« 2015年11月 | トップページ | 2016年1月 »

20151219 『北海道新聞』掲載ーー路面電車講義

1. 岩崎あんり「函館市電」『北海道新聞』(2015年12月19日、29面)

路面電車に関する講義が『北海道新聞』において紹介された。


20151219_2

岩崎あんり『北海道新聞』記者によって、本講義の意義が、新聞紙面に掲載された。路面電車の貸し切りだけではなく、本講義の全体像を社会に周知した。この意義は大きい。地域プロジェクトという講義の一端が紹介された。

 『北海道新聞』の取材は、12月5日に実施された。したがって、12月7日にこの記事を掲載することも可能であった。しかし、この記事は地域プロジェクトに関するものではなく、路面電車の延伸可能性を議論の対象にした。12月19日前後には、札幌市電の延伸が完成した日でもあった。それに合わせて、函館市電の延伸問題に関する記事を掲載した。『北海道新聞』あるいはマス・メディアの総体の深謀遠慮が感じられる。もちろん、岩崎氏はそのようなことをおくびにもださなかった。しかし、紙面をよく読んでいると、このような配慮を感じることもある。
 もっとも、道南版である。それほど影響力を持っていない。それは本記事の限界である。より本質的に言えば、本講義そして本講義を担当している田村伊知朗の能力の限界である。致し方ない。

|

20151213 『函館新聞』掲載ーー路面電車講義

1,鈴木潤「市電の在り方を探る」『函館新聞』(2015年12月13日、15面)

路面電車に関する講義をしている。この講義の一齣が、『函館新聞』に掲載された。

20151213_4


|

2000字による討論会 20151113 の世界史的意義

20151113 の世界史的意義を、20010911 あるいは20110311 との比較において論じる。
その際、イスラム国家は悪い、あるいは悪人を空爆によって殺戮せよ、という常識的観点だけでは、無意味であろう。イスラム国家の必然性を考察する、あるいは空爆という手段を批判的に考察する。
「イスラム国家は悪い」という命題の妥当性を疑問視できる。「近代国家の至上課題が生命と財産の保存である」という命題から、空爆の意義を考察することもできる。あるいは、善悪は国家を前提にしている。たとえば、死刑制度は、近代国家においてタブーになっているが、中東の人間には適用されない。これは近代国家の規範の妥当性範囲を問題にしている。どのような観点を採用してもかまわないが、近代あるいは近代国家の問題を取り上げることが望ましい。

締め切り 1月13日

| | コメント (12)

大学と学校における教員上がりの行政官ーー近視眼的思考の狭さを競い、事務官的能力の高さを誇る馬鹿教員

 大学あるいは学校一般において、教員が行政官を務める習慣がある。たとえば、学部長あるいは学長は元教員である。学校であれば、校長あるいは教育委員会構成員は、教員上がりである。このような風習はもう成立しない。大学学長が卒業式挨拶文を読み上げるだけであれば、それは妥当する。かつての東大総長、南原繁はまさにそのような存在であった。「太った豚より、痩せたソクラテス」は、子供でも知っている名言である。彼は、小学校から秀才の誉れに浴してきた。香川県旧相生村出身であり、幼少より南原3兄弟として郷土の誉れと言われた。その名前は私の幼少時代から周知のものであった。彼の政治思想に関する著作は、今でも読むべき価値を有している。しかし、東京大学の学部をどのように改編するべきかという議論をしてきたわけではない。
 現在学長、あるいは学部長になろうとする人間は、事務官以上に事務的細部にこだわる。それが同僚の信頼を形成する。下部組織における会議の積み重ねだけが、重要である。決定過程において、事務的瑕疵が無いことが重要である。経営的な大局観は必要ない。むしろ、そのような世界観的観点は、日常的雑事にとって災いとなる。多くの教員にとって、日常的営為の繰り返しこそが重要である。前例主義、横並び主義、新しい仕事をしないという官僚制の悪弊だけをよりどころにしている。「『前例主義』、『横並び主義』、『新しい仕事をしない主義』という馬鹿」http://izl.moe-nifty.com/tamura/2009/04/index.html前例と他の学校、大学の事例研究を生きがいにしている。
 事務官以上の事務処理能力を自負する教員上がりが多い。このような元教員は教育の根本を見失っている。たとえば、小学生に読書を薦めながら、放課後における図書室を使用禁止するという暴挙をなす。理由は、放課後には管理責任を負えないことにあるらしい。子供の学力を低下させることを目的にしている。その割に、図書を多数購入するという事務官的栄誉に狂奔する。予算消化が至上命題になっている。書籍を購入することには熱心であるが、読書を禁止するという馬鹿げた行為様式が、教員上がりの管理職の特性になる。このような教員あがりよりも、事務官のほうが現実態に通じている。50歩100歩であろうが。
 むしろ、大雑把な性格の教員が、世界観と歴史的世界観に通じている。しかし、現在ではそのような教員は、事務処理能力に長けていないことによって、管理職から排除されている。
 おそらく、大学でも同様であろう。今後、国立大学でも倒産することが想定されている。国立大学の教員も、失業保険に加入している。リストラあるいは他の国立大学との統合も視野に入れねばならないであろう。そのような危機的状況に、有職故実に通じ、事務処理能力の高さだけで対処してきた学長、学部長は対応できないであろう。むしろ、事務官以上の事務官的存在という形式によって、滅亡へと向かうネズミを率いることになろう。

| | コメント (0)

« 2015年11月 | トップページ | 2016年1月 »