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自己の選択肢と自己責任ーー子供の大学受験と後期近代

  このごろの大学受験生は、高校時代に塾や予備校に通学するようである。しかし、平均的学生は、塾の宿題をすることで終わってしまう。自分で勉強する習慣を喪失する。塾に行かないほうが、かえって良い結果をもたらす。大学入試だけが人生の目的ではない。大学入試は、限定された範囲から限定された問題から出題され、それに如何にコンパクトに対応するかが、求められているにすぎない。大学生活全般をコンパクトにまとめたような指針を提示してくれるような塾は、大学生活でも社会人生活においてもはやないであろう。個人は、すべて異なる環境において思考し、決断しなければならない。

  また、地元の大学への進学志向が強い傾向にある。東京圏や大阪圏は当然であろうが、地方都市でもその傾向があるようである。例えば、函館市のような30万人都市でも、その傾向は強い。しかし、自宅から通学すると、母親にすべてお任せになる。特に、炊事、洗濯をしたことのない男子学生も多い。すべての生活を両親に任せることによって、責任を他者に押し付けるようになる。人間は自分で考えて、自分で決断し、自分で責任を負う、そして自分で死んでゆく。もちろん、そのときどきの自分の思考、決断は完全ではない。ほとんど、間違っていると言っても過言ではない。しかし、他者つまり母親、塾と学校の先生に責任を押し付けるよりも、より良いであろう。

  子供であれ、20歳を超えると親の価値観とは、まったく異なる。子供と親が同じ家に住めば、常に、喧嘩になる。喧嘩の対象は、些細なことである。たとえば食事の時間、その作法、扇風機の埃を掃除するか否か、という他者からみればほぼどうでもよいことである。しかし、その背後には、世界観の相違が横たわっている。

  とりわけ、子供と大人とは、30歳以上異なる。40歳以上異なる場合もまれではない。偶然に生まれた両親の世界観に従え、と子供に命令することは不可能であろう。子供が両親の家からでて、一人暮らしをすることは、当然であろう。西欧では、大学入学あるいは就職を機会に単身世帯になる。まさに、自然である。家族の解体過程が現象しているのであろう。子弟が、両親のもとに帰ることはないであろう。私が故郷に帰ることがないことと同様であろう。後期近代において故郷は、その時々の自分にとって最良の場所でしかない。後期近代の個人にとって、出生地あるいは親の居住地が、故郷になることはない。

  最近、知人が視覚障碍者になった。盲目になった人が、他者例えば親近者に盲目になった責任を押し付けることが、彼の知人の周囲には多いようである。中途失明の場合、何らかの過去の人生において、別の選択肢を採用していれば、失明に至らなかったという後悔が出てくる。選択肢は、たしかに過去にあった。原因を他者に押し付けがちである。しかし、強制されたものであれ、選択をしたのは自分でしかない。

 しかし、極大化した自己という意識は、個人にとって寂しい時代でしかない。すべて自己そして自己責任に還元される。個人はその重圧に耐えられるのであろうか。

 

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