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政治学における認識と社会的役割の変更不能性――村上和彦「誇り高き戦い」

政治学における認識と社会的役割の変更不能性――村上和彦「誇り高き戦い」「刑事は刑事らしゅう、極道は極道らしゅう

村上和彦「誇り高き戦い」『昭和極道史』第10巻、竹書房、1998年、224-225頁。

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 漫画本文でも、刑事と極道を同じにすべきではない、という批判は村上和彦も承知している。この名せりふのあとで、彼もこの点に言及している。ここで極道という社会的役割を賞賛することを目的にしているのではない。

 問題は以下の点にある。つまり、その社会的役割を人生の一定の段階において交換することは不可能であることである。極道も、刑事も人生の後半に差し掛かれば、その社会的役割を交換することはできない。極道が公務員の一員である刑事になることは事実上不可能である。また、公務員の一員である刑事が、極道になることもほとんど不可能である。後者の事例はまれにはあるが、その職場環境の違いによって、その精神的環境もまた異なっていることによって、困難であろう。その極端な形を村上和彦は示している。

それは、大学教員が刑事になることも、極道になることも不可能であることと同様である。社会的役割を交換することは、理論上あるいはマクロ社会学的観点から、可能であるにすぎない。転職が可能になったとしても、それは同業他社という範疇でしか語りえない。数十年の月日を費やしたキャリアは、個人史的には変更不可能である。そこで如何に人間としてその役割を全うするのかが、問題になるにしかすぎない。

これまで形成してきた社会的役割を極端に変更することが不可能であれば、その社会的役割に殉じるしかない。もちろん、社会的役割を選択する契機は偶然的である。若いときであれば、刑事になることも極道になることも大学教員になることも可能であったであろう。また、大学院進学等の選択肢もまた可能であった。その分岐点は世間一般に言われているほど、明確であったわけではない。かなり偶然的であった。なぜなら、大学教員が研究者だけではなく、行政的事務を担う存在でもあることを大学院進学予定者は認識しているはずがない。研究ばかりしている大学教員は存在しない。文系の教授であれば、そのほとんどが大学の研究室において研究などしない。研究室は事実上、大学行政の書類作りの部屋にしかすぎない。膨大な文書が作成されている。しかも、無署名かつ日々消費される文書である。このような存在に憧れる若者はいない。文書を作成するのであれば、国家公務員試験の総合職のほうがましである。同じ文書であっても、国家総体にわたる文書と、学部あるいは学科の細かな規則に関する文書を比較すれば、前者のほうが面白い。

その時々の選択にはもちろん必然性がある。しかし、刑事になるか、極道になるか、その結果はかなり異なっている。しかし、対極にみえる職業という社会的役割を果たしながらも、その人間性を相互に理解することも可能である。

多くの若者が自分探しをしている。しかし、本来的自己などは探して見つかるものではない。社会的モラトリアムというのは事実上存在しない。浪人生活という選択肢もまた、その条件が可能であった場合でしか、成立しない。もはや、自分探しという夢物語から解放されるべきである。現にそこにある自分からしか出発するしかない。村上和彦はこの結論を両極端にある職業の考察から導き出した。漫画史そして文化史に残るべき名場面である。

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