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社会科学とマンガの架橋(1)――いしいひさいち官僚制論(3)――あるいは政治家論

(承前)

『人文論究』が縦書きのために、漢数字を用いている。なお、第11節以下は、本来、政治家論として公表する所存であったが、雑誌編集部との折衝の結果、一つの論文として公表することになった。

 

第一一節 政治家論() 官僚に対抗する政治家? 

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 このマンガは、日本沈没という国難に際して、政治家が自分の選挙区のことしか考えていないこと揶揄している。政治家という官僚組織を統括する主体が、日本全体の普遍的利益ではなく、特殊的利益しか考えていない。

 官僚は、特殊的利益を指向する観点から物事を考える。しかし、官僚が視野狭窄であることは、必ずしも欠陥ではない。与えられた職務に忠実であればあるほど、そのような結果をもたらす。国家公務員と話していると、彼らの隠語として社長という言葉が乱発される。多くの一般職国家公務員、とりわけ課長補佐、係長等は、課長を社長と呼ぶ。自らが属する課の利益を追求する。あるいは課に属する国民生活に対して忠誠を誓う。国家全体における省全体の在り方に関して、ほとんど関心がない。公務員組織は、株式会社とは異なり、社長という役職を持っていない。にもかかわらず、国家公務員組織に属していない人間に対して、課長はうちの社長と表現されている。

 

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国家公務員組織における社長という隠語は、彼らにとって直属の上司が誰であるかを暗示している。彼らが忠誠を誓う主体は、課長である。彼らは省益すら追求しない。いわんや、国益の本質を考察する能力と意思はない。

官僚機構における国益という思想の欠如は、常識的には政治家によって補正される。政治家、本邦の組織形式を用いれば、大臣、副大臣、政務官等は、必ずしもその省庁の業務に関して精通していない。ほとんど素人同然である。全体的視野から、当該省庁の業務を概観することが求められている。

しかし、政治家が特殊的利益、つまり特定の業界利益、地域利益を追求すれば、国益という観点は看過される。政治家は、次の選挙における当選をつねに考えている。政治家は日本国家の普遍的利益ではなく、選挙区という地域の特殊的利益を追求する。

日本沈没という国難に際して、国務大臣を統括する内閣総理大臣も特殊的利益を追求すれば、日本は沈没する。いしいひさいちは、この意味を明確にした。このマンガの置かれている状況が、日本沈没という地殻変動であることは、示唆的である。経済的地平でもなければ、文化的地平でもない。まさに、日本列島が消滅する段階でも、政治家が特殊的利益を追求している。政治家における目的合理性が議員的身分の保障であるとするならば、選挙区に対する利益誘導が合理的なものとなる。あるいは党官僚組織の一員としての個別政党的な利益が優先される。政治家によって設定された合理性もまた、官僚的目的合理性と結合つまり癒着するであろう。

問題は、彼によって提起された地平の彼方にある。誰が国益を追求するのであろうか。多くの官僚は省益すら追求しない。課益がその主要な関心事である。国益を普遍的地平で考察する哲人政治家が求められる。しかし、哲人政治家はどこからリクルートされるのであろうか。古色蒼然たる哲学部の卒業生からであろうか。日本には、そもそも哲学部という学部はない。せいぜい、文学部哲学科が細々とその命脈を保っているにすぎない。教養課程から専門課程への進学振り分けが、文学部において常態化している。文学部の花形学科は、現代社会のニーズに対応している社会学科、マス・メディア学科、英語学科等である。哲学科は、それらから振り落とされた学生の進学先であり、教養課程における成績の宜しくない学生の振り分け進学先として有名である。

西洋哲学科はまだよい。英語、ドイツ語等の外書講読によって、語学的能力が格段に向上する。東洋哲学科あるいはインド哲学科等は、大学院進学を除けばかなり就職に不利である。古代サンスクリット語を習得したとしても、この言語を使用する機会が現代社会において少ないからである。

さらに、哲学科学生の多くは哲学史には精通していても、哲学者ではない。特定の著名な哲学者の思考様式を学んだとしても、全哲学史におけるその位置づけは不明なままである。

哲学的思考様式は、官僚機構によって追求される課益、省益には対抗できないであろう。それを超えた地平が求められている。

 

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第一二節 政治家論() 劣化した政治家

 

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金正日・朝鮮労働党総書記は父から地盤、看板、鞄を継承した政治家である。その権力と権威の源泉は、金日成・将軍の子供であったという事実に還元される。今世紀初頭の朝鮮半島北部の支配者、金正恩の権力の源泉は、金正日の子供であり、金日成の孫であることにすぎない。彼個人の政治的判断能力、能力はほとんど顧慮されていない。

翻って、本邦においても世襲政治家が跋扈している。安倍晋三・内閣総理大臣、麻生太郎・内閣副総理大臣以下、自民党の政治家の大半は、父親あるいは配偶者の父親から権力基盤を継承した。彼らが最初の選挙に出馬するときには、父親あるいは義父の威光を十全に利用した。その意味で、朝鮮民主主義人民共和国の独裁者、金正恩と、日本の有力政治家は類似している。昨今では、朝鮮民主主義人民共和国と日本の外交関係がかなり険悪化しており、日本はこの国家を経済制裁の対象にしている。しかし、両国において政治的決定を最終的に実施する主体は、世襲政治家であるという点において共通している。両者とも国民の生活習慣を実感することは、ないであろう。

政治的指導者の精神構造もまた、共通している。彼らに哲人政治家的な資質を求めることは、滑稽でしかないであろう。彼らが被支配者の生活様式に配慮するという幻想は、誰も保持していないであろう。

 

第一三節 政治家論() 胆力なき政治家

 

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ここで、小国の戦国大名が、破竹の勢いで侵攻してくる織田信長の軍勢にどのように対処すべきかが問題になっている。しかし、この戦国大名はなんらの政治的決断をしようともしない。たんに、泣き寝入りするという選択肢を選んだにすぎない。

 政治的決断をするためには、主体の能力を考慮しながら状況を的確に判断しなければならない。しかし、この政治的指導者はその決断から逃げているにすぎない。決断をするための胆力に欠けている。政治家はどのような状況であれ、決断を下さねばならない。

 

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第一四節 政治家論() 政治家と国民の同一性

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このマンガでは、農林族に属する政治家の議論過程が描かれている。農林族議員の見識の無さ、つまり農林行政の場当たり性が、自嘲気味に描かれている。次回の選挙で議員自身の落選の危機が、この会議において議論された。しかし、有権者である農民もまた、場当たり的であることが、指摘されている。議員だけではなく、国民もまた、将来に対する見識なき存在である。おそらく、この農林族議員が再選されるであろうことが、予見されている。

 事実、この半世紀間における農政は、自民党か旧民主党の政治家によって決定された。農業経営の大規模化が、ほぼ共通して承認されてきた。家族経営による有畜小規模農業は、ほぼ駆逐されてしまった。自然卵養鶏を営む小規模農家が、細々と生存しているにすぎない。都市に食料を供給するという選択肢は、多くの農民によって支持されてきた。農家は都市の不耕貪食の民に食料を供給する。問題は農業生産物の対価の多寡でしかない。農民が金銭を媒介にして、農産物を都市に供給するというパラダイムは、問題にすらされていない。

 このような傾向を農民自身が選択した。その結果、農業自体が衰退した。政治家の農業観を支えている基盤は、農民の農業意識でしかない。両者の価値観には、ほとんど区別はないであろう。

 

第一五節 政治家論() 官僚に統御された政治家

 

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このマンガでは、前世紀後半に成立した第一次村山内閣が、第一三次村山内閣として今世紀まで継続している。村山首相は死に体ですらなく、すでに、生物学上でも死亡している。しかし、この内閣は継続している。

 

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 官僚によって提出された書類に署名捺印することだけが、宰相の仕事になる。官僚機構によって統御された政治家は、誰でもよいことになる。元社会党委員長であれ、自民党の重鎮であれ、誰が首相になろうとも大差はないであろう。自称、社会主義者であれ、資本主義者であれ、官僚機構という膨大な組織から自由になれない。

 

第一六節 官僚制における民主主義?

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このマンガの面白さは、軍隊に多数決原理が導入されていることにある。この原理の導入は、現実的には想定不可能である。将校と兵隊の数は、通常、兵隊の数が多い。もし、軍隊という命令組織に多数決原理を導入すれば、軍隊という組織が崩壊するであろう。多くの兵隊は、徴兵された存在であり、戦意は将校に比べて低いからである。もし、多数決原理が導入されれば、戦争そのものが否定されるであろう。民主主義という原理は、命令組織には導入されない。官僚組織は位階制的組織である。この官僚組織のうちで、もっとも厳格な組織は軍隊である。上官の命令を否定し、前線から逃亡しようとすれば、前線の背後に控える督戦隊から銃弾を受ける。

軍隊に民主主義が導入されれば、前線で生命を賭けて戦うのは、将校のみになるであろう。このマンガは、その架空の設定を採用している。しかし、この試みはもろくも失敗する。味方の軍隊に民主主義を導入すれば、敵の軍隊にも、民主主義が導入されるであろう。敵の上官は味方の上官を狙撃しようとしない。不条理な怒りに震える敵の上官は、相手方の軍隊の将校ではなく、兵隊を狙撃しようとする。

一般化して言えば、あるものの本質とは異なる要素を当該概念に導入することによって、当該概念が明瞭になる。いしいひさいちは、当該概念、ここでは軍隊の本質を把握しいている。その本質とは正反対の理念を導入することによって、その概念を明瞭にしている。

なお、命令組織は軍隊に限定されていない。名目的にはすべての官僚組織に妥当する。また、官僚組織に比肩する強度を誇る営利企業の組織にもあてはまるであろう。そこにおいて、民主主義の原理、多数決原理は適用されない。

 

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 政治的領域においても、多数決原理が適用される領域はかなり少ない。有権者間における平等性が、前提になる領域でしかない。況や、社会的関係、家族的関係においてこの原理を導入しようとすることは、無謀という誹りを免れない。この原理が妥当する領域は、限定されねばならない。私的領域においてこの原理は、適用されてはならない。私的領域にこの原理を適用した場合、利害関係があまりに強く、少数者が多数者に従うことが困難である。

もっとも、後期近代において公的領域と私的領域は交錯しており、その峻別が困難である。公的領域の本質規定が問題になる。私的領域における行為、たとえば私有地において住宅あるいは環境破壊的産業を建設することが、公的領域と交錯する。しかし、公的領域と私的領域の交錯領域でも、多数決原理が適用されることは少ないであろう。ここでも、行政つまり命令組織と、個人の関係が主である。

より一般化すれば、多数決原理は、政治的国家における平等原理を前提にしており、官僚機構における命令原理とは相容れない。政治的領域に限定しても、その適用範囲は狭い。また、市民社会はこの原理を採用していない。たとえば、株式会社において、労働者は経営者、そして究極的には資本家の命令に従わねばならない。また、株主総会では、持ち株高に応じて、投票数が決定される。所有株券の数に応じて、投票行動が実施される。一株に付き一票であり、持ち株が多ければ、投票数も多い。多数決原理ではなく、当該企業の株式の多寡に応じて、投票数が決定される。ここには、平等原理は適用されない。

しかし、構成員全体が平等であるかのような軍隊が、かつて存在していた。歴史的に言えば、軍隊に民主主義あるいは多数決原理が導入されることは、必ずしも荒唐無稽でない。一七世紀にイギリス革命が生じたが、この世界初の近代革命の一翼を担った水平派に、その起源を求めることも可能であろう。

ここで、数世紀前に生じたイギリス革命の歴史的経緯に触れておこう。まず、この革命は国王と議会との憲法論争から始まった。この論争の中心は、今後のイギリスの政治体制を絶対主義的君主制のままとどめるのか、立憲主義的君主に改変するべきかということにあった。国王派が前者を、議会派が後者をそれぞれ代表する。一六四二年には、国王派と議会派の内乱が開始される。一六四九年に、革命派は軍事的に勝利し、国王を処刑する。世界初の近代革命がイギリスにおいて成功し、近代が始まる。同時に、革命派の勝利は、議会派内部の対立を明瞭にした。つまり、長老派、独立派そして水平派という派閥闘争が激化する。

三つの派閥の指向性の差異が、明瞭になりつつあった。長老派は立憲君主制を、独立派は共和制をそれぞれ指向していた。共和制が、立憲君主制を超えて独立派によって宣言される。共和制は、長老派に対する独立派のヘゲモニーが確立されたことによる。同時に水平派も弾圧される。一六五三年に、独立派のクロンウェルの軍事独裁が始まる。ローマ共和制に似た護民官政治が始まる。独立派が革命派のなかで全権を把握する。しかし、独立派による独裁政治は、長老派と水平派の支持ひいては国民一般の支持を喪失した。

この革命の主流を形成することはなかったが、水平派の思想に触れておこう。ここには、近代揚棄の思想がみられる。彼らは軍隊内部に全軍評議会を形成しようとする。この評議会は軍隊内の意志決定を民主化しようとする。この党派は、軍隊という命令型組織に多数決原理を適用しようとする。もちろん、軍隊という官僚組織に民主主義を適用することは、明らかな矛盾である。結果的にこの試みは敗北する。上級将校を中心にした独立派によって、水平派は弾圧される。

しかし、正規軍ではなく、反乱軍において民主主義的要素を導入しようという試みは、一定程度必要になる。イギリス革命における水平派は、荒唐無稽な存在ではない。なぜなら、つねにその使命感が反乱軍において鼓舞されねばならないからである。革命軍は正規軍と異なり、金銭的裏付けがないにもかかわらず、軍への参加を鼓舞しなければならない。なぜ、革命軍に参加しなければならないのかを参加者に理論的に説明しなければならない。既存の秩序を破壊することを、言語によって正当化しなければならない。長老派と独立派は、水平派に対して革命軍への参画を煽動した。結果的には水平派は弾圧されるが、水兵派がなければ革命は成就しなかった。反乱軍あるいは革命軍は、これまでの忠誠対象とは異なる対象にその忠誠心を要求する。

 

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このマンガに揶揄された命令組織における多数決原理の導入は、軍隊の例外的な存在形式つまり革命軍において妥当性を有しているのかもしれない。

 

おわりに

 永井均『マンガは哲学する』(岩波書店、二〇〇九年)は、思想的分野における必読文献になっていると想像している。本書に倣えば、本稿の題名は「マンガは社会科学する」のほうが正しいのかもしれない。

 しかし、彼の著書を構成しているある小節を論文として哲学の学会誌に投稿したとしても、受理されることはないであろう。哲学の論文としての形式をほとんど無視しているからである。にもかかわらず、マンガという娯楽対象から自己自身の思想を形成しようとする市民にとって、彼の著作が有益であることに変わりはないであろう。哲学的諸課題のうちの一つが、本書によって解答されている。

 本稿は、官僚制に関するいしいひさいちの深遠な洞察をマンガという形式ではなく、文章として提示している。マンガと文章の関係において、この作業は現在流布している方法論と逆方向を指向している。通常、難解な書物、たとえばマルクス『資本論』をマンガによって解説することが、現今の出版界において一般的である。対照的に、本稿は四コママンガから得た着想を文章として提示している。彼のマンガを何度も読み直すなかで、現代政治そして官僚制に関する深遠な洞察に気付いた。この面白さの根拠を考察するなかで、本稿が生まれた。

いしいひさいちのマンガを媒介することによって、現代社会の様々な側面を考察してみよう。官僚制論だけではなく、農村論そして経済論等を準備している。さらに、いしいひさいちだけではなく、村上和彦、西岸良平等の社会科学に関する論稿もすでに準備している。それを集大成すれば、近代政治そして近代社会の一側面が明瞭に浮かび上がってくるであろう。

 

著作権に関する付論

マンガの著作権に関する思想も永井均の前掲書の考えに依拠している。永井均はマンガの著作権と思想的論稿の関係を次のように述べている。「本書におけるマンガの引用は、『報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲で行われるもの』であるから、著者および出版社の許諾を得ていない」。[1] この叙述様式が、著作権法三二条第一項に妥当するとみなしている。

永井均の著作に先行する同様な手法の業績として、呉智英『現代マンガの全体像』も参照されるべきであろう。呉智英は、引用したマンガのすべてに対して著作権マークCを付けている。[2] 本稿執筆にあたって、呉智英の考えに依拠すべきであろうかとも、考えた。呉智英によれば、マンガの引用は、マンガ家の承認を得るべきであるとされる。

しかし、筆者は、呉智英ではなく、永井均の著作権に関する解釈を正当なものと考えている。学術論文や学術書と同様に、書籍化されたマンガも公開された社会的な共有財産である。その引用は自由であるべきだ、と考えている。もしそうでなければ、あるマンガの1頁を批評するために、マンガ家に転載許可を求めねばならない。著作権者と連絡を取る方法は、通常、公開されていない。そのような煩瑣な作業をマンガ批評者に要求することは、事実上、マンガ批評を断念するという選択肢しか残されていない。

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逆に、マンガ家からすれば、毎日のように転載許可の電話、メールが届くことになる。マンガを執筆する時間よりも、転載許可の許諾が彼の仕事になる。著作活動を断念し、著作権を守るという事務作業に没頭しなければならない。呉智英の著作権に関する認識によれば、このような馬鹿げた事態が招来するであろう。さらに、マンガ評論に関する古典とみなされている著作、たとえば鶴見俊輔の一連のマンガ評論は、引用頁数すら記載していない。ただ、マンガ本の題名だけである。[3] それでも、問題ないと考えられている

いしいひさいちの筆名は、引用されることによってより高まると想像している。もっとも、私が引用しなくとも、いしいひさいちのマンガは、すでに同時代の大衆にとって基礎教養になっている。前世紀後半において廣松渉の哲学が基礎教養になっていたことと同様である。いしいひさいちからすれば、著作権の問題はどうでもよいことに属する事柄にすぎないのかもしれない。

さらに、学術的世界、とりわけ自然科学系学問領域において、引用される回数が当該論文の価値を高めている。引用される回数を増すために、姑息な手段が横行しているとも聞いている。研究者仲間で相互に不必要な引用がなされているという指摘は、よく聞く話である。

私は特定のマンガ家、いしいひさいちと個人的面識を持っているわけではない。公刊された彼のマンガ本を購入し、その読者になっているだけである。なお、本稿以後にも、同様な叙述形式の原稿を幾つか用意している。マンガの著作権に関する考察も、同様な思想に基づいている。著作権マークCは、私の論文に付されていない。

 

引用文献表

第一節 いしいひさいち『ドーナツブックス』第三七巻、双葉社、二〇〇三年、一〇〇頁。

第二節 いしいひさいち『ドーナツブックス』第一一巻、双葉社、一九八六年、一三二頁。

第三節 いしいひさいち『問題外論』第一一巻、チャンネルゼロ、一九九七年、四五頁。

第四節 いしいひさいち『ドーナツブックス』第一三巻、双葉社、一九八六年、一一八頁。

第五節 いしいひさいち『ドーナツブックス』第二二巻、双葉社、一九九〇年、五五頁。

第六節 いしいひさいち『バイトくん』第五巻、双葉社、二〇〇六年、六八頁。

第七節 いしいひさいち『眼前の敵』河出書房新社、二〇〇三年、二二―二三頁。

第八節 いしいひさいち『ドーナツブックス』第五巻、双葉社、一九八四年、一九頁。

第九節 いしいひさいち『問題外論』第二巻、チャンネルゼロ、一九九三年、一二八頁。

第一〇節 いしいひさいち『バイトくん』第四巻、双葉社、二〇〇五年、三〇頁。

第一一節 いしいひさいち『ドーナツブックス』第一三巻、双葉社、一九八六年、一二六頁。

第一二節 いしいひさいち『近くて遠山の金さん』双葉社、二〇〇七年、七七頁。

第一三節 いしいひさいち『ドーナツブックス』第五巻、双葉社、一九八四年、一二頁。

第一四節 いしいひさいち『経済外論』第三巻、朝日新聞社、一九九一年、五四頁。

 

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第一五節 いしいひさいち『スチャラカお宝大明神』双葉社、二〇〇八年、三二―三三頁。

第一六節 いしいひさいち『鏡の国の戦争』潮出版、一九八五年、七六―七七頁。

 

[1] 永井均『マンガは哲学する』岩波書店、二〇〇九年、二三二頁。

[2] 呉智英『現代マンガの全体像』双葉社、一九九七年参照。

[3] 鶴見俊輔『鶴見俊輔全漫画論Ⅰ』筑摩書房、二〇一八年参照。

 

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