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いしいひさいちの官僚制論(1)

いしいひさいちの官僚制論

いしいひさいち官僚制(1)(2)は、これまでの「いしいひさいちから学ぶ政治学」等のうち、その官僚制に関する記事を集大成した原稿である。漫画を入れずに、原稿用紙約50枚の分量がある。通常の論文1本分である。ただし、学会誌あるいは研究紀要等に掲載することもできない。どこかに活字として公表したいという希望がある。

 なお、(1)と(2)に分割した理由は、このサイトにおいて写真等は10枚までという制限が、niftyによって設定されているからだ。連続して読解していただければ幸いである。

 

                                 田村伊知朗

 

はじめに

 

いしいひさいちが、日本を代表する漫画家であり、第一級の知識人であることはほぼ異論がないであろう。彼は、1970年代から約半世紀間、ほぼ毎日、数編の4コマ漫画を世に送り出してきた。それだけではない。より本質的に言えば、彼が偉大であることの根拠は、現代日本あるいは後期近代の事象を4コマ漫画という世界において抽出していることにある。現代社会の一側面が、わずか1頁の4コマにおいて切り取られている。

このような栄光は、社会科学に従事している研究者にとって羨望の的である。おそらく、彼は、一瞬の閃きにおいて現代社会を抽出する。研究者の多くは、1年をかけて1本の論文を執筆する。いしいひさいちと同じ結論を述べるために、数年を要する場合もある。日々、外国語文献と格闘し、論文の準備をしなければならない。それだけの労力を払ったとしても、いしいひさいちほどの読者を獲得することはない。良くて、同じ領域の研究者数人から賞賛を受けるだけである。多くの場合、学会誌の数頁を埋めるだけで終わるであろう。いずれにしろ、研究論文が社会的影響力を行使することは、ほぼ無いであろう。

 

1節 官僚制総論

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いしいひさいち『いしいひさいち選集』第37巻、双葉社、2003年、100頁。

 

この漫画における面白さは、落城寸前になっても、官僚的な目的合理性が追求されていることにある。自己に与えられた領域、つまり有職故実に関する事柄が議論されている。落城になれば、そのような合理性はその基盤が崩壊するにもかかわらず、有職故実に固執している。落城という現実の前にほとんど無意味であるにもかかわらず、使者の接待方法に関する議論が重臣間において熱心に議論されている。

この漫画によって揶揄されている第一の事柄は、前例主義である。前例主義とは、前例のないことをしない、という官僚に特有な意識である。前例を否定することは、前任者の瑕疵をあげつらうことになる。前任者の欠陥を是正することは、その顔に泥を塗ることにつながる。その前任者は現在の上司であることが多い。上司の意向に反して仕事をすることが嫌われる。有職故実に関する認識が不必要であるわけでない。彼らにその仕事が割り振られた以上、その仕事を貫徹しなければならない。しかし、前例をとりまいていた過去の環境世界は、もはや変化してしまっている。現時点での環境世界は、過去の環境世界と隔絶している場合も多いであろう。前例が妥当するか否か、現時点での環境世界において再検討されねばならない。にもかかわらず、前例に固執することは、愚かなことであろう。

 この漫画によって揶揄されている第二の事柄は、先送り主義である。先送り主義とは、決定を先送りすることであり、キャリア官僚とみなされる高級公務員に特有な病気である。彼らは、34年の間隔で多くの部署を渡り歩く。したがって、その任期の間にできる前例によって規定された日常業務にしか従事しない。重要な問題を次の任にあたる後輩に委ねる。その後輩もまた、次々に次の任期のキャリア官僚に大きな問題を委ねる。

大きな問題とは、その解決のためにかなりのエネルギーを必要とする課題である。たとえば、組織内の問題であっても、多くの他の部署との折衝を要する仕事である。そのような大事な仕事よりも、より処理しやすい日常的な仕事に没頭する。しかし、いつの日かその仕事の期限がやってくる。その時には、手遅れになっている。ここでは有職故実に拘ることによって、落城における政治的決定という問題は先送りされている。

この漫画によって揶揄されている第三の事柄は、官僚組織における出世の現実態である。官僚組織は位階制組織である。権能が上昇すればするほど、その権能担当者の数は減少する。ここでは、重臣がその位階制の上位者である。問題は、このような重臣が決定権を保持していることにある。有職故実に精通した官僚が、この位階制の上位者になった。この問題こそが問われねばならない。彼らは、戦闘の場において業績を積んだわけではないはずだ。有職故実に精通することによって、位階制の階段を駆け上った。このような人間が組織の上部において席を占めていることこそが、本漫画における最大の問題点である。彼らは政治的危機に対応できないし、政治家のような世界全体像を持たない。全体的視点を放棄した近視眼的人間しか、位階制的秩序を上昇できない。

現代の官僚組織においても同様である。誤植のない文章が書ける人間、退屈な会議が好きな人間が重宝される。誤植の指摘を生き甲斐にしている人間が局長、課長等の要職に就く。漢字を読み間違えたら、減点の対象である。つまらない人間が上に立つほど、組織にとって不幸はない。現代社会における有職故実は、規則であり、前例であり、横並びの知識である。この観点からすれば、現代社会の役人と、落城寸前の御前会議における役人の間には、差異はない。

枝葉末節な事柄が、会議において熱心に議論される。重要な問題は議論されない。むしろ、漢字の変換ミスには過剰に反応する。本当の馬鹿は、自分が書いた文章を逐一読み上げる。日本語で書かれた文章をなぜ読み上げる必要があるのか。時間を浪費し、批判的議論を封じるためである。彼の読み上げ作業が終了した後、会議参加者の多くは、その文章を批判する気力を喪失している。

このような馬鹿が多く存在する会社あるいは組織は、つぶれてよいのであろうか。ただ、このような会議に参加する構成員もすべてが馬鹿ではない。良識ある構成員は落城を阻止するために、獅子奮迅の活躍をしなければならないのであろうか。そして他の馬鹿構成員あるいは上司から次のように言われるに違いない。勝手にやって、でも会議では承認されていないと。

 組織においてその組織の維持、管理が自己目的化する。なんのための組織であるかが忘却され、管理に強い人間が出世してゆく。営利企業であっても、利益を上げる営業畑の人間ではなく、総務畑の人間が出世してゆく。同僚と仲良く喧嘩せず、という人間が頭角を現す。警察機構においても、犯人を捕まえることに執着する刑事ではなく、法律と規則に通じた人間が出世してゆく。何時までも犯人逮捕のために靴底を減らしている現場の刑事よりも、昇任試験に長けた法学部出身者が上司になる。現場の人間よりも、試験勉強に苦痛を感じない人間が、組織において重宝される。現代社会における有職故実に相当する法律、条令、事務次官通達に精通した官僚が、出世街道を驀進する。

この事例として、2011325日に開催された第19回原子力安全委員会が、いしいひさいちのこの4コマ漫画にまさに適合している。[1] 2011325日と言えば、314日における東京電力福島第一原子力発電所の第3号機の水素爆発を受けて、国家が危機的状況にあったときである。第2号機、第4号機も同様な危機的状況にあった。この東京電力福島第一原子力発電所の非常事態を受けて開催された原子力安全委員会は、たった42分程度で閉会している。しかも、PDFファイル12頁にわたる議事録の半分以上は、事務局によって作成された資料の読み上げに終わっている。その後の委員による議論の中心は、「『葉』になってございますけれども、これは平仮名の『は』でございます」、あるいは「平仮名の『に』を入れてください」(10頁)という文書の校正にある。 

日本的会議の特質は、どうでもよいことに反応し、大事なことを議論しない点にある。会議は、会議に参加する構成員にとって重要なことを討論する舞台である。しかし、往々にして、些細なことに過剰反応して多くの時間を費やす。もちろん、漢字の使用法、あるいは句読点の一字によって、法解釈そのものが180度変わることは承知している。しかし、変換ミスが明らかである場合でさえも、糾弾の対象になる。

 原子力安全委員会委員としての専門知識は要求されていない。基本的に委員長が事務局と相談のうえ、会議資料を作成する。その他の委員はその会議資料に基づいて議論する。彼らは、会議資料に掲載されていないことに関して知る由もない。ある事柄を会議資料に掲載するか否かは、委員長と事務局の専権事項である。

この傾向は、日本の官僚機構における会議の特色である。異議なし、と唱和するか、語句の間違いを指摘するだけである。朝鮮民主主義共和国においては、前者の選択肢しか存在しない。自称社会主義国家の会議において異議を申し立てることは、収容所送りの危険を甘受しなければならない。自称自由主義国家においては、誤字脱字の修正だけが許されている。アジアにおける二つの国家の差異は、五十歩百歩でしかない。

誤植の訂正であれば、村役場の庶務課長のほうが、より適切な指示を出せるであろう。このような議論しかできない専門委員は、村役場の庶務課長に転職したほうがよいであろう。もっとも、庶務課長ほどの文書校正能力を有しているとは思えず、庶務課主任に降格されるであろう。

このような繁文縟礼に通じた専門家しか、政府によって認定された専門委員になれない。専門知識よりも管理職的能力に通じた専門家のみが大学教授になり、そして政府の審議会委員に抜擢される。そこで求められる能力は、事務局と協調する能力と文書作成能力でしかない。

 専門委員には、事務局によって作成された資料を根源的に批判し、積極的な提言を求められているはずである。事務局によって提出された文書を規定しているパラダイムを指摘し、より現実的な選択肢を提起しなければならない。あるいは文書作成者によって意図的に看過されている事象を指摘しなければならない。にもかかわらず、ここでの議論は、専門知識を要求されない事務局職員以下の水準にある。

逆に言えば、このような専門家は、官僚機構にとって統御し易い人間である。自分たちを批判しない人間のみが、専門家として認知される。学術的専門家と官僚機構の癒着が生じる。

彼らはこれまでいつもこのような議論形式に慣れてきたはずである。このような議論しかできない。それゆえ、彼らは専門家として認知された。国家の危機に際しても、このようにしか議論できない。いしいひさいちが描いた落城という危機が、現代日本にもあった。しかし、官僚組織は、日本列島崩壊という危機的状況においても前例主義という旧態依然の対応しかできなかった。

 

2節 前例主義の展開

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いしいひさいち『いしいひさいち選集』第11巻、双葉社、1986年、132頁。

 

この漫画において、「ある建物が40年経過したから、危険である」という命題と、「ある建物が40年間安全であったから、今後も安全である」という命題が、併記されている。この二つの論理が交差することはない。しかし、後者の論理の破綻は明らかである。

過去40年間において、様々な部品が劣化し、機能不全に陥っているかもしれない。それに対して、40年間安全であったがゆえに、安全であるという命題が対置される。この命題は妥当性を持っているのであろうか。官僚は前例主義を規範化している。40年間、安全であれば、今後も安全であると。しかし、この40年間に主体は、明らかに老化している。客観的条件も変化している。にもかかわらず、前例主義を主張する官僚は、馬鹿でしかない。

このような命題は、常識的にはありえない。事実、いしいひさいちもまた、この命題に反論していない。しかし、この命題が根源的に錯誤していることは、明らかである。築40年のアパートがそろそろ限界に達していることは、常識的判断にしたがえば明らかである。にもかかわらず、アパートではなく原子力発電施設が40年間、安全であれば、今後も安全である、とある論者が主張している。

ちなみに、40年という数字は、原子力発電施設の耐用年数にあてはまる。偶然かもしれないが、四半世紀以後の東京電力株式会社福島第一原子力発電所の耐用年数を示している。いしいひさいちの漫画家としての評価は、天才と言うしかない。天才であるがゆえに、彼が当初意図していない結果を暗示している。

より一般化して言えば、前例にしたがうということは、環境世界の変化を考慮しない。過去の環境世界は、現在の環境世界と異なっている。この変化を考慮せずに、過去の経験知が絶対化される。

 

3節 先送り主義の展開

 

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いしいひさいち『問題外論』第11巻、チャンネルゼロ、1997年、45頁。

 

1節の官僚制総論の補論として、現代政治における先送り主義がここにおいて展開されている。橋本龍太郎総理と主要各省の事務次官の話し合いの場面にも出てくる。橋本龍太郎総理は、大臣に信頼を置いていない。大臣は政治家であり、専門知をもっていないからである。

彼は、事務次官に代表される高級官僚を信頼している。とりわけ、外務省、法務省、自治省という主要省庁の官僚を信頼している。官僚の専門知が、大臣の専門知よりも優れている、と彼はみなしている。

しかし、彼もまた専門知を持たない政治家にすぎない。その判断力が各省の大臣と同等であるということを見落としている。官僚の知は、官僚の独自の圏域において形成されてきた。先送り主義も彼らの習性である。政治家は専門知を持たないが、総体知あるいは世界観的知を持っているはずである。

 

4節 減点主義の展開

 

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いしいひさいち『いしいひさいち選集』第13巻、双葉社、1986年、118頁。

 

 第1節の官僚制総論の補論として、官僚個人に対する評価基準を問題にしてみよう。官僚の評価基準は、加点主義ではなく、減点主義である。国民にとってどれほど良い政策を実施したとしても、それは評価されない。むしろ、新しい仕事をすれば、周囲と無用な摩擦が生じる。同僚そして他の部局に新しい仕事と任務を与えるからだ。それでなくとも、高級官僚の予備軍は、必要以上の仕事をそもそも抱えている。それに加えて、ある官僚が新しい仕事を考案すれば、より仕事量が増大する。勤務時間が増えても、労働賃金が増えることはない。残業代金の上限は、年度計画において前もって規定されている。上限を超えた残業代金は支払われない。

 この新規の仕事が成功すれば、まだよい。失敗した場合には、それ見たことと嘲笑される。できるかぎり、前例にしたがって、失敗がないことを心がける。

 しかし、自分が前例にしたがって仕事をしたとしても、災難は周囲から生じる。部下が不祥事を起こせば、その管理責任を取らされる。部下が物品を横流しすれば、管理責任を問われる。勤務時間内の不祥事であれば、直接的責任がなくとも、その失敗の全責任を取らされる。

 校長は、学校内の管理責任を最終的に負わねばならない。部下である教諭がいじめに対して適切な処置をしなかった。その結果、いじめを受けた生徒が自殺した。昨今、よく新聞の社会面に、いじめによる自殺が報道されている。

 校長個人はこの不祥事により、懲戒処分が予定されている。減給処分等が想定されるであろう。減給処分は月間給与が減少するだけではない。年金、退職金にも反映される。それだけではない。給与が良くて、仕事が楽な天下り先から排除される。特に、小学校教諭であれば、地元の大学教育学部卒業生である場合が多い。同窓会組織からも、懲戒処分対象者として、白眼視される。

 

5節 減点主義に関する一般的補論

 

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いしいひさいち『いしいひさいち選集』第22巻、双葉社、1997年、55頁。

 

  ここで、官僚機構の評価基準として減点主義をより普遍化してみよう。いしいひさいちのこの漫画は、闘将として有名であった中日ドラゴンズ監督の選手管理の方法を揶揄している。彼は鉄拳制裁つまり暴力によって選手管理を実施した。いわゆる熱血監督として有名であった。彼の鉄拳制裁の思想は、監督と選手における命令=被命令関係を前提にしている。もちろん、監督がこの位階制において上位の権能者である。

ここでは、暴力ではなく、減点主義つまり罰金制度によって選手を管理しようした。彼の管理政策に対抗するために、選手は積極的行為を断念している。失策を恐れて球を追うことをしない。多くの失策はファインプレーと紙一重である。通常であれば、ヒットになる打球を追うことによって、ファインプレーが生じることもあれば、失策になることもある。

たとえば、遊撃手の宇野選手は、遊撃手としての仕事をしない。宇野選手は仕事を回避することによって、その評価が高まるという矛盾した結果になる。少なくとも、罰金制度の対象者にならない。

 官僚機構もこの評価方法の弊害から免れていない。前例のない積極的仕事を企図すれば、成功することもあれば、失敗することもある。したがって、多くの官僚機構構成員は、前例主義にしたがって行為するであろう。前例を踏襲することによって、減点の対象になることはない。

 

6節 誤植の訂正――日本語の意味の転倒

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いしいひさいち『バイトくん』第5巻、双葉社、2006年、68頁。

 

 先ほど、誤植の訂正がほとんど無意味な仕事であるかのように論じてきた。しかし、変換ミス、あるいは句読点の位置が少しずれるだけで、日本語の意味が変わる場合もある。その事例として、いしいひさいちは次のような事例を挙げている。「わ~、すごいマンション」と「わ~すごい、マンション」という二つの用語の発音記号は同じである。両者とも「Wa, Sugoi, Mansion」であり、句読点の位置が異なるだけである。しかし、前者は、すごいマンションと普通のマンションの存在を前提にしている。「すごい」という形容詞が、比較級、最上級を持っている。

対照的に、マンションの存在自体が素晴らしいことを、後者は描いている。この「すごい」という形容詞は、状態記述形容詞であり、すべてのマンションは素晴らし存在である。ここでは、比較級、最上級はありえない。すべてのマンションが素晴らしいという文が、すごいマンション

 このように、句読点の位置を変えるだけで、文意も変わる場合もある。しかし、それはまれである。現在の官僚機構における会議で指摘される誤植の修正によって、文意が変わる場合だけ、誤植は修正されるべきであろう。それ以外の誤植の修正は、専門的会議では無意味であろう

 

あとがき

 

 本稿は、4コマ漫画を引用した上で、自分の思想を述べるという叙述形式を採用している。このような叙述様式を読書界において承認させた書物が、永井均『マンガは哲学する』(岩波書店、2009年)である。本稿も、この書物に影響を受けている。

また、漫画の著作権に関する思想も永井均の考えに依拠している。永井均は漫画の著作権と思想的論稿の関係を次のように述べている。「本書におけるマンガの引用は、『報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲で行われるもの』であるから、著者および出版社の許諾を得ていない」。(同書、232頁)この叙述様式が、著作権法32条第1項に妥当するとみなしている。

永井均の著作に先行する業績として、呉智英『現代マンガの全体像』(双葉社、1997年)も参照されるべきであろう。呉智英は、引用した漫画のすべてに、著作権マークCを付けている。本記事執筆にあたって、呉智英の考えに依拠すべきであろうかとも、考えた。呉智英によれば、漫画の引用は、漫画家の承認を得るべきであるとされる。

しかし、筆者は、呉智英ではなく、永井均の著作権に関する解釈を正当なものと考えている。学術論文や学術書と同様に、書籍化された漫画も公開された社会的な共有財産である。その引用は自由であるべきと考えている。もしそうでなければ、ある漫画の1頁を批評するために、漫画家個人あるいは漫画家の個人事務所に連絡をしなければならない。著作権者と連絡を取る方法は、通常の場合、公開されていない。そのような煩瑣な作業を漫画批評者に要求することは、事実上、漫画批評を断念するという選択肢しか残されていない。

逆に、漫画家個人からすれば、毎日のように転載許可の電話、メールが届くことになる。漫画を執筆する時間よりも、転載許可の許諾が彼の仕事になる。著作活動を断念し、著作権を守るという事務作業に没頭しなければならない。呉智英の著作権に関する認識にしたがえば、このような馬鹿げた事態が招来するであろう。

呉智英の自己規定にしたがえば、彼は士大夫に属しているようである。対照的に、多くの漫画批評家は大衆の一員でしかない。漫画批評によって、金銭を得ているわけではない。余暇活動の一環として漫画を読み、それを批評している。

いしいひさいちの筆名は、引用されることによってより高まると想像している。もっとも、私が引用しなくとも、いしいひさいちの漫画は、すでに同時代の大衆にとって基礎教養になっている。前世紀後半の思想界において、廣松渉の哲学が基礎教養になっていたことと同様である。いしいひさいちからすれば、著作権の問題はどうでもよいことに属する事柄にすぎない。

さらに、学術的世界、とりわけ自然科学系学問領域において、引用される回数が当該論文の価値を高めている。引用される回数を増すために、姑息な手段が横行しているとも聞いている。研究者仲間で相互に不必要な引用がなされているという指摘は、よく聞く話である。

私は漫画家個人、たとえばいしいひさいちと面識があるわけではない。公刊された漫画を購入し、その読者になっているだけである。なお、本稿以後にも、同様な叙述形式の原稿を幾つか用意している。漫画の著作権に関する考察も、同様な思想に基づいている。著作権マークCは、私の論文には付されていない。

 最後に、引用した漫画を初めて読んだとき、本当に心の底から面白いと感じた。まさに、感動し、大笑いした。ただ、この漫画を何度も読み直すなかで、現代政治そして現代社会に関する深遠な洞察に気付いた。この面白さの根拠を考察するなかで、本稿が生まれた。

 

(たむらいちろう 近代思想史専攻)

 

[1]「第19回原子力安全委員会議事録」10頁。In: http://www.nsc.go.jp/anzen/soki/soki2011/genan_so19.pdf. [Datum: 26.09.2011]

 

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いしいひさいちの官僚制論(2)

承前

7節 書類至上主義

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いしいひさいち『眼前の敵』河出書房新社、2003年、22-23頁。

 

官僚制の位階的秩序を上昇すればするほど、下部機関から上がってきた書類に依拠して政治的決定を実施する。上位の決定権能者には、書類において形成された事象と現実態が同一であると映現している。その書類が間違っていれば、政治的判断を間違える。この漫画は、書類において再構成された現実態と、現実態そのものが乖離していることを指摘している。さらに、現実態と無関係に上部機関が、上部機関に都合の良い現実態を再構成している。現実の師団はすでに壊滅しているにもかわらず、地図の上における師団を動員することによって、敗色濃厚な戦局を打開しようする。

このように上部機関が振舞うことを、下部機関は知っている。官僚機構において、しばしば下部組織は上部組織に上げる書類を改竄する。第一に、この書類改竄の目的は、義務を持っている労働者が責任を逃れることにある。現実態とは異なる事実を記載することによって、下部組織は降格、解雇さらに刑事訴追等から逃れることができる。下部吏員の現在の地位と賃金は、安泰である。いかなる責任を取ることもない。

 第二に、現状維持という安泰感は、それ以上の安楽をもたらす。それは、書類至上主義と言われる病理と関連している。この用語は私の造語である。現実における危機を現実態においてではなく、書類の上で解消する。当然のことながら、現実態において危機は残存している。しかし、書類を作成する下部組織は、それによって自己満足に陥る。危機は去ったと。上部組織もそれについて気が付いている。気が付かない上部組織は馬鹿である。しかし、気が付いていて、それを黙過する上部組織は、なお馬鹿である。いずれにしろ、上部組織の暗黙の了解のもとで、下部組織は書類を改竄する。

第三に、書類を改竄することは、現状維持を目的にしている。現状が過去と同一の状態にあるという虚偽の報告書を偽造する。この病理は、官僚化した組織に特有なものである。組織を活性化するような積極的姿勢は評価されない。むしろ、それは疎まれる。現状の危機を報告することによって、下部組織が新たな仕事を引き受けることになる。つまり、負担が増える。官僚化した組織においてこの言葉は、水戸の御老公の印籠に相当する。書類上が現状の危機を表現していれば、下部組織の仕事が今後増えることは明白である。それを回避するために、短絡的に書類を改竄する。書類的総合性があれば、仕事は増えないからである。現状が書類の上で過去と同一であれば、問題ないとされる。前例主義あるいは現状維持志向が、官僚組織の通弊である。

 この書類至上主義は、旧ソ連末期における書類上の食糧の確保と現実態における食糧危機に典型的に妥当していた。毎日のように、ゴルバチョフ・ソヴィエト連邦共和国共産党書記長のもとに資料が下部組織、各連邦共和国から上がってくる彼の手許にある資料によれば、ソヴィエト連邦共和国は十分すぎる食糧生産高を有していた。輸出も可能であった。第三世界の貧困国に食料援助をしていた。

しかし、モスクワの街の食料品店では、長蛇の列が食料を求めて形成されていた。食糧の緊急輸入が常態化していた。現実のソ連住民には、十分な食料が供給されていなかった。食糧危機が蔓延していた。ゴルバチョフ・ソ連共産党書記長は、書類を見る気力を喪失したはずである。書類上、ソ連は安泰であった。しかし、現実態において前世紀末にソヴィエト連邦共和国自体、そしてソヴィエト連邦共和国共産党が崩壊した。官僚集団あるいは官僚化した組織は、この病理に多かれ少なかれ侵されている。その危機を回避できる健全性が求められている。

 

8節 書類を読解する能力(その一)――官僚機構における権能の上昇と老化現象

 

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いしいひさいち『いしいひさいち選集』第5巻、双葉社、1991年、19頁。

 

 この漫画において、老参謀長が、すでに壊滅した師団をもう一度、机上の作戦の展開主体にしようとしている。官僚制における二つの問題点が露呈している。一方は、書類至上主義の問題である。この意味は前節において論じられている。他方は、官僚制における権能上位者の年齢の問題である。位階制の階梯を登るためには、一定の時間を必要としている。その頂点に君臨するときには、すでに老境に達している。日本の官僚機構においても定年間際になって初めて、事務次官の職位に到達する。

 一般に、自然人の肉体的能力は2030歳を頂点にしている。あとは下り坂である。精神的な活動能力は肉体的能力と比べて、その衰えは緩やかかもしれない。しかし、衰えは隠しようがない。

 位階制の頂点に立つ人間の判断能力に疑問符がつけられている。その頂点に立つ人間は、何も考えずに、50歳前後の課長によって決裁された書類に承認の印鑑だけを押せばよいのかもしれない。

 

9節 書類を読解する能力(その二)――官僚機構の上位権能者の能力不足

 

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いしいひさいち『いしいひさいち選集』第1巻、双葉社、1992年、115頁。

 

 官僚機構の最終決定者が無能である。この漫画は、戦闘配置地図を理解できない殿様を揶揄している。戦闘配置地図における図面を自分のチンポコと勘違いしている。このような無能な決定権能者は、地図すら読解できないことによって、合理的な戦闘配置を実施することができない。

 問題は、このような無能な最終決定権者を生み出す構造である。世襲制度が武家政治において当然とされたことによって、無能な最高決定権能者が生まれた。現在の官僚制度においては、試験が昇進の際のフィルターになっている。しかし、フィルターに綻びがあれば、無能であることによって昇進するという輩が産出されるであろう。

 

10節 本質の隠蔽としての官僚的行為(その一)――情報公開

 

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いしいひさいち『問題外論』第2巻、チャンネルゼロ、1993年、129頁。

 

 官僚の行為は、ある本質的なものを隠蔽することにある。もちろん、すべての行為がそうであるとみなしているわけではない。しかし、ある行為の目的が、別の本質的行為から市民の眼をそらせることにある。

 ここでは、プルトニウム運搬船あかつき丸に関する情報公開が問題になっている。当時のマス・メディアそして市民が知りたかった情報は、あかつき丸の運行経路、プルトニウムの運搬量等であったはずである。しかし、当該官庁は、この運搬船の労働者の趣味嗜好に関する情報を公開した。官僚は、前者に関する情報を公開する企図を持っていなかった。むしろ、それを隠蔽しようとした。

 この運搬船の労働者の趣味嗜好も、運搬船あかつき丸に関する情報公開であると、官僚的思考はみなした。もちろん、広義では個人情報も情報公開の情報という範疇に属する。市民が欲している情報と、官僚が公開すべきであるとみなした情報の間には、巨大な径庭がある。

 いしいひさいちのこの漫画に似た事例は多数ある。飛翔体に関する情報公開にふれてみよう。近年では、北朝鮮からしばし飛翔体が日本の領空を侵犯している。ミサイルが飛来するという情報は、巨大な予算を浪費して発信されている。しかし、国民の健康を害する情報、つまり国民がある程度防御できる情報は、警報として出さない。ある都市において放射性物質の空間濃度が上昇しても、当日その情報が警報として公開されることはない。数日経過して市民に公開されても、市民はどうしようない。

ミサイルが飛来しています、という情報をいただいても、どうしようもない。竹槍で撃ち落とせと命令しているのであろうか。ミサイルに竹槍で勝利するぞ、というスローガンが、今後巷に溢れるのであろうか。

 私の家の納戸には竹槍すらない。野球のバットはあるが、私は直球とカーブしか打てない。ミサイルがフォークすれば、空振りである。そのような情報はどのような意味があるのであろうか。

 

11節 本質の隠蔽としての官僚的行為(その二)――和製英語の濫用

 

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いしいひさいち『バイトくん』第4巻、双葉社、2005年、30頁。

 

 奇妙なカタカナ英語が氾濫している。いしいひさいちは、ここで塵紙交換をチリ紙スワッピングと言い換えることの奇妙さを揶揄している。ここで問題であることは、カタカナを使うことではない。むしろ、カタカナを使用することによって、事柄の本質を不可視なものにすることである。カタカナあるいは和製英語を使用することによって、たんなる塵紙交換が、主婦の潜在的願望と一致するかのごとき外観を呈している。

たとえば、数年前に狂牛病という家畜の病気が世界を席巻した。ある時、この名称はBSEと改称された。通常の日本人は、BSEを理解できない。事柄の本質を示すような日本語がかつてあった。あるいは、もっと分かりやすい翻訳語であれば、狂い死病あるいはヤコブ病であろう。

この病気は、牛だけのものではなく、人間にも係わってくるからである。死ぬのは、牛だけではなく、人間でもある。本当の恐怖は、牛肉を食した人間が、苦しみながら、死んでゆくことである。

しかし、この言い換えがおそらく行政機関から指導された時期は、アメリカ合衆国農務長官が、対日牛肉輸出再開を要求していた時期と奇妙に一致していた。それは、200511月である。そして、アメリカ合衆国の要求は、2005年末に実現された。アメリカ合衆国産の安価な牛肉を食べる日本人が、この狂い死病に罹患して、長期間苦しみながら死ぬ、という可能性は考慮されたのであろうか。年収300万円以下の下流日本人は、安価な牛肉を求めるからである。

おそらく、このアメリカ合衆国産牛肉輸入再開を決めた高級官僚、あるいは国会議員たちは、このような牛肉ではなく、和牛、あるいは神戸牛を食するのであろう。彼らの年収は少なくとも、1,200万円を超えている。期末手当と勤勉手当を含めて、月間100万円を消費活動にあてることができる。安価な牛肉ではなく、適正価格の国産牛肉を食することができる。間違っても、数百円の牛丼を朝、昼、晩、毎日食べ続けることは、ないであろう。このような牛肉を食べる必要がないからである。

通常のスーパーマーケットに行けば、但馬牛も、神戸牛も購入することができる。100グラム、数百円から数千円という値段で購入できる。高級官僚、財界人の年収からすれば、小遣いの範囲である。政治家御用達の赤坂の高級料亭で、100グラム200円のアメリカ合衆国産牛肉を提供することは、ほとんどありえない。もし、このような安価の牛肉を提供する高級料亭があれば面白い。それを看板に掲げる神楽坂や赤坂の料亭があれば、一度見てみたい。

このような翻訳による曖昧化は、事柄の本質を隠蔽するものであろう。カタカナ英語は、事柄の本質を明確化するためではなく、それを隠蔽するために使用されている。そして、このカタカナ英語のほとんどが、アメリカ合衆国由来であることは、偶然であろうか。この翻訳用語を定着させたのは、現在の官僚組織における課長、室長、あるいは課長補佐である。彼らの英語能力に欠陥があるとは思えない。むしろ、平均的日本人以上の英語能力を有していることは明らかであろう。なぜ、彼らがその正当な訳語ではなく、むしろ誤訳あるいは迷訳に近い翻訳語を選択したのであろうか。

彼らは、30歳前後においてアメリカ合衆国に国費留学している。戦前の高級官僚がアメリカ合衆国だけではなく、ドイツ、イギリス、フランスに留学してきたことと対照的である。旧西独の首都ボン、あるいはフランスの首都パリへの留学は、語学上のハンディもありほとんど推奨されていなかった。少なく見積もっても、課長より上級の官僚の半数以上は、アメリカ合衆国への留学体験があるはずである。彼らは、20歳代後半、30歳代前半においてアメリカに留学する。もちろん、自費ではない。官費による留学である。

彼らは私費留学生とは異なり、学生寮に住むことはない。日本流に表現すれば、3DKの部屋に6-7人で住むことはないはない。数人の寄宿生が一つのトイレをめぐって闘争することは、ありえない。

留学場所にもよるが、多くの場合、瀟洒な一戸建てがあてがわれる。夫婦ともども高級官僚であれば、プール付きの豪邸も可能である。アメリカでは、平均的な住居である。自家用車で数10分運転すれば、郊外において瀟洒な住居は数多くある。

しかし、彼らも公務員である。学位を取得して、数年後帰国すれば、ほとんど改築されていない古びた官舎に居住せざるをえない。公務員官舎に対する批判は近年盛んであるが、それは近隣の民間住宅との比較から生じるのであり、アメリカ、オーストラリアの住宅事情を勘案すれば、大差ない。林家彦六師匠の名言を借りれば、官舎もまた長屋(ナガヤ)でしかない。高級官僚も長屋(ナガヤ)の皆さんでしかない。長屋に居住せざるをえない高級官僚という概念は、矛盾に満ちている。官僚的世界において、アメリカ合衆国の生活様式そしてその政策は規範になっている。その規範にしたがって、日本を改良しようとする。

そこにおいて、彼らの政策意図を込めているのではなかろうか。もし、そうでなければ彼らは無能な役人になるであろう。なぜ、アメリカ合衆国の政策とその生活状態を日本に定着させねばならないのであろうか。彼らは、アメリカ合衆国の留学生活において、日本の官僚の生活水準以上の生活をしてきたことを考慮に入れねばならないであろう。たとえば、住環境という観点からも、アメリカ合衆国において日本人の平均的水準以上の生活をしてきたはずである。その水準を維持するために、現在の日本を変更しようとしているのであろう。この政策意図を明らかにし、それに代わる対案を市民が準備することが、今求められている。

 

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