大学と学校における教員上がりの行政官ーー近視眼的思考の狭さを競い、事務官的能力の高さを誇る馬鹿教員
大学あるいは学校一般において、教員が行政官を務める習慣がある。たとえば、学部長あるいは学長は元教員である。学校であれば、校長あるいは教育委員会構成員は、教員上がりである。このような風習はもう成立しない。大学学長が卒業式挨拶文を読み上げるだけであれば、それは妥当する。かつての東大総長、南原繁はまさにそのような存在であった。「太った豚より、痩せたソクラテス」は、子供でも知っている名言である。彼は、小学校から秀才の誉れに浴してきた。香川県旧相生村出身であり、幼少より南原3兄弟として郷土の誉れと言われた。その名前は私の幼少時代から周知のものであった。彼の政治思想に関する著作は、今でも読むべき価値を有している。しかし、東京大学の学部をどのように改編するべきかという議論をしてきたわけではない。
現在学長、あるいは学部長になろうとする人間は、事務官以上に事務的細部にこだわる。それが同僚の信頼を形成する。下部組織における会議の積み重ねだけが、重要である。決定過程において、事務的瑕疵が無いことが重要である。経営的な大局観は必要ない。むしろ、そのような世界観的観点は、日常的雑事にとって災いとなる。多くの教員にとって、日常的営為の繰り返しこそが重要である。前例主義、横並び主義、新しい仕事をしないという官僚制の悪弊だけをよりどころにしている。「『前例主義』、『横並び主義』、『新しい仕事をしない主義』という馬鹿」http://izl.moe-nifty.com/tamura/2009/04/index.html前例と他の学校、大学の事例研究を生きがいにしている。
事務官以上の事務処理能力を自負する教員上がりが多い。このような元教員は教育の根本を見失っている。たとえば、小学生に読書を薦めながら、放課後における図書室を使用禁止するという暴挙をなす。理由は、放課後には管理責任を負えないことにあるらしい。子供の学力を低下させることを目的にしている。その割に、図書を多数購入するという事務官的栄誉に狂奔する。予算消化が至上命題になっている。書籍を購入することには熱心であるが、読書を禁止するという馬鹿げた行為様式が、教員上がりの管理職の特性になる。このような教員あがりよりも、事務官のほうが現実態に通じている。50歩100歩であろうが。
むしろ、大雑把な性格の教員が、世界観と歴史的世界観に通じている。しかし、現在ではそのような教員は、事務処理能力に長けていないことによって、管理職から排除されている。
おそらく、大学でも同様であろう。今後、国立大学でも倒産することが想定されている。国立大学の教員も、失業保険に加入している。リストラあるいは他の国立大学との統合も視野に入れねばならないであろう。そのような危機的状況に、有職故実に通じ、事務処理能力の高さだけで対処してきた学長、学部長は対応できないであろう。むしろ、事務官以上の事務官的存在という形式によって、滅亡へと向かうネズミを率いることになろう。
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