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追記 2017年8月15日 追悼 真崎不二彦(2015年1月逝去) 

20170815

 彼が逝去して、はや2年半年が経過した。この間、函館市は衰退に向けて走り出している。本日のニュースでも、イカ業者のために1億円を拠出するそうである。個別業者へ運転資金を供与しても、どうにもならない。来年も、輸入イカの価格が高騰すれば、まだ補助金をだすにちがいない。場当たり行政の典型である。衰退する町は、衰退する理由がある。地方自治体の行政機構の劣化もその原因の一つである。
  また、路面電車の延伸もまだ夢物語の段階にある。公共交通を整備することもほとんど実施されていない。冬の歩行者の歩行を困難にする政策、アーケードを駅前から撤去しただけである。明治の先人のほうが、先見の明があった。また、昭和20年代までは、優秀な若者が、函館の市役所に入所していたのであろう。平成になって、優秀な若者は、札幌市役所で働くことを夢見ている。

  彼によって与えられた宿題は、まだ終わっていない。泥沼から這い出すことである。泥沼の居心地がよいのかもしれない。問題である。早く、宿題を済ませたいが、なかなかうまくいかない。個人の努力ではどうにもならない。
さらに、彼には計り知れない義理を負っている。この恩義に報いることは、もはやできない。彼は黄泉の国へと旅立ってしまったからだ。このような義理を返すことができない人が、増えている。彼らの多くが、すでに後期高齢者に属していた。日本人の平均寿命を超えていた。その順番を大きく変えることはできない。故真崎氏だけでない。多くの知人が帰らぬ人になった。人生の節目、節目で世話になった人は多い。その義理をどのように果たすべきか思案している。

 彼が存命であるころ、新聞に投稿していた。
  

20150518 追悼 真崎不二彦 函館護国神社宮司――函館における批判精神とイギリス製高級煙草、ロスマンズ・ロイヤルの消滅

  真崎不二彦 函館護国神社宮司が2015年1月8日他界した。函館の名家に属する宗教人が、この世を去った。故人は、昭和7年3月15日に函館市において生まれた。父、宗次も同神社宮司であり、同職を世襲した。日本の宗教界において、明治以降世襲は一般的である。
 彼は、函館に生まれて以降、21歳で北海道学芸大学(現:北海道教育大学)を卒業するまでこの地で育つ。その後、函館を離れ、昭和33年に二松學舍大学を卒業する。29歳まで、学業に専念する。当時としては、異例である。大学進学率が20%であった時代に、二つの大学を卒業している。大学そして大学院に進学することは、後期近代において稀ではない。しかし、戦後の混乱期に、大正教養主義の理想像に従った青年時代をおくった。彼は20代をほぼ無職として過ごしていた。高等遊民としての資質を育んでいた。文化的素養があった。その間、教職、神職に関する資格を取得しているが、それは彼の余技に属していたのかもしれない。遺影は、神職としての厳かな礼装ではなく、ダンディに上着をはおり、紫煙をたなびかせる姿であった。
 昭和34年に靖国神社に奉職し、37年に同職を退職し、同年に函館護国神社禰宜となる。言わば、同神社のNr. 2 の地位を取得する。しかし、昭和42年以降、東京都において教職を取得する。以後、18年間東京都において、神職としてではなく、教員として過ごす。通常、神職と教職を兼職する場合、地元の学校における教職を選択するのが通常である。なぜ、彼は5年ほど、禰宜として函館に在住しながら、その後居住地を函館ではなく、東京を選択した。その理由は何か。彼のダンディズムの源泉はそこにあろう。東京都の教員として、20年近く生活する。住居は下町であった。不破哲三元共産党委員長の住居も近く、一緒に下町の祭に参加した。共産党の元委員長の御息女も彼の教え子であった。彼の疾風怒濤の時代である。
  この間、能楽堂に日参し、能楽評論に深い造詣を示す。それは『泥舟』等に結実している。しかし、昭和59年に父に代わり、函館護国神社宮司に就任する。すでに、50歳を超えていた。彼は、50歳を超えるまで、東京において教員生活に18年従事している。その間、禰宜として神官職を継続しているが、その生活のほとんどを東京の下町で過ごしている。函館に帰郷するのは、例大祭、正月等の行事のときだけであった。
 帰郷後、函館の政治、社会を批評する記事をいくつかの新聞に寄稿している。北海道新聞の函館版夕刊「みなみ風」の常連であった。また、季刊『日刊政経情報』にほぼ毎号寄稿している。この雑誌には、函館の政界、官界、財界の著名人が寄稿している。国会議員、市長等の政界著名人を除けば、ほぼ函館の実質的な社会的指導者が寄稿している。彼は、宗教界を代表するかたちで、ほぼ毎号寄稿している。この雑誌の寄稿者以外にも、寄稿すべき人間は多かった。財界人のなかでも、エッセイを不得手するものも多かったと思われる。彼の文化的素養からすれば、原稿用紙数枚のエッセイはいとも簡単であった。
  ただ、この機関誌における多くの論稿は、函館の一面をまさに賛美するか、挨拶文の領域をでていない。日常用語をもちいれば、「ヨイショ」論稿が多い。地方都市の実質上の支配層に属する人は、その都市を批判しない。あるいは、その根源的欠陥を明白にしない。
  東京での20年以上の文化的生活に基づき、彼は半島としての函館を批判していった。そのなかでも、函館の経済人に対する批判は、函館の支配層の癇に障るものもあった。「函館の経済人はケチ」、「植民都市としての函館」、「高利貸しとしての函館支配層」という概念は、函館の本質を表現している。しかし、そのことに触れるのは、ほぼタブーであった。現に、昭和10年代、20年代に上野以北で最も繁栄した町が、函館であった。仙台も札幌も眼中に入らなった。しかし、平成に入り、その繁栄は旧市街の一角、所謂西部地区を除けば、ほとんど嘘のようである。なぜ、函館がこのように衰退したのか。彼には、すべて見えていたのであろう。
  駅前商店街は歯抜け状態であり、工藤現市長は商店街のアーケードを撤去する方針だそうである。駅前商店街の衰退はより加速される。アーケードがあることによって、雪の降る冬場でも、市民が商店街を歩くことができる。それがなくなれば、冬に商店街に足を運ぶことはないであろう。自滅する街、函館の本質を明白にしている。
また、彼の母校は北海道教育大学函館校である。この分校は、かつて新函館大学構想を推進した。札幌本校の許可などとっていない。当時の分校主事を筆頭に、函館選出の国会議員、阿部文男を仲介にして、独自に文部省と折衝した。他の札幌、旭川等の分校の迷惑など顧みないこのような態度は、唯我独尊と言われても仕方がない。今でも、札幌から函館に赴任してきた役人を、奥地から来たと揶揄する土地柄である。函館一番、函館さえ良ければそれでよいという風潮が渡島半島にはある。もちろん、このような態度が許されたのは、昭和20年代まである。阿部代議士が逮捕され、この構想は頓挫した。それ以前に、文部省も相手にしていなかった。彼は、この構想を心底馬鹿にしていた。
しかし、10数年前の記憶は、当時の村山学長以下の役員の脳裏から消えていなかった。北海道教育大学函館校は、平成18年度の全学改革において、教養新課程を集約した人間地域科学課程を創設した。5つの分校のうち、どれか一つの分校がそれを引き受けねばならなかった。その代償として小学校教員養成を放棄させられた。20数年前の独立運動を知る人間からすれば、函館の自業自得である。
  そして、平成24年、函館校が国際地域学部を創設する際にも、小学校教員養成機能にこだわり、自ら学部化を阻止した。信じられない自滅行為である。文部科学省は、学部化の進展か、小学校教員養成機能の残存か、という二者選択肢を提示した。もちろん、札幌本部は前者を選択した。しかし、主に小学校教員から構成される函館分校の0B会、夕陽会は後者を選択し、学部化阻止に動いた。当時の副学長以下執行部はこの動きを下支えした。この動きも心底、小馬鹿にしていた。東京に叛旗を翻す力は、植民都市にはないと。
 彼は、母校の教員養成機能の現状自体に批判的であった。その札幌統合を主張していた。夕陽会の役員もしていたにもかかわらず、そのような主張をしていた。さぞ、OB会でも煙たがられたと想像している。
 また、北海道教育大学の教授も小馬鹿にしていた。所詮、東京では通用しないボンクラ学者の集まりであると。その一員である私にも、面と向かってそのように放言していた。早く、東京に帰れ。ネズミでさえ、沈みゆく船から逃げ出す。頭の良い人間のいる場所ではないと、と会うごとに説教された。頭の痛い事柄である。
 煙草は、ロスマンズ・ロイヤルを愛飲していた。この煙草の国内販売が廃止されたとき、彼は100カートンほどを購入して自宅で保存していた。空調設備と空気清浄機付の小部屋で保存されていた。彼が死亡したときも、まだダンボールには数十カートンが残存していたはずである。
 その煙草の行方は知らない。その煙草を喫する人もいない。函館からこのイギリス製高級たばこを愛飲し、支配層のなかで函館を批判的に考察する人間がいなくなった。函館の自滅がより促進されるであろう。函館の批判精神は、ロスマンズ・ロイヤルと共にはるか彼方に消え去った。

 ただ、私の切なる、そして叶わなった夢は、彼が函館の自滅過程をより検証する機会を持つことであった。その小さな夢も高級煙草の紫煙とともに消え去った。

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ベルリン旅行者(11)ーー生活習慣の差異

ベルリンに関する記事をまとめるため、8月11日に変更する。

20171001

 2017年9月中旬からベルリンにいた。滞在したホテルは、地下鉄の駅から、20-30分の距離があった。公共交通機関の使用困難性からか、異様に安い値段であった。現在のユーロ高の現状でも、6000円前後であった。100円で計算すれば、1泊4000円代であった。もっとも、私は主要駅に通じるバス路線を知っていたので、案外便利であることを承知していた。
 このホテルは、最近建設されたにもかかわらず、鍵はドイツそして欧州の伝統的な形式を採用していた。通常のホテルは、鍵に電子情報を入力して使用する鍵形式を採用している。この鍵の開け方をわからず、ホテル従業員をわづらわせた。欧州の鍵は、開けるときに、右手で時計回りに2回まわして、最後に左手で引きながら、すこし捻じるようにあけねばならない。そのコツを忘れていた。日本の鍵は、開けるときに時計と反対回りに1回ほど回すだけである。このように、日常空間の間で、ドイツと日本では差異がある。この差異は、若者であれば、簡単に克服でるのであろうが、還暦の老人には、かなり困難であった。
 このような差異を前にして、半年ほどドイツに滞在する計画を持っている。どのようにするのか、楽しみであると同時に、恐怖でもある。聞いた話では、日本の有名な大学教授が、1年ほど大学行政の功労によってドイツに滞在していたようである。しかし、彼は順応できず、半裸で公道で奇声を発していたようである。友達も存在するはずもない。このような大学教授の話をきいていると、ドイツに滞在することも考えようかもしれない。

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ベルリン旅行者(十)ーー公共交通つまり鉄道、歩行そして飛行機

 20170810

  日本の鉄道、とりわけ新幹線は気候変動を別にすれば、ほとんど遅延することはない。しかし、欧州の特急列車は遅延することがままある。欧州の優等列車の多くが、国境をこえて運行されているためでもある。しばしば利用するローストック発ベルリン経由、スイスバーゼル行きの列車などは、短いほうかもしれない。
  10分、20分遅れなどアナウンスを聞いてから、駅のホームを移動すればよいであろう。とりわけ、ライプチヒ中央駅などの行き止まり式の場合、ホームがころころ変化する。大慌てに行く必要はない。乗り継ぎの列車に間に合わないことはない。待ってくれている。しかも、ドイツ鉄道に遅延の原因がある場合、たとえ乗継列車に乗れなくても、切符は有効である。問題は割引チケットの場合である。できれば、割引料金ではなく正規料金(ノルマールプライス)のほうが、自己都合で遅れても、後続列車に乗車できる。ちなみに、鉄道料金は2日前に購入するとかなり安くなる。バーゼル・ベルリン間の一等車の正規料金は、250E、二等車は150Eであるが、2日前では、150E~160Eと二等車並みの料金になる。備忘録として記しておきたい。一等車では、様々なサービスがある。食事も食堂車に行かなくとも座席でとることができる。新聞も読み放題である。トイレ等も比較的綺麗である。

  2015年9月27日にハレからライプチヒ経由で、ベルリンに行こうとした場合、いそいで乗継特急列車にのろうとして、すでに発車していた列車に乗ろうとした。もちろん、駅員に警告された。「危ない」。当然であろう。乗継列車がすぐに発車することはない。この乗継は、ドイツ鉄道の正規の情報ーーつまり切符を購入するときに、切符販売員が指示した切符に基づいている。堂々とすべきであった。

また、ドイツでは、動力化されていない個人交通、つまり徒歩、自転車走行への配慮が行き届いている。自転車道が整備されている。この自転車道は、歩道を削って設置された場合が多い。歩道と自転車道は近接している。ボーっとしていると、かなり危険である。40キロ前後で走行している場合もおおい。

  最後に、飛行機搭乗に関して述べてみよう。搭乗手続きは航空会社、ドイツでは主としてルフトハンザが代行している場合が多い。当然のことながら、エコノミーとビジネスは分離されている。しかし、ドイツ警察によって運営されいる手荷物検査の終了時間が迫ると、それも無視される。しかし、多くの日本人はエコノミーの窓口に並んでいる。しかし、東欧人等はそれを無視して手荷物検査を受ける。馬鹿正直に並んだ日本人が、手荷物検査に間に合わなかった。クレイムを言っていたが、後の祭りであろう。ドイツ警察は、乗客の不便等には関心がない。荷物検査だけを担当している。

  手荷物検査では、日本とことなり電子辞書もコンピューター扱いされる。鞄からそれを抜き出さねばならない。それを忘れて、ひどい目にあった。しかも、ドイツ語で皮肉をいったので、危うく別室に連行されそうになった。素晴らしい仕事ですね、と言った記憶がある。明らかに皮肉であり、検査官が激怒した。ドイツ語がよくわからないといって、難を逃れたが、冷や汗ものであった。つくづく、ドイツの治安維持は、日本と異なり厳格にならざるを得ないとおもった。移民政策の副産物である。


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ベルリン旅行者(九)ーー関係性と街の変化ーー原点は消滅している

20170809、20181109

  ベルリンの街を歩く。この街を30年ほど歩いている。もっとも、1989年から2004年までの激動の15年間、この町を歩いたことはない。私が非常勤講師であり、日々の生活に追われていた。海外旅行をする余裕すら、なかった。
  2004年から今日までの十数年間は定職に就いたので、ほぼ毎年、2回ほどこの街を歩いている夏休みと春休みの2回は、ベルリンを訪問している。街自体が変化している。1989年のベルリンの壁崩壊という巨大な世界史的変換を別にしても、日々変化している。
 数年間贔屓にしていたレストランが、別の店に代わっていたこともあった。ヴィーナーシュニツェル(とんかつに似た食べ物)のうまい店があり、1週間に一度はは行っていた。小太りの中年の女性が、注文をとりに来た。愛想があり、冗談も通じる下町のおばさんであった。彼女と冗談を言うことは、図書館で沈黙の一日をすごした外国人研究にとって、ひとときの潤いであった。
 しかし、2017年の春行ったときには、もはやなかった。西ベルリンの旧市街にあるカント通りから左折した住宅街にこの店は位置していた。私が贔屓する店の条件は、安価でかつ静かな空間の存在である。この飲食店も喧噪とは無縁の店であった。もっとも、その評価が消滅することを意味している。広い店の賃料は高いにもかかわらず、客数が少ない。このような飲食店が閉店の運命にあることは、経営学の素人でも理解できよう。

  また、店自体は残っていたが、取り扱い商品が無くなっていたこともあった。ECCOというブランドの靴を愛用していたが、ベルリンのその店では、もはや取り扱っていなかった。最近のことである。DDR(東独)時代の商品はもはや購入不可能であることは、自分では納得している。30年前の商品がないのは、当然である。しかし、数か月前まで陳列しており、毎年購入していた商品が販売停止になることは、想定していなかった。同様なことが文具にも生じている。エリーゼというブランドのボールペンを愛用しているが、その替え芯を購入しようとした。しかし、そもそもそのブランドを生産していた会社自体が消滅したようである。ネットでは、その替え芯を含めて、数万円の値段がついてる。喜ぶべきか、悲しむべきかわからない。ちなみに、「オンライン」というブランドも使いやすいが、やはりラミーの方が日本でも購入しやすく、文具はラミーをほぼ独占的に使用している。
  さらに、自分自身の変化、あるいは為替関係の変化による変化、つまり主体の側の変化もある。旧西ベルリンには、大都会という老舗の日本料理店がある。そこでは、最低30ユーロほどを使用しなけばならない。このごろは、ユーロ高つまりバカノミックスによる円安によって、4-5千円の日本円を使わざるをえなくなった。しかも、貸し切りの場合もあり、使いづらい。今後は贔屓にできなくなった。むしろ、寿司バーがベルリンに多く出店している。そこの方が、安価で満腹になる。

  また、人間そのものが死んでしまった場合もある。1960年代に渡独し、以後半世紀にわたってベルリンに居住した知人が、この春死亡した。彼は、日本人社会の主という風情があった。年に数回、彼の自宅を訪問することは、ベルリン訪問のひそかな楽しみであった。いつも、焼きソウセイジを御馳走になった。味噌汁と炊いたご飯は、それだけで御馳走であった。2017年3月に私が渡独した時には、元気であったが、数か月後に、死亡した。この夏にベルリンに行った時には、もはや彼の住居はないであろう。

 思想史としてマルクスの思想を討究することも、後期近代においてほとんど無意味であろう。マルクスの『ドイデ』の一節を討究することは、共産主義論とは全く関係がない。マルクスは19世紀の政治状況に拘束されている。その状況がまったく変化していることを無視して、マルクスの思想を現代に適用することは無意味であろう。よく原点に帰れといわれる。しかし、原点と現時点とは関係がない。

  さらに、私自身も変化することを想定していない。私もまた数年後には、今の職場から追放される。しかし、実感はない。永遠の職場のような気がする。しかし、数年後に確実に定年退職する。その状況を先取りしようとと思う。日本の労働組合は、企業内組合であり、退職後、組合員はこの組合から追放される。また、企業は親睦組織を持っている。・・・会という親睦組織を持っている。冠婚葬祭にあたって、金一封が贈呈される。また、年度末には、送別会が実施される。市内の老舗レストランで集合写真をとり、会食する。これは写真を撮るために、継続してみよう。
  

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