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北海道教育大学函館校の学園祭中止――『北海道新聞』の記事(2015年7月29日)に対する所感

20150729 北海道教育大学函館校の学園祭中止――『北海道新聞』の記事(2015年7月29日)に対する所感

 現状に対する批判は、その漸進的改革でしか実現されえない。それに対する根源的対案を提出するこことは、より悪い結果をもたらす。たしかに、「現状の資本主義は悪い」という命題は、妥当している場合もある。しかし、それに対して社会主義を対置することは、より悪い結果をもたらす。
  ここで、北海道教育大学函館校の学園祭中止について議論を限定してみよう。この大学の1キャンパスが学園祭の中止を決定した。この学園祭はたしかに問題がある。「函教大の大学祭中止」『北海道新聞』(2015年7月29日27面、道南版)の記事によれば、この学園祭において、「学問的発表の場を設けるべき」、「地域との交流企画がないのは問題だ」等の批判がなされている。この批判自体は妥当している。
しかし、それに基づき、学園祭を中止することは、論理的整合性がない。学園祭は、「学術講演」と「地域交流」だけでは形成されえない。「模擬店」も必要である。神社の例大祭も屋台があって初めて盛況になる。焼きそば屋、お好み焼き屋等も必要だ。お化け屋敷があれば、なおよい。数年前には、この大学の学園祭にはお化け屋敷があった。近所の子供たちには好評であった。ちなみに、1977年、秩父夜祭は、露天商を排除した。おそらく、健全化を意図したものであろう。しかし、この年の祭は、貧相なものであった。翌年、この排除を意図した観光協会会長は辞任した。露天商が復活した。
http://www.shunjinkai.or.jp/yataibayashi2/kisochishiki/honbun-2/honbun-2.htm


 学園祭を継続するなかで、そのような批判を徐々に現実化するしかない。一挙に廃止したとこで、来年以降より悪い結果をもたらす。資本主義批判は社会主義の宣揚につながるわけではない。
 また、学園祭を中止したという報道は、このキャンパスの入試に対して良い影響を与えるであろうか。高校生は、学園祭の無い大学への進学をどのように考えているのであろうか。高校生そしてその父兄に対して、良い影響を与えるであろうか。このような決定は、偏差値を下落させ、応募学生数を減少させるであろう。この責任は誰がどのように取るのであろうか。
本記事によれば、この中止を主導したのは、若手教員だそうである。この決定をした学生委員会の教員、この決定を主導したとされる若手教員は、『北海道新聞』の批判にどのように回答するのであろうか。北海道教育大学は常々、「学生第一」と標榜している。このお題目を唱えているだけである。彼らの行為は、教員会議とそれを主導した学生委員会に対する学生総体の不信を産出しただけである。学生第一という標語は、学生不信をもたらす。『北海道新聞』によれば、このような決定は、「短絡的」である。
 なお、この記事には北海道教育大学の全般にわたる責任者、学長の意見が掲載されていない。函館という地方都市の問題は、北海道全体の重層的決定審級のなかでしか考察されえない。もちろん、函館は独自の意見を持っているのかもしれない。しかし、その実現は北海道という全体のなかで考察される。札幌から赴任してきた役人を「奥地から来た」と揶揄する風土が、函館にはある。このような素人的夜郎自大は、もはや妥当しない。

注1

 本記事は、「函教大の大学祭中止」『北海道新聞』(2015年7月29日27面、道南版)の事実認識に基づいている。

注2
「20150620 自己の有限性の確認の場所としての学園祭ーー『北海道新聞』の記事(2015年6月20日)に対する所感」もこの記事に連動している。

http://izl.moe-nifty.com/tamura/2015/06/post-2b19.html


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