凡人は、前もって想定されていた段取りに従った方が、良いように思われる。

たとえば、親族危篤あるいは死去に際して実家に移動する場合、鉄道を使用するのか、航空機を使用するのか、段取りの段階において精密に検討されていたはずである。しかし、緊急事態に現実に陥ったとき、この事前の段取りを忘れて、別の選択肢を採用しがちである。状況の仔細な変化を無視する胆力が要請されている。胆力は、状況の微細な変化を無視する力である。

 

4.3 一つのことへの集中――柳生但馬守と沢庵禅師の問答

 人間は一つのことしかできない。「柳生但馬守が未だ修行中のおり、沢庵禅師に次のような質問をしたことがある。『一本の剣は扱いやすし、されど、数本ともなればいかになすべきや?』と。禅師答えて曰く、『・・・数本もやはり一本一本扱うべし』」。[37] 中村天風から学んだ方法論は幾つかあるが、この方法論は私を魅了した。瞬間、瞬間に人間ができることは、一個でしかない。そのときどきの課題に集中するしかない。

 

5. 理想的人間像への精進

5.1  価値ある人生

 人生は一回限りである。人間が現世において生きていることが、奇跡のようである。したがって、人間の本質は尊い。「価値ある人生を活きるには、先ず自分の本質の尊さを正しく自覚することが必要である」。[38] 何か使命あるいは意義を持って現世において生まれてきた。価値高い生き方が万人に可能である。その価値高い生を可能にするためには、「霊性満足」を指向するしかない。この目標をかかげるかぎり、失望や煩悶もないはずである。「『霊性満足』の生活目標なるものは小我的欲求の満足を目標とするものではなく、・・・自己の存在が人の世のためになるということを目標とする生活であるからである[39] 自己の存在理由が、人間の環境世界に寄与する。

 しかし、人の世にとって私の存在がどのように寄与するのか。あるいは、別の言葉によれば、世界における私の役割を自覚することは、簡単ではない。しかし、私の生が存在すること、出発点はそれ以外にはない。

 

5.2 自分の心の更新

 心は日々、更新されねばならない。「日々更新の宇宙真理に順応するためには、先ず自己の心を日々更新せしめざるべからず」。[40] 宇宙の目的が進化と向上あるか、否かは、現在の私には判断できない。しかし、宇宙の形態が変化していることは、異論がないであろう。その変化に私つまり私の心も変化する。宇宙霊に自己の本質があるかぎり、私の心もその変化に対応しなければならない。

 

5.3 積極的言葉の使用

 中村天風の偉大さは、この理想的人間像の形成への道筋を示していることにある。彼の死後、半世紀が経過しても、彼の思想が参照される理由もまた、この点にあろう。この実践的方法論をここで再録してみよう。自然的人間が生きる道標にとして、中村天風の哲学は価値がある。

 誰でも、無意識に使用している口癖がある。それを対象化する。使用している言語、とりわけ無意識に使用している言葉を意識化することが、中村天風の思想を理解するために必要である。「言語は自己感化に直接的な力を持っている」。[41] 言語活動が自己の心を影響づけるからだ。自己によって発話された言語が、自己の心境を影響づける。積極性を指向しない口癖は、彼の哲学が意識化されていない証拠である。厳に慎むべきであろう。

それは、山岸巳代蔵の主張にもある。「いつでも快適な状態、これが真の人間の姿だ」。[42] ここでも消極的ではなく、積極的な人生が真の人生であるとされている。「大変なことが起きたようなことでも、大変なこととは思わない」。[43] 積極的なこと、やるべきことが見つかれば、大変なことも大変でなくなる。現前の課題が追求されるべきであろう。

 

5.4 諸事万事気を込めて行う[44]

 自然人が行うすべて行為を、気を込めて行う。~をしながら行為することを慎む。たとえば、煙草を喫するという行為を私は、気を込めて行おうと思う。いままで、勉強しながら、あるいは音楽を聴きながら喫煙してきた。煙草それ自体を味わっていなかった。近年、喫煙所で煙草を喫することが強制されている。しかし、喫煙所では、煙草一本、一本を愛しむようにして喫するようになった。机の側で喫するときでも、煙草を味わってみたいと思う。

 そのためには、充分な時間と場所が必要だ。23分の空き時間ではなく、最低でも5分の時間を見出して、深呼吸しながら煙草を味わいたい。

 

「珈琲時間」

他者の関係性において、人間は煩悶する。悩みの大半はここにある。自分の意向に従って、他者を変革することはできない。他者の距離感が問題である。変革しようする場合は、自分の内にその理想像がある。しかし、自分の思いとやることは区別されるべきである。できないことをしようすることに、煩悶の原因がある。

他者の範疇には、親、子供、配偶者、親族、友人、知人、機能的関係者等も含まれる。自分以外の人間すべてを意味している。しかし、この命題は自分を絶対化することでもない。自分の現在の問い自体にも返答することはできない。そもそも、わからないから質問している。他者であれば、自己であれ、質問の内容もまた、要をえない。

 しかし、自己は他者と何らかの関係を持っている。命令することもあれば、お願いすることもある。金銭を媒介にすれば、ほとんどの物を入手できる。しかし、それはなんかの限定された関係でしかない。ゼミナールの学生に論文指導をすることは、卒論論文という限定された関係でしかない。そのうちの一人と酒を飲むこともある。しかし、飲み屋を出れば、他人である。酒を飲むという関係でしかない。

 他者たとえば子供に対しても、影響を与える。部分的な影響である。ある人が死期を明示されて、それを子供に伝達することも不可避である。子供の人生を中断することでもない。親の死に反応する子供がいるだけである。

 

5.5 他者との関係

他者に対して、機能的関係に限定して交際すれば、煩悶が生じることはない。君子の交わりは、淡きこと、水の如し。この関係を他者とのどのような場面でも、貫徹できれば問題ないであろう。しかし、私は他者に対して、怒る。悲しむ。怖れる。「最後に必要な注意は、三勿の実行ということである。三勿とは何を意味するかというと、(1)、勿怒、(2)、勿悲、(3)、勿怖の三つの事柄である」。[45] 私は他者に対して、このような消極的感情に支配されている。過剰に他者に期待することによって、そのような感情が芽生える。煩悶すれば、生命維持のための活力が大幅に減少する。にもかかわらず、消極的感情に支配されている。中村天風を咀嚼していないからであろう。

人間は、激しい暴風雨に出会うこともある。その暴風雨に出会っているときには、環境世界を見据えることはできない。暴風雨が去り、冷静になると対処法があったことに気づく。後の祭りである。問題は、暴風雨に出会っているときに、冷静になれないことである。冷静になるには、・・・・・・。

 

6. 理想的人間への具体的方策

6.1 助けを求めない。

まず、運命の主人公になるためには、悲鳴を上げないことが重要である。「悲鳴を上げないことを第一に自分に約束しなさい」。[46] 悲鳴を上げたとこで、誰も助けてくれない。多くの人は口癖として、助けを求める言葉を発している。たとえば、「助けて、皆」あるいは「助けて、神様」という言葉を発している。しかし、そもそも皆あるいは神とは誰であろうか。この言葉を聞いている人は、自分でしかない。自分の人生を自分で決定するしかない。

共同体たとえば、『じゃりン子チエ』において描かれているような下町共同体が、このような言語を発する自然的人間の脳裏にある。この無意識に設定した前提は、間違っている。後期近代における社会において、他人は誰も自分の現状に関心がない。この漫画における竹本テツは、つねに両親、子供、地域社会の人々から慕われている。表題とは異なり、この漫画の主人公は竹本テツであろう。彼は、博徒、警官、両親、地域共同体の人と関係している。彼は、下町共同体の住民にとって迷惑な存在である。粗暴で、暴力的そして無教養である。彼らはこの主人公を迷惑な存在と認識しているにもかからず、両者は、終生関係づけられている。この下町共同体の主人公ですらある。この漫画の最終頁に登場人物の集合写真があるが、竹本テツがその中心に位置している。[47] 

このような人間が自分、自分とあると錯覚していた。近代人は、竹本テツことテッチャンにはなれない。他者に助けを求める人は、そこから過剰な期待を他者、たとえば地域社会の人々、あるいは会社の同僚に期待していた。彼らは、限定された時間、限定された空間そして限定された目的においてする人と関係しているにすぎない。家族ですら、その限定性から逃れられない。この条件下でしか、他者と私は関係を構築できない。この関係を超えた関係を突然築くことはできない。

もっとも、これ以上書くと、消極的思考に陥る。いずれにしろ、助けを求めず、自分のことを自分でする。助けを求めるような口癖をやめよう。心に隙ができよう。自分の関係のないことには、関与しない。宇宙から与えられた自分の使命を、つねに再認識してゆく。自然的人間はつねにこれを忘れがちである。

 

「珈琲時間」――受験生と自己責任 

このごろの大学受験生は、高校時代に塾や予備校に通学するようである。しかし、平均的学生は、塾の宿題をすることで終わってしまう。自分で勉強する習慣を喪失する。また、地元志向が強い傾向にある。東京圏や大阪圏は当然であろうが、地方都市でもその傾向があるようである。例えば、函館市のような30万人都市でも、その傾向は強い。しかし、自宅から通学すると、母親にすべてお任せになる。特に、炊事、洗濯をしたことのない男子学生、そして女子学生も多い。すべての生活を両親に任せることによって、責任を他者に押し付けるようになる。

しかし、人間は自分で考えて、自分で決断し、自分で責任を負う、そして自分で死んでゆく。もちろん、自分の思考、決断は完全ではない。ほとんど、間違っていると言っても過言ではない。しかし、他者つまり母親、塾と学校の先生に責任を押し付けるよりも、より良いであろう。

 

「珈琲時間」反省なし、後悔なしーー中村天風哲学の実践例

田村伊知朗「糖尿病患者の生活態度ーー喫煙と飲酒、そして現在の課題」『田村伊知朗 政治学研究室』

http://izl.moe-nifty.com/tamura/2021/07/post-b47ee3.html [Datum: 13.07.2021]

 

正義あるいは正しいことは、個人には適用されない

 

1 正しいことは、暫定的に正しいにすぎない。

ある友人は、終戦の年に生まれ、2021年現在、76歳である。同期生には、宮崎学、大谷昭宏等、個性的な人が多い。所謂、団塊の世代に属しており、小学校では50人学級に属していたそうである。小学校の同学年では、400人程度の同期生がいたそうである。長じて、関西大学に進学し、ここで学生運動の洗礼を受けたようである。もっとも、幼少のころより、柔道に親しんでおり、身長170センチ、90キロの巨漢であり、どちらかといえば、右翼的傾向を持っていたようである。

ところで、彼は、10数年前から、糖尿病の診断を受け、インシュリン注射器のお世話になっていた。この数年前から、とうとう失明してしまった。光の濃淡は認識できるそうであるが、文字はほとんど読解できないそうである。

通常であれば、中途失明者は人生に絶望し、過去のあるときに、いちいち拘泥したはずである。あの時、糖尿病の進行を阻止できれば、インシュリン注射をしなくてもよかったはずであった。事実、私も数年前、グリコヘモグロビンの値(基準値6.0)が、7.0になり、投薬治療を主治医から勧められた。薬は一般に工業的に精製された毒物の機能を持っており、身体によい影響ばかりではない。副作用が必ずある。私は投薬治療を拒否し、体重減少を指向した。当時、アルコールを摂取すれば、心拍数が上がり、不整脈も頻出していた。明らかに、身体の異常を自覚していた。

体重を数年かけて、75キロから15キロ(身長170センチ)ほど減少させ、現在では60キロ弱になっている。もっとも、それほど極端なダイエットをしたわけではない。彼とは異なり、体育を嫌っており、スポーツする人を暇な人とみなしている。ダイエットに苦労したわけではない。もともと、野菜とりわけ根菜類と豆類は好物の一つであり、家族よりも多めに摂取するだけであった。[48] 

この友人の事柄に戻れば、客観的に言えば、体重減少の機会は彼にもあったはずだ。しかし、彼はそれ以外の仕事、特に会社経営等に従事しており、その機会を逸したようである。しかし、彼から最近メールが届くようになった。中途失明者が通う職業訓練校に通い、PCに習熟した。彼は、小説家になろうとしている。中途失明者がその体験を小説に書けば、かなり面白いかもしれない。失明者がPCに習熟できるような環境になったのは、今世紀になってからである。数十年前から音声読み上げソフトはあったが、下層市民がそれに接近できるようになったのは、早くとも、後期近代になってかかである。

彼の偉大さは、中途失明者になっても、その原因を追究しないし、過去の生活態度を反省しないことにある。後悔や反省などして、視力が回復するはずもない。現在できることに従事するだけである。視覚障害者としてできることを為そうしているだけである。

この現在に固執する生活態度は、未来の事象にもあてはまる。現在、会社の経営は長男に任せている。彼は世間の基準によれば、落ちこぼれに属している。高校を中退して、ほとんど遊び惚けていたようである。にも拘わらず、長男は立派に社長業を全うしている。もっとも、社員は彼一人であり、彼以外の労働者は数人しかおらず、全員、所謂アルバイトである。父親の助言を受けながら、彼が会社の差配をしているようである。ボンクラが後継者である会社の将来に対して、悲観することはこの視覚障害者にとって無縁である。

また、失明の度合いもこれから、悪化する一途である。現在は光の濃淡を認識できるが、将来的にはほぼ無理である。将来、漆黒の闇の中を歩かねばならない。通常であれば、光無き漆黒の世界に恐怖し、悲嘆に暮れても不思議ではない。しかし、自分の将来を悲観することはない。将来の苦労を現時点でする必要ないとのことである。そして、実際その時が訪れれば、また対処法を見つけてくるであろう。この生活態度は、中村天風の哲学にも通じる偉大な点である。彼は中村天風の名前を知らないようであるが、中村天風哲学の実践者の一人である。私は、中村天風の哲学に親しんでいるが、彼の哲学の実践に関して、この知人には敵わない。

さらに、彼の偉大さは、喫煙も飲酒も止めないことにある。糖尿病にとって、飲酒も喫煙も悪いことは、自明である。しかし、一般的に言って、健康に悪いことは沢山ある。コーラを毎日、1リットル飲めば、健康になるのであろうか。焼肉を毎日、摂取すれば、健康になるのであろうか。食事だけではない。人間の健康にとってより重要なことは、大気である。新鮮な大気に満ち溢れた山村に居住することと、高速道路の近辺に居住すること、どちらが健康を改善するのであろうか。発話の正当性は、前提を持っている。より巨大な前提の下では、飲酒も喫煙も五十歩百歩である。

悪という概念は、多様である。選択可能であれば、そこから精神の栄養になるものを摂取すればよいだけである。ある医学者によれば、煙草や酒を摂取することは、白砂糖を摂取することよりも被害が少ないようである。「野菜に含まれているビタミンやミネラル、酵素などが、有害物質を分解する作用をもっており、タバコに関して有効ではないか・・・・穀物・菜食の『自然医食』を日頃から実行していれば、タバコの有害性は消去される」。[49] タバコには有害物質が含まれている。しかし、有害物質を除去する作用を持つ食物も数多い。もっとも、それは全体として考察すべきである。白砂糖5グラムが、煙草100本よりも、悪いはずがない。常識で判断すればよいだけである。

 

6.2  不満なし

 自然的人間は、自らの現状に不満を持っているが、中村天風は自らの運命を悲嘆することを戒めている。「不平不満を言わないようにしろ」。[50] 宇宙霊がこのような現状に自然的人間を置いている。それは、自らが播いた種でもある。不平不満を言ったから、現状が変革されるわけではない。また、心が汚れる。現状においてできるかぎりの精力を使用することが重要である。さらに、この心境に至れば、現時点での状況配置をより冷静に考察することができる。

目的を定めず、現状においてできるかぎりのことをする。「心に従いながら、がむしゃらにファイトを燃やして行く」。[51] 自己の現状に不満を言うのではなく、現状においてできるかぎりのことをする。現前の課題を心から信じているかぎり、それに邁進するしかない。「結局、当たって砕けろです」。[52] 現存する課題だけに集中する。

 

「珈琲時間」――新左翼の狭矮性

1960~1970年代の新左翼の文献を読んでいたころ、彼らには判断力がないことに気が付く。見ている状況は他の党派――しかも限られた対立している新左翼、たとえば中核派と革マル派、良くて旧左翼、日本共産等の状況でしかない。自民党の状況など眼中にない。これでは、衰退することも必然であった。況や、国民の意思など問題にしない。

 

6.3  とらわれからの脱皮

 多くの自然的人間は、こだわり、心配、取り越し苦労に、とらわれている。そこに拘るかぎり、心配事は永遠に尽きない。中村天風はそこから脱却するためには、別の思考様式を考察している。現存する心配事に意識を集中するかぎり、そこからの脱却はできない。むしろ、現在の課題、現前の課題に集中することを提起している。「自ら顧みて、今あなたたちの心にとらわれがあるとしたら、そのとらわれから抜けださなきゃだめだよ。とらわれから抜け出すのは難しくないんだ。・・・心を打ちこんで何事かをする習慣をつけると、今までとらわれていたはずのものが、向うから出ていってしまう」。[53] 有限な自然人が過去の状況、未来の状況を考慮しても、無意味である。時間は現在においてしか存在していない。「過去、・現在・未来といいって見たところで、それは畢竟、相対的考察に因由する想定(Einbildung)でしかないからであります。即ち、厳格に所論すれば、そのすべての一切は、現在の連続しかない。・・・人間の心というものは、油断をすると、現在からいつしか離れて、役にもたたぬ否、役にたたぬどころか、その結果が自己を或いは病難に、或は運命難という人生不幸に陥らすべく余儀なくされる様な、あらずもがなの方面へと執着せしめ易いという傾向性をもって居るものなのです。要するに、後悔するとか、煩悶するとか、または徒らに精神生命の力を消耗摩滅するに等しい『取越苦労』をするなどというのは、この心の因有する傾向性に適当な制約を与えることを知らぬ人が、その貴重な人生に物好きに味わせて居る愚にもつかない喜劇的の悲劇でしかないのであります。・・・『心は顕在を要す、過ぎたるは遂う可からず、来らざるは邀うべからず』というアノ言句の中の顕在というのは、要するに途上の消息を喝破せし言葉なのであります。・・・ふたたび来らぬものを けゆの日は ただ ほがらかに 活きてぞたのし」。[54] 人間にとって、過去もなければ、未来もない。現在しか存在しないという至言が、中村天風によって表出されている。

 

6.4  自分のことを自分でする

 中村天風は、夜具の上げ下ろしを自分でしている。自分のことを自分でする。その習慣化した作業工程、たとえば夜具の上げ下ろしの過程において、本日の課題を再認識してゆく。この意義は大きい。「寝具は・・・自身たたむ」。[55] 寝具をたたむことは、自己統御の原初的行為である。就寝中においてあらゆる動物は、自己統御力を回復する。寝具は、この神聖な時を演出した。人間はそれに感謝すべきである。

4 人間的自然としての肉体

4.1 睡眠と人間的自然

さらに、中村天風は、睡眠を宇宙のエネルギーを受容する過程とみなしている。「睡眠というものを科学的に結論すると、自然の力と人間の生命と交流結合する時だとえいえる」。[56] 睡眠によって自然的人間は活力を取り戻し、宇宙からヴリルを受容する。心身の積極性の根源は睡眠にある。その道具に対する感謝は必要であろう。

 

3.2 食生活論――中島正との同一性???

 

4.  自然的人間の活動とその目的

4.1 自然的人間の活動とその基礎づけ

現代人の多くは、職業に従事している。この職業を賃労働という狭義の意味ではなく、社会的活動あるいは人間的活動とみなしてみよう。

現代人が奴隷でないかぎり、この人間的活動に対してなんらかの意義づけをしている。以下の文書は、私の政治思想史講義資料からの抜粋である。「中世において世俗的職業に従事することは、神との関係において職業的聖職者の生活を支えるという点が主であった。聖職者の特権が廃止された結果、天職は聖職者だけではなく、すべての職業に適合する。世俗的職業に従事することが、神に仕えることと同義になる。たとえば、靴職人が靴を作ることが、神に奉仕することである」。[57] ヴェーバーの有名な『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を敷衍することによって、ルターのプロテスタンティズムと社会関係の近代的意味を基礎づけている。

社会思想史におけるルターの思想に関する意義づけを離れて一般的に考察してみよう。もし、世俗的活動が宗教的に基礎づけられるならば、この世俗人は幸せである。世俗人の活動、たとえば靴職人が靴を作ることの目的は、生存のための費用を獲得するだけではない。この世俗人は神に対する奉仕活動して、その活動、職業に精励することができる。生計維持のための手段、つまり金銭の獲得以外の要素を人間的活動に見出せるなら、豊かな充実感を得られるであろう。神あるいは宇宙と一体になっているという感情がこの世俗人にあるならば、彼が活動している時間と空間において、積極的な精神しか入る余地はないであろう。自然的人間の活動と宇宙霊への奉仕が一体化することによって、世俗的活動が神聖な活動に転化する。中村天風の積極的活動に関する意義づけも、このような解釈に基づくのかもしれない。

 

[1] 中村天風『君に成功を贈る』日本経営者合理化協会出版局、2010年、89頁参照。

[2] 中村天風『幸福なる人生』PHP研究所、2011年、118頁:中村天風『運命を拓く』講談社、1998年、253頁参照。

[3] 中村天風『心を磨く』PHP研究所、2018年、197頁。

[4] 中村天風『真人生の探究』天風会、1994年、94頁。

[5] 中村天風『真人生の探究』天風会、1994年、144頁。

[6] 中村天風『盛大な人生』日本経営合理化協会出版局、2009年、372-373頁。

[7] 中村天風『心を磨く』PHP研究所、2018年、61-64頁、340頁参照。森本暢『実録 中村天風先生 人生を語る』南雲堂フェニックス、2004年、201頁参照。

[8] 中村天風『運命を拓く』講談社、1998年、87頁。

[9] 中村天風『運命を拓く』講談社、1998年、87頁。

[10] 中村天風『真理のひびき』講談社、2006年、93頁。

[11] 中村天風『運命を拓く』講談社、1998年、83頁。

[12] 中村天風『運命を拓く』講談社、1998年、67頁参照。

[13] 中村天風『運命を拓く』講談社、1998年、90頁。

[14] 中村天風『運命を拓く』講談社、1998年、137頁。

[15] 中村天風『運命を拓く』講談社、1998年、80頁。

[16] 中村天風『叡智のひびき』講談社、1995年、71頁。

[17] 中村天風『心を磨く』PHP研究所、2018年、340頁。

[18] 中村天風『真人生の探究』天風会、1994年、171頁。

[19] 中島正『都市を滅ぼせ 人類を救う最後の選択』舞字社、1994年、49頁。

[20] 中村天風『心を磨く』PHP研究所、2018年、47頁。

[21] 「珈琲時間」は、議論の本筋から若干離れるが、示唆的な叙述を意味している。語学教材、例えばドイツ語の入門書において、ドイツ語文法とは無関係であるが、ドイツの学問事情、ドイツ人気質等が「珈琲時間」として記述されている。ドイツ語初級者は、ドイツ語文法よりも、「珈琲時間」を楽しみにしている。

[22] 中村天風は、『叡智のひびき』においてプランク定数hに実在するエネルギー源泉としてヴリル(Vril)という概念を用いている。この概念がプランクの作用量子論におけるどの概念に該当するのかは、不明である。別の論稿においてこの概念は宇宙ではなく、その現象界における人間的自然の活力として考察されている。中村天風『叡智のひびき』講談社、72; 中村天風『真人生の探究』天風会、1994年、195頁参照。

[23] 中村天風『運命を拓く』講談社、1998年、146頁。

[24] 中村天風『真人生の探究』天風会、1994年、42頁。

[25] 中村天風『運命を拓く』講談社、1998年、172頁。

[26] 中村天風『真人生の探究』天風会、1994年、15頁。

[27] 中村天風『盛大な人生』日本経営合理化協会出版局、2009年、119頁。

[28] 中村天風『盛大な人生』日本経営合理化協会出版局、2009年、118頁。

[29] 中村天風『盛大な人生』日本経営合理化協会出版局、2009年、130頁。

[30] 中村天風『盛大な人生』日本経営合理化協会出版局、2009年、130頁。

[31] 中村天風『盛大な人生』日本経営合理化協会出版局、2009年、157頁。

[32] 中村天風『運命を拓く』講談社、1998年、158頁。

[33] 中村天風『心を磨く』PHP研究所、2018年、139頁。

[34] 中村天風『運命を拓く』講談社、1998年、158頁。

[35] 中村天風『真人生の探究』天風会、1994年、45頁参照。

[36] 中村天風『真理のひびき』講談社、2006年、191頁。

[37] 中村天風『真理のひびき』講談社、2006年、194頁。

[38] 中村天風『真理のひびき』講談社、2006年、22頁。

[39] 中村天風『真理のひびき』講談社、2006年、32頁。

[40] 中村天風『真理のひびき』講談社、2006年、92頁。

[41] 中村天風『幸福なる人生』PHP研究所、2011年、140頁。

[42] 山岸巳代蔵「無数の愛人と共に/愉快の幾千万倍の気持ち」山岸巳代蔵全集刊行委員会編『山岸巳代蔵全集』第2巻、2004年、302頁。

[43] 山岸巳代蔵「本当の人間 当然の人生」山岸巳代蔵全集刊行委員会編『山岸巳代蔵全集』第2巻、2004年、304頁。

[44] 中村天風『折れない心』扶桑社、2019年、36頁。

[45] 中村天風『真人生の探究』天風会、1994年、151頁。

[46] 中村天風『幸福なる人生』PHP研究所、2011年、140頁。

[47] はるき悦巳『じゃりン子チエ』第47巻、双葉社、2004年、300-301頁参照。

[48] 食養生論に関しては、「中島正(1920-2017年)の人間論と食養生論への前梯――

専門知と素人知――減塩思想と大量の野菜摂取そして少量の肉の摂取」『田村伊知朗 政治学研究室』、http://izl.moe-nifty.com/tamura/2021/04/post-6c37a5.html、[Datum: 22.04.2021]参照。

[49] 森下敬一『ガンは食事で治す』KKベストセラーズ、2017年、140頁。

[50] 中村天風『幸福なる人生』PHP研究所、2011年、141頁。

[51] 中村天風『幸福なる人生』PHP研究所、2011年、156頁。

[52] 中村天風『幸福なる人生』PHP研究所、2011年、169頁。

[53] 中村天風『幸福なる人生』PHP研究所、2011年、237頁。

[54] 中村天風『哲人哲語』天風会、2019年、162-167頁。

[55] 中村天風『真人生の探究』天風会、1994年、237頁。

[56] 中村天風『真人生の探究』天風会、1994年、129頁。

[57] 田村伊知朗『社会思想史講義草稿』(未公刊)第二章「ルターの宗教改革の政治思想的意義」参照。

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