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いしいひさいちから学ぶ政治学(4)――都市と農村の対立

いしいひさいちから学ぶ政治学(4)――都市と農村の対立

 

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いしいひさいち『いしいひさいち選集』第9巻、双葉社、1992年、91頁。

 

1節 百姓という存在形式

 

 さて、この物語の主人公、甚太少年は、小学校のある村落の中心街から30キロほど離れた山村に住んでいる。[1]  毎日、片道30キロほどの道のりを約5時間かけて通学している。往復10時間ほどかかる。通常ならば、村落共同体の中心街に下宿するという選択肢が採用されるが、様々な事情で通学を余儀なくされたのであろう。学校と自宅を往復するために、10時間前後を要するということは、体力的観点だけではなく、時間使用的観点からも、ほとんど無意味である。通学のために10時間、睡眠のために8時間を用いれば、実質的な活動時間は6時間しか残っていない。その結果、彼は登校することを諦め、「ただの百姓」になった。おそらく、義務教育すら完全には受けていない。彼には、「ただの百姓」という選択肢しか残っていなかった。

 「ただの百姓」という概念は、近代社会において肯定的に使用されることはなかった。多くの農民の子弟は、この数百年の近代化過程において学校制度という選択装置を通じて都市に移住した。有意の人材であれば、なおさらである。郷土の希望の星として官界、政界、財界、学界等において君臨した。彼らが身を立て、名を上げるためには、農村や山村に居住することにとどまっているならば、不可能であったであろう。彼らは都市に住み、郷土を後にした。「ただの百姓」であることを拒否し、農村を捨てた。有意の人材でなかったとしても、金の卵として都市に流入した。その多くは、下層労働者として都市住民になった。都市下層住民として、大衆社会の一翼を担った。

有意であろうが、なかろうが、都市住民は「ただの百姓」から食料を供給された。この点において、都市住民と「ただの百姓」は、対立関係にある。かつて「ただの百姓」あるいはその子弟であった青年は、自らの出自である「ただの百姓」であることを否定している。いしいひさいちが、このような現代日本、いな後期近代という時代を通底する近代の自己意識の一側面を抽出した。彼は、その意味で賞賛に値するであろう。ほぼすべての文化は、都市において生産される。彼によって描写された現代日本の社会論、たとえば『山田家の人々』、『ののちゃん』等は、その叙述対象がほとんど都市住民の生活様式である。

対照的に、中島正の思想は、この近代という時代精神とは異なる位相にある。彼は「ただの百姓」であることの意義を称揚し、都市住民の存在意義を否定した。彼の思想の根底には、蓑虫革命と命名された原理がある。「蓑虫革命とは――『自分の食い扶持は自分でさがすが、つくる』という人間本来の生存の原則にしたがって、大自然の掟に順応した自然循環型農業を営み・・・自給自足自立の生活に入ることをいうのである」 [2] 中島正は、究極的には民族皆農を主張する。「都市機構を潰し、都市活動をやめて、太古に存在した農耕社会に還る」。[3] 都市ではなく、農村に万人が居住する社会を理想とする。

次節では、農民と対照して、都市住民の生活に言及してみよう。とりわけ、都市における大学という存在形式に言及してみよう。

 

2節 大学という社会的存在形式

 

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いしいひさいち『ノンキャリウーマン』第2巻、双葉社、1999年、110頁。

 

今回の物語の主人公、新田の政次君は、村で初めて東京の大学に行った。それまで、農村近郊の地方都市に存在する大学に進学する子弟は、少なからずいたのであろう。しかし、首都東京に進学した子弟は、政次君が初めてであったようである。[4]

 彼が、三菱物産という日本を代表する企業において就職内定を獲得した。三菱物産という会社名は、三菱商事と三井物産という代表的商社に由来している。創作の世界では一般に使用されている超一流企業名称である。生涯賃金、社会的知名度、福利厚生等の観点から、現代日本における最高の企業の代名詞として使用されている。この企業で労働をすることは、多くの大学生そして多くの日本人によって羨望の的になる。

 新田の政次君がこの企業に内定した。この事象は、彼の故郷の農村においてニュース的価値を持っていた。彼の就職内定に関する記事が、地方新聞の地域欄に掲載された。もちろん、就職協定に違反していた。有名無実化しているとはいえ、この協定は遵守されねばならない。したがって、この内定が取り消されるという、いしいひさいち流の落ちがついている。

この4コマ漫画の落ちの部分を除いて、この物語は次の点を前提にしている。第一に、農民の子弟が東京の大学に進学することが、農民あるいは農村の共同意識において素晴らしいと認識されている。新田の政次君は、農村の共同意識において東京の大学に進学した段階においてすでに郷土の誉れであった。子弟が大学生として都市の住民になること、より厳格に言えば、都市の上層市民になることが、農民の意識において郷土の誉れとみなされている。これまでも、この農村から都市の下層市民になったことは、稀ではなかったであろう。農村の子弟が、1950~1960年代に金の卵として大都市とりわけ東京に流入した。中卒労働者として都市の下層市民になった。中卒労働者と大卒労働者は、日本社会において明白に区別されている。新田の政次君が中学を卒業して、東京の労働者となったとしても、その事実が新聞記事になることはない。

第二に、新田の政次君は東京の大学に進学し、大学生として就職活動をした。三菱物産という日本を代表する企業に内定した。三菱物産の労働者は、ほぼ偏差値の高い大学卒業者から構成されている。この難関大学に入学することは、高校生を抱える両親の希望である。大企業に就職することは、社会的に承認されている。少なくと、大企業に就職することによって、後ろ指をさされることは、めったにないであろう。

彼が有名大学において優秀な成績を修めたことは、当然であろう。彼は大学生として刻苦勉励した。あるいは、彼は刻苦勉励するための能力を保持していたのであろう。東京の有名大学卒業生の大半は、三菱物産に就職できない。上位の成績優秀者のうちにいなければならない。多数の「優」を獲得することは、成績優秀者として当然であった。社会的エリートとして十分な基礎教養が、彼の4年間の学業生活において形成された。

このいしいひさいちの4コマ漫画において描写されている事態は、現代日本人にとって願望である。子弟が東京の有名大学に進学し、有名企業に就職した。この事実において非難される要素はないかのようである。しかし、中島正はこのような大学生の意識ひいては大学の社会的役割を次のように、批判する。「大学は、汚染破壊集団の予備軍養成所である・・・・年々無慮20数万にも及ぶ大卒が、悉く農民の汗の上に居座って不耕貪食を企み、汚染農業を余儀なからしむるだけでなく、その過半数は工業化社会の活動の中心になり、・・・自然=環境に迫害を加え続ける」。[5]  大学生という社会的存在形式は、その価値が否定される。大学生そして都市住民は、農民と農村に対して害悪を加える存在でしかない。彼らが都市住民であるかぎり、彼らは農村から食料を供給してもらわねばならない。にもかかわらず、農民の子弟が社会的賞賛を受けるためには、農村ではなく、都市において居住しなければならない。「ただの百姓」であることは、社会的賞賛の対象外である。対照的に、中島正は、身を立て、名をあげることを拒否する。不耕貪食の都市住民という存在形式が、中島正によって根底的に批判される。

 

おわりに

 

中島正の思想も、いしいひさいちの漫画も、独立して論じられるべき対象である。今まで、『田村伊知朗 政治学研究室』において、両者は断片的に論じられてきた。また、政治学概論と政治思想史講義草稿の補助教材として提示されてきた。

今後、それらをより明確な形で提示したい。この作業は、後期近代という時代精神を対自化するために不可欠の前提になろう。

 

 

(たむらいちろう 近代思想史専攻)

 

本記事は、すでに『田村伊知朗 政治学研究室』においてすでに掲載されている。(In: http://izl.moe-nifty.com/tamura/2019/05/post-ba48.html. [Datum: 23.09.2019)

また、『公共空間X』へと転載されている。(In: http://pubspace-x.net/pubspace/archives/6613. Datum: 27.05.2019)

 

[1] いしいひさいち『いしいひさいち選集』第9巻、双葉社、1992年、91頁。

[2] 中島正「私の百姓自立宣言⑦ 『自然世』を近づける蓑虫革命とは」『現代農業』第62巻第7号、農山漁村文化協会、1983年、352頁。

[3] 中島正『都市を滅ぼせ 人類を救う最後の選択』舞字社、1994年

[4] いしいひさいち『ノンキャリウーマン』第2巻、双葉社、1999年、110頁。

[5] 中島正『みの虫革命――独立農民の書』十月社出版局、1986年、152-153頁。

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いしいひさいちから学ぶ政治学(3)――位階制組織における民主主義

いしいひさいちから学ぶ政治学(3)――位階制組織における民主主義

 

                                 田村伊知朗

 

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いしいひさいち『鏡の国の戦争』潮出版、1985年、76-77頁。

 

 この漫画の面白さは、軍隊に多数決原理が導入されていることである。この原理の導入は、現実的には想定不可能である。将校と兵隊の数は、通常、兵隊の数が多い。もし、軍隊という命令組織に多数決原理を導入すれば、軍隊という組織が崩壊するであろう。多くの兵隊は、徴兵された存在であり、戦意は将校に比べて低いからである。もし、多数決原理が導入されれば、戦争そのものが否定されるであろう。民主主義という原理は、命令組織には導入されない。位階制組織は命令組織である。とりわけ、官僚組織は位階制的組織である。この官僚組織のうちで、もっとも厳格な組織は軍隊である。上官の命令を否定し、前線から逃亡しようとすれば、前線の背後に控える督戦隊から銃弾を受ける。

 仮定の設定として軍隊に民主主義が導入されれば、前線で生命を賭けて戦うのは、将校のみになるであろう。その架空の設定をこの漫画は採用している。あるものの本質とは異なる要素を当該概念に導入することによる面白さである。いしいひさいちは、当該概念、ここでは軍隊の本質を把握しいている。その本質とは正反対の理念を導入することによって、その概念を鮮やかにしている。

 なお、命令組織は軍隊に限定されていない。名目的にはすべての官僚組織に妥当する。また、官僚組織に比肩する強度を誇る営利企業の組織にもあてはまるであろう。そこにおいて、民主主義の原理、多数決原理は適用されない。

 政治的領域において、多数決原理が適用される領域はかなり少ない。被選挙者間における平等性が前提になる領域でしかない。況や、社会的関係、家族的関係においてこの原理を導入しようとすることは、無謀という誹りを免れない。この原理が妥当する領域は、限定されねばならない。私的領域においてこの原理は、適用されてはならない。私的領域にこの原理を適用した場合、利害関係があまりに強く、少数者が多数者に従うことが困難である。もっとも、後期近代において公的領域と私的領域は交錯しており、その峻別が困難である。公的領域の本質規定が問題になる。私的領域における行為、たとえば私有地において住宅あるいは環境破壊的産業を建設することが、公的領域と交錯する。

 より一般化すれば、この原理は、政治的国家における平等原理を前提にしている。多数決原理は、官僚機構における命令原理とは相いれない。政治的領域に限定しても、その適用範囲は狭い。また、市民社会はこの原理を採用していない。たとえば、株式会社において、労働者は経営者の命令にしたがわねばならない。また、株主総会では、持ち株高に応じて、投票数が決定される。株券の数に応じて、投票行動が実施される。たとえば、1株、1 票であり、持ち株が多ければ、投票数も多い。多数決原理ではなく、当該企業の持ち分に応じて、投票数が決定される。

 さらに、この漫画の面白さは、将校と兵隊総体に平等主義的原理が導入されていることにある。多数決原理の前提である構成員全体が、平等であるかのようである。将校と兵隊との区別を別にして、兵隊の間に序列がないことである。現実的軍隊において、平等な兵隊という設定は存在しない。徴兵された兵士もまた、ヒエラルヒー化されている。その軍隊歴によって、差別化されている。軍曹、伍長等は軍歴の長さに比例して設定されるはずだ。より一般化すれば、軍歴の長い兵隊は、短い兵隊に対して優位にふるまう。ちょうど、市民社会における平等な市民ということがフィクションであると同様だ。

 

 しかし、本ブログで取り上げた漫画の設定においては、平等な諸兵が同盟罷業のようなことをしている。実際には、この同盟罷業、ならびその基礎にある兵隊同士の平等性は存在しない。にもかからず、市民社会の理念、つまり理想である平等性を持ち込むことによって、この漫画の面白さが成立している。

軍隊に民主主義あるいは多数決原理を導入することは、歴史的に言えば、必ずしも荒唐無稽でない。イギリス革命における水平派にその起源を求めることも可能であろう。

 ここで、17世紀に生じたイギリス革命の歴史的経緯に触れておこう。まず、この革命は国王と議会との憲法論争から始まった。この論争の中心は、今後のイギリスの政治体制を絶対主義的君主制のままとどめるのか、立憲主義的君主に改変するべきかということにあった。国王派が前者を、議会派が後者をそれぞれ代表する。1642年には、国王派と議会派の内乱が開始される。1649年、革命派は軍事的に勝利し、国王を処刑する。近代革命が成功する。革命派の勝利は、議会派内部の対立を明瞭にした。つまり、長老派、独立派そして水平派という派閥闘争が激化する。

 三つの派閥の指向性の差異が、明瞭になりつつあった。長老派は立憲君主制を、独立派は共和制をそれぞれ指向していた。共和制が、立憲君主制を超えて独立派によって宣言される。共和制は、長老派に対する独立派のヘゲモニーが確立されたことによる。同時に水平派も弾圧される。1653年、独立派のクロンウェルの軍事独裁が始まる。ローマ共和制に似た護民官政治が始まる。独立派が革命派のなかで全権を把握する。しかし、独立派による独裁政治は、長老派と水平派の支持ひいては国民一般の支持を喪失した。

 この革命の主流を形成することはなかったが、水平派の思想に触れておこう。ここには、近代揚棄の思想がみられる。彼らは軍隊内部に全軍評議会を形成しようとする。この評議会は軍隊内の意志決定を民主化しようとする。この党派は、軍隊という命令型組織に多数決原理を適用しようとする。もちろん、軍隊という官僚組織に民主主義を適用することは、明らかな矛盾である。結果的にこの試みは敗北する。上級将校を中心にした独立派によって、水平派は弾圧される。

 しかし、正規軍ではなく、反乱軍において民主主義的要素を導入しようという試みは、一定程度必要になる。イギリス革命における水平派は、荒唐無稽な存在者ではない。なぜなら、つねにその使命感が反乱軍において鼓舞されねばならない。革命軍は正規軍と異なり、金銭的裏付けがないにもかかわらず、軍への参加を鼓舞しなければならない。通常の場合、革命軍は敗北するにもかかわらず、なぜ、革命軍に参加しなければならないのかを参加者に理論的に説明しなければならない。既存の秩序を破壊することを、言語によって正当化しなければならない。長老派と独立派は、水平派に対して革命軍への参画を煽動した。結果的には水平派は弾圧されるが、水兵派がなければ革命は成就しなかった。反乱軍あるいは革命軍は、これまでの忠誠対象とは異なる対象にその忠誠心を要求する。

 この漫画に揶揄された命令組織における多数決原理の導入は、軍隊の例外的な存在形式つまり革命軍において妥当性を有しているのかもしれない。

 

(たむらいちろう 近代思想史専攻)

 

 

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いしいひさいちから学ぶ政治学(2)――官僚に対抗する政治家?

いしいひさいちから学ぶ政治学(2)――官僚に対抗する政治家?

 

                                  田村伊知朗

 

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いしいひさいち『いしいひさいち選集』第13巻、双葉社、1986年、126頁。

 

 この漫画は、日本沈没という国難に際して、政治家が自分の選挙区のことしか考えていないこと揶揄している。政治家という官僚組織を統括する主体が、日本全体の利益ではなく、特殊的利益しか考えていない。

 官僚は部分的利益を指向する。しかし、官僚が視野狭窄であることは、必ずしも欠陥ではない。与えられた職務に忠実であればあるほど、そのような結果をもたらす。多くの一般的な国家公務員、とりわけ係長、主任は、課長を社長と呼ぶ。自らの属する課の利益を追求する。あるいは課に属する国民生活に対する忠誠を遂行する。

 たとえば、ある課に属していれば、その課の利益を追求する。国家全体における当該省全体の在り方に関して、ほとんど関心がない。国家公務員と話していると彼らの隠語として、社長という言葉が乱発される。公務員組織は、株式会社とは異なり、社長という役職を持っていない。にもかかわらず、この組織に属していない人間に対して、うちの社長という表現を用いる。この社長という隠語とその隠語が発される状況は、彼らにとって直属の上司が誰であるかを暗示している。彼らの責任主体は、所属する課あるいは課長である。省益ですらない。いわんや、国益の本質を考察する能力はない。

 官僚機構における国益という考えの欠如は、常識的には政治家によって補正される。政治家、本邦の組織形式を用いれば、大臣、副大臣、政務官等は、必ずしもその省庁の業務に関して精通していない。ほとんど素人同然である。全体的視野から、当該省庁の業務を概観することが求められている。

 しかし、政治家が個別的利益、つまり特定の業界利益、地域利益を追求すれば、国益という観点は看過される。政治家は、次の選挙における当選をつねに考えている。政治家は日本国家の普遍的利益ではなく、選挙区という特殊的利益を追求する。

 日本沈没という国難に際して、大臣を統括する総理大臣も特殊利益を追求すれば、日本は沈没する。この意味をいしいひさいちは、明確にした。この漫画の置かれている状況が、日本沈没という地殻変動であることは、示唆的である。経済的地平でもなければ、文化的地平でもない。まさに、日本列島が消滅する段階でも、政治家が特殊的利益しか考察していない。

 問題は、彼によって提起された地平の彼方にある。誰が国益を追求するのであろうか。多くの官僚は省益すら追求しない。課の利益がその主要関心事である。誰が国益を普遍的地平で考察するのであろうか。哲人政治家が求められるが、哲人政治家はどこからリクルートされるのであろうか。古色蒼然たる哲学部の卒業生からであろうか。日本には、哲学部という学部はない。せいぜい、文学部哲学科が細々とその命脈を保っているにすぎない。たとえ哲学部が存在していたとしても、彼らの多くは哲学史には精通していても、哲学者ではない。哲学は、官僚機構によって追求される課益、省益には対抗できないであろう。それを超えた地平が求められている。

 

 

(たむらいちろう 近代思想史専攻)

 

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いしいひさいちから学ぶ政治学(1)――官僚制の存在形式

はじめに

 

 いしいひさいちが、日本を代表する漫画家であり、第一級の知識人であることはほぼ異論がないであろう。彼は、1970年代から約半世紀間、ほぼ毎日、数編の4コマ漫画を世に送り出してきた。それだけではない。より本質的に言えば、彼が偉大であることの根拠は、現代日本あるいは後期近代の事象を4コマ漫画という世界において抽出していることにある。現代社会の一側面が、わずか1頁の4コマにおいて切り取られている。

 このような栄光は、社会科学に従事している研究者にとって羨望の的である。おそらく、彼は、一瞬の閃きにおいて現代社会を抽出する。研究者の多くは、1年をかけて1本の論文を執筆する。いしいひさいちと同じ結論を述べるために、数年を要する場合もある。日々、外国語文献と格闘し、論文の準備をしなければならない。それだけの労力を払ったとしても、いしいひさいちほどの読者を獲得することはない。良くて、同じ領域の研究者数人から賞賛を受けるだけである。多くの場合、学会誌の数頁を埋めるだけで終わるであろう。いずれにしろ、研究論文が社会的影響力を行使することは、ほぼ無いであろう。

 

1節 官僚制総論

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いしいひさいち『いしいひさいち選集』第37巻、双葉社、2003年、100頁。

 

 この漫画における面白さは、落城寸前になっても、官僚的な目的合理性が追求されていることにある。自己に与えられた領域、つまり有職故実に関する事柄が議論されている。落城になれば、そのような合理性はその基盤が崩壊するにもかかわらず、有職故実に固執している。落城という現実の前にほとんど無意味であるにもかかわらず、この前例に対するその解釈が議論されている。

 この漫画によって揶揄されている第一の事柄は、前例主義である。前例主義とは、前例のないことをしない、という官僚に特有な意識である。前例を否定することは、前任者の瑕疵をあげつらうことになる。前任者の欠陥を是正することは、その顔に泥を塗ることにつながる。その前任者は現在の上司であることが多い。上司の意向に反して仕事をすることが嫌われる。有職故実に関する認識が不必要であるわけでない。彼らにその仕事が割り振られた以上、その仕事を貫徹しなければならない。しかし、先例をとりまいていた過去の環境世界は、もはや変化してしまっている。現時点での環境世界は、過去の環境世界と隔絶している場合も多いであろう。前例が妥当するか否か、現時点での環境世界において再検討されねばならない。にもかかわらず、前例主義に固執することは、愚かなことであろう。

  この漫画によって揶揄されている第二の事柄は、先送り主義である。先送り主義とは、決定を先送りすることであり、キャリア官僚とみなされる高級公務員に特有な病気である。彼らは、3~4年の間隔で多くの部署をわたり歩く。したがって、その任期の間にできることしかしない。重要な問題を次の任にあたる後輩に委ねる。その後輩もまた、次々に次の任期のキャリア官僚に大きな問題を委ねる。大きな問題とは、その解決のためにかなりのエネルギーを必要とする課題である。たとえば、組織内の問題であっても、多くの他の部署との折衝を要する仕事である。そのような大事な仕事よりも、より処理しやすい日常的な仕事に没頭する。しかし、いつの日かその仕事の期限がやってくる。その時には、手遅れになっている。ここでは有職故実に拘ることによって、落城における政治的決定という問題は先送りされている。

 この漫画によって揶揄されている第三の事柄は、官僚組織における出世の現実態である。官僚組織は位階制組織である。権能が上昇すればするほど、その権能担当者の数は減少する。ここでは、重臣がその位階制の上位者である。問題は、このような重臣が決定権を保持していることにある。有職故実に精通した官僚が、この位階制の上位者になった。この問題こそが問われねばならない。彼らは、戦闘の場において業績を積んだわけではないはずだ。有職故実に精通することによって、位階制の階段を駆け上った。このような人間が組織の上部において席をしめていることに問題点がある。彼らは危機に対応できないし、政治家のような世界全体像を持たない。全体的視点を放棄した近視眼的人間しか、位階制的秩序を上昇できない。

 現代の官僚組織においても同様である。誤植のない文章が書ける人間、退屈な会議が好きな人間が重宝される。誤植の指摘を生き甲斐にしている人間が部長、課長等の要職に就く。漢字を読み間違えたら、減点の対象である。つまらない人間が上に立つほど、組織にとって不幸はない。現代社会における有職故実は、江戸時代と同様に、規則であり、前例であり、横並びの知識である。この観点からすれば、現代社会の役人と、落城寸前の御前会議における役人の間には、差異はない。

 たとえば、枝葉末節な事柄に対して、会議において時間がさかれる。重要な問題は議論されない。重要な問題は存在していないかのようにふるまう。本当の馬鹿は、自分が書いた文章を逐一読み上げる。日本語で書かれた文章をなぜ読み上げる必要があるのか。時間を浪費し、批判的議論を封じるためである。彼の読み上げ作業が終了した後、会議参加者の多くは、その文章を批判する気力を喪失している。

 組織においてその組織の維持、管理が自己目的化する。なんのための組織であるかが忘却され、管理に強い人間が出世してゆく。営利企業であっても、利益を上げる営業畑の人間ではなく、総務畑の人間が出世してゆく。同僚と仲良く喧嘩せず、という人間が頭角を現す。警察機構においても、犯人を捕まえることに執着する人間ではなく、法律と規則に通じた人間が出世してゆく。何時までも犯人逮捕のために靴底を減らしている現場の刑事よりも、昇任試験に長けた人間が上司になる。現場の人間よりも、試験勉強に苦痛を感じない人間が、組織において重宝される。

 この事例として、2011年3月25日に開催された第19回原子力安全委員会が、いしいひさいちのこの4コマ漫画にまさに適合している。[1] 2011年3月25日と言えば、3月14日における東京電力福島第一原子力発電所の第3号機の水素爆発を受けて、国家が危機的状況にあったときである。第2号機、第4号機も同様な危機的状況にあった。この東京電力福島第一原子力発電所の非常事態を受けて開催された原子力安全委員会は、たった42分程度で閉会している。しかも、PDFファイル12頁にわたる議事録の半分以上は、事務局によって作成された資料の読み上げに終わっている。その後の委員による議論の中心は、「『葉』になってございますけれども、これは平仮名の『は』でございます」、あるいは「平仮名の『に』を入れてください」(10頁)という文書の校正にある。

  原子力安全委員会委員としての専門知識は要求されていない。基本的に委員長が事務局と相談のうえ、会議資料を作成する。その他の委員はその会議資料に基づいて議論する。彼らは、会議資料に掲載されていないことに関して知る由もない。ある事柄を会議資料に掲載するか否かは、委員長と事務局の専権事項である。

 この傾向は、日本の官僚機構における会議の特色である。「異議なし」と唱和するか、語句の間違いを指摘するだけである。誤植の訂正であれば、村役場の庶務課長のほうが、より適切な指示を出せるであろう。このような議論しかできない専門委員は、村役場の庶務課長に転職したほうがよいであろう。もっとも、庶務課長ほどの文書校正能力を有しているとは思えず、庶務課主任に降格されるであろう。

 このような繁文縟礼に通じた専門家しか、政府によって認定された専門委員になれない。専門知識よりも管理職的能力に通じた専門家のみが大学教授になり、そして政府の審議会委員に抜擢される。そこで求められる能力は、事務局と協調する能力と文書作成能力でしかない。

  専門委員には、事務局によって作成された資料を根源的に批判し、積極的な提言を求められているはずである。ここでの議論は、専門知識を要求されない事務局職員以下の水準にある。逆に言えば、このような専門家は、官僚機構にとって統御し易い人間である。自分たちを批判しない人間のみが、専門家として認知される。学術的専門家と官僚機構の癒着が生じる。

 彼らはこれまでいつもこのような議論形式に慣れてきたはずである。このような議論しかできない。それゆえ、彼らは専門家として認知された。国家の危機に際しても、このようにしか議論できない。いしいひさいちが描いた落城という危機が、現代日本にもあった。しかし、官僚組織は前例主義という旧態依然の対応しかできなかった。

 

2節 前例主義に対する補論

 

 

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いしいひさいち『いしいひさいち選集』第11巻、双葉社、1986年、132頁。

 

 この漫画において、「ある建物が40年経過したから、危険である」という命題と、「ある建物が40年間安全であったから、今後も安全である」という命題が、併記されている。この二つの論理が交差することはない。しかし、後者の論理の破綻は明らかである。過去40年間において、様々な部品が劣化し、機能不全に陥っているかもしれない。それに対して、40年間安全であったがゆえに、安全であるという命題が対置される。この命題は妥当性を持っているのであろうか。官僚は前例主義を規範化している。40年間、安全であれば、今後も安全であると。しかし、この40年間に主体は、明らかに老化している。客観的条件も変化している。にもかかわらず、前例主義を主張する官僚は、馬鹿でしかない。

 このような命題は、常識的にはありえない。事実、いしいひさいちもまた、この命題に反論していない。しかし、この命題が根源的に錯誤していることは、明らかである。築40年のアパートがそろそろ限界に達していることは、常識的判断にしたがえばあきらかである。にもかかわらず、ある論者は40年間、安全であれば、今も安全であると主張する。

 ちなみに、40年という数字は、原子力発電施設の耐用年数にあてはまる。偶然かもしれないが、四半世紀以後の東京電力株式会社福島第一原子力発電所の耐用年数を示している。いしいひさいちの漫画家としての評価は、天才と言うしかない。天才であるがゆえに、彼が当初意図していない結果を暗示している。

 より一般化して言えば、前例にしたがうということは、環境世界の変化を考慮しない。過去の環境世界は、現在の環境世界と異なっている。この変化を考慮せずに、過去の経験知が絶対化される。

 

3節 先送り主義に関する補論

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いしいひさいち『問題外論』第11巻、チャンネルゼロ、1997年、45頁。

 

  第1節のいしいひさいちの漫画の補論として、先送り主義に関する典型的事例が、現代政治論においても展開されている。橋本龍太郎総理と主要各省の事務次官の話し合いの場面にも出てくる。橋本龍太郎総理は、政治家として大臣に信頼を置いていない。彼は、事務次官に代表される高級官僚を信頼している。とりわけ、外務省、法務省、自治省という主要省庁の官僚を信頼している。官僚の専門知が、大臣の専門知よりも優れている、と彼はみなしている。

  しかし、彼もまた政治家である。その判断力が各省の大臣と同等であるということを見落としている。官僚の知は、官僚の独自の圏域において形成されてきた。先送り主義も彼らの習性である。

 

 

4節 減点主義に関する補論

 

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いしいひさいち『いしいひさいち選集』第13巻、双葉社、1986年、118頁。

 

 第1節の官僚制総論の補論として、官僚個人に対する評価基準を問題にしてみよう。官僚の評価基準は、加点主義ではなく、減点主義である。国民にとってどれほど良い政策を実施したとしても、それは評価されない。むしろ、新しい仕事をすれば、周囲と無用な摩擦が生じる。同僚そして他の部局に新しい仕事と任務を与えるからだ。それでなくとも、高級官僚の予備軍は、必要以上の仕事をそもそも抱えている。それに加えて、ある官僚が新しい仕事を考案すれば、より仕事量が増大する。勤務時間が増えても、労働賃金が増えることはない。

 この新規の仕事が成功すれば、まだよい。失敗した場合には、それ見たことと嘲笑される。それだけではない。できるかぎり、前例にしたがって、失敗がないことを心がける。

 しかし、自分が前例にしたがって仕事をしたとしても、災難は周囲から生じる。部下が不祥事を起こせば、その管理責任を取らされる。部下が物品を横流しすれば、管理責任を問われる。勤務時間内の不祥事であれば、直接的責任がなくとも、その失敗の全責任を取らされる。

 校長は、学校内の管理責任を最終的に負わねばならない。部下である教諭がいじめに対して適切な処置をしなかった。その結果、いじめを受けた生徒が自殺した。昨今、よく新聞の社会面に、いじめによる自殺が報道されている。

 校長個人はこの不祥事により、懲戒処分が予定されている。減給処分等が想定されるであろう。減給処分は月間給与が減少するだけではない。年金、退職金にも反映される。それだけではない。給与が良くて、仕事が楽な天下り先から排除される。特に、小学校教諭であれば、地元の大学教育学部卒業生である場合が多い。同窓会組織からも、懲戒処分対象者として、白眼視される。

 

第5節 書類至上主義

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いしいひさいち『眼前の敵』河出書房新社、2003年、22-23頁。

 

 官僚制の位階的秩序を上昇すればするほど、下部機関から上がってきた書類に依拠して政治的決定を実施する。その書類が間違っていれば、政治的判断を間違える。この漫画は、書類において再構成された現実態と、現実態そのものが乖離していることを指摘している。さらに、現実態と無関係に上部機関が、上部機関に都合の良い現実態を再構成している。現実の師団はすでに壊滅しているにもかわらず、地図の上における師団を動員することによって、敗色濃厚な戦局を打開しようする。

 このように上部機関が振舞うことを、下部機関は知っている。官僚機構において、しばしば下部組織は上部組織に上げる書類を改竄する。第一に、この書類改竄の目的は、義務を持っている労働者が責任を逃れることにある。現実態とは異なる事実を記載することによって、下部組織は降格、解雇さらに刑事訴追等から逃れることができる。労働者の現在の地位と賃金は、責任を安泰である。

  第二に、現状維持という安泰感は、それ以上の安楽をもたらす。それは、書類至上主義と言われる病理と関連している。この用語は私の造語である。現実における危機を現実態においてではなく、書類の上で解消する。当然のことながら、現実態において危機は残存している。しかし、書類を作成する下部組織は、それによって自己満足に陥る。危機は去ったと。上部組織もそれについて気が付いている。気が付かない上部組織は馬鹿である。しかし、気が付いていて、それを黙過する上部組織は、なお馬鹿である。いずれにしろ、上部組織の暗黙の了解のもとで、下部組織は書類を改竄する。

 第三に、書類を改竄することは、現状維持を目的にしている。現状が過去と同一の状態にあるという虚偽の報告書を偽造する。この病理は、官僚化した組織に特有なものである。組織を活性化するような積極的姿勢は評価されない。むしろ、それは疎まれる。現状の危機を報告することによって、下部組織が新たな仕事を引き受けることになる。つまり、「負担が増える」。官僚化した組織においてこの言葉は、水戸の御老公の印籠に相当する。書類上が現状の危機を表現していれば、下部組織の仕事が今後増えることは明白である。それを回避するために、短絡的に書類を改竄する。書類的総合性があれば、仕事は増えないからである。現状が書類の上で過去と同一であれば、問題ないとされる。前例主義あるいは現状維持志向が、官僚組織の通弊である。

  この書類至上主義は、旧ソ連末期における書類上の食糧の確保と現実態における食糧危機に典型的に妥当していた。毎日のように、ゴルバチョフ・ソ連共産党書記長のもとに資料が下部組織、各連邦共和国から上がってくる。それによれば、旧ソ連では十分すぎる食糧があった。輸出も可能であった。しかし、街の食料品店では、長蛇の列が食料を求めて形成されていた。食糧の緊急輸入が常態化していた。旧ソ連住民には、十分な食料が供給されていなかった。食糧危機が蔓延していた。ゴルバチョフ・ソ連共産党書記長は、書類を見る気力を喪失したはずである。書類上、ソ連は安泰であった。しかし、現実態において前世紀末にソビエト連邦共和国自体、そしてソビエト連邦共産党が崩壊した。官僚集団あるいは官僚化した組織は、この病理に多かれ少なかれ侵されている。その危機を回避できる健全性が求められている。

 

あとがき

 

 本稿は、4コマ漫画を引用した上で、自分の思想を述べるという叙述形式を採用している。このような叙述様式を読書界において承認させた書物が、永井均『マンガは哲学する』(岩波書店、2009年)である。本稿も、この書物に影響を受けている。

 また、漫画の著作権に関する思想も永井均の考えに依拠している。永井均は漫画の著作権と思想的論稿の関係を次のように述べている。「本書におけるマンガの引用は、『報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲で行われるもの』であるから、著者および出版社の許諾を得ていない」。(同書、232頁)この叙述様式が、著作権法32条第1項に妥当するとみなしている。

 永井均の著作に先行する業績として、呉智英『現代マンガの全体像』(双葉社、1997年)も参照されるべきであろう。呉智英は、引用した漫画のすべてにCマークを付けている。本記事執筆にあたって、呉智英の考えに依拠すべきであろうかとも、考えた。呉智英によれば、漫画の引用は、漫画家の承認を得るべきであるとされる。

 しかし、筆者は、呉智英ではなく、永井均の著作権に関する解釈を正当なものと考えている。学術論文や学術書と同様に、書籍化された漫画も公開された社会的な共有財産である。その引用は自由であるべきと考えている。いしいひさいちの筆名は、引用されることによってより高まると想像している。もっとも、私が引用しなくとも、いしいひさいちの漫画は、すでに同時代の基礎教養になっている。

 さらに、学術的世界、とりわけ自然科学系学問領域において、引用される回数が当該論文の価値を高めている。引用される回数を増すために、姑息な手段が横行しているとも聞いている。研究者仲間で相互に不必要な引用がなされているという指摘は、よく聞く話である。私は漫画家個人とは如何なる直接的関係もない。公刊された漫画を購入し、その読者になっているだけである。なお、本稿以後にも、同様な叙述形式の原稿を幾つか用意している。漫画の著作権に関する考察も、同様な思想に基づいている。

 最後に、引用した漫画を初めて読んだとき、本当に心の底から面白いと感じた。まさに、感動し、大笑いした。ただ、この漫画を何度も読み直すなかで、現代政治そして現代社会に関する深遠な洞察に気付いた。この面白さの根拠を考察するなかで、本稿が生まれた。

 

 

[1]「第19回原子力安全委員会議事録」10頁。In: http://www.nsc.go.jp/anzen/soki/soki2011/genan_so19.pdf. [Datum: 26.09.2011]

 

(たむらいちろう 近代思想史専攻)

 

 

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