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1868-1968 テロリズムとしての近代革命

1868-1968
――テロリズムの勝利としての1868年明治維新、そして1968年以後のテロリズムの敗北

鳥羽伏見の戦いが始まる1868年は、正確に言えば慶応4年である。年号が示しているように、未だ幕藩体制の内にある。のちにこの年は明治元年と改称されるが、勝利した革命派による歴史の書き換えである。
当時の社会の規範そして法規範もまた、幕府によって規定されていた。この法規範と社会規範に対して、テロを行使した武装勢力が薩長である。彼らはこの法規範に対して、まさにテロリズムによって対峙した。もちろん、この武装闘争は維新すなわち革命と名付けられる。まさに、正統化される。しかし、実体は武力による政府転覆とほぼ同義である。
1968年の前後、近代における最後の武装闘争が世界的に実施された。東京だけではなく、ニューヨーク、フランクフルト、そしてパリでも青年運動が広範囲に起こった。その運動は社会的に支持されていた。この運動のなかから、武装闘争を実施する集団が分離した。しかし、彼らに社会的承認が与えられることはなかった。日本の赤軍派、ドイツの赤い旅団等が有名である。彼らの武装闘争は、テロリズムとして社会的に葬られた。

この論点に関して討論会を実施する。7月26日24時までに、1000字以上1500字(字数はPCの字数計算ソフトに依存する)のコメントを貼り付ける。その際、4文字の熟語を個人名称とする。実名、大学名、職場名、講義名称等を書かないことが必要である。個人が特定される場合、そのコメントは削除される。

参照「後期近代と暴力革命」
http://izl.moe-nifty.com/tamura/2006/04/post_9fe9.html

近代における暴力の社会的承認
http://izl.moe-nifty.com/tamura/2006/04/post_77b2.html

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近代という時代認識」カテゴリの記事

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民族差別をし、国を破壊に追いやったとされ世の中では完全に敵のイメージがついてしまっているアドルフ・ヒトラー。ではなぜ、フランス第一帝政の皇帝ナポレオン・ボナパルトは世の中から敵とみなされないのだろうか。もちろんその時代のフランス敵国から見たら外敵中の外敵だが、少なくとも日本の人々は英雄扱いだ。しかし、ナポレオンが国の改革のために行ったことはヒトラーと何ら変わりないことではないだろうか。ナポレオンも民族差別をし、自らの国を壊滅に追いやっている。それなのにも関わらず、ヒトラーは最悪の人でナポレオンは英雄として君臨している。それと同じように、国を変えようと反乱を起こしたという点では何ら変わりはないのにもかかわらず、一方では革命になり一方ではテロとなる。革命家と称えられるか、テロリストとして葬られるか。反乱のやり方か。それとも時代か。革命とテロ、その紙一重にも感じる二つの違いと違いの原因を考える。
確かに、日本赤軍は調子に乗りすぎてしまっていたのかもしれない。最高指導者だった重信房子は日本赤軍解散後のインタビューで、「世界を変えるといい気になっていた。多くの人に迷惑をかけていることに気づいていなかった。大義のためなら何だってしていいという感覚に陥っていた」と語っている。確かに、大使館などの外国公館への武装襲撃や、身代金目的のハイジャックなど、一般的な感覚でとらえるとなぜそのような事をするのか理解しがたく、悪者としか思えないだろう。けれど、その時彼らは反イスラエル感情の強いアラブ諸国からは、英雄とされていた。よくぞやってくれたと称えられていた。一方、明治維新を進めた薩長土肥も国を変えたいという思いは赤軍と変わらないうえに、薩長(特に長州)のやり方は革命とは名ばかりで、まさしくテロリズムに値していた。しかし、現代における明治維新のイメージは、国を変えてくれたとして語り継がれている。間違いなくその当時の幕府派の人々にとって倒幕運動の中心だった薩長土肥は敵であり、ナチスにとってのヒトラーのような存在だったに違いない。この二つから分かるように、国を変えようと立ち上がった者達には必ず敵が存在する。結果が道半ばで終わってしまった時にその結果は敵を増大させ、彼らはテロリストと化す。一方、国にとって良い結果が生まれた時、彼らは革命家と謳われ英雄となる。つまるところ、世の中なんでも結果重視なのだろう。良い結果に対して世間はやさしい。それは革命家もテロリストも同じだ。ナポレオンは最初こそ英雄だったが最後はどうだったろうか。やはりそれも結果次第だったということか。

 日本において、テロリズムによる明治維新が成功した1868年、そして、様々なテロリズムによる革命が行われようとした1968年前後、この時代の背景を比較してみたい。
 明治維新が行われた1868年以前はまだ、幕藩体制にあり、江戸幕府に様々な権利があり、世襲制によって将軍が選ばれていた。一般の人々は、生まれによる身分階級などに縛られ、被支配層がほとんどであったと考えられる。このような中央集権的体制、政治の担い手を一般の人々が選ぶことができない状況、多数の被支配層の存在が背景として存在したのである。薩長の武力による革命が社会的に容認された背景には、一般の人々、社会全体にも革命が容認されやすい状況があったのではないだろうか。
 次に1968年前後の日本おける背景を考えてみたい。日本では1945年に初めて、20歳以上の全ての男女に参政権が与えられた。国民主権、民主主義に基づいた政治の運営が定着し、国民による政治意識、責任が浸透してきた時代ともいえるだろう。また同時に、この頃、学生運動などの様々な政治的デモが盛り上がりをみせた。
 それでは、なぜ1868年ではテロリズムによる革命(明治維新)が社会的承認を得て、成功したのに対して、1968年前後の武力による革命は社会的承認を得られず、実現しなかったのだろうか。先ほど述べたように、1968年前後、日本では安保闘争や、様々な学生運動など、国民による社会運動が非常に盛んであった。このような運動自体は、各地でおこり、社会的な支持も得ていた。しかしながら、この運動から派生した、武力闘争などを行う集団に対しては、社会的承認が与えられることはなかった。社会運動自体は社会に認められていたのに、武力を行使してまで、運動を行うことは認められなかったというのが非常に重要なポイントである。このことは、国民が武力ではなく、民意という方法を用いて社会変革をすべきという判断をしたと考えられるのではないか。国民主権に基づいて、選ばれた国の代表であり、国民も選んだ責任を負う。このような、民主主義の原理に基づいた高い政治的判断によって、武力を用いた革命は、社会的に容認されなかったのであると考えられる。
 以上のことを考えると、テロリズムによる革命が1868年で成功したのに、1968年前後では社会的に承認されないことは、その時代における、法整備や、社会の仕組みが異なることに起因するのではないか。特に、現代の民主主義体制の国家では、国民全体を含む社会一般にテロリズムによる革命の実現性は低いといえるだろう。
1030字

19世紀後半、江戸幕府による大政奉還を受け、王政復古によって発足した明治新政府の方針は、天皇親政(旧来の幕府・摂関などの廃止)を基本とし、諸外国(主に欧米列強国)に追いつくための改革を模索することであった。1868(慶応4)年には、大政奉還をきっかけに、薩摩藩や長州藩(明治新政府)と慶喜ら(旧幕府)との武力衝突である鳥羽伏見の戦いが勃発し、この鳥羽伏見の戦いが戊辰戦争の発端となって、戦いに勝利した新政府による江戸城の接収や、多数の死傷者を出した上野の彰義隊の戦いや会津の白虎隊の戦い、箱館戦争といった明治新政府と旧幕府軍の長期間にわたる一連の戦いにより、幕府は完全に勢力を失い、天皇を中心とする新しい政府が権力をもつようになっていった。江戸幕藩体制の崩壊から大政奉還、戊辰戦争を経て明治政府の成立に至ったわけであるが、この明治維新から分かるように、薩長は武力を行使して政権の主導権を獲得している。しかし、このテロともいえる武装闘争は、武力による政府転覆と実体は何ら変わらないにも関わらず、維新や革命と名付けられ正当化される。明治政府のとった政策は、政治的目的のために武力を行使して対立する個人や集団を弾圧する行為であり、維新や革命などではなくテロリズムに分類されるであろう。
 1968年の前後には、近代における最後の武装闘争が世界的に実施されたが、中でも有名な国際テロ組織の日本赤軍やドイツ赤軍、赤い旅団による武装闘争は、テロリズムとして社会的に葬られた。しかし、テロリズムが敗北したからといって安心することはできない。現在日本赤軍は、組織の再編を推進するとともに、逃亡メンバーに対する支援等のための海外における新たな活動拠点の構築を模索している。また、パレスチナとの連携等を名目に組織の拡大を図っているものとみられ、テロ組織としての性格を依然として堅持し、その危険性に変化はない。
 現在は各地域でテロ情勢が厳しさを増しており、対米批判や聖戦への参加を呼び掛けるイスラム過激派によるテロの脅威は依然として高い状況にある。特に、アフガニスタンやパキスタンでのテロに関するニュースは絶えず、米国の同盟国とみなされている日本も油断していられない。日本国内では、2015年に安倍首相が歴代内閣の解釈を変えて集団的自衛権の行使を可能にしたことによって、日本はいつ戦争に巻き込まれてもおかしくないという状態に陥っている。テロに関しても安倍首相は、イスラム国に対して「テロに屈しない」と強調しているため、日本はいつテロの標的となるか分からない。テロリストが存在している限り、この世からテロがなくなることはないだろう。軍事力を強化している中国・北朝鮮を抑止するために、アメリカとの結びつきを強めて自国の戦力とすることをねらいとし、多くの反対を押し切って集団的自衛権の行使を認め、テロに屈しない姿勢を取り続けることは、安倍首相の独裁者としての性格を強め、武力行使を容認する政策は、明治維新の時代を思い出させるものとなるのではないか。そして、再び維新や革命という言葉で政策が処理されてしまうのではないだろうか。
(1285字)

1868年、鳥羽伏見の戦いが起きようとしていたとき、日本はまだまだ近代化のはじめにいた。200年以上続こうとしていた江戸幕府ではあるものの、彼らの政治は、停滞と腐敗のなかにあり、幹部のポストは、代々受け継がれてきた特定の家柄の者たちのみで占められ、そして彼らはなんら政治的な能力など持っていなかった。
 そのなかで台頭してきたのが、外様として排斥され続けてきた薩摩や長州の、気骨ある若者たちである。彼らは本気で日本の未来を憂いて、またそれと同時に、日本の近代化を進めうる力を持つ者たちであった。
 当時、日本を治めていたのはまぎれもなく、江戸幕府である。日本の基礎となる法規範、社会規範は、すべて幕府によるものであった。
 それに戦いを挑んだのが、いわゆる新政府軍である。彼らが起こした武装闘争は、現代でいうテロリズムとなんら変わりはない。
 しかし、この武装闘争は、完全な勝利をおさめてしまう。この「新政府軍」という呼び名も、彼らがこの革命に勝利したからであり、もし失敗に終わっていたならば、彼らはただの逆賊としてしか、後世に認識されなかっただろう。
 この革命の成功には、実に様々な理由が絡んでいるのだろうが、私は、まだ日本が近代化の途中にあったから、という意見を推したい。
 日本と世界を比べるまでもなく、日本の外の文明は発展していた。長らく鎖国状態を続けていた日本は、その恐るべき力に驚いただろう。その世界の発展に引きずられるようにして日本は成長しようとしていた。そこにつけいる隙があったのは間違いないだろう。日本という国家が揺らいでいたからこそ、新しい時代を開こうとしていたときだからこそ、彼らの革命は受け入れられたのではないだろうか。
 それとは対照的に1968年の前後、近代における最後の武装闘争を見てみたい。
東京だけではなく、ニューヨーク、フランクフルト、パリなど、各都市で若者による過激な青年運動が勃発した。それらは社会的承認を得ることとなり、やがてそれらの一部は武闘闘争を実施する集団へと成長した。
しかし、より影響力の強い集団へ進化したはずなのに、そのほぼすべては、結果として何も残さなかったのである。
1868年に起こった新政府軍による革命と、彼らが起こしたかったはずの革命。これに何の違いがあるだろう。なぜ両者ともに同じテロというくくりにいながらも、後者は抹殺されることとなったのだろうか。
その答えとして、単純に時代のせいであったといわざるを得ない。
1968年、もはや世界は完成されてしまっていた。彼らのテロを防ぐだけの知恵を、政府は過去の歴史から身に着けてしまっていた。
だが、これからもテロリズムによる世界の革命は十分に起こりうる。そのとき、私たち含めすべての人は、テロに加担することになるだろう。

はじめに、なぜ、1868年の武力闘争つまりテロリズムを行ったことは革命と名付けられ、正当化されているのに対して、1968年の前後に行われた武力闘争はテロリズムとして社会的に葬られたのかについて1868年と1968年前後の社会的規範の違いと、1868年と1968年前後のそれぞれの社会に満足している人の数という二つの視点から考えていく。
 一つ目は、1868年と1968年前後の社会的規範の違いであると考える。1868年というと鳥羽伏見の戦いが始まる年である。また、この時代の頃まで日本人は武士という刀をさしている役人が存在していた。そのため、罪を犯したりしたらその場で、刀で切られ、殺されることなどもあった。また、幕府にたてをつく人物を暗殺する、自分たちの気に添わないことがおきたら一揆や反乱を起こす、などのように人を殺すことや武力闘争することに対して特別悪いことだという考えがなかったと考える。1968年前後は1868年とは異なり、第二次世界大戦の影響などから武力闘争で失うものの多さについて気がついたり、人を殺すことを法律で厳しく禁じるなど人々が武力闘争に関して良くないこと、やってはいけないことという考えがあったと考える。そのため、1868年の武力闘争つまりテロリズムを行ったことは革命と名付けられ、正当化されているのに対して、1968年の前後に行われた武力闘争はテロリズムとして社会的に葬られたと考える。
 二つ目は、1868年と1968年前後のそれぞれの社会に満足している人の数の違いであると考える。1868年は江戸時代から明治時代に変わる大変革が起きた年である。今までの生き方、暮らし方が政府の方針で変えなければならないというように多くの国民に関係がある出来事であると同時に、政府の方針に納得できない国民つまり、社会に満足していない国民が多くいた。そのため、武力闘争を起こした者たちを称賛し、革命と名付けたのだと考える。1968年前後は1868年と比べて世界的に大きな出来事があったわけではなく、多くの人が武力闘争を起こすまで社会に満足していないわけではなかったのだと考える。そのため、武力闘争を起こした者たちをある種冷ややかな態度、つまりテロリズムとして社会的に葬ったのだと考える。
 この二つのことから、1868年の武力闘争つまりテロリズムを行ったことは革命と名付けられ、正当化されているのに対して、1968年の前後に行われた武力闘争はテロリズムとして社会的に葬られたと考える。

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テロリズムの勝利としての1868年明治維新として挙げられるのが、鳥羽伏見の戦いである。鳥羽伏見の戦いとは、1868年1月27日(慶応四年1月3日)に起こった旧幕府軍および会津・桑名藩兵と、薩長軍との内戦のこと。新政府が王政復古の大号令に続く小御所会議で徳川慶喜の辞官納地を決定したのに対し、旧幕府方が挙兵、鳥羽・伏見で薩長軍と交戦。戊辰戦争の発端となったが旧幕府軍の大敗に終わり、討幕派の優勢が確立した(三省堂 大辞林より)。また、この頃、江戸から東海道、近畿の京都や安芸国・広島、四国迄の広範囲な地域で「ええじゃないか」という騒乱状態が起こっていた。この騒動は、「世直し」、「世直り」観念と結びつき「世直し」運動の一つであった。「ええじゃないか」は、神仏のお札・お祓などが降下した時、老若男女を問わず、盛装、異装で地方特有の囃子言葉で踊狂しました。降札のあった豪農商から酒食の振る舞い、撒き銭などを受けた。騒動で主体となったのは、町や宿場町などの町民・宿民らで幕藩体制下の日常的抑圧からの自己解放だったと言われる。
 この時代では、自分の置かれている現状や、主導権を握っている政府などに不満があると、力を行使してその現状を打破しようとすることが普通のことであった。力でねじ伏せることで自分たちの思い通りにことを進めようとする暴力的な革命方法、また、騒動を起こすことで現状に反発するやり方しか選択の余地がなかった。故に、暴動を起こすことや武力革命は、現状打破のための一般的な方法で、正当化されていた。このようなテロリズム的考えに基づいた暴力革命で成功を収めたのが鳥羽伏見の戦いであった。
 テロリズムの敗北は、1968年以後である。1968年の前後、近代における最後の武装闘争が世界的に実施され、日本では、日本赤軍という集団が代表的である。日本赤軍とは、70年安保闘争を主導した過激派集団の一分派である「共産主義者同盟赤軍派」の流れをくみ、日本革命を世界革命の一環と位置付けて、その時々に応じた狡猾な革命論を展開しつつ武装闘争を引き起こす国際テロ組織のことである(公安調査庁 国際テロリズム要覧より)。彼らの武装闘争は、テロリズムとして社会的に葬られた。他にも、暴力的な社会変革運動の例としてオウム真理教事件なども挙げられるが、いずれも近代国家によって鎮圧されている。
 1968年頃から、暴力的に革命を起こそうとする者はみな、「テロリズム」として鎮圧されるような社会になった。彼らテロリズムがどのような考え、目的で社会変革を起こそうとしているのかという原因を省みず、単なる危険な者たちとしか捉えていない。しかし、目的の実現のために自己の生命を犠牲に供することも辞さず、かつそのときの公共性と公的規範を破壊することも問題ないという考え方はやはり危険なものである。1868年の頃のように、武力抗争が激しい時代ではない現代では、武力革命ではなくほかの方法で社会変革を求めることが平和に尽きる。ただ、社会変革を求める者を全て「テロリスト」である、と排除するのではなく、なぜ社会変革を求めているのかなどを考え、耳を傾けることが大切なことであると思う。

 革命とは、それまでの社会を破壊し新たな社会を創るのであるから、それまでの社会で高い地位を保つことができていたような人々が起こすものではない。かといって、弱者が社会を変革する程の力を持つことは難しい。従って、変革前の社会においても、ある程度の力を持っている者が起こすものであると言える。

 歴史的に見ても、フランス革命がそうであった。封建的身分制が維持されていた中世ヨーロッパにおいて、教会やギルド、領主や貴族といった中間団体は強大な力を持ち、多元的社会を構成していた。人々は各々の団体に所属し生活していたが、資本家にとって、自由にヒトやモノが動かない社会構造は障壁となっていたのである。

 これは、現在のグローバル社会においても同じことが言える。ヒトやモノの移動を行う際に国境の障壁があることは、ビジネス・経済にとって望ましくないとされる。よって、EUにおける移動の自由やTPPによる関税撤廃が進められているのだ。もっとも、現代の暴力革命‐テロリズムの影響から、難民・移民を含めた移動の自由については問題視され始めている。先日も、移民の流入による働き口の減少などを理由に、イギリスがEUからの離脱を国民投票によって決したばかりである。しかし、だからといって、今後企業の海外出張がすべて禁止されることはまずあり得ない。江戸時代の鎖国政策は、現代においてはもう通用しない。

 とにかく、資本家にとっては、中間団体が強力な権限を持つことは好ましくなかった。そこで、彼らは、自ら絶対王政をつくりあげたのである。王に権力を集中させ、中間団体を弱体化させる目論見であった。しかし、結論から述べると、この目論見は失敗に終わる。絶対王政下でも、中間団体の力は依然として強く、むしろ、所属団体の後ろ盾がない資本家たちに対して、絶対王政の悪影響が出かねなかった。自由と平等が理想とされる現代の価値観では、当時の身分制社会は打倒すべき悪徳そのものであるように思われるが、圧制から逃れるという役割を果たしていたとも言えるのだ。

 資本家たちは、ビジネスを行う上で不都合な中間団体の弱体化のため絶対王政を望むが、結局目的は達成されず、かえって自分たちに悪影響が及ぶというジレンマに陥った。結局は、王の圧制から逃れるために革命を起こし、主権を自らが持つことになるのである。そして、当時の資本家とは、一定の財力を持ち、社会の変革によってメリットを得られる存在であったのだ。

 また、絶対王政を打倒し国民主権を実現したと言えば聞こえはいいが、実際にはビジネス上の利益のために王をも利用し、その結果不利益を被ったために自らに主権を与えたのだ。現在、日本国憲法の三大原則として掲げられている国民主権ですら、元をたどればビジネス上の都合から発生した暴力革命によって生じたものである。もちろん、テロリズムを認めるわけではないが、現代のテロリストと呼ばれる者たちと中世の資本家の間には、なんら差はないように思える。考えられるのは、暴力によって主張を通そうとすることを認めない社会へと変化したということだ。

 ただし、テロリズムの制圧を目的とした空爆などは、現に関係のない一般人が巻き込まれていても正当化される。このようなことを行っているのは、かつて暴力革命によって自国の体制を大きく変化させ、世界中に文化や価値観を広げた欧米の国々である。従って、たとえ最初はテロリズムと呼ばれようとも、それが勢力を拡大し世界を席巻する程になれば、そのテロリズムは革命と呼ばれるのではないか。テロリズムと革命は一直線上にあり、段階によって名称が異なっているだけではないかと思う。
(1,499字)

 テロリズムのあり方、見方を考えさせられる題材だ。日本におけるテロの主たるものの一つが1868年から始まっていく幕府討伐の流れであろう。これは「革命」または「維新」として正当化されたが、武力でねじ伏せたということ、テロ行為であることに変わりはないように思える。勝った者が歴史を作るとはよく言うが、まさに幕府側の人々を傷つけてでも、たとえ殺してでも流れを自分たちの思うがままにした、とても悲惨な事例であったと自分は考えてしまう。勝った方はそれまでの犠牲や敗者のことなど忘れ、次の時代をせっせと作っていく。しかし負けた方にも生活はあった。その人々は捨て去っていいのか。そこを安易に考えてしまっては、ただのテロ行為なのだ。今も昔も武力を行使したテロは支持されてはいけないものだろう。1968年前後でも同じ事が言えるのではないか。世界各国で青年運動がベトナム戦争への批判や、自国の国政に対する批判のもと行われていった。この風潮は自分の代わりに国に訴えかけてくれるヒーローのごとく、国民の目には写ったのだろう。支持され勢力を増す青年運動の中に、武力で国に訴えかける団体が現れる。この瞬間国民は手のひらを返すように批判した。訴えかけているテーマは同じであるのにも関わらず、武力を使うということが問題視されているのだ。どこからがテロなのか。武力を持たないならそれはテロと呼ばないのか。疑問が残る。
 近代以降、テロ行為はより勢力を増して言っているような気がしてならない。私は、最近テレビをつけるたびに思うのである。近頃世界が慌ただしくはないかと、一番世界を騒がせているのは「テロ」という言葉である。何日かに一回は世界のどこかでテロ行為が行われ、日本人は大丈夫か、首謀者はISか、どのような国際的対策が打ち出されるのか等様々な情報が飛び交っている。テロは起こるべくして起こっているものなのか。しかし、テロは今に始まったことではない。ずっと世界的に注視してきた問題なのだ。現代において更にテロが収まることのない要因として、グローバル化が挙げられる。国際社会になり、自国だけでなく世界に目を向けなくてはいけなくなった。人々は世界を飛び回る。問題も一国だけで解消できないものも増えてくる。つまり、テロはどんどん手の届かない深みに行ってしまっており、あぶり出すことが困難なのだ。宗教的、民族的問題も大きなテーマだ。宗教の歴史はそれぞれの文化圏で独特のものが存在している。民族の違いは当たり前である。その中でマスメディアなどで一定の宗教、民族を一方的にテロの首謀者のように扱っているのではないだろうか。宗教格差を是正できる未来にこそテロがなくなる未来が待っているのではないか。
社会運動とテロ、この二つは厳格に分けられるべきものであり、テロには絶対に屈してはいけないのだ。
                                  1166字

牛丼大好
 テロリズムといわれると、私が思い浮かべるのは9.11や最近ではI.Sなどによるテロなどである。自爆的なものである印象が少し強いが、テロリズムとは、目的はともあれ、広義に「暴力行為」全般ではあると捉え、討議を展開する。
 テロリズムの動機は様々であると思われるが、宗教的なものによる動機に限らず、イデオロギーの違いによるものや、差別への対抗などの動機までも想定していくこととする。
 テロリズムの勝利と敗北。その背景にあるものはなんなのだろうか。そう考えると、テロリズムの勝利も敗北も同じことが背景としてあるのではないかと思われて仕方がなかった。それは、「暴力が一番、相手に与えるものが大きい」ということではないかと考える。
 勝利の理由として、良く言えば、テロリズムを企てる側の人間としては、外傷的にしろ、心的なものにしろ、相手に与えるダメージが一番大きいものであるが故に、19世紀当時には比較的簡単に自らの意思表明をすることができる手段であったと思われる。そして、当時はある程度の主体が暴力に力を注ぐことで、おそらく主体自身にとっては満足のいく結果を得られたケースが多いのではないかと思われる。
 反対の敗北の理由としてもやはり与えるダメージの大きさ故、二度の世界大戦を経験した手前、暴力の与えるものの大きさを痛感させられたことだろう。敗北に至るまでの経緯には、世界大戦のみならず、様々な要因が挙げられるかと思われるが、ここでは明記を控えることとする。
 参照にもある事柄と関連して記すと、私が考えるのは、主張する内容は別に自由社会だからある程度のことは不問ではあるが、その主張の仕方が暴力というのが問題アリということではなかろうかと考える。
 しかし、これは勝手なような気がしてならない。というのも自由社会だから、主張は地涌だけど、その主張の仕方は自由とはいかないのはおかしいと考える。たしかに初めから暴力にものを言わす行為を推奨するわけではない。しかし、テロリズムを起こす側の主張をちゃんと聞けているのかというところには疑問を残しているように感じる。多くの場合、テロリズムを起こす主体の主張というのは少数派の意見であると思われる。今も昔も、そして国内外に限らず、少数派の意見・主張を十分に聞けているのだろうか。
 私は、テロリズムを起こす主体が納得のいくほどの話し合いなどの暴力以外の場面が十分に設けられていない限りにおいては、テロリズムはなくならないだろうし、それも仕方がないことだと考える。そして、昔以上に世界規模での関わりが生まれている今日においてはより、少数派と考えられる人々の意見や主張を聞くべきケースが多くあるのではないかと考える。

暴力革命について
 まず暴力革命とは何なのか考える。暴力革命とは、抑圧の道具である国家機構をプロレタリアートを中心とする組織された暴力によって解体し、搾取と抑圧のない国家機構を創出する革命を言う(コトバンク)。現代ではよくテロリズムという言葉を聞くことが多いが、暴力革命とはこのことであろう。この暴力革命は私たちのような一般人からすれば、いきなり暴力で革命を起こされるとどのように対処すればよいのか考えなければならない。しかし、その革命を起こそうと計画している個人や集団は、何かしらの目的や目標がある。その目的や目標達成方法のひとつで「暴力」があげられるのだろう。これについて私の考えを述べる。
 私は、暴力革命は、いくらそれを計画した個人や集団に深い目的があり、それを達成するための一つの方法だとしても、「暴力」を用いるのは決して良くないと思う。今がそのような社会だから、という理由が一番であるが、決められたルールの中でどのようにして、目的を達成すればよいのか自分たちでもう一度考えるべきではないかと思う。
 また、もう一つの理由として考えるのは、治安の問題である。「60年安保闘争」があった。これは、日米安保条約の改定交渉が本格化する中で、日本社会党、総評等による「安保条約改定阻止国民会議」が結成されたことにより始まったものである。その際に、過激派はその会議やデモなどに介入し、暴力的な行動を行い、日本の治安に大きな影響をもたらしたのである。「暴力」が肯定されることで、最終的に「暴力」に逃げてしまう恐れがあると考える。これでは、日本の治安はどんどん悪くなってしまい、国内での紛争が起こってしまう恐れもある。また、話し合いをせずに、自分たちの考えだけを主張し、納得のいかないことがあったら「暴力」をするという考え方もあってはならないことだと思う。それではより良い方向に国をリードすることができなくなってしまう。自分たちの意見だけではなく、相手の意見もしっかり聞き入れるような環境を作るためにも、暴力革命はあってはならないことだと思う。
 そして、一番重要だと私自身が感じることは、「暴力」を受け入れるような環境になってしまうと、今後、日本や世界を担う子供たちが得られるものがなくなってしまうと思う。それは、「暴力」で解決する。という最後の選択肢を握っていることで、その他の選択肢を考えることなく、「暴力」に逃げてしまう。これでは、子供たちが学べることが少なくなってしまう。様々な選択肢を与え、その中でのルールを示し、そのルールの中でどのような取り組みが一番良いのかを考えてもらう。そうすることで、今後の日本や世界をより良いものにしていく力が身に着けることができるだろう。


超現代的思考への挑戦
 
 これまでの歴史を見るとクーデターが許された時代がある。しかし、そのようなことを現代に行うとそれは、テロリズムとして世界から抹消される。イスラム国の人の活動を世界は、好まない。しかし、私は彼らの社会を変えたい意志は、高く評価する。そして、彼らの意志に導かれ、人は集う。しかし、そのようなことを現世界は、許さない。あたかもイスラム国が不当な集団だと報道では伝えられそして、それらのことに否定的に傍観者は、捉えてしまう。イスラム国は、悪か。それは、間違いだ。私たちは、日本に生きているだけでイスラム国に否定的な意見を持ちやすいが、イスラム国は、悪いことはしていない。彼らには、彼らの正義が存在する。しかし、これを武力で押さえつけようとする世界は、悪か。それも間違いだ。彼らには、彼らなりの正義が存在する。正義と正義が衝突するとき人は、何をするだろうか。それは、争いだ。戦争や論争あらゆる手段によって人は、正義を貫徹させようとする。
 戦い、それは人間が避けられない宿命だ。戦わなければ負けたとみなされる。正義のぶつかりは、厳しいものだ。戦いは、時に教訓を生み私たち人類に知をもたらす。大量の血の上に立つ私たちは、生々しい後景を残してきた。このことは、否定できない。テロリズムは、許されていた。正当な手段とされ、その結果今がある。私たちは、今生きている。数々の屍と血しぶきが、私たちの時代をつくる。これは、事実だ。しかし、今は血を嫌う。このことがテロリズムを許していないことは、現代の象徴だと考える。なぜ、今だけ血を嫌うのだろうか。
 私は、刑罰が原因だと考えられる。身体刑から自由刑の変化だ。重田によると身体刑も自由刑にも貫徹する理屈があるとされている。(p20~p22参照)革命に王を殺すことや王妃を殺すことは、当たり前だった。しかし、今は拷問が禁止され身体刑から、自由刑の変化が行われている。このことが、現代がクーデターを称賛した時代とは違い、テロリズムとして排除しようとする傾向があることだと考える。要するに価値観が変わったということだ。価値観が変わってしまったことが、原因だと考える。ただ、価値観が変わっただけだ。それ以上何もない。
 これらのことから、クーデターをテロリズムに変えてしまった原因は、時代の流れだ。価値観の変化がそうしただけだ。そして、このことについて議論は不可能だ。だからこそ、私たちに与えられた手段は、戦争でも対立でも無視でもない。受け入れることだ。私たちが世界を包括する。そして、時代を包み込むことが必要だ。その際に、一方が語り掛けているときに一方が口を挟むことはいけない。語り合うのではなく、分かち合うことが、クーデターもしくはテロリズムの先にある超現代の姿勢だと考える。

参考文献
重田園江『ミシェルフーコー・近代を裏から読む』ちくま新書 2011年

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