« 2014年4月 | トップページ | 2014年6月 »

美味しんぼ問題における風評問題ーー批判する側の錯誤と風評

20140525 美味しんぼ問題における中間考察  

 この問題の中核的問題の一つが、学術的厳密性である。この漫画を非難する人も、東京電力株式会社福島第一原子力発電所周辺で鼻血が多いという統計的有意味性を認めている。問題は、この肉体における症状と放射線との因果関係が厳密に科学的に証明されていないという事実にある。  たとえば、安倍総理の「東京電力福島第一原子力発電所は完全に制御されている」という命題を考察してみよう。現在でも、原発周辺の放射能の値は高い。汚染水は海に垂れ流されている。おそらく、この命題も安倍総理の言葉を借りるならば、風評被害をもたらしている。この言説を信じて、東京電力株式会社福島第一原子力発電所周辺の魚を食べたものは、どのようになるのであろうか。  ここでは、風評被害という曖昧な概念は用いない。この安倍総理の命題は、錯誤を含んでいるというだけである。撤回しろと強要されることはない。森まさこ・内閣府特命担当大臣(自由民主党)の言説も風評被害をもたらすのであろうか。  1

また、双葉町で実施された疫学的調査でも鼻血が、他の地域に比べてかなり多いという結果を示している。鼻血と放射線障害との関連が指摘されている。それを否定する根拠もない。 2 

 

 厳密科学的に証明されないかぎり、どの言説も風評被害をもたらすというのであれば、すべての言説が風評被害をもたらす。「夢は実現される」という命題もまた、風評被害をもたらす。たいていの夢は実現されない。少なくとも、体験からすればそうである。ある人は、美術家として研鑽を積んでいるようだ。個展も数回開催している。しかし、この知人の生活水準は、保護世帯と同様だそうである。おそらく、60歳を超えているのであろう。このような事例は、身辺で見聞きする。 もっとも、この命題を信じて、美術家になろうとしたのではないであろうが・・・。    

 また、ある左翼活動家は、月に10万円程度で生活しているそうである。大学、少なくとも日本人ならば誰でも知っている大学に入学した。しかし、彼の収入も非課税世帯のそれに属している。彼は、今でも、共産主義革命を信奉しているようである。まさに、夢を追っている。「夢は実現される」のであろうか。  

 この命題は、風評被害の元凶とはみなされない。このような馬鹿の言説を信じた者の自己責任であろう。しかし、もし彼の親族であれば、この命題を吹聴した人間を風評被害の被告とみなしたくなるかもしれない。

注 1

 

「第180回国会 東日本大震災復興特別委員会 第8号平成24614日」議事録

 

http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/180/0152/18006140152008a.html  [Datum: 25.05.2014]

森まさこ君・・・・、残念ながら、大臣は東京電力に裁判してくださいということでした。それですと、被害者の方が、子どもたちの方が、この病気は原発事故によるものなんですよということを立証しなければいけない。これはほとんど無理でございます。そういったことがないように、この法律で守っていくものというふうに私は理解しています。例えば、具体的にこんな心配の声をお寄せいただいています。子どもが鼻血を出した、これは被ばくによる影響じゃないかと心配なんだけれども、それを診察してもらった」

2 

 

「双葉町、丸森町両地区で、多変量解析において木之本町よりも有意に多かったのは体がだるい、頭痛、めまい、目のかすみ、鼻血、吐き気、疲れやすいなどの症状であり、鼻血に関して両地区とも高いオッズ比を示した。平成23 3 11 日以降発症した病気も双葉町では多く(オッズ比10 以上だけでも、肥満、うつ病やその他のこころの病気、ぜんそく、胃・十二指腸の病気、その他の皮膚の病気)、両地区とも木之本町より多かったのは、狭心症・心筋梗塞、急性鼻咽頭炎(かぜ)、アレルギー性鼻炎、その他の消化器系の病気、の他の皮膚の病気、痛風、腰痛であった」

 

「低レベル放射線曝露と自覚症状・疾病罹患の関連に関する疫学調査 -調査対象地域3町での比較と双葉町住民内での比較」9-10

 

http://www.saflan.jp/wp-content/uploads/47617c7eef782d8bf8b74f48f6c53acb.pdf

[Datum: 25.05.2014]

 

 

 

|

討論 「美味しんぼ」における鼻血問題

 「美味しんぼ」における鼻血に関して、政府高官による事実上の言論弾圧が生じた。鼻血と放射能との因果関係が不明という理由であった。東京電力株式会社福島第一原子力発電所から100キロ圏において鼻血が多いという事実は、政府高官も認めている。因果関係が科学的に立証されていないがゆえに、風評被害を招くということだそうである。

1、 

 この問題に討論会を開催する。500字程度である。コメント欄に貼り付けることをお願いする。政治的立場は、問題にしない。投稿することが重要である。友人、知人と議論し、その成果を公表する。議論の過程が表出されることが望ましい。

2、

 複数の人間を代表して一人が投稿する場合でも、それぞれが500字の論稿を貼り付ける。複数の人間の間において、意見の相違があるはずである。この差異こそが、重要である。同一の意見には、ならないはずである。

3、

 なお、複数の人間を代表して一人がコメントを貼り付ける場合でも、複数の人間の名前(もちろん、ハンドルネイム)を投稿者欄に記入する。代表者のハンドルネイムも、コメント本文に記入する。

4、

 投稿者の属性つまり年齢、性、所属(会社名、大学名)、本名、家族構成、友人本名、恋人本名等を記入してはならない。ハンドルネイムは、「4文字熟語」とする。それ以外のハンドルネイムの投稿は、削除される。

5、

 

 投稿する際、個人のパソコンからの送信ができないことがしばしばある。大学等のパソコンから送信してください。それでも、送信できない場合、各人で工夫する。当方では、パソコンの技術的問題には、対処できない。文書を複写して、貼り付けるという作業だけが問題であり、それ以上の技術的問題には対応できない。

6、

 締切日を設定している。しかし、締切日当日に送信することは、危険である。パソコンの不調等が生じる可能性がある。卒論等も締切日に提出する学生がみうけられるが、締切日に提出する必要はない。余裕をもって行動することが肝要である。今後、当日送信による不利益に関して、当方は関知しない。

7、

  また、コメントは来週末まで公開されない。締切は、来週火曜日の深夜(2014年6月3日24時)とする。

8、

 コメントは終了しました。以後、コメントは受け付け不可になりました。閲覧は可能です。

| | コメント (28)

学校という官僚組織における病根

20140526 学校という官僚組織における病根――

校長による学校における命令組織の強化 ? 安本寿久「学力低迷の戦犯は「民主的」学校組織だ 校内なれあい人事選挙が示す病根」『産経ニュースWest』2014年5月25日 http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/140525/waf14052507000002-n3.htm [Datum: 25.05.2014]

 安本氏は、学力低迷の原因を学校における「なれあい人事」に求めている。戦後確立された「鍋蓋(なべぶた)型組織」に求めている。この組織類型によれば、校長、教頭以外の教諭は、平等であり、相互に介入しない。彼は、このような組織類型に対して、校長により権限を与えた命令組織を対置している。 しかし、物事はそれほど単純ではない。校長がこのような組織において出世できたのは、その鍋蓋組織と同じ感性を保持している場合が多いからだ。前例主義が貫徹されていることによって、彼は校長たりうる。つまり、「新しい仕事をしない主義」である。

  「休まず、遅れず、働かず」という感性は、どのような官僚組織であれ、貫徹されている。もちろん、この「働かず」は、自分に与えられた以上の仕事をしないという意味である。この原則は官僚組織を基礎づけているし、優位性を持っている場合も多い。組織が上昇気流に沿っている場合、むしろ余計なことをしないほうがよい。しかし、組織が傾いているとき、あるいは泥沼状態にあるとき、この感性は致命的になる。

 この記事において、「新しい仕事をした場合、管理責任を誰が担うのか」という問題が提起されている。このような批判が「出る杭」に与えられる。新しい仕事を提案するものは、このような批判に対して無力である。この感性が是正されないかぎり、校長による命令組織を鍋蓋組織に対置しても、意味がない。校長自身が出る杭を打つことによって、校長になったからだ。 民主的組織に命令組織を対置しても、無駄であろう。事態はより悪化する。

 校長の任期の数年間を無難にこなすことこそが、校長に求めてられている。校長にとって最悪の事態は、年金と退職金の減額措置である。 このような官僚組織における病理を治療することはできるのであろうか。官僚組織にその自浄作用を求めることができるのであろうか。

|

チンコロ(密告)に対する儒教の論理と人間の共同性――業田良家「シャルルの男」『独裁君』

20140525チンコロ(密告)に対する儒教の論理と人間の共同性――業田良家「シャルルの男」『独裁君』

Photo_4

(クリックすると、画像が拡大されます)。

『論語』(子路第13320)に以下のような言葉がある。

 

 

 

「葉公語孔子曰。吾党有直躬者。其父攘羊。而子證之。孔子曰。吾党之直者異於是。父為子隠。子為父隠す。直在其中矣」。(葉公、孔子に語りて曰わく、吾が党に直躬なる者あり。其の父、羊を攘む。而して子、これを証せり。孔子曰わく、吾が党の直き者は是に異なり。父は子の為めに隠し、子は父の為に隠す。直きこと其の中にあり)。

 

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波書店、2000年、214215頁。

 

 

 

(田村による)意訳

 

「父が羊を盗んだ。子は父の行為を政治的支配者に密告した。政治的支配者は、その行為を正直であるとした。それに対して、孔子は、父子は相互に匿うべきである。それが正直である。人間的である」。

 

 

 

 儒教は、第一次集団的関係たとえば家族及び氏族に基づいて、そして社会総体に至るという同心円的な位階制構造を有している。家族主義的国家観も儒教に基づいているとされている。しかし、その基本は、人間が直接的関係を結べる家族あるいは親族間の関係である。人間そして動物が結ぶ直接的関係が、社会構造の基本になる。問題は、社会的規範と家族的規範が矛盾する場合である。儒教の論理は、前者に対する後者の優位にある。

 

 北朝鮮つまり朝鮮民主主義人民共和国が儒教国家であるという説がある。しかし、それは当てはまらない。儒教の論理、人間の直接的関係を優先すべきであるという論理は、崩壊しているのだろう。すべては金正日、金正恩同志のためという論理構造において、家族関係よりも政治的支配層の意思が優先されている。「金正日様、あなたなしでは生きてゆけない」という歌は、著名である。ここでは、金正日が父親、あるいは配偶者に擬されている。

 

 金正日と現実的父親の意思が同一であれば、問題ない。しかし、両者の意思が分離するとき、子供は金正日つまり政治的な父親の意思を優先する。この矛盾を業田は示した。ある共同体の論理よりもより上位の共同体が優先されるとき、チンコロ(密告)が奨励される。チンコロ(密告)が奨励される社会は、もはや人間的社会とは言えない。少なくとも、チンコロ(密告)を優先する社会は、共同体とは言えない。チンコロ(密告)と共同性とは、相容れない。人間はより直接的関係を重視すべきである。業田良家はこの意味を明確にした。

 

 

 

業田良家「シャルルの男」業田良家『独裁君』小学館、2008年、114115頁。

 

 

 

 

| | コメント (0)

日本官僚制の問題点ーーいしいひさいち役人論(会議の無駄)

 日本的会議の特質は、どうでもよいことに反応し、大事なことに反応しないことであろう。会議は、会議に参加する構成員にとって重要なことを討論する舞台である。しかし、往々にして、些細なことの過剰反応して多くの時間を費やす。1時間の会議で、文章の間違いを30分以上話し合った会議があった。阻害という漢字を使用するのか、疎外を用いるのか、ということが論点であった。馬鹿ではないか、と多くの参加者は考えていたが、うんざりしながら、聞いていた。もちろん、漢字の使用法、あるいは句読点の一字によって、法解釈そのものが180度変わることは承知している。しかし、変換ミスが明らかである場合でさえも、糾弾の対象になる。

 それに対して、重要なことにはほとんど反応しない。たとえば、多くの大学で教員任期制が導入されている。任期制とは、簡単に言えば首切りである。そのような重大な問題に対しては議論せず、漢字の変換ミスには過剰に反応する。このような馬鹿が多く存在する会社、あるいは組織はつぶれてよいのであろうか。ただ、このような会議に参加する構成員もすべてが馬鹿ではない。まともな構成員は落城を阻止するために、獅子奮迅の活躍をしなければならないのであろうか。そして他の馬鹿構成員から次のように言われるに違いない。「勝手にやって。会議では承認されていない」と。

 

|

世を忍ぶ仮の姿と、後期近代における貴賎意識―――花輪和一『みずほ草紙』における乞食への眼差し

Img074_7


Img075_3

 

花輪和一「仙人」『みずほ草紙』小学館、2013年、138頁、143頁。

(クリックすると、画像が拡大されます)。

 

20140720 世を忍ぶ仮の姿と、職業的位階制における貴賎意識―――花輪和一『みずほ草紙』における乞食への眼差し

 

 

 

 人間は何らかの事情で、世を忍ぶ仮の姿を取ることがある。たとえば、大学教授を目指す若者が、塾の講師をするということは、珍しくない。塾の講師をすることは、世間的に考えても悪くはない。国立大学の学生も、塾講師を第一志望の就職先に選ぶことは、よく聞く話である。ただ、多くの大学院生、そして元大学院生もそれを名刺に書くことはほとんどしない。世を忍ぶ仮の姿という意識が強いからだ。

 

さらに、どのように世間から蔑まされる職業についていたとしても、本人が意思を持っているかぎり、それは尊重されるべきである。ここで、蔑まされる職業を具体的に明示することは避けよう。現実社会において職業に序列があるにもかかわらず、理念的にはその序列はないことになっているからだ。

ここではあえて、世間から尊敬される職業として、県議会議員を取り上げてみよう。この職業を明示することが差別であるという論調はほぼない。市議会議員からすれば、憧れの対象である。いづれ、県議会議員になりたいと思っている市議会議員は多い。市民も県議を蔑むことはほとんどない。市民が後ろ指をさすことはない。

しかし、かつて竹下登元総理が田中派の陣笠議員だったころ、田中角栄元総理から以下のように言われたそうである。「県議上がりが、日本の政治史において総理大臣になったことはない」。竹下氏の前職つまり県議という職業が、蔑まされる対象であった。県議会議員は賤しい職業であった。もし、彼が大蔵省の役人であれば、このような言説は成立しない。大蔵官僚は、総理大臣のリクルート先として日本政治史に刻印されていたからだ。もっとも、彼はこのような貴賎意識を跳ね返し、総理大臣になった。

 

誰もが蔑む対象として、乞食が挙げられる。好んで乞食をする人はいない。しかし、何らかの個人的事由から、乞食をせざるを得ない場合もある。それを嘲ってはならない。その事由そのものが、その個人にとって不可避であったからだ。この漫画で描かれている女性は、地震によって家族と財産を喪失している。もちろん、物乞いの対象になっている人には、わからない。古代社会から初期近代に至るまで、社会的最底辺に住む人を嘲ってはならないという社会規範が日本にあった。平等意識あるいは職業に貴賎なしという建前が浸透する現代社会において、この規範はむしろ弱体化している。

 

職業に貴賎はある。このことが明示される社会において、むしろ最底辺に生きる人への眼差しは優しかった。その意味を花輪が解明した。乞食という仮の姿を取りながら、主人公は過去の自分を凝視していた。過去の自分の行状と精神を反省することによってしか、新たな自分を見出すことはできない。職業における位階制的秩序の最底辺に身を置きながら、新たな飛躍をなそうとした。乞食という職業なしに、新たな展開はない。

注記:乞食という用語は後期近代において差別用語だそうである。なんという御不自由なことであろうか。「生活一般において御不自由な人」と言い換えるべきかもしれない。しかし、花輪自身が使用しているので、ここでもこの用語を用いる。また、軽犯罪法第1条22 において、乞食という用語が使用されている。法律用語であるからには、この用語を差別用語と考える方が間違っている。差別用語を決定する権限は、どこにあるのか。もし、これが政府によってなされると、検閲に通じるのかもしれない。

 

|

いしいひさいち官僚制論(その四)――全体的利益を追求する政治家?

Photo_5

いしいひさいち『ドーナツブックス いしいひさいち選集』第13巻、双葉社、1986年、126頁。

(クリックすると、画像が拡大されます)。

20140616いしいひさいち官僚制論(その四)――全体的利益を追求する政治家?

  官僚が視野狭窄であることは、必ずしも欠陥ではない。与えられた職務に忠実であればあるほど、そのような結果をもたらす。たとえば、かつての記事で中央省庁における一般職員が社長と呼ぶ対象について論じた。多くの一般的公務員は、課長を「社長」と呼ぶ。省益ですらない。自らの属する「課」の利益を追求する。あるいは「課」に属する国民生活に対する忠誠を遂行する。道路行政に関する「課」に属していれば、その利益を追求する。国家全体における公共交通の在り方に関して、ほとんど関心がない。

 官僚機構における国益という考えの欠如は、常識的には政治家によって補正される。政治家、本邦の組織形式を用いれば、大臣、副大臣、政務官等は、必ずしもその省庁の業務に関して精通していない。ほとんど素人同然である。全体的視野から、当該省庁の業務を概観することが求められている。

 しかし、政治家が個別的利益、つまり特定の業界利益、地域利益を追求すれば、国益という観点は看過される。日本沈没という国難に際して、大臣を統括する総理大臣も特殊利益を追求する。日本は沈没する。日本が物理的に沈没する以前に、政治的に沈没する。いしいひさいちは、この意味を明確にした。

 問題は、彼によって提起された地平の彼方にある。誰が国益を追求するのであろうか。多くの官僚は省益すら追求しない。課の利益がその主要関心事である。誰が国益を普遍的地平で考察するのであろうか。哲人政治家が求められる所以である。もっとも、哲人はどこからリクルートされるのであろうか。古色蒼然たる哲学部の卒業生からであろうか。日本には、哲学部という学部はない。たとえ存在したとしても、官僚機構によって追求される課益、省益には対抗できない。それを超えた地平が求められている。

 

|

日本官僚制の問題点ーーいしいひさいち役人論(無能な上司)

無能な上司、あるいは有能であっても担当部署の細部に明るくない上司の仕事とは何であろうか。仕事それ自体に情熱が涌かない場合、書類の重箱を穿ることが仕事になる。改行を是正したり、あるいは「てにをは」の改善に異常な情熱を傾ける。落城まじかの御前会議のように、「方角がよくない」、「書類提出の日付をどのようにしようか」という繁文縟礼に通じた人間が重宝される。そこでは、落城という事実は無いかのようにふるまう。書類作成の細かな慣例が、落城によって無に帰することは、無視される。

 このような人間が多数を占める会社、あるいは組織の先はほぼ見えている。しかし、問題は落城という事実に気づいた人間がとる態度であろう。多数派がそのような議論に熱中しているときに、どのように振舞えばよいのであろうか。御教示いただきたい。

|

いしいひさいち官僚制論(その三)――官僚機構における減点主義

Photo_3

いしいひさいち『ドーナツブックス いしいひさいち選集』第13巻、双葉社、1986年、118頁。

(クリックすると、画像が拡大されます)。

 

20140616 いしいひさいち官僚制論(その)――官僚機構における減点主義

 かつて『産経新聞』のある記者が、公立校における「なれ合い人事」に対して、教頭による命令型組織を対置した。しかし、なれ合い人事の基礎にある「前例主義」つまり「新しい仕事をしない主義」は、校長という管理職にも蔓延しているかもしれない。この意味を「学校という官僚組織における病根」において論じた。

 前例主義という官僚主義の根幹を学習した教諭が、校長になる。より一般化すれば、官僚機構において出世するためには、この原理を学習しなければならない。官僚機構において重要なことは、新しい仕事をしないことである。新しい仕事をすれば、リスクを負う。失敗することもある。

 しかし、官僚機構におけるその評価は、減点主義である。どのように素晴らしく国民のために仕事をしようとも得点が加算されることはない。前例主義に則り仕事をした人と同じ得点である。新しい仕事をすれば、周囲との摩擦が生じる。失敗すれば、それ見たことかと、嘲笑される。

 定年前の校長を例にとり、この意味をいしいひさいちが解明した。ここでは、校長は子供という対象を見ていない。彼にとって問題は、自己の給与が如何に減額されるのか、定年後の再就職がどれほど困難になるか、だけであろう。彼の官僚制に関する白眉の漫画である。

参考までに、元の記事を貼り付ける。

20140526 学校という官僚組織における病根――

校長による学校における命令組織の強化 ? 安本寿久「学力低迷の戦犯は「民主的」学校組織だ 校内なれあい人事選挙が示す病根」『産経ニュースWest2014525 http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/140525/waf14052507000002-n3.htm [Datum: 25.05.2014]

 安本氏は、学力低迷の原因を学校における「なれあい人事」に求めている。戦後確立された「鍋蓋(なべぶた)型組織」に求めている。この組織類型によれば、校長、教頭以外の教諭は、平等であり、相互に介入しない。彼は、このような組織類型に対して、校長により権限を与えた命令組織を対置している。 しかし、物事はそれほど単純ではない。校長がこのような組織において出世できたのは、その鍋蓋組織と同じ感性を保持している場合が多いからだ。前例主義が貫徹されていることによって、彼は校長たりうる。つまり、「新しい仕事をしない主義」である。

 「休まず、遅れず、働かず」という感性は、どのような官僚組織であれ、貫徹されている。もちろん、この「働かず」は、自分に与えられた以上の仕事をしないという意味である。この原則は官僚組織を基礎づけているし、優位性を持っている場合も多い。組織が上昇気流に沿っている場合、むしろ余計なことをしないほうがよい。しかし、組織が傾いているとき、あるいは泥沼状態にあるとき、この感性は致命的になる。

 この記事において、「新しい仕事をした場合、管理責任を誰が担うのか」という問題が提起されている。このような批判が「出る杭」に与えられる。新しい仕事を提案するものは、このような批判に対して無力である。この感性が是正されないかぎり、校長による命令組織を鍋蓋組織に対置しても、意味がない。校長自身が出る杭を打つことによって、校長になったからだ。 民主的組織に命令組織を対置しても、無駄であろう。事態はより悪化する。

 任期の数年間を無難にこなすことこそが、校長に求めてられている。校長にとって最悪の事態は、年金と退職金の減額措置である。 このような官僚組織における病理を治療することはできるのであろうか。官僚組織にその自浄作用を求めることができるのであろうか。

 

|

いしいひさいち官僚制論(その二)官僚機構における多数決原理の非適用――いしいひさいち『鏡の国の戦争』

いしいひさいち『鏡の国の戦争』潮出版、1985年、76-77頁 Ⓒいしいひさいち(2006.9.15

War_2

 

 
クリックすると拡大します。この漫画の面白さは以下の点にある。それは、軍隊に多数決原理が導入されていることである。この原理の導入は想定不可能である。将校と兵隊の数は、通常、兵隊の数が多い。もし、軍隊という命令組織に多数決原理を導入すれば、軍隊という組織が崩壊するであろう。多くの兵隊は、徴兵された存在であり、戦意は将校に比べて低いからである。もし、多数決原理が導入されれば、戦争そのものが否定されるであろう。民主主義という原理は、命令組織には導入されない。もし、導入されれば、前線で生命を賭けて戦うのは、将校のみになるであろう。その架空の設定をこの漫画は採用している。あるものの本質とは異なる要素を当該概念に導入することによる面白さである。もちろん、いしいは、当該概念、ここでは軍隊の本質を把握しいている。その本質とは正反対の理念を導入することによって、その概念を鮮やかにしている。

なお、命令組織は軍隊に限定されていない。名目的にはすべての官僚組織に妥当する。また、官僚組織に比肩する強度を誇る営利企業の組織にもあてはまるであろう。そこにおいて、民主主義の原理、多数決原理は適用されない。

政治的領域において、多数決原理が適用される領域はかなり少ない。被選挙者間における平等性が前提になる領域でしかない。況や、社会的関係、家族的関係においてこの原理を導入しようとすることは、無謀という誹りを免れない。この原理が妥当する領域は、限定されねばならない。

(本記事の作成にあたり、いしいひさいち事務所様には大変お世話になりました。誌して感謝申し上げます)。

|

日本官僚制の問題点ーーいしいひさいち役人論(馬鹿組織)

 この漫画は、現代社会における官僚制、あるいは官僚化した組織を揶揄している。問題は、このような重臣が決定権を保持していることにある。有職故実しか興味のない人間が、なぜ重臣になったのか、この問題こそが問われねばならない。彼らは、戦闘の場における業績を積んだわけではないはずだ。有職故実に業績を上げた人間である。このような人間を組織の上部においたことに問題点がある。危機に対応できない。彼らは政治家のような世界全体像を持たない。全体的視点を放棄した近視眼的人間しか、組織的には用がない。

 現代の役人組織においても同様である。誤植のない文章が書ける人間、退屈な会議が好きな人間が重宝される。誤植の指摘を生き甲斐にしている人間が部長、課長等の要職に就く。漢字を読み間違えたら、減点の対象である。つまらない人間が上に立つほど、組織にとって不幸はない。現代社会における有職故実は、江戸時代と同様に、規則であり、前例であり、横並びの知識である。この観点からすれば、現代社会の役人と、落城寸前の御前会議における役人の間には、差異はない。

 会議という時間が限られている以上、つまらない事柄に時間を割けば割くほど、重要な問題は議論されない。重要な問題は存在していないかのようにふるまう。本当の馬鹿は、自分が書いた文章を読み上げる。日本語で書かれた文章をなぜ読み上げる必要があるのか。議論を封じるためである。

 組織は組織の維持、管理が自己目的化する。なんのための組織であるかが忘却され、管理に強い人間が出世してゆく。営利企業であれば利益を上げる営業畑の人間ではなく、総務畑の人間が出世してゆく。同僚と仲良く喧嘩せず、という人間が頭角を現す。警察機構においても、犯人を捕まえることに執着する人間ではなく、法律と規則に通じた人間が出世してゆく。何時までも犯人逮捕のために靴底を減らしている人間よりも、試験に長けた人間が上司になる。現場の人間よりも、試験勉強が好きな人間が重宝される。

 役人化した組織は、崩壊の危機に陥っている。しかし、当人たちには気がつかないところに問題がある。

|

いしいひさいち官僚制論(その一)日本官僚制の問題点ーーいしいひさいち役人論(馬鹿役人)

 20100220_4

(クリックすると、拡大されます)。

いしいひさいち『蜜月マーヤの暴言』双葉社、2003年、100頁

この漫画において、日本官僚制の問題点が明白に現れている。つまり、落城寸前になっても、官僚的な目的合理性が追求されている。自分の領域、つまり有職故実に関する事柄が議論されている。落城になれば、そのような合理性はその基盤が崩壊するのであるが・・。このような官僚が組織の重要な部分を担ってしまえば、その組織の崩壊は明らかである。

 このような官僚的合理性が組織の崩壊をもたらす。この問題について、次のブログ記事で議論したい。まさに、木を見て、森を見ず、という盲目的役人が跋扈している。いしいひさいちは、この日本の現状を明確に把握している。

この記事に触発されて、以下のような文章を書いた。

 20070302

 「日本的会議の特質は、どうでもよいことに反応し、大事なことに反応しないことであろう。会議は、会議に参加する構成員にとって重要なことを討論する舞台である。しかし、往々にして、些細なことの過剰反応して多くの時間を費やす。1時間の会議で、文章の間違いを30分以上話し合った会議があった。「阻害」という漢字をしようするのか、「疎外」を用いるのか、ということが論点であった。馬鹿ではないかと多くの参加者は考えていたが、うんざりしながら、聞いていた。もちろん、漢字の使用法、あるいは句読点の一字によって、法解釈そのものが180度変わることは承知している。しかし、変換ミスが明らかである場合でさえも、糾弾の対象になる。

 それに対して、重要なことにはほとんど反応しない。たとえば、多くの大学で「教員任期制」を導入するにあたって、すくなくとも私が参加した大学の会議では議論の対象になったことはない。任期制とは、簡単に言えば首切りである。そのような重大な問題に対しては議論せず、漢字の変換ミスには過剰に反応する。「木を見て森を見ず」、あるいはかつてのブログに書いたような「落城寸前の御前会議における文書日付」のような事態が進行している。このような馬鹿が多く存在する会社、あるいは組織はつぶれてよいのであろうか。ただ、このような会議に参加する構成員は、それでも落城を阻止するために、獅子奮迅の活躍をしなければならないのであろうか。そして他の構成員から次のように言われるに違いない。「勝手にやって。会議では承認されていない」と。

 漢字の変換ミス、あるいは改行の是非しか議論できない組織には、見切りをつけるべきであろうか。思案している。あるいは、このような組織が崩壊することは、目に見えている」。

そして、2011年3月になった。いしいの予言は、我々の生命自体に関係してくる。大惨事を前にした官僚機構の壊死が生じた。

「20110414 馬鹿役人と馬鹿学者の政治学――誤植の訂正しかしない原子力安全委員会の議論形式と、学術専門家の怠慢

 かつて本ブログにおいて「日本官僚制の問題点――いしいひさいち役人論(会議の無駄)」(2010227日)と題して、日本の官僚機構における会議の特徴を述べた。 1 この論説の中心点は、会議における議論が誤植の訂正と文章の若干の改変に終始して、本質的議論をしない日本の官僚制に対する批判である。落城の危機に際して、繁文縟礼を議論している重臣を揶揄した、いしいひさいち氏の4コマ漫画を援用しながら、この官僚制の問題を議論した。

 この日本の会議形式に対する批判が、平成23325日に開催された第19回原子力安全委員会にまさに当てはまる。2 325日と言えば、314日における東京電力福島第一原子力発電所の第3号機の水素爆発を受けて、国家が危機的状況にあったときである。第2号機、第4号機も同様な危機的状況にあった。この東京電力福島第一原子力発電所の非常事態を受けて開催された原子力安全委員会は、たった42分程度で閉会している。しかも、PDFファイル12頁にわたる議事録の半分以上は、事務局によって作成された資料の読み上げに終わっている。その後の委員による議論の中心は、「『葉』になってございますけれども、これは平仮名の『は』でございます」、あるいは「平仮名の『に』を入れてください」(10頁)という文書の校正にある。

委員としての専門知識は要求されていない。誤植の訂正であれば、村役場の庶務課長のほうが、より適切な指示を出せるであろう。このような議論しかできない専門委員は、役場の庶務課長に転職したほうがよいであろう。もちろん、庶務課長ほどの文書校正能力を有しているとは思えないが。

このような繁文縟礼に通じた専門家しか、専門委員になれない現状がある。専門知識よりも管理職的能力に通じた専門家のみが、大学教授になり、そして政府の審議会委員に抜擢される。そこで求められる能力は事務局と協調する能力と文書作成能力でしかない。

専門委員には、事務局によって作成された資料を根源的に批判し、積極的な提言を求められているはずである。ここでの議論は、専門知識を要求されない事務局職員以下の水準にある。逆に言えば、このような専門家は、官僚機構にとって統御し易い人間である。自分たちを批判しない人間のみが、「専門家」として認知される。学術的専門家と官僚機構の癒着が生じる。

彼らはこれまでいつもこのような議論形式に慣れてきたはずである。このような議論しかできない。それゆえ、彼らは「専門家」として認知された。国家の危機に際しても、このようにしか議論できない。

1. http://izl.moe-nifty.com/tamura/2010/02/index.html

2. http://www.nsc.go.jp/anzen/soki/soki2011/genan_so19.pdf

|

物における歴史あるいは偶然性の連鎖としての現在――山本おさむ「ランドセル」『オーロラの街』

20131224 物における歴史あるいは偶然性の連鎖としての現在――山本おさむ「ランドセル」『オーロラの街』

 

人間の行為は偶然性の連鎖にある。そして、人間の生命もまた、偶然性の連鎖にある。この連鎖が少しでもずれれば、その生命すら存在しない。1秒の狂いによって人間の営みが破壊されることもあれば、反対に生命を保持することもある。たとえば、交通事故を例にとれば、数秒の差で命を失ったり、事故から免れたりすることもある。

そのような偶然性の連鎖は、人間だけではなく、自然においても存在している。自然界においても生命連鎖は人間と同様に存在している。

また、人間の労働力によって生産された物もまたそのような産物である。どのように大量生産されようとも、全く同一のものは存在しない。もしそうでなければ、不良品などは生じるはずがない。不良品と判定されなくとも、それにかぎりなく近い製品もあれば、それと限りなく遠い製品もある。

いかなる物も、使用されることによってまた別の物へと変容する。使用者がかわることによって、その物の意義づけも変化する。また、その物自体も時間の経過によって変容する。その変容が極端であり、使用者が極端に変わる場合、ある物語が生まれる。

山本おさむは、ランドセルを例にしてある物語を紡ぎだした。その物語が「ランドセル」である。[1] この物語において、ランドセルという同一物は、時間的変容によって極端にその外観を変えている。新品で購入された時期は昭和30年前後であるが、物語が始まる時期は、昭和35年である。その間に昭和32年の諫早大水害が入っている。この水害によって、赤いランドセルは、黄土色のボロボロのランドセルへと変化している。水害で流されて、様々な人を介して、現在では貧しい母子家庭の1年生、昇平の所有物になっている。もとの持ち主、妙子は、すでに幽冥界を異にしている。物語では、この物を介して、死んでいった少女の意思を少年が認識することによって、自己の運命を受け止め、新たな旅立ちをする。

もちろん、すでに死んだ人間がこのような物、ランドセルの時間的変容を語ることは、現代科学ではありえない。しかし、漫画という表現方法は、過去と現在を同時間的に共存させることができる。この方法を使用することによって、ある物における歴史が偶然性の連鎖として解明された。そして、どのような物であれ、時間的変容つまり歴史を有していることを、山本おさむは解明した。

 

20131224




山本おさむ「ランドセル」『オーロラの街』第2巻、小学館、1999年、198-199頁。

 

[1] 山本おさむ「ランドセル」『オーロラの街』第2巻、小学館、1999年、169-208頁。

|

概念とその俗流的解釈――風間やんわり「いまじん」『やんわり社会派宣言』

20140523 概念とその俗流的解釈――風間やんわり「いまじん」『やんわり社会派宣言』  
                                       
(クリックすると、画像が拡大されます)。  

20100430_2

 この漫画においてリストラされた中年男性が、職安においてプロサッカー選手の職業を探している。職安は公共職業安定所の略称であり、通称ハローワークと呼ばれている。ここで世の中に存在するすべての職業を紹介してくれるわけでない。医師や大学教授の職業を職安で紹介してもらったという話は、聞いたことがない。また、都市銀行の正社員もここで紹介されることは、おそらくないであろう。大学の就職部等を媒介にして、採用されるし、途中採用であっても、営利企業によって媒介される。  

 俗論的に誤解されると、あらゆる機関、そして概念はその内実と矛盾している。少なくとも、職安には、東京大学法学部4年生が列をなすことはない。就活中の東大生が求めている職業は、ここで紹介されない。限られた職種しか、紹介されない。看護師、社会福祉士等の免許を持った求人を除くと、ここで紹介される職業の多くは、ガテン系に近い。月給100万円の求人情報をここで紹介されたという事例は、皆無に近いであろう。投資銀行の辣腕トレイダーも、ここでは紹介されない。職安に求人情報を出す前に、決定されるからだ。況や、ブンデスリーガのヘルタ・ベルリンのMFを日本の職安で紹介されることはない。過去にもなかったし、未来永劫にわたってないと断言してよい。    

 にもかかわらず、このリストラされた中年男性は、職安にプロサッカー選手の職業を求めている。職安あるいは別の機関が、一元的に職業斡旋をすべきであるという前提、あるいは幻想が潜んでいる。すべての職業は職安において斡旋されると。しかし、それは社会主義的幻想でしかない。資本主義は、私人の自由を前提にしている。労働力の売買契約は、契約自由の原則に属している。このような幻想が実現されることはない。  

 風間は、この幻想の非現実性を漫画において表現している。主人公は、この漫画の前半部で、大金持になって、妻と離婚し、新しい彼女と交際することを夢見る。しかし、 彼が職安担当者をどのように罵ろうと、その窓口でおいて、この幻想はすぐさま否定される。面白く、やがて哀しき求職者として、家路に着くしかない。

  風間やんわり「いまじん」風間やんわり『やんわり社会派宣言』講談社、2008年、140頁。

|

ニートにおける恣意的な職業選択ーー風間やんわり『やんわり社会派宣言』

Photo_5


(右クリックすると、拡大されます)。





 

風間やんわり「ニートピア」風間やんわり『やんわり社会派宣言』講談社、2008年、98-99頁。

 

 

 

本稿は風間のニート論に関する論稿である。ニートの特徴の一つは、自己の可能性を信じていることである。この漫画の主人公も、この場面では大相撲の力士になりたいようである。当然のことながら、著名な力士になるためには、中学校、あるいは小学校のころから稽古に励んでいたはずである。

 

戦後最強の横綱であった北の湖は、中学校時代にすでに角界に入門していたそうである。もちろん、そこでは兄弟子がたくさんいたはずである。兄弟子は「無理偏に拳骨」と言われた。彼の素質は当時からずば抜けていたであろうが、所詮は彼も中学生であった。最底辺からの出発であったことは、想像に難くない。拳骨を浴びたことは当然であった。彼の素質が豊かであればあるほど、兄弟子の嫉妬を買ったことは想像できる。しばしば、可愛がりを受けたはずである。底辺から頂点に駆け上る過程で、彼もまた幾多の辛酸を嘗めたはずであろう。谷町から接待を受けるだけではなかったはずである。

 

このような過程を経て初めて、彼は戦後最強の横綱になった。しかし、ニートにはこの過程を見ようとしない。いきなり、谷町から接待を受ける相撲取りという場面しか想像しない。このような接待はもちろん彼の職業生活の一場面を表現している。しかし、それがすべてではないことは当然である。

 

また、ニートはこれまで自己の生活と現在の自己の位置を正確に理解していない。「デコピン」に泣かされてきた自己の過去を認識していない。相撲における「ぶちかまし」が如何に過酷であり、彼の肉体がそれに耐えられないことを想像できない。25歳のニートは彼自身の現在と過去を理解していない。

 

もちろん、近代社会は「職業選択の自由」を保障している。しかし、すべての人間がすべての職業につけるわけではない。当然である。その職業に就くためには、必要な素質とそれを開化させるための修行期間を必要とする。角界に入門するためには、学生時代から数多の賞を獲得しなければならない。

 

また、近代社会とりわけ日本社会には、夢を実現できるという戯言が信じられている。正確に言えば、夢を実現する少数の人間がいるだけである。夢は実現されないという方が正しい。「宝くじの一等賞金一億円は当たる」という命題と「宝くじの一等賞金一億円は当たらない」という命題は、どちらが妥当性を有するであろうか。もちろん、後者である。その確率が高いからである。

 

風間やんわりという漫画家は、もちろんこのような現代社会の病理を知っていたはずである。それを漫画という形式において表現した。この漫画は優れたニート論として参照されるべきである。面白く、やがて悲しきニート論として。

 

|

北朝鮮における張成沢と金正恩の権力闘争ーー業田良家『独裁君』によるその予言

20131214 北朝鮮における張成沢と金正恩の権力闘争ーー業田良家『独裁君』によるその予言

Img059_9


業田良家『独裁君』小学館、2008年、196197

(右クリックすると、拡大されます)。

産経新聞』によれば、20131212日に張成沢が「国家転覆陰謀行為」で死刑判決を受け、即日処刑された。

「張成沢氏を処刑」『MSN産経ニュース』20131213

http://sankei.jp.msn.com/world/news/131213/kor13121307090000-n1.htm

彼は、金日成、金正日そして金正恩という三代の独裁的権力者において、実務上の責任者として実力をふるってきた。金日成の子供、金慶喜の配偶者として、金一族とは縁戚関係にあった。

これは、北朝鮮、朝鮮民主主義人民共和国における政治闘争の一環である。金正恩と張成沢の間に、政治的な意見の相違があったことは明白であろう。但し、その結果が粛清という形式をとり、一方による他方に対する殺戮という形式をとっている。この国家ならではのことであろう。

このような状況は張成沢も認識していたはずである。まさに、彼は金日成、金正日時代においてこのような権力闘争、つまり粛清の一翼を担っていた。逆の場合も想定されていた。つまり、張成沢が金正恩を粛清することも。この想定を業田良家は漫画という形式において表現していた。もちろん、執筆時期は、金正日がまだ生きていた時代であるので、若干の差異があるが、本質は同じである。

両者においてどのような権力闘争があったか、正確には未だ明らかではない。しかし、中国流の改革開放路線の意味づけとその具体化方法に関する権力闘争があったことは明白であろう。この権力闘争において金正恩が張成沢に勝利した。業田良家は、権力闘争の本質を明確にした。現実政治において金正恩は、闘争相手を粛清という初期20世紀的方法で抹殺した。権力闘争の意味が、より明確になった。スターリン的な政治手法が21世紀アジアにおいて残存していることを、金正恩は民主主義的国家における国民に教示した。最も不幸な国民は北朝鮮の国民であろう。しかし、そのような不幸を我々日本人も、これほど残忍な形式ではないにしろ、将来的に共有しなければならないのかもしれない。少なくとも「秘密保護法」はその法的根拠を我々日本人に与えた。

|

分際を守ること――極道の世界と学問の世界――村上和彦『第三の極道』

20140420 分際を守ること――極道の世界と学問の世界

村上和彦『日本極道史(平成編) 第三の極道』第11巻、竹書房、1998年、194-195頁。

 ある世界において小さな組織もあれば、大きな組織もある。その生存をかけて小さい組織が大きな組織と闘争すれば、最終的に前者は壊滅するしかない。もちろん、大組織が小組織を壊滅させようしないかぎり、後者はその分相応に対応するしかない。もし、その分限を超えた場合、後者は滅亡する。とりわけ、極道の世界であれば、その成員の死を意味している。  

 分限を守ることは、極道の世界だけに妥当するのではない。一般社会においても妥当する。多くの企業が対等に商取引を行っていると考える人は、現実社会にはいない。親会社―子会社―孫会社という重層的な構造のなかで、活動を余儀なくされている。対等でないがゆえに、多くの孫会社は無慈悲な値引き交渉を経験している。この値引き交渉によって利益が幾らかでも出るのであれば、この理不尽な要求に対応する。

 平等原則をかざして、その契約における理不尽性を社会に問うことはしない。今後の受注に影響があるかもしれないからだ。

 Img055_6


 学問の世界にそのような事例も往々にしてある。著名なボス教授がある研究会において、「社会主義政権における核兵器は素晴らしく、資本主義におけるそれは危険である」、という主張を繰り返していた。今日ではこのような主張をする教員に対して、馬鹿の一言で終わりである。
しかし、1989年までは、このような教授でさえ、教授であった。多くの若い大学院学生は、この教授にどのように接したのか。彼らの多くは沈黙せざるをえなかった。あるいは微笑で答えるしかなかった。学生と教員、とりわけ著名な教授に対してあえて異論を呈するもでもなかったからだ。
 私も沈黙を守った記憶がある。その教授を糾弾することが正義とは思えなかった。それを間違っているとも思えない。分際を知っていたからだ。教授と学生は対等ではない。村上和彦は、この分限の思想をあらためて指摘した。対等であることが自明の前提である社会において、勘違いする輩も多い。人間は、秩序の中に位置づけられた存在である。この意味を村上和彦は、明快に表現している。日本漫画史に残る傑作であろう。

|

人間関係における記憶と一期一会――西岸良平「コスモスの花」西岸良平『3丁目の夕日 夕焼けの詩

3_3


(右クリックすると、拡大されます)。

20140524 改題

20140519 人間関係における記憶と一期一会――西岸良平「コスモスの花」西岸良平『3丁目の夕日 夕焼けの詩』

 

 人間と人間の関係は、本質的にその記憶に基づく。家族はその典型であろう。少なくとも、多くの人間は成人するまでは、両親及び兄弟と濃密な関係を持つ。愛憎半ばであれ、その記憶は家族との実質的関係が薄くなったとしても、保持されている。古い友人もまた、同様である。友人であったかぎり、過去において相互尊敬という事実はあった。

 しかし、数十年前、どのように濃密な関係を築いたとしても、それが一生続くわけはない。人間は一瞬交錯したとしても、その関係は一時的でしかない。まさに、一期一会は、その関係を明瞭に概念化している。

 西岸良平は「コスモスの花」において、この概念を双子の姉妹、春子、秋子の関係を通じて明確にした。この場面は、子供時代に濃密な関係を築いた二人の別れを表現している。子供時代、青春時代に愛憎を共有した双子の姉妹であった。しかし、それぞれが別の途を歩む。セリフは必要ない。絵だけで十分だ。漫画史に残る名場面である。

 

西岸良平「コスモスの花」西岸良平『夕焼けの詩』第11巻、小学館、1983年、34頁。

|

破滅への予感と、日常的営為への没頭――花輪和一『刑務所の前』と福島における放射能汚染

Img056_24

(右クリックすると拡大されます)。

20140522 破滅への予感と、日常的営為への没頭――花輪和一『刑務所の前』と福島における放射能汚染

 

人間は、人生の岐路においても日常的課題から免れない。食事、入浴、清掃そして仕事をしなければならない。どのような破滅的結果が予見されたとしても、このような日常的行為に振り回される。

東京電力株式会社福島第一原子力発電所が危機的状況に陥ったとき、その300キロ圏に居住した住民は、日常的営為に没頭していた。放射能汚染が通常の10倍になったとしても、安全神話が染みついていた。30キロ圏に居住していた住民の多くも、政府の「すぐには、健康被害はない」という大本営発表を信じていた。2011418日、枝野官房長官(当時)が福島第一原発から半径20キロ圏内にある被災地を訪れた際、彼は完全防護服を着用していた。彼はこの事故に関する情報を充分に把握していた。それに対して、住民はマスクすらしていなかった。

 被災地がもはや人間の居住には耐えられないほど、放射能によって汚染されていたからである。現地が宇宙空間と同様な放射能によって汚染されていたということを認識していたからである。その姿を見ただけで、住民は即座に避難すべきであった。100キロ圏の住民もまた、危機意識を保持すべきあった。しかし、多くの住民はそこにとどまった。少数の住民は、安全と考えられていた関西、そして九州に避難した。

 花輪和一もまた、数日後に警察が自宅に乗り込んでくることを予感していた。警察がくれば、監獄行はほぼ確定していた、しかし、日常的営為、漫画の題材を考えることを優先してしまった。その葛藤がこの漫画において描かれている。

 

花輪和一『刑務所の前』第3巻、小学館、2007年、104105頁。

|

動物の解体という労働の原初的風景――白土三平『鬼涙』

20100222_2


(右クリックすると、拡大されます)。

白土三平「鬼涙」白土三平『鬼涙』小学館2000年、292-293頁

動物の解体という労働の原初的風景――白土三平『鬼涙』

 この場面は主人公が勇猛な猪を殺害する個所である。ここに労働の原初的風景が現れている。自然(猪)を人間が利用しやすい形態へと転換する場面である。まさに、血と汗と技術の結晶として労働が描かれている。この労働現場に対して、やくざが介入しようとするが、この場面をみて、腰が引けるというあらすじである。この労働現場に対して、どのような権力、動物愛護家も介入できない。

 しかし、現代の労働現場、たとえばパソコンに向かう事務員の労働現場には、このような他者の介入を許さないような神聖性は消滅している。おそらく、動物解体業もおそらく、より合理化され、返り血を浴びることもないであろう。神聖性を喪失した現代の労働現場にどのような職業意識を構築するのかが問われている。

|

政治学における認識と社会的役割の変更不能性――村上和彦「誇り高き戦い」

政治学における認識と社会的役割の変更不能性――村上和彦「誇り高き戦い」「刑事は刑事らしゅう、極道は極道らしゅう

村上和彦「誇り高き戦い」『昭和極道史』第10巻、竹書房、1998年、224-225頁。

Photo_8



(右クリックすると、拡大されます)。

 

 漫画本文でも、刑事と極道を同じにすべきではない、という批判は村上和彦も承知している。この名せりふのあとで、彼もこの点に言及している。ここで極道という社会的役割を賞賛することを目的にしているのではない。

 問題は以下の点にある。つまり、その社会的役割を人生の一定の段階において交換することは不可能であることである。極道も、刑事も人生の後半に差し掛かれば、その社会的役割を交換することはできない。極道が公務員の一員である刑事になることは事実上不可能である。また、公務員の一員である刑事が、極道になることもほとんど不可能である。後者の事例はまれにはあるが、その職場環境の違いによって、その精神的環境もまた異なっていることによって、困難であろう。その極端な形を村上和彦は示している。

それは、大学教員が刑事になることも、極道になることも不可能であることと同様である。社会的役割を交換することは、理論上あるいはマクロ社会学的観点から、可能であるにすぎない。転職が可能になったとしても、それは同業他社という範疇でしか語りえない。数十年の月日を費やしたキャリアは、個人史的には変更不可能である。そこで如何に人間としてその役割を全うするのかが、問題になるにしかすぎない。

これまで形成してきた社会的役割を極端に変更することが不可能であれば、その社会的役割に殉じるしかない。もちろん、社会的役割を選択する契機は偶然的である。若いときであれば、刑事になることも極道になることも大学教員になることも可能であったであろう。また、大学院進学等の選択肢もまた可能であった。その分岐点は世間一般に言われているほど、明確であったわけではない。かなり偶然的であった。なぜなら、大学教員が研究者だけではなく、行政的事務を担う存在でもあることを大学院進学予定者は認識しているはずがない。研究ばかりしている大学教員は存在しない。文系の教授であれば、そのほとんどが大学の研究室において研究などしない。研究室は事実上、大学行政の書類作りの部屋にしかすぎない。膨大な文書が作成されている。しかも、無署名かつ日々消費される文書である。このような存在に憧れる若者はいない。文書を作成するのであれば、国家公務員試験の総合職のほうがましである。同じ文書であっても、国家総体にわたる文書と、学部あるいは学科の細かな規則に関する文書を比較すれば、前者のほうが面白い。

その時々の選択にはもちろん必然性がある。しかし、刑事になるか、極道になるか、その結果はかなり異なっている。しかし、対極にみえる職業という社会的役割を果たしながらも、その人間性を相互に理解することも可能である。

多くの若者が自分探しをしている。しかし、本来的自己などは探して見つかるものではない。社会的モラトリアムというのは事実上存在しない。浪人生活という選択肢もまた、その条件が可能であった場合でしか、成立しない。もはや、自分探しという夢物語から解放されるべきである。現にそこにある自分からしか出発するしかない。村上和彦はこの結論を両極端にある職業の考察から導き出した。漫画史そして文化史に残るべき名場面である。

|

個人的自由の誤解ーー風間やんわり『やんわり社会派宣言』

20100430139_3


(右クリックすると、拡大されます)。

本記事は、2010年5月2日に公開された。しかし、編集の都合上、2013年10月27日に変更された。

風間やんわり『やんわり社会派宣言』講談社、2008年、139頁

この漫画は、失業中の中年の父親に関する物語である。彼は、失業したので、プロ野球の投手になりたいそうである。一試合完投すれば、ほぼ一週間休みである投手になりたいそうである。この試みは成功するのであろうか。

現代社会学の基礎知識によれば、すべての社会的役割は等価であり、かつ交換可能である。しかし、すべての人間がすべての社会的役割を演じられることを主張しているのではない。

また、近代社会は共同的自由あるいは個人的自由を解放した。個人的自由の水準によれば、すべての人間は可能性を持っている。近代社会は自由の原理をその時代精神にし、自然的被規定性つまり限定性に対して、自由という自然的非規定性つまり無限性という理念を対置している。近代の理念的圏において自由の原理が承認されている以上、自然規定的な存在形式は無化されている。自由の原理が社会的圏においても、公共的圏においても採用されている以上、身分制社会の原理は公共的圏から排除されている。現実的圏において人間は自然的存在であるかぎり、様々な自然的な被規定性を否定できない。

この意味を誤解すれば、このような漫画が成立する。職業選択における潜在的自由と現実的自由の間にはかなりの断絶がある。風間やんわりは、この意味を漫画という形式において明瞭に描いている。

|

函館の衰退――江差線(江差―木古内間)の廃止

20140511 函館の衰退――江差線(江差―木古内間)の廃止

 本日、2014年5月11日でもって、江差線の江差―木古内間が廃止された。この列車は、本日の最終列車であると同時に、江差行の最終列車である。昨日までは、この列車が翌日の始発電車になったはずである。しかし、本日の最終列車が函館に到着することは永遠にないであろう。  

 もちろん、津軽海峡線(函館―木古内間)は残る。しかし、函館は鉄路として江差を結節することはできない。鉄道地図から、江差が消滅する。当然のことながら、この意味は江差にとって重要である。さらに、函館にとっても重要である。青函トンネルの開通によって、函館はすでに鉄路による松前との結合を喪失している。江差との結合を喪失したことによって、函館は、鉄道による日本海沿岸との結節点を喪失する。歴史的に考察すれば、函館は周辺都市、江差、松前を鉄道によって結合することによって繁栄してきた。その一端がなくなった。もちろん、青森、札幌等との鉄道による結合は残存しているが・・・。かつて田中角栄は「赤字ローカル線が集まって、新幹線が黒字になる」と言ったそうである。その赤字線がなくなった。2015年には北海道新幹線が新函館まで開通する。赤字ローカル線を廃止してきたJR北海道に未来はあるのであろうか。  

 識者は言うかもしれない。もはや、鉄道の時代ではなく、道路の時代である、と。江差と函館間には国道228号線があり、2019年には函館と木古内間には自動車専用道路も開通するではないか。それで十分ではないか。公共交通に限定しても、バスがあるではないか。自家用車も利用可能である、と。果たして、そうであろうか。

 北海道の交通は冬場を基本としている。豪雪の降るなかで、凍結した道路を高速で運行可能であろうか。鉄道は豪雪にもかかわらず、ほぼ定時に運行可能である。その選択肢が喪失された。  

 次に、バスという公共交通が鉄道に対して代替される。バスは自家用車と同様に道路を使用する。利便性という観点からすれば、バスは自家用車に対抗できない。また、自家用車と同様に、環境に対する負荷をかけるし、自家用車と同様な欠陥を持っている。渋滞すれば、使用不可能である。鉄路は道路とは本質的に異なる。  

 さらに、大間原発建設によって、函館市は避難計画を作成しなければならない。東京電力株式会社福島第一原子力発電所の問題も同様である。収束宣言が出されているが、近い将来の危機については少なくとも議論の対象になっている。 30万人という膨大な都市住民に関する避難計画が作成されねばならない。多くの選択肢を必要する。数日間で30万人を避難させねばならない。少なくも、その避難計画作成は、函館市行政の責任である。道路だけに依存する避難計画は無意味である。道路は一台でも自家用が止まればそれでお仕舞である。ガス欠等が多発するであろう。後続の自家用車は渋滞するだけである。JAFも到着できない。阿鼻叫喚する運転手とその家族に放射能が襲いかかる。もっとも、放射能を浴びても気が付かないし、すぐには健康被害もでないであろうが・・・。

 江差線があれば、事情は異なっていたであろう。大間原発あるいは東京電力福島第一原子力発電所において危機的状況が発生したとしても、偏西風によって、江差等の日本海側は安全である確率が高い。また、より西に位置している奥尻島への鉄道と船舶による避難も考慮されるべきであった。江差線の廃止によってその可能性もなくなった。 道路に一元的に依存する社会は、脆弱である。

(写真上は、最終江差行列車の函館駅における雄姿である。さすがに、この列車は3両編成であり、多くの乗客が乗車していた。写真下は、列車が去った後のホームである。函館の将来を暗示しているかのようである)。

P1000667_2

P1000677_4

|

江差の衰退――江差線(江差―木古内間)の廃止

20140511 江差の衰退――江差線(江差―木古内間)の廃止  

 2014年5月11日でもって、江差線の江差―木古内間が廃止された。当日深夜に、江差駅に最終列車が到着した。本日の最終列車であると同時に、江差着の最終列車である。昨日までは、この列車が翌日の始発電車になったはずである。しかし、本日の最終列車が江差駅を発車することは永遠にないであろう。江差が鉄道地図から消えた。江差から道庁所在地への鉄道による移動手段は、消滅した。内地への鉄道による移動も不可能になった。江差の名前は、日本の歴史書としてのみ記憶されるであろう。

 江差は、江戸時代から明治初期にかけて鰊漁で栄えた。鰊と江差を結合する表象も、明治時代で終了しているが、大正、昭和初期までは、その鰊によって栄えた経済、政治、文化的影響力は残存していた。江差は郡に相当する檜山支庁の所在地である。江差追分、江差姥神大神宮渡御祭は、道内だけではなく、本州においても著名である。それでも、平成の世において鉄道を維持するだけの政治力と経済力は、江差において消滅していた。 鉄道が衰退したから、江差が衰退したのか。あるいは江差が衰退したから、鉄道が衰退したのか。おそらく、両者ともに正しいのであろう。

 東京に居住する人は、鉄道と駅名によってその場所を記憶している。たとえば、「代官山に住んでいる」という日常会話において、代官山は、その路線図から表象されている。「いいな、渋谷に近くて」が続いても不思議ではない。しかし、代官山も渋谷区に属している。「渋谷」も「渋谷区」でなく、「渋谷駅」である。鉄道地図によって場所を特定することに慣れた人にとって、駅のない地名は無いに等しい。

|

北海道の公共交通政策――自動車ための一元性的政策からの解放と自転車専用車線の建設

20140521 北海道の公共交通政策――自動車ための一元性的政策からの解放と自転車専用車線の建設

(本稿は、「20140514北海道の交通政策――自転車専用車線によるその資源の活用」の改稿版である)。

 北海道では、冬の季節を基準にして生活条件が形成される。西日本が暑い夏を基準にして生活が設計されていることと同様である。交通もその例外ではない。道路の幅も、冬仕様になっている。通常の市街地の道路の幅は2.75、3.00、3.25mである。しかし、北海道では、それより0.5mほど広い場合も多い。なぜであろうか。道路の左側面が、雪置き場になっているからだ。 道路における除雪は、雪そのものを道路から排除するではない。その雪を移動させるだけである。路上の雪は、片側に積み上げられる。雪の多いときでは、3m以上になることもまれではない。雪山が形成される。そのための場所が必要である。道路が通常よりも広くなっている所以である。

  しかし、夏の季節では、広くなった左側が活用されていない。本ブログでは、これを自転車専用車線と活用することを提案する。通常の自転車走行は、現在でも歩道を使用している。法律違反であるが、無くならない。自転車は車道を走行しなければならない。しかし、自家用車との同時走行は、自転車運転手を危険にさらす。この矛盾の解消されるためには、自転車専用車線が認知されねばならない。冬の雪置き場がそのために活用される。できれば、自転車専用車線は、色で識別されねばならない。通常の道路の色とは異なる色、たとえば緑、レンガ色等で区別されるべきである。その際、色だけでなく、敷石等で車線から区別されるべきであろう。さらに、車道ではなく、歩道に改良したうえで、自転車専用車線として活用すべきである。ベルリン等のドイツでは、歩道の一部が自転車専用車線として利用されている。自転車運転手は、自動車に対して恐怖を抱きながら運転しているからだ。

 路面電車運転手、自動車運転者、自転車運転者、歩行者は、それぞれ専用の車線を使用すべきである。走行速度がこの四者において根底的に異なっているからだ。これまでの交通政策は、自動車の走行に一元化されていた。自動車の渋滞を削減することが、交通政策担当者の意識を支配している。まさに、それはイデオロギーでしかない。今後は、多様な交通手段が考慮されるべきであろう。平成25年の道路交通法の改正によって、自転車専用車線の導入は急務になっている。 すでに、道路の幅が拡張される余地のない東京、大阪等の大都市とは異なり、北海道にはその資源が放置されている。北海道の住民はそれを認識すべきである。

 それは、北海道の住民にとって重要であるだけではない。 観光客にとっても、自転車によって都市内を走行することは快適である。北海道の観光資源は、豊かな農水産物だけではない。新鮮な空気である。北海道において、PM2.5(微小粒子状物質)、セシウム137、ストロンチウム90等の放射性物質、そして花粉からほとんど無縁である。もちろん、零ではない。しかし、東京等と比較すれば、空気は相対的に清浄である。福島県等と比較すれば、零とみなしてよいであろう。 また、夏の湿度も欧州並みに低く、体感温度も低い。この資源を有効に活用することが、望まれている。再度、強調しよう。北海道の観光資源は、空気である。空気を切るという人間の原初的欲求が、自転車走行によって充足される。

|

北海道の交通政策――自転車専用車線によるその資源の活用

(ブログ管理のため、掲載日を変更する)

 

20140514 北海道の交通政策――自転車専用車線によるその資源の活用

 

 

 

北海道では、冬の季節を基準にして生活条件が形成される。西日本が暑い夏を基準にして生活が設計されていることと同様である。道路の幅も、冬仕様になっている。通常の市街地の道路の幅は2.753.003.25mである。しかし、北海道では、それより0.5mほど広い場合も多い。なぜであろうか。道路の左側面が、雪置き場になっているからだ。

 

道路における除雪は、雪そのものを道路から排除するではない。その雪を移動させるだけである。路上の雪は、片側に積み上げられる。雪の多いときでは、3m以上になることもまれではない。雪山が形成される。そのための場所が必要である。道路が通常よりも広くなっている所以である。

 

しかし、夏の季節では、広くなった左側が活用されていない。本ブログでは、これを自転車専用車線と活用することを提案する。通常の自転車走行は、現在でも歩道を使用している。法律違反であるが、無くならない。自転車は車道を走行しなければならない。しかし、自家用車との同時走行は、自転車運転手を危険にさらす。この矛盾の解消されるためには、自転車専用車線が認知されねばならない。冬の雪置き場がそのために活用される。できれば、自転車専用車線は、色で識別されねばならない。通常の道路の色とは異なる色、たとえば緑、レンガ色等で区別されるべきである。その際、色だけでなく、敷石等で車線から区別されるべきであろう。さらに、車道ではなく、歩道に改良したうえで、自転車専用車線として活用すべきである。ベルリン等のドイツでは、歩道の一部が自転車専用車線として利用されている。自転車運転手は、自動車に対して恐怖を抱きながら運転しているからだ。

 

自動車運転者、自転車運転者、歩行者は、それぞれ専用の車線を使用すべきである。走行速度がこの三者において根底的に異なっているからだ。これまでの交通政策は、自動車に一元化されていた。今後は、多様な交通手段が考慮されるべきであろう。平成25年の道路交通法の改正によって、自転車専用車線の導入は急務になっている。

 

すでに、道路の幅が拡張される余地のない東京、大阪等の大都市とは異なり、北海道にはその資源が放置されている。北海道の住民はそれを認識すべきである。それは、北海道の住民にとって重要であるだけではない。

 

観光客にとっても、自転車によって都市内を走行することは快適である。北海道の観光資源は、豊かな農水産物だけではない。新鮮な空気である。北海道において、PM2.5(微小粒子状物質)、セシウム137、ストロンチウム90等の放射性物質、そして花粉からほとんど無縁である。少なくとも、東京等と比較すれば、空気は相対的に清浄である。また、夏の湿度も欧州並みに低く、体感温度も低い。この資源を有効に活用することが、望まれている。

 

|

« 2014年4月 | トップページ | 2014年6月 »