人間的理性による世界把握と世界変革(その三)ーー老人と能力の衰退
20150213 人間的理性による世界把握と世界変革(その三)ーー老人と能力の衰退
老人は哀しい。ドイツのあるホテルにおける朝食の場面である。ある老人は、カフェ・マシーンの操作ができない。それでも、若いホテル労働者にドイツ語で教わりながら、その操作に習熟してゆく。半ば馬鹿にしている表情を甘受しながら、この老人は操作に苦闘する。しかし、ドイツ語を忘れかけている外国人は、そのドイツ語を理解できない。当然、その機械を操作することができない。機械の操作に習熟していないし、ドイツ語にも欠陥がある。ゆっくりとした発音にはついてゆけるが、早口で言われると、わからなくなる。
しかも、ホテルではあくまでも客である。ホテルの労働者も、客に対してそう無碍にはしない。しかし、警察では、かなり荒っぽい対応が想定される。その場合のドイツ語は、早口でかつ高圧的である。とりわけ、発音に難点がある外国人にはそうである。また、ドイツ語の意味の微妙な点に、習熟していない場合もそうである。たとえば、Bemühungは努力という意味である。その意味はあまりに辞書的正当性しか有していない。場合によっては、報われない努力を意味する場合もある。場面を間違うと大変な事態に遭遇する。
置かれている状況に対応できないと同時に、その矯正を目指す言語に対応できない場合、状況はかなり悪化する。このような状況に対処する法は、ないのであろうか。いずれ、自分もまたまさに老人になる。今は、ein werdender Alten 老人になりかけている人である。それだけ、外部への対応は遅くなる。遅くなることによって、さらに状況はより悪化する。外国で労働することが、いつまで可能であろうか。
近代は老化すなわち能力の後退を前提にしない。ある一定の能力を前提にしている。しかし、その前提から逸脱する場合、逸脱した人間はどのように生きているのであろうか。
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