残像ではなく、残鳴――ストレスの原因
残像ではなく、残鳴――ストレスの原因
残像という言葉は、頻繁に聞かれる。実際の視覚情報が、眼に焼き付いていることを指している。眼で実際に見た光景が、いつまでも残っていることを意味している。たとえば、野球解説者が次のように使用する。内角球を胸元に投げれば、その残像は眼に焼き付いている。だから、外角球の軌道に対する意識が混濁すると。
しかし、感覚情報は視覚情報だけではない。聴覚情報もある。耳から入った情報が、数時間、ひどいときには数日、もっと深刻な場合には数週間継続することもある。恐怖の声が聴覚に残っている。ここでは、さしあたりそれを残鳴と呼んでみよう。学術用語でイヤーワームというそうである。右の側頭葉の機能に問題があるようである。しかし、その過程は十分に把握されていないし、その治療薬もない。
ある安価なホテルに宿泊した朝のことである。まだ、布団のなかでまどろんでいるときであった。男女が罵り合っていた声が、ベニヤ板のように薄いコンクリートで仕切られた隣の部屋から、聞こえてきた。この男女は、私の遠い親族であった。「ぶち、殺すぞ」、「死ね」、「最低」という殴り合いの声が、聞こえてきた。
まだ、早朝である。私の聴覚は鋭敏である。その声で目が覚めた。ただ、まだ布団から起きる時刻でなかった。眼をまだつぶったままであった。したがって、耳だけが鋭敏になり、その音を記憶していた。数分あるいは数十分その声を聴いていた。私がしていたことは、その声を聞くことだけであった。まさに、その行為に集中していた。
それは、聴覚情報だけではなかった。その男女の喧嘩を仲裁すべきどうか、考えていた。仲裁する場合には、こちらにも被害がくることは、想定されていた。彼らはいわゆる体育会系であり、大声で殴り合う大柄な夫婦である。パンチが気弱な大学教授を直撃する場合はよくある。
また、彼らは社会的には成功者である。若いころ、世話になった。その記憶も残存している。どうしようかと考えていた。しかし、眠気に勝てず、そのまままた就寝した。しかし、そのときの音が今でも耳に記憶されている。(個人情報を少し加工している)。
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