オンライン講義始末記
オンライン講義序章――講義内容の公開
1.
3月下旬における前期の講義形態予測
オンライン講義が突如、大学教授の身の上に降りかかってきた。本稿はその記録である。2020年3月下旬において、4月1日開講は困難であるという認識を大学は持っていた。この認識は正しい。5月の連休明けに講義を開始することが決定された。この場合でも、オンライン講義ではなく、通常の教室での講義、つまりオフライン講義(以下、オフライン講義)が想定されていた。オフライン講義に備え、マスクの購入が勧告された。しかし、コンビニエンスストア、ドラッグストアーだけでなく、インターネット上でも、マスクはほとんど購入することが不可能であった。フェースシールドを購入した。5月25日現在でも、アベノマスクは到着していない。しかし、4月下旬には、連休明けの講義がオンラインで実施されることになった。ただでさえ、書類的整合性が求められる地方国立大学である。地方国立大学事務職員は、漢字の誤謬だけではなく、罫線の太さに至るまで様々な文書修正を教授に要求する。このような事務職員の倫理からすれば、度重なる文書修正は、事務職員に対して過剰な負担を負荷したことは間違いない。
ちなみに、東京六大学は、前期講義をすべてオンライン講義形式に実施することを決定していた。大学内において、独自の仮想空間を構築できる教授が多数存在していた。また、オンライン講義に精通した教員が乏しい大学でも、このようなシステム構築を外注すればよいだけの話である。対照的に、地方国立大学では、オンライン講義に対する拒否意識が強かった。従来の講義形式に愛着があったという保守意識でしかない。東京六大学を前例にしておけば、事務職員そして教員の負担と不安もより軽減されていたのであろう。
海外の事情に目を向けてみよう。コロナヴィールス-19(Coronavirus SARS-CoV-2)に対する対策が緩いとされるスウェーデンですら、本年度の大学春学期と秋学期の講義は、オンライン形式で実施することが、早々に決定されていた。東京六大学がオンライン講義を2月下旬あるいは3月初旬に、早々に導入した背景には、オンライン講義がオフライン講義よりも優れているという認識があったはずである。コロナヴィールス-19(Coronavirus SARS-CoV-2)騒動とは無関係に、オンライン講義の必要性が認識されていた。
2.
オンライン講義への紆余曲折
まず、You tubeによる実況中継を政治思想史の講義において試みた。しかし、この試みはすぐさま挫折した。たった、数分で切断された。真の原因は不明であったが、この動画サイトのAIが、「暴力革命」、「国王のギロチン」等に反応し、私の近代革命論をすぐさま不適切と認定した可能性も排除できない。90分の講義が数分ごとに切断されたのでは、講義にならない。
しかも、同時実況であれば、オフライン講義と変わらない。むしろ、劣化したオフライン講義しかすぎない。ズームと同様に、オンライン講義の独自の意義は、実況中継において発揮されない。
次に、ニコニコ動画において事前に撮影した動画を公開した。しかし、限定公開に失敗した。投稿した動画はすぐさま不特定多数によって閲覧可能になった。もし、私の動画を限定公開するためには、コミュニティを形成しなければならない。そのためには、学生すべてがこの動画サイトのアカウントを取得しなければならない。これではアカウントを取得できない学生が多数出現しそうである。
したがって、You tube に事前録画した動画を投稿することにした。最初の動画投稿には、ほぼ12時間かかった。念のため、講義時間の2日前に投稿することにした。所属大学の大学情報システムを通じて、登録学生に対して、当日13時~19時まで閲覧可能な設定にした。もちろん、オンライン講義は1週間ほど閲覧可能にする設定も可能であった。しかし、オンライン講義をいつでも聞ける状態にすることは、いつも聞かないことにつながる。これは私の個人的体験に由来している。かつてラジオ講座は限定された時間しか、聴取できなかった。そのためには、他の用事をやり繰りし、ラジオ講座を決められた時間に聞かねばならなかった。しかし、現在では1週間前の講座を、録音機能によって数日聴取可能である。いつでも聞けるという安心から、いつも聞かず録音された番組が山積されてゆき、結局、録音されたファイルだけがPCに保存されたしまった。私のドイツ語学習時間は、増えなかった。
また、出席確認が大学から要請されたので、講義終了後に400字数程度のレポートを決められた時間までに要求した。もっとも、はじめ数人の学生が明らかにインターネット情報をコピペしていた。アリストテレスの民主主義批判を講義しているにもかかわらず、インターネット上、どこにでもあるアリストテレスのポリス論を送付した豪傑がいた。その後、私の講義草稿を数行引用するという条件を課したので、そのような行為はほぼなくなった。この講義課題の設定は、意図しない効果をもたらした。すなわち、私の課した課題は、400字程度の音声を、書き言葉に直すことである。音声になった講義草稿の重要点、400字程度を、文字に直す作業である。この課題を解答するためには、前後300字程度に対して耳を澄まさねばならない。集中して聞くことになった。
学生の印象では、講義終了後の400字のレポートはかなり負担になっているようである。私の講義草稿から引用し、自分の意見を付することを要求した。オフライン講義では、多くの学生が講義時間を睡眠時間とみなしていた。その都度指摘したのでは、講義は成立しない。そのような怠惰な学生は、ほぼ駆逐された。次回の講義時間に、学生のレポートを総覧し、その内容を敷衍し、回答する「珈琲時間」を設けた。毎回、冒頭部の10分ほどの時間を質問に対する回答として設定した。たとえば、西洋政治思想史の本質とは関係ないが、現代社会において必須の概念、たとえば日本人の宗教意識に概説した。日本人の穢れ、禊等に対する意識も宗教的規範に属するということを説明した。
3.
オンライン講義の積極面 Ⅰ――淡々とした講義
You tubeに動画をアップし、講義を実施することにした。その利点をここで挙げねばならない。You tubeに動画を上げるためには、その2日前までに、講義を仕上げねばならない。動画配信なので、すべての講義言説をレジュメ形式ではなく、文章にした。もちろん、口語と書き言葉は異なる。しかし、講義内容をすべて文章化した。もし、動画を視聴できない環境にあった場合でも、休講にすることはできないからだ。政治思想史第3回は、8,000字ほどの原稿ができた。ちなみに、第3回講義は、ルターの宗教改革の意義を近代の原理との関連で考察した。原稿用紙換算で20枚ほどの講義内容である。オフライン講義では、約2回で実施した講義が、1回で終了した。草稿文字数で換算すれば、オフライン講義では3,000字しかできなかったが、オンライン講義では8,000字に達することも稀ではない。毎回、400字原稿用紙換算で20枚程度の原稿を準備しなければならない。毎週、二つの講義を準備しなければならない。週末だけでは間に合わない。講義原稿を修正する時間と併せて、5~6時間、講義原稿と格闘しなければならない。2020年度前期は、2科目、西洋政治思想史と政治学概論(政治学原論と同じ講義内容)を担当している。週末はほぼ、オンライン講義のために費やされる。90分の講義原稿と講義録音を作成するために、土曜日半日、PCの前で集中しなければならない。土曜日全日、日曜日全日だけも間に合わない。月曜日午前中も原稿作成作業に従事している。
また、録音をすることは、自らの原稿を大きな声で読み上げることである。音読によって講義原稿の不備が明らかになった。オフライン講義でも、原稿を準備していたが、すべて黙読であり、音読するという習慣はなかった。発音の明瞭性も含めて自分の言語が記録される。これまでの30年間、自分の講義を聞いたことはなかった。かなり、言語明瞭、意味不明な言説――この形容は、かつて竹下登総理に対して付せられた特徴づけであった――が、多数あった。今でもあるかもしれない。
オフライン講義においては、講義内容とは関係のない事柄にも注意を払わねばならない。「飯を食べるな」、「帽子を脱げ」、「私語を慎め」、「携帯電話の電源を切れ」等といった講義内容とは異なる事柄に対しても、注意喚起しなければならない。「教育実習のため、公休扱いにしろ」、「所属ゼミナールで終日、大学外で実習するので、私の講義に出られない」等、学生の個人事情にも、講義内容とは無関係な事柄であったとしても、配慮しなければならない。このような無駄な時間が一切ない。淡々と講義するしかない。また、事務連絡は、大学教育情報システムによって学生に通知される。講義時間は、講義の内容に集中できるし、しなければならない。学生の側からすれば、音に集中できる。私の容姿、服装は一切関係ない。私の表情を窺うこともない。その音声だけに集中できる。学習効果は数倍向上した。特に、講義課題として設定している私の音声を書き写する作業によって、学生の理解力は飛躍的に向上した。
また、動画は限定公開であれ、インターネット上で視聴される。下手な冗談は記録される恐れもある。一切の冗談を自粛した。冗談は講義への関心を喚起するために、時折これまで意図的に発せられていた。学生に対するこのようなサービスは、一切廃止した。冗談は、その内容が面白ければ面白いほど、社会的な一般常識とは異なる水準で発せられる。不快に思う視聴者が当然いる。不快に思うだけで済めば問題ないかもしれない。人権擁護委員会の審議対象になるでろう。近代の基本的理念、平等という理念を揶揄すれば、しかも学生に理解可能なコンテキストで揶揄すれば、人権侵害とみなされる恐れもある。平等という理念に対する異議申し立てを、学問的に許容できる言語で説明するしかない。人権侵害あるいは法律違反を奨励するような言説は、拒絶されるだけである。ビートたけしの冗談、「赤信号、皆で渡れば怖くない」は有名である。しかし、大学教授がこの冗句と同様な趣旨で発話すれば、道路交通法違反を奨励していると、批難される。国家の法侵犯を奨励していると批判されることは、必定である。講壇と高座は区別されねばならない。このような冗句は、少なくとも講壇から排除されている。肝に銘じている。
4.
オンライン講義の積極面 Ⅱ――録音ファイルの分割
90分の動画をアップロードするためには、5~6個の音声録音ファイルを作成する。のちにこれら複数のファイルを一つのファイルに編集する。学生だけではなく、教授もまた90分の緊張関係を保てない。少なくとも、90分の動画作成のなかで、一回以上、30分以上の長い休憩時間が入っている。自分の肉体的かつ精神的疲労を意識する。前節で述べた冗談の原因もまた、学生の疲労だけではなく、講義者の疲労にあるのかもしれない。オンライン講義は、肉体的にも、精神的にも衰えを自覚している老教授にとって朗報であろう。
5.
オンライン講義の積極面 Ⅲ――大学カリキュラムと大学偏差値の相違
かつて30年前にインターネットが人口に膾炙し始めたころ、大学は東京大学と京都大学だけ必要であり、教員数の大幅な削減が可能であり、その他の大学教員は淘汰されるという言説があった。二つの大学で講義されている科目をオンライン講義で受講すればよいという考えである。たとえば、教職課程で選択必修科目である政治学概論は、少なくとも全国で数百、数千開講されているはずである。また、法学部、政経学部で開講されている政治学概論に相当する科目、政治学原論を加えれば、その数は増大するであろう。それに応じて、非常勤講師を含めて、担当教員は数百、数千にいるはずである。二人の教授が担当すれば、それ以外の数百人、数千の教員は余剰である。
この言説は正当性を持っているのであろうか。西洋政治思想史も、政治思想史、近代政治思想史そして社会思想史も含めれば、数百人の教員が講義を担当しているはずである。学部のカリキュラム総体においてその位置づけは異なっている。それぞれの大学における学部の事情、学生の偏差値に応じた講義が求められている。少なくとも、東大法学部の政治学原論を地方国立大学の教育学部の学生に聴講させたとしても、ほとんど理解不能である。後者において、政治学は私の講義だけで終了する。彼らは、ルター、況やミュンツァーという名前をもはや他の科目で聞くことはないであろう。政治思想史は教育学部の専門科目であるが、実質上、教養科目に位置づけられている。
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