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討論:世界変革

世界を人間的理性にしたがって再構成するという思想がある。なぜこのような思想が生じるのか、批判的に再検討する。

1、締め切りは5月8日24時である。
2、1000字以上1500字以内の分量である。
3、コメント欄に貼り付ける。

20160509

締め切りました。コメントを公開しました。興味深いコメントありがとうございます。

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コメント

まず、「理性」とは何だろうか。
広辞苑によると「理性」とは、第一に、概念的思考の能力であり、実践的には感性的欲求に左右されず思慮的に行動する能力のこと。第二に真偽・善悪を識別する能力のこと。第三に超自然的啓示に対し、人間の自然的な認識能力のこと。以上を理性の定義として挙げていた。
 ここで、パルメニデスが提唱した理性の概念について述べたい。パルメニデスは感覚よりも理性に信を置いて真に在るものは不変だと考えた。つまり、感覚よりも理性を重んじ、理性を用いた論理的思索を行った結果、「有るものは、永遠に存在し、無からは何も生まれない」といった哲学にたどり着いたのである。
 この2つの特徴をまとめると、理性、ひいては人間的理性とは、何物にも左右されない、不変のものとして捉えることができるのではないだろうか。私たちは、その不変を求めるために、世界を再構築する必要があったと考えることができるだろう。
 歴史的世界をつくる目的としても上記に挙げた事柄は当てはめることができる。歴史的世界は理性の展開過程であり、理性が実現されることを前提としている。また、歴史的世界は常に事後的である。これも上記のことに照らし合わせると納得することができるはずだ。
 マルクス主義は、歴史の目的として共産主義の実現を設定し、キリスト教は歴史の目的として千年王国を設定している。これらは、常に事後的に設定されたものであるものの、共通性として、共産主義、千年王国ともに永遠の「不変」を求めていることが挙げられるだろう。
 そして、国家が繁栄していくにあたり、人倫的理念として理性国家が求められるようになった。思慮的に行動すること、真偽・善悪を区別すること。これらを完全に整備していくことが必要になったのである。そしてそれは国家と国民の間に生じる普遍的利益と特殊的利益が統一されることを目指したものであった。
 このように、時代が進み、歴史が刻まれ、国家が形成されていくうえにおいて、人間的理性とは人々の中に自然に生ずることとなったのではないだろうか。
もし、そうでなければ、今までの歴史はあいまいなものとなっており、また人々の暮らしも無法地帯と化していた可能性がある。
 人々が人間的理性に基づいて行動することで、私たちの歩む歴史はのちの世で永遠のものとして形作られるはずである。世界は常に人間的理性によって再構築されているといってもいいだろう。そうして私たちの歴史は作られていく。

投稿: 野菜生活 | 2016年5月 8日 (日) 23時54分

今回の討論では世界を人間的理性によって再構成するという思想がなぜ生じるのか、ということであるが、じぶんはまず、それについて現在の世界は人間的理性によって構成されていないのか?という疑問を持った。このような議題が上がるということは現在の世界は人間的理性とは対照的な物事によって構成されているということになる。では理性の対義語は何であるのかということを考えてみると、辞書では理性の対義語を感情と規定しており、ヘーゲルは悟性を理性の対象としている。今回はわかりやすいため、理性の対義語として感情という言葉を設定する。では、現在の世界は感情によって動いており理性によって構成されていないのかといわれると、私はそうは思わない。確かに、現在において感情が一切世界の構造に介在していないかといわれると、そうであるとは言えない。しかし、比率としては理性のほうが大きい割合を占めているように感じられる。ではなぜ今回の議題のような思想が生まれたのかというと、それは人それぞれによってとらえている世界が違うからではないのかと考えた。例えば、日本人とアメリカ人では生活習慣や価値観にちがいを大きく持っている。このような場合に、どちらか片方が理性的な判断をしたと思っていても、他者から見た場合、それは感情的な行動を行っているように見えるかもしれない。また、今回の議題のような思想について私は詳しくはわからないが、理性的な判断をどこまで広げるのか?という問題も考えられる。世界の大きさとはやはり人それぞれによって違っており、文字通りこの宇宙全体を世界ととらえる人もいれば、地球だけ、国家だけ、また、自分の知り合いだけを世界ととらえる人もいるだろう。したがって、個人の世界から外された人から見ると、他人の行動は感情的に見えるのではないかと考えた。近年の例で考えてみるとアメリカがイスラム国に対して空爆を行っている、というような記事が新聞やニュースで取り上げられていたが、それを批判する人間は多くいた。批判する人間にとってそれは感情的行動に思えるかもしれない。しかし、アメリカの立場で考えてみると、彼らの世界とはアメリカ国内だけであると考えることができ、彼らの世界の外、つまり空爆され、被害を受けた一般人のことについては考えない、という考え方ができるのではないかと思った。(空爆を肯定しているわけではないが)つまり、すべての人に当てはまる理性という概念は存在せず、その世界から外された人の目から見た場合、現在の世界は感情的世界に見え、自分の存在を認め、守ってくれる世界を理性的な社会として欲するため、このような思想が生まれるのではないかと考えた。

投稿: 百発百中 | 2016年5月 8日 (日) 23時09分

2016.5.8提出 雪見大福

討論:世界変革
 世界を人間理性にしたがって再構成するという思想がある。理性によって人間を含む世界の全体を把握できると考えた哲学者の1人として挙げられるのが、ヘーゲルである。ヘーゲルは近代哲学を完成し、これまでの歴史総体を体系化しようとした。哲学史は、理性の実現という観点から統一的に把握され、ある哲学がそれぞれの歴史の発達段階を表現しているため、歴史的世界の目的は理性を実現することであるとした。また、ヘーゲルは、現実は精神の理念が具現化されたものであるから理性的であり、現実的なものは理念として把握されることによってのみ存在すると考え、「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」と述べた。ヘーゲル哲学では、現在の世界だけではなく、過去の歴史総体が1つの体系として哲学によって提示されるとし、ヘーゲル哲学は歴史総体を把握する。未来は哲学的に把握不能であり、哲学は未来に対しては禁欲的であると述べている。歴史的世界というのは理性の展開過程とみなされ、歴史的世界は事後的に再構成されるとした。これまでの歴史は理性的に統括され、歴史的世界として概念的に把握される。歴史的世界は、世界において目的が存在すること、理性が実現されることを前提にしている。歴史的世界は何らかの目的をもっていて、この目的は、近代社会の原理である自由の実現と関連している。個々人だけではなく、客観的精神が、構想されたものとして自由を目的にしており、歴史的世界と世界は、自由という理念の自己展開過程であると考えた。
 ヘーゲルは具体的な物事よりも、感覚され、見たり触れたりできるものよりも、理性的なもの、つまり概念の方が現実だと言った。現代に置き換えて考えると、社会や国家というのも概念であり、具体的に目に見えるものではない。しかし、個人よりも、社会や国家の方が本当の実在であるように感じる時がある。現代、私たちは、個人が集まって社会や国家を形成すると考えているが、ヘーゲルは逆で、社会や国家があって初めて個人というものが成立すると考えたのである。ヘーゲルは、現実は非合理な物事が多いと考えていたため、現実の物事は抽象的であって、具体的なものとは考えなかった。本当に具体的で現実的なものは、却って抽象的な概念、理性的なものだと考えていた。
 ヘーゲル哲学から、世界を人間理性にしたがって再構成するという思想がなぜ生まれたのかを推測すると、人間の生は有限であり、人間はなんらかの仕方でそれを把握しようとし、人間は一般にそれを生まれながらにして無自覚的に持っており、無意識的に人間のみが持ちうる理性が優れたものであると思い込み、故に世界を再構成することが可能であると考えているためではないかと考える。


投稿: 雪見大福 | 2016年5月 8日 (日) 22時50分

はじめに、世界を人間的理性に従って再構成するという思想について、なぜこのような思想が生じるのかを批判的に再検討する前に人間的理性というのはどのようなものであるかを検討する。その後、その人間的理性に従って世界を再構成するという思想を批判的に再検討する。
 次に、人間的理性とはどのようなものであるのかについて考える。明鏡国語辞典で、理性とは、「本能や感情に支配されず、道理に基づいて思考し判断する能力」とされている。この理性に人間的という単語がくっつくことによってほかの動物には見ることのできない人間的な本能や感情に支配されず、道理に基づいて思考し判断する能力を人間的理性と考える。逆に本能というものは明鏡国語辞典では、「動物に生まれつき備わっている能力や習性」とされている。
 次に、世界を人間的理性に従って再構成するという思想について、なぜこのような思想が生じるのかを批判的に再検討する。世界を人間的理性に従って再構成するというのは現在の世界を人間的な本能や感情に支配されず、道理に基づいて思考し判断する能力に従って再びつくるというものであると考える。このことを批判的に考えると二つの疑問が生じる。
 一つ目は、なぜ、人間的理性に従って再構築するのか、人間的本能では再構築してはいけないのかということである。人間(動物)に生まれつき備わっている能力や習性である本能ではなく、本能や感情に支配されず、道理に基づいて思考し判断する能力である理性である必要はないと考える。また、理性と合わせて生まれつき備わっている能力や習性をうまく使っていくことによってより良い世界が生まれる可能性もあるため、人間的理性に従う必要はないのではないかと考える。
 二つ目は、世界を人間的理性に従って再構築する必要があるのかということである。そもそも現在の世界は人間的理性に従って構築されていると考えるからだ。なぜなら、人間もほかの動物のように本能に従っていたならば、現在のようなインターネット社会が発達するなど、さまざまな発展はなかったと考えるからだ。
 最後に、以上の二つの疑問点から(なぜ、人間的理性に従って再構築するのか、人間的本能では再構築してはいけないのかということ、世界を人間的理性に従って再構築する必要があるのかということ)人間の本能に関して良い感情を持ってはおらず、また、現在の世界に満足してはおらず、人間的理性に従うことによって世界はより良く再構成されると考えている人々がいるため世界を人間的理性に従って再構成するという思想が生じると考える。

投稿: 無機栽培 | 2016年5月 8日 (日) 21時24分

 はじめに、世界を人間的理性に従って再構成するという思想について、なぜこのような思想が生じるのかを批判的に再検討する前に人間的理性というのはどのようなものであるかを検討する。その後、その人間的理性に従って世界を再構成するという思想を批判的に再検討する。
 次に、人間的理性とはどのようなものであるのかについて考える。明鏡国語辞典で、理性とは、「本能や感情に支配されず、道理に基づいて思考し判断する能力」とされている。この理性に人間的という単語がくっつくことによってほかの動物には見ることのできない人間的な本能や感情に支配されず、道理に基づいて思考し判断する能力を人間的理性と考える。逆に本能というものは明鏡国語辞典では、「動物に生まれつき備わっている能力や習性」とされている。
 次に、世界を人間的理性に従って再構成するという思想について、なぜこのような思想が生じるのかを批判的に再検討する。世界を人間的理性に従って再構成するというのは現在の世界を人間的な本能や感情に支配されず、道理に基づいて思考し判断する能力に従って再びつくるというものであると考える。このことを批判的に考えると二つの疑問が生じる。
 一つ目は、なぜ、人間的理性に従って再構築するのか、人間的本能では再構築してはいけないのかということである。人間(動物)に生まれつき備わっている能力や習性である本能ではなく、本能や感情に支配されず、道理に基づいて思考し判断する能力である理性である必要はないと考える。また、理性と合わせて生まれつき備わっている能力や習性をうまく使っていくことによってより良い世界が生まれる可能性もあるため、人間的理性に従う必要はないのではないかと考える。
 二つ目は、世界を人間的理性に従って再構築する必要があるのかということである。そもそも現在の世界は人間的理性に従って構築されていると考えるからだ。なぜなら、人間もほかの動物のように本能に従っていたならば、現在のようなインターネット社会が発達するなど、さまざまな発展はなかったと考えるからだ。
 最後に、以上の二つの疑問点から(なぜ、人間的理性に従って再構築するのか、人間的本能では再構築してはいけないのかということ、世界を人間的理性に従って再構築する必要があるのかということ)人間の本能に関して良い感情を持ってはおらず、また、現在の世界に満足してはおらず、人間的理性に従うことによって世界はより良く再構成されると考えている人々がいるため世界を人間的理性に従って再構成するという思想が生じると考える。

投稿: 無機栽培 | 2016年5月 8日 (日) 21時23分

 世界全体を人間的な理性に従って再構築するという思想が存在する。これは、人間のもつ理性に基づいて、世界全体を新たに把握し、構築し直すという思想である。では、世界の新たな把握において、理性的な状態とはどのような状態であるのだろうか。『大辞林 第二版』によると、「感情に走ることなく、理性に基づいて判断し行動するさま」とある。人間の判断や行動には、理性と感情が基となっている。この理性を能動的に働かせ、感情をうまくコントロールすることができる状態を理性的な状態と呼ぶのだろう。
 次にこの、理性的な状態を保つための感情のコントロールに注目したい。スピノザによると、感情には欲望、喜び、悲しみがある。人間個体が自らの同一性を維持しようとする力が欲望である。喜びとはこの欲望における力の増幅で生じ、悲しみは欲望における力の減少により生じる。そして、私たち人間が理性的に振舞うためには、この喜びと悲しみのバランスをいかに保つかが重要であるとスピノザは述べている。そして、人間が社会的な生活を営むためにはこの理性が必要であり、それによって人間の幸福が満たされるという。この幸福が満たされることを理性知とし、人間の真の自由はこの理性知の果てにあるとした。
 様々な争い、例えば戦争など人類はたくさんの悲しみを生み出す行いをしてきた。その反省から、そのような状況を打破するために、スピノザの言葉を借りるならば、真の自由を求めるため、人間のもつ理性によって世界を再構築するという思想が生まれたのではないか。このように考えると、人間的理性に基づいて、人々が判断、行動すると、現在の世界は大きく変容し、再構成されていくだろう。
 ここで、理性の特徴を考えたい。先ほどの理性的な状態とはどのようなものかという点でも触れたが、理性とはまず、感情とは別回線にあたる、論理的な思考に基づいて、ある人がその意思決定を行う能力である。この時、一時的な感情の揺らぎなどによって邪魔されないかぎり、その意思決定は感情によるものよりも優先される特徴がある。この理性の土台となっているのはその人の価値観である。しかし、この価値観というのは人によって背景などが違うため、大きく異なる。人の価値観を形成するにあたって土台となっているのは、その人の経験などに基づく感情であるといえる。このように考えると理性は感情に対して、機能的には優位ではあるが、その在り方自体は感情に依存するといえる。このことを踏まえると、人間的理性は感情と絶対的に切り離すことは実際には不可能である。感情による影響を必ず受けるため、すべての人々が恒常的に理性的な状態を保つことはできないのである。
 以上の点から、世界を人間的理性に従って再構成するという思想は、たしかに理想的であるとはいえるが、実質的には不可能な問題であるだろうと私は考える。

投稿: 本末転倒 | 2016年5月 8日 (日) 21時23分

政治思想史 レポート
青森少女

世界を人間的理性にしたがって再構成する思想において、人間的理性とはどういう意味なのか疑問に思った。人間的を違う言葉で言うと人間らしいと言い換えることができる。理性という言葉はよく使われるがよく意味がわからないので辞書で調べてみた。理性とは感情におぼれずに、筋道を立ててものごとを考え判断する能力と載ってあった。人間らしいという言葉と感情におぼれないというのは既に矛盾しているように感じる。ここで私は世界を人間的理性にしたがって再構成する思想というのを人間らしい考え方で世界を見つめなおす思想という風に解釈する。
そのように解釈すると世界を見つめなおすというのはいいように聞こえる。しかし、それを人間らしい考え方となると聞こえ方が変わってくる。どのようにして世界を見つめなおすのだろうか。人間らしいというだけでどこか身勝手でわがままなイメージがある。たとえとても素晴らしい生き方をしてきた人で周りからも支持されている人がいたとしても世界を見つめなおして再構成する、新たに作り直すときには自分の都合のいいように改革してしまうのではないだろうか。人間は身勝手でわがままな生き物だ。どんなにいい人でもやはり自分のことも大切なのである。そんな人間が世界を見つめなおし新たに作り上げ素晴らしい世界を作り上げることができるのだろうか。
世界は変えることができる。だが、それはまた新たに考えて作り直すものではない。暮らしていく、誰かと時間を共有する、色々な経験をする、そういう中で人間全員が違う生き方をしていくなかで良いほうにも悪いほうにも変わっていくのではないのだろうか。世界は決して誰かが再構成、作り直すものではない。また、何が良い世界で何が悪い世界なのだろうか。国、歴史、気候、宗教、文化、人種などすべてが同じ人間など一人もいないこの世界で全員が一致する正しい考え方などあるのだろうか。もし、再構成するとしても正解なんてないのだから何をどのように再構成することができるのだろうか。再構成するというのはそもそも不可能なことではないのだろうか。何が正しいのか、何が間違いなのかそれすらわかってない人間が再構成などできるわけないのだ。また、再構成という言葉で表すと今までのものをなくして全く新しくするというように感じてしまう。そういった点からでもこの思想は賛成できる思想ではない。何を目指すためにこのような思想が存在していたのかはわからないが今はこの世界に生きている私たちが正しいと思う行動をとって生きていくしかない。その正しいと思う行動こそがここでいう再構成なのではないのだろうか。

投稿: 青森少女 | 2016年5月 8日 (日) 20時15分

世界を人間的理性で再構築するということ、それはつまり世界中のすべての人間の理性をまとめなくてはならないと考えた。まず、理性という言葉から考えてみる。
理性とは人間に本来的に備わっている知的能力の一つである。言い換えれば推論能力である。そして世界理性というときには人間の能力という意味ではなく、世界を統べる原理、という意味になる。
しかし、人類がたどってきた歴史を振り返ってみたとき、理性という言葉に世界を統べる原理があると思えるだろうか。答えはノーであると考えた。
理性に世界を統べる原理があるなら、今までの人類の歴史で戦争や差別は起きなかっただろう。むしろ人間に理性が備わっているからこそ、二度の世界大戦や人種差別が起きてしまったのである。
そして、現代の世界の国々のほとんどが資本主義のスタイルをとっている。理性によって競争心が生まれ、たくさんの分野で活躍する企業が今日もしのぎを削っている。
身の回りのことを理性をテーマに考えてみよう。理性がなければファッションや音楽は流行することはありえないだろう。その中でもたくさんのジャンルがあり、そして各々の
ジャンルが好みだと感じるひとも山ほどいる。理性があるからたくさんの衣服や音楽があり、そして全く違うタイプのものが出来上がっていくのである。
スポーツもいい例である。野球やサッカー、バスケットボールなど、球技だけでたくさんある。人間の理性が創り出したスポーツはそれぞれが似ても似つかぬものである。
そして人間に闘争心があるから大会で順位を決める。オリンピックは大昔から行われているスポーツの祭典だ。
このように、人間に理性が備わっているからこそたくさんのもの・形が生まれ、さらにそこから様々な種類に分岐していった。人間は自分たちが持っている理性によって世界を作り上げたのだ。
今日まで人間が創り上げた世界をもう一度再構築するには、人間が文化を創りはじめた初期の時代の状態に戻して、全人類の理性を統一しなければならないだろう。しかし、人間の理性は全人類一人ひとり違うものである。もし人間の理性が統一されていたのならば、戦争や差別は起きずに済んだ。しかし人間が今まで創り上げてきた文化も生まれてなかったのである。そもそも、70億人という莫大の数がいる人類のすべての理性は統一できるのだろうか。どんな独裁者でも、どんなに素晴らしくリーダーシップを持った人でも、どんなにカリスマ性がある人物でも不可能なことであるとおもう。


投稿: 国民第一 | 2016年5月 8日 (日) 18時40分

世界を人間的理性に従って再構築するという考えがある。ここで言う人間的理性とは、ある問に対して合理的な討論ができたり、私利私欲にとらわれず人として正しい選択を下せることとする。つまり世界を人間的理性に従って再構築するということは、まず世界中の人々が共通の人間的理性を持っていなければ成り立たない。再構築できないということになる。世界人口は増え続け現在では7.432.663.000 人にもなっている。国も国際連合に加盟している国だけでも190を超えるまでになっている。使われている言語は6900を超えるとも言われ、同じ国の中でも使われている言語が違う国のほうが多い。同じ国のなかでさえ民族の違い。習慣、慣習の違いもある。さて、そんな中、世界を人間的理性に従って再構築するということは可能なのだろうか。私は世界を人間的理性に従って再構築することは不可能であると考える。もちろんそんな世界が実現すれば素敵だと思う。犯罪は0。紛争もない。私利私欲にとらわれることがない、みんながみんなのことを考え行動する。理想的な社会である。だが実際にそんなことはありえない。問題点はたくさんあって上に挙げたように、人口の多さ、言語の違い、文化の違いにより、世界中の人が共通の人間的理性を共有することが不可能であると考えられるからである。文化が違っては根本的な考え方も異なってくる。言語が違ってはそもそも話し合いができない。また合理的な討論をするには知識がないと合理的な討論にはならないので、教育の問題も出てくる。日本という狭い国で見たって、人間的理性に従って現在の日本という国を再構築するのだって不可能である。私利私欲にまみれた人たち。そもそも何も考えてない人たちがたくさんいる。新聞やテレビ、雑誌などの情報操作は酷いものがある。発言の一部分だけ切り取り、実際に言った内容とは全く別の形、別の意味で放送されているのを見たことがある。その後の訂正も、読み手によっては意味の変わらない、曖昧なものであった。情報を発信するマスメディアがこのような私利私欲にまみれた情報を世の中に発信しているのに、それを受け取る私たちが正しい知識を持つことはできないのではないか。正しい知識を持たなければ正しい討論ができない。正しい討論が行われなければ正しい選択を下せない。日本という国で見ても不可能であるし、たとえば教室1クラスでやったとしても知識の差、性格などから討論に参加しない人がいる。こんな狭い単位でやっても不可能である。ましてや世界という多種多様な人間が存在する空間で世界を人間的理性に従って再構築するのは不可能であると考える。(1.080文字)

投稿: 尾本裕輔 | 2016年5月 8日 (日) 15時56分

有機栽培
討論:世界変革

前近代において、神が世界を創造したという思想が社会的に承認されていた。そのため、キリスト教神学は諸科学を統括し、世界総体の把握に関する認識を独占的に有していた。そして、神学の権威が失墜した後も、いずれかの学問によって世界総体が把握されるという考え自体は根強く残っていたのである。
諸科学を統括する神学の地位を巡って諸科学が闘争する中、ガリレオやニュートンによる科学革命が発生した。これを機に、自然界において全ての事象に当てはまるもの、すなわち法則性の存在が明らかになったのである。また、自然科学と社会科学の分化が厳格でなかった当時、法則は自然界のみならず人間界にも同様に存在するとされた。人間が新たに法則を発見するのはそれまでの人間理性が低次のレベルにあったためであり、科学者の任務はこの法則性を明らかにすることであると社会的に認識された。
低次のレベルにある人間理性は、この法則性を認識する必要があった。そこで、哲学者は自然を含めた包括的な世界を哲学的方法論に従って提供することを試み、カント、フィヒテ、ヘーゲルらによって代表されるドイツ観念論哲学において、人間理性による世界領有が行われた。従って19世紀初期において、世界を領有する学問は哲学となったのである。
諸科学の王として個別科学を統括していた神学の地位を哲学が継承したのは、科学革命をきっかけとした法則性の認識が必要とされる時代に、哲学的な方法論による包括的な世界を提示したためであった。
哲学が諸学の王としての立場を確立し、人間界における法則性と世界総体いずれも、その把握には哲学が大きな力をもつようになった。そして、哲学者はそれらの提示に加え、内的必然性に従った世界変革をも訴えるようになった。これには、世界総体の把握に関する権限を掌握していた哲学の地位が大きく関係する。前近代における神学がそうであったように、哲学において提示された世界総体に対し他の学問が異を唱えることは許されなかった。人間界の法則と世界総体を把握する哲学は、世界の現状と課題を誰にも批判されない形で把握しており、それに従って世界変革を訴えたのは至極自然な形である。世界の変革には哲学者による世界の解釈が先行する必要があり、そうして現在の社会と未来の社会の姿が提示されたのち、世界変革がなされる。後期近代以前の社会的に承認された哲学の地位は、独占的に世界総体と人間界の法則性を把握できるものであった故に、そこで把握された世界の現状と未来のあるべき姿に従って、人間理性による世界の再構成という思想が生まれたのであろう。
(1072字)

投稿: 有機栽培 | 2016年5月 8日 (日) 12時52分

世界変革について批判的に再検討 5277 桜田門外

まず、世界変革とは人間の根本である心を変えなければ政治を行っても、その政治は一部を変えるだけですべての人にはうまく浸透しないとする考えである。
 私はこの考えに賛成である。
人間は欲望に支配されている生き物であり、いくら法律を作ったり、良い政治を行ったとしてもそれとは違う考えの人が必ずいるのである。
その考えのずれが争いを生み、戦争が引き起こされたし、現在も紛争を繰り返している地域が数多くあり、争いというものはいつになっても消えないものであると思う。
この争いを無くすには、人間の奥深くにある心を変えていかなければいつになっても平和は訪れない。人間の心の欲望の部分をうまく操作することが出来ればすべての人が幸せに思えるような地域作りが可能となるであろう。
しかし、人間の心や欲望を操作するなどという話は、現実的にむりな話である。
これから先、科学が発達したとしても人間の心というものが正確に定義されるようにならない限りは達成しうることのできない考えであろう。
 結局、世界を人間の根本から変えていくというのは、非常に困難な話である。
どんなに国を良くしようとして尽くしたところで、違う欲望を持つ人間は必ず存在するのである。それぞれ異なる欲望を持つことはいいことでもあるし、悪いことでもある。もし科学が発達し人間の心を定義できるような時代が来れば、人の心の欲望を操作することが平和につながるかもしれない。しかし、そんなことをしてしまっては、人は人じゃなくロボットの様な存在になってしまうだろう。争いはなくなるが、心は誰かに支配されている。それが果たして人間の平和・幸福というものなのであろうかという考えの矛盾が生まれる。
今の時代、またこれからも様々な思いを持つ人々の心をどれだけうまくくみ取れるかという要素が国の支配者に求められるだろう、そして人間の欲望は消えないものであるから争いはなくならないであろうが、世界の様々な国や地域がよりうまく連携できるようになったとき世界は変わってくるのではないかと感じる。

投稿: 桜田門外 | 2016年5月 8日 (日) 12時18分

世界を人間的理性にしたがって再構成する」という思想がある。なぜこのような思想が生まれるのか、本レポートでは、世界を人間的理性にしたがって再構成するという思想について批判的に考察していく。
 まず、はじめに、理性とは、『道理によって物事を判断する心の働き。論理的、概念的に思考する能力。』『善悪・真偽などを正当に判断し、道徳や義務の意識を自分に与える能力』 と辞書では定義している。例えば、とある日本に在住している人が人を殺したいと思ったとする。しかし、実際に行動に起こすことはまずない。それは、日本が法治国家であり、選挙によって選ばれた代表者によって制定された法律があるからである。日本国民は、法律の範囲内において権利・義務が生じる。つまり、法律内においての自由のみが認められ、法を犯した場合、つまりここでは殺人を犯した際には、それ相応の責任を負うことになる。実際に実行しないのはこの点にある。しかし、トラやウサギなどの動物は、自然界に生きる動物であるがため、生きるために動物を殺す。人を殺してはいけない理由はこれだけではないが、人間が持つとされる理性とはこういったものであると考える。
有名な古代ギリシアの哲学者アリストテレスは「政治学第1巻」において「人間は理性的動物である」という言葉を残している。人間は、複数の人間が集まって形成されている人間社会の中で生きており、当然その中では様々な人々と関わらなければ生活することができない。
ここで、カントの「純粋理性批判」について触れてみる。これはドイツの哲学者イマヌエル・カントの主著である。辞書による解説を見てみると、「人間の認識能力の本性と限界を究明した書で、人間理性が認識しうるのは、我々に現れる限りにおける対象つまり現象だけで、その背後に存在すると想定される対象そのもの即ち物自体は不可知であるとする。」 としている。
また、カントの二律背反(アンチノミー)に関する議論は、「理性概念としての理念(イデア)を論じるときに人間が陥りやすい罠について、その原因とそれが生じる必然性のようなものについて論じたもの」 であり、二律背反とは「同一の事柄について、ふたつの矛盾・対立する命題が同時に成立する事態を指して言う論理学の用語」である。
カントは二律背反の4つの例を挙げている。その1つを取り上げると、神は存在するという定立命題と神は存在しないという反定立命題である。この対立しあう命題は、ともに真であるとの主張ができるのだ。
 つまり、このような、人間の理性にも認識することのできない範囲があるために、「世界を人間的理性にしたがって再構成する」ということは不可能であると考えた。
(一部引用を含む)

投稿: 家庭菜園 | 2016年5月 8日 (日) 09時39分

世界を人間的理性にしたがって構成するということはすなわち世界中の人々を共通の理性を持たせた上で生活させるようにするということである。たしかに、地球上の全人類が共通の理性を持っていたとすれば、その理性をもとに人々の心をつかむことは簡単かもしれないが、そもそもそんなことは可能なのだろうか。簡単に人々の心をつかむことが本当に良いことなのだろうか。現在、社会は資本主義経済がほとんどであり、そのことからみても世間は私的利益だけを追求しているのがわかる。公平な立場から公共的意見を代表する新聞社でさえも私的利益を追求している。このような歴史を経て、今から考え方を一から見直して人々が全員同じ理性を持ち公共的利益のために働くことが果たしてできるかと言うと、そうとは思えない。第一、いままでに人類が共通の理性を持ち、自分に直接関係のない事柄に関心を持った時代があっただろうか。もしそんな時代があったのならば、おそらく大きな世界大戦が2度も起こることは無かっただろう。むしろ、マスメディアや世論、政治家に振り回されることが多く、人類は非理性的であるといえるだろう。その振り回される原因も、私的利益だけを考慮しているからであり、とても理性的であるとは言い難い。しかし、このような事態にも関わらず、ルソー的一般意志や理性的国民という存在すらしない虚偽意識が今でも近代社会の理念となっているのは問題である。
仮に、世界が人間的理性にしたがって構成されたとしても、理性だけではどうすることのできない感情や宗教的感覚のような理性という言葉だけではまとめることの難しいものが存在する限り、やはりそのようなことは不可能なのではないかと思われる。それに、人類全体が公共的利益だけを追求した場合、競争力が低下し、かえって莫大な不利益を被ることになるかもしれない。つまり、一見人類をまとめているようにみえても必ず不満やどこかで不公平性は生まれることになりメリットは多くはないと思われる。それに、国民の理性につけこんで、独裁者が生まれてしまう心配もある。というのも独裁をするものに対して反論する人もおらず、権力者のやりたい放題になってしまうからである。それを防ぐためにも非理性的であることも重要であり、現代の社会のままでよいのではないかと思う。独裁者を生んで、歴史上まともな社会ができたことはない。やはりデメリットの部分が多く考えられる。こういう理由で世界を人間的理性にしたがって再構成する必要はないと自分は考える。

投稿: 読売巨人 | 2016年5月 8日 (日) 03時54分

理性とは何か。それは、道理によって物事を判断する心の働きであり、倫理的・概念的に思考する能力の事である。では、カントの哲学において理性とは何か。それは、広義においては先天的能力一般。狭義では悟性・感性から区別され、悟性の概念作用を原理的に統一・制御・体系化する無制約の認識能力、いわゆる無念の中での能力を言う。一方ヘーゲルの哲学において理性とは、悟性が抽象的な思考の能力であるのに対して、弁証法的な具体的かつ詳細な能力であると捉えられてきた。
 なぜ今の世の中でこの人間的な理性に従って世界を再構成しようという思想が生まれ、広がっているのか。「再」構成と言うぐらいだから、もともとはこの世界が人間的な理性に従われていた。そして、そこに存在していた人間それぞれは自分の私欲や感情に溺れることなく世界は成り立っていたと考えられる。しかし今はその状態に無いと人々が感じているのだろう。(むしろ感じれていないのかもしれない。)
 そこで私は、この世界があらゆる発展を遂げたことで、この世の中が以前と比べて人々の希望や欲を非常に簡単に満たすことができるようになったことがこの思想につながっているのではないかと考えた。
インターネットが発展した。世界の真逆で売っている品物もいともたやすく購入し手に入れることができる。どこかの国の新聞を読みたければすぐに読める。世界各国の情勢・内政だって事細かに知ることが可能になった。このように、望んだことがすぐに叶う世の中に変化していったことにより、人々の考え方も、自分の思い通りに社会が進まなければ納得できないように変わっていったのではないか。それにより、自分自身の理性をはみ出し、私利私欲に溺れていく人々が世界の多くを占め、それがどんどん発展していると考えられる。
 そのような現状に危機を感じ、不安になった人々が今一度人間本来の理性に従った世界構築を図ろうと考えるのは至極当然ではないだろうかと私は思う。そして最も危険だと感じたのは、このように世界や人々の思考が以前に比べて変化していっている現状を、当の本人たち(私も含めて)は全く自覚できていない点だ。だからこそ、このように今一度人間的理性に従い世の中を戻していこうとする声に対して、批判的な考えが一番に浮かんでくるのではないだろうか。そしてその批判の声は大きい。世の中の流れに対し真逆に進んでいる思想だからだ。しかし、人々が私利私欲を満たすことに一生懸命な時代に変化していったように、いずれかはこの再構築思想がノーマルな時代がやってくるのでないか。世界は常に変化し続けている。

投稿: 右投左打 | 2016年5月 8日 (日) 01時57分

 世界を人間的理性にしたがって再構成するという思想がなぜ生じるのか。
 ここでいう世界というのは「歴史的世界」であると考える。「歴史的世界」というのは、同時代的世界の集積、現実の世界総体の集積であるということと共に、世界において目的がすること・理性が実現されることを前提としていることとみなされている。
 世界のこれまでの歴史、それぞれの時代時代において、当時の人々がほぼ世界規模で共有されていたであろう理性というものがあり、それは科学の分野や宗教の領域なんかでも同じようなことがいえるだろうと考える。これら理性はその当時においては正しいことだと考えられていただろう。上記したように、「歴史的世界」が同時代的世界の集積であるということを踏まえると、現在の世界までも同時代的世界の理性というものも積み重ねてきたものだといえよう。その過程においては、当時の人々が理性を持ちながら、先の時代から培ってきた理性のなかで、自分の時代には合わない考え方というものを、「この考え方は間違っている」とかいう風に、理性というものをより自分たちの時代にあうように、より良いものにするために様々な研究等が行われてきたであろう。
 こうして現在に至るわけであるが、ここに初めに示した命題の答えにつながる部分が見いだせるのではないかと考える。世界を人間的理性したがって再構築するという思想はこのような経緯があって生じるものではないかと考える。先人がこれまでに理性をより高次なものにするために頑張ってきたからこそ、現在の私たちは、今持っている考え方や理性がある。だから、現在私たちが持っている考え方、理性は最高のものであり、この理性にしたがって世界を再構築することでより良い世界の実現ということが達成できる、と考えられのではないかと考える。以上のことより、世界を人間的理性にしたがって再構築するという思想が生じるのではないだろうか。
 しかし、現代社会科学はこのような考え方を否定している。なぜならそれは個別科学としては存立しえないし、歴史的世界把握の問題を学問的領域から投げだしているからであるとする。歴史的世界の総体的把握は世界観哲学のマルクス主義を別にしては、学問以外の宗教、占い、オカルト的なものに委譲される。もちろん、科学の分野が宗教や占い、オカルトなんてものを認めるわけもなく、これらに委譲された「世界を人間的理性にしたがって再構築するという思想は否定されるのである。

投稿: 滝本 翔 | 2016年5月 8日 (日) 01時09分

なぜ人間的理性によって世界変革が起こるのかを考える。まず変革とは、変えて新しいものにすること、変わって新しいものになること、改革(デジタル大辞泉)である。つまり、世界変革を簡単に表すと人間が世界を変え、新しい世界を求めるということである。このように思うのは、この世界がこのままではいけないと思っている人間が存在するからである。なぜそのように思う人間が現れるのか。それはおそらく、自分の生活または自分の他の生活において少しでも不平等と感じているからではないだろうか。
たとえば、貧富の差の問題があげられる。私たちが生活する国、日本ではほかの貧しい国に比べると比較的裕福な生活をしている。しかし、貧しい国というのは、生きていくのにとても苦労している。私たちのように健康に生活する、私たちのような幸せを求めるというのは二の次なのだ。そのように生きることに必死な貧しい国の人々を気にかけて、助けてあげたいと思う人間が出てくることによって、そのような国を含めこの世界を変えたいと思うのではないだろうか。また、その逆で、自分は貧しい国の人間であるから、少しでもこの国を変えてほしいという意思を表し、変革を求める人間もいるだろう。今は世界規模で考えているものの、日本、各都道府県、市町村、地域など様々な場面で変革は考えられるものだと思う。また貧困問題だけでなくその他たくさんの場面で変革は目指すもの、求めるものによっては、必要となってくるのだ。
しかし、みんなが同じ平等を求めるのであれば、それは不可能である。なぜなら、平等は数値として表すことができないからだ。一人一人が平等になることも不可能だ。そのなかでも、少しでも差をなくそうと思っている人間がいるからこそ、平等を求める人間が変革を求めるのではないだろうか。
つまり、どのような人物が世界変革を求めるのかというとそれは、今の現状に満足していない人間が起こすものであって、なぜ現状に満足しないのかというと、やはり様々な場面で不平等が生じているからである。そのような不平等な状況を少しでも平等に近づけたいと思う人間が考え、行動するからこそ変革が起きていくのだろう。世界規模でそのように考えることのできるのは、様々な情報が広がり、助けてあげたいと思い、一人一人どこの国でも生活の質の差がなく暮らしていくことを目指す人間が数多く存在し、世界変革を起こしていきたいと思うのではないだろうか。

投稿: 有言実行 | 2016年5月 7日 (土) 21時25分

理性とは何か。理性とは、①自己の意志と、社会の他の人びとの意志とが調和しうると確信している意識であり(=「個別性と普遍性の統一」)、同時に②自己と現実世界とが深くつながっていると確信している意識である(=「主観と客観の統一」)。このような態度が生成される元となったのが「不幸の意識」である。不幸の意識は最終的に自分で決意する自由を投げ捨て、自分の労働の成果も神と自分のあいだをとりもつ媒語(教会)に譲り渡そうとするものである。このことをヘーゲルは『この自分の意志の放棄は、意志を個別的意志ではなく普遍的意志として定立することである』と述べている。不幸な意識は、主体性を外化放棄して「対象」とすることで「普遍者と自分との統一」が生じてくるものであるが、この統一が自覚されると意識は理性となるのである。こうして世界に対する肯定的態度が生まれる。これまでの自己意識は自分の自立性と自由を求めて現実を否定しようとしてきたが、自分が理性であると確信するようになると、自己意識は現実を受けとめてそこに安らぎを得るようになる。なぜなら、『自己意識は、世界のうちにただ自分だけを経験するにすぎないと確信している』からである。
 さて、ヘーゲルのとらえる世界の基本構造をもっともあざやかに表現しているのが人間社会である。ヘーゲルのイメージの中では、人間社会というのは矛盾や対立が無限に多様な形をとって登場し、とともにその中でそれを解決しながら進んでいくのだが、矛盾の最終解決はない。解決されたと思うと新たな矛盾があらわれる。そういうダイナミズムの場がヘーゲルのとらえる人間社会である。全体がまとまるとそれで完成、というイメージをわたしたちは持ちやすいのだが、実はそうではなくて、全体には絶えずそれを壊すような力がその中で働いている。全体は秩序を守ろうとするが、その中でそれを壊していくような、そのままでは成り立たなくさせるような要素が絶えず登場してきて、それとの闘いのなかで世界が出来あがっていく。そういうイメージをヘーゲルが社会に対してもっているとすると、そのイメージは、戦争と革命の時代だと言われる20世紀、その延長上にある21世紀初頭の今、わたしたちのもつ人間世界のイメージと意外に近いことがわかる。社会の実態からすると、対立や革命や闘争をたえずかかえつつ、なんとか全体が成り立っているというイメージは、20世紀に強くおもてに出ているといえる。ただ、世界中を巻きこむ大戦の中で何百万人もの人間が命を落とすことになるため、ヘーゲルが考えていたよりずっと大規模で深刻になっていることが否定的な要素である。
 現在、世界各国が抱える問題は様々であり、国家間の対立や地域紛争、国の存続に大きく影響するテロ行為など緊迫した情勢にある国は少なくない。日本も外交問題や軍事問題を抱えており、なかなか良い解決策を見出せない状況である。このような社会だからこそ、世界を人間的理性にしたがって構成し直す必要があるのではないかと思う。すぐに外部に委ねるのではなく、自己と現実世界とのつながりを意識し、意志の調和を確信すること、本能や感情に支配されず、道理に基づいて思考し判断する能力(=理性)をわたしたちが忘れないようにすることが、社会の形成や再構成の基本要素になるのではないか。
(1366字)

参考文献:超解読!はじめてのヘーゲル『精神現象学』(講談社,2010年)、P86,90
     ヘーゲル入門~最も偉大な哲学に学ぶ~(河出書房新社,2010年)、P5~6

投稿: 秋田平民 | 2016年5月 7日 (土) 19時50分

理性とは何か。理性とは、①自己の意志と、社会の他の人びとの意志とが調和しうると確信している意識であり(=「個別性と普遍性の統一」)、同時に②自己と現実世界とが深くつながっていると確信している意識である(=「主観と客観の統一」)。このような態度が生成される元となったのが「不幸の意識」である。不幸の意識は最終的に自分で決意する自由を投げ捨て、自分の労働の成果も神と自分のあいだをとりもつ媒語(教会)に譲り渡そうとするものである。このことをヘーゲルは『この自分の意志の放棄は、意志を個別的意志ではなく普遍的意志として定立することである』と述べている。不幸な意識は、主体性を外化放棄して「対象」とすることで「普遍者と自分との統一」が生じてくるものであるが、この統一が自覚されると意識は理性となるのである。こうして世界に対する肯定的態度が生まれる。これまでの自己意識は自分の自立性と自由を求めて現実を否定しようとしてきたが、自分が理性であると確信するようになると、自己意識は現実を受けとめてそこに安らぎを得るようになる。なぜなら、『自己意識は、世界のうちにただ自分だけを経験するにすぎないと確信している』からである。
 さて、ヘーゲルのとらえる世界の基本構造をもっともあざやかに表現しているのが人間社会である。ヘーゲルのイメージの中では、人間社会というのは矛盾や対立が無限に多様な形をとって登場し、とともにその中でそれを解決しながら進んでいくのだが、矛盾の最終解決はない。解決されたと思うと新たな矛盾があらわれる。そういうダイナミズムの場がヘーゲルのとらえる人間社会である。全体がまとまるとそれで完成、というイメージをわたしたちは持ちやすいのだが、実はそうではなくて、全体には絶えずそれを壊すような力がその中で働いている。全体は秩序を守ろうとするが、その中でそれを壊していくような、そのままでは成り立たなくさせるような要素が絶えず登場してきて、それとの闘いのなかで世界が出来あがっていく。そういうイメージをヘーゲルが社会に対してもっているとすると、そのイメージは、戦争と革命の時代だと言われる20世紀、その延長上にある21世紀初頭の今、わたしたちのもつ人間世界のイメージと意外に近いことがわかる。社会の実態からすると、対立や革命や闘争をたえずかかえつつ、なんとか全体が成り立っているというイメージは、20世紀に強くおもてに出ているといえる。ただ、世界中を巻きこむ大戦の中で何百万人もの人間が命を落とすことになるため、ヘーゲルが考えていたよりずっと大規模で深刻になっていることが否定的な要素である。
 現在、世界各国が抱える問題は様々であり、国家間の対立や地域紛争、国の存続に大きく影響するテロ行為など緊迫した情勢にある国は少なくない。日本も外交問題や軍事問題を抱えており、なかなか良い解決策を見出せない状況である。このような社会だからこそ、世界を人間的理性にしたがって構成し直す必要があるのではないかと思う。すぐに外部に委ねるのではなく、自己と現実世界とのつながりを意識し、意志の調和を確信すること、本能や感情に支配されず、道理に基づいて思考し判断する能力(=理性)をわたしたちが忘れないようにすることが、社会の形成や再構成の基本要素になるのではないか。
(1366字)

参考文献:超解読!はじめてのヘーゲル『精神現象学』(講談社,2010年)、P86,90
     ヘーゲル入門~最も偉大な哲学に学ぶ~(河出書房新社,2010年)、P5~6

投稿: 秋田平民 | 2016年5月 7日 (土) 19時49分

 ヘーゲルの著書には、精神という言葉が彼なりの思想がある。そして、精神とは何かという問いはヘーゲルを研究するにあたり非常に重要なことだ。ここでは、ヘーゲルの精神について論じる。なぜなら、理性と異なった精神というものが中心となり世界変革を成すと私は、考えるからだ。核となる精神の真理とは、即ち世界変革の真理である。
 共同性が精神だという考え方は、ヘーゲルの国家における考え方においてその解釈は正しい。しかし、これだけが精神ではない。私は、美学の研究をしている。その際の精神はヘーゲルによると藝術美は、自然美よりも優れている。なぜなら、藝術には精神が働きかけているからだ。(『ヘーゲル美学講義上巻』作品社 訳長谷川宏 1995)ここでいう精神とは、共同体と言い換えにくい。精神が働いている活動のものが芸術作品とする。だとするとここで働いているものは、芸術家における何かだ。芸術家が何かを働かせているこの状況においてこの働きは、作品の制作中において出来る。この製作中に何かが吹き込まれることで藝術は、完成する。それは、そのものだけでは外見に現れることはない。要するに藝術はその何かを表面的に映し出すものだ。私たちは、芸術作品を見て感じるものがある。それは、芸術家が与えてくれたものであり、芸術の根本だ。その何か感じるものが精神だ。精神とは、個人の受け入れた世界のことだと考える。だから、国家においての精神とは、共同性だといえる。
 世界変革は、世界を人間的理性にしたがって再構成するという思想だ。それは、私たち人間が受け入れた世界があり、その世界のすり合わせで世界は再編成されるという思想だと考える。しかし、このことには世界の多様性について理解していない思想だといえる。私の精神は私だけのものだ。他人の精神は他人だけのものだ。世界は、一つではない。実は、世界というものは、範囲を示していない。人には、人の世界がある。宗教の違いを取り上げると一目瞭然だ。彼らの世界をぶつけ合って戦争をしたとする。戦争で生むものは、戦争だ。血を血で洗う世の中になる。その先にあるものは、人類の悲劇だ。このように、この思想には、無理がある。ヘーゲルは第二次世界大戦を経験していない世界に生まれた。このことが、思想の限界を歴史が物語っている。私たちは、世界を再構成することは出来なかった。争いで残ったものは、深い傷と根付いてしまった世界観だ。第二次世界大戦をもって私は、世界変革に限界があると考える。

参考文献

『ヘーゲル美学講義上巻』作品社 訳長谷川宏 1995

投稿: 脱中二病 | 2016年5月 7日 (土) 12時27分

民主主義とは国家や集団の権力を行使する者がその中の全員であって、意思決定をその全員によって行っていこうとする政治体制のことである。国民が政治に参加していき、自分たちで人権を守るために国を動かしていくものだ。この意味で国民は、一種の自己責任の意識を持たなくてはならない。国民が支配者と被支配者になりうるものである。
 現在、世界の多くの国々ではこの民主主義の概念が採用されている。民主主義が色々な階層、年代の人々の意見を討論できることや、国民が自分たちで自分たちの母集団を維持、発展させていくことができるというメリットを持っていることが理由に挙げられるだろう。しかし本当に民主主義は善であり、完璧なものなのかどうか、考えていく必要がある。民主主義のマイナス点についてここでは何点か挙げていきたい。
 まず民主主義では多くの場合、今まで、多数決で出た答えを民意としてきた。国民が話し合って決めることはいいことなのだが、いつまでも決まらない状況をなくそうとした試みである。しかしこれではマイノリティについての疑問が生まれてしまうだろう。多数決で結果を出せば、いつまでも意見が汲み上げられない人や集団が存在してしまう。この代替案として民主主義は熟議を主張している。熟議とは、様々な意見を持ち寄り、じっくり話し合い答えを出していこうというものだ。これなら少数意見も汲み取ってもらえるのではないかと思うかもしれないが、ここでまた障害が生じる。多数決においてのマイノリティの意見消滅を回避するために行う熟議で、今度は膨大な時間がかかりすぎて話が前に進まなくなってしまうのだ。結果として、一応民意を反映しやすいとされる、多数決が半ば押し切る形使われているのが現状である。また世論がマスメディアによって操作されがちになってしまっていることも問題点の一つだろう。民衆が独自に政治についての情報を得ようとしても限界がある。現代では多くの国民がマスメディアからの情報によって政治状況を知ることとなる。そうなった時に、マスメディアを操作し、国民の目を欺くことが用意にまかり通ってしまうのだ。このことは民主主義の理想からは大きく外れてしまっている。また、国民側にも問題はある。国民が各々の目先のことばかり気にして政治を進めていったり、判断力が欠けている有権者が政治に一票を投じたりしていくことで、衆愚政治に陥りやすいのだ。目先の利益だけにとらわれてしまいその後の政治が機能しなくなっていってしまうことも問題だろう。
 このように、民主主義が採用されている現代でも、民主主義の問題点は多々ある。その上で民主主義の概念が採用されているのは、他よりはマシという考えが元にあるように思える。民主主義で国民の意思がすべて反映できるとは考えてはいけないだろう。

投稿: 焼鳥弁当 | 2016年5月 7日 (土) 09時21分

人間が理性にしたがって世界を変革することについて。まず世界をどのように定義付けるか。ここでは地球上の人間社会の全てを世界とする。次に、理性について考えてみる。人により諸説あるようだが、大きく言って、物事を客観視してり、冷静になって考える力の事を理性と言う。感情や情動、本能はこの力とは正反対のものとして捉えられている。人間が理性を持っているのは確かなことである。本能などと違い理性は短期的な利益を求めようとせず、長期的スパンでの利益を求めるものだ。例として、明日はテストだが、眠いから寝たい。これが本能的働きである。一方で、明日のテストでいい点を取るために寝るのを我慢して勉強をしておこう。これが理性的働きである。人間はこの理性を上手く活用できる動物であり、小さいうちから備わっていく能力であろう。しかし、人間はそこまで理性的な存在ではないのではないか。この理性という能力は人間だけに特別に備わっている能力ではない。理性的な他の動物の例として、ハイエナやジャッカルが挙げられる。彼らはライオンの捕らえた獲物の食べ残しなどをいつも狙っている。ここでは彼らは、本能の赴くままライオンの狩りの中に入っていかず、理性によって食欲という本能を無理やりコントロールしているのだ。そう考えたときに、人間はほかの動物より特殊とは言えないのではないか。違いといえば言語くらいなものだろう。理性が人間だけに与えられた神の力のような存在でないとわかった以上、その人間が、人間だけの頭脳を使い世界を再構成するということは、無理があることなのではないか。人間は過去に同じ人間を大量虐殺したことがある。ここにも人間の理性だけで世界を再構成していくには無理があることが言える。世界がより良い方向に進んでいくためには一定の条件にあった人間を排除することが必要であるとする考えのもと、大量虐殺は行われたのだ。これは言い換えれば、理性がもたらした結果とも言える。人間としての理性を求め過ぎた結果である。であるならば、その理性で世界を再構成していくことはさらなる虐殺、殺し合いに発展しかねないのではないか。そうであるならば、理性で世界を作り直そうとすること自体が不適切だ。
人間に理性が備わっている限り、今の世の中に批判的になったり、不満を持つことは当然だろう。そして、こんな社会、こんな世の中にしていけばいいと思いを巡らせる事は当然だろう。しかし世界をどうかしていこうという形而上学的な問題について、理性だけでは捉えきれないし、弊害がいくつも出てきてしまうのではないだろうか。

投稿: 今野元 | 2016年5月 7日 (土) 00時03分

人間が理性にしたがって世界を変革することについて。まず世界をどのように定義付けるか。ここでは地球上の人間社会の全てを世界とする。次に、理性について考えてみる。人により諸説あるようだが、大きく言って、物事を客観視してり、冷静になって考える力の事を理性と言う。感情や情動、本能はこの力とは正反対のものとして捉えられている。人間が理性を持っているのは確かなことである。本能などと違い理性は短期的な利益を求めようとせず、長期的スパンでの利益を求めるものだ。例として、明日はテストだが、眠いから寝たい。これが本能的働きである。一方で、明日のテストでいい点を取るために寝るのを我慢して勉強をしておこう。これが理性的働きである。人間はこの理性を上手く活用できる動物であり、小さいうちから備わっていく能力であろう。しかし、人間はそこまで理性的な存在ではないのではないか。この理性という能力は人間だけに特別に備わっている能力ではない。理性的な他の動物の例として、ハイエナやジャッカルが挙げられる。彼らはライオンの捕らえた獲物の食べ残しなどをいつも狙っている。ここでは彼らは、本能の赴くままライオンの狩りの中に入っていかず、理性によって食欲という本能を無理やりコントロールしているのだ。そう考えたときに、人間はほかの動物より特殊とは言えないのではないか。違いといえば言語くらいなものだろう。理性が人間だけに与えられた神の力のような存在でないとわかった以上、その人間が、人間だけの頭脳を使い世界を再構成するということは、無理があることなのではないか。人間は過去に同じ人間を大量虐殺したことがある。ここにも人間の理性だけで世界を再構成していくには無理があることが言える。世界がより良い方向に進んでいくためには一定の条件にあった人間を排除することが必要であるとする考えのもと、大量虐殺は行われたのだ。これは言い換えれば、理性がもたらした結果とも言える。人間としての理性を求め過ぎた結果である。であるならば、その理性で世界を再構成していくことはさらなる虐殺、殺し合いに発展しかねないのではないか。そうであるならば、理性で世界を作り直そうとすること自体が不適切だ。
人間に理性が備わっている限り、今の世の中に批判的になったり、不満を持つことは当然だろう。そして、こんな社会、こんな世の中にしていけばいいと思いを巡らせる事は当然だろう。しかし世界をどうかしていこうという形而上学的な問題について、理性だけでは捉えきれないし、弊害がいくつも出てきてしまうのではないだろうか。

投稿: 今野元 | 2016年5月 6日 (金) 23時48分

人間が理性にしたがって世界を変革することについて。まず世界をどのように定義付けるか。ここでは地球上の人間社会の全てを世界とする。次に、理性について考えてみる。人により諸説あるようだが、大きく言って、物事を客観視してり、冷静になって考える力の事を理性と言う。感情や情動、本能はこの力とは正反対のものとして捉えられている。人間が理性を持っているのは確かなことである。本能などと違い理性は短期的な利益を求めようとせず、長期的スパンでの利益を求めるものだ。例として、明日はテストだが、眠いから寝たい。これが本能的働きである。一方で、明日のテストでいい点を取るために寝るのを我慢して勉強をしておこう。これが理性的働きである。人間はこの理性を上手く活用できる動物であり、小さいうちから備わっていく能力であろう。しかし、人間はそこまで理性的な存在ではないのではないか。この理性という能力は人間だけに特別に備わっている能力ではない。理性的な他の動物の例として、ハイエナやジャッカルが挙げられる。彼らはライオンの捕らえた獲物の食べ残しなどをいつも狙っている。ここでは彼らは、本能の赴くままライオンの狩りの中に入っていかず、理性によって食欲という本能を無理やりコントロールしているのだ。そう考えたときに、人間はほかの動物より特殊とは言えないのではないか。違いといえば言語くらいなものだろう。理性が人間だけに与えられた神の力のような存在でないとわかった以上、その人間が、人間だけの頭脳を使い世界を再構成するということは、無理があることなのではないか。人間は過去に同じ人間を大量虐殺したことがある。ここにも人間の理性だけで世界を再構成していくには無理があることが言える。世界がより良い方向に進んでいくためには一定の条件にあった人間を排除することが必要であるとする考えのもと、大量虐殺は行われたのだ。これは言い換えれば、理性がもたらした結果とも言える。人間としての理性を求め過ぎた結果である。であるならば、その理性で世界を再構成していくことはさらなる虐殺、殺し合いに発展しかねないのではないか。そうであるならば、理性で世界を作り直そうとすること自体が不適切だ。
人間に理性が備わっている限り、今の世の中に批判的になったり、不満を持つことは当然だろう。そして、こんな社会、こんな世の中にしていけばいいと思いを巡らせる事は当然だろう。しかし世界をどうかしていこうという形而上学的な問題について、理性だけでは捉えきれないし、弊害がいくつも出てきてしまうのではないだろうか。

投稿: 今野元 | 2016年5月 6日 (金) 23時44分

「人生万歳」
・世界変革
  現代民主主義は、政治的無関心を増大させる。国民が公正な選挙によって選んだ政治家でさえ自己の利益を求める。政治家の私的利益が収集され政党の利益となり、それが普遍的利益を形成するのだ。ここにおいて少数者の利益は無視されていることとなる。少数者はもともと集団的利益を表出する機会が少ない。少数者の政治に対する不満が、社会的な変革を目指す少数の集団を作り上げる。いわゆるテロリズムへの指向である。
自己意識の相互承認とそれによって生じる普遍的な自己意識は、理性および精神の原基的形態をなしている。それによって生じる普遍的な自己意識は、自らを区別しつつもその区別を止揚するという概念の運動性を有している。シュペンターによれば、人民が集団として理性的能力を持ったこともないし、自分に直接関係の無い事に関心を持つことも無い。
 本来、理論というものは常に現実の実践のなかで生かしていくべきものであり、また、実践とのかかわりの中で常に再検討していくべきものである。ソ連をはじめとする共産党の指導者たちは、理論を絶対化、固定化することによってそれにあわない現実を切り捨てていった。
 エンゲルスは自然界も人間界も含めて客観的存在の全てを貫き包括する科学的法則として、自然弁証法というものが存在することを主張する。マルクス主義者は、自由な主体である人間を単なる一客体として自然の中に解消し、自然弁証法に従うと主張するのである。このような、客観主義的一元論においては、人間の主体的実践・具体的経験は無視され、すべてが客観的過程の中に解消されてしまう。その結果、主体的存在である人間の物格化が成立する。客観主義的一元論においては、人間の物格化と自己の神格化が同時に成立する。
 一方、自然界および人間界の一切の実在を貫く大法則としての自然弁証法というものは、エンゲルスの主張するような科学的法則ではない。彼は、多くのマルクス主義者が主張しているように、史的唯物論を生産力が生産関係と矛盾に陥ったり照応したりする自然法則的な自動運動であるとは考えない。歴史というのは決して自然法則的な自動運動ではなく、あくまでも人間の主体的実践を原点として形成されていくと考えるのである。例えば、生産力の源にあるのは人間と自然の交渉であり、生産関係の源にあるものは、人間と人間との交渉である。生産力、生産関係というものは決して自然科学的な物質ではなく、あくまでも人間の実践によって形成されるものなのである。

投稿: 人生万歳 | 2016年5月 6日 (金) 13時37分

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