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後期近代における公共性の存在形式――公共交通における路面電車ルネサンスの政治思想的基礎づけを中心にして(その一)

後期近代における公共性の存在形式――公共交通における路面電車ルネサンスの政治思想的基礎づけを中心にして(その一)

         

はじめに

 本稿の目的は、後期近代における公共交通の意義を政治思想的観点から基礎づけることにある。とりわけ、後期近代に復権した路面電車の意義を公共交通総体において考察する。1980年代の路面電車ルネサンスを公共性の形成というコンテキストにおいて位置づける。

1.後期近代という時代に関する一般的考察

 近代という枠組は不変ながらも、初期近代とは異なる時代区分、すなわち後期近代という時代が設定される。初期近代とは、近代革命勃発前後から後期近代が始まるまでの時代を指している。後期近代において近代の基本的理念たとえば自由、平等、連帯が公共的圏域において実現される。この原理自体に対する異議申し立てが不可能になる。後期近代という時代設定は、暴力革命が社会的承認力を喪失したことに対応している。近代の理念が少なくとも公共的圏において確立したことによって、暴力革命への承認力がなくなる。
 後期近代がいつ生じたのかに関しては諸説あるが、1960‐70年前後を境界にしている。近代革命成立以後も暴力的な社会変革に対する社会的承認は、部分的には残存していた。しかし、1968年前後における世界的な学生運動の生成と敗北を境にして、それに対する社会的承認力は失われてしまう。どのような種類の理念を掲げようと、暴力的手段による社会変革はテロリズムとして社会的に葬られてしまう。彼らがどのような目的で社会変革運動を為したのかさえ、報道されることはない。1989年のベルリン革命により、最終的に資本主義社会とは異なる社会に関する概念、たとえば社会主義社会という概念が、西欧においてその承認力を喪失する。
 世界総体の変革というプロジェクト、そしてその前提の社会の総体的性格づけが、1989年の変革以降において失効する。「1989年の転換は、・・・資本主義、自由主義、社会主義と結合した集合主義を解体し、共産主義からその生存根拠を奪った敵にその死を与える」。1 社会主義および共産主義だけがその権威を喪失しただけではない。近代社会を基礎づけてきたこれまでの諸概念も失効する。その過程で、社会を我々が構成しており、我々が変革できるという初期近代における思想は、後期近代において衰退する。中世における社会総体と同様に、後期近代におけるそれは、所与の自然と同一視される。社会総体の性格づけは還元主義と同義になり、その不可能性が宣言される。
 後期近代において、社会総体の変革ではなく、より小さな部分社会の変革が問題になる。初期近代において想定されていない事柄が、後期近代において出現したからである。より正確に言えば、社会総体の変革の無効性の代償行為として、それが出現した。部分社会の変革が初期近代に存在しなかったわけではない。たとえば、環境問題も、初期近代、否すでに前近代において存在していた。鉱山開発は前近代からあったし、それに伴う鉱毒問題、空気の汚染、伐採過多による洪水等の問題もあった。しかし、高齢者問題、高度医療問題、原子力問題等と同様に、後期近代特有の問題として環境問題が出現した。つまり、後期近代に普遍的な課題として大衆社会において認識された。近代の一般理論において対応不可能な問題が出現した。後期近代という時代区分が必要にされている。
 この問題を社会科学的により詳細に検討してみよう。後期近代に関する議論において中核を占める構成概念は、社会的個人の原子化の進展である。周知のように、近代社会は基礎的共同体、つまり家族共同体、親族共同体、村落共同体等の根源的共同性を弱体化させることによって成立した。通説によれば、近代市民社会はこの傾向を推進したとされる。しかし、初期近代における市民社会は、必ずしもこの傾向を推奨していたわけではない。「市民社会は、原子化傾向をその極端まで関知していたわけでも、善とみなしていたわけではない。
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 市民社会は、実体的紐帯への個人の拘束、その社会的前提を信じていた。家族は、社会的有機体の自然的紐帯とみなされていた」。2 市民社会は諸個人の原子化傾向を促進すると同時に、それを阻止する契機、たとえば家族、親族等の共同体的機能によって基礎づけられていた。
後期近代における個人の原子化は、この人間的な自然的被規定性を根源的に破壊する。個人が社会的原子として自立し、相互に交換可能な構成要素になり、機能的に流動化してゆく。最後の自然的紐帯である家族ですら、無条件で必然的な子供の生産に限定されてゆく。家族機能は、「大衆民主主義に対する塞き止めではなく、その訓練場所として作用する」。3 この社会的諸前提から分離された個人は、多元的空間においてその次元に応じた複数の社会的役割を担う。この分業秩序は、初期近代におけるヒエラルヒー的秩序から解放されている。「市場、競争、蓄積というブルジョワ社会の性格は社会的ではなく、むしろ反社会的である。結合よりも、脱結合に向かうがゆえに、一般にあらゆる社会的連関から抜け落ちた非構造的な大衆の問題が生じる」。4この大衆は、構造化されたヒエラルヒー的秩序から逸脱しようとする。
 初期近代において分業は、社会的ヒエラルヒーを強化していた。この秩序に組み込まれることによって、個人もまた垂直的かつ固定的に秩序づけられていた。このヒエラルヒーは社会的不平等の実践的表現であった。命令と従属関係が個人の全人格を性格づけていた。分業は固定的な自然的紐帯と同一視されていた。
対照的に、後期近代において分業が極限まで強化されたことにより、社会的労働の全体性が差異化し、小さな単位に極限までに分節化される。「分業がヒエラルヒーとしてもはや表象されず、むしろ様々な労働形式が存在し、その不可欠性によって原理的に等価であると表象される」。5 初期近代において神によって召されたという職業意識は、ヒエラルヒー的な秩序意識を意味していたが、後期近代において水平的な社会的役割という意識によって代替される。原子化された個人は、原理的な交換可能性によって平等化される。個人はその業績に応じて特定の社会的役割を担うだけである。社会的平等性が万人に開かれている、という社会的意識が一般化する。このような自然的紐帯から解放された個人の原子化によって、市民の平等化が促進される。「孤立しており、解放された個別的個人が、自由主義的かつ市民的世界において中心的、最終審級、絶対になる」。6 この個別的個人が、ヒエラルヒー的秩序から解放された個人として平等な関係を結ぶ。
労働の領域におけるヒエラルヒー的秩序が解体される。消費の領域におけるヒエラルヒー的秩序も解体される。これまですべての歴史に共通していた消費財の不足を解消した後期近代は、すべての市民にそれへの接近を平等に配分している。
 大量に生産された消費財は、大量に消費する消費者という機制を必然化する。「第二次世界大戦以後における技術と産業の比類なき発展は、大量生産と大量消費を社会生活の中心においた」。7 原子化された主体は、労働する主体としてだけではなく、消費する主体として現象する。消費活動は、技術的合理性ではなく、快楽主義的思想を全面に押し出す。消費者としての市民という表象が全面に現れる。「シトワイヤンとしてブルジョワという市民的表象に代わって、シトワイヤンとしての消費者という大衆民主主義的表象が現れる」。8
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労働主体としての市民だけではなく、消費者としての市民が、伝統的な自然的共同性の解体過程においてより前面に出現してくる。
 後期近代における原子論化の進展において、なぜ公共性という概念が出現してくるのであろうか。本稿では、この思想史上の問題に対する直接的回答に代えて、後期近代に関するこのような性格づけを前提にしつつ、公共交通とりわけ路面電車の意義を討究しよう。そして、公共性の意義を公共交通における路面電車の役割によって逆照射してみよう。私的個人交通が道路に溢れたとき、公共交通を充実することによってその利益が貫徹される。公共的利益をより高次の段階に移行させることによって、私的個人交通の利益が貫徹される。この逆説の意味を以下で検討してみよう。
この公共的利益の実現程度は、時間と空間に依存している。どのような水準で公共的利益がより実現され、あるいは私的利益がより追求されるかも、条件依存的である。この概念は様々な下位概念から構成されている。環境問題を例にとってみても、空気、水、騒音、臭い等の様々な下位概念から構成されている。どの下位概念において公共性を設定するかに応じて、公共性という概念も異なってくる。
 本稿において考察対象になっている1980年前後に生じた路面電車ルネサンスも、同様な前提のもとで考察される。「地方自治体における環境保護と公共性――この二つの同一方向へと向かう傾向は、最近みられる。環境問題における公共性の鋭敏化は、つねに上昇している」。9 このような言説は、公共的空間においてしばし見出されている。しかし、環境問題に関する詳細な分析は、個々の論者の数に応じて無数に異なっている。
 さらに、1980年前後に生じた路面電車ルネサンスも、すべての都市において生じたのではない。たしかに、ドイツにおける都市たとえばカールスルーエにおいて、前世紀末から路面電車が軌道だけではなく、直接的に鉄道に乗り入れている。路面電車と都市高速鉄道そして近郊鉄道が、有機的に結合されている。それは、カールスルーエ・モデルとして世界的に喧伝された。それだけにとどまらない。「カールスルーエ以外の諸都市においても、路面電車路線が新たに建設され、あるいは古い路線が再営業化された」。10 公共交通における路面電車が、ドイツの後期近代において再び意義づけられた。11
しかし、路面電車が後期近代において果たす役割は、初期近代におけるそれと同義ではない。ドイツの都市すべてにおいて、路面電車が主要な地域内の公共的人員交通として復活したわけではない。たとえば西ベルリンの中心街において、ベルリン中央駅周辺を除いて路面電車は1967年から現在に至るまで営業運転していない。12 むしろ、路面電車ルネサンスが実現された都市の数は、実現されなかった都市より少ないであろう。
 このように後期近代という概念は、時間、空間、水準等において差異的に現象する。厳密に言えば、初期近代から後期近代への移行は、重層的かつ跛行的である。その固有の対象における時間、空間、水準等が確定することによってのみ、その移行あるいはその非移行が考察される。



1. A. K. Landt: Mechanik der Mächte. Über die politischen Schriften von Panajotis Kondylis. In: Hrsg. v. F. Horst: Panajotis Kondylis. Aufklärer ohne Mission. Berlin 2007, S. 110.
2. P. Kondylis: Der Niedergang der bürgerlichen Denk- und Lebensform. Weinheim 1991, S. 193.
3. Ebenda.
4. H. König: Zivilisation und Leidenschaften. Die Masse im bürgerlichen Zeitalter. Reinback b. Hamburg 1992, S. 132.
5. P. Kondylis: Der Niedergang der bürgerlichen Denk- und Lebensform. a. a. O., S. 195.
6. H. M. Lohmann: Wirtschaftsbürger, Bildungsbürger, Konsumbürger- der Bürger bleibt. In: Hrsg. v. F. Horst: Panajotis Kondylis, a. a. O., S. 129.
7. Hrsg. v. F. Horst: P. Kondylis: Das Politische und der Mensch. Grundzüge der Sozialontologie. Aus dem Nachlaß. Bd. 1. Berlin 1999, S. 31.
8. S. Lahrem u. O. Weißbach: Grenzen des Politischen. Philosophische Grundlage für ein neues politisches Denken. Stuttgart u. Weimar 2000, S. 245.
9. J. Blatter: Umwelt und Öffentlichkeit. Beispiele kommunikativer Instrumente im Umweltschutz. Berlin 1991, S. 2.
10. E. Ehr u. S. Bobinger: Umweltverbund im Nahverkehr. Entlastungspotenziale durch eine integrierte Förderung umweltschönender Verkehrssysteme unter Berücksichtigung der Straßenbahn. Berlin 1994, S. 10.
11. Vgl. Saarbahn. Historie 1995-1999. http://www.saarbahn.de/de/ueber_uns/historie_1899_2012/historie_1995_1999. [Datum: 04.04.2013]
12. Vgl. Berlin Hauptbahnhof. In: http://de.wikipedia.org/wiki/Berlin_Hauptbahnhof. [Datum: 25.09.2014] 

注釈
本稿は、「後期近代における公共性の存在形式――公共交通における路面電車ルネサンスの政治思想的基礎づけを中心にして」『北海道教育大学紀要(人文科学・社会科学編)』(第66巻第2号、2016年、61-72頁)として既に公表されている。なお、統一脚注を節ごとの注に直している。同時に、『公共空間X』にも転載予定である。


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