後期近代における人間関係――他者との一面的関係性と、死後におけるその消滅
20150125 後期近代における人間関係――他者との一面的関係性と、死後におけるその消滅
最近、昭和一桁生まれの知人が死んでいる。年齢は80歳を超えており、平均寿命とほぼ同等である。彼らも自己の死を想定していたに違いない。しかし、現実にその死を受容するためには、具体的な設定をしていない場合も多い。突然死に近い場合もある。
彼らと昭和30年代生まれの私は、知人と言っても父親と子供ほど年齢が離れている。例えれば、指導教官とその弟子の関係に近い。その指導教官の家族、親族とはほとんど無関係である。したがって、その葬儀に呼ばれることはない。葬式以後、かなりの時間が経過した後で、その死を知ることになる。葬儀とは、故人の遺品、財産の承継等が中心になるからだ。
そして、生者と故人との関係が明白になる。その関係の一面性が明白になる。ある知人とは趣味、つまり煙草談義だけでつながっていたにすぎない。その職業的側面に関して、介入することはなかった。様々な助言を受けたが、それをすべて実行することはなかった。
このような事柄は、はすべてに人間関係に言えることである。私の知人の多くは、私の研究内容に興味がない。私も、知人の研究内容、仕事の内容の詳細に関して知るすべもない。
後期近代とは、関係がすべて機能化する時代である。全人的な人間関係の構築という標語もまた、死語になった。この機能主義関係に包摂されない部分を、我々はどこの託そうしているのか。機能主義だけに還元されない生の欲求は、どこにその出口を求めるべきであろうか。新興宗教が隆盛であるのも、その観点から考察されるべきであろう。
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