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オンライン講義始末記――地底国教授の悲哀と自負

オンライン講義始末記――地底国教授の悲哀と自負

(この暫定稿を未定稿のまま、『田村伊知朗 政治学研究室』に掲載する。今後、修正する予定である)。

 

0、前書

インターネットが普及してほぼ30年になる。この仮想空間において興味深い造語が生まれた。宮廷大(旧帝大)、地帝国(地方旧帝国大学)そして地底国(地方底辺国立大学)なる造語である。宮廷大のなかでも、地方にある旧帝国大学と本州に位置する旧帝国大学は区別されている。また、同じ発音でも、地帝国(地方旧帝国大学)と地底国は区別されている。とくに、後者の教授は、前者の大学出身者が多い。たとえば、北海道を例にとれば、北大以外の地方単科大学の教授は、北大出身者によってほぼ占められている。もちろん、地帝国たる北大教授は、北大あるいは宮廷大出身者にほぼ限定されている。

 この位階制的構造において、まさに底辺に位置している教授が地底国教授である。この教授が2020年前期においてオンライン講義をどのように取り組んだかが記録されている。地底国教授であることを詠嘆しているのではない。その意義を確認する作業を展開するためである。

宮廷大法学部教授が国家公務員総合職を養成するとすれば、地底国単科大学教授は、地方公務員養成を主眼としている。しかも、都道府県職員ではない。市町村職員である。後者は数百万人ほど存在している。膨大な数である。彼らが、地域の政策を領導している。日本人の常識を形成している。彼らに対する教育の一環を担っている。

 

1、3月下旬における前期の講義形態予測

 3月下旬において、41日開講は困難であるという認識を大学は持っていた。この認識は正しい。5月の連休明けに講義を開始することが決定された。この場合でも、オンライン講義ではなく、通常の教室での講義、つまりオフライン講義(以下、オフライン講義)が想定されていた。オフライン講義に備え、マスクの購入が勧告された。しかし、コンビニエンスストア、ドラッグストアーだけでなく、インターネット上でも、マスクはほとんど購入することが不可能であった。フェースシールドを購入した。ドクター中松のマスクを購入したのも、このころであった。もっとも、525日現在でも、中松マスクは到着していない。アベノマスクも同様である。

 しかし、4月下旬には、連休明けの講義がオンラインで実施されることになった。ただでさえ、書類的整合性が求められる地底国である。漢字の誤謬だけではなく、罫線の太さまで文書修正を教授に要求する事務職員の倫理からすれば、過重な負担が負荷されたことは間違いない。

 しかし、東京六大学は、前期講義をすべてオンライン講義形式に実施することを決定していた。大学内において、独自の仮想空間を構築できる教授が多数存在していた。また、教員数が乏しい大学でも、このようなシステム構築を外注すればよいだけの話である。対照的に、地底国では、オンライン講義に対する拒否意識が強かった。従来の講義形式に愛着があったという保守意識でしかない。

 コロナヴィールス-19( Coronavirus SARS-CoV-2)に対する対策が緩いとされるスウェーデンですら、大学の春学期の講義はオンライン形式で実施することが、早々に決定されていた。東京六大学がオンライン講義を早々に導入した背景には、オンライン講義がオフライン講義よりも優れているという認識があったはずである。

 

2、オンライン講義への紆余曲折

 

3、オンライン講義の積極面

 You tubeに動画をアップし、講義を実施することにした。その利点をここで挙げねばならない。You tubeに動画を上げるためには、その2日前までに、講義を仕上げねばならない。動画配信なので、すべての講義言説をレジュメ形式ではなく、文章にした。もちろん、口語と書き言葉は異なる。しかし、講義内容をすべて文章化した。もし、動画を視聴できない環境にあった場合でも、休講にすることはできないからだ。政治思想史第3回は、8,000字ほどの原稿ができた。ちなみに、第3回講義は、ルターの宗教改革の意義を近代の原理との関連で考察した。原稿用紙換算で20枚ほどの講義内容である。オフライン講義では、約2回で実施した講義が、1回で終了した。

 オフライン講義で講義内容とは関係のない事柄にも注意を払わねばならない。「飯を食べるな」、「帽子を脱げ」といった講義内容とは異なる事柄に対しても、注意喚起しなければならない。このような無駄な時間が一切ない。淡々と講義するしかない。

 また、動画は限定公開であれ、インターネット上で視聴される。下手な冗談は記録される恐れもある。一切の冗談を自粛した。冗談は講義への関心を喚起するために、時折これまで意図的に発せられていた。このような学生に対するサービスは、一切廃止した。冗談は、その内容が面白ければ面白いほど、社会的な一般常識とは異なる水準で発せられる。不快に思う視聴者が当然いるからである。近代の基本的理念、平等という理念を揶揄すれば、しかも学生に理解可能なコンテキストで揶揄すれば、人権侵害とみなされる恐れもある。平等という理念に対する異議申し立てを、学問的に許容できる言語で説明するしかない。

 また、講義草稿を準備する過程で、自分の講義を録音する。発音の明瞭性も含めて自分の言語が記録される。これまでの30年間、自分の講義を聞いたことはなかった。かなり、言語明瞭、意味不明な言説――この形容は竹下登総理に対して付せられた――が、多数あった。今でもあるかもしれない。

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