花輪和一論2 世を忍ぶ仮の姿と、職業に貴賎あり
世を忍ぶ仮の姿と、職業に貴賎あり
人間は何らかの事情で、世を忍ぶ仮の姿を取ることがある。たとえば、大学教授を目指す若者が、塾の講師をするということは、珍しくない。私もしたことがある。塾の講師をすることは、世間的に考えても悪くはない。国立大学の学生も、塾講師を第一志望の就職先に選ぶことは、よく聞く話である。
さらに、どのように世間から蔑まされる職業についていたとしても、本人が意思を持っているかぎり、それは尊重されるべきである。ここで、具体的に蔑まされる職業を具体的に明示することは避けよう。現実社会において職業に序列があるにもかかわらず、理念的にはその序列はないことになっているからだ。例えば、県議会議員ですら、ある視点からすれば格下、あるいは蔑まされる職業である。市議会議員からすれば、県会議員は憧れの対象である。市民も県議を蔑むことはほとんどない。しかし、政治家においてもヒエラルヒーは厳然として存在している。かつて竹下登が田中派の一陣笠議員だったころ、田中角栄元総理から以下のように言われたそうである。「県議上がりが、日本の政治史において総理大臣になったことはない」。竹下氏の前職、つまり県議会議員という職業が、蔑まされる対象であった。もし、彼が大蔵省(現財務省)の官僚であれば、このような言説は成立しない。彼らは、戦後だけに限定しても、池田勇人、大平正芳、福田赳夫、宮澤喜一と多くの総理大臣を輩出しており、総理大臣のリクルート先として日本政治史に刻印されていたからだ。もっとも、竹下登はこのような貴賎意識を跳ね返し、総理大臣になったが、貴賎意識から全く自由であったとは思えない。
誰もが蔑む対象として、乞食が挙げられる。好き好んで乞食をする人はいない。「わしは、乞食と違う」という啖呵は、西日本では耳にタコができるほど聞かれる。侮蔑の対象として施しを受ける場合、つねに発せられる言葉である。彼らに対する蔑みは、社会的に承認されている。しかし、何らかの個人的事由から、乞食をせざるを得ない場合もある。それを嘲ってはならない。その事由そのものが、その個人にとって不可避であったからだ。この漫画で描かれている女性は、地震によって家族と財産を喪失している。もちろん、物乞いの対象になっている人には、わからない。古代社会から初期近代に至るまで、社会の最底辺に住む人を嘲ってはならないという社会規範が日本にあった。平等意識あるいは職業に貴賎なしという建前が浸透する現代社会において、この規範はむしろ弱体化している。現代社会においても、乞食とは貴賎意識の最底辺に位置している。
現代社会においても職業に貴賎はある。このマンガでも、多くの農民は乞食に対して施しをしない。主人公の少女も乞食に対する施しに批判的である。しかし、近代化されたとはいえ、日本の農村では前近代的意識が濃厚に残存していた。この前近代的意識が、社会的ヒエラルヒーの最底辺に位置している乞食に対して優しい眼差しをかけている。
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