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後期近代の公共交通に関する政治思想的考察――ハレ新市における路面電車路線網の延伸過程を媒介にして (その二)ーー2.1970年代中葉までのハレ新市における地域内の公共的人員交通

後期近代の公共交通に関する政治思想的考察――ハレ新市における路面電車路線網の延伸過程を媒介にして (その二)


2.1970年代中葉までのハレ新市における地域内の公共的人員交通
 ハレ新市が社会主義的都市、つまり人為的に建設された都市であるかぎり、交通機関による他の都市との結合が問題になる。他の都市と関係することによって、人間的再生産を目的する都市は存立可能である。「ハレ新市にとって重要なことは、ブナとロイナの化学コンビナートへの地域を超えた交通――これはほとんど通勤である――およびハレ市への交通である」。1 ハレ新市と他の都市との交通が、新都市建設の重要な課題になった。
まず、ハレ新市とロイナ、ブナの労働現場との交通について述べてみよう。ハレ新市は、ブナから、直線距離で10km、道路距離で15 km離れている。また、ロイナから、直線距離で18,5 km、道路距離で30 km離れている。   1964年に建設され始めた当初、労働現場からハレ新市への交通は、主としてハレ市を経由していた。ハレ市からロイナ、ブナそしてメルゼブルクまで路面電車の軌道が敷設されていた。路面電車が都市間交通として戦前に敷設され、戦後も営業運転していた。1960年代初頭にこの路線は、ハレ市から工業地帯への通勤としても利用されていた。「ハレ市とメルゼブルク市間の路面電車は、ロイナ工場とブナ工場への通勤という意義のため、1960年代に完全に複線化された。路面電車の専用軌道も建設された」。2 この路線が、ハレ新市の住民にも転用されていた。もちろん、路面電車もこの通勤に対して寄与した。しかし、この路面電車を使用すると、往復3時間程度かかっていた。直通する都市鉄道の建設によって、ハレ新市からロイナ、ブナへの通勤時間が大幅に解消されるはずである。
 ハレ新市からブナへと直通する都市鉄道が、1967年に初めて運行された。東独崩壊直前では、都市鉄道によってロイナ、ブナからハレ新市までそれぞれ、31分、12分で結合されていた。3 ロイナ、ブナは労働現場としての役割しか果たさず、その周辺は労働者にとってほとんど無用な地域であった。SEDの交通政策によれば、ハレ新市に居住する労働者にとって、ハレ新市と労働現場を結合する都市鉄道の建設で十分であった。4
 しかし、ハレ新市とハレ市との結合が問題になる。ハレ新市が人為的に設計されているかぎり、労働現場だけではなく、伝統的都市との結合を必要とする。社会主義的計画経済によって提供されない物品、サービス、景観、空間が、伝統的都市において存在する。日常的な消費活動、社会活動であれば、ハレ新市内で完結可能である。医療を例にとれば、診療所等は人為的に設置された。しかし、高度な手術は、大学病院等の専門的機関を必要としている。また、小中学校はハレ新市において建設されたが、大学を設置することは、初めから想定されていない。
 ハレ新市はハレ市と、直線距離で4,3 km、道路距離で5,8 km離れている。この二つの都市は、都市鉄道でも結ばれている。ハレ新市は、鉄道によってハレ中央駅を媒介にして、東独、そしてドイツ全土と結ばれている。問題は都市鉄道以外の両都市の結節である。ハレ市旧市街地からハレ新市を結ぶ道路は、すでに長距離道路(ルート80)として建設されていた。
 また、その中間地点であるレンバーン(Rennbahn)までには道路と並行して、すでに路面電車の軌道がハレ市中心街から敷設されていた。それは東独政府によってではなく、すでに戦前から敷設されていた。ハレ市中心街からレンバーンを経てハレ新市北方のハイデまで、路面電車が運行されていた。1960年代にハレ新市が建設された際、路面電車の延長ではなく、その撤去が議論された。「道路領域にある二車線の路面電車は、この路線(ルート80)の道路交通を阻害している」。5 1970年代初頭まで、自動車の運行が道路における一元的交通として認識されていた。道路における渋滞なき自動車による走行が、交通政策における最優先課題であった。ハレ新市周辺の交通政策の最重要課題は、ハレ市そして労働現場を結合する道路の建設であった。ハレ新市とハレ市を結節し、ハレ新市の市内交通を保障する地域内の公共的人員交通は、バスだけであった。しかも、このバス路線もハレ新市内で完結していた。バスは、ハレ新市の鉄道駅から放射状に運行されていた。6 ハレ新市住民がハレ市中心街に行くためには、直通バスではなく、バス間での乗り換えを要した。
 このような地域内の公共的人員交通に関する見解は、ハレ新市だけに当てはまったわけではない。東独の多くの都市も、同様な思想によって支配されていた。たとえば、フランクフルト・アム・オーデル市(東独当時はフランクフルト県の県都、現在ではブランデンブルク州の一都市)においても事情は変わらなかった。この都市は、ポーランド国境地帯に位置しており、東欧との交通の要衝であった。街の発展が、社会主義政権において展望されていた。この状況において、都市内交通の在り方が議論されていた。この問題に対して、SED指導部は1970年代初頭に、路面電車の撤去を考えていた。交通大臣がフランクフルト市に対して以下の書簡を送付した。「(フランクフルト市の)路面電車網12,2 kmは、成長している都市の交通潮流にもはや対応しない。・・・バスはより早く、一般的に設定可能であり、多くの人を運送する」。7地域内の公共的人員交通としてバスだけが一元的に設定されようとしていた。
 しかし、戦前から存在した路面電車の軌道それ自体が、ハレ市において撤去されることはなかった。さらに、レンバーンからハレ新市に向かう幹線道路には、幅15m の中央分離帯が設定されていた。「マギストラーレ方向通行車線には、幅15mの中央分離帯が1960年代の道路建設時に同時に設定されていた。その当時、中央分離帯における自由空間は、すでに路面電車のための横断回廊として設定されていた」。8 事実上この回廊は路面電車建設のための空間として機能した。しかし、この記述はドイツ統一以後に執筆されたものである。1960年代には、この事情は別のことを意味していた。
 1960年代には、少なくともSED首脳部は、この幹線道路において路面電車を延伸することを想定していなかった。「ハレ新市内部の運行は、バス交通だけが可能である。バス交通は、実践的に建設概念および道路概念によってすでに先行設定されている」。9 それは、1970年代初頭にほぼ現実化されていた。ハレ新市からハレ市への平日の通勤者約20.000人のうちの85%は、バスを利用していた。10 このような地域内の公共的人員交通におけるバスへの過剰な重点化は、東独指導部つまりSED指導部の見解に基づいていた。
 このような政党内の指導的見解に対して、ハレ市の交通計画担当者は公式的には従わざるをえなかった。「明白には述べられていないが、秘密に通じた交通計画者には、マギストラーレの15mの中央分離帯が将来の路面電車のために設定されていることは自明であった」。11 自治体の交通計画担当者にとって、このような事実は自明であった。しかし、SED指導部における支配的な見解に対して異議申し立てをすることは、事実上不可能であった。社会主義体制下における決定は、次のようになっていた。「国民経済的な計画先行、中央国家機関の決定、地方自治体とSEDの二重構造ゆえに、地域交通企業の裁量余地は、西独に比べて東独において各段に制限されていた」。 12 ここで国民経済的な計画立案者、中央国家機関、SEDは実体的に同一であった。政党として中央、地方を問わず、SEDの諸審級は統一されていた。したがって、決定権能が下位になればなるほど、SEDと現実的な政策決定者との対立が大きくなった。審級が上位になればなるほど、SEDの支配力は上昇した。社会主義体制における矛盾が露呈した。東独における官僚制が、通常の行政機構官僚制と政党官僚制に二分されていた。


1 Hrsg. v. Büro für Städtebau und Architektur des Rates des Bezirkes Halle: Halle-Neustadt. Plan und Bau der Chemiearbeiterstadt. Berlin 1972, S. 60.
2 S. Vockrodt: Die Überlandbahn um Merseburg. In: Straßenbahn-Magazin. Nahverkehr. Bd. 225. München 2008, S. 39.
3 Vgl. Hrsg. v. Ministerium für Verkehrswesen: Kursbuch der Deutschen Reichsbahn 1988/89, Berlin 1988, S. 189f.
4 Vgl. Hrsg. v. Büro für Städtebau und Architektur des Rates des Bezirkes Halle: Halle-Neustadt, a. a. O., S. 69.
5 Ebenda, S. 68.
6 Emch+Berger GmbH: Straßenbahn Halle-Neustadt bis Riebeckplatz/Hauptbahnhof. 1. Hauptabschnitt Neustadt. Erläuterungsbericht. 1997, S. 13. In: Stadtarchiv Halle.
7 R. R. Targiel u. A. Bodsch u. R. Schmidt: Festschrift 100 Jahre. Strom und Straßenbahn für Frankfurt. Frankfurt a. O. 1998, S. 91.
8 Emch+Berger GmbH: Straßenbahn Halle-Neustadt bis Riebeckplatz/Hauptbahnhof, a. a. O., S. 2.
9 Rat der Stadt Halle in Korporation mit dem Rat der Stadt Halle-Neustdt: Entwicklung eines optiomalen Nahverkehrssysteme für die Städte Halle und Halle-Neustadt, Teil 1, S. 1. In: Stadtarchiv Halle: Büro für Verkehrsplanung. A3. 11 Nr. 165 (1973).
10 Vgl. ebenda, S. 22.
11 Hrsg. v. Stadt Halle (Saale), Dezernat Planen und Umwelt: Verkehrsplanung in Halle und Ihre Umsetzung bis 2001. Halle 2002, S. 67.
12 B. Schmucki u. B. Ciesla: Stadttechnik und Nahrverkehrspolitik. Entscheidungen um die Straßenbahn in Berlin (West/Ost), Dresden und München. In: Hrsg. v. J. Bühr u. D. Petzina: Innovationsverhalten und Entscheidungsstruktur. Berlin 1996, S. 373.

注釈
 本稿は、「後期近代の公共交通に関する政治思想的考察――ハレ新市における路面電車路線網の延伸過程を媒介にして」『北海道教育大学紀要(人文科学・社会科学編)』(第66巻第1号、2015年、215-217頁)として既に公表されている。同時に、、『公共空間X』へと転載されている。


田村伊知朗(近代思想史専攻)


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