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中島正(1920-2017年)の人間論と食養生論への前梯―― 専門知と素人知――減塩思想と大量の野菜摂取そして少量の肉の摂取

中島正(1920-2017年)の人間論と食養生論への前梯――

専門知と素人知――減塩思想と大量の野菜摂取そして少量の肉の摂取

下線部分は、中島正論に援用する。)

 

 

はじめに

 

 本稿は、後期近代における専門知と素人知の関係を、食養生の観点から考察してみよう。健康志向が、後期近代の都市住民の関心事になっている。しかし、関心があればあるほど、素人知は結果的に逆の方向、つまり不健康をもたらす場合がある。この逆説が生まれる根拠を考察してみよう。また、本稿は2021年夏に執筆予定の「中島正の人間論と食養生論」の前梯になろう。

 

1節 減塩思想

 

 現在、食養生に関して関心を持っている市民は数多い。彼らに共通している最大公約数の一つが減塩思想である。ナトリウムの多い食事を続けていると、ナトリウムの排出が十分ではなくなり、血液内のナトリウム量が増えて血圧が上昇する。また、ナトリウムがコレステロールを高め、血栓の危険性を導くことは、専門知にとって自明の事柄に属している。本稿もこの因果関係を正しいと仮定しているし、この専門知を否定しようとするではない。

多くの市民はこの専門知に忠実である。スーパーマーケットに行けば、減塩味噌、減塩醤油、減塩梅干し、果ては減塩塩麴まである。否、それどころではない。減塩塩という塩という概念を否定している製品すら販売されている。[1] 塩化ナトリウムと同様な味覚を生む塩化カリウムが、工業的に添付されている。減塩という思想に殉じることによって、化学的に製造された保存料、工業的に精製された化学調味料を大量に摂取している。「日本でその塩分を否定したら、別の手段で食品を長持ちさせねばなりません。そのため、添加物や防腐剤を使った食品が増えました」。[2] 対照的に、塩分の大量摂取を主張すれば、狂気の沙汰のようにみなされるであろう。[3]

また、多くの健康志向の市民は、野菜を摂取しようとしている。とりわけ、ダイエット(Diätetik)、減量指向がある女性にとって、野菜の摂取は必須である。素人知にとってダイエット(Diätetik)は、体重の減少をだけを意味しているが、本来的には食養生法あるいは食事療法を意味している。その射程はさらに広大である。「ダイエットは、・・・集合概念であり、この概念は、元来、肉体的だけではなく、精神的な健康維持あるいは治療に寄与する整除された生活様式の意味における措置すべてを包摂している」。[4] ダイエットは、肉体的な健康維持だけではなく、精神的な健康維持をも包摂している。にもかかわらず、市民は、ダイエット概念に含まれている減量思想だけを抽出し、この思想を信奉している。

このような単純化にもかかわらず、穀菜食を摂取することは、間違っていないであろう。植物は光合成能力を有しており、そこには光量子が含まれているからだ「生ある植物摂取は、高度に秩序づけられたエネルギーの高度なポテンシャルを含んでいる。このエネルギーは、光量子の保存によって光合成能力を有する植物の生ある細胞において現存しているはずだ」。[5] 植物を摂取することは、人間にとって必須のことのように思われる。

もちろん、イヌイット民族あるいはマサイ族のような例外はあるが、多くの食養生において植物を摂取することは、ほぼ推奨されている。とりわけ、数千年の歴史を持っている自然人の歯型に基づき、この論拠は主張されている。32本の歯の中で肉食用は4本の犬歯である。・・・その量は、せいぜい4/32ぐらいにとどめておくべきである」。[6] 人間が類人猿から進化する過程で、1割程度の肉食をしながらも、穀菜食を中心にした植物の摂取を否定することはできないであろう。

また、食養生論において、民族の特性を看過することもできないであろう。日本列島に居住していた民族は、欧州等に居住してきた民族と異なる遺伝子構造を持っている。肉食ではなく、穀菜食を中心にするような肉体的構造を持っている。「二千年、三千年のスパンで繊維質中心の食生活をしてきた日本人は、遺伝子的にも急激な肉食を受け入れる環境が整っていない」。[7] ドイツ民族と比較して、日本民族はより多くの量と種類の植物を摂取してきた。

このように減塩思想と穀菜食摂取の思想は、専門知としてはほぼ承認されている。しかし、両者が素人知において結合したときに、人間の身体が侵害されることになる。この二つの思想は、それぞれ別の領域における専門知として形成された。専門家は他の分野の専門知を顧慮しないし、できない。ある分野の専門家は他の分野において素人としてふるまわざるをえない。

この二つの思想が素人知において結合したとき、矛盾が生じる。「野菜を多くとる日本人は、野菜に含まれるカリウムがナトリウムを体外に排出することになり、塩を十分に補給する必要があるわけである」。[8] 植物を大量に摂取することによって、体内細胞に過剰に含まれているカリウムが、水分と共にナトリウムを必要以上に体外に排出する。二つの専門知が結合した場合、それぞれの専門知の目的、つまり健康の維持が破壊される。

さらに、栄養学という専門知は、身体全体にとってどのような栄養素をとるべきかを顧慮しない。口腔から摂取された食物が、体細胞にとってどのように機能するかという身体全体に関する全体知への指向は、ほぼ看過されている。体細胞を構成するタンパク質が必要だから、動物性タンパク質の摂取が推奨されている。生理学という全体知が看過されると、次のような倒錯した思想に近接する。「サカナよりは肉、肉の中でもトリや牛よりサル、できれば、ヒトの肉が一番よい・・・・というように、われわれの体の蛋白質により近い動物の肉をとれ、という結論になっている」。[9] 栄養学がより専門的になり、食品分析学に近接している。より高度に細分化されるほど、専門知は単純化された素人知として機能する。素人知にも理解可能な食品分析学に基づき、健康を破壊するような食物の摂取が奨励されている。

もちろん、微量ではあれ、穀菜自体にもナトリウム等のミネラル成分が含まれている。[10] しかし、後期近代において穀菜の生産が化学肥料に依存する程度が上昇したことによって、野菜のミネラル成分は減少しているはずである。[11] 「昭和三十年代になると硫安や燐酸カリウムといった化学肥料が堆肥にとって代わったために、大切なミネラル類が農作物の中から減少してしまったのである」。[12] 伝統的な発酵堆肥の使用量が減少したことによって、土壌微生物が減少した。そして、穀菜食に含まれるナトリウム等の微量元素が減少した。

また、穀菜の内に含まれていたナトリウムは、加熱することによって減少している。[13] 「食品に調理、とくに加熱という操作を加えることによって、そこに含まれている塩分の多くを消失している」。[14] 血液内のナトリウム濃度が低下することによって、浮腫、いわゆるむくみの原因になる。細胞内そして血液内におけるナトリウム濃度が低下し、ふらつき、頻脈、皮膚や口の中の乾燥等をもたらす。

逆に、原爆症等の治療において、ナトリウムの摂取が有効であることは知られている。「重い原爆症が出現しなかったのは、実にこの秋月式の栄養論、食塩ミネラル治療法のおかげであった」。[15] 長崎浦上第一病院長であった秋月辰一郎は、アメリカ合衆国による長崎原爆投下による被爆者でもあった。この病院は爆心地に近く、彼は被爆者の治療にあたっていた。多かれ少なかれ、彼も原爆症の症状を自覚していた。しかし、秋月辰一郎は原爆症の症状によって死ぬことはなく、天寿(89歳)を全うした。世界的基準以上の塩分摂取の効用も経験的には否定することはできないであろう。

本節の議論をまとめておこう。穀菜を大量に摂取し、減塩思想にとらわれた市民は、いくつかの専門知を組み合わせることによって健康を破壊する結果になる。専門知を持たない市民は、大衆としてマス・メディアにおいて流布している専門知を組み合わせて(=減塩思想と穀菜食の結合)、ある思想の一部分を極大化して(=減量へのダイエットの還元)享受しているにすぎない。人間の健康に関する知識総体、人間の生理学総体に関する知は、大衆的存在である市民だけではなく、それぞれの限定された領域の専門家にとっても疎遠である。「知識社会は、むしろ専門家つまり専門馬鹿の社会、あるいは普遍的に無知の素人社会であろう。概観すること、つまり連関総体の考察、概念化能力を、厳密な意味で誰もが持っていない」。[16] 断片化されたいくつかの専門知が結合することによって、それぞれの専門知が本来持っていた目的、ここではより健康な身体を形成するという目的から逸脱している。

 

2節 肉食

 

 人間的自然の観点から人間の食性を考察してみよう。前節において、歯型から人間的自然における肉食の意味を考察した。その場合、犬歯を肉食用に創造された自然的自然としてみなされていた。しかし、中島正はそれすら、否定している。「人間の食性は何か。その身体の構造とその嗜好とから推して、先ず木に登り、木の実をもぎ取り、前歯で皮をむき、あるいは固い栃や栗は犬歯で割り(人間の犬歯の名残りを肉食獣であった証拠という学説はナンセンスである)、奥歯で咀嚼する。・・・草の実を・・・奥歯で噛みだき、イモを・・・奥歯で噛む」。[17] 犬歯は、肉を食べるためではなく、硬い木の種子を破砕するための用途を持っていた。縄文人あるいはそれ以前の類人猿は穀菜食性を持っており、道具を使用せずとも、人間の手足によって捕捉できる食糧を摂取してきた。

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 人間的自然に基づく食養生論ではなく、別の観点、たとえば動物倫理学の立場から肉食を考察してみよう。

 動物倫理学の最大公約数によれば、肉食自体が倫理的悪とみなされている。「動物倫理学では畜産をはじめとして商業的な動物利用それ自体が間違っており、最終的な廃絶を目指してできる限り縮減されてゆくべきだと考える」。[18] 

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動物の虐待を防ぐ

「食肉の生産は、最善である廃絶が不可能ならば、少なくとも虐待が不可能になるまでに規模が縮小されてゆくのが望ましいといういうことになる」。[19] 中島正家族養鶏論の基礎づけへ

 

 

3節 発酵食品

 

日本人の食生活から塩分の効用を主張することも可能であろう。「発酵食品なくして日本の『食生活』は語れません。そこに“触媒”として使われているのは、塩です。だから、日本の保存食に塩分が多いのは当然なのです」。[20] 大量に塩分を含む発酵食品を摂取することは、発酵菌を摂取することと同義であろう。

 

[1] 「塩分半分のおいしい減塩」『味の素』。In: https://www.ajinomoto.co.jp/yasashio/. [Datum: 07.04.2021]

[2] 幕内秀夫『40歳からの元気食「何を食べないか」――10分間体内革命』講談社、2002年、78頁。

[3] 減塩思想に反対する専門家も少数ながら存在している。白澤卓二『すごい塩 長生きできて、料理もおいしい!』あさ出版、2016年、参照。

[4] Diätetik. In: Wikipedia. In: https://de.wikipedia.org/wiki/Di%C3%A4tetik. [Datum: 07.07.2020]

[5] Max Bircher-Benner. In: Wikipedia. In: https://en.wikipedia.org/wiki/Maximilian_Bircher-Benner, [Datum: 07.07.2020]

[6] 森下敬一『自然食で健康に強くなる本』海南書房、1975年、46頁。

[7] 小泉武夫『食の堕落と日本人』東洋経済新報社、2001年、22頁。

[8] 森下敬一『自然医食療法――ガン・成人病・慢性病・婦人病克服のポイント』文理書院、1994年、98頁。

[9] 森下敬一『自然食で健康に強くなる本』海南書房、1975年、63頁。

「近代栄養学はその動物に一番近い食物をたべるのがベストだといいますが、一番近いといえば牛は牛を食い、人間は人間を食うのが最高だといういうことです」。(山下惣一、中島正『市民皆農~食と農のこれまで・これから』創森社、2012年、197頁)

[10]大地は地上のすべての有機物(動物の排せつ物や植物の落葉など)を、土壌の微生物の助けを借りて、土壌中の微生物の助けをかりてこれを腐植土に化す作用を、十憶年以上も休みなく続けてきたのである」。(中島正『増補版 自然卵養鶏法』農山漁村文化協会、2001年、41頁)

「化学肥料や農薬はいかなる事情があろうと利用しない。これは人間にとって毒物にほかならない」(中島正『農家が教える 自給農業のはじめ方 自然卵・イネ・ムギ・野菜・果樹・農産加工』農山漁村文化協会、2007年、108頁。)

[11] 「元来は塩などはことさら摂らなくても健康に障害はない。自然の食物に含まれているもので十分である。」(中島正『みの虫革命―独立農民の書』十月社出版局、1986年、217頁。)

[12] 小泉武夫『食の堕落と日本人』東洋経済新報社、2001年、23頁。

[13] 「『原形のままの食糧の生食』は・・・・人々の健康を回復させるという効用があり、次いで食糧の大幅節約が可能であるという効用がある」(中島正『都市を滅ぼせ 人類を救う最後の選択』舞字社、1994年、112頁)。

[14] 森下敬一『自然食で健康に強くなる本』海南書房、1975年、106頁。

[15] 秋月辰一郎『長崎原爆記 被爆医師の証言』日本ブックエース、2010年、122頁。

[16] Goldschmidt, Werner: „Expertokratie“ - Zur Theoriegeschichte und Praxis einer Herrschaftsform. In: Hrsg. v. Heister, Hanns-Werner u. Lambrecht, Lars: „Der Mensch, das ist die Welt des Menschen...“ Eine Diskussion über menschliche Natur. Berlin: Frank & Timme 2013, S. 187.

[17] 中島正『みの虫革命―独立農民の書』十月社出版局、1986年、205頁。

[18] 田上孝一『はじめての動物倫理学』集英社、2021年、107頁。

[19] 田上孝一『はじめての動物倫理学』集英社、2021年、121頁。

[20] 幕内秀夫『実践・50歳からの少食長寿法――粗食革命のすすめ』講談社、2004年、121頁。

オンライン講義始末記 

本稿は、2020年8月1日の同名の記事を再編集したものである。

2020年度オンライン講義講義始末記 1 

オンライン講義序章――講義内容の公開

 

 

 

1.20203月下旬における前期の講義形態予測

 

 オンライン講義が突如、大学教授の身の上に降りかかってきた。本稿はその記録である。20203月下旬において、41日開講は困難であるという認識を大学は持っていた。この認識は正しい。5月の連休明けに講義を開始することが決定された。この場合でも、オンライン講義ではなく、通常の教室での対面講義、つまりオフライン講義(以下、オフライン講義)が想定されていた。オフライン講義に備え、マスクの購入が勧告された。しかし、コンビニエンスストア、ドラッグストアーだけでなく、インターネット上でも、マスクはほとんど購入することが不可能であった。フェースシールドを購入した。525日現在でも、アベノマスクは到着していない。しかし、4月下旬には、連休明けの講義がオンラインで実施されることになった。ただでさえ、書類的整合性が求められる地方国立大学である。地方国立大学事務職員は、漢字の誤謬だけではなく、罫線の太さに至るまで様々な文書修正を教授に要求する。このような事務職員の倫理からすれば、度重なる文書修正は、事務職員に対して過剰な負担を負荷したことは間違いない。

 ちなみに、東京六大学は、前期講義をすべてオンライン講義形式に実施することを決定していた。大学内において、独自の仮想空間を構築できる教授が多数存在していた。また、オンライン講義に精通した教員が乏しい大学でも、このようなシステム構築を外注すればよいだけの話である。対照的に、地方国立大学では、オンライン講義に対する拒否意識が強かった。従来の講義形式に愛着があったという保守意識でしかない。東京六大学を前例にしておけば、事務職員そして教員の負担と不安もより軽減されていたのであろう。

 海外の事情に目を向けてみよう。コロナヴィールス-19(Coronavirus SARS-CoV-2)に対する対策が緩いとされるスウェーデンですら、2020年度の大学春学期と秋学期の講義は、オンライン形式で実施することが、早々に決定されていた。東京六大学がオンライン講義を2月下旬あるいは3月初旬に、早々に導入した背景には、オンライン講義がオフライン講義よりも優れているという認識があったはずである。コロナヴィールス-19(Coronavirus SARS-CoV-2)騒動とは無関係に、オンライン講義の必要性が認識されていた。

 おそらく、西欧の大学はオンライン講義の録画を販売することも視野に入れているのであろう。本邦でも伝統的に形成されてきた通信教育あるいは放送大学の変形物が、市場原理に従って再構築されるのかもしれない。これらは推定の域を出ないが、閉鎖的な大学講義が、公開されることはよいことである。真の大学評価は、講義評価に基づく。もちろん、私の講義だけをインターネットで公開するつもりはない。しかし、本邦の大学すべての講義が、認証評価される時代が来るのかもしれない。

 

22020年オンライン講義への紆余曲折

 

 まず、You tubeによる実況中継を試みた。しかし、この試みはすぐさま挫折した。たった、数分で切断された。原因は不明であったが、この動画サイトのAIが、「暴力革命」、「国王の殺害」、「ギロチン」等に反応し、私の近代革命論を不適切と認定したのかもしれない。90分の講義が数分で切断されたのでは、講義にならない。

 しかも、同時実況であれば、オフライン講義と変わらない。むしろ、劣化したオフライン講義しかすぎない。オンライン講義の独自の意義は、実況中継において発揮されない。地方国立大学ではズームによる講義が推奨されているが、実況中継であることには変わりない。一方的な講義形式の下では、実況中継はオンライン講義とは言えない。

 少人数のゼミナールであれば、むしろズームよりもまた、スカイプのほうが、優れている。過去のチャットは保存されており、講義の流れが一目瞭然になる。誰が課題を怠ったかは、記録され、共有されている。ズームで、毎回立ち上げる必要があるが、スカイプでは一旦、IDを登録しておけば、講義時間になると自動的に立ち上げる。

 次に、ニコニコ動画において事前に撮影した動画を公開した。しかし、限定公開に失敗した。投稿した動画はすぐさま不特定多数によって閲覧可能になった。もし、私の動画を限定公開するためには、コミュニティを形成しなければならない。そのためには、学生すべてがこの動画サイトのアカウントを取得しなければならない。これではアカウントを取得できない学生が多数出現しそうである。

 したがって、You tube に事前録画した動画を投稿することにした。最初の動画投稿には、ほぼ12時間かかった。念のため、講義時間の2日前に投稿することにした。所属大学の大学情報システムを通じて、登録学生に対して、当日15時~19時まで閲覧可能な設定にした。ほぼ、本来の講義時間の倍である。もちろん、オンライン講義を1~2週間ほど閲覧可能にする設定も可能であった。しかし、オンライン講義をいつでも聞ける状態にすることは、いつも聞かないことにつながる。これは私の個人的体験に由来している。かつてラジオ講座は限定された時間しか、聴取できなかった。そのためには、他の用事をやり繰りし、ラジオ講座を決められた時間に聞かねばならなかった。しかし、現在では1週間前の講座を、録音機能によって数日、聴取可能である。いつでも聞けるという安心から、いつも聞かず録音された番組が山積されてゆき、結局、録音されたファイルだけがPCに保存されたしまった。私のドイツ語学習時間は、増えず、むしろ減少した。

 また、出席確認が大学から要請されたので、講義終了後に400字数程度のレポートを決められた時間までに要求した。もっとも、はじめ数人の学生が明らかにインターネット情報をコピペしていた。アリストテレスの民主主義批判を講義しているにもかかわらず、インターネット上、どこにでもあるアリストテレスのポリス論を送付した豪傑がいた。その後、私の講義草稿を数行引用するという条件を課したので、そのような行為はほぼなくなった。この講義課題の設定は、意図しない効果をもたらした。すなわち、私の課した課題は、400字程度の音声を、書き言葉に直すことである。音声になった講義草稿の重要点、400字程度を、文字に直す作業である。この課題を解答するためには、前後300字程度に対して耳を澄まさねばならない。集中して聞くことになった。

 学生の印象では、講義終了後の400字のレポートはかなり負担になっているようである。私の講義草稿から引用し、自分の意見を付することを要求した。オフライン講義では、多くの学生が講義時間を睡眠時間とみなしていた。その都度指摘したのでは、講義は成立しない。そのような怠惰な学生は、ほぼ駆逐された。次回の講義時間に、学生のレポートを総覧し、その内容を敷衍し、回答する「珈琲時間」を設けた。毎回、冒頭部の10分ほどの時間を質問に対する回答として設定した。たとえば、西洋政治思想史の本質とは関係ないが、現代社会において必須の概念、たとえば日本人の宗教意識に言及した。日本人の穢れ、禊等に対する意識も宗教的規範に属するということを説明した。

 

3.オンライン講義の積極面 Ⅰ――淡々とした講義

 

 You tubeに動画をアップし、講義を実施することにした。その利点をここで挙げねばならない。You tubeに動画を上げるためには、その2日前までに、講義を仕上げねばならない。動画配信なので、すべての講義言説をレジュメ形式ではなく、文章にした。もちろん、口語と書き言葉は異なる。しかし、講義内容をすべて論文に相当するように文章化した。もし、動画を視聴できない環境にあった場合でも、休講にすることはできないからだ。政治思想史第3回は、8,000字ほどの原稿ができた。ちなみに、第3回講義は、ルターの宗教改革の意義を近代の原理との関連で考察した。原稿用紙換算で20枚ほどの講義内容である。オフライン講義では、約2回で実施した講義が、1回で終了した。草稿文字数で換算すれば、オフライン講義では3,000字しかできなかったが、オンライン講義では8,000字に達することも稀ではない。毎回、400字原稿用紙換算で20枚程度の原稿を準備しなければならない。毎週、二つの講義を準備しなければならない。週末だけでは間に合わない。講義原稿を修正する時間と併せて、56時間、講義原稿と格闘しなければならない。2020年度前期は、水曜日に2科目、西洋政治思想史と政治学概論(政治学原論と同じ講義内容)を担当している。週末はほぼ、オンライン講義のために費やされる。90分の講義原稿と講義録音を作成するために、土曜日半日、PCの前で集中しなければならない。土曜日全日、日曜日全日だけも間に合わない。月曜日午前中も原稿作成作業に従事している。

 また、録音をすることは、自らの原稿を大きな声で読み上げることである。音読によって講義原稿の不備が明らかになった。オフライン講義でも、原稿を準備していたが、すべて黙読であり、音読するという習慣はなかった。発音の明瞭性も含めて自分の言語が記録される。これまでの30年間、自分の講義を聞いたことはなかった。かなり、言語明瞭、意味不明な言説――この形容は、かつて竹下登総理に対して付せられた特徴づけであった――が、多数あった。今でもあるかもしれない。

 オフライン講義においては、講義内容とは関係のない事柄にも注意を払わねばならない。「飯を食べるな」、「帽子を脱げ」、「私語を慎め」、「携帯電話の電源を切れ」等といった講義内容とは異なる事柄に対しても、注意喚起しなければならない。「教育実習のため、公休扱いにしろ」、「所属ゼミナールで終日、大学外で実習するので、私の講義に出られない」、「先週、風邪で寝ていた。病院に行く金銭がなかったので、診断書もない。しかし、公欠扱いにしろ」等、講義内容とは無関係な事柄であったとしても、学生の個人事情にも配慮しなければならない。しかも、このような学生は、私の講義が始まる前に、講壇にやってきて自分の事情を説明する。講義を開始しようとする気力が薄れる。

 オンライン講義においてこのような無駄な時間が一切ない。淡々と講義するしかない。録音された音声が流れるだけである。背景はほとんど動かない。西欧の風景が流れるだけである。また、事務連絡は、大学教育情報システムによって学生に通知される。講義時間は、講義の内容に集中できるし、しなければならない。学生の側からすれば、音に集中できる。私の容姿、服装は一切関係ない。私の表情を窺うこともない。その音声だけに集中できる。学習効果は数倍向上した。特に、講義課題として設定している私の音声を書き写する作業によって、学生の理解力は飛躍的に向上した。

 また、動画は限定公開であれ、インターネット上のYou tubeで視聴される。下手な冗談は記録される恐れもある。一切の冗談を自粛した。冗談は講義への関心を喚起するために、時折これまで意図的に発せられていた。学生に対するこのようなサービスは、一切廃止した。冗談は、その内容が面白ければ面白いほど、社会的な一般常識とは異なる水準で発せられる。不快に思う視聴者が当然いる。不快に思うだけで済めば問題ないかもしれない。人権擁護委員会の審議対象になるでろう。近代の基本的理念、平等という理念を揶揄すれば、しかも学生に理解可能なコンテキストで揶揄すれば、人権侵害とみなされる恐れもある。平等という理念に対する異議申し立てを、学問的に許容できる言語で説明するしかない。人権侵害あるいは法律違反を奨励するような言説は、拒絶されるだけである。ビートたけしの冗談、「赤信号、皆で渡れば怖くない」は有名である。しかし、大学教授がこの冗句と同様な趣旨で発話すれば、道路交通法違反を奨励していると、批難される。国家の法侵犯を奨励していると批判されることは、必定である。そこだけ、切り取られ、人権擁護委員会に提訴される。長時間の事情聴取を覚悟しなければならない。しかも、同僚教員からの憐みと侮蔑に耐えねばならない。研究を疎かにし、大学行政に邁進してきた教員と議論しなければならない。講壇と高座は区別されねばならない。このような冗句は、少なくとも講壇から排除されている。肝に銘じている。

 

4.オンライン講義の積極面 Ⅱ――録音ファイルの分割

 

 90分の動画をアップロードするためには、56個の音声録音ファイルを作成する。のちにこれら複数のファイルを一つのファイルに編集する。学生だけではなく、教授もまた90分の緊張関係を保てない。少なくとも、90分の動画作成のなかで、一回以上、数回に渡って30分以上の長い休憩時間が入っている。体調にもよるが、5分間の連続録音で、疲労困憊することもある。対面講義でも、おそらく休憩が入っており、そこで、冗談を言っていたのかもしれない。前節で述べた冗談の原因もまた、学生の疲労だけではなく、講義者の疲労にあるのかもしれない。オンライン講義は、肉体的にも、精神的にも衰えを自覚している老教授にとって朗報であろう。

 

5.オンライン講義の積極面 Ⅲ――大学カリキュラムと大学偏差値の相違

 

 かつて30年前にインターネットが人口に膾炙し始めたころ、大学は東京大学と京都大学だけ必要であり、教員数の大幅な削減が可能であり、その他の大学教員は淘汰されるという言説があった。二つの大学で講義されている科目をオンライン講義で受講すればよいという考えである。たとえば、教職課程で選択必修科目である政治学概論は、少なくとも全国で数百、数千開講されているはずである。また、法学部、政経学部で開講されている政治学概論に相当する科目、政治学原論を加えれば、その数は増大するであろう。それに応じて、非常勤講師を含めて、担当教員は数百、数千にいるはずである。二人の教授が担当すれば、それ以外の数百人の教員は余剰である。

 この言説は正当性を持っているのであろうか。西洋政治思想史も、政治思想史、近代政治思想史そして社会思想史も含めれば、数百人、数千人の教員が講義を担当しているはずである。学部のカリキュラム総体においてその位置づけは異なっている。それぞれの大学における学部の事情、学生の偏差値に応じた講義が求められている。少なくとも、東大法学部の4年次配当科目である政治学原論を地方国立大学の教育学部の学生に聴講させたとしても、ほとんど理解不能である。後者において、政治学は私の講義だけで終了する。彼らは、ルター、況やミュンツァーという名前をもはや他の科目で聞くことはないであろう。

 政治思想史は教育学部の専門科目であるが、実質上、教養科目に位置づけられている。教育学部の選択必修の政治学原論=政治学概論を除けば、講義者の趣味嗜好で開講されていると、揶揄されている科目群が散見されている。その一つが、筆者によって担当されている近代交通思想史である。おそらく、この科目名称と同一の科目は、本邦のどの大学にもないであろう。交通を思想史、哲学史として考察するという論文すら、本邦でほとんどないからだ。教育学部は、このような講義でもほぼ自由に開講されている。基幹科目を開講すれば、教養科目群はほぼ開講者の判断で自由に設定できる。

 

6.オンライン講義の積極面 Ⅳ――8,000字(400字詰め原稿用紙20枚)の草稿が30回で、24,000字つまり600枚の原稿に相当する。近代思想史の講義草稿の完成

 

第1章 近代総論――前近代から近代へ

第2章 宗教改革――ルターの思想

第3章 イギリス革命――宗教改革と政治革命

第4章 唯物論と近代国家――ホッブスの思想

第5章 経験論と私的所有――ロックの思想

第6章 精神と物体の二元論――デカルトの思想

第7章 一元論的世界像――スピノザの思想

第8章 多元論的世界像――ライプニッツの思想

第9章 啓蒙主義――モンテスキューの思想

第10章 共同的本質――ルソー思想

第11章 フランス革命――自由、平等の理念的宣言

第12章 抽象的主体と道徳――カントの思想

第13章 同一性の原理と国民国家――フィヒテの思想

第14章 共同性における国家と自由――ヘーゲルの思想

第15章 ドイツ革命前――近代の実現とその揚棄

第16章 ヘーゲル左派の形成

第17章 類概念――フォイエルバッハの思想

第18章 宗教批判と政治批判――ブル-ノ・バウア-の思想

第19章 近代国家の揚棄とその批判――エトガー・バウアーの思想

第20章 自由主義と福祉思想――ナウヴェルクの思想

第21章 近代的理性への疑問――キルケゴールの思想

第22章 歴史的世界の把握への批判――カール・シュミットの思想

第23章 疎外――初期マルクスの思想

第24章 マルクス主義の形成――後期マルクスの思想

第25章 近代批判の典型――ニーチェの思想

第26章 社会主義――レーニンの思想

第27章 現代国家論への端緒――ヴェーバーの思想

 

近代社会思想史(1)(ヘーゲル以前)

第4章 唯物論と近代国家――ホッブスの思想

第5章 経験論と私的所有――ロックの思想

第6章 精神と物体の二元論――デカルトの思想

第7章 一元論的世界像――スピノザの思想

第8章 多元論的世界像――ライプニッツの思想

第9章 啓蒙主義――モンテスキューの思想

第10章 共同的本質――ルソー思想

第12章 抽象的主体と道徳――カントの思想

第13章 同一性の原理と国民国家――フィヒテの思想

第14章 共同性における国家と自由――ヘーゲルの思想

 

近代社会思想史(2)(ヘーゲル以後)

第14章 共同性における国家と自由――ヘーゲルの思想

第16章 ヘーゲル左派の形成

第17章 類概念――フォイエルバッハの思想

第18章 宗教批判と政治批判――ブル-ノ・バウア-の思想

第19章 近代国家の揚棄とその批判――エトガー・バウアーの思想

第20章 自由主義と福祉思想――ナウヴェルクの思想

第21章 近代的理性への疑問――キルケゴールの思想

第22章 歴史的世界の把握への批判――カール・シュミットの思想

第23章 疎外――初期マルクスの思想

第24章 マルクス主義の形成――後期マルクスの思想

第25章 近代批判の典型――ニーチェの思想

第26章 社会主義――レーニンの思想

第27章 現代国家論への端緒――ヴェーバーの思想

 

近代政治思想史(1)(近代革命の位相)

第1章 近代総論――前近代から近代へ

第2章 宗教改革――ルターの思想

第3章 イギリス革命――宗教改革と政治革命

第11章 フランス革命――自由、平等の理念的宣言

第15章 ドイツ革命前――近代の実現とその揚棄

第16章 ヘーゲル左派の形成

第23章 疎外――初期マルクスの思想

第24章 マルクス主義の形成――後期マルクスの思想

第26章 社会主義――レーニンの思想

第27章 現代国家論への端緒――ヴェーバーの思想

 

 

 毎回、20枚の原稿を執筆すると、30回の講義を実施すると、400字詰め原稿用紙で600枚の草稿が準備されている。原稿総体が新書程度に相当する。もともと、社会思想史と政治思想史は、30回、4単位用に構想されていた近代思想史30回分を、15回分に分離して構成されている。地方国立大学では、4単位ではなく、2単位の講義が一般化しているためである。宗教改革、イギリス革命、フランス革命、ドイツ三月革命、ロシア革命までの近代史を、ルター、イギリス経験論、大陸合理論、ドイツ観念論哲学そしてヘーゲル左派、マルクスの思想を媒介にして考察している。哲学史、政治思想史、社会思想史を混在させながら、人間的理性による社会把握と社会変革がなぜ、可能になり、そして挫折していったかを考察している。近代革命の部分を政治思想史、個別思想家の部分を社会思想史として開講している。

 

7.オンライン講義の積極面 Ⅴ――近代交通思想史と現代交通論の構想

 

 また、近代交通思想史は、元々近代思想史総体を考察する意図で「近代思想史」として開講したが、挫折した。社会のある側面、つまり交通に限定して、講義している。この講義も、講義ノートがかなり膨らんできて、15回の講義では終了しない草稿ができつつある。来年度を目標に、二分割するつもりである。交通の原理的部分を「近代交通思想史」、その現状分析的部分を「現代交通論」として開講する所存である。

 

 

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