集団的自衛権と憲法改正――戦後政治の総決算と国民、とりわけ大学教授の大衆化
集団的自衛権と憲法改正――戦後政治の総決算と国民、とりわけ大学教授の大衆化
(集団自衛権に関する新聞コメント、『北海道新聞』2014年11月28日、24面)
その要旨は、集団自衛権の問題は憲法改正の問題と関連している。1982年に総理大臣に就任した中曽根政権以来の憲法改正志向の継続のなかでしか、この問題を取り扱うことはできない。憲法改正は軍事的強化だけではない。ここではこの30年間の政治史が何を目的にしているかが明らかにされるべきであろう。
(秩序意識)
それは、整除化された世界秩序、それは、ワシントン(アメリカの首都)―東京(日本の首都)―道州制首都(たとえば高松)―県庁所在地(たとえば徳島)―普通の各都市(たとえば鳴門)という政治的ヒエラルヒーを名実ともに明示することを目的にしている。もちろん、このように単純化されたヒエラルヒーは、かなり実現困難である。イスラムの反乱だけをみても容易に理解できる。しかし、後期近代における政権はこのような美しい秩序、美しい日本を志向する。
このようなヒエラルヒー的秩序において、すべての事柄が決定される。文化的、経済的、政治的エリートが、専門家としてすべての事柄を決定する。個別的国民がある決定に関与できる余地をかぎりなく、減少させようとする。
(労働現場における共同性の衰退)
また、この戦後政治の総決算は、社会における団体、下位組織自体における共同性の衰退と関連している。たとえば、労働現場は、かつて「我らの世界、俺たちの世界」であった。そこでは、給与=金銭だけが問題になったわけではない。労働の存在形式を労働者の独自の方法で決定できた。
しかし、後期近代においてこのような「我らの世界、俺たちの世界」は、もはや存在しようがない。マニュアル化された労働形式が強制される。それは、ファーストフードの労働現場だけではない。通常のオフィスにおいてもそうである。背広を着た労働者の世界でも、「我らの世界、俺たちの世界」は存在しない。まさに、世界標準にしたがって、労働現場も規制される。もっとも、自由であるはずでの大学教師の世界もまた、同様である。
(大学における共同性の衰退)
このようなマニュアル化された労働形式において、自治という概念はどのような形式であろうと存在余地を縮小せざるをえない。その裁量余地は可能なかぎり縮小される。しかし、大学、研究者がマニュアル化されるとどのような事態が生じるのであろうか。
このような事態に対して、多くの教授は個別的な専門分野にとどまり、公共的なもの、全体的なものに関心を持たない。いな、現在の多くの大学教授はこのような経験を経ていない。公共的なものとどのように対峙すべきか、という議論形式を学習していない。自己の研究領域にとどまることが、論文数を拡大させる。自分の個別利益しか問題にしていない。むしろ、このような教授こそが奨励される。
(大学教授、そして国民の大衆化)
教授会においても、自己の個別的利益、自己の所属する小集団の利益しか表出できない。自らの集団を全体像から分離して考察している。このような人間は近代的な自己意識の水準に到達できない。
集団的自衛権の問題も同様である。その背後にある少なくとも、この30年間の政治史において統括的に概念把握すべきでる。しかし、その能力に欠けている。
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