いしいひさいち近代論(1)「クニ」あるいは故郷意識の変遷――村落、藩、県、国家そして県への逆流――コロナヴィールス-19の感染に関する県民意識の復活
2020年05月16日
田村伊知朗
マンガ(2)
いしいひさいち近代論(1)――「クニ」あるいは故郷意識の変遷――村落、藩、県、国家そして県への逆流――コロナヴィールス-19の感染に関する県民意識の復活
2020年05月16日
田村伊知朗
クニという言葉は、故郷を表している。江戸時代であれば、村落を表現していた。、どれほど拡大しようとも、明治維新前まで故郷という概念は、所属する藩という領域を越えることはなかった。大多数の小作農民にとって、隣の藩へと越境することは、御法度であったし、その必要もなかった。
近代革命が始まろうとした江戸時代末期において、藩を超えた日本という意識が、近代革命を担った日本人、とりわけ下級武士階層において生じた。藩という領域を越えた日本というクニが意識され始めた。明治維新後、300余の藩は47都道府県に再編され、現在まで継続している。県民という意識は少なくとも、明治、大正、昭和初期まで継続した。薩長土肥という藩意識に基づく共同性は、その後も解体したわけではなかった。日本の宰相も、岸信介、佐藤栄作までその本籍は、山口県であった。軍隊が解体する1945年まで、長州閥、薩摩閥という故郷意識は日本陸軍において残存していた。
しかし、近代革命はほぼ100年経過して、県民という意識はほぼ解体した。自分のクニを県と規定する世代が減少した。明治生まれ、大正生まれの世代が鬼籍に入り始め、近代革命の目標であった国民国家は実体としてだけではなく、個人の意識においても完成された。とりわけ、元号が昭和から平成に代わり、前世紀後半から後期近代が始まった。国際化が進展し、国境を越えた移動が一般化した。自分のクニと言えば、日本という世代が増大した。日本において居住する労働者の国籍が外国であることも、稀ではなくなった。まさに、御宅のクニは、カンボジアであった。マンガ(2)
さらに、ある論者によれば、自己の共同性を都道府県単位の地域的共同性として規定するよりも、内的意識によって規定する傾向が強化された。クニという概念が消滅した人々も増加した。ユダヤ人が居住している地域によって形成された共同性よりも、ユダヤ人という人間的意識によって形成された共同性によって自己を規定するように。
いしいひさいちのこのマンガ(1)は、1988年に出版された。県民意識が残存していた最後の世代が、このマンガにおいて表現されている。しかし、それ以後、県民意識はほぼ解体されてしまったと思われていた。高校野球の県代表を応援するということも、昭和が去り、平成になってほぼその熱狂が日本全体を覆うこともなくなったかにみえた。まさに、令和の時代に入り、昭和は遠くなりにけり、という意識が出現したかの外観を呈していた。
ところが、2020年3月、コロナヴィールス-19( Coronavirus SARS-CoV-2)による感染が、日本人の生活を一変させた。この感染症は、全国一律に拡大したのではなかった。地理的差異が顕著であった。東京都や大阪府のように巨大人口を擁する都道府県が、感染数を拡大した。また、2020年5月16日現在、北海道も緊急事態宣言の重点地域の一つであった。もっとも、北海道は人口の少ない地方自治体と思われているが、その人口は500万人を擁している。四国の人口総数は、4県合わせても370万にすぎない。感染者数もその総数では多いように思われるが、総人口が多いので当然であろう。
問題は、このような都道府県別の感染者数が公表されたことにより、県民意識が復活したことにある。いしいひさいちのマンガに描かれているような都道府県別の故郷意識が復活したことにある。徳島県では、徳島ナンバー以外の自家用車に対して、検問紛いの行為が平然と実施されている。内閣総理大臣よりも、都道府県知事が「おらが町」の感染者を減少させてくれるという意識が、国民の意識を規定するようになった。
まさに、日本というクニ意識すら、希薄になった国際化時代において、100年以上前の県民意識が復活した。徳島県民意識に代表される故郷に感染者を入れない、さらに県外者を入れない。小さな故郷を清浄に保ちたい。何か別の思惑が日本だけではなく、西欧も含めた世界に蔓延しているのかもしれない。
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