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東西ドイツの統一過程における公共交通と公共性に対する市民意識――ハレ市・ハイデ北への路面電車の延伸計画とその挫折過程に関する考察(一)

東西ドイツの統一過程における公共交通と公共性に対する市民意識
――ハレ市・ハイデ北への路面電車の延伸計画とその挫折過程に関する考察(一)

  
                                               田村伊知朗

はじめに
 
 1989年にベルリンの壁が崩壊し、分裂した二つの国家すなわちドイツ連邦共和国(以下、西独と略)とドイツ民主共和国(以下、東独と略)が統合された。公共交通網の再構築がその直後の政治的熱狂に基礎づけられて、公共的討論圏において浮上してきた。とりわけ路面電車の延伸と新規建設が、地域内の公共的人員交通の改善という観点から真摯な議論対象になった。 
 本稿は、ハレ市(ザクセン・アンハルト州)におけるハイデ北への路面電車の延伸計画を考察対象にする。この計画は、東西ドイツの統一過程における政治的熱狂のなかで議論された。そしてその熱狂が醒めた前世紀末において、この計画は挫折した。
 しかし、この議論過程に関する考察は、公共交通そして路面電車の本質と関連している。路面電車が後期近代において復権した根拠は、地域内における市民的公共性の存在形式のうちにある。東独崩壊直後における公共性の在り方と関連づけながら、ハイデ北への路面電車の延伸計画とその挫折過程を考察する。


1.東独末期におけるハイデ北への路面電車の延伸計画

ハ レ市郊外にあるハイデ北は、その中心街から約6km西北に位置している。戦前に敷設されていた路面電車の終着電停、クレールヴィッツ電停から約3km西北に位置している。ハレ市郊外のこの地域において中高層住宅団地が、地域内の機械工業労働者のために東独末期の1980年代に構想された。1981年の計画によれば、250haに渡る広大な地域において18,000戸の住宅が建設されるはずであった。1 さらに、この用地の西側にも住宅地に転用可能な農用地が広がっていた。1986年の計画によれば、5,400戸の住宅が1990年までに建設されるはずであった。 2 この先行建設地帯は、住宅複合体Ⅰ,Ⅱとして位置づけられていた。のちに、住宅複合体Ⅲ,Ⅳが建設される予定であった。
 その建設計画によれば、路面電車がハレ市中心街からハイデ北への公共交通として位置づけられていた。それは、住居複合体Ⅰ,Ⅱに対する都市建設計画の指導プランニングの構成要素である。 3 1981年の計画段階では、ハイデ北からハレ市中心街への通勤者は約10,000人であり、そのうちの約60%が公共交通を利用すると算定されていた。 4 
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 この地域において1,720戸が、1985年までに先行建設された。上記の都市計画のプランニングにおいて明記されていたにもかかわらず、公共交通の具体的展開は住宅建設に遅れて議論された。社会主義的計画経済における官僚制的セクショナリズムの弊害が、この点において露呈していた。住宅建設を担当する部局と公共交通を担当する部局が、ほぼ無関係に鼎立していた。ハイデ北を住宅地と決定する際に、中心街からのアクセスが具体的に議論された形跡は、ほぼなかった。住宅が先行建設されて初めて、路面電車の整備計画が具体化された。ハイデ北とハレ市中心街を結合するために、路面電車の建設が自明の事柄であった。市街地とそこから数km離れた地点を結合するために、地下鉄を建設することはできなかった。また、バスでの輸送能力にも限界があった。
 交通計画担当者間における議論は、路面電車のルート策定から始まった。ハイデ北の住宅複合体Ⅰ,Ⅱの入口からハレ市中心街へと路面電車によって向かう場合、ノルトシュトラッセを経由することは自明であった。それ以外の道はなかったからである。問題は、ノルトシュトラッセからどの方向に路面電車の軌道を敷設するべきかという点にあった。クレールヴィッツ電停(デラウアーシュトラセ)経由あるいはハイデ電停(ブラントベルクヴェク)経由の二つが、議論対象として選択された。1985年当時ですら、この二つの可能性が両論併記のままで残されていた。 5
 ハイデ北からハレ市中心街に向かう乗客の約60%は、ハイデ電停でバスから路面電車に乗り換えている。6 ハイデ北からフーベツスプラッツで乗り換え、ハレ市中心街へ向かうルートが、通勤者にとってより便利であろう。しかし、この計画を実現するためには、膨大な資金を必要としていた。「フーベツスプラッツから、最終環状カーブのクレールヴィッツを含む居住地の入口まで、9,500,000マルクが必要である。しかし、居住地ハイデ北へと路面電車を結合するために使用できる金額は、1990年までに5,500,000マルクでしかない」。7 東独末期における国家財政が悪化したため、路面電車を延伸するための予算不足が露呈した。
 また二つの策定経路に共通して、重大な困難がさらに横たわっていた。ハイデ北の転換環状カーブにおいて、路面電車が上水道管を3回ほど跨ぐことになっていた。上下水道管理会社は、この路線計画に対して反対意見を提起した。 8 この上下水道管理会社は、都市における特殊な領域の利益を代表している。全体的利益あるいは他の部分的利益――ここでは路面電車の延伸――を考慮することなく、自らが関与している部分的利益を主張している。相反する二つの利益に関する調整は、上位機関に委ねられている。部分的利益と全体的利益が相反する場合、部分的利益が全体的利益を凌駕する。官僚制的セクショナリズムの弊害が、この問題においても露わになった。
路面電車を延伸するための資金不足に加えて、ドイツ官僚制と社会主義官僚制におけるセクショナリズムによって、この計画は暗礁に乗り上げていた。このような状況下において、東西ドイツの統一を迎える。
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1. Vgl. STaH A3.11, Nr. 283, Büro für Verkehrsplanung 1981: Büro für Verkehrsplanung des Rates der Stadt Halle (Saale): Verkehrstechnische Studie-Straßenbahn im Wohngebiet „Heide Nord“ einschließlich Wohnsammelstraße 1. TA, S. 1.
2. Vgl. STaH A3.11, Nr. 377, Büro für Verkehrsplanung 1987: Büro für Verkehrsplanung des Rates der Stadt Halle, 10.03.1986: Straßenbahnverlängerung in das Wohngebiet „Heide-Nord“, S. 1.
3. Vgl. ebenda, S. 2.
4. Vgl. STaH A3.11, Nr. 283, Büro für Verkehrsplanung 1981: Büro für Verkehrsplanung des Rates der Stadt Halle (Saale), a. a. O., S. 3.
5. Vgl. STaH A3.11, Nr. 343, Büro für Verkehrsplanung 1985: VE Verkehrsbetriebe Halle, 16.09.1985: Weitere Öffentlichkeitsarbeit im Zusammenhang mit dem Busverkehr der Linien A und E, S. 1.
6. Vgl. STaH A3.11, Nr. 377, Büro für Verkehrsplanung 1987: Büro für Verkehrsplanung des Rates der Stadt Halle, 10.03.1986, a. a. O., S. 1.
7. Ebenda.
8. Vgl. STaH A3.11, Nr. 377, Büro für Verkehrsplanung 1987: VEB Wasserversorgung und Abwasserbehandlung Halle: Standortgenehmigung zur Straßenbahnverlängerung in das Wohngebiet „Heide Nord“, S. 1.


2.東西ドイツの統一過程におけるハイデ北への路面電車の延伸計画

 1989年におけるベルリンの壁崩壊以後、ハイデ北への路面電車延伸計画もまた、東独時代よりもより具体的基盤において再検討された。東独地域における公共交通の路線網改善に対する財政措置が、地方公共団体交通財政法の改正によって実施されたからである。 1 ハイデ北への路面電車の延伸に関する財政上の問題点は克服された。また、上下水道会社のセクショナリズムも、この財政措置によって解消可能になった。上水道配管を移動することによって、交通技術的問題を解決することが可能になった。東西ドイツの統一以前と同様に、クレールヴィッツ電停(デラウアーシュトラセ)経由かハイデ電停(ブラントベルクヴェク)経由かという論点が、延伸路線の選択肢として議論の対象になった。
 まず、クレールヴィッツ電停(デラウアーシュトラセ)経由という選択肢が考察対象になった。もし、このルートが採用された場合、路面電車の軌道がデラウアーシュトラセにおいて1車線分しか敷設されえない。戦前から路面電車の電停が設置されていたこともあり、この街路周辺には多数の建造物がすでに設置されていた。道路を拡張するためには、既存の建造物を破壊しなければならない。道路を拡張しない場合、デラウアーシュトラセにおける2.2kmあるいは2.8kmが単線運転を強いられる。1方向平均、10分間隔で路面電車を運行する場合、5分間隔で両方向運転することになる。それは、交通技術上の観点から不可能であった。 2
それゆえ、ハレ市中心街からフーベツスプラッツからハイデ電停(ブラントベルクヴェク)を経由して、ハイデ北へと至るルートが、エコロジー技術的観点および企業経営的観点から最適とみなされていた。このルートを採用するかぎり、道路を拡張することはほとんどないからである。既存の路面電車4号線あるいは5号線を延伸することによって、ハイデ北をハレ市中心街と結合させようとする。
 地域内の公共的人員交通における路面電車の優位性が、この議論過程において現れている。議論における言語表出以前において、以下のことは発話者間の暗黙の前提になっていた。すなわち、路面電車の新規敷設が、都市における既存の存在構造を可能なかぎり破壊しないという論点である。この観点が、路面電車の建設と都市高速鉄道あるいは地下鉄の建設とは異なっている。3 路面電車の延伸ルート策定においても、
この意義は最大限考慮される基準になった。「第一条件は、現存する地域形象を可能なかぎり変更しないことである。その際の主要な着眼点は、現存する森林存在を保持することに置かれるべきだ」。 4 住居、商業施設、高圧排水施設、高圧ガス施設等の人間的営為の場所だけが、現存する街の構造概念に属しているのではない。そこには、自然的環境も包摂されている。可能なかぎり、路面電車の予定線は、現存する人間的環境を変化させない。これが、延伸計画の議論において前提条件の一つになっていた。この計画は、1992年までハレ市都市計画局およびハレ交通株式会社によって真摯に議論されていた。


1. Vgl. Gemeindeverkehrsfinanzierungsgesetz, §2-(1)-6. In: http://www.gesetze-im-internet.de/bundesrecht/gvfg/gesamt.pdf. [Datum: 04.04.2014]
2. Vgl. StaH: Magistrat der Stadt Halle. Dezernat Ⅴ, Stadtplanung und Bauwesen. (06.01.1992) : Beschlussvorlage für die Beratung des Dezernenten-Kollegiums am 23.01.1992, S. 2.
3. 田村伊知朗「後期近代における公共性の存在形式――公共交通における路面電車ルネサンスの政治思想的基礎づけを中心にして」『北海道教育大学紀要(人文科学・社会科学編)』第66巻第2号、2016年、61-72頁参照。
4. STaH A4.3, Nr. 25/92, Beigeordneten Konferenz(16.07.1992), S. 1-4.
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3.東西ドイツの統一過程における路面電車の意義

 なぜ、路面電車が地域内の公共的人員交通における不可欠の媒体として、統一直後のハレ市そしてドイツの政治過程において浮上したのであろうか。この問題は様々な観点から解答可能であるが、東独の社会的意識の本質と係わるかぎりで、本節において論述してみよう。
 東独の市民的公共性を論じる際、西独への憧憬を看過することはできない。西独に対する東独市民の憧憬の第一義的対象は、世界最強の通貨と喧伝されていたドイツマルクであった。西独への東独の併合は、東独市民にとってドイツマルクを獲得することと同義であった。 1この通貨は隣国の通貨であっただけではなく、東独の通貨すなわち東独マルクと同様に国内で流通していた。以下の指標は闇市場ではなく、西独のドイツ銀行等の正規の両替所のデータに基づいている。東独政府によって公認されていた正規の交換比率は、1:1であったが、西独の為替市場においてドイツマルクの方がより高価なものとみなされていた。ドイツマルクと東独マルクの交換比率は、1970年代初頭まで1:3 であったが、その後下落を続けた。その比率は1985年には1:5 に下落し、統一直前の1988年には1:8にまで下落した。 2
 ドイツマルクと東独マルクの両替所における交換比率が、東独国内の私人間の交換に準用された。彼らは自国通貨ではなく、隣国の通貨に対してより大きな信頼を寄せた。1974年に開始され、徐々に拡大したインターショップの存在は、自国通貨への信頼を格段に減少させた。ここで販売されている商品は、高品質の西独製であった。その高額な商品は自国通貨ではなく、外貨によってしか購入できなかった。「ドイツマルクによる東独マルクに対する部分的代用は、質的に高い商品をつねに購入可能であるというこの第二義的通貨の優越性に由来する」。 3 東独市民は自国通貨ではなく、隣国の通貨つまりドイツマルクに信頼をおいた。
その根拠は、西独の社会構造におけるイノベーション力にあった。西独における社会構造と産業構造が、つねに時代の要請にあわせて進歩していた。西独の企業は、国民の需要に対応した商品を供給した。その際、西独の産業構造が世界的な環境保護基準を満たし、自然そして人間的自然に配慮する時代的要請に対応できた。世界的にも著名な環境保護政策が、経済的最強性の背後にあった。
 東独の市民的公共性を規定していたのは、第一義的には西独の通貨への信頼であり、その背後にある西独の環境政策への憧憬であった。とりわけ、後者がその後の統一ドイツにおける市民意識を規定した。ドイツマルクへの憧憬は消滅した。それが日常的に使用される通貨になったからである。それに代わって、環境保護政策が東独市民の政治意識を規定した。
 もちろん、西ベルリン市と接していた東ベルリン市において、環境破壊を日常的に認識することはできなかった。東独の首都は、西側に対するショーウインドー的性格を持っていた。また、ベルリンという都市がもともと政治的かつ文化的都市であり、その工業生産高は微々たるものであった。東独における重化学工業地帯はベルリン市ではなく、別の地域において存在していた。
 ハレ市はザクセン・アンハルト州に属している。この地域は、東独さらには第三帝国の時代から重化学工業地帯に属していた。とりわけ、ハレ市から25km北に位置する重化学工業都市、ビターフェルト市は、イノベーションなき工業施設とそれに起因する環境破壊によって東独の象徴的存在であった。大気中における二酸化硫黄の濃度は、年間平均300(μg/m³)であった。この濃度は、西独の工業地帯の4-5倍を意味していた。 4
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 なぜ、このような環境破壊が東独の重化学工業地帯において一般化したのであろうか。戦前のナチス時代の工業施設がこの工業地帯において再利用された。その工業施設がイノベーションされずに、戦前の技術水準のまま再稼働されたからである。後期近代における環境保護の基準からすれば、この地域におけるその技術は、初期近代と同様に低水準のまま据え置かれた。環境保護政策は、東独市民とりわけハレ市およびその周辺の市民の社会意識にとって喫緊の課題であった。東独の環境保護政策と対照的に、西独の環境保護基準は世界最先端の水準を保っていた。
 東西ドイツの統一にともない、ハレ市の環境保護政策も西独と同一水準に達するであろうという期待がハレ市民に生じた。ある概念はそれが形成途上にあり、その実現可能性が期待されるときに、市民の日常意識をより規定する。東独の工業とりわけ重化学工業は壊滅していた。それに由来する環境破壊はすでになかった。むしろ、交通機関による環境破壊が市民意識を規定していた。「新連邦州(=東独)において交通が、環境問題にとって第一義的なものになった」。 5 東独崩壊以後、環境保護意識の高まりによって、中心街における公共交通網が整備された。それはハレ市だけではなく、東独の数多くの都市にあてはまっていた。たとえば、再統合されたベルリン市における東ベルリン市から西ベルリン市への路面電車の延伸が、本邦においても人口に膾炙されていた。それは、統合されたベルリン市の象徴になるはずであった。統一されたベルリン市交通局長、K・ローレンツによれば、東ベルリンの路面電車は以下のように表象された。「東独からの『落ちぶれた』交通遺産のなかで、路面電車だけが唯一の肯定的なものである」。 6 路面電車が、地域内の公共的人員交通において主導的役割を果たすと、統一直後の政治的熱狂において考えられていた。
 環境破壊の程度という観点から、自動車、バス等に比較して路面電車が、地域内の公共的人員交通における代替選択肢として優位に立った。「エコロジー的な交通計画、環境保護的な交通態度の可能化への枠組が、今まで以上に主体化されねばならない」。 7 後期近代における諸政策課題のうち、環境保護政策が第一義的課題の一つであるかぎり、地域内の公共的人員交通における路面電車の意義が、東独において浮上してきた。
 さらに、高齢者問題がこの路面電車に対する意義づけをより強固にした。高齢者問題は1970年代から西独において顕在化してきたが、西独と異なる事情が、この時期の東独における社会福祉問題をより複雑にした。東独崩壊過程において早期年金制度が制定された。この定年前退職制度によって、高齢者数が社会的に増大した。
ベルリンの壁が1989年秋に事実上崩壊し、1990年10月に正式に東西ドイツが統合された。この短期間のうちに、東独の最後の政権すなわちモロドウ政権が東独独自の政策を実施した。その一つが定年前退職制度であった。東独の多くの生産物がその市場において競争力を喪失した。世界でも有数の競争力を有していた西独の商品が統一以後、大量に東独の市場に流入したからである。東独の生産物は交換価値をほとんど喪失していた。多くの労働者が失業者となった。「東独の変革を背景にした市場経済的観点から、高齢労働者に対して以下の可能性が与えられた。すなわち、年金生活に到達する5年前から、定年前退職年金生活へと移行する可能性である。・・・定年前退職年金制度は1990年10月2日まで存続した。生計生活から定年前退職年金制度へと移行した人数は、40万9千人であった」。 8 正確には高齢者ではないが、定年前の比較的高齢な労働者が年金に依存するようになった。
 彼らは、通常の労働者と同水準の賃金と同様な年金を受領していたのではない。このような高齢者、すなわち若き高齢者を含む広義の高齢者と若年層に対する社会福祉的な政策が求められていた。高齢者だけではなく、若き失業者も福祉政策を必要とした。教育期間の長期化と若年層の職業待機によって、通常の賃金獲得から排除された階層もまた、社会福祉的政策を必要としていた。
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 中心街における路面電車が福祉政策の一環として寄与した。乗り換えの容易性、乗車の快適性という点は、高齢化社会における公共交通にとって必須条件である。このような観点から、路面電車は他の公共交通媒体に対して優位に立っている。 9


1. Vgl. J. Habermas: Die nachholende Revolution. Frankfurt a. M. 1990.
2. Vgl. [Anonym]: Ostmark zum Willkür-Kurs. In: Der Spiegel. H. 48. 1989, S. 113.
3. B. v. Rüden: Die Rede der D-Mark in der DDR. Baden-Baden 1991, S. 14.
4. Vgl. Hrsg. v. Institut für Umweltschutz: Umweltbericht der DDR: Information zur Analyse der Umweltbedingungen in der DDR und zu weiteren Maßnahmen. Berlin 1990, S. 20.
5. Hrsg. v. Stadtplanungsamt: Verkehrskonzeption Altstadt: Beschluss des Stadtrates der Stadt Halle (Saale) vom 8. Januar 1997. Halle 1998, S. 2.
6. [Anonym]: Tra(u)mstadt Berlin. In: Der Spiegel. Nr. 8. 1992, S. 59.
7. D. Schott u. S. Klein: Mit dem Tram ins 21. Jahrhundert. Geschichte, Gegenwart und Zukunft der Straßenbahn. In: Hrsg. v. D. Schott u. S. Klein: Mit dem Tram ins nächste Jahrtausend. Essen 1998, S. 14.
8. J. Ernst: Altererwerbsarbeit und Frühverrentung in den neuen Bundesländern und einige sozialpolitische Implikationen. In: Hrsg. v. S. Kühnert u. G. Naegele: Perspektiven moderner Altenpolitik und Altenarbeit. Hannover 1993, S. 29f.
9. Vgl. W. Wolf: Die autofreie Stadt. Autowahn am Beispiel der Stadt Marburg an der Lahn. Geschichte, Perspektive und Alternative. Köln 1993, S. 179.


注釈
 本稿は、「東西ドイツ統一過程における公共交通と公共性に対する市民意識――ハレ市・ハイデ北への路面電車の延伸計画とその挫折過程に関する考察」『北海道教育大学紀要(人文科学・社会科学編)』(第67巻第1号、2016年、73-83頁)として既に公表されている。なお、統一脚注を節ごとの注に直している。また、頁番号を手動で入力している。
 同時に、『田村伊知朗政治学研究室』においても掲載されている。

(たむらいちろう: 近代思想史専攻)

(二)に続く。

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