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路面電車に関する講演「路面電車による祝祭的空間の形成――バーゼル市、ハレ市の事例を中心にして」に対する『北海道新聞』、『函館新聞』の報道

20150625 路面電車に関する講演「路面電車による祝祭的空間の形成――バーゼル市、ハレ市の事例を中心にして」に対する『北海道新聞』、『函館新聞』の報道


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 路面電車の意義に関する講演を行った。その記事が、函館新聞と北海道新聞に掲載された。バーゼル市とハレ市の祝祭的空間における路面電車の意義に関するものである。右クリックすると、読みやすくなります。

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自己の有限性の確認の場所としての学園祭ーー『北海道新聞』の記事(2015年6月20日)に対する所感

20150620 自己の有限性の確認の場所としての学園祭ーー『北海道新聞』の記事(2015年6月20日)に対する所感

 北海道教育大学函館校の学園祭が中止になった。その根拠の一つが、屋台ばかりであるとのことである(『北海道新聞』2015年6月20日、27面)。しかし、屋台だけだとしても、その学園祭は有意義であろう。なぜか。その意義は、自己の有限性を確認することにある。屋台という場所は、若者への教育手段として有効であろう。かつて、学園祭について考えた文章を再掲する。今でも、この文章の意義はあるであろう。なお、下線部は、2015年に加筆したものである。それ以外の修正はない。

20100525 自己認識の場としての大学祭、そして祭りの後へ
 大学祭で学生によって実施される学術講演会、イベント、模擬店、音楽発表会は、それに対応する専門家、つまり学会関係者、イベント産業従事者、露天商、職業的演奏家の水準から考察すれば、稚拙であること極まりないであろう。学生は素人であり、専門家からすれば、彼らの行為は論評するに値しない。児戯にも等しい。
 さらに、ある学生がどのような壮大な理念を掲げて大学祭に参加しても、現実の作業は、立看板を作るために、材木を切断することであり、ペンキを塗ることでしかない。その行為も壮大とは言えない。理念の壮大性が深いだけ、その現実的行為の卑小性が明らかになる。
 しかし、大学祭が自己の有限性を認識する機会であるとするならば、これに参加することは意義深いものであろう。なぜなら、自分だけではなく、周囲の学生すべてがそうであるからだ。まさに、鏡像として自己を他者において認識できる。お寺で座禅を組む場合よりも、大学祭に参加したほうが、自己の有限性を認識する程度はより深い。
 このような過程を経ない場合、自己の有限性を認識しないまま大人になる。また、大学院に進学する。大学教授にはこのような自己の無限性を信仰している人も多い。自己が卑小であることを認識できない。教授会で自己のつまらない意見を延々と開陳する教授も多い。また、自己のつまらない意見に固執し、全体の利益を破壊する教授もまた多い。地域の利益(たとえば、函館市)の利益だけを優先し、全体(たとえば、北海道そして日本の利益)を顧みない馬鹿も多い。 
  学生はこのような認識を経て、社会へと巣立つための出発点に立つことができる。それが大学を卒業するための要件の一つになる。学生がその認識に到達することを、教職員、そして地域社会の人々が期待している。

20120530 卑小な、あまりに卑小な自己に対する認識――学園祭における焼きそば等の屋台の運営を媒介にして
  学術講演会及び政治的講演会等が、多くの大学の学園祭から駆逐されて久しい。それに対して、多くの老教授たちからの嘆きの声が聞こえる。1960年代、70年代の学生に比べて、現在の学生たちは、政治的、社会的問題に対する意識が低くなっていると。しかし、それは多くの点で学生にとって心外であろう。なぜなら、1970年前後に始まった後期近代において、全面的な社会変革、政治変革が不可能になっているからだ。政治的問題に関心を持つことは、AKB48に関心を持つことと等価である。現在の学生は、後期近代に関するこの基本的認識を経験的に体得している。それに代わって、学園祭において多くの学生が参加する場所が、焼きそば等の食事を提供する屋台である。この屋台の運営に参加することは、政治的講演会を主催することと等価である。
  サークル、ゼミナール等の既存の仲間が集まって、このような屋台を運営する。この催しに参加することは、多くの学生にとって意義深いことである。既存のありふれた食堂で提供される焼きそばを自分達の力で創造することが、如何に困難であるか。屋台を媒介にして初めて、学生はこの認識に到達できる。この機会に恵まれる学生は、何物にも代えがたい経験をする。焼きそばの味は、生涯に渡って学生の味覚と記憶を規定するであろう。
 自分の力が既存の社会において如何に卑小であるかを認識する場所、それが学園祭における屋台であろう。学園祭に参加する社会人が、君たちの焼きそばを食べる理由もそこにある。老教授にとって、かつて主催した政治的講演会よりも香川県人会で作ったうどんの記憶がより鮮明に残っている。祭りの後の酒は、あまりに苦かった。

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討論会 記者クラブ制度の問題点――その二・新聞記者の劣化

記者クラブに関する討論会を開催する。下記の記事を参考までに掲示する。あくまでも、参考である。締め切りは、6月22日である。 500字以上、1000字以内でお願いする。締め切りを延長します。明日25日12時までにお願いします。

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「記者クラブ制度の問題点――その二・新聞記者の劣化」

 

下記のような記者クラブ制度の問題点を、かつて指摘した。論点は「行政とマス・メディアの癒着」であった。さらに、この癒着構造から以下の点が導出される。つまり、情報源が行政機関だけであるかぎり、記者は取材も何もしないで記事が書けてしまうことである。行政から配布された資料にもとづき、新聞記事が執筆される。したがって、どの新聞も記事内容がほぼ同じである。同一の対象を市民が考察しようとして、多くの新聞を駅売店等で購入したとしても、無駄である。若干の修辞法が異なるだけで、ほぼ同一の記事内容しか見出すことはできない。情報源が同一の文書だからである。市民が複数の新聞を購入することは、ほぼ無駄であろう。

中央政治であれば、個々の記者の見識、新聞社の方針の若干の差異がみられる。しかし、地方政治であれば、ほぼ行政機関から配布された文書をそのまま要約するだけである。配布資料の裏を取ることもほとんどない。また、配布資料で伏せているより巨大な問題点を指摘することもない。巨大な問題点を伏せるために、小さな悪を公開することは、政治学の常識である。より大きな問題点を指摘することは、行政機関との関係が悪化することもある。垂れ流し記事が多くを占める。もちろん、すべての記事が垂れ流しであると主張しているのではない。独自の取材で地域社会の問題点を明らかにした記事も多い。たとえば、『新潟日報』による原発関連記事は、他紙の追随を許さないほど舌鋒が鋭い。

しかし、そのような記事はまれである。多くは、記者クラブで公開された情報に基づいている。ここでは、新聞記者の取材能力は問われない。むしろ、配布資料を如何に新聞記事としてまとめるかという能力だけが向上する。作文能力だけが問題になるのであれば、小学校教諭経験者が新聞記者のリクルート先として浮上しよう。

問題はそこにはない。記者クラブで配布された資料の背後に、どのような人間関係が伏在し、どのような情報が隠されているのかを洞察する能力こそが、新聞記者に求められている。それこそが取材であろう。

 

 

 

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「記者クラブ制度の問題点」

記者クラブ制度が問題になっている。中央官庁の情報を加工せずに、そのまま流しているではないか、という疑惑が問題になっている。また、このクラブに属していないマス・メディアを排除しているという疑惑である。巨大マス・メディアと行政機構が一種の癒着構造にある。とりわけ、野中元官房長官が暴露した巨大マス・メディアの政治部記者に対する利益供与も、その温床になったのが、記者クラブ制度と言われている。

 しかし、新聞記者がその記事を執筆する空間は必要であろう。その場所を提供することは、必ずしも悪いことではない。そのあたりに、解決策もあるのかもしれない。誰もが利用できる空間として再整備すべきであろう。」(2010617日) 

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自家用車の渋滞(車両の安全?)と、人命の安全、どちらを重視すべきか――車両の走行を重要視し、人命を軽視する北海道教育大学

20150610 自家用車の渋滞(車両の安全?)と、人命の安全、どちらを重視すべきか――車両の走行を重要視し、人命を軽視する北海道教育大学


2014年6月19日、北海道教育大学函館校の出入り口付近で、乗車者が女子学生に追突し、彼女の生命を奪った。横断歩道上における痛ましい事故の直接的原因は、もちろん乗用車運転手の過失であった。しかし、事故現場において大学入口車道を含めれば、5本の道路が交差している。事故現場になった横断歩道も、かなり危険な横断歩道としてこれまで学生、周辺住民、歩行者に認知されていた。

それに対して交通警察(北海道)は、大学入口に横断歩道を新設し、事故現場になった旧来の横断歩道の廃止を提示した。この案に対して、北海道教育大学函館校運営会議(?)は反対を表明した。本案は車両の大学への進入を妨げることが、その理由だそうである。また、信号機を設置する、つまり歩道の改善を実施しないという対案を示した。

これに対して、住民自治会は「車を優先している」と大学の態度を非難している。なお、大学は現状、つまり横断歩道を現状のまま維持し、学生の指導を徹底するという案も保持している、という。

しかし、歩道は学生だけでのものではない。むしろ、都市住民のものである。少なくとも、交通警察の案は、現状よりも歩行者の安全を改善する。大学への車両進入を阻害しても、歩行者の安全を改善する意図をもっているはずである。もちろん、交通警察が歩行者の安全を減じて、車両の渋滞なき走行を優先しているのであれば、別である。しかし、このような意図は感じられない。少なくとも、1年前の事故の原因は、北海道警察、函館市の交通政策の欠陥に基づいている。彼らも責任の一端を感じている。また、同一の事故が発生すれば、今度は警察署長あるいは本部長の進退問題に発展する可能性がある。キャリアに傷がつくこともあるであろう。マス・メディアは、警察と行政(函館市道路建設部長?)の責任を追及するであろう。

このような認識を前提にして、改善案を交通警察は提示した。その案に対して、北海道教育大学函館校は大学への進入車両の渋滞を理由として反対した。しかも、北海道教育大学函館校の一員は、「車両の安全」という不可解な言葉を述べている。車両の安全と人間の安全をどちらを重視uするのか、自明であろう。歩行者の安全が現今、議論されている。それに対置できる概念ではないであろう。]

なお、このブログ記事は、佐藤龍文(キャスター)の「NHK ホットニュース北海道」(2015年6月10日、18時10分―)の事実認定に基づいている。

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