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ベルリン旅行者(六)ーー完全性への諦念ーー食事とドイツ語

  20170808

  外国にいると、私が日本人であるという意識を持たざるえない。その国の風習、しきたり、そして言語を未収得であるからだ。レストランで食事をしていても、その意識を持たざるをえない。多くの東洋人は、パンと、肉、チーズ等を別々に食べている。しかし、西欧人、そして東欧人もパンの上に、それをのせて食べている。食事の形態からも、東洋人であることがわかる。
  もっとも、西欧人のなかでもこの風習を覆す人がいることも事実ではある。あるフランス人は、そもそもパンを食していなった。一つのさらに、スクランブルエッグ、ハム(薄い生ハム)、チーズ、そしてバターを入れる。肉と卵と乳製品だけの食事である。しかも、たっぷりとバターを5-6切れほどを入れている。エネルギーたっぷりの食事である。精力満点であろう。このような中年フランス人の夜の生活を想像して、楽しくなった。
  人種だけではなく、年齢の問題もある。若い時代であれば、100グラム、200グラムの肉を食べることも問題なかった。しかし、還暦を迎えようとする場合には、無理である。その場合、レストランで、スープと野菜サラダだけでもよいであろう。とくに、ドイツのサラダは、非常に分量がある。それだけも十分である。付け合わせのサラダではない。別注文のサラダであれば、十分である。また、肉が少しくいたければ、屋台のハンバーガーで十分である。パンも若いときには、黒ライ麦パンを常食としていた。しかし、歯が丈夫でなくなった今では、クロワッサンのほうが食べやすい。黒パンの端をナイフできり、端をすてることもできるが、少し面倒である。クロワッサンの上に、チーズと生ハムをのせると、至福の時間を享受することができる。小さな焼ソーセイジも美味である。
 また、ドイツ語の発音もどこかおかしい。発音も完璧であろうと、イントネーションもどこかおかしい。また、構文自体も文法的には完璧であったとしても、どこかドイツ語として変である。
  ドイツに住むドイツ人と同じドイツ語を話す必要は、ない。所詮、数週間滞在する旅行者である。その限定で、ドイツ語をしゃべればよい。極東から人間として、外国語をできる範囲で話し、そして書ければよい。そのような諦念をもつことも重要であろう。ドイツ語研究者、通常はドイツ文学研究者がドイツ語をどれだけ話せるかも疑問である。文法書に忠実である必要はない。そもそも、大学教育や学問的世界の合理性、完璧性を日常世界において実現できると考える方がどうかしている。そのような精密性を生活世界に求めるとき、人は発狂せざるをえない。無菌状態に関する議論も、そのような精神状況から生じているのであろう。ドイツ人は、図書館では靴下のまま歩きまわる。鉛筆、ノートを床に落としても、塵紙で拭く人はいない。また、駅の列車の通路に座り込んでいる人も多々いる。それでも、彼らが病気になったという話を聞かない。

  ただし、それも限度がある。ベルリンの長距離電車は、「中央駅」、「東駅」そして「南十字駅」から出発するか、それを経由している。タクシーで行き先を告げたとき、「南」と言ったつもりであったが、「西」と言ってしまった。数分後に気が付いたが、かなり時間と金銭を消費してしまった。また、「9月」と言ったつもりが、「11月」と発音していたこともあった。ハレ中央駅で、2015年9月25日に、翌日のベルリン行きの切符を買うときであった。すぐ気が付いたが、大笑いされた。こちらは、緊張していて笑うことすらできなかった。時間、方角、数字は、原初的言語に属している。それゆえ、学術文書にはほとんどでてこない。しかし、日常用語では頻出単語である。

  私自身が老いている。加齢とともに、単語がでてこない。ドイツ語だけではなく、母国語ですらそうである。況や、外国語においておや。苦笑するしかない。苦笑で済めばよいが、金がかかっている場合には、大変なことになる。どうしようもないこともある。まさに、孤独というよりも、途方に暮れることが多い。

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