シャルリ・エブド社の風刺画をめぐる緒論--Judentum, Mohammedanismus, Fukushima und Erdogan
20150116 シャルリ・エブド社(Charlie Hebdo)による風刺画――出版の自由と言論の自由は無制限であろうか――低水準の対象を批判するのではなく、嘲笑すべきであった。
田村伊知朗
シャルリ・エブド社の風刺画とそれに対する暴力的抗議が世界的に問題になっている。この問題の本質は後期近代におけるテロリズムとして処理されるべきであろう。なぜ、初期近代では政治的暴力が肯定され、後期近代においてそれがテロリズムとして否定されるか。しかし、この問題は本ブログで詳細に論じているので、ここでは割愛する。過去のブログを参照していただきたい。[1]
ここでは、この問題を出版の自由と言論の自由の問題として考察してみよう。この出版社へのテロ行為のあとで、フランス大統領だけではなく、ドイツ首相、A・メルケルをはじめとして西欧資本主義国家の政治的指導者がデモ行進をして「出版の自由と言論の自由」を掲げたからだ。
しかし、この行進に参加したすべての政治指導者が、無制限の「出版の自由と言論の自由」を標榜したにもかかわらず、自国においてそれを無制限に実践しているわけではない。フランス、ドイツそして西欧において、ナチス・ドイツ時代の「強制収容所」の犠牲者を虚仮にして、ユダヤ人をいたぶる風刺画を作成すればどのようになったであろうか。この風刺画においてヒトラーとナチ親衛隊を賛美し、その論説において「強制収容所はなかった」と表現すれば、どのような事態に陥るであろうか。フランスの出版自由法(第24条の2)において、「ホロコーストの存在に対する異議申し立て罪」が明白に表現されている。そのような論説は、刑事罰の対象になるだけであろう(もちろん、筆者はホロコーストを否定しているのではない。本文の記述は、接続法に属している)。ユダヤ人あるいはユダヤ教を揶揄することは、犯罪であるが、イスラム教あるいはイスラム教徒を揶揄することは、犯罪ではなく、むしろ、出版の自由の下で保護される。第二次世界大戦下で公表されたユダヤ人を揶揄した風刺画、たとえば本稿の冒頭部で引用した風刺画を今世紀において公表する自由を、今世紀の出版社は持っていない。イスラム教徒が憤激することも、根拠がないとも思えない。さらに、ユダヤ教に対する優遇措置は、イスラエルによるアラブ人虐殺を肯定していることにもつながる。出版の自由と言論の自由は無制限ではない。それぞれの国家の歴史的コンテキストにおいて決定されている。
ところで、この風刺画がイスラム教徒、ならびにイスラム教徒が多数派である国家を憤慨させていることは事実である。イスラム教によれば、ムハンムドの形象を描くこと自体が神への冒瀆である。いわんや、その像を虚仮にすれば、イスラム教徒が憤慨することは道理にかなっている。しかし、この風刺画をイスラム教徒は批判すべきであろうか。ある対象を批判するという行為は、批判者と批判対象が同一の論理構造に位置することを含んでいる。批判者はある対象を批判の対象にすることによって、その実体の変革を指向する。しかし、その対象の変革を指向することは、その対象と同一の論理構造にからめとられる危険がある。
一番良い方法は、その対象を嘲笑するだけでよかった。一部のイスラム教徒が暴力的行為をはたらくことによって、シャルリ・エブドの最近の特別号は、100万部も販売されたようである。通常の販売部数は数万部であるから、その10倍を超えている。[2] しかも、数分で売りきれたようである。一部のイスラム教徒の行為によって、極東の国の住人ですら、この風刺画を読むことになった。この政治的暴力はシャルリ・エブドに莫大な利益をもたらした。そして、イスラム教徒一般に対する言われなき差別を助長することは、ほぼ確かであろう。
通俗化すれば、馬鹿と話をすることはない。自分よりも低水準の人間と対象を批判の対象にすべきではない。馬鹿な人間と馬鹿げた対象を批判することによって、批判者もまた低水準化しなければならない。嘲笑するだけでよかった。
Ⅱ
本稿が依拠している叙述方法は、ブルーノ・バウアー(Bauer, Bruno 1809-1882年)によって提起された純粋批判である。[3] 19世紀のヘーゲル左派、カール・シュミット(Schmidt, Karl 1819-1864年)は、バウアーの哲学的方法論、つまり純粋批判という手続きを次のように把握する。「批判はすべての対象をそれ自身において考察し、その対象に固有の矛盾を示す」。[4] 対象の固有の矛盾が、マンガによって表現されている。「批判的嘲笑のテロリズム・・・が、現実的に必然である」。[5] 実体としての社会的現実態の変革は、前提にされていない。[6] 自己意識の哲学が1844年にバウアー自身によって批判されることによって、バウアーの純粋批判の哲学は生成した。真正理論のテロリズムが、批判的嘲笑のテロリズムと対になっている。前者において自己意識の普遍性と矛盾する歴史的現実態としての社会的実体が自己意識によって批判されることによって、新たな歴史的現実態が形成されるはずであった。しかし、彼は純粋批判において社会的現実態の変革可能性を放擲した。
マンガ家は、この矛盾を変革しようとしているのではなく、この矛盾を嘲笑しているだけである。もし、何らかの理念を掲げ、現実態を変革しようとすれば、その理念は容易にドグマに転換される。「純粋批判は・・・破壊しない。なぜなら、それは建設しようとしないという単純な根拠からである。純粋批判は新たな理念を提起しない。それは古いドグマを新たなドグマによって代替しようとしない」。[7] 批判的嘲笑の目的は、現存している時代精神の本質を提示し、その矛盾を提起するだけであり、新たな理念を創造することではない。マンガ家は、読者の即自的意識において存在している事柄を対自化したにすぎない。本稿も、西欧とりわけドイツとフランスにおけるイスラム差別の意識変革を目的にしていないし、現存している意識に代わる新たな意識を提示していない。
自分が制御できない対象に関して、諦念が必要である。自らの世界像と他者の世界像を同一化できない。にもかかわらず、この襲撃犯はそれを可能とみなした。このイスラム教徒もまた近代の病理――人間的理性による世界の秩序化――に染まっているのかもしれない。[8] このイスラム教徒も、西欧近代によって産出された啓蒙主義者とかなり近い存在かもしれない。
Ⅲ
シャルリ・エブド社(Charlie Hebdo)による風刺画をめぐる議論が本邦でも盛んである。この場合、イスラム過激派に対する共感は少ない。もっぱら、シャルリ・エブド社(Charlie Hebdo)による風刺画を肯定的にとらえている。その内容に眉をひそめる人も多いが、「出版の自由と言論の自由」を守るべきであるという錦の御旗に逆らうことはできない。しかし、この風刺画を肯定する人間は、カナール・アンシェネ(Le Canard enchaîné)による東京電力株式会社福島第一原子力発電所に対する風刺もまた、肯定しなければならない。東京オリンピック決定後に出された風刺画は、多くの日本人にとって屈辱的であった。日本の文化を代表する相撲を、手足が3本ある奇怪な日本人がとっている。事実、日本国政府はこれに抗議していたはずである。イスラム教に対する風刺画の存在自体を肯定する人間は、この福島と日本に対する風刺もまた肯定しなければならない。イスラム教に対する風刺はいいが、日本に対する風刺はよくないとは、二重基準にしかすぎない。しかも、この風刺はかなり本質をついている。
一般的に言えば、風刺画は読者を憤慨させ、そして考えさせる。本当に東京電力株式会社福島第一原子力発電所の事故は収束したのであろうか。その意味で、凡百の評論よりも、この一枚の風刺画が福島事故を思い出させた。多くの日本人にとって、東京電力株式会社福島第一原子力発電所の事故は、ほとんど考慮の対象外である。安倍総理の言によれば、それは「制御されている」。しかし、この風刺画を見るかぎり、海外では少なくとも安倍総理の言葉は信用されていないようである。
Ⅳ
このような議論をもとにして、2020年10月28日に問題になっているトルコ大統領に対する風刺画を考察してみよう。この風刺画をめぐって、トルコ政府がフランス政府に対して抗議している。もちろん、トルコ政府は知らぬ、存ぜぬ、で放置すればよかった。フランスとの外交関係だけではなく、貿易、経済的関係を悪化させることは確実である。近代国家は、いつから宗教国家に転移したのであろうか。
[1] 田村伊知朗「近代における初期近代と後期近代の時代区分」(2008年7月 3日)
http://izl.moe-nifty.com/tamura/2008/07/post_7bcf.html [Datum: 03.07.2008] 参照。
[2] Vgl. Wunder der Solidarität. In: Schwäbische Tagblatt, 15.01.2015.
[3] 田村伊知朗「初期ブルーノ・バウアー純粋批判研究序説――後期近代における時代認識との連関において」『北海道教育大学紀要(人文科学・社会科学編)』第58巻第2号、2008年、27-37頁参照。
[4] Schmidt, Karl: Eine Weltanschauung. Wahrheiten und Irrtümer. Dessau: Julius Fritsche 1850, S. 201.
[5] Bauer, Bauer: Korrespondenz aus der Provinz. In: Hrsg. v. Bauer, Bruno: Allgemeine Literatur Zeitung. H. 6. Charlottenburg: Egbert Bauer 1844, S. 31.
[6]、田村伊知朗「初期ブルーノ・バウアー純粋批判研究序説――後期近代における時代認識との連関において」前掲書、35頁参照。
[7] Szeliga: Die Kritik. In: Hrsg. v. Bauer, Bruno: Allgemeine Literatur-Zeitung. H. 11-12. Charlottenburg: Egbert Bauer 1844, S. 45.
[8] 田村伊知朗「世界の変革は可能か」『田村伊知朗 政治学研究室』
http://izl.moe-nifty.com/tamura/2006/05/post_5a0c.html[Datum: 15.05.2006]
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