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日本郵便=日本郵政の集荷サービスの素晴らしさ――「感動した!!」

20140221 日本郵便=日本郵政の集荷サービスの素晴らしさ――「感動した!!」

 

日本郵便=日本郵政のサービスに対して、様々な批判がある。しかし、私のささやかな体験からすれば、この会社のサービスは素晴らしい。本ブログは皮肉を多用しているが、今回の日本郵便=日本郵政の対応は、掛値なしに素晴らしかった。小泉元総理の言葉を借りれば、「感動した」。

 

1、

日本郵便=日本郵政に荷物の集荷依頼をした。「2時間以内に伺う」という担当者の返答があった。利用者からすれば、数時間後ではなく、すぐに仕事を終えることができる。ちなみに、電話をした時間は1030分であった。ほぼ午前中に仕事が終わることになる。14時から16時に集荷するという対応であれば、その時間に在宅しなければならない。顧客重視の精神が隠されている。実際には、5分後に集荷担当者が自宅に訪れた。こちらが慌てたくらいである。そのためには、多くの労働者の労働が隠されていることは、想像できる。利用者からすれば、最高のサービスを享受できる。

 

2、

 利用者のミスにより、伝票記載事項に少し落ち度があった。電話をすると、担当者はその意味をすぐさま理解し、的確な対応をした。この対応の背景には、以下のことが隠されている。すなわち、電話対応者の能力が高いことである。電話対応者は経験を積んだ正規労働者であることが推察できる。ある企業と顧客は、通常、電話等でしかつながっていない。顧客にとって、その企業の代表は社長ではなく、電話担当者である。一般の顧客が個々の事案に関して、社長と直に対応することはない。

 近年、リストラ、経費削減等の理由で、電話対応者を非正規雇用者に代える企業が多いそうである。しかし、日本郵便=日本郵政はそのような削減策を取っていないようである。模範とすべきであろう。

 

3、

最近、天候が不順である。数日前には、北海道だけでなく、東京、埼玉等でもかなりの雪が降った。しかし、電話担当者は今後の天気も想定しながら、電話に対応をしていた。荷物の遅れは、天候等では考えられなかった。マニュアル通りの想定しかできなければ、「荷物が遅延することをご了承してください」という文言を利用者に言ったはずである。しかし、天気予報を熟知していれば、利用者を不安に陥れる文言を使用することもない。電話担当者は、想定可能な事態を的確に把握していた。

 

4、

 電話対応者だけではなく、集荷担当者も正規職員であった。少なくとも、日本郵便=日本郵政の制服を着ていた。利用者が玄関を開けるとき、つねに一抹の不安を持っている。誰が来るかも予想できないからだ。少なくとも、制服着用者が対応するだけでも、利用者の不安も減少する。この点でも、日本郵政の対応は素晴らしい。

 

5、

 最後にもう一度。日本郵便=日本郵政に「感動した」。

 

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1980年前後における近代の揚棄という思想史的課題の残存――後期近代という時代精神の勃興期

20140208

 

1980年前後における近代の揚棄という思想史的課題の残存――後期近代という時代精神の勃興期

 

1980年前後という時代において、後期近代が多くの人にとって当然視されていた。初期近代的な思考様式は衰退し、近代の揚棄という課題は社会内において捨て去られていた。この数年後、日本経済はバブルに踊ることになっていた。バブル経済の予兆がすでにあった。しかし、大学という空間において、近代の揚棄という思想史的課題がかなり真実味を帯びた形で残存していた。早稲田大学を革マルが、法政大学を中核派が、明治大学を解放派がそれぞれ拠点大学としていた。少なくとも、新左翼運動が何であるかぐらいは、学生であれば承知していた。昼休みには彼らが演説をしていた。通学途上における立て看を通じて、彼らの主張が眼に入ってきた。

もちろん、多くの一般学生にとって、彼らの主張を受入れることは困難であった。しかし、近代とは全く異なる世界が活動家学生の頭脳において想定されていることは、自明であった。全面的ではないにしろ、この世界の現実的有効性が信じられていた。少なくとも、仏教やキリスト教によって唱導されていた天国や地獄よりも、この世界が有効であった。もっとも、多くの一般学生にとって、この世界はたとえば共産主義社会、社会主義社会と同様な恐怖政治と同義語であったが・・・。

一部の学生の間では、1980年前後、宇野経済学がこの課題を遂行するためにとって有効である、と信じられていた。岩田弘が宇野三段階論に基づき、現状分析を遂行していた。彼によって提唱された世界資本主義論をバイブルとする学生も、少なくなかった。宇野経済学方法論が、近代日本の現状分析として最も有効であった。東京大学経済学部では山口重克等の俊英が、宇野経済学原論を講義していた。彼らの弟子は各大学に偏在していた。

しかし、さらに少数の学生は、近代を揚棄するためには、経済学ではもはや不可能であろうと想定していた。マルクス主義経済学の最高峰であるとされていた宇野経済学をいくら勉強しても、近代の揚棄という課題を見出すことは困難であった。むしろ、その原理論を学べば学ぶほど、資本主義の永遠性を信じるしかなかった。

どのような学問を学べば、近代の揚棄が可能であろうか。この問題設定に対する解答を未だ持ち合わせていない。

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大学教授の社会的有用性

20140207 大学教授の社会的有用性

 

多くの大学生は、卒業後ビジネスマンとして就職してゆく。彼らは、学生時代において難解な文学書あるいは哲学書をなんなく理解していた。あるいは、理解していたと考えていた。その理解に基づいて、先輩や教師と議論していた。マルクスや浅田彰等の専門書を持ち歩くことは、ファッションの一部であった。基礎的教養書と言ってもよかった。

しかし、卒業後、それらの本は彼らにとって疎遠なものになる。西田哲学を愛読書の一つとしているという卒業生は、あまりいないであろう。

彼らからすれば、大学教授は、学生時代を数十年かけて継続しているように映る。時代遅れという蔑称と、頑迷性に対する羨望である。同じことを数十年継続すれば、なんかの形は残る。馬鹿でないかぎり、毎年論文を書いてゆけば、本を数冊保持することは容易い。

以上のことは、ビジネスマンから見た大学教授像である。もちろん、近年の政治学者は政策志向を高めている。ビジネスマンと似通った大学教授も多い。むしろ、今後数十年の時間間隔で考察すれば、そのようになるであろう。

化石のような学者は、不必要であろうか。その問題に対して、答えるすべを持ちえないという解答しかできない。

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記者クラブ制度の問題点――その一・マス・メディアと行政との癒着

20100617

「記者クラブ制度の問題点――その一・マス・メディアと行政との癒着」

 記者クラブ制度が問題になっている。中央官庁の情報を加工せずに、そのまま流しているではないか、という疑惑が問題になっている。また、このクラブに属していないマス・メディアを排除しているという疑惑である。巨大マス・メディアと行政機構が一種の癒着構造にある。とりわけ、野中元官房長官が暴露した巨大マス・メディアの政治部記者に対する利益供与も、その温床になったのが、記者クラブ制度と言われている。

 しかし、新聞記者がその記事を執筆する空間は必要であろう。その場所を提供することは、必ずしも悪いことではない。そのあたりに、解決策もあるのかもしれない。誰もが利用できる空間として再整備すべきであろう。 

 

(本記事は20100617に執筆されたものである。内容上の変更はない。しかし、編集上の都合から日付を変えて再掲載する)。

 なお、本記事は下記のブログに引用されている。

「閉鎖性が指摘され続けた記者クラブの存在意義」『清話会』http://ameblo.jp/seiwakaisenken/entry-10789753880.html20140204閲覧)

 

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