« 2019年1月 | トップページ | 2019年5月 »

公共性の変革ーー19世紀の国家から20世紀の都市構造の変革、公共交通の変革

  1. 二つの異なる研究対象

現在、19世紀中葉のドイツ政治思想史とりわけヘーゲル左派の政治思想と、20世紀後半のドイツ都市交通思想史とりわけ路面電車ルネサンスに関する研究に従事している。この二つの研究対象は、近代の揚棄という観点から対照的である。前者が近代の揚棄の可能性を前面に出しているが、後者はその不可能性を前提にしている。後者は時代そのものの変革ではなく、限定された都市における公共交通の可能性を志向している。国家より狭く、市民意識にとって可視的な都市という空間における公共性を転換しようとしている。

 この二つの研究対象に共通していることは、公共性の存在形式を現状とは異なる形式において構想している点にある。ブルジョワジー的な個人的自由が、19世紀中葉において進展していた。ヘーゲル左派は、ブルジョワジーに統御された国家的共同性に対抗する形式において別の近代つまり近代の揚棄を構想していた。20世紀後半の交通思想も、動力化された個人交通の進展という潮流に対抗する都市内の公共交通の存在形式、つまり路面電車ルネサンスを意義づけようとしている。

 現在、私はこの二つの研究を同時に実施しようとしている。それぞれ、数年以内に単行本としてまとめるつもりである。

 

  1. 19世紀のヘーゲル左派に関する研究

現在、私が従事している研究課題、純粋批判の哲学は、ブルーノ・バウアー(Bruno Bauer 1809-1882)研究史そしてヘーゲル左派研究史において、それ以前の彼の哲学、自己意識の哲学と比較してほとんど看過されてきた。1843年以前におけるバウアーの自己意識の哲学こそは、ヘーゲル左派における近代の揚棄の典型的思想形式であった。マルクス、エンゲルスそしてヘーゲル左派総体に影響を与えた思考様式であった。バウアーはこの近代の揚棄に関する思考様式――これまでの自己の思想的基礎であった――を1844年に根底的に批判し、自己意識の哲学から純粋批判の哲学へと移行した。近代の揚棄が不可能になった根拠は、大衆社会の到来が予見されていたからである。大衆社会において個人的利益が指向され、公共性への志向は減少する。時代精神の変革という課題は、大衆にとって疎遠であった。

このような純粋批判の哲学をたんにバウアーが残した文献だけではなく、所謂バウアー派のヘーゲル左派の諸思想家の哲学というコンテキストにおいて定位しようとしている。この研究目的を成就するためには、伝記的事実すらほとんど解明されていない思想家を研究しなければならない。ヘルマン・イエリネック、テオドール・オーピッツ、そして19世紀の教育学者、カール・シュミット(1819-1864)等の同時代の思想家の伝記的事実を含めた思想が解明されねばならない。純粋批判の哲学の同時代的受容の内容がより精密になるであろう。彼らの伝記、そして純粋批判の受容に関する研究は、本邦そしてドイツにおいてもほとんど解明されていない。

 

  1. 20世紀の公共交通に関する研究

 大衆社会は19世紀中葉から20世紀後半にかけてより進展した。もはや、社会総体の改革という思想は、その基盤を喪失した。社会総体ではなく、より限定された空間、つまり都市、地域社会の問題がより現実性を獲得した。国家の変革ではなく、都市の変革が後期近代の市民意識において形態化された。

19世紀と同様に20世紀後半においても、大衆化つまり個人の利益への志向性は衰えたわけではない。都市構造を規定している主要な構成要素である都市交通も、動力化された個人交通へと一元化されようとしていた。しかし、個人交通への一元化は都市中心街の機能と都市環境の限界を超えつつあった。交通の個人化への限界を阻止するために、路面電車ルネサンスが1980~90年代のドイツにおいて発生した。もちろん限定された都市だけであったが、個人的快適性ではなく、公共的利益を志向した現象が発生した。公共性に関する市民意識が、この時期に変容した。

 都市構造の変容に関する実証的研究と同時に、路面電車ルネサンスの意義を後期近代における公共性の転換として考察する。

| | コメント (0)

Meine gegenwärtigen und nächst zukünftigen Forschungstheme

 

Meine gegenwärtigen und nächst zukünftigen Forschungstheme

 

  1. Zwei verschiedene Forschungsthemen

  Zur Zeit beschäftige ich mich mit zwei verschiedenen Forschungsgegenstände, d.h. der Erforschung der politischen Philosophie im deutschen Vormärz und der Erforschung der ÖPNV in der späten Moderne. Diese beiden Forschungsprojekte würden zueinander den geraden Gegensatz aus dem Gesichtspunkt von der Durchbarkeit der Aufhebung der Moderne bilden. Der Erstere legt die sichere Möglichkeit fest, die Aufhebung der modernen Gesellschaft in andere Art Gesellschaft übernehmen, obwohl der Letztere die Unmöglichkeit der Verwirklichung dieser den jung Hegelianer bestimmenden Philosophie als gegebend annimmt. Der Letztere hätte keine Wollen, die Moderne als den gegenwärtigen Zeitgeist zu verändern. Er legt den beschränkteren Entwurf, die Öffentlichkeit des bürgerlichen Bewußtseins im kleineren, vom Stadtbürger leicht sichtbaren Zeitraum, d.h. einer Stadt zu verändern.

 Es ist gemeinsam diesen beiden Forschungstheme, dass die ideale Form der Öffentlichkeit in anderer Form als der gegenwärtigen Vorhandendensform vorausgesetzt geworden ist. Die junghelianischen Bewegungen im Vormärz hätten das Wollen, die bisherig gegebene Gestalt der Gesellschaft in die andere Gestalt zu verändern. Auf gleiche Weise versucht auch in der letzten Phase des 20. Jahrhunderts die Verkehrsphilosophie, die Straßenbahnrenaissance zu begründen, welche die Öffentlichkeit der Stadtverkehr in die andere Richtung als den bisherig beherrschende Rahmen verändern zu sucht. Bis zum Ereignisse dieser Renaissance hätten nur die große Sorge um den fließenden Lauf des motorisierten individuellen Verkehrs ohne den Stau beherrscht.

  Es ist meine Pflicht in der jetzigen Zeit, mich mit den zwei verschiedenen Forschungsgegenständen zugleich zu beschäftigen, um zwei Bücher zu veröffentlichen.

 

  1. Das erste Forschungsthema über die Bedeutung der Reinen Kritik Bruno Bauers in den junghegelianischen Bewegungen

  Die Philosophie der Reinen Kritik Bruno Bauers, mit welcher ich mich beschäftigt, würde in der Forschungsgeschichte nicht nur über die Hegelsche Linke, sondern auch über seine Philosophie während seines ganzes Lebens im Vergleich zu seiner früheren Philosophie, d.h. der Philosophie des Selbstbewußtseins. Seine letzte Philosophie war die typische, die Rahmenbedingung der junghegelianischen Bewegungen führende Philosophie, welche von ihm selbst im Jahre 1844 kritisiert wurde. Seitdem wandert er seine Philosophie von der Philosophie des Selbstbewußtseins in die Reine Philosophie zu. Der Grund ist deswegen, weil die Aufhebung der Moderne wegen die Verlagerung des Volks in die Masse in nächsten Zukunft unmöglich geworden sein sollte. Im nächsten Zeitalter würde nicht das Volk, sondern nur die Masse alle Instituten der Gesellschaft und das bürgerliche Bewußtsein beherrschen. Die privaten Interesse des Bürgers sind in dieser Massengesellschaft orientiert und die Absicht zum Interesse der Öffentlichkeit wird in dem bürgerlichen Bewußtsein ziemlich reduziert. Die Vorstellung der Aufhebung der Moderne war und ist der Masse ganz fremd.

 

Es geht bei der Feststellung der Reinen Kritik Bauers in der Forschungsgeschichte darum, nicht nur die eignen Artikel B. Bauers zu analysieren, sondern auch die philosophische der sogenannten Heiligen Familie um die Reinen Kritik zu untersuchen. Um diesen Forschungszweck zu erfüllen, sollten die kleinen Philosophen untersucht werden, welcher biologischen Fakten selbst noch nicht unbekannt sind. Zu diesen zeitgenössischen, noch nicht vollständig erforschten Philosophen gehören Hermann Jelinek, Theodor Opitz und dem Hallenser Pädagoge Karl Schmidt. Die Erklärung der Inhalt der Akzeptanzweise, wie sie die neue Philosophie in Ihre philosophische System einnahmen, würde zur Verdeutlichung der Reinen Kritik in der Forschungsgeschichte über die Hegelsche Linke beitragen, obwohl die biographischen Fakten selbst noch nicht geklärt würden.

 

  1. Das zweite Forschungsthema über die Bedeutung der Öffentlichkeit, besonders des ÖPNV in der letzten Phase des 20. Jahrhunderts.

  Auf der einer Seite entwickelte sich die Massengesellschaft mehr in der Mitte des 19. Jahrhunderts bis zum Ende des 20. Jahrhunderts. Das Subjekt dieser Gesellschaft beabsichtigt nicht mehr das öffentliche Interesse, sondern das private Interesse. Im urbanen Raum vermehren sich die Zahl des individuellen motorisierten Verkehr, sodass die Verkehrsgestalt in der Stadt in den Autoverkehr monopolisiert. 

Auf der anderen Seite ging schon der Begriff von der Aufhebung der Moderne die gesellschaftliche Basis in der späten Moderne verloren. Nicht mehr der Raum des Staates, sondern nur der beschränkte Raum der Stadt würde die sichtbare und realisierbare Gegenstand für das bürgerliche Bewußtsein geworden sein. Das Verkehrssystem innerhalb der Stadt hat die Kraft, die Eigenshcaft der Stadtsstruktur zu bestimmen.

 Die Zahl des MIV überschritt jedoch die Grenzen der verschiedenen Funktionen in der Stadt, besonders des Umweltschutz. In den 1980er und 1990er Jahren entstanden in einigen Städte sogenannten die Straßenbahnrenaissance, damit nicht nur das private Interesse für den persönliche Komfort, sondern auch das öffentliche Interesse in der Stadt angestrebt würden. In diesem Zeitpunkt verändert sich das bürgerliche Bewußtsein über die Öffentlichkeit innerhalb der Stadt.

 

|

追記 2017年8月15日 追悼 真崎不二彦(2015年1月逝去) 

20190427 再追記

 彼が死去して、4年半が経過した。いまだ、宿題は未完成のままである。そろそろ、宿題の提出を真剣に考えねばならない。泥船から脱出しなければならない。泥舟に汚染されれば、一蓮托生になる。泥と海水に塗れた醜い姿を想像したくない。

 

20170815 追記

 

 彼が逝去して、はや2年半年が経過した。この間、函館市は衰退に向けて走り出している。本日のニュースでも、イカ業者のために1億円を拠出するそうである。個別業者へ運転資金を供与しても、どうにもならない。来年も、輸入イカの価格が高騰すれば、まだ補助金をだすにちがいない。場当たり行政の典型である。衰退する町は、衰退する理由がある。地方自治体の行政機構の劣化もその原因の一つである。
 また、路面電車の延伸もまだ夢物語の段階にある。公共交通を整備することもほとんど実施されていない。冬の歩行者の歩行を困難にする政策、アーケードを駅前から撤去しただけである。また、信号の手前にあった路面電車の電停を、わざわざ信号の先に移動した。手前にあれば、信号の赤の場合、乗客はそこで降車できた。今では、信号の手前でとまり、信号の先の電停で停車することになった。公共交通を衰退させる政策を函館市役所は推進している。明治の先人のほうが、先見の明があった。官選市長のほうが、民選市長よりも見識があった。民主主義も函館では、函館市を衰退することを目的にしている。

 

また、昭和20年代までは、優秀な若者が、函館の市役所に入所していたのであろう。平成になって、優秀な若者は、札幌市役所で働くことを夢見ている。

 

  彼によって与えられた宿題は、まだ終わっていない。泥沼から這い出すことである。泥沼の居心地がよいのかもしれない。問題である。泥舟とは、泥で造られた船だそうである。あちこちに穴があき、浸水まじかであることは自明である。早く、宿題を済ませたいが、なかなかうまくいかない。個人の努力ではどうにもならない。
 さらに、彼には計り知れない義理を負っている。私のある企図を「飛んで火にいる夏の虫」であると指摘し、断念させた。後から考えると、そのとうりであった。この恩義に報いることは、もはやできない。彼は黄泉の国へと旅立ってしまったからだ。このような義理を返すことができない人が、増えている。彼らの多くが、すでに後期高齢者に属していた。日本人の平均寿命を超えていた。その順番を大きく変えることはできない。故真崎氏だけでない。多くの知人が帰らぬ人になった。人生の節目、節目で世話になった人は多い。その義理をどのように果たすべきか思案している。

 

 彼が存命であるころ、新聞に投稿していた。その習慣もほとんど途絶えた。この習慣は、新聞の公正性と大衆の理解力を前提にしている。しかし、この二つの前提が私の心において崩壊していている。他の職業とは区別された新聞記者に対する尊敬の念は、もはやない。大学教授と同様に、大衆の一員でしかない。彼らを特別の社会的存在としてみなさない。もちろん、優秀な新聞記者も数多い。それは、大学教授、大学事務官そして大学清掃労働者の中にも、優秀な人間が数多いことと同様である。
  

 

 

 

20150518 追悼 真崎不二彦 函館護国神社宮司――函館における批判精神とイギリス製高級煙草、ロスマンズ・ロイヤルの消滅

 

  真崎不二彦 函館護国神社宮司が2015年1月8日他界した。函館の名家に属する宗教人が、この世を去った。故人は、1932年年3月15日に函館市において生まれた。父、宗次も同神社宮司であり、同職を世襲した。日本の宗教界において、明治以降、世襲は一般的である。
 彼は、函館に生まれて以降、21歳で北海道学芸大学(現:北海道教育大学)を卒業するまでこの地で育つ。その後、函館を離れ、昭和33年に二松學舍大学を卒業する。29歳まで、学業に専念する。当時としては、異例である。大学進学率が20%であった時代に、二つの大学を卒業している。大学そして大学院に進学することは、後期近代において稀ではない。しかし、戦後の混乱期に、大正教養主義の理想像に従った青年時代をおくった。彼は20代をほぼ無職として過ごしていた。高等遊民としての資質を育んでいた。文化的素養があった。その間、教職、神職に関する資格を取得しているが、それは彼の余技に属していたのかもしれない。遺影は、神職としての厳かな礼装ではなく、ダンディに上着をはおり、紫煙をたなびかせる姿であった。
 昭和34年に靖国神社に奉職し、37年に同職を退職し、同年に函館護国神社禰宜となる。言わば、同神社のNr. 2 の地位を取得する。しかし、昭和42年以降、東京都において教職を取得する。以後、18年間東京都において、神職としてではなく、教員として過ごす。通常、神職と教職を兼職する場合、地元の学校における教職を選択するのが通常である。なぜ、彼は5年ほど、禰宜として函館に在住しながら、その後居住地を函館ではなく、東京を選択した。その理由は何か。彼のダンディズムの源泉はそこにあろう。東京都の教員として、20年近く生活する。住居は下町であった。不破哲三元共産党委員長の住居も近く、一緒に下町の祭に参加した。共産党の元委員長の御息女も彼の教え子であった。彼の疾風怒濤の時代である。
  この間、能楽堂に日参し、能楽評論に深い造詣を示す。それは『泥舟』等に結実している。しかし、昭和59年に父に代わり、函館護国神社宮司に就任する。すでに、50歳を超えていた。彼は、50歳を超えるまで、東京において教員生活に18年従事している。その間、禰宜として神官職を継続しているが、その生活のほとんどを東京の下町で過ごしている。函館に帰郷するのは、例大祭、正月等の行事のときだけであった。
 帰郷後、函館の政治、社会を批評する記事をいくつかの新聞に寄稿している。北海道新聞の函館版夕刊「みなみ風」の常連であった。また、季刊『日刊政経情報』にほぼ毎号寄稿している。この雑誌には、函館の政界、官界、財界の著名人が寄稿している。国会議員、市長等の政界著名人を除けば、ほぼ函館の実質的な社会的指導者が寄稿している。彼は、宗教界を代表するかたちで、ほぼ毎号寄稿している。この雑誌の寄稿者以外にも、寄稿すべき人間は多かった。財界人のなかでも、エッセイを不得手するものも多かったと思われる。彼の文化的素養からすれば、原稿用紙数枚のエッセイはいとも簡単であった。
  ただ、この機関誌における多くの論稿は、函館の一面をまさに賛美するか、挨拶文の領域をでていない。日常用語を用いれば、ヨイショ論稿が多い。地方都市の実質上の支配層に属する人は、その都市を批判しない。あるいは、その根源的欠陥を明白にしない。
  東京での20年以上の文化的生活に基づき、彼は半島としての函館を批判していった。そのなかでも、函館の経済人に対する批判は、函館の支配層の癇に障るものもあった。「函館の経済人はケチ」、「植民都市としての函館」、「高利貸しとしての函館支配層」という概念は、函館の本質を表現している。しかし、そのことに触れるのは、ほぼタブーであった。現に、昭和10年代、20年代に上野以北で最も繁栄した町が、函館であった。仙台も札幌も眼中に入らなった。しかし、平成に入り、その繁栄は旧市街の一角、所謂西部地区を除けば、ほとんど嘘のようである。なぜ、函館がこのように衰退したのか。彼には、すべて見えていたのであろう。
  駅前商店街は歯抜け状態であり、工藤現市長は商店街のアーケードを撤去する方針だそうである。駅前商店街の衰退はより加速される。アーケードがあることによって、雪の降る冬場でも、市民が商店街を歩くことができる。それがなくなれば、冬に商店街に足を運ぶことはないであろう。自滅する街、函館の本質を明白にしている。
 また、彼の母校は北海道教育大学函館校である。この分校は、かつて国立新函館大学構想を推進した。札幌本校の許可などとっていない。当時の分校主事を筆頭に、函館選出の国会議員、阿部文男を仲介にして、独自に文部省と折衝した。他の札幌、旭川等の分校の迷惑など顧みないこのような態度は、唯我独尊と言われても仕方がない。今でも、札幌から函館に赴任してきた役人を、奥地から来たと揶揄する土地柄である。函館一番、函館さえ良ければそれでよいという風潮が渡島半島にはある。もちろん、このような態度が許されたのは、昭和20年代まである。阿部代議士が逮捕され、この構想は頓挫した。それ以前に、文部省も相手にしていなかった。彼は、この構想を心底馬鹿にしていた。
しかし、10数年前の記憶は、当時の村山学長以下の役員の脳裏から消えていなかった。北海道教育大学函館校は、平成18年度の全学改革において、教養新課程を集約した人間地域科学課程を創設した。5つの分校のうち、どれか一つの分校がそれを引き受けねばならなかった。その代償として小学校教員養成を放棄させられた。20数年前の独立運動を知る人間からすれば、函館の自業自得である。
  そして、平成24年、函館校が国際地域学部を創設する際にも、小学校教員養成機能にこだわり、自ら学部化を阻止した。信じられない自滅行為である。文部科学省は、学部化の進展か、小学校教員養成機能の残存か、という二者選択肢を提示した。もちろん、札幌本部は前者を選択した。しかし、主に小学校教員から構成される函館分校の0B会、夕陽会は後者を選択し、学部化阻止に動いた。当時の副学長以下執行部はこの動きを下支えした。この動きも心底、小馬鹿にしていた。東京に叛旗を翻す力は、植民都市にはないと。
 彼は、母校の教員養成機能の現状自体に批判的であった。その札幌統合を主張していた。夕陽会の役員もしていたにもかかわらず、そのような主張をしていた。さぞ、OB会でも煙たがられたと想像している。
 また、北海道教育大学の教授も小馬鹿にしていた。所詮、東京では通用しないボンクラ学者の集まりであると。その一員である私にも、面と向かってそのように放言していた。早く、東京に帰れ。ネズミでさえ、沈みゆく船から逃げ出す。頭の良い人間のいる場所ではないと、と会うごとに説教された。頭の痛い事柄である。
 煙草は、ロスマンズ・ロイヤルを愛飲していた。この煙草の国内販売が廃止されたとき、彼は100カートンほどを購入して自宅で保存していた。空調設備と空気清浄機付の小部屋で保存されていた。彼が死亡したときも、まだダンボールには数十カートンが残存していたはずである。
 その煙草の行方は知らない。その煙草を喫する人もいない。函館からこのイギリス製高級たばこを愛飲し、支配層のなかで函館を批判的に考察する人間がいなくなった。函館の自滅がより促進されるであろう。函館の批判精神は、ロスマンズ・ロイヤルと共にはるか彼方に消え去った。

 

 ただ、私の切なる、そして叶わなった夢は、彼が函館の自滅過程をより検証する機会を持つことであった。その小さな夢も高級煙草の紫煙とともに消え去った。

| | コメント (0)

密告(チンコロ、タレコミ)に対する儒教の論理と人間の共同性――業田良家「シャルルの男」『独裁君』

20140525 密告(チンコロ、タレコミ)に対する儒教の論理と人間の共同性――業田良家「シャルルの男」『独裁君』

 

20190510 追記

 

1、50年前の西日本ではチンコロという日常用語を、一般人でもよく使用していた。しかし、タレコミに比べて、東日本そして21世紀ではかなり廃れているようである。タレコミと併記する。

 

2、 密告を奨励する組織がある。組織として、密告を奨励することは、内部で問題を解決する能力がない。北朝鮮と同様に、日本国政府がセクハラ、パワハラを組織上部に密告を奨励している。しかし、これを奨励するする組織において人間的交流は期待できない。できるかぎり、かかわらないことを肝に銘じておこう。この組織は、北朝鮮の社会制度と同じである。そして、同僚、上司を陥れようとすれば、この制度を利用して虚偽の事態を、組織上部に密告すればよい。

 そのような組織をよくしようとはおもわない。Scheiße egal, dieses Institut! Fleihen Sie sofort aus ihm ! 

 

 

 

 

 

 

 

Photo_4

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(クリックすると、画像が拡大されます)。

 

 

『論語』(子路第13320)に以下のような言葉がある。

 

 

 

 

 

 

 

「葉公語孔子曰。吾党有直躬者。其父攘羊。而子證之。孔子曰。吾党之直者異於是。父為子隠。子為父隠す。直在其中矣」。(葉公、孔子に語りて曰わく、吾が党に直躬なる者あり。其の父、羊を攘む。而して子、これを証せり。孔子曰わく、吾が党の直き者は是に異なり。父は子の為めに隠し、子は父の為に隠す。直きこと其の中にあり)。

 

 

 

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波書店、2000年、214215頁。

 

 

 

 

 

 

 

(田村による)意訳

 

 

 

「父が羊を盗んだ。子は父の行為を政治的支配者に密告した。政治的支配者は、その行為を正直であるとした。それに対して、孔子は、父子は相互に匿うべきである。それが正直である。人間的である」。

 

 

 

 

 

 

 

 儒教は、第一次集団的関係たとえば家族及び氏族に基づいて、そして社会総体に至るという同心円的な位階制構造を有している。家族主義的国家観も儒教に基づいているとされている。しかし、その基本は、人間が直接的関係を結べる家族あるいは親族間の関係である。人間そして動物が結ぶ直接的関係が、社会構造の基本になる。問題は、社会的規範と家族的規範が矛盾する場合である。儒教の論理は、前者に対する後者の優位にある。

 

 

 

 北朝鮮つまり朝鮮民主主義人民共和国が儒教国家であるという説がある。しかし、それは当てはまらない。儒教の論理、人間の直接的関係を優先すべきであるという論理は、崩壊しているのだろう。すべては金正日、金正恩同志のためという論理構造において、家族関係よりも政治的支配層の意思が優先されている。「金正日様、あなたなしでは生きてゆけない」という歌は、著名である。ここでは、金正日が父親、あるいは配偶者に擬されている。

 

 

 

 金正日と現実的父親の意思が同一であれば、問題ない。しかし、両者の意思が分離するとき、子供は金正日つまり政治的な父親の意思を優先する。この矛盾を業田は示した。ある共同体の論理よりもより上位の共同体が優先されるとき、密告(チンコロ、タレコミ)が奨励される。密告(チンコロ、タレコミ)が奨励される社会は、もはや人間的社会とは言えない。少なくとも、密告(チンコロ、タレコミ)を優先する社会は、共同体とは言えない。密告(チンコロ、タレコミ)と共同性とは、相容れない。人間はより直接的関係を重視すべきである。業田良家はこの意味を明確にした。

 

 

 

 

 

 

 

業田良家「シャルルの男」業田良家『独裁君』小学館、2008年、114115頁。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| | コメント (0)

« 2019年1月 | トップページ | 2019年5月 »