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自己の有限性の確認の場所としての学園祭ーー『北海道新聞』の記事(2015年6月20日)に対する所感

20150620 自己の有限性の確認の場所としての学園祭ーー『北海道新聞』の記事(2015年6月20日)に対する所感

 北海道教育大学函館校の学園祭が中止になった。その根拠の一つが、屋台ばかりであるとのことである(『北海道新聞』2015年6月20日、27面)。しかし、屋台だけだとしても、その学園祭は有意義であろう。なぜか。その意義は、自己の有限性を確認することにある。屋台という場所は、若者への教育手段として有効であろう。かつて、学園祭について考えた文章を再掲する。今でも、この文章の意義はあるであろう。なお、下線部は、2015年に加筆したものである。それ以外の修正はない。

20100525 自己認識の場としての大学祭、そして祭りの後へ
 大学祭で学生によって実施される学術講演会、イベント、模擬店、音楽発表会は、それに対応する専門家、つまり学会関係者、イベント産業従事者、露天商、職業的演奏家の水準から考察すれば、稚拙であること極まりないであろう。学生は素人であり、専門家からすれば、彼らの行為は論評するに値しない。児戯にも等しい。
 さらに、ある学生がどのような壮大な理念を掲げて大学祭に参加しても、現実の作業は、立看板を作るために、材木を切断することであり、ペンキを塗ることでしかない。その行為も壮大とは言えない。理念の壮大性が深いだけ、その現実的行為の卑小性が明らかになる。
 しかし、大学祭が自己の有限性を認識する機会であるとするならば、これに参加することは意義深いものであろう。なぜなら、自分だけではなく、周囲の学生すべてがそうであるからだ。まさに、鏡像として自己を他者において認識できる。お寺で座禅を組む場合よりも、大学祭に参加したほうが、自己の有限性を認識する程度はより深い。
 このような過程を経ない場合、自己の有限性を認識しないまま大人になる。また、大学院に進学する。大学教授にはこのような自己の無限性を信仰している人も多い。自己が卑小であることを認識できない。教授会で自己のつまらない意見を延々と開陳する教授も多い。また、自己のつまらない意見に固執し、全体の利益を破壊する教授もまた多い。地域の利益(たとえば、函館市)の利益だけを優先し、全体(たとえば、北海道そして日本の利益)を顧みない馬鹿も多い。 
  学生はこのような認識を経て、社会へと巣立つための出発点に立つことができる。それが大学を卒業するための要件の一つになる。学生がその認識に到達することを、教職員、そして地域社会の人々が期待している。

20120530 卑小な、あまりに卑小な自己に対する認識――学園祭における焼きそば等の屋台の運営を媒介にして
  学術講演会及び政治的講演会等が、多くの大学の学園祭から駆逐されて久しい。それに対して、多くの老教授たちからの嘆きの声が聞こえる。1960年代、70年代の学生に比べて、現在の学生たちは、政治的、社会的問題に対する意識が低くなっていると。しかし、それは多くの点で学生にとって心外であろう。なぜなら、1970年前後に始まった後期近代において、全面的な社会変革、政治変革が不可能になっているからだ。政治的問題に関心を持つことは、AKB48に関心を持つことと等価である。現在の学生は、後期近代に関するこの基本的認識を経験的に体得している。それに代わって、学園祭において多くの学生が参加する場所が、焼きそば等の食事を提供する屋台である。この屋台の運営に参加することは、政治的講演会を主催することと等価である。
  サークル、ゼミナール等の既存の仲間が集まって、このような屋台を運営する。この催しに参加することは、多くの学生にとって意義深いことである。既存のありふれた食堂で提供される焼きそばを自分達の力で創造することが、如何に困難であるか。屋台を媒介にして初めて、学生はこの認識に到達できる。この機会に恵まれる学生は、何物にも代えがたい経験をする。焼きそばの味は、生涯に渡って学生の味覚と記憶を規定するであろう。
 自分の力が既存の社会において如何に卑小であるかを認識する場所、それが学園祭における屋台であろう。学園祭に参加する社会人が、君たちの焼きそばを食べる理由もそこにある。老教授にとって、かつて主催した政治的講演会よりも香川県人会で作ったうどんの記憶がより鮮明に残っている。祭りの後の酒は、あまりに苦かった。

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