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討論:世界変革

世界を人間的理性にしたがって再構成するという思想がある。なぜこのような思想が生じるのか、批判的に再検討する。226事件等を題材して討論してください。

1、締め切りは5月21日24時である。
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 まず、なぜ2.26事件が起きたのかを記述せねばなるまい。この事件を起こしたのは、日本の陸軍の一部の人間である。彼らは、「天皇が統治する世の中になれば、今の日本で起こっている問題が解決される」と信じていた、いわゆる皇道派である。1936年の2月26日未明に、彼らは日本の政治や情報のかなめとなる様々な機関を制圧した。しかし、当の天皇が彼らの思想に賛同することはなく、彼らは反乱軍として扱われ、その大半がお縄につくこととなった。彼らの処遇に関しては法廷に持ち越され、中心人物たちは銃殺刑に処された。
 それでは、なぜその2.26事件が起こったかについて考えていこうと思う。事の発端は、陸軍内部の軋轢にあったという。片方の派閥はもう片方よりも権力があったため、相手の派閥に圧力をかけるなどし、邪魔者を排除しようとしていた。また、5・15事件がこの事件のきっかけになったという説もある。当時の政治で軍人といえば地位も高く、強い力を持っていたことは明らかだろう。しかし、強い力で抑圧すればするほど、また、難題を求められるほど、受け手側の不満は高まり、いつか爆発する。これは過去に日本で起きていた百姓一揆や、外国の例であればフランス革命や独立戦争とも通じるものがある。起こった理由はそのどれもが、「立場の強いものが弱いものに圧力を与え、そのうえで支配しようとしたから」である。その立場の強いものに差はあれど、根本的なものは同じである。
 そして、「人間的理性」についてだ。自分たちが圧力をかけられる分、不満が生まれるであろう。これは、政治権力の「公的」性格が守られていないと感じるからではないかと推測できる。この場合は、マルクス主義的還元史観が適用できる。政治で権力を持っている側の派閥は、その権力を反乱軍側に使用する。また、彼らは皆軍隊だったため武力を否定することは出来ないが、軍隊など武力が政治を支配する場合、政治権力の正当性が失われるといわれている。言葉は悪いが、甘い蜜を吸うことができない反乱軍側にとっては、由々しき事態である。また、そんな高圧的で高慢な政治は「理性を失っている」とも考えるだろう。反乱軍は「理性を失った政治を正すために天皇を中心に据えた体制にする」という思考にたどり着くはずだ。「人間的理性」とは、このような場では、本当に理性を失っていても、あくまでも大義名分にしかなりえないように私は感じる。
 「世界を人間的理性にしたがって再構成する」という思想は、この2.26事件と通じるものがある。反乱軍にとっての世界とは、自分たちを支配する日本の政治だったのだろう。その世界で強い力をもつ派閥は「自分たちから見れば」理性を失っている。それでは、それをどうするか。自分たちが行動に移すこと以外に方法がないと考えるだろう。
 先述したマルクス主義敵還元史観的な、政治で力を持つものが同じように別分野でも力を持っていると思うようになる、というその思想は、どの国のどんな人たちも持つだろう。しかし、果たして、政治的な力を持っている人全員が理性を失うだろうか。また、理性というものは主観的であり、それを測る物差しはない。「世界を人間的理性にしたがって再構成する」という思想は、不満があるが相手の方が権力が強い時に反乱を起こすための言い訳にしか過ぎないように、私は考える。

投稿: 無味無臭 | 2017年5月22日 (月) 23時04分

一所懸命

 2.26事件の映画を見て、まず近代日本の最大のクーデターであると知った。その事件の発端は、陸軍の青年将校で、主体となってクーデターを起こしたのが年齢の若い人たちであることに驚いた。事件が起こる前、東京は大雪に覆われていて、これから最大のクーデターが起こるような雰囲気ではなかったが、2月26日の午前5時に事件が起こってしまった。道路には装甲車、空には偵察機など、事態を知らない国民は何が起こっているのかを不安に感じていたと思う。当時の日本は、不景気な状況が続き、賃金の引き下げや失業、さらには東北を中心に農家は貧困にまで陥っていた。その原因として、当時の政党や財閥の支配層の腐敗ではないかと考える。そこで磯部をトップとした、軍部中心の新しい政府を立ち上げ、日本の政治や外交の展観を図ろうと青年将校が立ち上がったのだと思う。
 しかし、各省のリーダーを殺害するも、当時日本の首相であった岡田首相の殺害は失敗に終わった。岡田首相ではなく、岡田首相の弟である別人を殺害してしまった。青年将校たちは別人を殺害し、岡田首相ではなかったことに気付かなかった。2.26事件は、近代日本の最大のクーデターと言われているが、4日という短い日数で事件は閉じてしまう。その理由として、当時の首相を殺害できなかったことが要因の一つとして挙げられるのではないかと考える。
 青年将校は、多くの人を殺害する際に、機関銃や刀を使用していた。現在の日本では考えられない武器を使用していて、それほどまで当時の日本政府に不満を持っていたのだと感じた。しかし、青年将校には、家族を持つ者も中にはいて、愛する家族を救うため、愛する家族を守るためだとしても、人を殺害するのは間違いであるとも感じた。結果として、事件を起こした青年将校たちは処刑されてしまったが、日本の政治を大きく変えた、歴史に残る事件として今もなお残っている。政治が全てではなく、国民全員ができるだけ不満を持つことのない政治内容を作っていかなければ国の存在も危うくなってくるのではないかと思う。
 現在の日本の政治に対して、多くの国民は不満を感じていると思う。特に外交問題や、消費税問題、労働問題など多岐にわたる。中には団体を作って抗議する者もいるが、政治の内部にまでは意思が届いていない。主権は国民にあるというが、事実上ほとんどを上層部が支配してしまっていると感じる。国民の意見・意思をしっかりと政治に反映し、国民一人一人が満足と感じる政治・制度が必要になってくるのではないだろうか。

投稿: 平尾昂大 | 2017年5月22日 (月) 18時23分

2.26事件は、陸軍の青年将校ら約1400人で首相官邸、警察庁を占拠し高橋是清、斎藤実らを暗殺する。陸軍には皇道派と統制派の二つに分かれていた。皇道派は、天皇による政治を望み、敵対するものは武力をもってしても排除するべきと考える派閥である。統制派は、合法的に圧力をかけ、自分たちの望む政治体制にするという派閥。最終的に天皇により反乱は鎮圧されてしまう。この事件によって死刑、禁錮となった人たちもいたが、自決をした人もいる。もし私が、こういった場面にあったとしたら、日本のために、自分たちの自由のために自ら死を決意することはできないと思う。軍隊でも一人一人に家族や友人、大切な人がいる。それでも自決しなければならない状況に陥ったとしたら、とても苦しいだろうと思う。他の例をあげると、太平洋戦争の際行われた「バンザイ突撃」。捕虜になるくらいなら潔く死ぬという意思の表れである。日本では第二次世界大戦後から段々と無降伏主義となっていった。捕虜から解放されたのちに自決を強要されることもあったそうだ。
また1932年5月15日に武装した青年将校たちが総理大臣官邸に乱入し、内閣総理大臣であった犬養毅を殺害する事件が起きた。これは五一五事件と呼ばれる。
五一五事件と二二六事件は似ていると思われがちです。しかし共通点として挙げられることは、「軍人が起こしたこと」「世界恐慌による庶民の生活改善が目的」の二つである。どちらの事件の際も、世界恐慌から日本はデフレ―ションが激しかった。226事件は軍人が金持ちと政治家が自分たちの事しか考えていないと激怒し、それを機に勘違いで起こってしまった。最大の影響は「軍にとって悪い事をすると、テロでやられる」という恐怖感を政治家に感じさせたことであった。  
2.26事件の予告や他の戦争の写真や動画を見ることが私は苦手である。それでも学んだことによって何か得られるものがあればよいと思っている。226事件以外にも様々な戦争、虐殺、事件において自分を武器にしてまで他人を殺そうとした歴史がある。また世界各国にもそのような現状におかれている人たちがいるかもしれない。しかし私は人の命はそのように簡単に捨ててよいものと思っていない。加えてどのような人間も生きる権利がある。命の尊さを学ぶことができた。
世界を人間的理性によって再構成するとは、このような事件のように自らの命を犠牲にしてまで国家に忠実に従うことではないと思う。

投稿: 一日一善 | 2017年5月22日 (月) 17時00分

 YouTubeの二・二六事件の映画の予告を見て、第一印象は、国家の軍隊であるはずの陸軍が、使えている先の国家に向けてクーデターを起こすという事実が、過去の歴史にどれだけあることなのか、と疑問に思った。また、彼らは天皇親政を望んでいて、第二次世界大戦前の、天皇が直接国家を治める時代直前の真っ只中だった、という印象を強く受けた。
 そもそも二・二六事件とは1936年に皇道派の影響を受けた陸軍青年将校らが兵を率いて起こした日本のクーデター未遂事件で、「未遂」と書かれているように、クーデターや革命としては失敗に終わった事件である。当時は彼らのように国家に対して反感を抱いている軍人も多く、飢饉の時期も重なったため今まで抱いていた「尊皇攘夷」と言う、国家を治めるのは天皇で、外国的しそうは排除するといった思想と不満を持っている農民も多かった。そこで青年将校たちは政府の官僚を暗殺し、天皇中心の軍が主体となる新しい政府を作り出そうとした。しかしそう志すも失敗に終わった革命は、将校たちが怒った天皇陛下に見放され、処刑宣告されるというように幕を閉じた。
 こういった軍隊が無理やり力でねじ伏せようとする革命は現代の日本にはない。私は「人間的理性に従って世界を再構築しようとする」とは、感情によって左右されるところが大きいのではないかと考える。「理性」とは「本能」を自制し操るものである。しかしそれが逆に感情に左右されやすい曖昧なものになってしまうのではないか。青年将校たちが「天皇を中心によりいい国づくりをする」という志を暴走させてしまったのは、人間的な理性を彼らがうまくコントロールできなかったということが大きく関連しているのではないか、と私は考える。
 現代の日本においてクーデターや革命が起こったとしても、武器や二・二六事件のような過激な思想はあまり国民に受け入れられないだろう。それでも「歴史は繰り返す」という。私たちはこの二・二六事件やそのほかにも、ここでは触れていないが革命として有名な五・一五事件など、人間的理性をコントロールしきれなかった例も参考にしながら革命を起こすべきだろう。それは政治だけに言えることではなく、もっと広く、身の回りのいさかいの中でも言えることである。私たち一人ひとりが人間的理性をコントロールすることができれば、世界を再構築することも可能になるのではないだろうか。

投稿: 遅刻番長 | 2017年5月22日 (月) 17時00分

政治学概論
6247 内村くるみ 心機一転

2.26事件について

2.26事件は日本最大級のクーデターである。この事件が起きた時代背景としてNY発の世界恐慌の波を受けて深刻な不況になり、農村が荒れて娘の身売りなどが頻発し、五・一五事件や血盟団事件などのテロも頻発しており、数年前に満州事変もあって暗い空気が流れていた。当時の陸軍は、皇道派と統制派に分かれており、険悪な雰囲気が流れていた。この事件は陸軍の青年将校により、政府要人を暗殺した事件である。1936年2月26日未明、陸軍の青年将校らは、約1400名で首相官邸、警察庁などを占拠し、高橋是清(たかはしこれきよ)、斉藤実(さいとうまこと)らを暗殺した。この2.26事件を起した青年らは、「討奸」・天皇の命令を曲げて伝え、「君側の奸」・天皇の名を利用して悪い政治を行う奴らは許せん!と、事件を起したが、結局、2.26事件は、その天皇により彼らは反乱部隊として数日のうちに鎮圧された。
この事件で私が思ったのは、どうして武力行使という形になってしまったのかということだ。時代背景から険悪な雰囲気になってはいたものの、武力を行使するまでだったのか。この事件がのちの戦争につながっていくのも事実である。当時の日本は内戦や世界と戦争していたため、免れなかったのかもしれない。中学、高校の歴史の教科書では学べなかったことが映像で見られて良い機会となった。

投稿: 心機一転 | 2017年5月22日 (月) 16時50分

世界を人間的理性に従って再構成するという思想がある。なぜそのような思想が生じるのだろうか。そのために、まずは「理性」の意味することは何なのかを考える必要がある。  『大辞泉』によると、「道理によって物事を判断する心の働き」、「善悪・真偽などを正当に判断し、道義や義務の意識を自分に与える能力」と併せて、ヘーゲル哲学において「悟性が抽象的思考の能力であるのに対して、弁証法的な具体的思考の能力」と列挙されていた。ヘーゲルは、世界の全体は理性によって把握が可能だと考えた、ドイツの哲学者である。これらを合わせると、「理性」とは、具体的な思考や判断を行う能力と定めることができる。
 同様に、「世界を再構成する」とは何なのかということも、考える必要がある。「世界を再構成する」ことの具体例を考えると、欧州などの市民革命、日本における明治維新、現代の「アラブの春」などが挙げられる。これらに共通点を見出すならば、支配を受けていた階級が支配を行っていた階級を倒して覆すなどして、政治体制などが変化している。したがって、私は「世界を再構成する」ことは政治や経済、社会などの体制を根本的に変革することであると考える。
「理性」の対義語には、ヘーゲル哲学においては「悟性」、一般的には「感情」を挙げることができる。現代において、感情的な理論で世界が構成されているとは思わないが、歴史においてはそうでない部分もあるのではないだろうか。その一つが、日本の「二二六事件」である。二二六事件は、旧日本陸軍の青年将校によるクーデター事件である。世界恐慌などの経済、国際社会の不安定化などから、「昭和維新」を謳った青年将校によって事件は引き起こされた。また、陸軍内部の皇道派と統制派の対立も原因とされている。
これは、首謀者の青年将校らが極めて感情的に動いていたことを示唆していると思われる。なぜなら、「昭和維新」が謳われているにも関わらずその詳細がほとんど企画されていない無鉄砲なものであること、青年将校らは自分が犠牲になることが維新への礎となる、すなわちクーデターが成功しても自らは政治に関わらないと考えていたからだ。
これまでをまとめると、「世界を人間的理性によって再構成する」ということは、結局は人間の感情によってなされることではないだろうか。世界を再構成したいと考えた者は、「人間的理性」の名目を以て、感情論で根本的な変革をもくろむと思われる。

投稿: 早寝早起 | 2017年5月22日 (月) 16時44分

人間的理性とは、人間における理性のことで、「物事の道理を考える能力。道理に従って判断したり行動したりする能力。」(weblio辞書)とある。
 そして、2・26事件とは昭和11年(1936年)に起きた陸軍の青年将校により、政権中枢を狙った大規模なクーデター未遂事件である。政府要人を暗殺している。陸軍の青年将校らは約1400名で首相官邸、警察庁などを占領し、高橋是清、斎藤実らを暗殺している。
 当時陸軍には、「皇道派」「統制派」が存在し、2・26事件はその派閥争いという側面を根底に控えている。を起こしたのは、「皇道派」である。また、「皇道派」とは天皇による親政を望み、そのためには武力を持ってしても、それを邪魔する者たちを排除すべきであると考える者達である。「統制派」は合法的に政府に圧力をかけ、自分たちの望む政治体制を実現させんと考える者達である。永田鉄山や、かの有名な東条英機は統制派である。
 2・26事件を起こした青年らの背景としては、「天皇の命令をまげて伝えたり、天皇の名を利用して悪い政治を行ったりする者は許せん」というものであった。そして、行動に移してゆくわけだが、「天皇の側で働く人間ほど、天皇の信頼を受けている」という単純な事を失念していた。現に昭和天皇の側近は統制派であったため、彼らのクーデターは昭和天皇の怒りを買ってしまった。
 人間的理性の点において2.26事件の陸軍将校「皇道派」達はそれらを失っていた。果たして彼らには、物事の道理を考えたうえで、勝てると確信していたのか、それとも、負けるとわかっていて、クーデターを挑んだのか。はたまた、勝ち負けを考えることさえしていなかったようにも思える。

投稿: 劇団四季 | 2017年5月22日 (月) 16時40分

政治学概論 有言実行

 世界を人間的理性に従って再構成するという考えを、226事件をもとに考えていきたいと思う。
 まず、226事件というのは1936年2月26日国家改造を目指す陸軍青年将校が陸軍部隊を率いて反乱を起こした事件である。(ブリタニカ国際大百科事件)
 では、なぜこのような反乱がおこってしまったのであろうか。この際に、今回のテーマである、世界変革を考えるべきだ。人間はどうして世界変革をしようと考えるのであろうか。世界変革をしようと考える人間は、まず、今の世の中に納得できていないと私は考える。そのような考えがなければ、反乱やクーデターを起こそうなんて考えもしないだろう。しかし、そのように思っている人は数多く存在する。そのような人は、だいたい今の世の中はよくないと身近にいる人と話すだけである。身近な人たちと話すことで、何となく、自分の不満が解消されているように思えるからだ。大体の人はこれで終わるだろう。では、実際に行動を起こす人は、なぜ行動を起こそうとするのか。私は、その人には強い信念や、思いがあると思う。なぜなら、今の自分に満足できないこの世の中を、自分の手で変えることができれば、絶対に良い世の中になるという自信がある。その自信がその人を動かす、モチベーションになっていくのだと思う。そのモチベーションというのは、過去に何か苦い経験をしたりすることで、強い気持ちが生まれる。それが、自らの手で作り上げていこうという気持ちにつながっていくのだと思う。思っていることは、周りの不満を言う人たちと同じかもしれない。しかし、実際に行動に移すということは、その人たちよりも強い信念があるのだと思う。それがきっかけとなり、行動に移っているのだと思う。
この事件を起こした青年将校たちにも、強い信念がある。彼らは、地方の貧しい田舎出身であり、当時は経済危機のあおりを受けていた。そのため、まず、経済危機からの脱出をしようと、同じような意思のある者たちを集め、反乱を起こそうと決めたのである。
このようにして、事件には必ずと言ってよいほど原因がある。もちろん世界変革、世界を人間的理性に従って再構成するという思想にも必ず理由があると思う。その理由をもっと深く考えていくと、一人一人の思いにつながっていく。その思いというのが、モチベーションとなり、行動に移っていくのではないだろうか。人が一人いれば、何かの物事に対する考え方はたくさんあります。その考え、考え方のなかに、世界変革しようという強い意志を持つ者がいるから起こるのだと思う。

投稿: 有言実行 | 2017年5月22日 (月) 16時39分

五・一五事件と、二・二六事件は私の中ではかなり似ている出来事であり、どちらも軍人が起こしたことと世界恐慌による庶民の生活改善が目的であることの二つの点が共通で、他の点は全く違うということが今回調べてみて知ることができた。今回は二つの事件について調べてみてこの二つの事件が全く違うことに驚いた。二・二六事件は1936年2月26~29日、東京で国家改造を目指す陸軍青年将校が陸軍部隊を率いてクーデターを試みた事件で高橋是清や斎藤実らを殺害したという事件のざっくりした概要は知っていたが、その背景などは知らなく、なぜその政治家たちが軍人に嫌われ恨まれていたのかも分からなかったため、今回は政治学という学問でも大きな事件として扱われているであろう二・二六事件についてまとめてみたい。
 まず二・二六事件の要因には根底に陸軍の派閥争いがあり、当時の陸軍には「皇道派」と「統制派」の二つの派閥に分かれていた。「皇道派」は天皇による親政を望み、そのためには武力をもってしてもそれを邪魔する者たちの排除をしようとする派閥、「統制派」は合法的に政府に圧力をかけ、自分たちの望む政治体制を実現させようとする派閥である。二・二六事件でクーデターを起こしたのは皇道派で、天皇の命により統制派をはじめとする軍部により一掃され、以降陸軍では統制派が力をつけていく。
 二・二六事件は、クーデターの主犯たちが死刑にされていることから、当時の政府に対する周囲の不満の違いが表れているのではないかと感じた。五・一五事件では首相を殺害したにもかかわらず罪も軽く、すぐに主犯たちも釈放されたのでそれほど国民が望んでいたことであったと思う。政府への不満を武力で表そうとする考えは現代では理解できないが、かつてのような戦争後で不安定な政治や、戦争に参加したことで国民に多くのストレスを感じさせてしまったことがクーデターの原因でもあるので、今の途上国で同じことが起こっていたり、これから先起こっていくこともある程度はしょうがないのではないかと感じた。しかし、政府の重要人を殺害することで国内政治が少しの期間マヒすることは想定したうえで動いていることも、自分たちが政治について権力を持った後の政治の進め方を考えたうえで事件を起こしていることから、政治への意識の強さを感じ、現代とのギャップを感じた。
 
 参考文献
http://www12.plala.or.jp/rekisi/2.26.html

投稿: 他力本願 | 2017年5月22日 (月) 16時38分

二・二六事件についての記述  
                  5232  、自家発電
 まず、二・二六事件についての概要を述べたいと思う。「二・二六事件(ににろくじけん、にいにいろくじけん)は、1936年(昭和11年)2月26日から2月29日にかけて、皇道派の影響を受けた陸軍青年将校らが1,483名の下士官兵を率いて起こした日本のクーデター未遂事件である。
この事件の結果岡田内閣が総辞職し、後継の廣田内閣が思想犯保護観察法を成立させた。
陸軍内の派閥の一つである皇道派の影響を受けた一部青年将校ら(陸軍幼年学校・旧制中学校から陸軍士官学校に進み任官した、20歳代の隊附の現役大尉・中尉・少尉達)は、かねてから「昭和維新・尊皇討奸」をスローガンに、武力を以て元老重臣を殺害すれば、天皇親政が実現し、彼らが政治腐敗と考える政財界の様々な現象や、農村の困窮が収束すると考えていた。彼らはこの考えのもと、1936年(昭和11年)2月26日未明に決起する。
決起将校らは歩兵第1連隊、歩兵第3連隊、近衛歩兵第3連隊、野戦重砲兵第7連隊等の部隊中の一部を指揮して、岡田啓介内閣総理大臣、鈴木貫太郎侍従長、斎藤實内大臣、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎陸軍教育総監、牧野伸顕前内大臣を襲撃、総理大臣官邸、警視庁、内務大臣官邸、陸軍省、参謀本部、陸軍大臣官邸、東京朝日新聞を占拠した。
そのうえで、彼らは陸軍首脳部を経由して昭和天皇に昭和維新を訴えたが、天皇はこれを拒否。天皇の意を汲んだ陸軍と政府は彼らを「叛乱軍(反乱軍)」として武力鎮圧を決意し、包囲して投降を呼びかけた。叛乱(反乱)将校たちは下士官兵を原隊に復帰させ、一部は自決したが、大半の将校は投降して法廷闘争を図った。しかし、事件の首謀者達は銃殺刑に処された。
事件後しばらくは「不祥事件(ふしょうじけん)」「帝都不祥事件(ていとふしょうじけん)」[1]とも呼ばれていた。
算用数字で226事件、2・26事件[2]とも書かれる。」
(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E3%83%BB%E4%BA%8C%E5%85%AD%E4%BA%8B%E4%BB%B6)
 本講義においてはこの反乱とも呼べるクーデターを成功といったのは、恐らく指導者の変革といった一定の成果をもたらしたことに起因するのではないかと思う。本提題では、何故クーデターを起こすのかという意識についての記述であったが、合理的に考えれば失敗することを把握したうえで、行動を起こすというのは理解することはできないのである。よって精神的なもの、心情についての考察が不可欠となっていくこととなる。私が注目したいのは女性がクーデター、反乱を起こすことは少ないことである。ともすれば反乱、あるいは指導者に対するアンチ、これは男性的な行動なのではないだろうか。女性に武力がないことも踏まえたうえでこの推論を出すのはあまり問題ないように思われる。
 また、私が二・二六の首謀者の心情、精神状態を考察する上で一つ例に取り上げたいのが三島由紀夫事件である。彼もまた成功するはずもない、腐敗した自衛隊に対するアンチを行い、失敗した故での割腹自殺。そして彼に至っては、なんら成果はなかったというのが現在の考察である。そして彼に対する考察では自己の英雄視というのが挙げられていた。生き物というのは一つの個体に対して命は一つしか与えられないのが恐らく真実であろう。故に一度の生涯において何らかの義務、使命感を帯びていたのではないだろうか。また、他の人間ではなく、己にしかできないというある一種のエゴイズムもあったのではないだろうか。
また本作戦が失敗したとしても後世に何らかの影響があるという期待感というのが私が事件首謀者の精神状態を鑑みた結論である。

投稿: 自家発電 | 2017年5月22日 (月) 16時35分

世界を人間的理性に従って再構成するという思想がある。なぜこのような思想が生じるのか 批判的に再検討する
 二・二六事件は1936年2月26日に起こったクーデター事件である。当時、陸軍は「皇道派」と「統制派」に分かれていた。二つの派閥の雰囲気は険悪であった。そんな中、青年将校たちは、昭和維新を計画した。しかし、皇道派は青年将校が多かった陸軍第一師団を満州へ派遣することを決定する。そこで起こったのが二・二六事件である。
 次に「理性」とは「物事の道理を考える能力。道理に従って判断したり行動したりする能力」のことを指す。これに従って理性を再構成するとはどういったことなのか。私は、農村等で深刻な不況を抱える時期にどうしたらいいのかと自分の中の道理に従って判断した結果、このような思想が生じてしまった、つまり時代背景によるものだと思う。

投稿: 安産祈願 | 2017年5月22日 (月) 16時24分

世界を人間的理性に従って再構成するという思想に関して、まずはなぜその思想に至り、行動していったのかについて検討していきたい。世界の歴史では、始まりには必ず
上級層(王や皇帝など)と下級層(一般市民)との区別が行われる。生物的にはこのような立場によって生活様式が変化したり、別の存在として扱うことができたりするのは人間のみであり、絶対的な要素である。この体系において、一人ひとりが望んでその立場に就くわけではなく、誰もが個々の考えを持ち、今の状態に対抗していたと私は考える。つまり、誰もが抱えている思いや考えがそもそもの人間的理性であり、古代から皆が持ち合わせていたのではないだろうか。ただこの場合、古代や中世においては上級層の社会的地位や権力が強かったため、感情的な命令や制度が多く、それに下級層の人間的理性では対抗できないほどの絶対的な服従関係が確立してしまっていた。そのため、一般市民の思想が表に出ることは少なかったのだろう。
 上級層の独裁的な政治には、決まって道徳的問題が発生し、それに伴い下級層が反乱を起こしていく。日本で言うならば、明治維新から大政奉還などの江戸時代に見られる政治体制の変化や昭和時代の戦争時に見られる体制変化がその例にあたる。主な政治体制が天皇や将軍といった絶対的な権力を持った一偏に集中した体系であり、市民の声は反映されにくく、肩身の狭い思いをしていた。これに対して、市民は自分への存在価値を見出すようになり、それと同時に思想家たちが市民主体の理想的な政治体制を訴え、徐々に近代化が実現されていく。ここでようやく感情的な支配に理性的な集団の反乱が勝利し始める。このような「革命」は、一般には敗北という結果に終わることが多いが、思想や体制の変化においてはとても大きな功績を残している。現に我々の生活が成り立っているのも、革命による変化が要因となっている。一般市民の立場から反乱を起こすのは一見結果が見えているようなものと私たちは判断してしまうが、詰込み教育のような無の状態の人間を作り上げていく政策を執行する政府に対して、自分たちの望む理想の政策や政府を作り上げるために無謀な挑戦を繰り返した人々がいたから、私たちの今があるといっても過言ではない。
 二・二六事件でもそうであったが、自分の理想や自由を求め行動する一般市民、下級層の人間的理性と、人々を駒に仕立て上げ、操作し調整する政府、上級層の感情的支配は対立し、結果としては感情的支配が鎮圧しているが、人間的理性の思想は現在に反映されている。これは、近代化するにつれて一般市民が学を成すようになり、知識を持ったことで、今までは統制されて見えなかった真実に気付いたことが大きな要因として考えられる。感情的支配が及ぶ範囲を越えて、人々が個々の思想に基づき行動する、これが人間的理性によって世界を再構成することだと私は考える。

投稿: 飲水思源 | 2017年5月22日 (月) 16時19分

世界を人間的理性にしたがって再構成するという思想がある。まず、「理性」とは何だろうか。要約国語新辞典(清水書院)によると「すじ道を立てて考え、正しく判断する能力。」と記述してある。また、Wikipediaから引用すると「人間に本来的に備わっているとされる知的能力の一つである。言い換えれば推論(reasoning)能力である。世界理性というときは人間の能力という意味ではなく、世界を統べる原理、という意味である。」となっている。つまり、人間は最初からすじ道を立てて考えて、正しく判断する能力が備わっている、ということになるだろう。しかしここで、その「正しい判断」が個々人の考え、いわゆる思想に左右されるであろうことは簡単に予想される。思想が違えば、「正しい判断」も確実に異なってくるであろう。ここで2.26事件を題材として取り上げたい。
 2.26事件は当時陸軍内で皇道派であった青年将校たちが対立していた統制派の高橋是清や斉藤実らを暗殺した事件である。この背景には、天皇中心の政治を望み、天皇の威を借りて悪性を行う者たちを排除するべし、という皇道派の青年将校らにとっての思想が根底にあるものと思われる。これは統制派の有力人物を殺害することが「正しい判断」であると考えての行動であると考えることが可能だ。当時の背景として、郊外の農村を中心としてかなり貧しい生活を強いられていたと考えられる。そのような農村出身の将校もいたと考えるのが無難だ。そこで、このような将校たちが当時の政治を悪政だと考え、この悪政を行っている者たちを排除しよう、と考えることが彼らにとっての「正しい判断」で、すじ道がたっている考えだということができるだろう。彼らは彼らの「理性」にしたがって行動したといえる。
 しかし、現代を生きる私にとって、いかなる理由があろうとも、人を殺すということは悪であり、決して「理性」的な判断であると考えることはできない。個人的にはこの青年将校たちが当時の政治体系を悪と考えてしまったことは仕方のないことだと思うが、それでも殺していいとは考えられない。それが現代を生きる私にとっての当たり前であるからだ。
このように一つの事柄に対しても個々人の思想の違いから「正しい判断」は変わってくるだろう。だからこそ思想はぶつかり、生き残った思想が世界を再構成していくことになるのだろう。これは人が人であり、個々人の思想が違う限り避けることはできないのではないだろうか。

投稿: 一汁三菜 | 2017年5月22日 (月) 16時19分

世界を人間的理性にしたがって再構成するという思想とあるが、第一に「理性」について考えてみる。「理性」とは、「物事の道理を考える能力。道理にしたがって判断したり行動したりする能力。」(wedio辞書)とある。つまり、世界を人間的理性にしたがって再構成するというのはその思考の人物の考える道理にしたがって行動するということになる。それは感情に流されるとこなく動物的な本能に逆らうということだ。
人間は幼いころから他人とのふれあいや関わり合いの中で理性と言うものを学んでいくのである。しかしこれは逆にその人間の理性と言うものはその人物の周りが大きな影響を持っていると言うことでもある。政府に批判的な環境で育ったのであればその人物もまた政府に批判的になってしまうのではないか。
しかし人間的に考える道理というのも単純なものではない。たとえば少数派の民族の独特な文化があったとするとその民族が大きなほかの民族に侵略されると今までの道理や考え、そこでの人間的理性は通用しなくなる。その上その大きな民族の道理を押し付けられ新たに理性を付け加えられることもあるのだ。二・二六事件のことも考えてみると、これも陸軍皇道派の青年将校が1438名もの下士官兵を率い「昭和維新」と称して政府中枢を襲ったクーデター事件だがそれまでの道理をくつがえし武力を持って元老重役を殺害すると天皇親政になり政府界のさまざまな問題や農村の困窮が解決すると考えた。これも今までの道理をくつがえし新たに道理を作り出そうとした一例ではないかと考える。しかし、武力を持って元老重役を殺害するというのは、はたして人間的理性に従った動物的な本能の行動ではないと言い切れるのだろうか。武力で新たに構築した世界は本当に革命前の世界よりもいいものになるのだろうか。と言った様々な疑問が残ると言える。
次に再構築について考えると「再構築」とは「すでにある程度組み立てがすすんでいるものを、一旦阿智壊して再度組み立てなおすこと。」(wedio辞書)とある。つまり既存のものを一度解体するのだ。これは様々な理性を持つ人間社会において難しいことである。人間社会において再構築するにはその解体する前の生活にも人間社会があると言うことを考えなくてはならない。そして構築する側の人間だけの理性を当てはめず、される側も考慮しなくてはならない。
 以上のことにより世界を人間的理性にしたがって再構成するという思想というのは様々な人種が存在し多くの理性のある人間社会では難しいと考える。

投稿: 御魚天国 | 2017年5月22日 (月) 13時48分

世界を人間的理性によって再構築していく思想とはどういうものか。そもそも理性とは、道理によって物事を判断する心の働き、論理的、概念的に思考する能力のことである。この思想は理性をもとに世界を作り直すということなのだろうか。
先生の話や自分で調べていく中で、世界を人間的理性によって再構築しようとした例を発見した。1936(昭和11年)2月26日から29日にかけて発生した「2.26事件」である。「2.26事件」とは、陸軍の青年将校が政府要人を暗殺したクーデターのことだ。おおまかな内容として、陸軍の青年将校らが約1400名で首相官邸、警察庁などを占拠し、高橋是清、斉藤実らを暗殺・負傷させたが、天皇により彼らは反乱部隊として数日のうちに鎮圧された。この事件の要因は、陸軍の派閥争いである。当時陸軍は、「皇道派」と「統制派」のふたつの派閥に分かれていた。「皇道派」は天皇による親政を望み、その為には武力を持ってしても、それを邪魔するものたちを排除すべきという理論、「統制派」は合法的に政府に圧力をかけ、自分たちの望む政治体制を実現すべきという理論である。事件を起したのは皇道派であり、天皇の命により統制派をはじめとする軍部によって皇道派は一掃され、以降、陸軍では、統制派が力を付けていった。この事件の流れや背景を踏まえて考えると、おのおのが信じる理論や物事の道理に従ってクーデターを起こし、国や世界を再構築しようとしたのである。しかし、このクーデターが失敗に終わり、統制派による支配によって第二次世界大戦へと突入し、日本は敗戦という形で終戦を迎える。また、日本は連合国軍による支配や憲法の制定などで多くの社会的・政治的変化が起こった。「2.26事件」を起こし、日本の政治体制を変えていこう、天皇中心の国家を作ろうとした人々の思想が台頭していたとしよう。おそらく今の日本の社会や政治は大きく異なっていたはずだ。第二次世界大戦は勃発していただろうか、日本に原爆が投下されていただろうか。皇道派の青年将校たちの行動は、まさに世界を人間的理性よって再構成するという思想に当てはまっており、世界を作り直そうと声を上げた人々の行動は今後も語り継がれていくべきだろう。
ここまで「2.26事件」を例に考えてきた。世界を人間的理性によって再構成する思想は、それぞれの考え方、派閥、あるいは相反する思想内容が衝突することによって生じ、衝突によって世界や国が変化し、よりよい国が作られていくと感じた。そのためにも世界を人間的理性によって再構成する思想とクーデターはなくてはならないものである。

投稿: 温故知新 | 2017年5月22日 (月) 00時00分

それでは、世界を人間的理性によって再構成しようとする思想がなぜ生じるのか、226事件等を通して考えていきたいと思う。まず、226事件とはどのような事件であるのかについて述べていきたい。この事件は1936年2月26日に起こった、いわゆるクーデター未遂事件である。陸軍の青年将校が陸軍部隊を率いて反乱し、首相官邸や警視庁などを占拠した。この事件の後、陸軍は力を強めていくというような事件である。まず、今回のような題材を見て、誰もが考えるであろうことが、現在の世界は人間的理性によって構成されていないのか、ということであろう。答えを言うと、私は、世界は人間的理性によって構成されていると考える。なぜかというと、226事件はクーデターであったが、クーデターというものは226事件で初めて起こったものではない。古い時代では大化の改新や、明治維新など、歴史の中で何度もクーデターは起こっている。そのたびに、世界は人間的理性によって再構成されているのだ。それでは、なぜ、世界は何度も人間的理性によって再構成されているのに、そのような思想が定期的に表れるのか、ということを考えていきたい。私が注目したいのは、人間的理性という言葉の人間的という部分である。この人間的という言葉を取り除いて、理性という言葉の意味を調べてみると、善悪・真偽などを正当に判断し、道徳や義務の意識を自分に与える能力、とある。善悪や真偽というものは、一般的に考えて善い、悪い、真か偽かなど、普遍的な意味を持つ。つまり、人間的理性とは人として、善悪・真偽などを正当に判断し、それによって世界を構築するという考え方である。ではなぜそのような考え方が必要なのかというと、226事件などを見てみると、陸軍の青年将校がクーデターを起こしている。このように、人という生き物は、権力というものにどうしても惹かれてしまう。しかし、人の上に実際に立つ場合、自分の権力や富などは棚上げして、全体のために尽くす必要がある。そのために必要なものが、人間的理性なのではないか、と考えた。人の富や権力に対する無意識的な渇望、つまり、動物的な本能を人間として正しい判断と、真偽を見分ける人間的理性によって押さえつけることが必要であると考えるのである。以上のことから、クーデターなど、人の争いや権力を求める動物的な本能を見せつけられるたびに、人は人間的な理性による世界の再構築を望むため、そのような思想が生じるのではないかと考えた。

投稿: 一発一中 | 2017年5月21日 (日) 23時41分

 世界を人間的理性で再構成するという思考がある。まずはこの思考が何なのかということを考える。
人間的理性とは何なのか。『広辞苑』によると「理性」とは、概念的思考の能力であり、実践的には感性的欲求に左右されずに思慮的に行動する能力。また、真偽・善悪を識別する能力のことである。つまり、「人間的理性によって世界を再構築する」とは「人間的な善悪を識別する能力をもって感性的欲求に左右されずに世界を再構築する」ことと言い換えることができると考える。
では次に、「人間的理性によって世界を再構築する」という思考により起こったと考えられる事件のひとつに二・二六事件がある。
二・二六事件とは、1936年に日本で起きたクーデター未遂事件である。当時の陸軍には天皇による親政を望み、そのためには武力をもってしてもそれを邪魔するものを排除すべき、という考えの「皇道派」と、合法的に政府に圧をかけ、自分たちの望む政治体制を実現させようというふたつの「統制派」というふたつの派閥に分かれていた。皇道派の陸軍の青年将校らが約1500名で首相官邸・警視庁などを占拠し、髙橋是清や斉藤実らを暗殺した。
 二・二六事件は「人間的理性で世界を再構成する思考」によって起こった事件の例であると考えられるが、この事件を起こした皇道派の青年将校らの思考は果たして本当に「人間的理性」に基づいており、正しいといえるのか。
 そもそも、「人間的理性によって世界を再構築する」ことは可能であるのか。前に述べたように、人間的理性に従うということは感性的欲求に左右されてはならないということが前提になってくる。二・二六事件の場合、「自分たちの望む政治体制を実現する」というのが動機であるが、これは人間的理性に従っているといえるのか。
 人間が持つ考えには必ずその人の個人的な事情や、それまで得た経験が影響する。完全に私情を取り払うことは不可能であると考える。
また、この事件の場合は皇道派が天皇を手中に納め、邪魔する者を殺し皇道派が主権を握ることを目的に起こしたクーデター未遂事件であるが、自らの目的を果たすために殺人を犯すことが人間的理性に従っている正義であるとは言いにくい。
よって、「人間的理性によって世界を再構築する」という思考によって起こったと考えられる事件のひとつとして二・二六事件を例に挙げたが、この事件は動機・内容ともに「人間的理性」に従っているとは考えにくく、「人間的理性に従って世界を再構築する」ということ自体が多くの矛盾を含んでおり、実質的には不可能なものであると私は考える。

投稿: 因果応報 | 2017年5月21日 (日) 22時28分

世界を人間的理性にしたがって再構成するという思想がある。このような思想を批判的に再検討するために、まず人間的理性とは何かを明らかにする。人間的とは人間らしい配慮や行動ということであり、理性とは道理によって物事を判断する心の働きのことである。つまり、人間的理性によって世界を再構成するとは、人間らしい心の働きによる判断で世界を作っていくということであると解釈する。
では、なぜこのような思想が生じるのだろうか。二・二六事件を題材として考えていく。二・二六事件とは、1936年2月26日から2月29日にかけて、日本の陸軍皇道派の影響を受けた青年将校らが「昭和維新断行・尊皇討奸」を掲げて起こしたクーデター未遂事件である。ここで問題となるのが、「昭和維新」というスローガンである。当時の日本は中国に進出する一方、国際連盟からは脱退し、国内では農村部が極端に疲弊しきって貧富の格差が拡大したり、身売りや間引きが横行するばかりだった。そんな状況になりながらも、何も改善してくれない政府に対しての不満や疑心が大きくなり、天皇中心の新たな政治体制を構築しようとした。そこで、腐敗しきった政界指導者を一掃しようと考えたのである。ここで人間的理性と絡めて検討していく。二・二六事件を起こした青年将校の多くは地方の貧しい田舎出身で、当時の悲惨な状況を目の当たりにした彼らが自分達の故郷をその状況から脱しようとしたり守ろうとしたりするのは至極当然の事であり、人間らしいといえば人間らしいことである。しかし、その人間らしい行動によって起きたこの事件はどのように収束しただろうか。皇道派と統制派で争いが起こり、皇道派の将校達は統制派によって鎮圧され、処刑された。この事件を鎮圧した統制派も、クーデターを起こし政治指導者を殺害しようとする皇道派を抑えて安全を保とうとした。それも当然のことであり、人間らしいと言えるのではないか。つまり、人間的理性によって何かを変えようとしても争いは起こるのである。そもそも、人間的理性によって世界を再構成するには、全人類が共通の理性を持ち合わせていなければならない。しかし、それは不可能に限りなく近いだろう。地球が誕生して人類が生まれ、今まで続いてきた歴史を振り返ってみても、争いばかり起こっている。何故争いが起きるのか。それは考え方、言い換えれば理性そのものがみんな違うからである。一人一人がそれぞれ違う人間的理性を持っていると、必ずどこかで衝突する。人間というのは実にわがままで自分勝手な生き物である。より多くの利益を得たい、嫌いな人とは一緒にいたくない、あいつが気に食わないというのも言ってしまえば人間らしい理性ではないだろうか。そういう理性が大きくなると、経済、文化、宗教などの問題に繋がって争いが起きる。よって、人間的理性によって世界を再構成するのは不可能であると考える。
しかし、そのような厳しく凄惨な世界だからこそ、人間は理想を追い求めるのではないだろうか。全世界の人類が同じ理性を持ち、同じ行動をするため争いもない。そんな世界ができたらそれ以上に素晴らしいことはない。だがそれは無理なことをみんな分かっているのはずである。人間的理性で世界を再構成するのが不可能だと分かっているからこそ、希望的にこの思想が生まれたのではないだろうか。

投稿: 空鳥之交 | 2017年5月21日 (日) 22時24分

反乱やクーデターはたくさん存在するが、今回は2.26事件を中心に論ずる。
天皇中心の日本の動きに苛立っていたのだと考える。当時の日本は美濃部達吉が「「国の統治権は法人である国家にあり、天皇は国家の最高機関である」。 という天皇機関説の考えに反感を持ったのだと思う。アメリカでドナルド・トランプが大統領になったときに今まででは考えられなかった政策方針や発言が飛び出し、トランプ大統領の考えに対して反感をもった人たちがアメリカ国内でデモが起きた。2.26事件も同じような出来事であると考える。ある事柄に不満を持ち、同じ不満を持っている人たちが集まり何らかの行動を起こす。現在は国民の声に少し耳を傾けたり、マスメディアによって何らかの指摘がされる時代だが、2.26事件が起きた当時は、この不満を口にしたりすることによって現実は変わらない時代であった。全て、天皇の言いなりで進んでいたような時代である。だからこそ、武力を行使し、反乱を起こし、「こんな世の中間違っている」という心の叫びを聞いて欲しかったから2.26事件が起きたのだと考える。
そのほかの反乱も同様に、ある考えに対し不満をもっている人たちが自分たちの考えに耳を傾けて欲しいと思い、黙っていても何も変わらない現状から脱却するため、行動に移した結果、反乱やクーデターが起きるのだと考える。
しかし、その反乱が鎮められ失敗に終わることが多い。なぜ失敗に終わるのか、それは天皇をはじめとする権力者に逆らうと自分の身に何が起こるかわからないという状況が背景にあるからであると考える。現在の北朝鮮と同じような状況だったと考える。北朝鮮国民が全員ミサイル打ち上げに賛成しているとは思わない。けれど、金氏に逆らったら殺されるかもしれない。実際に北朝鮮では偉い人たちが金氏の判断で殺されている。こういった状況が過去の日本に当てはまるのではないかと考える。いくら戦いに対して優秀な人材がいたとしても数が多いと勝てない。当時は天皇が言うことは絶対であると言っても過言ではない。その天皇に逆らうと自分も殺されるかもしれないと思った人間が多数を占め、反乱軍を迎え撃った。数で圧倒したであろう天皇軍が勝利するに違いないと考える。
しかし、現在の日本は戦争放棄を掲げ、武力を保持していない。2.26事件のような悲惨な出来事を繰り返さないためにも日本政府は国民の意見や心の叫びに耳を傾けていく必要がある。そうすることによって日本というはより良い国となり、国民の生活はより豊かになるだろう。
 


参考資料・参考サイト
日本の歴史についてよくわかるサイト 
http://www.worldwide-transition.info/syowa/nittyu/226.html

投稿: 四字熟語 | 2017年5月21日 (日) 21時48分

反乱やクーデターはたくさん存在するが、今回は2.26事件を中心に論ずる。
天皇中心の日本の動きに苛立っていたのだと考える。当時の日本は美濃部達吉が「「国の統治権は法人である国家にあり、天皇は国家の最高機関である」。 という天皇機関説の考えに反感を持ったのだと思う。アメリカでドナルド・トランプが大統領になったときに今まででは考えられなかった政策方針や発言が飛び出し、トランプ大統領の考えに対して反感をもった人たちがアメリカ国内でデモが起きた。2.26事件も同じような出来事であると考える。ある事柄に不満を持ち、同じ不満を持っている人たちが集まり何らかの行動を起こす。現在は国民の声に少し耳を傾けたり、マスメディアによって何らかの指摘がされる時代だが、2.26事件が起きた当時は、この不満を口にしたりすることによって現実は変わらない時代であった。全て、天皇の言いなりで進んでいたような時代である。だからこそ、武力を行使し、反乱を起こし、「こんな世の中間違っている」という心の叫びを聞いて欲しかったから2.26事件が起きたのだと考える。
そのほかの反乱も同様に、ある考えに対し不満をもっている人たちが自分たちの考えに耳を傾けて欲しいと思い、黙っていても何も変わらない現状から脱却するため、行動に移した結果、反乱やクーデターが起きるのだと考える。
しかし、その反乱が鎮められ失敗に終わることが多い。なぜ失敗に終わるのか、それは天皇をはじめとする権力者に逆らうと自分の身に何が起こるかわからないという状況が背景にあるからであると考える。現在の北朝鮮と同じような状況だったと考える。北朝鮮国民が全員ミサイル打ち上げに賛成しているとは思わない。けれど、金氏に逆らったら殺されるかもしれない。実際に北朝鮮では偉い人たちが金氏の判断で殺されている。こういった状況が過去の日本に当てはまるのではないかと考える。いくら戦いに対して優秀な人材がいたとしても数が多いと勝てない。当時は天皇が言うことは絶対であると言っても過言ではない。その天皇に逆らうと自分も殺されるかもしれないと思った人間が多数を占め、反乱軍を迎え撃った。数で圧倒したであろう天皇軍が勝利するに違いないと考える。
しかし、現在の日本は戦争放棄を掲げ、武力を保持していない。2.26事件のような悲惨な出来事を繰り返さないためにも日本政府は国民の意見や心の叫びに耳を傾けていく必要がある。そうすることによって日本というはより良い国となり、国民の生活はより豊かになるだろう。
 


参考資料・参考サイト
日本の歴史についてよくわかるサイト 
http://www.worldwide-transition.info/syowa/nittyu/226.html

投稿: 四字熟語 | 2017年5月21日 (日) 21時45分

 今まで、自分の知っていた226事件は第二次世界大戦期に陸軍将校らが起こしたクーデター事件、という受験的な知識でしかなかった。NHKの226事件に関する特集を見たが、単純なクーデター事件ではないような気がした。当時の軍閥化し、戦争に一直線だった政治体制を打破するために考え、そして散っていった。「勝てば官軍負ければ賊軍」という言葉もあるように、この時のクーデターが成功していれば、今の日本や世界情勢も大きく変化していたのではないだろうか。
 少数派の意見が悪としてはびこることが非常に多いが、実際の正義というものがだれにあるかは定かではないと感じた。かつて、暴力革命は人々に物事を訴える手段として利用されてきた。権力に屈することなく、軍閥に異議を申し立てたこの暴力革命は今では見られることはない。講義でよく取り扱われる、サリン事件に関しても行っていることは決して褒められることではないが、暴力革命の名残を残したものである。時に日本の傾向としては、人が血を流して傷つく、もしくは人が命を落とさなければ変わらない傾向にある。日本に限らず、人類の多くは言葉で言っても伝わらないことや他人事で済ませる傾向にある。
 人間が権力をもって振りかざしている盾の大半は、人間の欲にまみれたエゴであることが多い。だからこそ、少数派の意見を大多数は受け入れようとしないし、理性的に考えることをなかったことにしてしまう。226事件もそうなのではないだろうか。軍閥が権力に笠を着て、理性的な考え方を放棄してしまった。冷や水を浴びせるには言葉ではなく、暴力革命しか残されていなかったのだ。人間的理性によって、世界を再構築するということはある意味で真っ当で、非常に理性的な判断と言える。だがしかし、それに伴い、人間的な営みや突発的事象は生まれなくなってしまうことも事実だ。
 大多数の意見が主張され、それが正道・王道として貫き通されるのは仕方がないことだとは思うが、血を流してでしか変化を促すことができない現実がある。死してなお、良い方向にならないこともある。今の思想では大きな潮流を変えることがままならない。誰がための政治で、誰がそれを担っているのか。全くかみ合っていないため、ぶつかり合う。そして権力の強いものがいつしか飲み込まれ、理性的な判断が薄れていく。
 226事件だけではなく、いろいろな政治思想がらみの事件もひも解くと、何が正史で何が嘘なのかが混在している気がする。自分の目で確かめて、考えることが何事も根幹を考える上では大事なのだと思った。
(1045文字)

投稿: 月間文秋 | 2017年5月21日 (日) 21時24分

  まず初めに226事件とは、1936年2月26日早朝に、陸軍の皇道派の青年将校たちにに率いられた約1400人の反乱部隊がクーデター未遂を起こした。この襲撃によって、当時の首相である岡田啓介首相は無事であったが、高橋是清蔵相や斉藤実内大臣ら9名が殺害された。
 この事件の目的としては、「君側の奸(天皇のそばで悪い政治を行っているもの)」を排除し、新たな政治体制を構築することを目指していた。
 当時、陸軍では「皇道派」と「統制派」という2つの派閥によって分かれていた。皇道派は「明治維新」を掲げて陸軍内部で国家革新を目指し、武力をもってしてでも邪魔するものを排除すべきという考え方を持っていて、統制派は皇道派よりも保守的な考えを持ち、合法的に政府に圧力をかけていくという考えを持っていた。実際にこの事件の発端は皇道派である。
 そして理性とはまずどういう意味であるのか。理性とは、一般には精神や知性と等しく、意識的思考能力の全体を言い、信仰、感覚、経験、無意識とそれぞれ対立するものであると言われている。世界を人間的理性によって再構築する思考が生じてしまうのは、226事件を例に例えると、陸軍将校らは当時起こっていた世界恐慌、三陸大津波、他にも満州事変や国連脱退、515事件のような暗いニュースが起こっている中で、政府は何をしているのだ、という不満が生まれることは当たり前となるであろう。ここで芽生えるのは頼る相手に期待が持てなくなっていく先では、自らが行動を起こしていかねばならないという考えが出てくるのである。その危機感がこのような思考を促して行動までつながっていくのではないかと考える。もしこのような思考が存在しなかったのならば、政府の意見を否定するものもおらず、政府の命令であれば全てを受け入れていくというような形になってしまうであろう。もしもそうなってしまえば、私たちは国民主権など無いものになってしまう。
 しかし、この思考は人間の理性によって物事を変えていくことが可能という点で、恐ろしい思考であるようにも思える。なぜならば、危ない提案が発表されたとして、それに大勢が賛成するような形をとったとしたならば、それが通ってしまうからである。再構築する、という言葉には新たに良い方向にもっていくために起こす変化であると考えられるが、実際に起こる全ての事がそうであるとは限らない。自然に反発してでも為されるような危険な考えもあることを忘れてはならない。

毎日安定

投稿: 毎日安定 | 2017年5月21日 (日) 20時56分

二・二六事件とは、陸軍の皇道派と呼ばれるグループの青年将校たちが、当時の不景気や政治の混乱の原因が官僚や政商たちであるとして、彼らの暗殺を謀った事件である。青年将校たちは、政府の官僚を暗殺することで、天皇中心の軍部主導の新しい政治を起こそうとクーデターを起こした。内大臣・斎藤実、大蔵大臣・高橋是清、内閣総理大臣・岡田啓介、侍従長・鈴木貫太郎、陸軍教育総監・渡辺錠太郎を襲撃し、岡田、鈴木以外は射殺された。岡田は義理の弟が身代わりとなったため無傷であり、鈴木は重傷を負ったが、命に別条はなかった。総理大臣を暗殺することができず、クーデターや革命として考えると成功とはいえないが、事件以降、陸軍皇道派は政治的発言力を強めていった。
 この事件における青年将校たちの動機は、現状を打開し、新しい政治を求めたのであり、クーデターの動機に相応しいものである。この事件が起こったのは、陸軍の統制が図れていなかったことが原因としてあり、派閥ができている時点で統制などそもそも図ろうともしていなかったのではないかと考えられる。こうした陸軍内での対立は二・二六事件の後の第二次世界大戦へとつながっていく盧溝橋事件の原因ともなっていく。現代の政治でも派閥は存在するが、彼らは武器を持たない。武器を持つ陸軍の対立は過激で鎮圧が困難な抗争に発展することは容易に想像がつくだろう。
 この二・二六事件のように、人間的理性によって世界あるいは国を変えようという動きは歴史的に見て少なくない。古くは17世紀にイギリスで起こった清教徒革命や18世紀のフランス革命などの市民革命、中国では20世紀末に天安門事件が起こった。日本においても、近世、武士が政治の実権を握るようになってから民衆による一揆や打ちこわしが見られるようになった。市民革命は、ブルジョアジーとプロレタリアートという対立を確立させると同時に、市民・民衆に権利が保障されるきっかけとなった。天安門事件や一揆、打ちこわしも民衆による蜂起であって、行動を起こしたことによって、その後の政府の政治に大きな影響を与えた。これらの革命と二・二六事件の決定的な違いはまず二・二六事件は民衆による蜂起ではなかったことである。陸軍の皇道派による意図的な行動であり、革命的な要素は有しているものの、その行動は陸軍本位のものであって、当時の日本国民の世論を反映したものではないと考えられる。もちろん、先ほど例に挙げた「革命」も発端は起こしたのは民衆ではあるが、それが必ずしも当時の国民・市民の世論を完全に反映したものかといわれるとそうではなく、一部の民衆によるものとも考えられる。しかし、政治学的に民主主義や公共の福祉などを考慮に入れると、二・二六事件は例に挙げた「革命」と比べ、人間的理性よりも政治的な思惑に人間が突き動かされたもののように感じる。

投稿: 二石一鳥 | 2017年5月21日 (日) 18時28分

二・二六事件とは、陸軍の皇道派と呼ばれるグループの青年将校たちが、当時の不景気や政治の混乱の原因が官僚や政商たちであるとして、彼らの暗殺を謀った事件である。青年将校たちは、政府の官僚を暗殺することで、天皇中心の軍部主導の新しい政治を起こそうとクーデターを起こした。内大臣・斎藤実、大蔵大臣・高橋是清、内閣総理大臣・岡田啓介、侍従長・鈴木貫太郎、陸軍教育総監・渡辺錠太郎を襲撃し、岡田、鈴木以外は射殺された。岡田は義理の弟が身代わりとなったため無傷であり、鈴木は重傷を負ったが、命に別条はなかった。総理大臣を暗殺することができず、クーデターや革命として考えると成功とはいえないが、事件以降、陸軍皇道派は政治的発言力を強めていった。
 この事件における青年将校たちの動機は、現状を打開し、新しい政治を求めたのであり、クーデターの動機に相応しいものである。この事件が起こったのは、陸軍の統制が図れていなかったことが原因としてあり、派閥ができている時点で統制などそもそも図ろうともしていなかったのではないかと考えられる。こうした陸軍内での対立は二・二六事件の後の第二次世界大戦へとつながっていく盧溝橋事件の原因ともなっていく。現代の政治でも派閥は存在するが、彼らは武器を持たない。武器を持つ陸軍の対立は過激で鎮圧が困難な抗争に発展することは容易に想像がつくだろう。
 この二・二六事件のように、人間的理性によって世界あるいは国を変えようという動きは歴史的に見て少なくない。古くは17世紀にイギリスで起こった清教徒革命や18世紀のフランス革命などの市民革命、中国では20世紀末に天安門事件が起こった。日本においても、近世、武士が政治の実権を握るようになってから民衆による一揆や打ちこわしが見られるようになった。市民革命は、ブルジョアジーとプロレタリアートという対立を確立させると同時に、市民・民衆に権利が保障されるきっかけとなった。天安門事件や一揆、打ちこわしも民衆による蜂起であって、行動を起こしたことによって、その後の政府の政治に大きな影響を与えた。これらの革命と二・二六事件の決定的な違いはまず二・二六事件は民衆による蜂起ではなかったことである。陸軍の皇道派による意図的な行動であり、革命的な要素は有しているものの、その行動は陸軍本位のものであって、当時の日本国民の世論を反映したものではないと考えられる。もちろん、先ほど例に挙げた「革命」も発端は起こしたのは民衆ではあるが、それが必ずしも当時の国民・市民の世論を完全に反映したものかといわれるとそうではなく、一部の民衆によるものとも考えられる。しかし、政治学的に民主主義や公共の福祉などを考慮に入れると、二・二六事件は例に挙げた「革命」と比べ、人間的理性よりも政治的な思惑に人間が突き動かされたもののように感じる。

投稿: 二石一鳥 | 2017年5月21日 (日) 18時23分

討論:世界変革
この議題に関して、まず226事件を参考に考察していく。226事件の背景にある思想、これが北一輝のものであったのだが、彼の思想というのが明治維新の本義は民主主義にあり、基本的人権を尊重し、平等な社会をうたったものだ。この思想を掲げ、陸軍青年将校らが目指したものは君側の奸を排除し、天皇中心の新たなる政治体制の構築であった。つまり、天皇のそばで悪政を行っている輩の排除がこの事件の目的であった。特権階級による摂関政治ではなく、国民の象徴である天皇による国民の意向に沿った政治を期待し起こした事件はあえなく鎮圧され、首謀者は処刑される。首謀者の一人である村中孝次の辞世の句に、「国民よ国をおもひて狂となり 痴となるほどに国を愛せよ」というものがある。これほどにも国を愛しているというのに、国家の危機に特権階級は見向きもしない、今の日本からすれば彼らの行動は至極正しいと言えるのだが、それは、今の日本が民主主義として成長しているからだ。当時のような状況が発生した原因には、平等のためには規律が必要、だがその規律が度を越えてしまった。それが一般市民にのみ対応するものだったからではないだろうか。
226事件から世界を人間的理性にしたがって再構成するという思想が生じるのはなぜなのか、という議題を考察するにあたり、私は理性、世界理性という言葉に着目する。まず理性というものは、人間に本来備わっている知的能力と定義され、世界理性は世界を統べる原理と定義されている。理性は本来人間に備わっている、つまり人類共通の考え方、と捉えることができるのではないか。よって、共通の考えで構成しなおすことで、より平等な世界へと変えていくことができるのではないか、と単純に考えれば至る。しかし、なぜ日本で226事件が起きたのか、その根本はただの貧困ではなく、共通と思わせた、最上級の思想により縛られた行政にあるのではないかと私は考える。結局民主主義が発達している現代の社会においても、完全に人類共通、というものはあり得ない。採用される意思があれば、その逆、不採用となる意思が存在する。言ってしまえば、力を持つ者の発言が優先され、力無き者の発言は流されてしまう。不平等な社会である。同じ力を持つ者の同士が互いに正義を主張し始めればそれは戦争につながる。異なる正義を主張することで争いにつながるのだから、同じ正義、国民として見るのではなく、同じ人類として、人種考えない思想が必要だ、そういった意思が世界変革につながるのではないか。

投稿: 新潮文庫 | 2017年5月21日 (日) 18時20分

討論:世界変革
世界を人間的理性にしたがって再構成するという思想が生じるのはなぜか。それは、世界からテロ問題や内戦がなかなか消えることがなく、人間としての尊厳や一人一人のかけがえのない命が奪われることが絶えないため、人間の理性による可能性を信じ、理性により社会を構築できると望む人が増えているからではないかと考える。アルカイダやアフガニスタン、イスラム過激派によるテロ行為が増えている厳しい治安情勢の中、テロのない平和な世界を目指して、みんなが平等で人間として生きる権利が大事にされる社会がより一層求められているのだろう。
なぜ、テロが起こるのかを考えてみた。それは、自分たちの力量を周囲に示したいというプライドがテロ行為に結びついているからだと思う。テロのような大規模な事件を起こし、自分たちの怖さを皆に分からせたいのである。しかし、なぜ自分たちの怖さを皆に分からせようとするのか。それは、テロを通してその首謀者が力を示し、これだけのことができるということを世界に知らせれば、世界一だと言っている国や政府に対してアピールでき、征服しやすくなるからである。さらに、そのことが放送されれば現在が情報時代ということもあり一気に世界中に広がり、自分たちにはこれだけの武力があるし、精神的にテロを起こしても平気なのだということを周囲に理解させることが可能となる。このように、テロは何かの主張だと捉えることができ、テロの首謀者は主張したいことを武力以外の方法で皆に伝えることができないのである。これをふまえ、テロ行為を抑えるためには、武力ではなくできるだけ言論によって解決できるような状況を世界が作らなければならない。私たち日本人は、普通に何を言っても別に問題にはならないような国にいるため、言論の自由の大切さについてあまり意識することはないが、言論による問題解決はテロを撤廃するための最も人間的理性にしたがった手段であると思う。しかし、そのためには各国において言論の自由が認められていることが大前提だが、中国やスーダンのように言論や行動の自由に規制がかかっている国もあることが現実である。そのため、そういった国の人々は自分の言いたいことを言葉で表現できない代わりに何か行動で訴えるしか手段がなく、テロ行為に至ってしまうのだろう。また、言論の自由が認められていても、それがテロを防ぐ要因にはなっているかもしれないが、それでもテロが起きる国があったり、日本の民主主義自体に不満を持っている人がテロを起こしたりすることも考えられる。しかし、言論や行動の自由が認められているか否かの国民への影響は大きい。
世界は様々な国で構成されており、多様な価値観が存在している。そのため、生まれた環境などによって自由や平等が保障されているかも異なり、正しいものや信じる対象にも差異が生じる。これらの違いが大きくなると、道理によって物事を判断したり、善悪・真偽などを正当に判断したりする人間的理性が欠落して国単位の戦争やテロに結びつくのである。根本的なテロ対策には、理性にしたがいながら争点を解消すること以外ない。感情的になったり、欲望を我慢できなくなったりすると武力解決に至る危険があるので、世界の再構成には人間的理性が不可欠だとする思想が生じるのではないだろうか。人間の理性を信じると同時に、それぞれの国家体制を見直すこと(人権の尊重、言論や行動などが自由で平等な社会の実現、国家間の安全保障)が世界を再構成するうえで必要なことだと考える。

投稿: 野菜生活 | 2017年5月20日 (土) 18時04分

人間的理性に基づいた世界を再構成するという思想はなぜ生まれているのか。この問題を批判的に再検討すると、確かに人間的理性による革命などが行われることもあるが、人間の行動には理性のみでは語ることができない可能性とともに、限界が生じるため人間的理性による世界の再構築は難しいことがわかる。
第一に人間的理性とは何であろうか。人間的理性とは『感情におぼれずに、筋道を立てて物事を考え判断する能力』(大辞泉)のことを指し、人間が人間であるために自身の行動を制御する働きを持っている。また、人間は理性のほかに知性、悟性などの感性を持っており、古くは理性は概念的・論証的な認識能力として考えられ、それに対する真実在を直観的に認識する、より高次の認識能力としての悟性と対立した考えとして扱われたこともあった。それでも歴史を経るごとに理性の持つ意味が考えられ、ヘーゲルの世界精神の考えでは、歴史は世界精神の自己実現の過程であり、そこには、ある理性的原理が貫かれているという考えが広がるようになった。したがって人間的理性の持つ人間の行動様式に対する影響の大きさにより、様々な革命や反乱が引きおこった事実もうなずける。
ここで226事件について考える。226事件とは1936年陸軍の青年将校により、政府の要人の暗殺が引きおこった事件である。事件の背景には当時の陸軍の派閥争いがあり、当時の政治の中心であった統制派と上下一貫・左右一体を合言葉に特権階級を除去した天皇政治の実現を図った革新派の対立が事件の原因になった。そして、特に事件を引き起こした皇道派は当時の革命的な国家社会主義者であった北一輝の影響が大きいとされている。天皇を自分たちのもとに収め、邪魔者を殺傷することで当時の政治家と財閥系大企業との癒着が代表する政治腐敗や、大恐慌から続く深刻な不況等の現状を打破する必要性を声高に叫んだ。結果、当時の大蔵大臣の高橋是清などの内閣の主要人物が死亡、岡田内閣が総辞職し、後継の廣田内閣が思想犯保護観察法を成立させた。
皇道派の思想には当時の日本の中で神と同様扱いである天皇を自分のものにする考えが浸透していたが、この考えは極めて安直で不可能な考えである。人間的理性と結びつけると、皇道派の人物の中には武力的クーデターを引き起こすことにより、天皇のみならず、政府自体を改革しようという判断を理性により考えたことになる。しかし、皇道派の考えが浸透しなかったことは事実であり、逆にその後は思想に対する法律制定などが敷かれた。人間的理性による人間の行動範囲には限界があり、全人類が同じ理性であることもない。このように考えると人間的理性による世界の再構築は不可能に近いと考える。
しかし、226事件のようにある集団が理性的判断でクーデターを起こすことが発生するのは、人間の感情による独断行動等を防ぐためでもあると考える。実際、226事件は統制派の独裁政治に対する反応であり、その政治体制に対して根拠を示し様々な段階を経て行われた。したがって人間的理性は、ある反対勢力など人間の考えの違いに対して暴走を防ぐために理性に基づき行動することを示し、人類はその考えによって世界を理性による統率のもとで再構築することを考えついたと考える。(1334文字)

投稿: 呉越同舟 | 2017年5月20日 (土) 16時03分

討論:世界変革
 世界を人間的理性に従って再構成するという思想があるが、そもそも「人間的理性」とはどのように定義づけられる言葉なのであろうか。さまざまな解釈が生まれるであろうこの単語をここでは、私利私欲にとらわれず、自分の意思によって善悪を判断し、道徳的行動を起こさせる心の力と解釈する。
 このように解釈すると世界全体を人間的理性に従って再構築する思想の難しさが浮かび上がってくる。「人間的理性」とは「理性」とは異なり、あくまで「人間的」なものであるからだ。「理性」とは、「道理によって物事を判断する心の動き」もしくは「善悪を正当に判断し、道徳や義務の意識を自分に与える能力」などと辞書に記載されている。この場合の善悪とは絶対的なものであり、人々全員が同じ意識を持っている。一方、「人間的理性」は、人間すべてが同じ意識持つことを前提とはしていないはずだ。現実世界では人間が全員同じ意識を持っていることなどありえない。道徳的行動を起こすとき基準にするのはあくまで自分の意思である。世界には190以上の国があり、使われている言語も6900ほど存在しているといわれている。国や文化が違えば当然その人が意識する善悪は多少違ってくる。また、受けてきた教育や育ってきた環境などによってもその人が持つ善悪は変化する。それは我々が住む日本でも個々人による善悪の意識の違いは見ることができる。
 代表的な例を挙げると、1936年に起こった「二・二六事件」だ。人間的理性に従い社会を再構成しようとした人々が起こした日本のクーデター未遂事件である。当時の政治体制に不満を持っていた陸軍の一部が天皇を中心とした新たな政治体制を構築しようと官邸や新聞社などを次々襲撃した事件だ。しかし、昭和天皇はこの行為を反乱行為とみなし、数日のうちに鎮圧され、行動を起こした者のほとんどが自殺か処刑されている。当時の日本の政治体制に不満を持つ者と当時の政治体制を良しとする者、どちらもその人々にとっては正しい行いをしているのだが、異なる考えの人から見ればその行為は悪となる。結果的には勝った側、つまり反乱を成功させればその人々は正義のヒーローのように扱われ、失敗すれば反乱を起こした犯罪者として処罰されるのだ。
このようなリスクがあるにもかかわらず、世界を人間的理性にしたがって再構成しようとする思想が生まれた理由として、現状に不満を持っている人が集まり、行動を起こし、社会を少しずつ変えていったことで徐々に良いものとなっていった歴史的背景が関連しているのではと考えた。おそらくこれからも社会が変動する際、人間的理性に従った者たちの行動が関係してくる可能性は大きいのではないかと考えた。

投稿: 心配停止 | 2017年5月19日 (金) 15時30分

まず、「理性」とは何だろうか。
広辞苑によると「理性」とは、第一に、概念的思考の能力であり、実践的には感性的欲求に左右されず思慮的に行動する能力のこと。第二に真偽・善悪を識別する能力のこと。第三に超自然的啓示に対し、人間の自然的な認識能力のこと。以上を理性の定義として挙げていた。
 ここで、パルメニデスが提唱した理性の概念について述べたい。パルメニデスは感覚よりも理性に信を置いて真に在るものは不変だと考えた。つまり、感覚よりも理性を重んじ、理性を用いた論理的思索を行った結果、「有るものは、永遠に存在し、無からは何も生まれない」といった哲学にたどり着いたのである。
 この2つの特徴をまとめると、理性、ひいては人間的理性とは、何物にも左右されない、不変のものとして捉えることができるのではないだろうか。私たちは、その不変を求めるために、世界を再構築する必要があったと考えることができるだろう。
 歴史的世界をつくる目的としても上記に挙げた事柄は当てはめることができる。歴史的世界は理性の展開過程であり、理性が実現されることを前提としている。また、歴史的世界は常に事後的である。これも上記のことに照らし合わせると納得することができるはずだ。
 マルクス主義は、歴史の目的として共産主義の実現を設定し、キリスト教は歴史の目的として千年王国を設定している。これらは、常に事後的に設定されたものであるものの、共通性として、共産主義、千年王国ともに永遠の「不変」を求めていることが挙げられるだろう。
 そして、国家が繁栄していくにあたり、人倫的理念として理性国家が求められるようになった。思慮的に行動すること、真偽・善悪を区別すること。これらを完全に整備していくことが必要になったのである。そしてそれは国家と国民の間に生じる普遍的利益と特殊的利益が統一されることを目指したものであった。
 このように、時代が進み、歴史が刻まれ、国家が形成されていくうえにおいて、人間的理性とは人々の中に自然に生ずることとなったのではないだろうか。
もし、そうでなければ、今までの歴史はあいまいなものとなっており、また人々の暮らしも無法地帯と化していた可能性がある。
 人々が人間的理性に基づいて行動することで、私たちの歩む歴史はのちの世で永遠のものとして形作られるはずである。世界は常に人間的理性によって再構築されているといってもいいだろう。そうして私たちの歴史は作られていく。

投稿: 野菜生活 | 2016年5月 8日 (日) 23時54分

今回の討論では世界を人間的理性によって再構成するという思想がなぜ生じるのか、ということであるが、じぶんはまず、それについて現在の世界は人間的理性によって構成されていないのか?という疑問を持った。このような議題が上がるということは現在の世界は人間的理性とは対照的な物事によって構成されているということになる。では理性の対義語は何であるのかということを考えてみると、辞書では理性の対義語を感情と規定しており、ヘーゲルは悟性を理性の対象としている。今回はわかりやすいため、理性の対義語として感情という言葉を設定する。では、現在の世界は感情によって動いており理性によって構成されていないのかといわれると、私はそうは思わない。確かに、現在において感情が一切世界の構造に介在していないかといわれると、そうであるとは言えない。しかし、比率としては理性のほうが大きい割合を占めているように感じられる。ではなぜ今回の議題のような思想が生まれたのかというと、それは人それぞれによってとらえている世界が違うからではないのかと考えた。例えば、日本人とアメリカ人では生活習慣や価値観にちがいを大きく持っている。このような場合に、どちらか片方が理性的な判断をしたと思っていても、他者から見た場合、それは感情的な行動を行っているように見えるかもしれない。また、今回の議題のような思想について私は詳しくはわからないが、理性的な判断をどこまで広げるのか?という問題も考えられる。世界の大きさとはやはり人それぞれによって違っており、文字通りこの宇宙全体を世界ととらえる人もいれば、地球だけ、国家だけ、また、自分の知り合いだけを世界ととらえる人もいるだろう。したがって、個人の世界から外された人から見ると、他人の行動は感情的に見えるのではないかと考えた。近年の例で考えてみるとアメリカがイスラム国に対して空爆を行っている、というような記事が新聞やニュースで取り上げられていたが、それを批判する人間は多くいた。批判する人間にとってそれは感情的行動に思えるかもしれない。しかし、アメリカの立場で考えてみると、彼らの世界とはアメリカ国内だけであると考えることができ、彼らの世界の外、つまり空爆され、被害を受けた一般人のことについては考えない、という考え方ができるのではないかと思った。(空爆を肯定しているわけではないが)つまり、すべての人に当てはまる理性という概念は存在せず、その世界から外された人の目から見た場合、現在の世界は感情的世界に見え、自分の存在を認め、守ってくれる世界を理性的な社会として欲するため、このような思想が生まれるのではないかと考えた。

投稿: 百発百中 | 2016年5月 8日 (日) 23時09分

2016.5.8提出 雪見大福

討論:世界変革
 世界を人間理性にしたがって再構成するという思想がある。理性によって人間を含む世界の全体を把握できると考えた哲学者の1人として挙げられるのが、ヘーゲルである。ヘーゲルは近代哲学を完成し、これまでの歴史総体を体系化しようとした。哲学史は、理性の実現という観点から統一的に把握され、ある哲学がそれぞれの歴史の発達段階を表現しているため、歴史的世界の目的は理性を実現することであるとした。また、ヘーゲルは、現実は精神の理念が具現化されたものであるから理性的であり、現実的なものは理念として把握されることによってのみ存在すると考え、「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」と述べた。ヘーゲル哲学では、現在の世界だけではなく、過去の歴史総体が1つの体系として哲学によって提示されるとし、ヘーゲル哲学は歴史総体を把握する。未来は哲学的に把握不能であり、哲学は未来に対しては禁欲的であると述べている。歴史的世界というのは理性の展開過程とみなされ、歴史的世界は事後的に再構成されるとした。これまでの歴史は理性的に統括され、歴史的世界として概念的に把握される。歴史的世界は、世界において目的が存在すること、理性が実現されることを前提にしている。歴史的世界は何らかの目的をもっていて、この目的は、近代社会の原理である自由の実現と関連している。個々人だけではなく、客観的精神が、構想されたものとして自由を目的にしており、歴史的世界と世界は、自由という理念の自己展開過程であると考えた。
 ヘーゲルは具体的な物事よりも、感覚され、見たり触れたりできるものよりも、理性的なもの、つまり概念の方が現実だと言った。現代に置き換えて考えると、社会や国家というのも概念であり、具体的に目に見えるものではない。しかし、個人よりも、社会や国家の方が本当の実在であるように感じる時がある。現代、私たちは、個人が集まって社会や国家を形成すると考えているが、ヘーゲルは逆で、社会や国家があって初めて個人というものが成立すると考えたのである。ヘーゲルは、現実は非合理な物事が多いと考えていたため、現実の物事は抽象的であって、具体的なものとは考えなかった。本当に具体的で現実的なものは、却って抽象的な概念、理性的なものだと考えていた。
 ヘーゲル哲学から、世界を人間理性にしたがって再構成するという思想がなぜ生まれたのかを推測すると、人間の生は有限であり、人間はなんらかの仕方でそれを把握しようとし、人間は一般にそれを生まれながらにして無自覚的に持っており、無意識的に人間のみが持ちうる理性が優れたものであると思い込み、故に世界を再構成することが可能であると考えているためではないかと考える。


投稿: 雪見大福 | 2016年5月 8日 (日) 22時50分

はじめに、世界を人間的理性に従って再構成するという思想について、なぜこのような思想が生じるのかを批判的に再検討する前に人間的理性というのはどのようなものであるかを検討する。その後、その人間的理性に従って世界を再構成するという思想を批判的に再検討する。
 次に、人間的理性とはどのようなものであるのかについて考える。明鏡国語辞典で、理性とは、「本能や感情に支配されず、道理に基づいて思考し判断する能力」とされている。この理性に人間的という単語がくっつくことによってほかの動物には見ることのできない人間的な本能や感情に支配されず、道理に基づいて思考し判断する能力を人間的理性と考える。逆に本能というものは明鏡国語辞典では、「動物に生まれつき備わっている能力や習性」とされている。
 次に、世界を人間的理性に従って再構成するという思想について、なぜこのような思想が生じるのかを批判的に再検討する。世界を人間的理性に従って再構成するというのは現在の世界を人間的な本能や感情に支配されず、道理に基づいて思考し判断する能力に従って再びつくるというものであると考える。このことを批判的に考えると二つの疑問が生じる。
 一つ目は、なぜ、人間的理性に従って再構築するのか、人間的本能では再構築してはいけないのかということである。人間(動物)に生まれつき備わっている能力や習性である本能ではなく、本能や感情に支配されず、道理に基づいて思考し判断する能力である理性である必要はないと考える。また、理性と合わせて生まれつき備わっている能力や習性をうまく使っていくことによってより良い世界が生まれる可能性もあるため、人間的理性に従う必要はないのではないかと考える。
 二つ目は、世界を人間的理性に従って再構築する必要があるのかということである。そもそも現在の世界は人間的理性に従って構築されていると考えるからだ。なぜなら、人間もほかの動物のように本能に従っていたならば、現在のようなインターネット社会が発達するなど、さまざまな発展はなかったと考えるからだ。
 最後に、以上の二つの疑問点から(なぜ、人間的理性に従って再構築するのか、人間的本能では再構築してはいけないのかということ、世界を人間的理性に従って再構築する必要があるのかということ)人間の本能に関して良い感情を持ってはおらず、また、現在の世界に満足してはおらず、人間的理性に従うことによって世界はより良く再構成されると考えている人々がいるため世界を人間的理性に従って再構成するという思想が生じると考える。

投稿: 無機栽培 | 2016年5月 8日 (日) 21時24分

 はじめに、世界を人間的理性に従って再構成するという思想について、なぜこのような思想が生じるのかを批判的に再検討する前に人間的理性というのはどのようなものであるかを検討する。その後、その人間的理性に従って世界を再構成するという思想を批判的に再検討する。
 次に、人間的理性とはどのようなものであるのかについて考える。明鏡国語辞典で、理性とは、「本能や感情に支配されず、道理に基づいて思考し判断する能力」とされている。この理性に人間的という単語がくっつくことによってほかの動物には見ることのできない人間的な本能や感情に支配されず、道理に基づいて思考し判断する能力を人間的理性と考える。逆に本能というものは明鏡国語辞典では、「動物に生まれつき備わっている能力や習性」とされている。
 次に、世界を人間的理性に従って再構成するという思想について、なぜこのような思想が生じるのかを批判的に再検討する。世界を人間的理性に従って再構成するというのは現在の世界を人間的な本能や感情に支配されず、道理に基づいて思考し判断する能力に従って再びつくるというものであると考える。このことを批判的に考えると二つの疑問が生じる。
 一つ目は、なぜ、人間的理性に従って再構築するのか、人間的本能では再構築してはいけないのかということである。人間(動物)に生まれつき備わっている能力や習性である本能ではなく、本能や感情に支配されず、道理に基づいて思考し判断する能力である理性である必要はないと考える。また、理性と合わせて生まれつき備わっている能力や習性をうまく使っていくことによってより良い世界が生まれる可能性もあるため、人間的理性に従う必要はないのではないかと考える。
 二つ目は、世界を人間的理性に従って再構築する必要があるのかということである。そもそも現在の世界は人間的理性に従って構築されていると考えるからだ。なぜなら、人間もほかの動物のように本能に従っていたならば、現在のようなインターネット社会が発達するなど、さまざまな発展はなかったと考えるからだ。
 最後に、以上の二つの疑問点から(なぜ、人間的理性に従って再構築するのか、人間的本能では再構築してはいけないのかということ、世界を人間的理性に従って再構築する必要があるのかということ)人間の本能に関して良い感情を持ってはおらず、また、現在の世界に満足してはおらず、人間的理性に従うことによって世界はより良く再構成されると考えている人々がいるため世界を人間的理性に従って再構成するという思想が生じると考える。

投稿: 無機栽培 | 2016年5月 8日 (日) 21時23分

 世界全体を人間的な理性に従って再構築するという思想が存在する。これは、人間のもつ理性に基づいて、世界全体を新たに把握し、構築し直すという思想である。では、世界の新たな把握において、理性的な状態とはどのような状態であるのだろうか。『大辞林 第二版』によると、「感情に走ることなく、理性に基づいて判断し行動するさま」とある。人間の判断や行動には、理性と感情が基となっている。この理性を能動的に働かせ、感情をうまくコントロールすることができる状態を理性的な状態と呼ぶのだろう。
 次にこの、理性的な状態を保つための感情のコントロールに注目したい。スピノザによると、感情には欲望、喜び、悲しみがある。人間個体が自らの同一性を維持しようとする力が欲望である。喜びとはこの欲望における力の増幅で生じ、悲しみは欲望における力の減少により生じる。そして、私たち人間が理性的に振舞うためには、この喜びと悲しみのバランスをいかに保つかが重要であるとスピノザは述べている。そして、人間が社会的な生活を営むためにはこの理性が必要であり、それによって人間の幸福が満たされるという。この幸福が満たされることを理性知とし、人間の真の自由はこの理性知の果てにあるとした。
 様々な争い、例えば戦争など人類はたくさんの悲しみを生み出す行いをしてきた。その反省から、そのような状況を打破するために、スピノザの言葉を借りるならば、真の自由を求めるため、人間のもつ理性によって世界を再構築するという思想が生まれたのではないか。このように考えると、人間的理性に基づいて、人々が判断、行動すると、現在の世界は大きく変容し、再構成されていくだろう。
 ここで、理性の特徴を考えたい。先ほどの理性的な状態とはどのようなものかという点でも触れたが、理性とはまず、感情とは別回線にあたる、論理的な思考に基づいて、ある人がその意思決定を行う能力である。この時、一時的な感情の揺らぎなどによって邪魔されないかぎり、その意思決定は感情によるものよりも優先される特徴がある。この理性の土台となっているのはその人の価値観である。しかし、この価値観というのは人によって背景などが違うため、大きく異なる。人の価値観を形成するにあたって土台となっているのは、その人の経験などに基づく感情であるといえる。このように考えると理性は感情に対して、機能的には優位ではあるが、その在り方自体は感情に依存するといえる。このことを踏まえると、人間的理性は感情と絶対的に切り離すことは実際には不可能である。感情による影響を必ず受けるため、すべての人々が恒常的に理性的な状態を保つことはできないのである。
 以上の点から、世界を人間的理性に従って再構成するという思想は、たしかに理想的であるとはいえるが、実質的には不可能な問題であるだろうと私は考える。

投稿: 本末転倒 | 2016年5月 8日 (日) 21時23分

政治思想史 レポート
青森少女

世界を人間的理性にしたがって再構成する思想において、人間的理性とはどういう意味なのか疑問に思った。人間的を違う言葉で言うと人間らしいと言い換えることができる。理性という言葉はよく使われるがよく意味がわからないので辞書で調べてみた。理性とは感情におぼれずに、筋道を立ててものごとを考え判断する能力と載ってあった。人間らしいという言葉と感情におぼれないというのは既に矛盾しているように感じる。ここで私は世界を人間的理性にしたがって再構成する思想というのを人間らしい考え方で世界を見つめなおす思想という風に解釈する。
そのように解釈すると世界を見つめなおすというのはいいように聞こえる。しかし、それを人間らしい考え方となると聞こえ方が変わってくる。どのようにして世界を見つめなおすのだろうか。人間らしいというだけでどこか身勝手でわがままなイメージがある。たとえとても素晴らしい生き方をしてきた人で周りからも支持されている人がいたとしても世界を見つめなおして再構成する、新たに作り直すときには自分の都合のいいように改革してしまうのではないだろうか。人間は身勝手でわがままな生き物だ。どんなにいい人でもやはり自分のことも大切なのである。そんな人間が世界を見つめなおし新たに作り上げ素晴らしい世界を作り上げることができるのだろうか。
世界は変えることができる。だが、それはまた新たに考えて作り直すものではない。暮らしていく、誰かと時間を共有する、色々な経験をする、そういう中で人間全員が違う生き方をしていくなかで良いほうにも悪いほうにも変わっていくのではないのだろうか。世界は決して誰かが再構成、作り直すものではない。また、何が良い世界で何が悪い世界なのだろうか。国、歴史、気候、宗教、文化、人種などすべてが同じ人間など一人もいないこの世界で全員が一致する正しい考え方などあるのだろうか。もし、再構成するとしても正解なんてないのだから何をどのように再構成することができるのだろうか。再構成するというのはそもそも不可能なことではないのだろうか。何が正しいのか、何が間違いなのかそれすらわかってない人間が再構成などできるわけないのだ。また、再構成という言葉で表すと今までのものをなくして全く新しくするというように感じてしまう。そういった点からでもこの思想は賛成できる思想ではない。何を目指すためにこのような思想が存在していたのかはわからないが今はこの世界に生きている私たちが正しいと思う行動をとって生きていくしかない。その正しいと思う行動こそがここでいう再構成なのではないのだろうか。

投稿: 青森少女 | 2016年5月 8日 (日) 20時15分

世界を人間的理性で再構築するということ、それはつまり世界中のすべての人間の理性をまとめなくてはならないと考えた。まず、理性という言葉から考えてみる。
理性とは人間に本来的に備わっている知的能力の一つである。言い換えれば推論能力である。そして世界理性というときには人間の能力という意味ではなく、世界を統べる原理、という意味になる。
しかし、人類がたどってきた歴史を振り返ってみたとき、理性という言葉に世界を統べる原理があると思えるだろうか。答えはノーであると考えた。
理性に世界を統べる原理があるなら、今までの人類の歴史で戦争や差別は起きなかっただろう。むしろ人間に理性が備わっているからこそ、二度の世界大戦や人種差別が起きてしまったのである。
そして、現代の世界の国々のほとんどが資本主義のスタイルをとっている。理性によって競争心が生まれ、たくさんの分野で活躍する企業が今日もしのぎを削っている。
身の回りのことを理性をテーマに考えてみよう。理性がなければファッションや音楽は流行することはありえないだろう。その中でもたくさんのジャンルがあり、そして各々の
ジャンルが好みだと感じるひとも山ほどいる。理性があるからたくさんの衣服や音楽があり、そして全く違うタイプのものが出来上がっていくのである。
スポーツもいい例である。野球やサッカー、バスケットボールなど、球技だけでたくさんある。人間の理性が創り出したスポーツはそれぞれが似ても似つかぬものである。
そして人間に闘争心があるから大会で順位を決める。オリンピックは大昔から行われているスポーツの祭典だ。
このように、人間に理性が備わっているからこそたくさんのもの・形が生まれ、さらにそこから様々な種類に分岐していった。人間は自分たちが持っている理性によって世界を作り上げたのだ。
今日まで人間が創り上げた世界をもう一度再構築するには、人間が文化を創りはじめた初期の時代の状態に戻して、全人類の理性を統一しなければならないだろう。しかし、人間の理性は全人類一人ひとり違うものである。もし人間の理性が統一されていたのならば、戦争や差別は起きずに済んだ。しかし人間が今まで創り上げてきた文化も生まれてなかったのである。そもそも、70億人という莫大の数がいる人類のすべての理性は統一できるのだろうか。どんな独裁者でも、どんなに素晴らしくリーダーシップを持った人でも、どんなにカリスマ性がある人物でも不可能なことであるとおもう。


投稿: 国民第一 | 2016年5月 8日 (日) 18時40分

世界を人間的理性に従って再構築するという考えがある。ここで言う人間的理性とは、ある問に対して合理的な討論ができたり、私利私欲にとらわれず人として正しい選択を下せることとする。つまり世界を人間的理性に従って再構築するということは、まず世界中の人々が共通の人間的理性を持っていなければ成り立たない。再構築できないということになる。世界人口は増え続け現在では7.432.663.000 人にもなっている。国も国際連合に加盟している国だけでも190を超えるまでになっている。使われている言語は6900を超えるとも言われ、同じ国の中でも使われている言語が違う国のほうが多い。同じ国のなかでさえ民族の違い。習慣、慣習の違いもある。さて、そんな中、世界を人間的理性に従って再構築するということは可能なのだろうか。私は世界を人間的理性に従って再構築することは不可能であると考える。もちろんそんな世界が実現すれば素敵だと思う。犯罪は0。紛争もない。私利私欲にとらわれることがない、みんながみんなのことを考え行動する。理想的な社会である。だが実際にそんなことはありえない。問題点はたくさんあって上に挙げたように、人口の多さ、言語の違い、文化の違いにより、世界中の人が共通の人間的理性を共有することが不可能であると考えられるからである。文化が違っては根本的な考え方も異なってくる。言語が違ってはそもそも話し合いができない。また合理的な討論をするには知識がないと合理的な討論にはならないので、教育の問題も出てくる。日本という狭い国で見たって、人間的理性に従って現在の日本という国を再構築するのだって不可能である。私利私欲にまみれた人たち。そもそも何も考えてない人たちがたくさんいる。新聞やテレビ、雑誌などの情報操作は酷いものがある。発言の一部分だけ切り取り、実際に言った内容とは全く別の形、別の意味で放送されているのを見たことがある。その後の訂正も、読み手によっては意味の変わらない、曖昧なものであった。情報を発信するマスメディアがこのような私利私欲にまみれた情報を世の中に発信しているのに、それを受け取る私たちが正しい知識を持つことはできないのではないか。正しい知識を持たなければ正しい討論ができない。正しい討論が行われなければ正しい選択を下せない。日本という国で見ても不可能であるし、たとえば教室1クラスでやったとしても知識の差、性格などから討論に参加しない人がいる。こんな狭い単位でやっても不可能である。ましてや世界という多種多様な人間が存在する空間で世界を人間的理性に従って再構築するのは不可能であると考える。(1.080文字)

投稿: 尾本裕輔 | 2016年5月 8日 (日) 15時56分

有機栽培
討論:世界変革

前近代において、神が世界を創造したという思想が社会的に承認されていた。そのため、キリスト教神学は諸科学を統括し、世界総体の把握に関する認識を独占的に有していた。そして、神学の権威が失墜した後も、いずれかの学問によって世界総体が把握されるという考え自体は根強く残っていたのである。
諸科学を統括する神学の地位を巡って諸科学が闘争する中、ガリレオやニュートンによる科学革命が発生した。これを機に、自然界において全ての事象に当てはまるもの、すなわち法則性の存在が明らかになったのである。また、自然科学と社会科学の分化が厳格でなかった当時、法則は自然界のみならず人間界にも同様に存在するとされた。人間が新たに法則を発見するのはそれまでの人間理性が低次のレベルにあったためであり、科学者の任務はこの法則性を明らかにすることであると社会的に認識された。
低次のレベルにある人間理性は、この法則性を認識する必要があった。そこで、哲学者は自然を含めた包括的な世界を哲学的方法論に従って提供することを試み、カント、フィヒテ、ヘーゲルらによって代表されるドイツ観念論哲学において、人間理性による世界領有が行われた。従って19世紀初期において、世界を領有する学問は哲学となったのである。
諸科学の王として個別科学を統括していた神学の地位を哲学が継承したのは、科学革命をきっかけとした法則性の認識が必要とされる時代に、哲学的な方法論による包括的な世界を提示したためであった。
哲学が諸学の王としての立場を確立し、人間界における法則性と世界総体いずれも、その把握には哲学が大きな力をもつようになった。そして、哲学者はそれらの提示に加え、内的必然性に従った世界変革をも訴えるようになった。これには、世界総体の把握に関する権限を掌握していた哲学の地位が大きく関係する。前近代における神学がそうであったように、哲学において提示された世界総体に対し他の学問が異を唱えることは許されなかった。人間界の法則と世界総体を把握する哲学は、世界の現状と課題を誰にも批判されない形で把握しており、それに従って世界変革を訴えたのは至極自然な形である。世界の変革には哲学者による世界の解釈が先行する必要があり、そうして現在の社会と未来の社会の姿が提示されたのち、世界変革がなされる。後期近代以前の社会的に承認された哲学の地位は、独占的に世界総体と人間界の法則性を把握できるものであった故に、そこで把握された世界の現状と未来のあるべき姿に従って、人間理性による世界の再構成という思想が生まれたのであろう。
(1072字)

投稿: 有機栽培 | 2016年5月 8日 (日) 12時52分

世界変革について批判的に再検討 5277 桜田門外

まず、世界変革とは人間の根本である心を変えなければ政治を行っても、その政治は一部を変えるだけですべての人にはうまく浸透しないとする考えである。
 私はこの考えに賛成である。
人間は欲望に支配されている生き物であり、いくら法律を作ったり、良い政治を行ったとしてもそれとは違う考えの人が必ずいるのである。
その考えのずれが争いを生み、戦争が引き起こされたし、現在も紛争を繰り返している地域が数多くあり、争いというものはいつになっても消えないものであると思う。
この争いを無くすには、人間の奥深くにある心を変えていかなければいつになっても平和は訪れない。人間の心の欲望の部分をうまく操作することが出来ればすべての人が幸せに思えるような地域作りが可能となるであろう。
しかし、人間の心や欲望を操作するなどという話は、現実的にむりな話である。
これから先、科学が発達したとしても人間の心というものが正確に定義されるようにならない限りは達成しうることのできない考えであろう。
 結局、世界を人間の根本から変えていくというのは、非常に困難な話である。
どんなに国を良くしようとして尽くしたところで、違う欲望を持つ人間は必ず存在するのである。それぞれ異なる欲望を持つことはいいことでもあるし、悪いことでもある。もし科学が発達し人間の心を定義できるような時代が来れば、人の心の欲望を操作することが平和につながるかもしれない。しかし、そんなことをしてしまっては、人は人じゃなくロボットの様な存在になってしまうだろう。争いはなくなるが、心は誰かに支配されている。それが果たして人間の平和・幸福というものなのであろうかという考えの矛盾が生まれる。
今の時代、またこれからも様々な思いを持つ人々の心をどれだけうまくくみ取れるかという要素が国の支配者に求められるだろう、そして人間の欲望は消えないものであるから争いはなくならないであろうが、世界の様々な国や地域がよりうまく連携できるようになったとき世界は変わってくるのではないかと感じる。

投稿: 桜田門外 | 2016年5月 8日 (日) 12時18分

世界を人間的理性にしたがって再構成する」という思想がある。なぜこのような思想が生まれるのか、本レポートでは、世界を人間的理性にしたがって再構成するという思想について批判的に考察していく。
 まず、はじめに、理性とは、『道理によって物事を判断する心の働き。論理的、概念的に思考する能力。』『善悪・真偽などを正当に判断し、道徳や義務の意識を自分に与える能力』 と辞書では定義している。例えば、とある日本に在住している人が人を殺したいと思ったとする。しかし、実際に行動に起こすことはまずない。それは、日本が法治国家であり、選挙によって選ばれた代表者によって制定された法律があるからである。日本国民は、法律の範囲内において権利・義務が生じる。つまり、法律内においての自由のみが認められ、法を犯した場合、つまりここでは殺人を犯した際には、それ相応の責任を負うことになる。実際に実行しないのはこの点にある。しかし、トラやウサギなどの動物は、自然界に生きる動物であるがため、生きるために動物を殺す。人を殺してはいけない理由はこれだけではないが、人間が持つとされる理性とはこういったものであると考える。
有名な古代ギリシアの哲学者アリストテレスは「政治学第1巻」において「人間は理性的動物である」という言葉を残している。人間は、複数の人間が集まって形成されている人間社会の中で生きており、当然その中では様々な人々と関わらなければ生活することができない。
ここで、カントの「純粋理性批判」について触れてみる。これはドイツの哲学者イマヌエル・カントの主著である。辞書による解説を見てみると、「人間の認識能力の本性と限界を究明した書で、人間理性が認識しうるのは、我々に現れる限りにおける対象つまり現象だけで、その背後に存在すると想定される対象そのもの即ち物自体は不可知であるとする。」 としている。
また、カントの二律背反(アンチノミー)に関する議論は、「理性概念としての理念(イデア)を論じるときに人間が陥りやすい罠について、その原因とそれが生じる必然性のようなものについて論じたもの」 であり、二律背反とは「同一の事柄について、ふたつの矛盾・対立する命題が同時に成立する事態を指して言う論理学の用語」である。
カントは二律背反の4つの例を挙げている。その1つを取り上げると、神は存在するという定立命題と神は存在しないという反定立命題である。この対立しあう命題は、ともに真であるとの主張ができるのだ。
 つまり、このような、人間の理性にも認識することのできない範囲があるために、「世界を人間的理性にしたがって再構成する」ということは不可能であると考えた。
(一部引用を含む)

投稿: 家庭菜園 | 2016年5月 8日 (日) 09時39分

世界を人間的理性にしたがって構成するということはすなわち世界中の人々を共通の理性を持たせた上で生活させるようにするということである。たしかに、地球上の全人類が共通の理性を持っていたとすれば、その理性をもとに人々の心をつかむことは簡単かもしれないが、そもそもそんなことは可能なのだろうか。簡単に人々の心をつかむことが本当に良いことなのだろうか。現在、社会は資本主義経済がほとんどであり、そのことからみても世間は私的利益だけを追求しているのがわかる。公平な立場から公共的意見を代表する新聞社でさえも私的利益を追求している。このような歴史を経て、今から考え方を一から見直して人々が全員同じ理性を持ち公共的利益のために働くことが果たしてできるかと言うと、そうとは思えない。第一、いままでに人類が共通の理性を持ち、自分に直接関係のない事柄に関心を持った時代があっただろうか。もしそんな時代があったのならば、おそらく大きな世界大戦が2度も起こることは無かっただろう。むしろ、マスメディアや世論、政治家に振り回されることが多く、人類は非理性的であるといえるだろう。その振り回される原因も、私的利益だけを考慮しているからであり、とても理性的であるとは言い難い。しかし、このような事態にも関わらず、ルソー的一般意志や理性的国民という存在すらしない虚偽意識が今でも近代社会の理念となっているのは問題である。
仮に、世界が人間的理性にしたがって構成されたとしても、理性だけではどうすることのできない感情や宗教的感覚のような理性という言葉だけではまとめることの難しいものが存在する限り、やはりそのようなことは不可能なのではないかと思われる。それに、人類全体が公共的利益だけを追求した場合、競争力が低下し、かえって莫大な不利益を被ることになるかもしれない。つまり、一見人類をまとめているようにみえても必ず不満やどこかで不公平性は生まれることになりメリットは多くはないと思われる。それに、国民の理性につけこんで、独裁者が生まれてしまう心配もある。というのも独裁をするものに対して反論する人もおらず、権力者のやりたい放題になってしまうからである。それを防ぐためにも非理性的であることも重要であり、現代の社会のままでよいのではないかと思う。独裁者を生んで、歴史上まともな社会ができたことはない。やはりデメリットの部分が多く考えられる。こういう理由で世界を人間的理性にしたがって再構成する必要はないと自分は考える。

投稿: 読売巨人 | 2016年5月 8日 (日) 03時54分

理性とは何か。それは、道理によって物事を判断する心の働きであり、倫理的・概念的に思考する能力の事である。では、カントの哲学において理性とは何か。それは、広義においては先天的能力一般。狭義では悟性・感性から区別され、悟性の概念作用を原理的に統一・制御・体系化する無制約の認識能力、いわゆる無念の中での能力を言う。一方ヘーゲルの哲学において理性とは、悟性が抽象的な思考の能力であるのに対して、弁証法的な具体的かつ詳細な能力であると捉えられてきた。
 なぜ今の世の中でこの人間的な理性に従って世界を再構成しようという思想が生まれ、広がっているのか。「再」構成と言うぐらいだから、もともとはこの世界が人間的な理性に従われていた。そして、そこに存在していた人間それぞれは自分の私欲や感情に溺れることなく世界は成り立っていたと考えられる。しかし今はその状態に無いと人々が感じているのだろう。(むしろ感じれていないのかもしれない。)
 そこで私は、この世界があらゆる発展を遂げたことで、この世の中が以前と比べて人々の希望や欲を非常に簡単に満たすことができるようになったことがこの思想につながっているのではないかと考えた。
インターネットが発展した。世界の真逆で売っている品物もいともたやすく購入し手に入れることができる。どこかの国の新聞を読みたければすぐに読める。世界各国の情勢・内政だって事細かに知ることが可能になった。このように、望んだことがすぐに叶う世の中に変化していったことにより、人々の考え方も、自分の思い通りに社会が進まなければ納得できないように変わっていったのではないか。それにより、自分自身の理性をはみ出し、私利私欲に溺れていく人々が世界の多くを占め、それがどんどん発展していると考えられる。
 そのような現状に危機を感じ、不安になった人々が今一度人間本来の理性に従った世界構築を図ろうと考えるのは至極当然ではないだろうかと私は思う。そして最も危険だと感じたのは、このように世界や人々の思考が以前に比べて変化していっている現状を、当の本人たち(私も含めて)は全く自覚できていない点だ。だからこそ、このように今一度人間的理性に従い世の中を戻していこうとする声に対して、批判的な考えが一番に浮かんでくるのではないだろうか。そしてその批判の声は大きい。世の中の流れに対し真逆に進んでいる思想だからだ。しかし、人々が私利私欲を満たすことに一生懸命な時代に変化していったように、いずれかはこの再構築思想がノーマルな時代がやってくるのでないか。世界は常に変化し続けている。

投稿: 右投左打 | 2016年5月 8日 (日) 01時57分

 世界を人間的理性にしたがって再構成するという思想がなぜ生じるのか。
 ここでいう世界というのは「歴史的世界」であると考える。「歴史的世界」というのは、同時代的世界の集積、現実の世界総体の集積であるということと共に、世界において目的がすること・理性が実現されることを前提としていることとみなされている。
 世界のこれまでの歴史、それぞれの時代時代において、当時の人々がほぼ世界規模で共有されていたであろう理性というものがあり、それは科学の分野や宗教の領域なんかでも同じようなことがいえるだろうと考える。これら理性はその当時においては正しいことだと考えられていただろう。上記したように、「歴史的世界」が同時代的世界の集積であるということを踏まえると、現在の世界までも同時代的世界の理性というものも積み重ねてきたものだといえよう。その過程においては、当時の人々が理性を持ちながら、先の時代から培ってきた理性のなかで、自分の時代には合わない考え方というものを、「この考え方は間違っている」とかいう風に、理性というものをより自分たちの時代にあうように、より良いものにするために様々な研究等が行われてきたであろう。
 こうして現在に至るわけであるが、ここに初めに示した命題の答えにつながる部分が見いだせるのではないかと考える。世界を人間的理性したがって再構築するという思想はこのような経緯があって生じるものではないかと考える。先人がこれまでに理性をより高次なものにするために頑張ってきたからこそ、現在の私たちは、今持っている考え方や理性がある。だから、現在私たちが持っている考え方、理性は最高のものであり、この理性にしたがって世界を再構築することでより良い世界の実現ということが達成できる、と考えられのではないかと考える。以上のことより、世界を人間的理性にしたがって再構築するという思想が生じるのではないだろうか。
 しかし、現代社会科学はこのような考え方を否定している。なぜならそれは個別科学としては存立しえないし、歴史的世界把握の問題を学問的領域から投げだしているからであるとする。歴史的世界の総体的把握は世界観哲学のマルクス主義を別にしては、学問以外の宗教、占い、オカルト的なものに委譲される。もちろん、科学の分野が宗教や占い、オカルトなんてものを認めるわけもなく、これらに委譲された「世界を人間的理性にしたがって再構築するという思想は否定されるのである。

投稿: 滝本 翔 | 2016年5月 8日 (日) 01時09分

なぜ人間的理性によって世界変革が起こるのかを考える。まず変革とは、変えて新しいものにすること、変わって新しいものになること、改革(デジタル大辞泉)である。つまり、世界変革を簡単に表すと人間が世界を変え、新しい世界を求めるということである。このように思うのは、この世界がこのままではいけないと思っている人間が存在するからである。なぜそのように思う人間が現れるのか。それはおそらく、自分の生活または自分の他の生活において少しでも不平等と感じているからではないだろうか。
たとえば、貧富の差の問題があげられる。私たちが生活する国、日本ではほかの貧しい国に比べると比較的裕福な生活をしている。しかし、貧しい国というのは、生きていくのにとても苦労している。私たちのように健康に生活する、私たちのような幸せを求めるというのは二の次なのだ。そのように生きることに必死な貧しい国の人々を気にかけて、助けてあげたいと思う人間が出てくることによって、そのような国を含めこの世界を変えたいと思うのではないだろうか。また、その逆で、自分は貧しい国の人間であるから、少しでもこの国を変えてほしいという意思を表し、変革を求める人間もいるだろう。今は世界規模で考えているものの、日本、各都道府県、市町村、地域など様々な場面で変革は考えられるものだと思う。また貧困問題だけでなくその他たくさんの場面で変革は目指すもの、求めるものによっては、必要となってくるのだ。
しかし、みんなが同じ平等を求めるのであれば、それは不可能である。なぜなら、平等は数値として表すことができないからだ。一人一人が平等になることも不可能だ。そのなかでも、少しでも差をなくそうと思っている人間がいるからこそ、平等を求める人間が変革を求めるのではないだろうか。
つまり、どのような人物が世界変革を求めるのかというとそれは、今の現状に満足していない人間が起こすものであって、なぜ現状に満足しないのかというと、やはり様々な場面で不平等が生じているからである。そのような不平等な状況を少しでも平等に近づけたいと思う人間が考え、行動するからこそ変革が起きていくのだろう。世界規模でそのように考えることのできるのは、様々な情報が広がり、助けてあげたいと思い、一人一人どこの国でも生活の質の差がなく暮らしていくことを目指す人間が数多く存在し、世界変革を起こしていきたいと思うのではないだろうか。

投稿: 有言実行 | 2016年5月 7日 (土) 21時25分

理性とは何か。理性とは、①自己の意志と、社会の他の人びとの意志とが調和しうると確信している意識であり(=「個別性と普遍性の統一」)、同時に②自己と現実世界とが深くつながっていると確信している意識である(=「主観と客観の統一」)。このような態度が生成される元となったのが「不幸の意識」である。不幸の意識は最終的に自分で決意する自由を投げ捨て、自分の労働の成果も神と自分のあいだをとりもつ媒語(教会)に譲り渡そうとするものである。このことをヘーゲルは『この自分の意志の放棄は、意志を個別的意志ではなく普遍的意志として定立することである』と述べている。不幸な意識は、主体性を外化放棄して「対象」とすることで「普遍者と自分との統一」が生じてくるものであるが、この統一が自覚されると意識は理性となるのである。こうして世界に対する肯定的態度が生まれる。これまでの自己意識は自分の自立性と自由を求めて現実を否定しようとしてきたが、自分が理性であると確信するようになると、自己意識は現実を受けとめてそこに安らぎを得るようになる。なぜなら、『自己意識は、世界のうちにただ自分だけを経験するにすぎないと確信している』からである。
 さて、ヘーゲルのとらえる世界の基本構造をもっともあざやかに表現しているのが人間社会である。ヘーゲルのイメージの中では、人間社会というのは矛盾や対立が無限に多様な形をとって登場し、とともにその中でそれを解決しながら進んでいくのだが、矛盾の最終解決はない。解決されたと思うと新たな矛盾があらわれる。そういうダイナミズムの場がヘーゲルのとらえる人間社会である。全体がまとまるとそれで完成、というイメージをわたしたちは持ちやすいのだが、実はそうではなくて、全体には絶えずそれを壊すような力がその中で働いている。全体は秩序を守ろうとするが、その中でそれを壊していくような、そのままでは成り立たなくさせるような要素が絶えず登場してきて、それとの闘いのなかで世界が出来あがっていく。そういうイメージをヘーゲルが社会に対してもっているとすると、そのイメージは、戦争と革命の時代だと言われる20世紀、その延長上にある21世紀初頭の今、わたしたちのもつ人間世界のイメージと意外に近いことがわかる。社会の実態からすると、対立や革命や闘争をたえずかかえつつ、なんとか全体が成り立っているというイメージは、20世紀に強くおもてに出ているといえる。ただ、世界中を巻きこむ大戦の中で何百万人もの人間が命を落とすことになるため、ヘーゲルが考えていたよりずっと大規模で深刻になっていることが否定的な要素である。
 現在、世界各国が抱える問題は様々であり、国家間の対立や地域紛争、国の存続に大きく影響するテロ行為など緊迫した情勢にある国は少なくない。日本も外交問題や軍事問題を抱えており、なかなか良い解決策を見出せない状況である。このような社会だからこそ、世界を人間的理性にしたがって構成し直す必要があるのではないかと思う。すぐに外部に委ねるのではなく、自己と現実世界とのつながりを意識し、意志の調和を確信すること、本能や感情に支配されず、道理に基づいて思考し判断する能力(=理性)をわたしたちが忘れないようにすることが、社会の形成や再構成の基本要素になるのではないか。
(1366字)

参考文献:超解読!はじめてのヘーゲル『精神現象学』(講談社,2010年)、P86,90
     ヘーゲル入門~最も偉大な哲学に学ぶ~(河出書房新社,2010年)、P5~6

投稿: 秋田平民 | 2016年5月 7日 (土) 19時50分

理性とは何か。理性とは、①自己の意志と、社会の他の人びとの意志とが調和しうると確信している意識であり(=「個別性と普遍性の統一」)、同時に②自己と現実世界とが深くつながっていると確信している意識である(=「主観と客観の統一」)。このような態度が生成される元となったのが「不幸の意識」である。不幸の意識は最終的に自分で決意する自由を投げ捨て、自分の労働の成果も神と自分のあいだをとりもつ媒語(教会)に譲り渡そうとするものである。このことをヘーゲルは『この自分の意志の放棄は、意志を個別的意志ではなく普遍的意志として定立することである』と述べている。不幸な意識は、主体性を外化放棄して「対象」とすることで「普遍者と自分との統一」が生じてくるものであるが、この統一が自覚されると意識は理性となるのである。こうして世界に対する肯定的態度が生まれる。これまでの自己意識は自分の自立性と自由を求めて現実を否定しようとしてきたが、自分が理性であると確信するようになると、自己意識は現実を受けとめてそこに安らぎを得るようになる。なぜなら、『自己意識は、世界のうちにただ自分だけを経験するにすぎないと確信している』からである。
 さて、ヘーゲルのとらえる世界の基本構造をもっともあざやかに表現しているのが人間社会である。ヘーゲルのイメージの中では、人間社会というのは矛盾や対立が無限に多様な形をとって登場し、とともにその中でそれを解決しながら進んでいくのだが、矛盾の最終解決はない。解決されたと思うと新たな矛盾があらわれる。そういうダイナミズムの場がヘーゲルのとらえる人間社会である。全体がまとまるとそれで完成、というイメージをわたしたちは持ちやすいのだが、実はそうではなくて、全体には絶えずそれを壊すような力がその中で働いている。全体は秩序を守ろうとするが、その中でそれを壊していくような、そのままでは成り立たなくさせるような要素が絶えず登場してきて、それとの闘いのなかで世界が出来あがっていく。そういうイメージをヘーゲルが社会に対してもっているとすると、そのイメージは、戦争と革命の時代だと言われる20世紀、その延長上にある21世紀初頭の今、わたしたちのもつ人間世界のイメージと意外に近いことがわかる。社会の実態からすると、対立や革命や闘争をたえずかかえつつ、なんとか全体が成り立っているというイメージは、20世紀に強くおもてに出ているといえる。ただ、世界中を巻きこむ大戦の中で何百万人もの人間が命を落とすことになるため、ヘーゲルが考えていたよりずっと大規模で深刻になっていることが否定的な要素である。
 現在、世界各国が抱える問題は様々であり、国家間の対立や地域紛争、国の存続に大きく影響するテロ行為など緊迫した情勢にある国は少なくない。日本も外交問題や軍事問題を抱えており、なかなか良い解決策を見出せない状況である。このような社会だからこそ、世界を人間的理性にしたがって構成し直す必要があるのではないかと思う。すぐに外部に委ねるのではなく、自己と現実世界とのつながりを意識し、意志の調和を確信すること、本能や感情に支配されず、道理に基づいて思考し判断する能力(=理性)をわたしたちが忘れないようにすることが、社会の形成や再構成の基本要素になるのではないか。
(1366字)

参考文献:超解読!はじめてのヘーゲル『精神現象学』(講談社,2010年)、P86,90
     ヘーゲル入門~最も偉大な哲学に学ぶ~(河出書房新社,2010年)、P5~6

投稿: 秋田平民 | 2016年5月 7日 (土) 19時49分

 ヘーゲルの著書には、精神という言葉が彼なりの思想がある。そして、精神とは何かという問いはヘーゲルを研究するにあたり非常に重要なことだ。ここでは、ヘーゲルの精神について論じる。なぜなら、理性と異なった精神というものが中心となり世界変革を成すと私は、考えるからだ。核となる精神の真理とは、即ち世界変革の真理である。
 共同性が精神だという考え方は、ヘーゲルの国家における考え方においてその解釈は正しい。しかし、これだけが精神ではない。私は、美学の研究をしている。その際の精神はヘーゲルによると藝術美は、自然美よりも優れている。なぜなら、藝術には精神が働きかけているからだ。(『ヘーゲル美学講義上巻』作品社 訳長谷川宏 1995)ここでいう精神とは、共同体と言い換えにくい。精神が働いている活動のものが芸術作品とする。だとするとここで働いているものは、芸術家における何かだ。芸術家が何かを働かせているこの状況においてこの働きは、作品の制作中において出来る。この製作中に何かが吹き込まれることで藝術は、完成する。それは、そのものだけでは外見に現れることはない。要するに藝術はその何かを表面的に映し出すものだ。私たちは、芸術作品を見て感じるものがある。それは、芸術家が与えてくれたものであり、芸術の根本だ。その何か感じるものが精神だ。精神とは、個人の受け入れた世界のことだと考える。だから、国家においての精神とは、共同性だといえる。
 世界変革は、世界を人間的理性にしたがって再構成するという思想だ。それは、私たち人間が受け入れた世界があり、その世界のすり合わせで世界は再編成されるという思想だと考える。しかし、このことには世界の多様性について理解していない思想だといえる。私の精神は私だけのものだ。他人の精神は他人だけのものだ。世界は、一つではない。実は、世界というものは、範囲を示していない。人には、人の世界がある。宗教の違いを取り上げると一目瞭然だ。彼らの世界をぶつけ合って戦争をしたとする。戦争で生むものは、戦争だ。血を血で洗う世の中になる。その先にあるものは、人類の悲劇だ。このように、この思想には、無理がある。ヘーゲルは第二次世界大戦を経験していない世界に生まれた。このことが、思想の限界を歴史が物語っている。私たちは、世界を再構成することは出来なかった。争いで残ったものは、深い傷と根付いてしまった世界観だ。第二次世界大戦をもって私は、世界変革に限界があると考える。

参考文献

『ヘーゲル美学講義上巻』作品社 訳長谷川宏 1995

投稿: 脱中二病 | 2016年5月 7日 (土) 12時27分

民主主義とは国家や集団の権力を行使する者がその中の全員であって、意思決定をその全員によって行っていこうとする政治体制のことである。国民が政治に参加していき、自分たちで人権を守るために国を動かしていくものだ。この意味で国民は、一種の自己責任の意識を持たなくてはならない。国民が支配者と被支配者になりうるものである。
 現在、世界の多くの国々ではこの民主主義の概念が採用されている。民主主義が色々な階層、年代の人々の意見を討論できることや、国民が自分たちで自分たちの母集団を維持、発展させていくことができるというメリットを持っていることが理由に挙げられるだろう。しかし本当に民主主義は善であり、完璧なものなのかどうか、考えていく必要がある。民主主義のマイナス点についてここでは何点か挙げていきたい。
 まず民主主義では多くの場合、今まで、多数決で出た答えを民意としてきた。国民が話し合って決めることはいいことなのだが、いつまでも決まらない状況をなくそうとした試みである。しかしこれではマイノリティについての疑問が生まれてしまうだろう。多数決で結果を出せば、いつまでも意見が汲み上げられない人や集団が存在してしまう。この代替案として民主主義は熟議を主張している。熟議とは、様々な意見を持ち寄り、じっくり話し合い答えを出していこうというものだ。これなら少数意見も汲み取ってもらえるのではないかと思うかもしれないが、ここでまた障害が生じる。多数決においてのマイノリティの意見消滅を回避するために行う熟議で、今度は膨大な時間がかかりすぎて話が前に進まなくなってしまうのだ。結果として、一応民意を反映しやすいとされる、多数決が半ば押し切る形使われているのが現状である。また世論がマスメディアによって操作されがちになってしまっていることも問題点の一つだろう。民衆が独自に政治についての情報を得ようとしても限界がある。現代では多くの国民がマスメディアからの情報によって政治状況を知ることとなる。そうなった時に、マスメディアを操作し、国民の目を欺くことが用意にまかり通ってしまうのだ。このことは民主主義の理想からは大きく外れてしまっている。また、国民側にも問題はある。国民が各々の目先のことばかり気にして政治を進めていったり、判断力が欠けている有権者が政治に一票を投じたりしていくことで、衆愚政治に陥りやすいのだ。目先の利益だけにとらわれてしまいその後の政治が機能しなくなっていってしまうことも問題だろう。
 このように、民主主義が採用されている現代でも、民主主義の問題点は多々ある。その上で民主主義の概念が採用されているのは、他よりはマシという考えが元にあるように思える。民主主義で国民の意思がすべて反映できるとは考えてはいけないだろう。

投稿: 焼鳥弁当 | 2016年5月 7日 (土) 09時21分

人間が理性にしたがって世界を変革することについて。まず世界をどのように定義付けるか。ここでは地球上の人間社会の全てを世界とする。次に、理性について考えてみる。人により諸説あるようだが、大きく言って、物事を客観視してり、冷静になって考える力の事を理性と言う。感情や情動、本能はこの力とは正反対のものとして捉えられている。人間が理性を持っているのは確かなことである。本能などと違い理性は短期的な利益を求めようとせず、長期的スパンでの利益を求めるものだ。例として、明日はテストだが、眠いから寝たい。これが本能的働きである。一方で、明日のテストでいい点を取るために寝るのを我慢して勉強をしておこう。これが理性的働きである。人間はこの理性を上手く活用できる動物であり、小さいうちから備わっていく能力であろう。しかし、人間はそこまで理性的な存在ではないのではないか。この理性という能力は人間だけに特別に備わっている能力ではない。理性的な他の動物の例として、ハイエナやジャッカルが挙げられる。彼らはライオンの捕らえた獲物の食べ残しなどをいつも狙っている。ここでは彼らは、本能の赴くままライオンの狩りの中に入っていかず、理性によって食欲という本能を無理やりコントロールしているのだ。そう考えたときに、人間はほかの動物より特殊とは言えないのではないか。違いといえば言語くらいなものだろう。理性が人間だけに与えられた神の力のような存在でないとわかった以上、その人間が、人間だけの頭脳を使い世界を再構成するということは、無理があることなのではないか。人間は過去に同じ人間を大量虐殺したことがある。ここにも人間の理性だけで世界を再構成していくには無理があることが言える。世界がより良い方向に進んでいくためには一定の条件にあった人間を排除することが必要であるとする考えのもと、大量虐殺は行われたのだ。これは言い換えれば、理性がもたらした結果とも言える。人間としての理性を求め過ぎた結果である。であるならば、その理性で世界を再構成していくことはさらなる虐殺、殺し合いに発展しかねないのではないか。そうであるならば、理性で世界を作り直そうとすること自体が不適切だ。
人間に理性が備わっている限り、今の世の中に批判的になったり、不満を持つことは当然だろう。そして、こんな社会、こんな世の中にしていけばいいと思いを巡らせる事は当然だろう。しかし世界をどうかしていこうという形而上学的な問題について、理性だけでは捉えきれないし、弊害がいくつも出てきてしまうのではないだろうか。

投稿: 今野元 | 2016年5月 7日 (土) 00時03分

人間が理性にしたがって世界を変革することについて。まず世界をどのように定義付けるか。ここでは地球上の人間社会の全てを世界とする。次に、理性について考えてみる。人により諸説あるようだが、大きく言って、物事を客観視してり、冷静になって考える力の事を理性と言う。感情や情動、本能はこの力とは正反対のものとして捉えられている。人間が理性を持っているのは確かなことである。本能などと違い理性は短期的な利益を求めようとせず、長期的スパンでの利益を求めるものだ。例として、明日はテストだが、眠いから寝たい。これが本能的働きである。一方で、明日のテストでいい点を取るために寝るのを我慢して勉強をしておこう。これが理性的働きである。人間はこの理性を上手く活用できる動物であり、小さいうちから備わっていく能力であろう。しかし、人間はそこまで理性的な存在ではないのではないか。この理性という能力は人間だけに特別に備わっている能力ではない。理性的な他の動物の例として、ハイエナやジャッカルが挙げられる。彼らはライオンの捕らえた獲物の食べ残しなどをいつも狙っている。ここでは彼らは、本能の赴くままライオンの狩りの中に入っていかず、理性によって食欲という本能を無理やりコントロールしているのだ。そう考えたときに、人間はほかの動物より特殊とは言えないのではないか。違いといえば言語くらいなものだろう。理性が人間だけに与えられた神の力のような存在でないとわかった以上、その人間が、人間だけの頭脳を使い世界を再構成するということは、無理があることなのではないか。人間は過去に同じ人間を大量虐殺したことがある。ここにも人間の理性だけで世界を再構成していくには無理があることが言える。世界がより良い方向に進んでいくためには一定の条件にあった人間を排除することが必要であるとする考えのもと、大量虐殺は行われたのだ。これは言い換えれば、理性がもたらした結果とも言える。人間としての理性を求め過ぎた結果である。であるならば、その理性で世界を再構成していくことはさらなる虐殺、殺し合いに発展しかねないのではないか。そうであるならば、理性で世界を作り直そうとすること自体が不適切だ。
人間に理性が備わっている限り、今の世の中に批判的になったり、不満を持つことは当然だろう。そして、こんな社会、こんな世の中にしていけばいいと思いを巡らせる事は当然だろう。しかし世界をどうかしていこうという形而上学的な問題について、理性だけでは捉えきれないし、弊害がいくつも出てきてしまうのではないだろうか。

投稿: 今野元 | 2016年5月 6日 (金) 23時48分

人間が理性にしたがって世界を変革することについて。まず世界をどのように定義付けるか。ここでは地球上の人間社会の全てを世界とする。次に、理性について考えてみる。人により諸説あるようだが、大きく言って、物事を客観視してり、冷静になって考える力の事を理性と言う。感情や情動、本能はこの力とは正反対のものとして捉えられている。人間が理性を持っているのは確かなことである。本能などと違い理性は短期的な利益を求めようとせず、長期的スパンでの利益を求めるものだ。例として、明日はテストだが、眠いから寝たい。これが本能的働きである。一方で、明日のテストでいい点を取るために寝るのを我慢して勉強をしておこう。これが理性的働きである。人間はこの理性を上手く活用できる動物であり、小さいうちから備わっていく能力であろう。しかし、人間はそこまで理性的な存在ではないのではないか。この理性という能力は人間だけに特別に備わっている能力ではない。理性的な他の動物の例として、ハイエナやジャッカルが挙げられる。彼らはライオンの捕らえた獲物の食べ残しなどをいつも狙っている。ここでは彼らは、本能の赴くままライオンの狩りの中に入っていかず、理性によって食欲という本能を無理やりコントロールしているのだ。そう考えたときに、人間はほかの動物より特殊とは言えないのではないか。違いといえば言語くらいなものだろう。理性が人間だけに与えられた神の力のような存在でないとわかった以上、その人間が、人間だけの頭脳を使い世界を再構成するということは、無理があることなのではないか。人間は過去に同じ人間を大量虐殺したことがある。ここにも人間の理性だけで世界を再構成していくには無理があることが言える。世界がより良い方向に進んでいくためには一定の条件にあった人間を排除することが必要であるとする考えのもと、大量虐殺は行われたのだ。これは言い換えれば、理性がもたらした結果とも言える。人間としての理性を求め過ぎた結果である。であるならば、その理性で世界を再構成していくことはさらなる虐殺、殺し合いに発展しかねないのではないか。そうであるならば、理性で世界を作り直そうとすること自体が不適切だ。
人間に理性が備わっている限り、今の世の中に批判的になったり、不満を持つことは当然だろう。そして、こんな社会、こんな世の中にしていけばいいと思いを巡らせる事は当然だろう。しかし世界をどうかしていこうという形而上学的な問題について、理性だけでは捉えきれないし、弊害がいくつも出てきてしまうのではないだろうか。

投稿: 今野元 | 2016年5月 6日 (金) 23時44分

「人生万歳」
・世界変革
  現代民主主義は、政治的無関心を増大させる。国民が公正な選挙によって選んだ政治家でさえ自己の利益を求める。政治家の私的利益が収集され政党の利益となり、それが普遍的利益を形成するのだ。ここにおいて少数者の利益は無視されていることとなる。少数者はもともと集団的利益を表出する機会が少ない。少数者の政治に対する不満が、社会的な変革を目指す少数の集団を作り上げる。いわゆるテロリズムへの指向である。
自己意識の相互承認とそれによって生じる普遍的な自己意識は、理性および精神の原基的形態をなしている。それによって生じる普遍的な自己意識は、自らを区別しつつもその区別を止揚するという概念の運動性を有している。シュペンターによれば、人民が集団として理性的能力を持ったこともないし、自分に直接関係の無い事に関心を持つことも無い。
 本来、理論というものは常に現実の実践のなかで生かしていくべきものであり、また、実践とのかかわりの中で常に再検討していくべきものである。ソ連をはじめとする共産党の指導者たちは、理論を絶対化、固定化することによってそれにあわない現実を切り捨てていった。
 エンゲルスは自然界も人間界も含めて客観的存在の全てを貫き包括する科学的法則として、自然弁証法というものが存在することを主張する。マルクス主義者は、自由な主体である人間を単なる一客体として自然の中に解消し、自然弁証法に従うと主張するのである。このような、客観主義的一元論においては、人間の主体的実践・具体的経験は無視され、すべてが客観的過程の中に解消されてしまう。その結果、主体的存在である人間の物格化が成立する。客観主義的一元論においては、人間の物格化と自己の神格化が同時に成立する。
 一方、自然界および人間界の一切の実在を貫く大法則としての自然弁証法というものは、エンゲルスの主張するような科学的法則ではない。彼は、多くのマルクス主義者が主張しているように、史的唯物論を生産力が生産関係と矛盾に陥ったり照応したりする自然法則的な自動運動であるとは考えない。歴史というのは決して自然法則的な自動運動ではなく、あくまでも人間の主体的実践を原点として形成されていくと考えるのである。例えば、生産力の源にあるのは人間と自然の交渉であり、生産関係の源にあるものは、人間と人間との交渉である。生産力、生産関係というものは決して自然科学的な物質ではなく、あくまでも人間の実践によって形成されるものなのである。

投稿: 人生万歳 | 2016年5月 6日 (金) 13時37分

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