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社会科学とマンガの架橋(1)――いしいひさいち官僚制論(2)

承前

7節 書類至上主義

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いしいひさいち『眼前の敵』河出書房新社、2003年、22-23頁。

 

官僚制の位階的秩序を上昇すればするほど、下部機関から上がってきた書類に依拠して政治的決定を実施する。上位の決定権能者には、書類において形成された事象と現実態が同一であると映現している。その書類が間違っていれば、政治的判断を間違える。この漫画は、書類において再構成された現実態と、現実態そのものが乖離していることを指摘している。さらに、現実態と無関係に上部機関が、上部機関に都合の良い現実態を再構成している。現実の師団はすでに壊滅しているにもかわらず、地図の上における師団を動員することによって、敗色濃厚な戦局を打開しようする。

このように上部機関が振舞うことを、下部機関は知っている。官僚機構において、しばしば下部組織は上部組織に上げる書類を改竄する。第一に、この書類改竄の目的は、義務を持っている労働者が責任を逃れることにある。現実態とは異なる事実を記載することによって、下部組織は降格、解雇さらに刑事訴追等から逃れることができる。下部吏員の現在の地位と賃金は、安泰である。いかなる責任を取ることもない。

 第二に、現状維持という安泰感は、それ以上の安楽をもたらす。それは、書類至上主義と言われる病理と関連している。この用語は私の造語である。現実における危機を現実態においてではなく、書類の上で解消する。当然のことながら、現実態において危機は残存している。しかし、書類を作成する下部組織は、それによって自己満足に陥る。危機は去ったと。上部組織もそれについて気が付いている。気が付かない上部組織は馬鹿である。しかし、気が付いていて、それを黙過する上部組織は、なお馬鹿である。いずれにしろ、上部組織の暗黙の了解のもとで、下部組織は書類を改竄する。

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 第三に、書類を改竄することは、現状維持を目的にしている。現状が過去と同一の状態にあるという虚偽の報告書を偽造する。この病理は、官僚化した組織に特有なものである。組織を活性化するような積極的姿勢は評価されない。むしろ、それは疎まれる。現状の危機を報告することによって、下部組織が新たな仕事を引き受けることになる。つまり、負担が増える。官僚化した組織においてこの言葉は、水戸の御老公の印籠に相当する。書類上が現状の危機を表現していれば、下部組織の仕事が今後増えることは明白である。それを回避するために、短絡的に書類を改竄する。書類的総合性があれば、仕事は増えないからである。現状が書類の上で過去と同一であれば、問題ないとされる。前例主義あるいは現状維持志向が、官僚組織の通弊である。

 この書類至上主義は、旧ソ連末期における書類上の食糧の確保と現実態における食糧危機に典型的に妥当していた。毎日のように、ゴルバチョフ・ソヴィエト連邦共和国共産党書記長のもとに資料が下部組織、各連邦共和国から上がってくる彼の手許にある資料によれば、ソヴィエト連邦共和国は十分すぎる食糧生産高を有していた。輸出も可能であった。第三世界の貧困国に食料援助をしていた。

しかし、モスクワの街の食料品店では、長蛇の列が食料を求めて形成されていた。食糧の緊急輸入が常態化していた。現実のソ連住民には、十分な食料が供給されていなかった。食糧危機が蔓延していた。ゴルバチョフ・ソ連共産党書記長は、書類を見る気力を喪失したはずである。書類上、ソ連は安泰であった。しかし、現実態において前世紀末にソヴィエト連邦共和国自体、そしてソヴィエト連邦共和国共産党が崩壊した。官僚集団あるいは官僚化した組織は、この病理に多かれ少なかれ侵されている。その危機を回避できる健全性が求められている。

 

8節 書類を読解する能力(その一)――官僚機構における権能の上昇と老化現象

 

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いしいひさいち『いしいひさいち選集』第5巻、双葉社、1991年、19頁。

 

 この漫画において、老参謀長が、すでに壊滅した師団をもう一度、机上の作戦の展開主体にしようとしている。官僚制における二つの問題点が露呈している。一方は、書類至上主義の問題である。この意味は前節において論じられている。他方は、官僚制における権能上位者の年齢の問題である。位階制の階梯を登るためには、一定の時間を必要としている。その頂点に君臨するときには、すでに老境に達している。日本の官僚機構においても定年間際になって初めて、事務次官の職位に到達する。

 一般に、自然人の肉体的能力は2030歳を頂点にしている。あとは下り坂である。精神的な活動能力は肉体的能力と比べて、その衰えは緩やかかもしれない。しかし、衰えは隠しようがない。

 

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 位階制の頂点に立つ人間の判断能力に疑問符がつけられている。その頂点に立つ人間は、何も考えずに、50歳前後の課長によって決裁された書類に承認の印鑑だけを押せばよいのかもしれない。

 

9節 情報公開の本質

 

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いしいひさいち『問題外論』第2巻、チャンネルゼロ、1993年、129頁。

 

 官僚の行為は、ある本質的なものを隠蔽することにある。もちろん、すべての行為がそうであるとみなしているわけではない。しかし、ある行為の目的が、別の本質的行為から市民の眼をそらせることにある。

 ここでは、プルトニウム運搬船あかつき丸に関する情報公開が問題になっている。当時のマス・メディアそして市民が知りたかった情報は、あかつき丸の運行経路、プルトニウムの運搬量等であったはずである。しかし、当該官庁は、この運搬船の労働者の趣味嗜好に関する情報を公開した。官僚は、前者に関する情報を公開する企図を持っていなかった。むしろ、それを隠蔽しようとした。

 この運搬船の労働者の趣味嗜好も、運搬船あかつき丸に関する情報公開であると、官僚的思考はみなした。もちろん、広義では個人情報も情報公開の情報という範疇に属する。市民が欲している情報と、官僚が公開すべきであるとみなした情報の間には、巨大な径庭がある。

 いしいひさいちのこの漫画に似た事例は多数ある。飛翔体に関する情報公開にふれてみよう。近年では、北朝鮮からしばし飛翔体が日本の領空を侵犯している。ミサイルが飛来するという情報は、巨大な予算を浪費して発信されている。しかし、国民の健康を害する情報、つまり国民がある程度防御できる情報は、警報として出さない。ある都市において放射性物質の空間濃度が上昇しても、当日その情報が警報として公開されることはない。数日経過して市民に公開されても、市民はどうしようない。

ミサイルが飛来しています、という情報をいただいても、どうしようもない。竹槍で撃ち落とせと命令しているのであろうか。ミサイルに竹槍で勝利するぞ、というスローガンが、今後巷に溢れるのであろうか。

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 私の家の納戸には竹槍すらない。野球のバットはあるが、私は直球とカーブしか打てない。ミサイルがフォークすれば、空振りである。そのような情報はどのような意味があるのであろうか。

 

10節 英語の濫用

 

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いしいひさいち『バイトくん』第4巻、双葉社、2005年、30頁。

 

 奇妙なカタカナ英語が氾濫している。いしいひさいちは、ここで塵紙交換をチリ紙スワッピングと言い換えることの奇妙さを揶揄している。ここで問題であることは、カタカナを使うことではない。むしろ、カタカナを使用することによって、事柄の本質を不可視なものにすることである。カタカナあるいは和製英語を使用することによって、たんなる塵紙交換が、主婦の潜在的願望と一致するかのごとき外観を呈している。

たとえば、数年前に狂牛病という家畜の病気が世界を席巻した。ある時、この名称はBSEと改称された。通常の日本人は、BSEを理解できない。事柄の本質を示すような日本語がかつてあった。あるいは、もっと分かりやすい翻訳語であれば、狂い死病あるいはヤコブ病であろう。

この病気は、牛だけのものではなく、人間にも係わってくるからである。死ぬのは、牛だけではなく、人間でもある。本当の恐怖は、牛肉を食した人間が、苦しみながら、死んでゆくことである。

しかし、この言い換えがおそらく行政機関から指導された時期は、アメリカ合衆国農務長官が、対日牛肉輸出再開を要求していた時期と奇妙に一致していた。それは、200511月である。そして、アメリカ合衆国の要求は、2005年末に実現された。アメリカ合衆国産の安価な牛肉を食べる日本人が、この狂い死病に罹患して、長期間苦しみながら死ぬ、という可能性は考慮されたのであろうか。年収300万円以下の下流日本人は、安価な牛肉を求めるからである。

おそらく、このアメリカ合衆国産牛肉輸入再開を決めた高級官僚、あるいは国会議員たちは、このような牛肉ではなく、和牛、あるいは神戸牛を食するのであろう。彼らの年収は少なくとも、1,200万円を超えている。期末手当と勤勉手当を含めて、月間100万円を消費活動にあてることができる。安価な牛肉ではなく、適正価格の国産牛肉を食することができる。間違っても、数百円の牛丼を朝、昼、晩、毎日食べ続けることは、ないであろう。このような牛肉を食べる必要がないからである。

通常のスーパーマーケットに行けば、但馬牛も、神戸牛も購入することができる。100グラム、数百円から数千円という値段で購入できる。高級官僚、財界人の年収からすれば、小遣いの範囲である。政治家御用達の赤坂の高級料亭で、100グラム200円のアメリカ合衆国産牛肉を提供することは、ほとんどありえない。もし、このような安価の牛肉を提供する高級料亭があれば面白い。それを看板に掲げる神楽坂や赤坂の料亭があれば、一度見てみたい。

このような翻訳による曖昧化は、事柄の本質を隠蔽するものであろう。カタカナ英語は、事柄の本質を明確化するためではなく、それを隠蔽するために使用されている。そして、このカタカナ英語のほとんどが、アメリカ合衆国由来であることは、偶然であろうか。この翻訳用語を定着させたのは、現在の官僚組織における課長、室長、あるいは課長補佐である。彼らの英語能力に欠陥があるとは思えない。むしろ、平均的日本人以上の英語能力を有していることは明らかであろう。なぜ、彼らがその正当な訳語ではなく、むしろ誤訳あるいは迷訳に近い翻訳語を選択したのであろうか。

 彼らは、30歳前後においてアメリカ合衆国に国費留学している。戦前の高級官僚がアメリカ合衆国だけではなく、ドイツ、イギリス、フランスに留学してきたことと対照的である。旧西独の首都ボン、あるいはフランスの首都パリへの留学は、語学上のハンディもありほとんど推奨されていなかった。少なく見積もっても、課長より上級の官僚の半数以上は、アメリカ合衆国への留学体験があるはずである。彼らは、20歳代後半、30歳代前半においてアメリカに留学する。もちろん、自費ではない。官費による留学である。

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 彼らは私費留学生とは異なり、学生寮に住むことはない。日本流に表現すれば、3DKの部屋に6-7人で住むことはないはない。数人の寄宿生が一つのトイレをめぐって闘争することは、ありえない。

留学場所にもよるが、多くの場合、瀟洒な一戸建てがあてがわれる。夫婦ともども高級官僚であれば、プール付きの豪邸も可能である。アメリカでは、平均的な住居である。自家用車で数10分運転すれば、郊外において瀟洒な住居は数多くある。

しかし、彼らも公務員である。学位を取得して、数年後帰国すれば、ほとんど改築されていない古びた官舎に居住せざるをえない。公務員官舎に対する批判は近年盛んであるが、それは近隣の民間住宅との比較から生じるのであり、アメリカ、オーストラリアの住宅事情を勘案すれば、大差ない。林家彦六師匠の名言を借りれば、官舎もまた長屋(ナガヤ)でしかない。高級官僚も長屋(ナガヤ)の皆さんでしかない。長屋に居住せざるをえない高級官僚という概念は、矛盾に満ちている。官僚的世界において、アメリカ合衆国の生活様式そしてその政策は規範になっている。その規範にしたがって、日本を改良しようとする。

そこにおいて、彼らの政策意図を込めているのではなかろうか。もし、そうでなければ彼らは無能な役人になるであろう。なぜ、アメリカ合衆国の政策とその生活状態を日本に定着させねばならないのであろうか。彼らは、アメリカ合衆国の留学生活において、日本の官僚の生活水準以上の生活をしてきたことを考慮に入れねばならないであろう。たとえば、住環境という観点からも、アメリカ合衆国において日本人の平均的水準以上の生活をしてきたはずである。その水準を維持するために、現在の日本を変更しようとしているのであろう。この政策意図を明らかにし、それに代わる対案を市民が準備することが、今求められている。

 

20頁

 

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