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英国贔屓という概念の幻想――Wilkinson, Schick, Energizer Holdings の同一性

20150328 英国贔屓という概念の幻想――Wilkinson, Schick, Energizer Holdings の同一性

ドイツで、Wilkinsonという銘柄の髭剃りを買った。この5枚刃の髭剃りの調子が良いので、日本で同様な5枚刃を購入した。その銘柄は、Schickであった。しかし、この髭剃りは同様という範疇を超えて、全く同一であった。つまり、同じ形式の髭剃りが、ドイツではWilkinsonという銘柄で売られ、日本ではSchickという銘柄で売られていた。
 このWilkinsonという銘柄は、もともとは英国発祥であったが、後に米国のSchickに売却され、現在ではEnergizer Holdingsという米国のコンツェルンに属している。 1
 ある英国贔屓の知人は、ドイツ在住で米国を嫌っている。この老紳士はWilkinsonを英国の企業と信じている。彼にこの事実を伝えようかどうか迷っている。現在では、英国贔屓あるいはドイツ贔屓という概念が無効になっている。著名な企業は、米国資本となんらかの関係がある。ドイツでも英国でも、そして日本でもアメリカ資本の製品を購入するしかない。


1, http://de.wikipedia.org/wiki/Wilkinson_Sword

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官僚世界における学歴重視――環境世界への順応性と批判的精神の欠如

20150216 官僚世界における学歴重視――環境世界への順応性と批判的精神の欠如
官僚機構は、形式的合理性を問題にする。それは、対象だけではなく、主体つまり自らを正当化する際、その学歴と成績を問題にする。どの大学に入学し、どのゼミナールに所属し、どのような成績を取得したかが問題になる。もちろん、それなりの大学、最低でも早慶卒業が前提になる。そして、法学部でも著名なゼミナールに所属しなければならない。著名なゼミナールに所属するためには、成績が問題になるからだ。専門課程における優の数も20個以上、ほぼ全優である(ちなみに、10数年前までは、4単位制であった)。卒業後、30年以上経過した本省勤務の50歳前後の課長、及び課長級と話をしていると、最後に問題になるのは、大学時代の成績と上級職試験の順位である。それだけではないにしろ、彼らの現在の地位、つまり本省の課長であることの正当性は、大学時代の成績である。
 それを哀しいとみる向きもある。人間の価値は学齢に還元されない。もちろん、正しい。しかし、彼らが少なくとも青春時代、学校という対象世界において順応してきたことも事実である。その順応性は、役所の仕事においても大いなる役割を果たしてきたことも事実である。
 しかし、このことは彼らがその環境世界に対して批判精神をもっていなかったことも証明している。環境世界における致命的欠陥を洞察する力をもっていなかったか、あるいはそのような力を有していた人間は、大学時代においてその片鱗を見せていたはずである。少なくと、優の数を競う世界から逸脱する傾向を持っていた。

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人間的理性による世界把握と世界変革(その五)ーー過去の行為の訂正

 20150214 
人間的理性による世界把握と世界変革(その五)ーー過去の行為の訂正
研究者は特定の課題を追求する。その設定された課題において、最善をめざす。それはその限定された課題においてだけである。これを現実的生活において追求しようとすると、他者との関係が生じてくる。そこでは、他者は他者の基準で行動する。他者の基準と自分の基準が、矛盾する場合もある。
この事例が妥当することを先日、実施してしまった。いつも使用しているサイトをログアウトしているかどうか、気になってしかたなかった。しかも、それは共用パソコンであった。私が使用していたパソコンに数時間後、他人が座っていた。強引に、ログアウトしたどうか、確かめたいとお願いした。数分後もちろん、ログアウトしていたことが明らかになった。相手が気の弱そうな女性であったから、しぶしぶ承認してくれたが、ほかのややこしいひとであれば、どうなったかわからない。喧嘩になっていたかもしれない。
もちろん、この程度であれば、それは近代の病理とは関連しないかもしれない。たんなる精神病の類に属することかもしれない。しかし、このような病理を近代人が多かれ、少なかれ経験していることも事実である。

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人間的理性による世界把握と世界変革(その四)ーー欧州のホテルの床は、清潔かどうか

20150214 人間的理性による世界把握と世界変革(その四)ーー欧州のホテルの床は、清潔かどうか
 
 研究者は特定の課題を追求する。その設定された課題において、最善をめざす。それはその限定された課題においてだけである。これを現実的生活において追求しようとすると、他者との関係が生じてくる。そこでは、他者は他者の基準で行動する。他者の基準と自分の基準が、矛盾する場合もある。
 いつも使用しているサイトをログアウトしているかどうか、気になってしかたなかった。しかも、それは共用パソコンであった。強引に、お願いした。もちろん、ログアウトしていた。相手が気の弱そうな女性であったから、しぶしぶ承認してくれたが、ほかのややこしいひとであれば、どうなったかわからない。喧嘩になっていたかもしれない。
同様なことが、欧州のホテルの部屋でも生じる。欧州人の感覚によれば、ホテルの部屋は清潔である。毎日、清掃労働者が掃除機をあてている。しかし、日本人の感覚からすれば、部屋に土足で上がっている。路上と同一という感覚も残存している。多くの日本人は、スリッパを持参する。
 しかし、よく考えてみると、ホテルの部屋に到着するまでに、ほとんどの塵はホテルの通路で落ちているはずである。もちろん、ミクロン精密の基準では、多くの埃が付着しているはずである。しかし、そのような基準を現実のホテルの部屋に適用することは意味がない。
 現実社会に学問的厳密性を求める必要はない。

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人間的理性による世界把握と世界変革(その三)ーー老人と能力の衰退

20150213 人間的理性による世界把握と世界変革(その三)ーー老人と能力の衰退

老人は哀しい。ドイツのあるホテルにおける朝食の場面である。ある老人は、カフェ・マシーンの操作ができない。それでも、若いホテル労働者にドイツ語で教わりながら、その操作に習熟してゆく。半ば馬鹿にしている表情を甘受しながら、この老人は操作に苦闘する。しかし、ドイツ語を忘れかけている外国人は、そのドイツ語を理解できない。当然、その機械を操作することができない。機械の操作に習熟していないし、ドイツ語にも欠陥がある。ゆっくりとした発音にはついてゆけるが、早口で言われると、わからなくなる。 
しかも、ホテルではあくまでも客である。ホテルの労働者も、客に対してそう無碍にはしない。しかし、警察では、かなり荒っぽい対応が想定される。その場合のドイツ語は、早口でかつ高圧的である。とりわけ、発音に難点がある外国人にはそうである。また、ドイツ語の意味の微妙な点に、習熟していない場合もそうである。たとえば、Bemühungは努力という意味である。その意味はあまりに辞書的正当性しか有していない。場合によっては、報われない努力を意味する場合もある。場面を間違うと大変な事態に遭遇する。
置かれている状況に対応できないと同時に、その矯正を目指す言語に対応できない場合、状況はかなり悪化する。このような状況に対処する法は、ないのであろうか。いずれ、自分もまたまさに老人になる。今は、ein werdender Alten 老人になりかけている人である。それだけ、外部への対応は遅くなる。遅くなることによって、さらに状況はより悪化する。外国で労働することが、いつまで可能であろうか。
近代は老化すなわち能力の後退を前提にしない。ある一定の能力を前提にしている。しかし、その前提から逸脱する場合、逸脱した人間はどのように生きているのであろうか。

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人間的理性による世界把握と世界変革(その二)――他者への期待はほぼ実現しない

20150214 人間的理性による世界把握と世界変革(その二)――他者への期待はほぼ実現しない

他者の言行を自分の基準に変更すべきである。以前、他者にある依頼をしたことがある。私の依頼は、他者の基準とその能力に変換される。私の依頼が完全に理解されることはない。同様に他者の依頼を完全に満たすことは、しない。完全を希求するがゆえに、イライラの原因になる。そもそも自分の能力を超えた依頼に対応することはできない。自分の言語に変換して、対応するしかない。ここでも、重要なことは完全への希求である。これは近代の病理に属するのかもしれない。           
 かつて引越をしたことがある。このごろはすべてお任せが、基本である。CMによれば、以前と同じような生活が転居先で可能であると謳われている。しかし、間取りも、位置も異なる二つの部屋において、同一の生活が営まれることはない。完全性への希求がある。もちろん、電化製品はほぼ同一規格であることは可能だ。それは、実験科学の領域に属している。しかし、人間は同一の事柄を実現できると考えない方がよい。自分と同一の前提で他者が行動すると考えないようがよい。
 この事柄は、親の子供に対する期待において典型的に妥当する。親の希望とおりに行動する子供はいない。とほほ。

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人間的理性による世界把握と世界変革(その一)ーー他者理解における完全性の希求

20150316 人間的理性による世界の把握とその改造ーー他者理解における完全性の希求
現実生活において学問的正確性を追求すべきではない。最近のことである。知人から一般のスーパーマーケットで北海道の特産品を購入することを依頼された。彼の言葉を真に受け、空港で買ってはいけないと勘違いしてしまった。彼の真意は、ただ安いからであり、空港で買ってはいけないということではなかった。名物であれば、なんでもよかったそうである。それを馬鹿正直にスーパーマーケットで買い、トランク詰めに苦労した。空港で購入するという選択肢があった。空港で購入したものは、運搬にも便利であり、賞味期限にも配慮されている。
彼の真意は、土産を持ってきてほしいということだけであった。なんでもよかったそうである。単に、私の懐具合を勘案しただけであった。スーパーマーケットの方が安価であるだけである。空港で購入すれば、かなり高い。
それほど、言葉の真意を把握することは簡単ではない。言葉を真に受けてならない。また、現実生活において、人の言葉を学問的方法によって把握してはならない。かなりの曖昧性を含んでいる。
もし、現実社会を学問系方法論によって整序しようとすれば、どのような問題が生じるであろうか。世界と歴史的世界を人間的理性によって創造しようとすれば、どのような結果が生じるであろうか。これこそが問われている課題である。

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