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いしいひさいち官僚制論(その一)日本官僚制の問題点ーーいしいひさいち役人論(馬鹿役人)

 20100220_4

(クリックすると、拡大されます)。

いしいひさいち『蜜月マーヤの暴言』双葉社、2003年、100頁

この漫画において、日本官僚制の問題点が明白に現れている。つまり、落城寸前になっても、官僚的な目的合理性が追求されている。自分の領域、つまり有職故実に関する事柄が議論されている。落城になれば、そのような合理性はその基盤が崩壊するのであるが・・。このような官僚が組織の重要な部分を担ってしまえば、その組織の崩壊は明らかである。

 このような官僚的合理性が組織の崩壊をもたらす。この問題について、次のブログ記事で議論したい。まさに、木を見て、森を見ず、という盲目的役人が跋扈している。いしいひさいちは、この日本の現状を明確に把握している。

この記事に触発されて、以下のような文章を書いた。

 20070302

 「日本的会議の特質は、どうでもよいことに反応し、大事なことに反応しないことであろう。会議は、会議に参加する構成員にとって重要なことを討論する舞台である。しかし、往々にして、些細なことの過剰反応して多くの時間を費やす。1時間の会議で、文章の間違いを30分以上話し合った会議があった。「阻害」という漢字をしようするのか、「疎外」を用いるのか、ということが論点であった。馬鹿ではないかと多くの参加者は考えていたが、うんざりしながら、聞いていた。もちろん、漢字の使用法、あるいは句読点の一字によって、法解釈そのものが180度変わることは承知している。しかし、変換ミスが明らかである場合でさえも、糾弾の対象になる。

 それに対して、重要なことにはほとんど反応しない。たとえば、多くの大学で「教員任期制」を導入するにあたって、すくなくとも私が参加した大学の会議では議論の対象になったことはない。任期制とは、簡単に言えば首切りである。そのような重大な問題に対しては議論せず、漢字の変換ミスには過剰に反応する。「木を見て森を見ず」、あるいはかつてのブログに書いたような「落城寸前の御前会議における文書日付」のような事態が進行している。このような馬鹿が多く存在する会社、あるいは組織はつぶれてよいのであろうか。ただ、このような会議に参加する構成員は、それでも落城を阻止するために、獅子奮迅の活躍をしなければならないのであろうか。そして他の構成員から次のように言われるに違いない。「勝手にやって。会議では承認されていない」と。

 漢字の変換ミス、あるいは改行の是非しか議論できない組織には、見切りをつけるべきであろうか。思案している。あるいは、このような組織が崩壊することは、目に見えている」。

そして、2011年3月になった。いしいの予言は、我々の生命自体に関係してくる。大惨事を前にした官僚機構の壊死が生じた。

「20110414 馬鹿役人と馬鹿学者の政治学――誤植の訂正しかしない原子力安全委員会の議論形式と、学術専門家の怠慢

 かつて本ブログにおいて「日本官僚制の問題点――いしいひさいち役人論(会議の無駄)」(2010227日)と題して、日本の官僚機構における会議の特徴を述べた。 1 この論説の中心点は、会議における議論が誤植の訂正と文章の若干の改変に終始して、本質的議論をしない日本の官僚制に対する批判である。落城の危機に際して、繁文縟礼を議論している重臣を揶揄した、いしいひさいち氏の4コマ漫画を援用しながら、この官僚制の問題を議論した。

 この日本の会議形式に対する批判が、平成23325日に開催された第19回原子力安全委員会にまさに当てはまる。2 325日と言えば、314日における東京電力福島第一原子力発電所の第3号機の水素爆発を受けて、国家が危機的状況にあったときである。第2号機、第4号機も同様な危機的状況にあった。この東京電力福島第一原子力発電所の非常事態を受けて開催された原子力安全委員会は、たった42分程度で閉会している。しかも、PDFファイル12頁にわたる議事録の半分以上は、事務局によって作成された資料の読み上げに終わっている。その後の委員による議論の中心は、「『葉』になってございますけれども、これは平仮名の『は』でございます」、あるいは「平仮名の『に』を入れてください」(10頁)という文書の校正にある。

委員としての専門知識は要求されていない。誤植の訂正であれば、村役場の庶務課長のほうが、より適切な指示を出せるであろう。このような議論しかできない専門委員は、役場の庶務課長に転職したほうがよいであろう。もちろん、庶務課長ほどの文書校正能力を有しているとは思えないが。

このような繁文縟礼に通じた専門家しか、専門委員になれない現状がある。専門知識よりも管理職的能力に通じた専門家のみが、大学教授になり、そして政府の審議会委員に抜擢される。そこで求められる能力は事務局と協調する能力と文書作成能力でしかない。

専門委員には、事務局によって作成された資料を根源的に批判し、積極的な提言を求められているはずである。ここでの議論は、専門知識を要求されない事務局職員以下の水準にある。逆に言えば、このような専門家は、官僚機構にとって統御し易い人間である。自分たちを批判しない人間のみが、「専門家」として認知される。学術的専門家と官僚機構の癒着が生じる。

彼らはこれまでいつもこのような議論形式に慣れてきたはずである。このような議論しかできない。それゆえ、彼らは「専門家」として認知された。国家の危機に際しても、このようにしか議論できない。

1. http://izl.moe-nifty.com/tamura/2010/02/index.html

2. http://www.nsc.go.jp/anzen/soki/soki2011/genan_so19.pdf

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